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            ハリスの来日と日本の開国2
                 
−日米修好通商条約締結と批准使節団ー

条約の策定と国論の調整

   ハリスが安政三年七月に下田に来日して以来、約一年半後将軍家定への拝謁が実現した。 
其後日米通商条約の策定が堀田老中の指揮の下、下田奉行井上信濃守(後外国奉行)、目付
岩瀬肥後守(後外国奉行)によりハリスと交渉が行われた。 安政五年の春には条約案文は合意に
達したが国内では通商反対論が相変わらず根強く、特に御三家の水戸、尾張初め有力大名からの
反対もあり幕府は苦慮する。 そこで反対論を封じる為に朝廷の勅許を取る事を画策するが、朝廷
からは御三家で相談して再度上程するようにと差し戻しとなった。 和親条約の時は朝廷には事後
報告で済ませていたが、幕府に取ってこれは当に裏目となった。

無勅許の条約調印
    勅許に失敗した老中首座堀田備中守は更迭され、代わって井伊掃部頭(彦根藩主)が大老と
して幕閣に登場する。 井伊大老自身は保守的で開国派とは反対の立場だった様であるが外国の
脅威は感じていた。 安政五年六月米艦ポーハタン号が下田に入港し、清国情勢は英仏連合軍の
勝利となり両国及びロシア迄が大艦隊で日本に通商を迫るのは時間の問題との情報をもたらす。 
一方日本の安全保障の為には米国との調印を急ぐべきとハリスは迫り、井伊大老も事ここに至っては
やむ無しと井上・岩瀬両全権に調印する事を指示、調印は横浜に碇泊しているポーハタン号上で
行われる。 
    この事が幕府は無勅許で調印した、と反幕府勢力や攘夷派に口実を与える一方、朝廷が政治に
介入する様になり幕末の動乱へと展開して行く。 元々勅許を求める必要がないものを、朝廷のお墨付き
で条約反対論を封じ込めようとした事自体、当時の幕府の力は既に衰えていたものと思われる。 
諸般の情勢から止むを得ず調印した事を朝廷にもその旨報告する、と云う通達が安政五年七月に
幕府から諸侯に出されている

条約の批准と使節団派遣
    通商条約十四条には批准は米国首都ワシントンで行われる旨記載されており、幕府でも米国
事情視察を兼ねこの批准のための使節団を安政7年(万延元年)に派遣する。 正使を新見豊前守
(神奈川奉行)副使として村垣淡路守(箱館奉行)、副使兼目付として小栗豊後守(後の小栗上野介)、
勘定組頭森田岡太郎、外随員、医師、通訳、賄い等総勢76名のミッションを派遣する。 
これが日本最初の米国旅行団であり、ハリスの世話でこの使節団は米国軍艦ポーハタン号
(蒸気軍艦2415トン)で安政七年一月廿二日(1860年2月13日)横浜を出帆する。 
先ずサンフランシスコを目指すが途中北太平洋で烈しい暴風雨に遭遇し、使節団は船酔いで大変な
思いをする。 ポーハタン号も強い逆風の為石炭不足となり更に機関にも
故障が生じた。
 その為予定外のホノルルに二週間立寄り石炭補充と機関修理を行う事になり、サンフランシスコには
三月九日(1860年3月30日)に到着する。 そこで後述の咸臨丸と落合い、新見・村垣名で航海の
報告書を幕府に送っている。
    使節団はその後ポーハタン号でパナマ迄下り、パナマ地峡を汽車で横断しカリブ海に出る。 
そこで迎への軍艦ロアノーク号(3400トン)でワシントンへ向かい、閏三月廿五日(1860年4月25日)
ワシントンに到着、批准を行う。 
帰路はワシントンからニューヨークを経て大西洋を渡り、アフリカの喜望峰を廻り印度洋に出て
万延元年九月廿八日(1860年11月10日)江戸に到着、翌日将軍家茂に復命している。

使節団の別船としての咸臨丸
   
使節団の派遣に伴い使節団に万一の事故があった場合の使節代行及び、出来て間もない海軍
操練所の航海訓練の名目で別船を米国に派遣する事になる。 軍艦奉行の木村摂津守を責任者とし、
艦長役を教授方頭取の勝麟太郎、軍艦士官として操練所教授方及び教授方手伝い、随員など31名、
水夫・釜焚65名で合計96名、此中には通訳としてのジョン万次郎、木村攝津守の随員として福沢諭吉
なども含まれる。 
この外に太平洋横断の指導顧問として、ハリスの斡旋で米国海軍のブルック大尉と10人の米人部下が
同乗する事になり、総勢107名となる。 艦はオランダから購入したスクリュー型蒸気軍艦、咸臨丸
約400トンが使われる。 
この一行は安政七年一月十九日(1860年2月10日)浦賀を出帆したが、ポーハタン号が遭遇したと
同じ時期に北太平洋で暴風雨に翻弄される。 日本人士官達は勝を始め外洋での暴風雨等初めての
経験で、なすすべもなかったようであるが、そこはブルックチームが乗りきり、満身創痍ながら予定通り
サンフランシスコへ直行し二月廿六日(1860/3/18)に到着している。 咸臨丸はサンフランシスコの
海軍工廠で米国政府の費用で修理がなされ、
万延元年閏三月十九日(1860年5月9日)サンフランシスコを出帆、帰路は天候に恵まれホノルルを経由し、
万延元年五月廿三日(1860年6月23日)浦賀に帰還した。

ハリスへの謝辞
使節団からの報告書が届くと幕府ではハリスに丁重な謝辞を述べている。

     米国との通商条約に続き、是をベースとして英国、フランス、ロシア、オランダと次々通商条約は
結ばれた。
一方咸臨丸往路は暴風雨の為、ブルック大尉の力を借りねば成功は覚束なかったが、帰路は日本人
のみで太平洋を横断する事ができた。 1846年に浦賀に入港した米国海軍ビッドル提督の軍艦(帆船)を
見て、まるで海城の様だと驚愕した日本人が僅14年後には自ら蒸気船で太平洋を横断できるまでに
なった。 250年間の海外渡航を禁じた鎖国から目覚めた日本人のエネルギーが開国に向けて一気に
噴出した瞬間である。
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01 日米修好通商条約全文
02 条約調印延期申し入れ
03 緊迫する国際情勢
04 条約調印の報告・通達
05 批准使節の派遣
06 批准使節団名前
07 使節サンフランより書簡
08 老中ハリスへ謝辞

参考文献:  咸臨丸還る     橋本進  中央公論社
         海を渡った侍たち 石川栄吉 読売新聞社
         幕末外国関係文書     東京大学蔵版


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