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          岩淵夜話第一巻
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(第一話 岡崎で出生、織田家に幽閉)
一太政大臣従一位源家康公ハ天文十一壬寅年、参州岡崎城
 ニテ御誕生、御童名竹千代君ト申奉ル、御母ハ同国刈谷城
 主水野右衛門太夫忠政ノ娘、下野守妹也、竹千代君二
 歳ノ御年離別ナサレ刈谷江御送り、 広忠卿ハ田原城主
 戸田弾正婿ニ被為成、其頃織田弾正忠尾州ヨリ西三河へ
 働出、岡崎ノ城ヲ攻ントス、広忠卿駿河今川義元江加勢ヲ
 乞セラル、依之竹千代君六歳ノ御時駿府へ人質ニ被遣
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 ケルヲ信長へ志有者共寄集テ、塩見坂辺ニ於テ 竹千代君ヲ
 奪取奉リ、織田弾正方へ出シ奉ル、弾正如何ヲモハクニヤ熱田
 大宮司方ヘ預置奉ると也、御実母ハ其比久松佐渡守ト申織
 田家随身ノ侍ニ嫁シテ御座ケルカ 竹千代君トラハレサセ
 給テ、勢田ノ宮ニ被成御座ノ由聞及び給ひ、弾正中へ御断を立
 られ、御菓子、御衣なとは折々送り参せられると云ども、御対面ハ
 不叶と也、河野藤蔵と申者小鳥など進上仕、常に御伽ニ参
 り慰め奉シヲ、御幼少の御心にも御満足に被思召、少も御

 忘れ不成して、後日に被召出御念比に被遊けると也
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(第2話 今川家に寄寓)        
一天文十八己酉三月六日竹千代君八歳ノ御時、御父広忠卿ニを
 くれさせ玉ふ、其折節参州安祥の城を織田弾正攻取之嫡子三
 郎五郎(大隅守信広)ヲ指置けるを今川義元駿遠参三ヶ国の勢を以手
 痛く責ラルニ付、城中防兼、既に落城に及仕合ナレバ、弾正方より
 扱ひを入、竹千代君と三郎五郎と取替度と有之付、義元悦喜不
 斜、やがて竹千代君を請取被申、六歳の御時不慮に敵の手
 に御渡り被成、出入四年目九歳の御時迄他国の御住居ヲ
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 被成、何の御恙も渡らせ給ず御成長にて、二度御立帰被
 遊を見奉る、御譜代衆の義ハ不及申、御領分在々所々の
 町人百姓迄も餅酒を調テ祝儀申けると也、義元御申有
 けるハ竹千代未幼少の義ナレハ諸事は此方より指引を可
 致と也、岡崎の家老中さのみ同心にハ不存と云へども、今度
 竹千代君尾州より御立帰の義も偏に義元の御勢力故な
 れハ如何様とも奉頼と也、外にハ可申様も無之、依之竹千代君
 ハ駿府へ御越なさる、石川伯耆、天野三郎兵衛、其外御譜代

 衆少々相詰御奉公申上る、其外の衆ハ岡崎に罷在、駿府の
 御暮し成程軽き御様子也、岡崎の城本丸ハ駿河より城代
 ヲ指置、岡崎衆にハ鳥居伊賀守、松平次郎右衛門、阿部大蔵、石
 川右近此面々、二三の郭に在て惣奉行の如くには候へ共、義元
 の御指図を請ずしてハ諸事の儀少も取さばく事ならず、御
 譜代の面々気の毒に存る事限りなし
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(第3話 今川家で元服、岡崎に帰還)
一竹千代君十三の御時、具足の召初を遊シ、十六の御歳駿府
 城中に於て御元服遊され、御名をハ蔵人元康甲と御改被
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 成、今川家瀬名刑部と申人の御婿にならせらる、是皆義元
 の御計ひなり、岡崎の御譜代衆悦事不斜、義元の仰に当
 年より岡崎の城江御移り、御家中御領分諸事の御仕置
 をも被仰付る様にとの儀也、元康公聞召れ、幼少の時より只今
 迄に至、段々御介抱に預り、既に岡崎の城へ帰参仕候様に
 と迄有之義一方ならず御厚恩也、御指図に任せ岡崎へ
 ハ可罷越候、併我等義未年若に候へハ、二丸に可罷有候
 間、本丸には山田新左衛門儀其侭被差置可給候、諸事

 の異見をも請候様に仕度候、新左衛門にも其段仰付られ下され
 候様にと仰らる、義元聞給て大に感じ、朝比奈以下家老共に向
 ひ、元康若輩とはいわれず、さてさて分別厚き生付の仁也、年盛にも
 なられ候ハ、如何様の人になられんも何計、氏真か為に能方人*方人(かたうど)味方
 也と思へハ我らさへ満足也、亡父広忠存生にて居られ候ハヽ
 さぞ悦可被申にと宣ヒ涙をながさると也
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(第4話 今川義元の討死、大高城で孤立)
一永禄三年五月、今川義元大軍を率し尾州へ働に、織田信長
 との戦有、今川家勝に乗て大高・星崎二ヶ所の城を攻取、其
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 時元康公ハ義元の御頼に依て大高の城に御座なさる、然処
 に桶狭間と言所にて義元備違、五月十九日不慮に討死有
 今川家軍勢力を落し悉く敗軍を致す、依之今川持の城々大
 形明退く、就中大高の城は敵地の中なれば近辺に可申合味方
 の城もなし、御家中上下の批判にも義元既に討死致すに付
 今川家譜代の侍大将共各居城を明退仕合に候処に、元康公
 御一人此城に御座被成とあるハ近比不謂強ミ也、只今にも
 織田家の人数寄来り、其旗先を御覧有に付てハ猶以

 御引なさるべし、去はとて織田家の大軍を引請さして御身
 にかからぬ儀に御一戦を被遂事も無詮事也と悔む、家老
 中此趣を以御諌申上らるゝ処に、元康公被仰けるハ、義元
 の討死も味方城々明退も必定の儀ならん、併義元存生
 の時約諾して、元康当城を預り守ると云を誰知らぬ者
 なし、然上ハ早々明退との一左右を可致物なるに、今に至て
 其沙汰なし、今川家の家老も能々うろたえたると覚るぞ、然共
 夫ハあの方の不念也、何の道にも聢とした味方の一左右も不
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 聞、世間の風説によりて当城を捨退事、元康に於て
 ハ本意と思はずと仰らるゝ付、家老衆重ての御異見に然
 らず、山田新左衛門方へ御使を被指越御相談なされ可然と
 被申上、元康公尤と仰られ、浅井六之助、小栗大六両人を岡崎へ
 被遣、爰に参州刈谷の城主水野下野守と言は、元康公御母
 方の御叔父也、此人織田方にて居られける故、近日大高の城を
 攻ると云内談を聞、日比ハ元康公と不通なりと云えども、さすが
 御親類のよしみと言、織田家の取沙汰にも、元康公未若

 輩也と云えども一旦の儀を守りて、味方の敗軍にも不構、右も左
 も敵の中に只一人踏留り、大高の城に居る事誠ハ広忠の子息
 程をばする者哉、あたら弓取を攻殺すへき事のをしさよなど云を
 聞て、こらへ兼急使者を指越、早々引退給へと被申と云えとも
 元康公少も驚給はず、夫迄は二丸に御座けるが下野守方より使来
 て後ハ結句本丸へ被為入、敵寄来ラハ籠城可被成との奥意
 也、然処に両人岡崎より罷帰、山田新左衛門方よりも片時も早
 く御帰陣被遊可然奉存と御返答申上るに付、此上ハとにの大高
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 の城を明られ御帰陣の道筋所々に一揆起りて御通
 りを妨る処に、本多百助無類の射芸の名人故、多くの一揆を
 射払ひ難なく岡崎へ御帰陣也、今川の面々是を承り恥しき
 事に存ると後日小倉蔵助語けると也、信長も委細の儀下野
 守に尋給て、元康公ハ義理強く頼母敷人なりと思付被申
 とかや、御年十九にならせ給ふ時の事也
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(第5話 今川家に失望)
一大高の城より御帰陣遊され、今川氏真へ御使者を以義元
 御弔合戦被思召立候に付てハ、片時も早く尤に候、去に於てハ
 
 元康も信長へ向さび矢の一筋も射掛候て義元の御
 恩を報し申度と度々被仰遣と云えども、氏真一向同心無之
 仏事法事の弔ひ迄に掛り、忌中も頓て過行比に成、元康公
 被仰けるハ、親の弔合戦などすると云ハ其跡をはずさぬ様にして
 こそ我等義元への志は是迄也、不及是非と仰けると也
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(第6話 今川家と決別)               
一或時上野の城に罷在酒井将監を被召寄、元康公密に被仰聞
 なるハ、当時今川家の躰を考へ見るに、氏真事親父義元の半分も無之
 不器量仁也、然共朝比奈以下の家老共其外義元の大に十八人衆
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 ち云ひし歴々の者共罷在儀なれは、各心を一つにして氏真は何にもせ
 よ、今川家相続の所忘を付て諸事の儀を取はからふ様に致に
 於てハ、久しき家の習にて、とやかくとかかはり行へき物なるに、家老
 共の思はくも心々にして相談のしまりなく、互に身構をのみ致し、主
 の為も家のためもなり合と思様子なれハ、畢竟今川家断絶の時
 節到来と覚たり、当家の事ハ広忠公御代より我等に至る
 迄、如形義元の介抱に逢たる筋目なれは、義元討死の砌より
 弔合戦の儀延引不可然旨、度々申遣処に、氏真を始家老
 
 共も尤と云気色もなく、結句我等噂を悪しき様に取成て申とあるハ
 重々不届儀也、是に付我人質源三郎を捨にして思立旨
 あり、其方人質をも奥意ハ捨ると覚悟致し候へと仰らる、将
 監承り、主の御意には親の首をだに切と申候へハ、ましてや世倅の
 儀ハ兎も角もにては御座候へ共、義元公以来御入魂の筋目
 御違なされてハ、大事の弓箭の御家に疵が付候と申上る、元康
 公聞召、疵の付つかぬハ我等心持に有事なれハ、先其方ハ人質を
 捨る覚悟を極候へと被仰けれハ、将監畏候と御請は申上げなが
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 ら不同心の躰顔色に顕れて御前を立居城へ帰る、元康公急に御使
 触被仰付、御自身も早速用意被遊、やがて御馬に被召乗出させ
 給へハ御家中の諸人何事にて何方へと云分もなく、我おとらじと馳
 付奉る、中にも鳥居彦右衛門、大久保七郎衛門、石川内記、同伯耆
 平岩七之助など真先に進み御供也、将監も馬を早め罷帰と云へ共元康公の
 御勢の進み来る事神速なるを見て迚も難叶事を計りけるにや、我居
城ヘは不帰、山路に掛り直に駿河へ落行と也、扨上野の城将監跡
ヲハ甥の小五郎に下され酒井左衛門に改め、御家老と被成けり

将監手前に掛り居ける同名与四郎、荒川金右衛門、柴山小兵
衛、高木九助なども今度召出され御奉公となるなり
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(第7話 織田信長と和睦、同盟)
一水野下野守信元取扱を致され、織田信長と家康公御和睦
 なされ、尾州小牧に於て御対顔を遂られ、尤下野守罷出
 御挨拶也、諸事御約諾の上互に御神文を被遊、信元も判
 形を加へ灰に焼て神水となし、御両殿参りたる残りを下野
 守給り納めけるとなり、是より前に御名乗を改らるゝと云え共
 外所への御書に家康と遊さるゝハ此以後の義となりとかや
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(第8話 金の馬印)
一永禄六年正月十九日家康公岡崎の城を御立被成、山中に
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 御陣取、同廿一日の朝、牛窪の城へ御登り被成、本多平八郎十
 六歳の時成しに牧野内にて、武辺の侍牧野宗次郎と鎗を合
 する也、牧野家来稲垣平右衛門と申者、分別を致し牧野に異見
 を加へ、酒井左衛門尉、石川日向守を頼降参仕、牧野右馬丞御旗
 下被成、幸右馬丞妻女無之付、酒井左衛門尉婿に成て、御譜代
 衆に不劣と御奉公だてを致す、此御陣迄ハ御馬印白き四方の
 内黒にて厭離穢土欣求来浄土と云文を書たるを御持せ
 被成と云へ共、牧野が金の扇子の印殊外見事なりと仰られ、御

 所望被遊、御馬印となさる、然共牧野手前にも其侭用候様にと被
 仰付、小田原陣迄牧野馬印も金の扇なり
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(第9話 一宮城の家来救援)
一同年三月廿日設楽郡一ノ宮の城を御攻取なされ、本多百助を番手
 に被指置、御帰陣なり、然処に其年の五月今川氏真弐万の人
 数を以て一宮表へ出勢なり、但二万の内八千引分、武田信虎
 を大将として、家康公後詰被遊時の押へ勢と定め、残る一万
 二千の人数を以て一宮を取巻なり、家康公此告を被聞召、二
 千余りの御人数にて一ノ宮の後詰被遊付、御家中弓箭
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 巧者の面々打寄相談して、いかに氏真の弓矢徴若に御座
 候とても、家中には義元以来の武功誉れある者多、其上弐万
 と申人数ハ味方の十倍にて候、殊更勢を二つに分武田信虎に
 預け、別軍に備へ、御当家の後詰を妨可申とあるハ尤の仕
 形に候間、幾重にも御思案被遊、兎角深々との御後詰ハ如何
 に奉存候と申上ると云へ共、家康公御聞入不被成して仰ける
 ハ、各申分其理も有と云へ共、侍ハ大身、小身共に信と義との
 二つを欠てはならず、縦ハ敵の城を攻取即時に掃捨シハ格別

 也、既に相抱るに至て味方の侍を番手に申付る上ハ、何時にても
 敵寄来るに於てハ後詰と有儀兼て覚悟の前也、然るに其期
 に望、寄手の人数が多く其手立がよきぞとて、差当る後詰をひ
 かへ、番手の侍共を攻殺させ、余取にて見物ハ成まじ、惣て主の
 大事は披官の難義ハ主の救ふ事、古今武家作法
 なり、畢竟今度の後詰を仕損じ、討死を遂ると云へ共、偏に家康
 が運のつくる所也、と覚悟を究る上の手段の能にも悪にも、人
 数多少にも無構と仰られ、大きにいさみ進ませ給ふ、御気色
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 にて打立せ給へハ、御前にて此上意を承る面々は不及申、又
 伝に承る末々の者迄あっぱれ頼母敷御大将哉と感心し奉、泪
 ヲ流さぬハ一人も無之、依之て二千余り味方なれ共、今川家
 の大軍を物の数共思はず、我一と御先を争ひ進程に、信虎
 が八千の人数などは生きたる虫共不存、左の方に見なし即時に一の
 宮の城際へ押付たり、本多百介城戸を開き、備を出し家康
 公を迎奉れは、無事故御城入被遊也、今川家の諸軍勢是を
 見て無念口惜きと云て後悔すれ共不叶、此上ハ押への信虎を

 も一所に呼集、急に城を攻捕、家康を始め一人も漏さぬ様に可致
 然らば還て味方の吉事、けがの功名と言是也と、ぬからずたてを
 云てひしめく処に家康公人馬の食する間程御休息を遊され、本
 多を召連られ早速御帰陣也、今川家の積り大きに相違してあ
 れあれと云計にて備を立もうくる仕形にも及ぬ内に味方の御勢ハ
 早城際を離れ真丸に成て引退玉ふ、本多百介申分に、今日の
 儀は我等うでの骨の続候程ハ相働可申候、夫にても不相叶上
 にこそ御旗本の衆に苦労は掛可申と有之、手勢四百余の人数
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 を以、信虎八千の備を突わり、幾度と云事もなく馬より降り立
 敵に当る事度々也、然る間に酒井左衛門尉、石川伯耆、牧野
 右馬丞兼てより御迎備と定置せらるゝに付、能図と考へ場
 所を見合、段々に備を押出す、今川家是を見て少も御跡をし
 とふ事ならず全く御帰陣也、扨右馬丞も牛窪へ罷帰一類共
 呼集て酒肴をもうけ申けるは、家康公の御事は兼ても承
 り伝へたる儀ながら、此度一ノ宮後詰被遊御手際は古今無
 類の御大将にてましますなり、かゝる名将の大力かけ頼てこそ、我

 人立身を遂るなれハ、一家繁昌のもとひ也と云て悦けると也、一とセ家
 康公御上洛の刻、山岡道阿弥、右一ノ宮表の御働の儀申出し
 武士を心掛候程の者は、其砌より今日の今に至る迄、此御噂を仕る
 儀に候、近比御名誉なりと申上れは、家康公聞召れ、夫は我等一
 向若き時の儀と思へハ、偏に若気にてと仰られて御笑なされけると也
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(第10話 岡崎矢矧橋の事
一或時岡崎の御城下、矢矧の橋洪水に流けれハ、早速掛渡すへき
 旨家康公仰付らる、就夫各家老中申上られけるハ兼々何も存
 寄罷在候へ共、ケ様の折節を以可申上と存罷有候、此橋の儀
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 ハ世間に稀なる大橋にて候へハ夥しき御物入に御座候、其当
 時戦国にも候へハ、御城下にケ様なる大河の在之候ハ御要害
 にても候ハ、旁以今度流れ捨り候を幸に遊され、向後儀ハ船
 渡しに被仰付可然奉存候と一同に申上らる節、家康公被仰け
 るハ、抑此橋の事ハ代々の記録にもしるし、其外舞にも平家にも
 語り伝て、日本国中に誰知らぬ者もなければ、定て異国へも
 聞へぬ事は有まじ、然るに物入多けれはとて今更橋を停止に
 して、舟渡しに申付、往還の旅人に難義を掛ン事ハ国持の
 本意に非ず、縦何程の入用たり共少も不苦、早々掛渡候様に申付
 らるべし、扨又要害に頼と云ハ、人にもより時にもよるべき物なり、当時家康
 が心入の程は一向左様の趣に非ず、其段ハ何もの心入に有べき物なり、然ハ要
 害を求るにハ不及儀也、只片時も早く橋を掛渡し往還の煩なき
 やうに可被申付の旨被仰出なり
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(第11話 浅井長政の事)
一織田信長公より江州小谷の城主、浅井備前守儀は手前身近
 き縁者に候へ共、後々ハ我等に対し必定仇を可仕物と見届候間
 只今の内に切絶し候様に可致と在候間、兼て左様に思召可被
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 下候、其儀に於てハ、万一御出馬の儀を願進候事可有候との
 使者也、家康公大躰の御返答を遊され、追付此方より酒井
 左衛門尉、本多百介両使を以被仰遣けるハ、浅井御絶し可
 被成との儀被仰聞候、以後致思案見申候処に差当る不義
 も無御座には、如何可有御座候哉、今少御見合なされ可然候
 其内浅井分別直し候へハ、何か有へく候、左もなく不届の仕形諸
 人の目に余り候上ハ成程御尤に候間、小谷御発向とだに承
 届候ハヽ仮令ハ加勢の儀不被仰越候共、家康も御見舞に

 可罷出との御口上也、信長公御返答に、浅井事漸々不義の端顕
 れ候に付ての御相談に候へ共、如仰未諸人の目に立程の義も無之上
 ハ先々御差図に任置候、被入御念御心入の段満足なさるとの義也
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(第12話 姉川の戦い)
一元亀元年庚午六月廿七日、江州姉川合戦の前日、家康公信
 長への御咄に、軍は二の手にて勝利ある物にて候と仰らる、池田紀伊
 守御一座に罷有て是を承り、何事にて二の手迄は越させ申物
 にて御座候哉と過言を申す、家康公聞召、願くは左様にこそ
 有度事に候へ共と何となり御挨拶をなされ、其後信長へ仰
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 ラレケルハ明日の合戦に於テハ浅井・朝倉か何れにても一方を我等
 に御渡可在候、切崩して可掛御目候と仰らる、信長公聞召、浅井
 ハ我等当敵に候間、朝倉を御無心可申候、左候ハヽ兼て朝倉心
 当置候人数共を只今召出可掛御目候間御見知、何分にも
 御下知を頼入候、と其者共にも御下知に随候様にと急度可申
 付と仰らる、家康公聞召、我等小身なれば常に少人数計を
 つかひ付て、大勢は邪魔に可成様に存候、其上心も知らざる衆
 中と申合も六ケ敷候へハ、朝倉が人数は何程も候へ苦しから
 ず、我等手勢計にて一戦を可遂候と仰らる、信長公聞召、御
 尤には候へ共左様なされてハ御手前はいさぎ能聞え候へ共、我等を
 世上にて悪く可申候、責ては二頭も三頭も御用になく共被
 召置様に仕度と仰らる、家康公聞召、左様に思召儀ならは誰
 にても一頭被仰付候へと仰らる、信長公誰をか可進と宣は家
 康公仰に、稲葉伊予守可然と仰らる、信長聞召て、稲葉ハ
 中にも小身者にて候へハ人数も多持たず、乍去御望の上ハ
 兎も角もと仰られ、稲葉伊予守来て御旗本より少し跡
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 方に備る也、其翌日廿八日浅井備前守三千の人数の真先に備るは
 佐和山の城に磯野丹波守秀昌と云大剛の武者前後左右を下
 知して突掛るに、信長公の先手坂井右近一番に崩て、然も味方
 の備へ崩れ掛るに付、諸備色めく所を浅井旗本の加勢一度に
 どっと掛る、信長公の方三万五千の人数なれ共、三千の敵に突立
 られ十町余敗軍也、右の池田紀伊守も先手の内成しが、大きに
 崩れ、家康公御先手の酒井左衛門尉傍へ紀伊守馬を
 乗よせ、物を云わんとするを左衛門尉見て、昨日の広言の様に
 
 も無之不覚仁、足まとひになられ候とて自身長刀を以打払ふ、其場
 近きあたりにて紀伊守落馬せしを、左衛門尉に叩落されたりと
 其砌沙汰有しと也、扨朝倉が一万五千の旗本の先へ家康公
 の御勢五千にて、しかも川を越て切掛り、大きに御勝利なり、一手ハ
 高天神小笠原予八郎、二の手ハ酒井左衛門尉忠次、本多平八郎
 忠勝也、朝倉内にて口を聞者共多討る、越前一国に名を得し真
 柄十郎左衛門と云大力も此時討れけると也、(向坂兄弟三人にて撃殺也)扨稲葉
 伊予守通長も御旗本組の様に備を立在と云へ共、先手三組
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 の衆にて、此方軍は御勝利なれば、家康公御下知を以、浅井が勢
 に切掛るに付、小谷勢敗軍を致す、依之信長衆踏留、備を
 立なおす、然ハ信長よりの加勢とてハ一人も御請なされぬ道
 理也、家康公御手柄不及是非儀也と、西国・奥州の果迄
 奉感と也
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(第13話 金ヶ崎の撤退)
一元亀元二月信長公越前へ発向有、手筒山・金ケ崎此両城
 を攻取玉ふ、然処に江州の浅井備前小谷より出張して、大
 きに兵威を振ふ由注進有けれハ、信長公驚き給て、俄に

 勢を打入玉ふ、其跡を気遣、家康公へ後を御頼に付、委
 細相心得候、朝倉御跡をしたひ候共是にて押へ可申候心
 易信長御退可有由被仰遣、信長の大軍如何はしたりけ
 ん、惣乱になり敗軍に及を見て、一揆所々に起り道を掘崩
 し、橋をはね、様々の妨けを致に付、信長一生の難儀にて漸
 朽木谷へ引入給ふ、家康公の御人数ハ小勢也と云へ共少も不乱
 静り返て引退故、道筋の一揆共山谷を隔て見物を致し、指を
 さす事もならず、心易く御帰陣なりけると也
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(第14話 抜駆けの厳禁)
一天正六年戊子三月武田勝頼遠州馬伏塚へ働き出らるゝに
 付、家康公も御出馬の処に大須賀五郎左衛門甥、大須賀
 弥吉御軍法を背も御旗本より先手を越シ、勝頼旗先へ乗
 掛、高名を仕る、其段御耳に達し以の外御腹立遊れ、向後見
 こりの為に御成敗可被成と被思召処、本多平八郎宅へ走入ル
 家康公御自身平八郎門前迄御越遊れされ、唯今不罷出付
 ては平八郎共に成敗被成と仰られ、酒井左衛門子息小五郎
 追掛御請申上る、扨弥吉儀ハ牧野右馬丞所にて切腹也
 弥吉其時廿一歳、未若輩と云、殊に五郎左衛門甥の儀也
 旁御免可有と諸人積りの外也
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(第15話 池の鯉の咄)
一家康公岡崎の御城に御座なされける時、勅使など有之時御
 馳走の為にと思召され、長三尺程つゝの鯉三本活須の中へ放し
 被為置、然処に鈴木久三郎、件の鯉の内一本取上させ、御台所
 にて料理申付、其上織田信長公より参たる南都諸白一樽口
 を切られて、呑くらひ、人々にも振舞に付、定て鯉も酒も拝領致
 しての義成へしと、諸人存る所に、程過て後御池須を御覧
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 なさるゝ時、三本の鯉二本ならで見えず、池須預の坊主を召て御
 尋なさるゝ処に、鈴木久三郎付て取上させ則料理に致し、其身
 も給り、人々にも振廻候と申上れば、以の外御腹立被遊、御台所
 方へも御吟味を被遂に、弥其通りなれば、大きに御機嫌損し、御
 自身御手討に可被遊と被仰付、御長刀の鞘をはづさせ
 給て、広縁に被為立、鈴木を召出さる、久三郎も致覚悟少も
 ひるみたる気色もなく、畏候とて御路次口より罷出る、其間一時
 間計も有之に、家康公鈴木不届者め、成敗するぞと御詞を掛

 させらるれハ、久三郎己が刀脇差を抜、五六間も跡へからりと投
 捨、大眼に角を立申けるハ、抑魚鳥に人間をかゆると云事が
 あるものにて候や、左様の御心にて天下の望は成まじく候、我等が
 義はなされ度様に可被成と云て大肌脱に成て御傍へ近寄所に
 家康公御長刀を捨させ給ひ、最早ゆるすぞと仰られて其侭
 御座敷へ入せられ、則久三郎を召出、其方忠節深き心入の程
 感入満足に思ふ故、先日鷹場にて鳥を取、城の堀にて網を打
 し両人の歩行の者共、近日曲事に行へしと思、押込て置
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 たりしをも、両人共に唯今赦免するぞと仰られけれは、久三郎泪
 を流し、私躰の寸志をも如此御取立被遊候ハ近比有難儀に
 御座候、偏に天下をもしろし召るへき御瑞相と奉存と申上る也 *統治する
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(第16話 松永弾正の事)
一家康公有時信長へ御出仕被遊、御座敷へ御通なされける
 処に、老人一人着座あり、其時信長公被仰けるハ、家康公に
 ハ定てあの老人は御存知なさるまじきと也、家康公されは誰人
 にて候やと仰けれは、信長是は松永弾正と申者にて候、一生
 の間に無類の働を三度致され候、第一には公方光源院殿を
 殺し奉り、第二には主人三好に逆意、第三には南都の大仏殿
 を焼失ひ申され候、此三か条は世の常の人罷ならぬ働共
 に候と仰らる、家康公御座を御居さがりなされ、松永に向ひ
 給ひて、今日初て掛御目候へ共、貴公御武運の名誉共ハ兼
 々伝承る所に候、向後の義は心易可申承候と御慇懃の
 御挨拶を遊ばさる、さすがの弾正も信長の悪言に赤面して
 家康公への御挨拶も聢とは得申上ざりけると也、家康公御
 帰なされ、家老中へ御物語なされ聞被候とて、松永が悪事
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 は世間にも例すくなき儀也、但先年信長公金ケ崎の退口は
 松永よく付随ひ、既に朽木谷に於ては信長の為に命をお
 とすへき覚悟を究、信長に向て最後の暇乞迄仕りたりと聞、
 それが誠なればと仰られて、御咄を止めさせらるゝと也
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(第17話 織田信長の死と甲州経営)
一天正十年三月十一日甲州武田四郎勝頼、天目山の麓、田野と
 云所にて生害致さる、其節織田信長公の御目に掛る、信
 長御覧有て宣ひけるハ、其方父信玄、我等に対し種々の
 非義を構、常々不道を行し天罰逃れ難く、其方身にせ

 まりて、国家を失ひ今此仕合に成果候、最後に至て思知たる
 へし、各見候へ、能気味にてはなきかと広言し給ひ、此首家康公
 の御前へ持参仕処、勝頼の首と聞召れ、其侭御床机よりおり
 させ給て、先々供餐の上へ居よと被仰、扨首に御向なされ
 慇懃なる御様躰にて、偏に若気故にて候と仰られけると
 也、其砌此儀を両大将の御家中にて互に承り伝へ、御家に
 ては家康公の御礼儀厚くまします御心入の程を感じ奉り、末
 頼母敷奉存、扨又織田家の諸人ハ万に付て事危き様に
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 存ると也、其如く勝頼滅亡より八十日目に京都於本能寺
 明智日向守が為に討れ給ふ、偏に奢と怠との二ツを以如此、右勝
 頼滅亡の跡、甲斐国一円に信長取立の侍、川尻肥前守に給
 り、駿河国をは家康公へ進し申さる、貴国近辺の義にも在之の
 間、万事御介抱ナサレ候様にと、信長公御頼に付、其段御心易
 被思召候へと御約諾の通に川尻方へ度々御使者御音信
 を遣はされ、諸事御心入遊さる、然れ共川尻一円に過分に不
 奉存、心底には家康へ遺恨をさし挟む、子細ハ武田家の諸老人

 縁引伝を求て、御当家を望み奉公を願に、川尻に奉公せん
 と云侍、名有者には一人も是なし、ケ様の事に付ても種々推量を
 廻し、専ら家康公の表裏を被遊と計存る故、後々は侍百姓に
 不限、国人とさへ云は心を置、少も身に不致、上方より召連下り
 し僅の家来計を頼みにして相談を遂る故、国中の儀何事に
 不依一ツ沙汰する義もなし、然る処に信長公他界に付、上州厩橋
 の瀧川左近抔も関東を捨上洛するとの説あれは、川尻弥甲州に
 在煩よし、家康公聞召被及、本多庄左衛門に諸事の儀被
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 仰付、甲州へ被遣、何事によらず無心置相談致されよ、若も上方
 などへ可登るとの存念に於ては、此時節信濃通りは危く、此
 庄左衛門を案内にて、手前領分へ可被出候、心易く被致上
 洛候様に取はからふへしと御遣さる所、川尻大きに疑ひを生じ
 奸曲の意地を以、児性に申付、六月十四日の夜、寅の刻寝首を
 かゝせけるを、庄左衛門家来共走り散て人に告るを御家へ
 身上片付、妻子など引越の為甲州へ帰り合居ける衆中
 是を聞て、早々浜松へ注進を申上、扨又甲州諸浪人是を

 聞、川尻不届者なる由を申触るに付、家康公へさへ右の仕形の
 上は憚所なしとて、忽一揆を起し川尻を攻め、首をば三井十右衛
 門と云甲州士討取也、此刻於浜松本多庄左衛門事、川
 尻が宅にて相果との注進の状御披見被遊、家康公仰ら
 れけるハ、信長と申合たる筋目を立、随分と川尻為を思と
 らする所に、夫を過分と不思、万の相談柱にもせよかしと思て
 遣しける本多を殺害致す事不及是非儀也、去とれハ惜
 き侍を川尻めに殺させける物哉と仰られ、御落涙被遊、家
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 老中申上られけるは、信長と一旦の被仰合は相済申候、此上ハ御
 人数を被指向、川尻を御討果し被遊より外、御座有間敷
 と各達て申上る処、夫ハ川尻か二の前にて家康などがする事
 にても是なし、先ず其通りよとの御諚なれは、家老中も重て申上
 様も無之、扨甲州主なし国となるを以て、北条氏政の子息氏直
 信玄の孫ナレハ、筋目に付ても甲斐の国取うち也とて小田原
 より手つかひを致との取沙汰専ら也、御家へ被召出たる甲州
 衆是聞て、北条家の国となさん事無念也、片時も早く御当

 家より御勢を向られ御尤に奉存、左様に候はゝ古傍輩共
 相語ひ、不日に御手に入可申と口々に申上ると云へ共、家康公は少
 も御取上不被遊、一向信玄公勝頼二代の間に武辺場数有之 
 侍のせんさくを遂られ、直参の同心共に由緒書又は手柄の品を書付
 にて御取寄遊され、段々被召抱へきとの御意の趣を、成瀬吉右
 衛門、岡部弥三郎両人へ被仰付故、武田家の諸浪人大小上下
 御家へ望をかけずと云者なし、扨又信玄の菩提所恵林寺を信
 長焼払はれける跡にも、前の如く寺を建、位牌を立よと被仰付
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 御金を被遣、其上勝頼討死の場所にも一宇を建立仕れと
 重々御念の入たる上意を、甲州にて侍の儀は不及申、町人百姓
 迄も承伝へ難有と申て悦事限りなし、其後北条家より人数
 を指むけ、甲州を切したがえんと是有に付、甲州一国の人民の願
 ひ奉るに依て、七月十九日始て御馬を出さる、其砌甲州衆と
 北条家と出合、一に黒駒、二に恵林寺前、三に天目山、四に岩崎、五に
 小倉の江草、其外所々のせり合に毎度甲州衆勝利を得
 て、討取処の首共を御旗本へ持せ上る、扨霜月に至り甲州若

 神子に於て北条氏政と御対陣有之処に、家康公より北条
 美濃守氏親方へ御書被遣、御使者は朝比奈弥太郎
 御書箱を首にかけ、只一騎馳来り、何の様子もなり北条家
 の先手大道寺駿河守政繁備へ乗掛、大音にて是は家康よ
 り使の者にて候、北条美濃守殿の備へハ何れにて候哉と申に付
 駿河手より案内者付る、弥太郎美濃守備へ行て、直段の
 上御書を相渡す、美濃守氏政の本陣へ持参致し御封 
 の侭差出す処に、氏政披見有則北条一門家老の面々を
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 召集め、内談一決して美濃守方より御請申上、其以後
 大道寺駿河守嫡子孫九郎を美濃守召連、新府中の
 御陣場へ参上、榊原式部少奏者にて美濃守御前へ
 被為呼、以前駿河にて朝暮御出合の御物語など被遊
 其上にて諸事御賢慮の趣き、美濃守に被仰聞、美濃守
 ハ帰り孫九郎は暫式部少方に逗留仕内に、重て美濃
 守参りて、弥和睦の儀相済、孫九郎も御目見の上御
 暇下され、美濃守と同道にて罷帰る、尤西郡腹の御姫

 君を以、北条氏直へ御縁組の御約束にて御和睦有之と申せ共、氏
 政の家老の世倅を美濃守致同道、事調候迄孫九郎を甲府に留
 置れ候は、北条家も悉く御旗下同前の様子也、此御対陣より
 甲州一円に御手に入る、北条家ハ笛吹峠を越て信州へ働き、芦
 田、小室の四城を責取、上田の真田迄も一端北条家の旗下
 になるとなり
岩淵夜話第一巻終

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        岩淵夜話第二巻
18                           目次に戻る
(第18話 北条氏政と面会)
一天正十四年三月北条氏政へ始て御対面可被遊と、家康公
 より御遣はさる、氏政より木瀬川を隔て可掛御目と申来る
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 家康公被仰ハ其様子にては両家無事とは難申、木瀬川を
 越て家康可参と被仰遣を、酒井左衛門尉承て、左様に
 被遊候ては北条家の旗下の様に相聞へ可申段不可然と達
 て御異見申上る処に、家康公聞召、仮令北条家の旗下共何
 共いへ、我らは無構と仰られ、木瀬川を渡り於三島御対面
 なり、此方に於てハ貴方と我等領分の境目に城は無用の義
 に候と仰られ、三島より御帰の其日に沼津の城堀を北条
 家より御見送の使者、山角紀伊守見申処にて崩し候様に
 
 と被仰付、五年以前甲州若神子表に於て北条家より
 人質を得て御和睦なされ候と、今度は又一向左様には無御
 座、いかなる御賢慮にやと何れも申奉る
19                          目次に戻る
(第19話 甲州武士の採用)
一天正十年甲斐国御手遣の砌、武田家諸浪人御家へ被
 召抱に付、前々の知行高、所付ケ相違無之様に面々手前
 より書付を指上候様にと有之儀を、曽根、岡部、成瀬三
 人承て甲府へ罷越、吟味を遂る也、就夫信玄時代より諸
 事の目付を動し、岩間大蔵左衛門も不相替万の儀を
p29
 承り正し、信玄勝頼の如く、委細に可致言上被仰付、然共さ
 すが甲州武士なる故、武辺手柄の申立など十の内を二ツ三ツ
 も内はに申上ると云へ共、偽りたる儀を申上る者は一人も無之
 乍去所知の書付には些々相違なるも有之、其相違と有は
 仮令は親の隠居領或は兄弟へ分知の跡式絶たるなどを手前
 へ取合、高に結て書出せる類也、三人の奉行衆も其時節
 の儀なれば委細の吟味を遂るに不及、面々指上る書付の通
 りに本領安堵の御朱印を下され徳仕る、是又家康公御

 内意を承て当分事の埒明様にとの儀也、今に至て甲州
 の民間に横紙の御朱印抔と申伝へて致所得と也、後々御
 吟味の上にて、右の書付相違の分は被召上も有、又其人により
 様子により、其侭拝領も有之、爰に初鹿伝右衛門と申侍
 あり、是は加藤駿河守二番目の子にて、弥五郎と申たる者也、然
 るに初鹿源五郎、川中島合戦の刻、上杉謙信旗先に向ひ、大
 剛の働を遂、致討死と云共、継子無之知行上る、信玄其忠
 死を感じ、且又原美濃婿なれは、後家をも別て哀み給ひて
p30(081)
 加藤弥五郎を伝右衛門に改、初鹿の名跡に定め、後家と一所
 にと有之所に、彼後家賢女にて、二夫にまみゆる事を恥て甲
 府にて城中へ欠込、信玄の奥方に奉公を勤て、一生後家
 を立る覚悟也、就夫後家の妹を以て伝右衛門妻に何も取持
 初鹿の家の相続を遂る、此伝右衛門養父源五郎に劣らず
 武辺者なる故、家康公甲州御打入の始より、所々にて御奉
 公だての走廻り有之に付、御家へ被飯抱、然る所に右知行
 付の指出して仕、曽根下野、岡部次郎右衛門両人え渡すに

 自分本領四百貫計を書出して、実父駿河知行の内弐百五
 十貫とを書入て出す、駿河知行跡式の儀ハ惣領にて加藤丹後
 三男弥平次郎とて、両人迄伝右衛門兄弟共有之なれは他家
 へ養子に参たる伝右衛門取へき子細なしと、丹後、弥平次郎
 両人と伝右衛門と兄弟間とやかくと物云起るに付、奉行
 衆相談して、伝右衛門指出し相違の分被召上、本領四
 百貫計を下さるゝ也、伝右衛門存分にハ、人により親兄弟の
 知行を自分の高に結び、書上候をも其侭下されたる者も
p31(083)
 有之中に某には不被下候さへ有に、御吟味出合面目を失
 ひたるは口惜きと立腹して、最前下されたる御朱印の内二ケ
 所下されたる村里に墨をぬり、我等の御朱印は反古になり、用
 に不立、何程走り廻りを致といへ共、手前に引方を持ぬ者は何
 事も影の舞になると云て、人々に向ひ悪口を申す、此段岩間大蔵
 左衛門聞出し、日頃伝右衛門と中悪きに付、幸と思、一入勢
 に入て、目安を認指上る故、目付衆を以御吟味の所に岩間言上
 の通、少も相違なし、家康公大きに御立腹なされ、伝右衛門義

 信玄勝頼時代より武功も有之者なれば、御奉公をさえ能仕り
 候ハヽ御取立可被成処に、御朱印に墨をぬり、其上種々の
 悪口を申とある、慮外千万重々不届の仕合なり、急度御
 成敗可被成と思召と云へ共、代々武辺の家に生れ、其身
 心操も有物なれハ、爰を以一命を御助なさると被仰渡、御改
 易也、然るに次の年四月、長久手御合戦に伝右衛門忍て御供
 仕り、御旗本にて、三宅弥次兵衛、伝右衛門二人、四月九日合戦前
 に能働、高名仕り、弥次兵衛儀ハ今日の一番高名、と早速御感を蒙
p32
 る、然る処に初鹿も討取所の首を持、内藤四郎左衛門傍へ立寄
 手首尾を語り、御披露を頼と云へ共、前未の年御改易の者
 なる故、内藤とかくの挨拶に不及、其間十間計隔て、家康公
 御覧有て、伝右衛門是へ参れと、御直に御意に付て御前へ
 伺公仕る処に、其方事諸人見こりの為計、一旦改易申付ると
 云へ共、一両年の内に必呼返すべきと思処に、此表へ供仕り、殊更手
 柄の働神妙の至也と、返すがえす御感なれは、初鹿泪を流し、忝次
 第に奉存処に、三宅弥次兵衛罷出、我等を一番高名と先刻

 御諚を蒙り候へ共、伝右衛門義ハ、私より一町半程先にて高名
 仕候と申上る、家康公聞召、律儀なる申分と仰られ、弥次兵衛
 を弥御感被遊けるとなり
20                           目次に戻る    
(第20話 秀吉と一戦、長久手の陣)
一天正十二年春三月、織田信雄、秀吉公を討亡し、天下の権を取
 んとの志あり、依之家臣、松島の城主津川玄蕃丞、星崎の城主
 岡田長門守、刈安賀の城主浅井田宮丸三人を長島の城中
 に於て被致成敗、此三人は秀吉公と常々其間がら能者共
 なれば、今度の一大事を致相談ては、中々同心致す間敷と推量
p33(085)
 して、折檻申付らるゝと也、扨信長公の御代、御取立の諸大名
 へ信雄より廻文を以て頼るゝと云へ共、池田勝人、森武蔵守を
 始として一人も味方を可致と云人はなく、却て秀吉公へ内
 通して敵の色を立る、家康公も最初より頼被申と云へ共
 聢と御同心の御返答もなき処に、重て使札を以て、兼て頼存け
 る面々、一円に同心無之、信雄独身と罷成候、其身上の破滅
 此時に候間、御見届なされ候様にと偏に頼申る、家康公御
 返答に、今度秀吉と鉾楯に被及に依て、信長公の御恩に

 預かられし面々へ御頼候へ共、同心無之付、偏に我らを御頼段
 委細に承知仕る処なり、家康に於てハ、信長公の御芳情今以
 少も忘不申上ハ、其元の御事如在に不存候間、いかにも御頼に
 可応候、家康御見舞申に於てハ、少も御気遣有間敷候
 と被仰遣也、扨秀吉公十二万余の軍勢を催し、既に大坂を
 出陣有之由風聞候へ共、家康公少も驚かせ給ハず、清洲の
 城へ御出張なされ、信雄へ御対面なされ、其后羽黒、小幡、長
 久手三ヶ所の合戦に毎度家康公御手先にて御勝利なり
p34(086)
 就中長久手に於てハ、井伊万千代手より放し掛る鉄炮にて
 森武蔵守を討落し、池田勝人をハ永井右近討取り、其子
 紀伊守を安藤帯刀討とる、秀吉公甚いかり給ひ安からぬ事
 共哉、其儀に於てハ我長久手へ向ひ、家康と一軍して、森池田
 に手向んと宣ひ、楽田を打立給ひ、龍泉寺辺迄押出さるゝ処
 家康公兼て其御心得を以、手早く小幡の城へ御入数を引
 入させ玉ふに付、秀吉公手を失ひ、中途より引返し玉ふ、其後
 秀吉公大坂へ勢を打入、重て又勢州へ働出所々の城を被攻
 
 といへ共、頓て信雄と和睦の儀を致さるゝも、家康公信雄を
 捨させ給はぬ故とのみ、利運に致し難しとの考を以の儀成へし
 と人々申けるなり 
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(第21話 甲州流軍規の採用)
一甲斐国御手に入砌、甲州山形衆、一条殿、土屋殿、原隼人衆
 右四家より被召出候をハ、大形井伊兵部同心に被仰付下
 信玄家中にて上州小幡、上総赤備なりしが、近比見事也、兵
 部少備を赤備に仕れと仰付られ、軍法諸色、専甲州流なり
 爰に和田加助と申山形同心の侍も同時に被召出処に、信玄時
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 代上州箕輪の城攻の刻、峰法寺口にて働有之由、程過て
 後兵部少へ申立るに付、或時兵部少其旨を申上る処に、家康
 公聞召、広瀬美濃、三科肥前此両人へ其様子を御尋なさる
 る処に相違の義なるを以、即時に御扶持を被召放、武士道の御
 穿鑿如此被仰付に付、少にても偽りかざりたる儀を申事
 ならず、右の加助事外の手柄も有之者なる故に、鳥居彦右衛
 門手前に浪人分にて扶持方を加へ指置由、彦右衛門と挨拶
 悪きもの有之、密に御耳に達る処に彦右衛門めハ憎ひやつ哉

 と計仰有けると也
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(第22話 背中の腫物)
一天正十三年三月浜松の御城にて家康公御せなかに根太
 様なる御腫物出来けるを、佐原作十郎、前島長七郎、河野
 甚太郎と申三人児小姓衆へ、此根太の根を押出と被仰付、何
 も強く押申事を仕兼、とや角と致てもどかしく思召れ、男子の
 様にもなきと御叱なされ、蛤貝の口にて、はさみ引ぬけと被仰付
 若年の面々、何の考へもなく、仰の旨に任て、其如く致せは、白き
 芹の根の如くなる物、一二寸計抜出し、御目掛申せば、是にて能きと
p36(088)
 仰らる、去程に御腫物俄にはれ上り、御痛強くなり、御胸を
 痛ませられ、散々の御気色に被為成、御家中不残御城に
 相詰、手に汗をにぎり、御医者衆も様々療治を申上ると
 いへ共、次第に御腫物の様子悪くならせられ、後々は御腫物
 あたりへ手の軽くさわり候も悪きと御意に付、御薬を付上け
 可申様もなし、家康公の御心にも御たまり被成間敷と思召
 けるにや、家老中を被召寄、御遺言を被遊程の義なれば、近国
 にては、既に御他界と沙汰仕る也、然る所に本多作左衛門御

 前へ罷出、先年我等腫物を療治仕候、勝屋長間薬を御
 付なされ御尤と申上ると云へ共、一円御同心不被遊、そこで作左
 衛門腹を立、扨も扨も殿ハむざとしたる療治を召されて、犬死をな
 さる事、偏に御心ゆえとハ乍申、近比惜き御命にてまします、最早
 十か九ツ御本復ハ有ましきと医者共も申候、千も万も入不申
 此作左衛門ハ、御先へ可参年寄候へ共、御跡へさがりての御
 供ハ成間敷間、そろそろと御先へ参候、今世の御暇乞は、只今
 申上候とて泪を流し御前を罷立を、家康公御覧有て
p37
 御傍衆に、あれ止よと被仰、扨々其方は気が違候か、我等
 病気重き候ても、未果もやらず、縦ひ相果候とても、跡の
 事こそ猶以大事ナレバ、其方などハ取分息災にて、一日も
 ながらへ、若き者共に心を付候様に可致とは不存、何の役
 にも立ぬ先腹追腹を切ると云事や可有と御諚被遊、其時 *御叱り
 作左衛門申ハ、いやそれは殿の御申なされ候事にて候へ共、人
 々に依ての義にて候、我等なども今年の廿も三十も若く候ハヽ
 殿の様なる無分別なる人の御供致事はいらぬ物にて候へ共

 其儀当年八十に及び、若き時よりあの陣、此陣の御供を仕
 片目も切つぶされ、手の指なども切もがれ、足迄もちんばに成候へハ
 世の人のかたはと云かたはを身共一人してからげ候へハ、世の常、人
 前のなる事にてもなく候へ共、今日迄殿の御情計にて御家中
 にてハ人ケ間敷罷在候、只今にも殿の御死去ましますに於てハ
 他人迄もなく、御縁者の氏直殿を始、御持の国を狙ひ可
 被申候ハ必定也、御家中の諸人も年盛の殿におくれて力
 の落たるあげくに、果々敷合戦は得仕まじ、左候ハゝ御跡はつぶ
p38(090)
 れ申より外は無之候、其時迄も我等存命候ハヽ、あれこそ家
 のつかはれし本多作左衛門と云者よ、何を楽みに命を惜み存
 命候やと、人に後指をさゝれ候てハ生たる甲斐もなく候、此頃
 迄武田殿家中にて、浅利殿とて諸人の尊敬に逢たる侍
 も、主人の運かたむけば、今程御当家へ被参、本多平八が組下
 に成、松平一堂、匂坂一党の者共の下座をへつらい被居候
 を常々見申も事哀に候、是人の上とは存不申と、段々道
 理を口説立て泪を流す、其時家康公被仰けるハ、其方

 申所いかにも尤の上ハ療治の儀とも角も、其方に任候よと
 仰られけれハ、則長閑罷出御薬を付参らせ、御灸をハ
 双六の筒の大きさにして、作左衛門自身すべて進上仕り
 尤内薬をも被召上処に、早速御療治廻り、其夜半計に
 御腫物吹切、夥敷御膿血流れ出る、作左衛門声を
 あげてうれし泣になく、御腫物やがて御平癒也
23                         目次に戻る   
(第23話 本多作左衛門の人柄)
一右作左衛門義、秀吉公小田原へ進発の砌、浜松の御城を被明
 秀吉公を御招請なされ、如形の御馳走を被遊、其節作左
p39
 衛門儀ハ御用の儀に付他所へ罷出、秀吉公浜松へ御
 到着の日罷帰り、旅出立にて直に登城致す、御軍旅のトハ申なが
 ら、初て秀吉公御入の儀故、御馳走の粧ひ夥し、御城中も賑々
 敷様子なり、然所に作左衛門にがにがしく不機嫌に成顔
 色にて、秀吉公の旗本衆并上方諸大名も列座の中にて
 家康公に向ひ奉り、大音に殿、殿と呼かけて、扨も扨も殿ハ珍
 敷馬鹿をめされ候物哉、抑国持大名といわるゝ人の我居
 城の本丸迄を明け、一夜にても人にかすと云事が有作法にて

 候か、ケ様の御分別あらハ殿は女房をも人にかし給ふへしと、苦
 々しく罵り其侭宿所へ罷帰る、家康公ハ何をうつけを申
 ぞと仰らる、扨一座の衆中に被仰けるハ、唯今の奴がけんきやうを *屁理屈
 御聞候や、今日の儀にも御座候所に近頃不及是非仕合候、か
 の男めハ本多作左衛門と申、当家譜代の者にて、我等若輩
 の時より奉公を仕出陣毎に供を欠さず、形の如く武辺場数も
 ある奴にて候へ共、大きなる気随の我侭物にて、人ヲハ生たる虫共
 思はぬ様なる生れ付の奴にて候、各御聞候処さへ只今の通りに候へ
p40
 は我等と差向の時の儀ハ御推量あられ候へ、常はともかくも、当日
 の儀にも候処に不届千万の儀と存候と仰られけれハ、一座の衆
 中口々に此作左衛門儀ハ、上方にて内々承及たる義に候、カ
 様なる能人を御持なされ候ハ扨も御重宝なる御事に奉存と
 各御挨拶被申と也、此作左衛門如形手あらき無分別の
 様に有之処に、御領分諸事の義を申付る三奉行の中一人に
 被仰付、其砌御旗本中の取沙汰に、是計ハ御見立違に
 て御座有べし、作左衛門に限り奉行職等の一日も勤り申

 人柄にて無之と、諸人積りの外、何の非道なる義もなく、勿
 論依怙贔屓など云事を少も不致、明かに吟味を遂て、物毎
 の埒も早く明けるに依て、家康公の御眼力の程を各奉感
 と也、其節の取沙汰に仏稲垣、鬼作左、どちこちなしの天野三 *稲垣は高力もあり
 兵と申けると也、惣別此作左衛門ハ事のくどきを嫌ひ、手短
 く埒明く事を好む生付也、有時旅宿より女房か方へ状
 を指越とて、一筆申す火の用心、おせん泣かすな馬肥やせ
 かしく、と書けると也、おせんとは作左衛門独り娘の名とかや
p41(093)
24                        目次に戻る   
(第24話 秀吉と親交)
一織田信雄の御取持を以、家康公御次男三河守殿十一歳の御
 時御上洛、秀吉公の御養子に御成、秀康と名乗せ給ふ、依
 之秀吉公よりは如何にも御入魂の様子にて、節々御使者飛
 脚を以御音問有之といへ共、家康公一円御取あひ不被成、
 或時羽柴下総守罷下、秀吉公秀康公父子の衆へ御対面
 の御為、且又久々御上京も不被遊義に候へハ、御慰がてらに
 近き程に御上洛被遊可然と申上る、家康公聞召、秀吉へ
 参会して何の用事もなし、秀康か事ハ昔ハ我子、今ハ秀吉

 の子なれハ、親父秀吉にさへ用のなきに、増てや若年の秀康にハ
 猶更用もなし、其上信長御代に度々上京したる儀なれハ、都
 床ケ敷思ふ事なし、頃日の楽みにハ領分を廻り泊還ノ鷹野
 をする、是に増る慰みなしと思ふ、何に付ても我等上洛すへき様なし
 但秀吉此頃の威勢につけて我等を出仕させんなとゝ思はるゝ
 儀に於てハ、秀吉の奢也、万一左様の心底ならは其方有のまゝに
 被申よ、家康か心得になる事也と被仰、下総守承、中々左
 様の儀にてハ無御座候、私の了簡を以申上候迄の儀ニ御
p42
 座候と申上、頓て御暇給り罷上、秀吉公へかくと申ニより、其
 后秀吉公の御妹子を浜松へ御入輿あり、是又御母儀様をも
 人質必に、岡崎の御城へ入れ参せらるゝ、依之家康公御上洛
 遊され、秀吉公と御入魂の義被相調なり
25                         目次に戻る
(第25話 家臣の加増)
一天正三年家康公三十四の御歳、近藤某ニ御加増拝領被仰 
 付儀有之、右御加増の地ハ大賀弥四郎代官所の内にて渡る
 この弥四郎元来ハ御中間なりしかども、其身才覚有之、地方に
 達し、惣て物毎の積りを能致に付、御勝手方諸事の御為

 者なり、奥郡大分代官被仰付、其身平生御城ニ相詰、岡崎
 へも参りて、信康公の御用迄相勤、弥四郎なくてハと上下存る
 如く也、然ニ此弥四郎いつその程より身の上を忘れ侈の心付て
 御家能衆の振をしたがり、御旗本にて数度の御用に迄武
 辺ある御譜代衆をも己か不合口なれバ悪さまに取なし、殿中
 道路の出合にても見ぬ振を致す付、不届者とハ存れども
 家康公御前近く出頭仕る者の事なれは、我人口を閉て云者
 なし、然るに近藤御加増地を請取義ニ付、弥四郎方へ相談に
p43
 行処ニ、弥四郎近藤ニ向ひて、貴殿事を於御前ニ取分申
 つる、左様の儀にて今度御心付をも被仰付たる物也、弥御
 奉公に勢を出し給へ、我等も猶以如在致まじと云、近藤聞て
 大きに不興しけるか、其座より直に家老衆へ行て、頃日拝領
 仕候御加増をハ指上可申候、我等申請候儀成まじく候、此段
 被仰上候へと申す、家老中是ハ合点のゆかぬ事を申され候
 其子細を尋らる、近藤申ハ大賀弥四郎拙者に申聞候ハ
 今度の御加増をハ自分取成を以被下候間、弥御奉公

 励候へ、以来猶以如在に不存などと申候、如何に拙者小身ニ
 て勝手迷惑仕とても、御家中に其隠なき大悪人の弥四
 郎めなとに少にても取成し御加増致拝領てハ、武士のけが
 れニ成申候、一粒も申請候儀不罷成候、ケ様に申上る儀不
 届と被思召候て、切腹被仰付候ハ不及是非、皺腹をハ切
 候共弥四郎か取成にて御加増ハ弓矢八幡を掛、拝領仕
 間敷候と申離せしにより、家老中も下にて納かたく達御耳
 らる所ニ、家康公聞召近藤を召て御尋被遊ニ、日頃聞
p44
 ふれ、見ふれたる弥四郎か悪事を数々証拠を引て正しく言上
 仕る、家康公委細に御聞届被遊、是程の悪事を企む弥四郎義
 を家老中、目付衆より一円に申上られざる段、御不届千万に
 被思召、寄々御吟味を被遊処ニ、弥四郎に一味の山田八蔵と申
 者打返り訴人ニ出、弥四郎儀悪党を語らひ、足助の城を責
 武田勝頼を岡崎の城へ引入んと企候と言上仕るニ付、弥四郎
 父子夫婦、以上八人搦捕張付ニ被仰付、其外同類悉く
 御成敗に合ふ、弥四郎儀ハ浜松・岡崎両御城下の町を引渡

 シ、其后岡崎の四辻にて首より下を土ニ埋ミ、竹のこぎりを以て
 首を引セ扨張付ニなさるゝ也、右の近藤儀ハ広忠公御代
 より毎度走り廻りの御奉公仕、武道の心掛深き仁也、一と
 せ岡崎の御城近辺御鷹野に御出被成ける時、田を植
 る下郎共の中に近藤交りて、自身早苗を取て居けるか
 御出を見て田の中へ面を差入泥を付て、見知られ参らせぬ
 様ニ致すと云へ共、最前に御覧し被付たる事なれハ、御供衆へ
 あれハ近藤にてはなきか、近藤なれハ召て参れと被仰付故、走
p45
 行て近藤召と呼かくれハ、近藤ハ不及是非畏候と申て泥水に
 て面を洗、田のあぜに棒を立、箕笠を掛置、下に刀脇差を
 くゝ付置たりしを取出し指て道へ上り、御前に畏る、身に
 着したる渋帷子の破れぬるに、縄たすきの躰、目も当られず様
 子なるを、傍輩中見て、扨も笑止なる仕合哉と各汗をかく
 所に、上の思召ハ一行左様に無之、主か小身なれハ、其方なとを初
 メ、家中の面々に知行加増をとらする事もならず、あたり前の
 知行計ニテハ人馬武道具の嗜もならず、事たらぬ故ケ様に

 手作をして自身辛苦を致す事、不便の次第也、今の内ハ
 随分と賎しき業をもして取つゝき奉公をせよ、我も人も前
 に苦労しをして後に楽をする様に心得たるか能そ、早々帰てか
 せげと仰られ御泪くませ給へハ、近藤儀ハ不及申、御供の諸人
 是を承り各泪を流忝奉存けると也
26                        目次に戻る
(第26話 信玄の死)
一天正元年四月十二日武田信玄五十三歳にて死去ある、浜松
 の御城下にて風聞あり、其節家康公仰けるハ、信玄死
 去の段誠ナレハ近頃をしき事也、信玄の如くに弓矢取廻し
p46
 たる大将も古今珍儀也、家康若年の時より信玄の如く弓矢を
 取習ふへしと思て、万に心付たる事多し、然れハ信玄ハ我等か為
 に弓矢の師匠なり、此節手切れの砌なれハ、弔の使をこそやらず
 とも、隣国の名将の病死を悦事にてハなし、家康か心底如此
 なれハ、家中の面々迄も其意得可有事なり、縦ひ敵にもせよ
 名高き武将の死去と聞て、痛み悔とあるは、たけき武士の
 心なり、其上隣国に剛敵のあるは油断の心なく武道の励嗜み
 て、縦ひ国の仕置をすれ共、敵国への聞へを憚り其為のさ

 けすみをはつる故自然と政道にもたかはず、家法も正し
 くなる道理あれハ畢竟味方長久に家をたもつもとひ也、扨
 又隣国に左様の剛敵無之時ハ味方の弓矢に嗜みの心う
 すく、上下共に手前をたかぶり、他を恥恐るゝ事なき故、追
 日励みを忘、年を追て鉾先弱くなる物なれハ、信玄の様なる
 敵将の死去せらるゝハ少も悦事に非ずと仰らるゝに付、是を
 御家中末々の者迄伝承り、上を学ぶ下とやらんにて信
 玄の死去を口真似の様に悔なり、但在々所々の百姓町
p47
 人に至てハ、信玄在世の時やゝもすれは参遠両州の間へ
 出馬せらるゝに付て、山入をするを迷惑して、信玄をう
 とみ呆けるに依て死去の義を聞て大に悦けるとなり
27
(第27話 父子の隙間風)
一天正五年八月、勝頼二万計の勢にて横須賀表へ働出、浜
 辺へかけて陣を取、家康公御父子共に御出馬にて、横須
 賀より四町程北なる丸山に御旗を立させらる、御家中の
 面々ハ浜辺へ押出し備たり、され共敵味方の間に入江有之故
 互に鉄炮を放す計にて、さまでのせり合も無之、然る処に信康

 公、鈴木長兵衛唯一人召連られ、勝頼の旗の立候処より
 二町計近くへ御乗よせ、物見なされ、家康公へ是非合戦被
 遊可然と被仰上、家康公仰けるハ、敵ハ大軍、味方小勢
 なるに功所もなく、打あらはれてハ勝利なき者也、此後とても左
 様に心得給へ、乍去若き人にハ似合たる心はせに候と仰られ、御
 合戦不被遊、御帰陣の後家老中へ仰けるハ、信康我等
 へ弓矢の差図過分なり、如何様にも独分別にてハ有ま
 しと被仰けると也
p48
28                       目次に戻る
(第28話 嫡子信康の自害)
一天正七己卯家康公と信康公との御中悪く被為成、岡崎の御城
 を出し参らせ
、二の股の城へ被遣、服部半蔵、天野山城両人に仰
 付られ、御生害に究る、信康公御最後に至り、両人に仰けるハ
 手前誤りの段ハ数々の儀なれハ、今更申分の可有様もな
 し、然ハ如斯被仰付事御尤也、併逆心とある義ハ毛頭
 ほども信康か身に覚なき事なれハ、力不及と仰られ、御なし
 みの面々へ御伝言なと被仰置、菩提の義ハ大樹寺の和尚へ
 頼入候間、能々申せと被仰、扨御切腹被成時、半蔵介錯頼む

 と被仰と云へ共、半蔵落涙に泥み、惣身振ひ候て刀を抜
 き可申方角もなく見ゆるに付、時刻のび候程御苦痛な
 さるゝも如何なれハ、天野山城御介錯を申上る、信康公御
 歳二十一、八月十五日御生害なり、右信康公御最期の様子、目付
 衆言上致す故、委細に達御耳、家康公仰けるハ、半蔵め、如
 形の武辺者なれ共、信康か最期に至りてハ腰がぬけける
 よな、それハ道理道理と仰られけるとなり
29                         目次に戻る  
(第29話 小宮山兄弟の事)
一家康公、小田原御陣立の前、御旗本の役人被仰付砌、小
p49
 宮山又七郎を以、長柄鎗奉行ニ被成、其時の御意に
 又七郎儀未年も若き者なれ共、此役儀に申付る事、別の子細
 に非ず、兄の内膳儀武田勝頼へ側近く奉公の処に傍輩の取
 成を以勘当ニ合、蟄居の身ながら勝頼最期の場所へ尋行
 勘当を赦れ悦て最期の供を仕たる志、誠に武士の手本也、其
 内膳に小ナケレハ跡とふ者なきを不便ニ思ひ、弟なれハ又七を呼出
 して一家を立たるぞ、今度ケ様の役儀云付る事も兄の内膳ニ対
 しての儀也、此旨能心得て少も其身の誉を思はず、兄の内膳が影と

 思へと被仰けるとなり
30                        目次に戻る
(第30話 長久手の戦いを語る)
一家康公浜松の御城にて或夜家老中へ御尋ニ、先年長
 久手一戦の時、我等小勢を以秀次大軍の跡を追て一戦を
 仕掛、水野、岡部、榊原、大須賀、本多等か働を以、三万に及ぶ
 敵軍を切崩し、殊更秀吉秘蔵の侍大将、森武蔵、池田勝
 入父子を討捕て、其首共を見て居つる処に、高木主水、内藤
 四郎左衛門来て気を付しに依て、早々小幡の城へ勢を入る
 処に、案の如く秀吉、味方敗軍を聞て大にいかり、卒刻楽
p50
 田を打立て龍泉寺迄来られ候へ共、我等小幡へ引入たると
 聞て、無是非其夜ハ田中に陣を取、夜明ハ小幡の城を攻ん
 との用意を致さるゝと也、其夜其方達相談にて、秀吉の陣へ
 物見を掛様子を伺ひ見るに、二万に余軍勢に聢としたる作法
 もなく野にも山にもわれがちに陣取、夜守夜陣も心掛無之と申
 に付て、夜軍に仕掛候ハ何の手間も不入、大きに勝利を得へし
 とすゝめ逢しかども、家康かつて同心せず、結句其夜の内に密  *勧合う
 かに小幡の城を明退、小牧へ帰りしを、てぬるき様に各を先と

 して家中の面々取沙汰せし聞く、夫に付てハ其夜田中の陣へ
 夜中に仕掛、秀吉を必討止むべきある積りが考へ有ての進め
 か又ハ其覚へなけれ共、軍ニは可勝との事なりつる哉と仰らる、其
 御陣に御供せし家老中計なれハ、互に目を見合、早速御
 請成かたく、漸有て誰々も秀吉公を必ず討留奉るへき
 との考とては御座なかりしか共、御勝利に於てハ疑ひなしと
 の積り迄を以の義に御座候と申上る、家康公仰けるハ、定
 て左様に可有と我等も推量せし也、例ヘバ田中に陣取し人数を
p51
 一騎も不残討取ても、秀吉と云人を討もらし赤はだかニ 
 ても上方へのぼせたらんには、家康か身の為に不宜、去程に長久
 手昼合戦に森、池田父子三人を討取しをさへ、独にてもよかりし
 物をと思つるぞと仰られけるとなり
31                       目次に戻る
(第31話 小僧三ヶ条の咄)
一家康公或時御家老中と御咄の刻、各小僧三ケ条と云事
 を心得られ候哉と被仰、何も終に承りたる儀も無御座候と
 御請也、家康公、さあらは聞候へとて御咄に、ある山寺の出
 家、里より一人の弟子を取迎へ、小僧にして召仕ふ、此小僧ある

 時逃下り親のもとへ帰りて申けるハ、我等事ケ様にかしら
 を丸め候からは、何とぞ学文をも勤め、出家遂申様にと存
 今迄ハ随分と堪忍致し見候へ共、師匠坊余りに無理なる
 事計を申、致折檻候に付、何共つゝき難て帰来ると云、親共
 聞て、夫程に致迷惑とあるハ如何様の事共ぞやと候へハ、小僧
 答て云、常々とても是こそ尤と存る義ハ無之候、就中さしあ
 たり迷惑なる事三ヶ条有之候、第一にハ師の坊髪をそり
 習とてそらせ候へ共、我等そり習の事故時々ハ剃刀の先の入
p104
 る事も有之て血なと出候ヘハ、大きに折檻を致され候、第二にハ味噌を
 摺様も摺様か悪とては朝夕ちやうちゃくを致され候
 第三にハ用をたしに雪隠へ参り候へハ、又雪隠に行くか曲事とて
 折檻に逢申候、抑ケ様の次第にて一生も勤まり申物にて候や
 と云を親共聞て、左様の事共にてハ其方居たまり難く存事
 尤也、如何に弟子に取立タレハとて夫ハ師の坊の不届なりと
 立腹し、則時に寺へ行、住持に逢て山々不足申立、小僧
 を取返すへしと云、師の坊聞て云様、惣て沙門の勤は六ケ敷

 物なる故、其身を初に二人の親、親類迄も何とぞ出家を遂させ
 度と存てさへ遂ぐハ稀成に、増てや其方なとも小僧か申
 を誠と思ひ、とやかくといわるゝ心からハ迚も出家ハ遂まし
 けれハ望の如く小僧ヲハ其元へ可返、乍去諸旦那への聞
 へもアレハ右三ヶ条の云分ヲハ致なり、先味噌の摺様の悪と
 ハ別儀に非ず、寺も在家も味噌をはすりこぎにてこそ摺物な
 るを小僧めハ塗圴子のせなかにて摺しにつき、朝夕拙僧が
 世話にして申付候共一円聞入ず、頃日迄圴子二三本もすり
p105
 破り候とて膳棚の角より取出し是を見する、次に雪隠
 へ行て用事をたすをしかり候と有ハ、是も子細有事也
 各も存の通、例年代官衆当村へ参られ候時ハ定りて
 当寺を被致宿候に付、雪隠所遠くて不自由に可有
 とて、地下中の相談にて馳走の為計に客殿の近所に新しく
 雪隠を作り候へ共、是ハ代官衆もてなしの為計致置、愚僧
 を初、誰とても此雪隠へ行者もなきに、小僧め一人請取にし
 参るに付、度々申付れ共聞入ず候、扨又髪をそり候事ハ出

 家の勤も同前に候へハ、如何にもしてそり習候へとて、我等頭
 を筆紙にあてがひ手習にそらせ候へハ頓てそり習、此比
 ハ己か頭を自そりする程に成候に付、増てや人の頭をハ手
 際に能そり候故、此程も我等髪をそらせ候へハ態如此致
 候とて頭巾をはづしたるを見れハ何十所と云事もなく切は
 つり、頭うちに血留を付、疵薬をぬり付たり、小僧か親是
 見て横手を打、大きに驚き迷惑して段々の侘言を尽し
 けると也、是を小僧三ヶ条と云て、軽き事の様なれ共国持
p106
 名を初め、其下家老用人頭奉行、目付、横目の役なと
 勤る面々ハ此心づかひ肝要也、一方を聞て沙汰に及時ハ格
 別の相違ありたがる物なるぞと仰られけるとなり

岩淵夜話第二巻終