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ハリスの来日、下田到着
(安政雑記第七冊)    戻る
安政三辰年七月廿一日未刻入港アメリカ蒸気船軍艦 
     船号    サンカシント 長三十間、幅七間  
     乗組    二百五十四人
     コモドール 官名 アルムストロング   
     コンシイル 官名 トウンセントハルラス  

右は兼て官吏下田湊え取建願望致し、右に付コンシイル
召連
(めしつれ)渡来の趣申立る、廿一日・廿二日応接これあり
井上信州今日出立の由
    七月廿六日

安政三: 1856年8月21日午後2時
サンカシント: 
San Jacinto号、蒸気スクリュー型、1567トン(米海軍艦船年鑑)
ハルラス:
Townsend Harris (1804-1878)
アルムストロング: 
James Armstrong(1794-1868)、米国海軍大佐
井上信州: 幕臣、下田奉行、井上信濃守清直(1809-1868)
日米和親条約11条: 
  
There shall be appointed by the government of the United States consuls or
agents to reside in Shimoda at any time after the expiration of eighteen months from
the Date of the signing of this treaty; provided that either of the two governments
deem such arrangement necessary



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堀田備中守外国事務取扱い兼務          戻る
久世大和守渡(安政雑記第七冊)
               堀田備中守
近来外国の事情もこれあり、此上貿易の義御差
(さしゆるし)相成るべき義もこれあるべく候に付、外国御国取扱
仰付られ候、御取締向を始め大業多端の義にもこれあり候
間、要領の義は一同申談じ、様々心を尽し相勤候様
右に付ては当分の内月番は相勤候に及ばず候間、海防
月番は一手に引受、御勝手月番の義は是迄の通り
相勤候様、仰出され候
右の通御用部屋において、大和守殿申渡、書付これを渡す
十月十七日(安政三)

安政三十月十七日:1856年11月14日
堀田備中守: 堀田備中守正睦(1810-1864)佐倉藩主、老中首座


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ハリス取扱幕府方針             戻る
安政四丁巳年正月十六日備中守殿御直渡(安政雑記第六冊)  
         評定所一座
         海防掛り
         長崎奉行
         箱館奉行
        覚
下田滞在の亜墨利加官吏より老中へ面会の義書翰を
以って申立候趣は、一ト先下田奉行にて引請、取扱候様
相達し、辺翰差遣候義には候へども此上申立の次第に寄り
候ては、当地へ召呼れず候ハヽ相成る間敷く哉にて右の手筈に
凡取極め候方然るべし

就ては官吏の義は身柄宜
(よろしき)者の由に付、右取扱方之義
是迄阿蘭陀甲比丹の振合には相成る間敷く候間、諸般の礼節は
勿論、御扱振・旅宿・応接・其外共万端手抜
(てぬかり)無き様
廉々の取調、品々勘弁致し申し聞けらるべく候事


安政四:1857年2月10日
甲比丹:オランダ商館長、オランダの正式使節とは見なしていなかった


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下田条約9か条の策定            戻る
安政四年六月十二日(安政雑記第六冊)
     規定書                 
 帝国日本において亜墨利加合衆国人民の交
 を所置せしむるにおいて、全権下田奉行井上信濃守
 中村出羽守と合衆国のコンシュルセネラールエキセ
 ルレンシー、トウンセントハルリスは各政府の全権を
 持て可否を評議し約定する条々此の如し

    第一条
 日本国肥前長崎の港を亜墨利加船の為に開キ
 其地において、其船の破損を繕ひ、薪水食料
 或ハ欠乏之品々を給し、石炭あらざれハ夫をも
 渡すべし

    第二条
 下田ならびに箱館の港に来る亜墨利加船必要の品
 日本において得がたき分を弁せむるに、亜墨
 利加土人を右の二港に置、且合衆国の下官吏を
 箱館の港に置ことを免許す
 但此箇条は日本安政五年午年六月中旬合衆国
 千八百五十八年七月四日より施すべし

    第三条
 亜墨利加人持来候所の貨幣を計算する時
 は日本金壱分、或は銀壱分を日本分銅の正しき
 を以、金は金、銀は銀と拝し、亜墨利加貨幣の量
 目を定め、これに依て已後吹替入費の為六分之余分を
 日本人に渡すべし

    第四条
 日本人亜墨利加に対し法を犯す時は日本の法
 度を以日本司人罰し、亜墨利加人日本人え対
 し法を犯す時はコンシュル罰すべし

    第五条
 長崎・下田・箱館の港において亜墨利加船の破
 損を繕ひ、又買ふ所の諸具乏品代等は金、或銀
 の貨幣を以償ふべし、若し金銀をば所持せざる時は
 品物を以弁ずべし

    第六条
 合衆国のエキセンルレンシーコンシュルセねラールは七
 里界外に出(いず)べき権ある事を日本政府において弁
 知せり、然るといへども難船等切迫の場合にあらざ
 れば其権を用るを延す事を下田奉行望めり
 此においてコンシュルせネラール承諾せり

    第七条
 商人より品物を直売にする事をエキセルレンシー
 コンシュルセネラールならび館内に在るものに限り差免
 し、尤其用弁の為に銀或ハ銅銭を渡すべし

    第八条
 下田奉行はイキリス語を知らず、合衆国のエキセル
 レンシーコンシュルセネラールは日本語を知らず、故に
 其義ハ条々の蘭語訳文を用べし

    第九条
 前ケ条のうち第ニケ条は記す所の日より、其余は各
 約定せる日より行ふべし
 右の条々日本安政四巳年五月廿六日、亜米利加
 合衆国千八百五十七年六月十七日、下田御用所におい
 て両国の全権調印せしむるもの也

            井上 信濃守 花印
            中村 出羽守 花印


上記は下田条約と呼ばれ、後に定められる日米修好通商条約により効力を失う


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ハリス登城、拝謁許可方針通達        戻る
安政四年丁見八月十四日堀田備中守宅え左の留守居呼出書付渡(安政雑記第六冊)
豆州下田表在留の亜墨利加官吏儀、国書持
参江戸参上の所相願候所、右は寛永以前英吉
利人等度々 御目見え 仰付られ候御先例もこれあり
且条約取替させ相済候国々の使節は都府へ罷
越候儀、万国普通常例の趣に付、近々当地え
召寄せられ、登 城、拝礼 仰付けらるべしとの御沙汰に候
此段心得の為相達し候
八月十四日
               松平 越前守
               松平 阿波守
               松平 三河守
               松平 相模守
               松平兵部大輔
               松平 讃岐守
               松平 越中守
               松平 安芸守
               松平左京大夫
               松平 飛騨守
               中川修理大夫
               加藤於鬼三郎
               松平 和泉守
               酒井左衛門尉
               松平右京大夫
               土井 大炊頭
               安部 摂津守
               酒井 下野守
右壱通宛同文書


1857年10月1日
寛永以前の前例: 慶長年間家康に仕えたウイリアム・アダムスの事か?
条約:和親条約はこの時既に米、英、魯、蘭とは締結済み
   

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水戸老公の反対意見          戻る
安政四年丁巳八月(安政雑記第六冊)
亜墨利加官吏登 城差許(さしゆる)され
御目通義 仰付らるべき旨、一昨夕御渡御
内意御書取の趣、水戸殿前中納言殿承知
致され候所、彼より強いて申立候に付、余儀無く登
城、御目見えをば 仰付られる義、事情止むを得
ざる事とは相見え候えども、左候ては此上益
(ますます)相募り、又
如何の義申立候も計り難く、且夷荻より書翰相
届候振の所、右文中何義を認めこれあり候哉、一旦
御直に差上、翻訳 仰付られ候上如何敷
(いかがわしき)
これあり、差戻候相成候向も夷荻にて承伏仕間敷
実に
神祖已来の御威徳に相抱る容易ならざる御義、申
上候迄もこれなく、厚く御評議の上とは存じられ候所
何分天下後世え対し為され
徳川家の御恥辱に相成らざる様、御仕置これあり候
様致され度、第一夷荻を 御側近く召しなされ
候義御危く存じ奉り候、御内意を伺い奉り候ては三家
の立場柄恐入候故、御用(おもちい)に相成らず迄も此段申上候
様、水戸殿前中納言殿申付られ候


前中納言: 水戸の老公、徳川斉昭は徹底的に開国反対を唱えていた



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ハリス出府に拘る準備                戻る
安政四巳年九月十三日堀田備中守殿御渡(安政雑記第六冊)
              大目付え 
近々亜墨利加使節出府に付、通行道筋屋敷屋敷の取繕に及ばず
仮板・囲等其侭差置苦からず候、持場持場の掃除致し申べく候

一屋敷前勝手桶立番等差出に及ばず、往来の者も平常の通り
 通行致さすべし、尤辻番等え見計らい固めのもの差出置
 往来混雑の義もこれあり候ハヽ取締出役のものより申達し
 次第、制し方致し乞食など通行道筋立払わせ申すべく候

一途中え見物として罷出
(まかりいで)候義、桟敷取役又は長屋窓
 え大勢立出、見物等致し候義もの堅
(かたく)無用たるべく候

一乗切の騎馬等は成丈
(なるたけ)途中行逢申さぬ様致すべく候

一途中行逢候節かさつケ間敷混雑の義等これあり候ては
 宜しからず候間、家来末々迄心得違これなき様急度申付
 置かるべく候
右之通向々え相触れらるべく候
        九月

巳九月十三日備中守殿御渡(安政雑記第六冊)
       大目付江
               溜詰
               牧野備前守
               御譜代大名・同嫡子
               高家
               雁之間詰・同嫡子
               菊之間縁頼詰
               布衣以上の御役人
               法印・法眼の医師
近々亜墨利加使節出府、登城 御目見え 仰付られ候節
直垂狩衣、大紋布衣着用、法印法眼装束にて登城候様
達せらるべく候、尤日限の義は追って相達すべく候
但無官の面々は登城に及ばず候
   九月



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米国大統領親書                     戻る
安政四年十月来朝シテ呈スル書翰和解
  亜墨利加国ヨリ差上候書翰
アメリカ合衆国のフレシデントフランクリンピールセ
日本大君殿下に呈す、 大良友 合衆国と日本との間に
結ひたる条約を修正して、殿下の大国と合衆国と
夥敷
(おびただしき)諸産物の貿易を是迄よりも大に為し易き様
取極致べしと思へり、是を以て予、此事件に就て其国の
外国事務宰相、或ハ其他 殿下の撰任する役人と会議せしむる
為に、此書状の使として此国の高貴威厳なるトウンセント
ハリスを撰たり、但此者は合衆国のコンシュルゼネラールとして
殿下の外国事務宰相の信用を受たり

予、合衆国より日本との親交を篤くし、且永続せしめ、兼て
両国の利益の為に通商の交を増加する条約の趣に就て、宰相
或は其他の役人同意すべき事疑なしと思ふ、 殿下深切に
高貴威厳なるハルリスを待遇して、予の為に 殿下に申立る
旨を十分信用し給む事、予に於て疑なしと思ふ、
予、神の 殿下を安全に保護せん事を神に祈念す

予、此事に合衆国の国璽
(こくじ)を添(そえ)
華盛頓府
(ワシントン)に於て自分姓名を書す、 
千八百五十五年九月十二日フランリンピールセ 
プレシデント&セクレターリスオフステート官名ウエユルマルシ


条約の修正:現在の和親条約を修正して実際に交易を行う通商条約の締結を意味する


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ハリスの拝礼時口上              戻る
亜墨利加使節拝礼の節口上の趣和解
殿下の意に遇ハセ度事
マイエステイト合衆国大統領よりの吾に信書を捧る時
殿下之安全幸福、及び 殿下の邦の繁盛の為
マイエステイト大統領誠に願へるを 殿下に述る事を
予に命せり、吾れ合衆国全権使節の高大なる事を
殿下に述に於て全ふせん為、撰まれし事なる名誉とす
且両国永久懇切の結を堅く結ぶは吾が懇願なる故
此良き目当を遂る迄慥に予が丹誠をなすべし

(雑記、当時の世相)
外夷官吏至江戸  外夷の官吏江戸に至る
往来群集万人望  往来に群集し万人が望む
海防警固今如夢  海防警固今は夢の如し
水上浮来亜面坊  水上に浮び来る亜面坊


ハリスの拝謁:安政四年十月廿一日(1857年12月7日)、大統領の親書はハリスが日本へ
赴任する時であるから2年程前の日付である
漢詩: 雑記には作者は不明だが当時の世相を表現した漢詩がハリスの口上記事の後に
載っている、


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幕府役人による開国方針案提言         戻る
安政四年丁巳十一月   (安政雑記第八冊)

此度亜墨利加使節より申立候書付御渡、同席一同
熟読の上存寄の趣申上候様仰聞けられ、右篤と書付
熟読仕候處、願のケ条は数ヶ条これあり候へども
其中の要文と存じられ候は、両国の時勢を取扱候
ミニストルを都下ニ指し置き、弁利(便利)且亦交易等
仕度との義と存じ奉り候に付、惣意仕候の所、

右のケ条御聴届に相成候ては、此所にては無事に候え
ども彼が欲心飽事是非なく、追々其上の願増長仕つり
彼のみにては相済申さず、外
(ほかの)夷も右に准じ
御聞届に相成り申さず候ては相済申さず候に付、
其内種々の災害相生じ、其節に至り最早此上の願は

御聞届御座なく候趣を以って、御断りに相成り候ても承伏
仕まじく、押して申張候節には夫より自然兵端を開き
候様相成り申すべくものに候へば、最早是迄追々
御許容も御与候事故、此上の願は拠なき御差支の趣
を以って、程能御断に相成候へば重畳の義に候へども
左様の御取捌にも成され難き事と推察仕候へバ

即今御返答には、大統領より毎々懇切の至り御満足の
旨を先ず申述、扨使節申聞候趣意、和親の国には互に
都下にミニストルを指置候と申事御承知に相成り、兼て
亜墨利加国とは通信御定約等もこれある上は、日本よりも
今般の御挨拶として、是非使節御差越候思召にこれあり

猶亦此度願の趣御聞届に相成り候へば、日本の官人をも
彼地に差置かれ申すべし、左これなく候ては、使節申される
如く互に都下にミニストルを指し置申される場合にも至り難く
依て何れにも右の通り御決心に成られ候へば、

使節にも案内の如く日本に於ては今度初発の義に付、何分
性急に計らい候ては不服の向も少なからず、追々御討議
御諭解成しなさるべく候義、且容易に御取調等も整兼ね候事
にて、唯今当国ばかりえミニストルを指置候ては人気に拘り
折角懇切に申聞候和親の廉も相立ち申さず候間、追って
此方より官人を彼地え差置かれ候時分、同時に当国え
も指越候様、夫迄の所は猶予致すべし、此義実に以って
拠なき御次第に付、勘弁これあり候様と一ト先ず御利解に
相成り候ては如何哉

猶亦英吉利渡来の一義も厚く心配に預り千万忝
(かたじけなき)
趣を以って、前件の次第に付イキリスとても只今渡来候とも
御召答の訳には参りかたく、渡来の詮も無き事に付此旨
深察これあるべし、一通り成らず日本の御為方心配に預り候からは
今暫しの所英吉利渡来を見合せ、当国評決万端相整候を知らせ
申すべく其上渡来致し候様、程能く伝達御頼み相成り候段
申述ぶるに相成り、精々御利解これあり候ては如何哉

元来虚実不分明の義、其中御糺方も御座あるべく候や
にも存じ奉り候、当今の御時勢にては是非彼地えも然るべき
御役人御撰出の上、両三歳も差遣わされ候程の義在りなされ候
様仕度、依って右様申上候義に御座候

尤右主意御利解に相成候とも多分御障に相成るべき筋とも
存じ奉らず候へども、是迄応接の御振合一向相弁
(わきまえ)
申さず候義に付、此義も相整難く使節承引これなくに於ては
止むを得ざる御場合に付、更に相好まざる候義得るとも
残念の次第には存じ奉り候へとも一向此所にて願の趣御聴届
に相成り、程能く年限御定めに相成り、なる丈条少くに御定約に
相成り候方然るべく存奉り候、

万一使節より申立候如く唐国戦争相済候上は、忽
(たちまち)
英吉利国より兵船数十艘指向け参り、願のケ条申出候とも
其節は亜墨利加も同様御断りに相成り申さず候ては相済
申さず候哉、左候へば直に兵端を開き候様成行申すべく哉も
計り難く、左候時は亜墨利加・魯西亜・イキリス初、和親
の外夷残らず申合せ、東西南北津々浦々代□□兵船指向参り
戦争に及び候様成行申候にては、其場所々々にては相応手充
仕らず候ては相成り申さず、其失費少なからず候義と存じ奉り候

其上諸国廻米通船の指支(差支)も出来申すべき哉、左候へば
忽(たちまち)糧米に丈(つかえ)申すべき義もこれあるべき哉
其辺の所、何とも心痛仕り候義に御座候

若し右様成り行き候上にて万一御防方御行届相成兼ね、拠なく
願の儀御聴届に相成り候ては実に国家御恥辱と存じ奉り候義
恐入り奉り候に付、此段も申上置候

且又ミニストル御指置の場所の義は御府内外(そと)に御指置
に相成り申すべく候御義にもこれあるく候哉、と存じ奉り候
尚亦申上候迄にも御座なく候へども、此上武備の義は御厳重に
御仕置これありたき義と存じ奉り候、以上
  巳十一月

1858年1月
この文章はハリスの演説の和訳を検討指示され同役一同の意見を述べたと思われるが、
誰の意見か安政雑記には記述が無い。 内容から見て現実的な対応を取るべく提言して
おり、同役という言葉から評定一座とか海防掛り等の役人グループの意見と思われる。
廻りくどい表現だが要約すると開国止む無しと云う事になると思われる。 以下要約する
  今回の要求の要点は公使を互いの都下に置き交易を盛んにする事と諒解するが、
公使を置けば更にその上の要求も出て来ると思われるので出来れば先延ばしにしたい。 
それには日本は未だ不慣れな事と国内の意見が一致していない等で公使を送り込む状態
ではない、日本が公使を送れる状態になったら貴国の公使を受け入れたい旨回答しては
どうだらうか。 条約については英国が押しかける様な形勢でもあるので止むをえないので
年限、カ条など限り結ぶべきと考える。 やはり戦争になり不利な状態で条約を結ぶのは
国家の恥辱である。 又公使を置く場合は都下以外に置くべきである。


91
幕府の開国方針を諸侯に通達          戻る
安政四年巳十二月廿五日堀田備中守殿御直に御渡、同廿四日御触(安政雑記第八冊)

亜墨利加使節え応接に及び候趣、且右に付使節差出
候書付・和解共相達し候、追々申立候趣容易ならざる事共
に付、厚く 御勘考在りなされ候所、近来世界の形勢
一変致し、唐土の昔戦国の世七雄四方に立分れ居候姿    
にて 御当国おいても已
(すで)に外国と条約御取結ひ,御交通
在りなされ候上は、古来の御制度にのみ泥
(なずみ)なされ候ては
御国勢御挽回の期これなく、日夜 御心を悩ましなされ候御
義これあり、併非常の砌
(ママ、功か)は非常の時にこれなく候ては
成し難く、中興の御大業を立てなされ 御国威御更張の機会も
亦此時にこれあり候間、御大変革在りなされ度
思召候へども、当時御国内人心の居合方もこれあり、人心
居合わざる節は、内外何様の禍端を引出し申すべく義計り
難く候間、先ず使節申立の趣、追々応接の上成丈
(なるたけ)取縮む
べく候積
(つもり)に精々応接に及ばすべく候へども、今般御取置(しょち)
の当否は国家治乱の境に候間、右再応申立の趣にて猶心付候義も
候はば、早々申立てるべき旨 仰出され、此段相達し候事
右の通万石以上の向え達せられ候事
  十二月
前同断
      覚
別紙和解の趣夫々不分明の廉
(かど)も少なからず候へども、差し急ぎ候間
其侭写し相達し候事


1858年2月8日
本書状はハリスが堀田備中守宅で演説した内容を添付し、世界情勢の変化を踏ま
え積極的開国の必要性を述べ、幕府の条約検討開始方針を諸侯に対し布石を打っている
戦国の七雄: 中国戦国時代(前5-前3世紀)の韓・趙・魏・楚・燕・斉・秦を指す

92
米国大統領への幕府回答書状 安政雑記第八冊)  戻る
  亜墨利加大統領え御返翰案文
日本国源家定、亜墨利加合衆国大統領フランクリン
ピールセ殿下答ふ、爰に貴国と取結たる条約を
修正し両国人民の為に有無を通し、交易道を
盛にせんが為、老中ならび任する所の有司と会議
をおさめんとてコンシュルセネラールトウンセント
ハルリスを使節として、書翰をおくり申越る旨
承説せり、依って外国事務に預る老中堀田備中守
ならび下田奉行井上信濃守、目付岩瀬肥後守
に命してハルリスと商儀の条約を定む、今より
後交儀弥
(いよいよ)等して両国人民安寧にして、永世替
ることなかるべし、爰ニ来翰の厚意を謝し併
(あわせ)
て貴国の安全を祈す、不備
      安政五年月日
           源家定御印


月日なし
不備: 手紙の末に付ける、敬具、拝具、草々等と同じ