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      岩淵夜話第一巻 現代文      目次に戻る
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    第一話 徳川家康誕生と織田家に幽閉
太政大臣従一位源家康公は天文十一壬寅(1543)年、三河国
岡崎城で誕生し、童名を竹千代君と云った。実母は同国刈谷
城主水野右衛門太夫忠政の娘で同下野守の妹である。
しかし竹千代君が二歳の時に母は離縁されて刈谷へ戻り、
父広忠卿は田原城主戸田弾正の婿となった。

其頃尾張国織田弾正忠は西三河へ進出して、岡崎城を攻めよう
としていたので、広忠卿は駿河国の今川義元へ加勢を頼んだ。
この為、竹千代君は六歳の時駿府へ人質に送られる事になったが、
これを織田家へ通じる者達が塩見坂付近で竹千代君を奪取り
織田弾正方へ献上した。 弾正は何を考えたか竹千代君を勢田の
大宮司方ヘ預けた。一方実母は久松佐渡守と云う織田家に仕える
侍に再嫁した。 竹千代君が捕らえられて勢田の宮に居るのを
聞き、弾正忠の許可を得て菓子、衣類等を折々送った。 しかし
面会は許されなかった。 河野藤蔵と云う者が小鳥など進上し、
常に話し相手として慰めたので、竹千代君は幼少の心にも満足に
思い、後にこれを忘れず籐蔵を召出して親しくした。
註1 家康が生れた頃の三河国は尾張の織田家と駿府の今川家の
   二強国に挟まれ、城毎に織田側か今川方に分かれていた。
   刈谷の水野忠政は岡崎の松平広忠と共に今川方だったが、
子の下野守の代になると織田方となったため、家康の母は
離縁された(落穂集)
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     第二話 今川家に寄寓 
天文十八(1550)三月六日、竹千代君八歳の時、父広忠卿は死去
した。その頃三河国安祥の城を織田弾正は攻取り、嫡子三郎五郎
(大隅守信広)に居住させた。 これを今川義元は駿遠参三ヶ国の
軍勢で烈しく攻めたので、城を守り切れず落城の瀬戸際となった。
そこで弾正方より交渉役が来て、竹千代君と三郎五郎を交換したい
と申入れたところ、義元は喜んで交渉に応じ竹千代君を受取った。
六歳の時不慮に敵方の手に渡って以来、足掛け四年目九歳の時迄
他国に住んだが何の支障もなく成長し、竹千代君は再び岡崎に戻った。
譜代の家来達は云うまでのなく、領内の村々の町人や百姓迄も
餅や酒を用意してこれを祝った。

今川義元は、竹千代は未だ幼少であるから諸事全般を此方より
指図すると云う。岡崎の家老達は余り乗り気では無かったが、
今度竹千代君が尾張より帰国できた事は偏に義元の力であり、
どの様にでもと頼む以外なかった。 これに依り竹千代君は
駿府へ移るが石川伯耆、天野三郎兵衛、其外譜代の人々少々が
詰め、其外の家来達は岡崎に残ったので、駿府での暮しは簡素な
ものだった。 岡崎の城の本丸には駿河より城代が常駐し、岡崎
家中では鳥居伊賀守、松平次郎右衛門、阿部大蔵、石川右近等の
面々が二及び三の丸に詰めて全ての執務を監督したが、義元の
指示を受けなければ諸事の決済は出来なかった。 これは岡崎
譜代の面々にとって非常に気の詰まる事だった。
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    第三話 今川家で元服。岡崎に戻る
竹千代君は十三歳の時具足を初めて着け、十六歳の時駿府城中
で元服し、名前を蔵人元康公と改め今川家の瀬名刑部と云う人の
婿となった。 これらは全て義元の世話で行われ、岡崎の譜代衆の
喜びはたいへんだった。 

義元の指示でその年より岡崎の城へ移り、家中や領分諸事の執務を
行う様にとの事である。 元康公は、幼少の時より只今に至る迄
たいへんな御世話になり、更に岡崎の城へ帰参せよと有るのは一方
ならぬ御恩に感謝します。 御指図通り岡崎へは移りますが、
私は未だ若年ですから二の丸に住みます。本丸には山田新左衛門を
其の侭置いて戴き、諸事の意見を請ける様にしたいので、新左衛門
にもその事をご指示願いたいと応じた。 義元はそれを聞いて大いに
感心し朝比奈以下の家老達に云った事は、元康は若輩と言えない様な
分別を弁えた生れ付きの人だ、壮年になった暁には一体どんな人物に
なるだろう。 氏真のよい味方になると思い私も満足である、亡父
広忠が生きていたならさぞ喜んだろうにと泪を流したという。
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    第四話 義元の討死、大高城で孤立
永禄三年(1560)五月、今川義元は大軍を率いて尾張へ進出し、
織田信長と戦った。 今川軍は勝ちに乗り大高と星崎二ヶ所の城を
攻め取り、元康公は義元の依頼で大高の城に駐在していた。
ところが桶狭間と言う場所で義元の作戦違いが生じて五月十九日、
不慮に討死し、大将を失った今川軍は勢力を失い全敗となった。
このため今川家が持っていた城の大方は織田方に明渡す事になり、
中でも大高の城は敵地の中にあり、近辺に味方の城もなかった。

家中上下の意見でも、義元が既に討死し、今川家譜代の侍大将達
も皆居城を明けて退いたので、元康公一人だけが此城に駐在する
事はたいへん不利です。今直ぐにでも織田軍が押寄せるのは明らかで
早々撤退すべきです。織田家の大軍を引請けて一戦を試みる事は
無駄な事ですと家老達も進言した。

元康公は、義元の討死も、味方が各城から撤退している事は事実
だろう、しかし義元が存生の時の約定で元康が当城を預り守ると
云う事は皆が知っている事である。従って早く撤退せよとの指示が
あって然るべきなのに今だに指示はない。今川家の家老達も
かなりうろたえている事が察せられる。しかしそれは彼等の問題で
ある。 何れにせよ明確な味方の情報も無いまま、世間の風説で
当城を捨てて撤退する事は元康の本意ではないと云う。
家老達の再三の説得も効果がなく、山田新左衛門方へ使を送り
相談されたいと云う事になった。元康公も了解し浅井六之助、
小栗大六両人を岡崎へ遣わした。

此時三河国刈谷の城主水野下野守は元康公母方の叔父であるが、
此人は織田側である。通常は元康公と交流は無かったが、近日中
織田方が大高城を攻めるという情報を得た。 織田家側では、
元康公は未だ若輩だが一旦の義理を守り、味方の敗軍にも構わず
右も左も敵の中に只一人で踏留り、大高の城に居る事は流石に広忠
の子息だけの事はある、こんな立派な武士を攻め殺すのも惜しいと
云っていた。 下野守は流石に親類のよしみもあり、心配して急いで
使者を送り早々撤退する様に伝えた。 しかし元康公は少しも
驚かず、夫までは二の丸に居住していたが、下野守方からの使いが
来た後は本丸に移り、敵が襲来すれば籠城との決意だった。 

そこへ岡崎に派遣した両人が帰り、山田新左衛門方からも一時も早く
撤収するのが良いと返答があったので、それではと大高の城を明けた。
撤退の道筋所々で一揆が起り通行を妨げたが、本多百助が無類の射芸
の名人だったので、多くの一揆を射払って無事に岡崎へ帰城した。
今川家の面々は是を聞いて恥ずかしい思いをしたと後日小倉蔵助が
語った。信長も委細を下野守に尋ね、元康公は義理がたく頼もしい人
と思った由。元康公十九歳の時の事である。
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    第五話 今川氏真に失望
大高城から岡崎に帰陣すると、元康公は今川氏真へ使者を送り、
義元の弔合戦をお考えなら一時も早い方が良いでしょう、その時は
元康も信長へ向かい一矢報い、義元の御恩に報いたいと度々伝えたが、
氏真は全くその様子もなく、仏事や法事による弔いを行うだけであった。
忌中もやがて過ぎて元康公は、親の弔合戦など直ぐに行い時間を経過
させない様にしてこそ意味がある。 私の今川家に対する気持は最早
是までと云った。
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     第六話 今川家から独立
ある時上野の城に在城する酒井将監を呼び、元康公が密かに伝えた
事は、今日の今川家の体制を考えると、氏真は親父義元の半分もない
無能力な人である、併し朝比奈以下の家老や其外義元時代の十八人衆
と云う歴々の者達も居る。氏真が無能でも家中が一致団結して相談し
諸事を取り仕切る様にすれば、伝統ある家であるからなんとか廻る
はずである。 しかし家老達の考えもばらばらで相談に決するでもなく
互いに様子を見て、主君や家の事を傍観している。これは将に今川家
断絶の時節が来たと見るべきである。 

当家は広忠公の代から私に至る迄、義元には非常に御世話になった
経緯もあり、義元討死の時以来弔合戦は延期してはいけないと度々
申入れた。 しかし氏真を始め家老達は同意する様子もなく、結果と
して私を悪者にしているのは不届な事である。
是に付いて我々の人質源三郎を捨てる事を思い立ったので、其方の
人質も最後は捨てる覚悟をして貰いたいと云う事だった。

将監は答えて、主人の意向であれば親の首さへも切ると云いますから
まして倅の事はかれこれ云いませんが、義元公以来の同盟の誓に
背かれることは、大切な御家に疵が付きますと云う。
元康公は、疵の付くか付かぬかは私の気持次第であるから、先ずは
其方が人質を捨てる覚悟を決められよと云う。将監は、畏まりましたと
請けたが明らかに不本意な顔色で居城へ帰った。

元康公は急に指示を出し、自身も早速用意して馬に乗った。 家中の
人々は何事で何処へ行くかも分らなかったが、我も我もと駆けつけた。
中でも鳥居彦右衛門、大久保七郎衛門、石川内記、同伯耆、平岩七之助
など真先に進んでお供した。 将監も馬を早めて帰ったが、元康公の
一隊が進んで来るのが早かったので、とても敵わぬと思い居城へ帰らず
其の侭山道を通り直接駿河へと落ちて云った。
そこで将監の去った上野城は将監甥の小五郎に下され、酒井左衛門と
名を改めて家老となり将監の部下だった同名与四郎、荒川金右衛門、
柴山小兵衛、高木九助なども今度召出されて奉公する事になった。
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   第七話 織田信長と和睦   
水野下野守信元の仲介で織田信長と家康公は和睦を結ぶ事になり、
尾張国小牧で両者が対面し下野守が挨拶をした。 全ての約束が
決まり、互いに起請文を交わして信元も押印して焼いて灰にした。
その神水を両者が飲んだ残りを下野守も飲み儀式は終わった。
是より前に元康公は名前を改めて居たが、外部への書に家康と署名
したのは此起請文以後と云う。
註1 中世・近世に、一揆などで誓約を結ぼうとする者が、起請文
などを記し、各自署名の上、それを灰にして、神前に供えた
水にまぜ一同回し飲みして団結を誓い合った儀式。― 一味神水
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    第八話 金の馬印
永禄六年(1563)正月十九日家康公は岡崎の城を出発し、山中に陣を
取、同廿一日の朝牛窪の城を攻めた。 本多平八郎はこの時十六歳
だったが、牧野の中で武辺の侍である牧野宗次郎と鎗を合せた。
牧野の家来稲垣平右衛門と云う者が大局を見て牧野に異見して、
酒井左衛門尉、石川日向守を頼り降参した。牧野右馬丞は家康公の旗
下になり、幸に右馬丞は妻女が無かったので酒井左衛門尉の婿になり、
譜代衆に劣らず奉公した。 此陣迄は家康公の馬印は白い四角の中に
黒で厭離穢土欣求浄土と云う文を書いたものを持たせていたが、牧野の
金の扇子の馬印が大変見事と云う事で所望して馬印とした。 併し
牧野自身も其侭使用して良いと云う事で後の小田原陣(1590)迄牧野
の馬印も金の扇だった。
註1 牛窪城、後牛久保城 愛知県豊橋付近。 牧野家の居城でこの時
   は今川家に属していた。 この時の戦いが家康の今川家からの
   自立の最初と云われている
註2 本多平八郎 徳川四天王の一人、剛勇で有名 本多中務忠勝
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    第九話 一宮城の家臣救出
永禄六年三月廿日、家康公は設楽郡一宮の城を攻取り、本多百助を
城番として配置して帰陣した。 しかし其年の五月今川氏真が二万の
軍勢を率いて一宮城へ進軍した。 但し二万の内八千を分けて武田信虎
を大将として家康公が同城救援に駆けつけた時の押さえとして待機させ、
残る一万二千の軍勢で一宮城を取巻いた。
家康公はその報告を聞くと二千余りの軍勢で一宮の救援に向かう事
とした。家中の武勇の者達も集り相談したが、いくら氏真の指揮が
脆弱と云っても、今川家中には義元以来の武功に誉れある者が多く、
其上二万の軍勢は味方の十倍である。 更に部隊を二つに分けて
一つを武田信虎に預けて別軍として配備し、徳川の救援を妨げようと
しているので、十分検討しても救援に赴くのは如何かと申上げた。

家康公はそれに同意せずに言った事は、皆が云う事に理はあるが、
武士は大身、小身共に信と義の二つを欠いてはならない。 仮令
敵城を攻め取り即時に捨てる場合は別として、既に城を抱えて
味方の武士に守備を命じた以上、敵が攻寄せれば何時でも救援に行く
覚悟があって当然である。 その時敵の人数が多く体制も良いからと
云って必要な救援を手控え、守備の侍達を攻め殺させるのを見物する
訳には行かぬぞ。 一般に主人に大切な事は部下の困難を救う事で
古今武家の作法のひとつである。 もし今度の救援が失敗して討死を
遂げたとしても、それは家康の運が尽きたと云う事である。その
覚悟を決めた以上、敵の布陣の善し悪し、人数の多少も構わぬと。
この勇断の様子を見て御前で聞いた人々は云う迄も無く、伝え聞いた
末端の者迄、何と天晴れな頼もしい大将と感心して涙を流さぬ者は
居なかった。

この結果二千余り味方ではあったが、今川家の大軍を物の数とも
思わず、我こそはと先を争って進み、信虎の八千の部隊等には目
呉れず、左に見て即時に一宮城の城際に殺到した。本多百介は城戸を
開いて部隊を出して家康公を迎え、無事に城へ入った。
今川家の諸軍勢は是を見て無念、口惜しがったが後の祭りである。
この上は応援の信虎も一所に呼集め、厳しく城を攻めて、家康を始め
一人も討ち漏さぬ様にしよう、却って味方にとっては有利で怪我の
功名と万全の備えでひしめいていた。 しかし家康公は人馬の食事程
の間休息すると本多を連れて早速帰陣した。 今川家の予定とは大に
狂い彼是攻める準備も調わぬ内に、味方の軍勢は早くも城を離れて、
一団となって撤収した。

本多百介は、今日は私の腕の骨が続く限り働きます、それで足りず
とも旗本衆には苦労させません、と云い手勢四百余名程で信虎八千の
配備を突き割り、何度も馬から下りて敵と戦った。 その間に酒井
左衛門尉、石川伯耆、牧野右馬丞が事前の計画通り、頃合を見て
段々と部隊を進める。 今川軍は是を見て追う事が出来ず、味方は
完全に撤収した。 

牧野右馬丞も牛窪へ帰り、一族の者を呼び集めて酒肴の席を設けて、
家康公の事は以前も聞いてはいたが、今度の一宮城救援の手際は
古今無類の大将のものである。 この様な名将の下で奉公すれば
私達も立身を遂げる事ができ、これこそ一家繁昌の基本と喜んだ。
その後家康公が上洛する時、山岡道阿弥が一宮の戦いの事を語り、
武士を心掛ける者は其時から今日に至る迄この咄をしております。
たいへん御名誉の事ですと言えば、家康公は、夫は私の若い頃の事
であり、その時は全くの若気だったと笑った。
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      第十話 矢矧橋の事
ある時岡崎の城下の矢矧橋が洪水で流された。 早速掛け直す様にと
家康公が指示したところ、家老達の意見は、兼々私共は考えていた事
ですが、この機会に申上げます。 此橋は世間でも稀な大橋で掛け直す
には大変な費用が掛ります。 又今は戦国でもありますから、城下に
この様な大河が有るのは要害にもなります。 そこで今度流れた事
を幸に今後は船による渡しになさるのが良いと皆が申上げた。

家康公はそれを聞き、そもそも此橋は代々の記録にもあり、その外
舞にも平家にも語り伝えて、日本国中に知らぬ者はない。必ず異国
でも知られているだろう。 それを費用が掛るからと、今更橋を
止めて船渡しにして、通行する人々に苦労を掛ける事は国持大名と
して本意ではない。仮令どんなに費用が掛っても良いから早々掛けよ
又要害に役立つとは為政者により、時にもよるべきものである。 
今、家康の気持ちには全くその様な事はない。 この事は皆も同じ筈で
ある。 従って要害を頼む必要はない。 一刻も早く掛け直し、人々の
通行に不便が無い様にせよとの事だった。
註1 源行家は三河の国まで退き、岡崎の西を流れ知多湾にそそぐ
矢矧川の橋の板をはずし、防戦用の楯を並べ、待ち受けた。
(平家物語、洲俣川の戦い、1181年平重衡と戦う)
註2 この挿話は友山の他の書物になく、岩淵夜話だけである。
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      第十一話 浅井長政の事
織田信長公より使者があり、近江国小谷の城主、浅井備前守は私の近い
親戚ではあるが、将来必ず私の敵になると確信するので、今の内に滅ぼそう
と考えているのでその積りで居て戴きたい。 その時に至ったら出馬を
お願いするかも知れないとの事である。 家康公は取合えずの返答をした
後、酒井衛門尉、本多百介の両人を使いとして派遣し、浅井を滅ぼされると
聞きましたが、その後考えて見ましたが今のところ浅井の不義も無いよう
ですし今少し様子を見られては如何でしょうか、その内に何かありましょう。
不届きの様子が人々の目に留まれば当然ながら、小谷へ進発とさえ承れば
加勢を頼まれずとも家康はお見舞いに参上しますとの口上を伝えた。
信長公の返答は、浅井の件は少し不義の様子が顕れているが、云われる
様に未だ世間では目立たぬものです、ご意見感謝しますとの事だった
註1 浅井長政の正室は信長の妹、市。秀吉側室の淀や、徳川秀忠正室
   江の母
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     第十二話 姉川の戦い
元亀元年庚午(1570)六月廿七日、近江国姉川合戦の前日、家康公は
信長との談話で、戦は二の手で勝利するものですと語った。その時側に
いた池田紀伊守がこれを聞き、決して二の手迄使わずに済ませましょう
と大口を叩いた。 家康公は、出来ればそう有ってほしいものですがと、
その場は軽くやり過ごした。
 
其後家康公は信長へ、明日の合戦では浅井か朝倉のどちらかを私に
渡して下さい。切崩して御覧に入れましょうと云った。 信長もそれを
聞いて、浅井は私の本来の敵であるので朝倉を望まれるのが良いでしょう。
朝倉に当てる部隊を用意しているので、その部隊を今紹介しますので
貴殿に指揮を頼み、彼等にもそれに随う様に厳しく命じますと云う。
家康公は、私は元々小身ですから常に少人数の軍勢を指揮しており
ますので大勢は邪魔になります。 其上気心も知らぬ人々と相談するのも
難しい事です。 朝倉の軍勢がどんなに多くとも結構ですから、私自身の
部隊だけで戦いますと云う。 信長公は、尤のご意見ですが、それでは
貴殿は潔よく聞こえますが、私の世間に対する立場がありません。
二つか三つの部隊を使わずとも、一つ位は使って下さいと云う。
家康公が、では誰か一人戴きますと云う事になり、信長が誰を出すか
聞くと家康公は稲葉伊予守を指名した。信長は、稲葉は中でも小身者で
人数も少ないが、ご希望ならと云う事で、稲葉伊予守が参加して家康公の
旗本より少し後方に配置された。

其翌日廿八日、浅井備前守の軍勢三千の先頭に立つのは佐和山城の
磯野丹波守秀昌と云う大剛の武者であり、前後左右を指揮して突いて
掛るので信長公の先手坂井右近が先ず崩れて、しかも味方の部隊に崩れ
掛る。 信長軍諸部隊が慌てる所を浅井の旗本が加勢して一度にどっと
攻め掛る。 信長公側は三万五千の軍勢だが、三千の敵に攻め込まれ
十町余り引下る。 前述池田紀伊守も先手の一人だったが崩れに崩れ、
家康公の先手である酒井左衛門尉の傍へ馬をよせ、何か言おうとするが
左衛門尉は、昨日の大口の程もない人だ、手足まといになると自身が
長刀で打ち払った。其場の近くで紀伊守が落馬したので左衛門尉に
叩き落されたとその頃噂となった。

一方朝倉軍一万五千の旗本の先へ家康公の軍勢は五千で、しかも
川を越えて切り掛り大いに勝利した。 一の手は高天神の小笠原
与八郎、二の手は酒井左衛門尉忠次、本多平八郎忠勝である。 
朝倉勢の中で有力な者を多数討取った。越前一国に名を馳せた
真柄十郎左衛門と云う大剛も此時討たれた。 向坂兄弟三人で
撃殺したという。
稲葉伊予守通長も旗本組の様に待機していたが、先手三組の部隊で
味方軍は勝利したので、家康公の命令で浅井軍に切り掛った。
そこで浅井の小谷勢が敗れたので、信長軍も踏み留まり部隊を
立て直した。
結局、信長の加勢は受けずとも朝倉軍を破った事になり、これは
家康公の手柄は大変なものだと九州や奥州の果迄評判となった。
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      第十三話 金ヶ崎の撤退
元亀元(1570)二月、信長公は越前へ進軍して手筒山と金ケ崎の
両城を攻め取った。 その時近江の浅井備前守が小谷より出軍して
大いに兵威を奮っていると報告があった。信長公は驚いて急に兵を
引き、朝倉勢の追討ちを気にして家康公に頼んだ。 
家康公は、分りました、朝倉軍が追って来たらここで押さえましょう、
安心して撤収して下さいと云った。 しかし信長の大軍は如何した
事か総崩れの敗軍となったので一揆が所々に起り、道を掘崩し橋を
はね様々の妨害を行うので信長は大変苦労して漸く朽木谷へ撤収した。 
家康公の部隊は小勢であったが少しも乱れず整然とした撤収だったので、
道筋の一揆勢も山谷を隔てて見物するだけで手を出す事もなく。容易に
帰陣した。
註1 この時、信長は秀吉を殿として家康にその援護を頼んだ。(落穂集)
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       第十四話 抜駆けは厳禁
天正六年(1578)三月、武田勝頼が遠州馬伏塚へ進出してきたので、
家康公も出馬した。その時大須賀五郎左衛門の甥、大須賀弥吉は
旗本に属していたが先手を追い越して勝頼の旗先へ乗り掛けて
手柄を立てた。 この事を知ると家康公は大変立腹し、今後の
見せしめの為にも成敗しようとしたところ弥吉は本多平八郎宅へ
逃げ込んだ。 家康公自身が平八郎宅の門前迄行き、今直ぐに出て
来なければ平八郎も共に成敗すると云い、酒井左衛門の子息小五郎に
追討を命じた。 結局弥吉は牧野右馬丞宅で切腹した。
弥吉は其時廿一歳で未だ若輩であり、特に五郎左衛門の甥でもあり、
恐らく赦されるだろうと皆思っていたが、そうはならなかった。
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      第十五話 池の鯉
家康公が岡崎城に居住の頃、勅使などが有る時の御馳走のためと
思い、長さ三尺(90センチ)程の鯉を三本生簀の中に放して置いた。
ところが鈴木久三郎がその鯉の一本を取上げさせて、台所で料理する
様に指示した。 其上織田信長公から贈られた南都諸白一樽の
口を切り飲み食べ、更に他の人々にも振舞ったので皆はてっきり
鯉も酒も鈴木が拝領したものと思っていた。

暫くして家康公が生簀を見ると三本の筈の鯉が二本しか見えない。
生簀の掛りの坊主を呼んで尋ねたところ、鈴木久三郎が取上させて
料理にして、自身も食べて人々にも振舞ったと云う。 家康公は
大変腹を立て台所方にも確認したところ其通りと云う。 大変機嫌
悪く自身で手討にすると云い、長刀の鞘をはずさせ広縁に立つ。
鈴木を呼出すと久三郎も覚悟しており、少しも怯んだ様子もなく、
承知しましたと路地口より入ってきた。 家康公は、鈴木の
不届者め成敗するぞ、と詞を掛けると久三郎は自分の脇差を抜いて
五六間も後の方へからりと投げ捨て、目を三角にして云うには、
そもそも、魚鳥に人間を代えると云う事がありますか、その様な
御心では天下を望む事は出来ないでしょう。私の事は好きな様に
して下さいと大肌脱いで側近くに寄ってきた。
家康公は長刀を捨てて、もう赦すぞと云い其の侭座敷へ入った。
直ぐに久三郎を呼出し、其方の忠節が深い事に満足した。 先日
鷹場で鳥を取り、城の堀で網を打って魚を取った二人の足軽は
非常にけしからんと思い、捕らえて置いたが両人共に今赦免
するぞと伝えた。 久三郎は泪を流し、私如きの気持を此様に
御取上げ戴き大変有りがたい事です、実にこれは天下を治められる
験と思いますと述べた。
註1 この挿話と前の十四は何れも岩淵夜話だけである
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      第十六話 松永弾正の事
家康公が或時信長へ呼ばれ、座敷へ通されたところ、一人の
老人が着座していた。 其時信長公が、家康公は多分あの老人は
御存知ないでしょうと云う。 家康公は、何方ですかと聞くと
信長は、彼は松永弾正と云う者で、一生の間に大変な行いを三度
しました。 第一は将軍の光源院殿を殺し奉った事、第二には
主人三好に謀反を起した事、第三には奈良の大仏殿を焼失させた
事、この三つは通常の人では到底出来ない事ですと云った。

家康公は座を移り松永に向い、今日初めて御目に掛かりますが
貴殿の武勇と名誉は以前から伺っておりました、今後共宜しくと
丁寧に挨拶をした。 さすがの弾正も信長の悪口に赤面して家康公
への挨拶もきちんとできなかった。
家康公は帰ってから家老達へ聞かせた事は、松永の悪事は世間にも
例が少ない事である。 但し以前に信長公が金ケ崎から撤退する時
松永はよく協力し、朽木谷では信長のために命を捨てる覚悟で信長に
最後の暇乞い迄したと聞く、それが事実ならと云い咄を止めた。
註1 光源院 室町幕府十三代将軍、足利義輝(在位1547‐1565)
   松永弾正に攻められ自害
17                            目次に戻る   
      第十七話 信長の死と甲州経営
天正十年(1582)三月十一日、甲州の武田四郎勝頼は天目山の麓、
田野と云う所で自害した。 その首が織田信長公に届くと信長は
これを見て、其方の父信玄は私に対し種々の悪事をしてきた。常々
不届な事をした天罰が其方の身に下った。 国を失い此様な運命に
なった事を最後に思い知れ、皆これを見よ、好い気味ではないかと
大口を叩いた。 
一方此首が家康公の前に持参され勝頼の首と聞くと、床机から下り
先ずは三宝の上に据えよと指示した。 その後首と対面して丁重な
態度で、偏に若気でしたねと声を掛けた。
この時の様子を信長、家康の両大将の家中でお互いに語り合った。
徳川家では家康公の礼儀の厚い態度に感銘を受け、末頼ものしいと
思ったが、一方織田家の人々は全てに関して不安があると感じた。
全くその通りとなり、武田勝頼が滅亡した八十日目に京都本能寺で
信長は明智日向守に討たれてしまった。 これは全て奢りと油断の
二つから、この結果となったものである。

武田勝頼が滅亡した時、甲斐国全体は信長配下の武将、川尻肥前守
に与えられ、駿河国が家康公へ進上された。 其時信長は家康公に、
甲斐は貴国近辺であるから、万の世話を宜しくと頼まれたので、
家康公は、それは御心配なくと応じて、約束通り川尻方へ度々使者や
書状を送り気を配っていた
しかし川尻はこれを全く有りがたいと思わず、内心家康公へ遺恨を
抱いていた。 理由は武田家の諸浪人は縁や伝手を求めて徳川家に
奉公を願い、川尻に奉公しようと云う名ある武士は一人も無かった。
この事から色々推量して、専ら家康公には裏があると思っていた。
その結果、侍百姓に限らず甲斐国人には全く気を許さず、上方より
連れてきた僅かな家来だけを頼みとして相談していたので、国中の
政治は何の進展もなかった。

そんな時信長公の他界があり、上州厩橋の瀧川左近なども関東を
捨て上洛するとの説もあり、川尻も甲州に嫌気がさしているとの
情報が家康公の耳に入った。 そこで本多庄左衛門に諸事の事を
指示して甲州へ派遣し、何事でも心置きなく相談されよ、もし上方
へ登るお考えなら、この時期信濃経由は危険です。此庄左衛門を
案内として私の領内へ出られるなら安全に上洛できるように
取計らいますと伝えた。 
ところが川尻はこの事に疑いを持ち、悪巧みを廻らし児性に
命じて、六月十四日の夜、午前四時頃庄左衛門の寝首を搔かせた。
庄左衛門の家来達が走り散って人々にこれを告げたので、徳川家へ
奉公が決まり妻子など引取る為に甲州へ帰り合せた人々が早々
浜松城に注進した。 一方甲州の諸浪人が是を聞いて川尻の悪事が
知れ渡り、家康公へさへこの様な事をする以上最早遠慮は要らぬと、
忽ち一揆を起して川尻を攻め、首は三井十右衛門と云う甲州士が
討取った。

この頃浜松では本多庄左衛門が川尻の居宅で死亡した事が報告
された。 家康公は、信長との約束を守り随分と川尻の事を
考えてやったのに、それに感謝するどころか全ての相談役にと
思って派遣した本多を殺すとは全く不義理な事だ。 それにしても
惜しい武士を川尻の奴に殺されてしまったと涙した。
家老達は、信長と一旦の約束は果されたのですから、此上は軍勢
向けて川尻を滅ぼす以外ありませんと声を揃えて進言した。
しかし家康公は、それは川尻と同じ事になり、この家康がやる事
ではない、先ずは此の侭にせよとの事で家老達もそれ以上は云い
様もなかった。

川尻が自滅し甲州が無主の国になると、北条氏政の子息氏直は
武田信玄の孫であり、血統から見て甲斐の国を得る権利があると
小田原で検討を始めたとの噂があった。 徳川家に採用された
甲州の武士達は故国が北条の国となる事は由とせず、一時も早く
徳川家が甲州に軍勢を向けて戴きたい、そうすれば昔の仲間達とも
協力するので直ぐに一国が手に入る筈ですと云う。

しかし家康公はこの意見を取上げず、一筋に信玄公と勝頼二代の間
武勇で名を挙げた直参の侍の調査を行い、由緒又は手柄の内容を
書出させて採用する様にと、成瀬吉右衛門と岡部弥三郎の両人へ
命じた。 その結果武田家の諸浪人の大身小身、上下共に徳川家に
望みを掛けない者はなかった。 又信玄の菩提所であった恵林寺は
信長が焼払ったが、その跡に以前の様に寺を建て位牌を立てる様に
指示し、その資金も提供した。 其上勝頼が討死した場所にも建物
を建てる様にと大変丁寧な指示で、甲州の武士達は云うまでもなく
町人百姓迄もそれを聞いて有りがたい事と喜んだ。

其後北条家が軍勢を送り甲州を征服しようとしていると甲州全体の
人民からの願いがあり、家康公は七月十九日始めて出馬した。 
其時甲斐の国人達と北条家との争いは一に黒駒、二に恵林寺前、
三に天目山、四に岩崎、五に小倉の江草、其外所々で競り合いが
あり、都度甲州国人が勝利を得て、討取った首は家康公の旗本へ
持参した。

其年の十一月、甲州若神子で北条氏政と対陣した時、家康公
より北条美濃守氏親へ書状を認め、使者となった朝比奈弥太郎
は書状箱を首に掛け、只一騎で馳せて北条家の先手を勤める
大道寺駿河守政繁の陣へ乗込み大声で、私は家康の使いの者
です、北条美濃守殿の陣はどちらでしょうかと云うので、駿河守が
配下に案内をさせた。 弥太郎は美濃守の陣へ行き、直接書状を
渡した。 美濃守は氏政の本陣へ持参し、封の侭差出すと氏政は
これを見て直ぐに北条一門や家老の面々を呼び集めて会議で一決して
美濃守に委任した。

其後大道寺駿河守の嫡子孫九郎を美濃守が連れて、新府中の家康公
陣場へ参上し、榊原式部少輔を介して美濃守は家康公と対面した。
昔駿府の今川家における人質時代の朝に暮に出会った時の物語など
をし、その上で和談について美濃守に伝えた。 美濃守は帰るに
あたり孫九郎を暫く榊原式部少輔に預け、再度参上して和談が正式
になった後、孫九郎を連れて帰った。 家康公側室の西郡局が
生んだ姫君を北条氏直に嫁がせる約束で和談は成立したが、氏政の
家老の倅を美濃守が伴い、和議が成立するまで甲府に人質として
留めた事は北条家が徳川家の旗下になったのも同前の様子だった。 
この対陣により甲州全体が徳川家の手に入り、一方北条家は
笛吹峠を越えて信州へ進出し、 芦田、小室の四城を攻め取り、
上田の真田迄も一端は北条家の旗下になった。
註1 この時の大道寺孫九郎は作者大道寺友山の祖父と云われる。
註2 北条美濃守は北条氏政の弟で、幼少の頃今川家へ人質として
出されており、家康とも今川家の屋敷内で交友があった

岩淵夜話第一巻終
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                           目次に戻る        
          岩淵夜話第二巻 現代文
18 
第十八話 北条氏政と面会                      
天正十四年(1586)三月、北条氏政へ始めて面会したいと家康公
より打診した。 氏政より木瀬川を隔ててお目にかかりましょう
と回答があった。
家康公は、それでは両家が親しいとは云えないので、木瀬川を
越えて家康が参上しようとの考えだった。 酒井左衛門尉が
それを聞き、それでは徳川家が北条家の旗下の様に聞こえるので
よくありませんと申上げた。 家康公は、仮令北条家の旗下だと
思われても私は構わないと云い、木瀬川を渡って三島で対面した。
その時、此方では貴国との領分の境目の城は不要であるとして
三島から帰る当日、北条家から見送りで付いて来た山角紀伊守の
目の前で沼津の城堀を崩す様に指示した。
五年前甲州若神子で北条家から人質を取って和睦した時とは全く
違い、今度は全く其様な事もない。一体どんな賢慮でそうされる
のだろうかと皆が思った。
註1 家康が北条家と同盟を急いだのは秀吉との対峙のためと
考えられている。前年秀吉と長久手で戦い、和議を結んだ
がこの時点では未だ秀吉政権の与党にはなっていない。
註2 家康側室西郡局の生んだ督姫は氏政の嫡子氏直の正室
   氏直は天正十九年高野山で病死後、督姫は池田輝政に再嫁
19                           目次に戻る
      第十九話 甲州武士の採用
天正十(1582)年甲州処理に際し武田家の諸浪人が徳川家に採用
された時、以前の知行高及び知行所を偽りなく夫々が書出して
申告する様にと云う事で、曽根、岡部、成瀬の三人が命を受け
甲府へ行き調査した。 これに付いては信玄時代からの目付達を
動かし、岩間大蔵左衛門も相変わらず全ての事を聞き質して信玄や
勝頼の時代の様に委しく報告する様にと指示があった。
しかし流石に甲州武士だけあり、武勇手柄については十の内二ツ
三ツも内輪に申告したが偽った申告する者は一人も居なかった
しかし知行関係の申告には些細な間違いもあった。 其間違いとは
例えば親の隠居領知又は兄弟へ分知して跡取りが絶えたものを自分
に取り込み、知行高を上乗せする類である。 三人の奉行衆も混乱
の時であり、細かい調査をする事もなく各人が申告した書類通り
に本領安堵の朱印を発行した。 是も又家康公の内意で早急に決定
する様にとの指示だった。 今でも甲州の人士の間で横紙の朱印状
を伝えているのは此時の物である。
後々の調査でこの書付の間違った分は召上げられる事もあり、又
人によってはそのまま拝領する事もあった。

ここに初鹿伝右衛門と云う侍があり、彼は加藤駿河守の二番目の子で
弥五郎と云った。 去る日初鹿源五郎が川中島合戦で上杉謙信の
旗先に向って大きな働きをしたが討死した。 しかし継子が
なかったので知行は召上げられたが、信玄は其忠死を思い、且又
原美濃の婿だったので後家を特に哀れみ、加藤弥五郎を伝右衛門と
改めて初鹿の名を継がせ、後家と添う様に指示した。
しかし彼後家は賢女であり、二夫にまみえる事を恥て甲府の城中へ
駆け込み、信玄の奥方に奉公して一生後家となる覚悟だった。 
そこで後家の妹を伝右衛門の妻として、皆が世話して初鹿の家を
相続させた。

此伝右衛門は養父源五郎に劣らぬ武勇の者であり、家康公が甲州
経営に乗出す時以来、所々を奉公で走り回っていた。 そこで
徳川家に採用され、自身の元知行の申告を曽根下野、岡部次郎右衛門
の両人へ渡す際、自分の本領を四百貫と実父加藤駿河知行の内
弐百五十貫と書入れて提出した。

駿河知行の後継は長男の加藤丹後と三男弥平次郎と云い、両人共
伝右衛門の兄弟であるが、他家へ養子に行った伝右衛門が親の知行
を取る理由はないと云い、丹後、弥平次郎と伝右衛門の兄弟間で
口論が起こった。 そこで奉行達は相談して、伝右衛門が申告した
食い違い分を取上げて本領の四百貫だけを認可した。
伝右衛門は、人に依ては親兄弟の知行を自分の高に加算して申告して
其の侭認められた者も居るのに、自分だけは認められず吟味に迄
至って面目を失ったのは悔しいと腹を立てた。 そこで既に
認められている朱印状の知行二ヶ所の村に墨を塗り、私の朱印状は
反古になり無効となった。 どんなに働いても推薦して呉れる人が
居なければ全て影の働きでしかないと人々に悪口を云った。 

この事を岩間大蔵が聞き、日頃伝右衛門と不仲だったのでこれ幸と
特に念入りに訴状を認めた。 目付達が調査したところ岩間の云う
通りだったので、家康公はたいへん立腹し、伝右衛門は信玄勝頼
時代より武功もあるので、奉公さえきちんと勤めれば出世も
できるのに、朱印状に墨を塗り、その上色々悪口を云うとは全く
不届者である。当然成敗されるべきだが、代々武勇の家に生れ、
自身も心掛けもあると云う事で命は助けられ改易となった。

ところが長久手の合戦に伝右衛門はこっそり参加し、旗本では
三宅弥次兵衛と伝右衛門の二人は四月九日の合戦前によく働き
手柄を立てた。 弥次兵衛は今日の一番手柄と早速誉められた

そこへ初鹿(伝右衛門)も討取った首を持って内藤四郎左衛門
に近づき報告を頼むと云った。 しかし前に改易となった者であり
内藤も対応に困っていた。 その時十間程隔てた所で家康公の
目に留まり、伝右衛門、此処へ参れと直接に言葉があった。
御前へ出たところ、其方の事は皆の見せしめの為一旦は改易を
命じたが、二年以内に呼び戻す積りでいた、この戦いに参加して
大きな手柄を立てた事は神妙であるとの言葉があり、初鹿は泪を
流して、忝ない次第ですと云ったところに三宅弥次兵衛が出て、
私を一番の手柄と先程決定して戴きましたが、伝右衛門は私より
一町半程(約180メートル)先で手柄を挙げましたと報告した。 
家康公は正直な申告と云い益々感心した。
註1 初鹿伝右衛門の挿話は落穂集になく、本書だけである
20                          目次に戻る
      第二十話 秀吉と一戦、長久手の陣
天正十二年(1584)春三月、織田信雄は秀吉公を討亡して天下の
権を握ろうと云う野心があった。このため家臣の松島城主津川
玄蕃丞、星崎城主岡田長門守、刈安賀の城主浅井田宮丸三人を
長島の城中で成敗した。この三人は秀吉公と常々関係の良い者
達なので、今度の計画を相談しても決して同意しないだろうと
推量して処分したものである。

ところが信長公の時代に取立てられた諸大名に信雄から回覧状
を廻して協力を依頼したが、池田勝人、森武蔵守を始として一人
も味方する者がなく、却って秀吉公へ内通して敵対する立場を
取った。 家康公へも最初より頼んできたが、明確な同意の答え
をしなかったが再度依頼があり、これまで依頼した者達は全員
同意無く信雄は孤立してしまいました。 このままでは私の身上
の破滅は明らかですから何とかご協力下さいと熱心に頼んできた。
家康公の返答は、今度秀吉と戦われるにあたり、信長公の御恩に
預かった人々へ協力を頼まれたが賛同が得られず、偏に私に依頼
された事承知しました。 家康は信長公の御芳情を今でも少しも
忘れていないので貴殿の事を疎んじる事はありません。 御頼みに
応じて家康が協力しますから少しも御心配なくと伝えた。

一方秀吉公は十二万余の軍勢を仕立て既に大阪を出発したとの噂
があったが、家康公は少しも驚かず清洲の城へ向かい信雄と対面した。
その後羽黒、小幡、長久手と三ヶ所の合戦に毎度家康公の先手で勝利
を重ねた。 中でも長久手では井伊万千代の隊から打ち出した鉄炮
で森武蔵守を討落し、池田勝人を永井右近が討取り、勝人の子紀伊守
を安藤帯刀が討取った。 秀吉公は大いに怒り、ここに至っては私が
長久手へ行き家康と一戦して森や池田に手向けようと云い、楽田を
出発して龍泉寺辺迄押出した。 一方家康公はその事を予測して
素早く小幡の城へ引いたので秀吉公は空振りとなり途中で引返した。 
その後秀吉公は大坂へ軍勢を引き上げ、伊勢の各地の城を攻めたが
程なく信雄と和睦をした。 これは家康公が信雄を見放さぬため
勝利は難しいと考えたからだろうと人々は語り合った。 
21                            目次に戻る
      第二十一話 甲州流軍規の採用
甲斐国が手に入った時、甲州武田家の旧臣の山形、一条、土屋、
原隼人の四家配下の大部分は井伊兵部少輔直政の部下として配属した。
信玄の家中では赤色の武具で揃え大変見事だったので、井伊直政の
部隊も赤色の武具に統一せよと家康公は指示した。又軍法やその他
の制度を甲州流一色に改めた。

この時和田加助と云う山形の配下の侍も採用された。彼は信玄時代に
上州箕輪の城攻めの時に峰法寺口で手柄を立てたと云う事をその後
兵部少へ申告したので、兵部少は其旨を報告した。家康公はそれを
聞き、広瀬美濃と三科肥前の両人へ其様子を尋ねたが、事実でない
事が明らかとなり即時に解雇した。 武士道に関する事は厳格に
調査があり、少しも虚飾を申告する事は出来なかった。
この加助は外に手柄もある者だったので鳥居彦右衛門が彼を浪人の
身分として扶持を与えていた。 この事を彦右衛門と仲の悪い者が
そっと家康公に耳打ちすると、彦右衛門めは憎いやつとだけだった。
22                         目次に戻る 
      第二十二話 背中の腫物
天正十三年(1585)三月浜松城、家康公の背中に根太の様な腫物
ができたのを佐原作十郎、前島長七郎、河野甚太郎と云う三人の
児小姓へ、この根太の根を押出せと指示した。 彼らは強く押出す
事が出来ず、ぐずぐずしているので家康公はもどかしくなり、男子
の様でないぞと叱り、蛤の口で挟んで引き抜けと命じた。

若年の彼等は何の考えもなく、云われる通りにしたところ、白い芋
の根様な物が一―二寸程抜けたので、これを見せたところ、家康公
は、これで良しと云った。

暫くすると腫物が急に腫れ上り痛みも酷くなり、胸に迄痛みが広がり
たいへんな苦痛に見られた。 家中では残らず城に詰め手に汗握り
医師達も色々治療を勧めるが次第に腫物の様子は悪化し、後には
腫物の周りを手で軽く触れる事も成らぬと云うので薬を付ける事
も出来ない。 家康公も内心もう駄目と思ったか、家老達を呼び
遺言を伝える程の状態であり、近国では既に死去とも噂された。

そこで本多作左衛門が御前へ出て、以前に私も腫物の治療を
しました。脇屋長閑の薬をつけられると良いと申上げたが、
家康公は全く同意しなかった。 作左衛門は腹を立て、殿が
きちんとした治療をせずに犬死をされる事は全てご自身の考え
とは言え、たいへん惜しい命です。 最早九割方快復は難しいと
医師達も言っております。 兎に角この作左衛門はお先へ行くべき
年寄りですから後からお供はいやです。 そろそろお先へ行きます、
この世のお別れは今申上げますと云って涙を流し御前を立った。

家康公はそれを見て、あれを止めよと云い、さては其方は気が
違ったか、私の病気は重いが未だ死んだ訳でもない。 もし死んだ
としても後の事が大切である。 其方などは特に元気であるから
一日でも生き長らえて若い者の指導をするべきを何の役にも立たぬ
先の追い腹を切る事は成らぬと叱った。
作左衛門は、いや、それは殿のお言葉でありますが、人によりけり
です。 私なども今の歳より廿も三十も若ければ、殿の様な無分別の
人のお供などしないでしょう。しかし当年八十にもなり、若い頃から
あの戦、この戦とお供して片目は切潰され、手の指等も切りもがれ、
足迄もびっこになりました。世の中の片輪と云う片輪を一人で背負って
おりますので、通常なら一人前ではありませんが、今日迄殿の御厚情で
家中でもそれなりに地位を保っております。 

今殿が死去なされば他人は勿論、ご親戚の北条氏直殿始め、お持ちの
国を狙うのは目に見えております。 御家中の諸人も働き盛りの殿に
去られたら力を落とし、はかばかしい合戦も出来ないでしょう。
そうなれば御跡は潰れる以外ありません。 その時迄私が生きて
いれば、あれこそ徳川に仕えた本多作左衛門と云う者だ、何を楽しみ
に命を惜しんで生きているのかと、後ろ指されるのでは生きている
意味もありません。 最近でも武田殿の家中で浅利殿と云えば諸人に
尊敬された武士ですが、主人の運が傾き今は当家に仕えて本多平八郎
の配下になり、松平一党や匂坂一党の者達の下に甘んじているのを
見るのも哀れです。 是は人事とは思いませんと順々に道理を述べて
涙を流す。 その時家康公は、其方の言う事も確かにその通りだ、
治療を其方に任せると云った。 そこで直ぐに長閑が薬を持参し、
お灸は双六の筒の大きさにして作左衛門自身がすえた。
更に内薬も服用したところ早速効きめが出て、其夜半頃に
腫物が破れ大量の膿血流れ出たので、作左衛門は声をあげて
嬉し泣きに泣いた。 やがて腫物は平癒した。
23                         目次に戻る   
      第二十三話 本多作左衛門の人柄
秀吉公が小田原の北条征伐に進発の時、家康公は浜松の城を明けて
秀吉公を招待し大いにご馳走をした。 その時作左衛門は用事で
出かけていたが、秀吉公が浜松へ着いた日に旅先から戻ると、
そのままの格好で登城した。 秀吉公の一行は軍旅とは言っても
始めての浜松城入りであり接待の様子は盛大なものだった。
そこで作左衛門は苦々しく不機嫌な様子で、秀吉公の旗本や上方
の大名達が居並ぶ中で家康公に向かい大声で、殿、殿と呼んだ。
そして、さてもさても殿は珍しく馬鹿な事をなさる。一体国持ちの
大名ともあろう人が、自分の居城の本丸を明けて一夜でも人に
貸す事が有りましょうか。 こんな事では殿は女房を人に貸すの
ですかと苦々しく罵りそのまま家に帰ってしまった。

家康公は、何を戯けた事を言うかと云い、一座の人々に向かって、
只今奴の屁理屈を聞かれましたか、今日のこの席では極めて不適切
な事です。 あの男は本多左衛門と云い、当家譜代の者で私が若輩
の頃から奉公を勤めて出陣毎に供をして勇猛で名を挙げた者ですが、
たいへんな気難しい我侭者です。 人を生きた虫とも思わぬ様な
性格の奴です。 皆さんが御聞きになる所でさへ、この様な様子
ですから私と差し向かいの時をご推量下さい。 通常ならまだしも
本日の席での態度は不届き千万な事ですと述べた。 一座の人々は
口々に、作左衛門の事は上方でも噂を聞いておりますが、この様な
良い家来を持たれるのは貴重な事と思いますと一応に挨拶があった。

この作左衛門はたいへん無骨で無分別の様に見える。 ある時
領内の諸事務を遂行する三奉行の中の一人に指名された。その時
家康公の旗本内での評判は、こればかりは家康公のお見立てが違う
のではないか、作左衛門に限り奉行職等は一日も勤る人柄ではない
と囁かれた。 しかし意外に何の間違った判断もなく、勿論依怙
贔屓等は全くせず公明に処理するので、家康公の眼力は凄いと皆
感心した。 其時の評判では三奉行を仏の稲垣、鬼作左、どちら
つかずの天野三兵と云った。 
全体にこの作左衛門はくどいのを嫌い手短な処理を好む性格だった。
ある時旅先の宿から妻に送る手紙に、一筆申す火の用心、おせん
泣かすな馬肥やせ、かしく、と書いた。 おせんとは作左衛門の
独り娘の名だろうか。
註1 この本多作左衛門の手紙は「一筆啓上火の用心、おせん
泣かすな 馬肥やせ」と短さと簡潔な例として今でも
よく引用される。
24                         目次に戻る
     第二十四話 秀吉と親交を結ぶ
織田信雄の仲介により、家康公の次男三河守は十一歳の時、上洛
して秀吉公の養子となり秀康と名乗った。 これを機会に秀吉公
は家康公と親交を結ぼうと時々使者の飛脚を送り音信を計ったが、
家康公は全く取り合わなかった。

或時羽柴下総守が浜松に下って来て、秀吉公及び秀康公父子へ面会
の為、又暫く上京もされていないので慰みに近く上洛されては如何
ですかと誘った。 家康公はそれを聞き、秀吉と会う用事もないし、
秀康は昔は我子だが今は秀吉の子である。 親父秀吉にさへ用もない
のに増してや若年の秀康には用はない。其上信長の時代に度々上京
した事もあり都が珍しい事もない。 今の楽しみは領分を廻り、泊り
掛けの鷹狩りをする事が一番である。いずれにせよ私が上洛する
必要性はない。 もし秀吉が威勢に任せて私に出仕させようと思う
ならそれは秀吉の奢りである。 万一そうなら有りの侭に言いなさい、
家康の心得とするからと答えた。

下総守は、いやいや決してそんな事はありません、上洛の件は私の
考えで申上げたものですと言って帰り、秀吉に事の次第を報告した。 
その後秀吉公は妹朝日を浜松の家康公へ嫁入りさせ、更に母の大政所を
岡崎の城に人質として送った。
これにより家康公も終に上洛し、秀吉公と親交を結んだ。
註1 織田信雄支援の為、秀吉と長久手で戦ったが、信雄と秀吉が
   和睦し、信雄が秀吉と家康の和睦を仲介した。
25                           目次に戻る   
      第二十五話 家臣の加増
天正三年(1575)家康公三十四歳の時、近藤某に加増を与えた事が
あったが、この加増の地は大賀弥四郎が代官を勤める地域にあった。
この弥四郎は元中間だったか、才覚も土地勘もあり、事務処理に
有能だったので財政向きの事を任されており、地方の代官職をも
勤めて居た。 通常は浜松城に詰めていたが、時に岡崎城にも滞在
して信康公の用も勤めていたので、弥四郎が居なくては困ると上下
共に思う程重宝されていた。
ところが此弥四郎は次第に身の程を忘れ、増長して近臣の振り
をしたがり、旗本で実績ある武勇の譜代の者でも自分とそりが
合わぬと悪く上に取成した。 又城内、道路で出会っても見ぬ
振りをしていた。 不届者とは思ったが、家康公の近くで出世
しているものなので、皆口を閉ざしていた。

この様な弥四郎の所に近藤が加増地受取りの相談に行くと
弥四郎は近藤に、貴殿の事を御前でよく報告したので今回の
加増に預かったものである。益々熱心に奉公すると同時に
私の事を決して疎略にしない様にと云った。 近藤は非常に
不愉快となり、その場から直接家老衆の所へ行き、今度拝領
した御加増は返上致します、私は受取れませんのでこの件を
上にご報告願いますと云う。 家老衆は、不審な事を言うと
その理由を尋ねると近藤は、大賀弥四郎が私に云った事は
今度の御加増は自分の取成しで下されたものであり、益々奉公し、
以後私を疎略にするなと云いました。いくら私が薄給で経済
困窮といっても、この徳川家で有名な大悪人の弥四郎奴等に
少しでも取成しで加増を拝領できたと云われては武士の穢れです。
米一粒も戴く訳に行きません。 こう申上げて不届と思われ
切腹を命ぜられれば、それはそれで皺腹を切りますが、弥四郎の
取成で加増など神に誓って戴けませんと言い放った。

家老衆も自分達では納まらぬと見て家康公に報告した。早速
近藤が呼ばれてお尋ねがあった。 近藤は日頃見たり聞いたりした
弥四郎の悪事の数々を証拠を添えて正しく言上した。
家康公は詳細を聞き、これ程の悪事を企む弥四郎の事が家老衆や
目付衆から全く報告されなかった事は不届千万に思い、厳しく
調査したところ、弥四郎に一味の山田八蔵と云う者がいたが、
彼が寝返り訴え出た事は、弥四郎が仲間を募り、足助の城を攻めて
武田勝頼を岡崎の城へ引入れようと企てて居る事を告げた。そこで
弥四郎父子夫婦、以上八人を逮捕して磔とし、その外の仲間も成敗
された。 弥四郎は浜松・岡崎の両城下の町を引廻し、その後岡崎の
四辻で首より下を土中に埋め、竹鋸で首を引かせて磔となった。

近藤については広忠公の時代から各地の戦いにお供して武道の
心掛けも深い人物だった。 ある時家康公が岡崎城の近辺で鷹狩りに
出かけた時、田植えの人々の中に近藤が交り早苗を取っていた。 
家康公を見ると、近藤は田の中へ顔を突込み泥を付け悟られぬ様に
したが、その前に既に家康公は見ていた。 お供の人々に、あれは
近藤ではないか、近藤なら呼んで参れとの事でお供が走って行き
近藤殿、お呼びですと云う。 近藤は仕方なく、分りましたと
云って顔を泥水で洗い、田の畦にたてた棒に箕笠を掛け、棒の下に
括り付けて置いた刀、脇差を指して道へ上がり御前に畏まった。
その身に着けた渋帷子は破れ、縄をたすきとして目も当てられぬ程
である。仲間達はこれを見て困った事になったと皆冷や汗をかいた。
しかし上の考えは全くその様な事でなく、主人が小身だから、其方
等を初めとして家中の者達に知行を増やす事もできない。今の知行
だけでは人や馬、武具等を十分に用意できないので自身が作付けを
して苦労している事は気の毒である。 しかし今は我慢して下働きを
してでも生計を立て奉公せよ、誰もが先に苦労して後で楽が出来る
様にするのが良いぞ、早く仕事に戻れと家康公は泪ぐんで説いたので、 
近藤は勿論、お供の人々も皆涙を流し有難く思った。
註1 この挿話は友山の他の書になく岩渕夜話だけである。
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      第二十六話 武田信玄の死    
天正元年(1573)四月十二日、武田信玄が五十三歳で死去したと
云う噂が浜松城下に流れた。 その時家康公は、信玄の死去が事実
ならたいへん惜しい事である、信玄程軍事に勝れた大将は古今
珍しい。 私は若い頃から信玄の様に軍事に勝れたいと思い心
掛けて来た。 従って信玄は私の軍事の師匠である。 今は断交
しているので弔いの使者は送らぬが、隣国の名将の病死を悦ぶ事
ではないので家中の皆もその積りで居れ。 仮令敵であっても
有名な武将の死去を聞いて痛み悔む事は武士の心である。 其上
隣国に強敵の有る事は特に良い事と思う。 理由は此方も少しの
油断なく武士の勤めを行い、仮令政治を行うにも敵国に聞かれる
事を憚り蔑みを恥じるので、自然と政道も違わず家法も正しく
なるから味方の長久の基盤でもある。一方隣国に強敵がなければ
味方の武備は薄くなり、上下共に自分に満足し、他人に恥じる
事もなく努力を忘れ弱体化する事になる。依て信玄の様な敵将の
死は少しも悦ぶ事ではないと語った。

是を聞いて末々の者迄、上を学ぶとかで信玄の死去を口真似の
様に悔んだ。 但し在郷の百姓や町人に関しては、信玄在世の
時、ややもすれば三河、遠江両国の間へ侵入し、その度山中に
避難する事が嫌で信玄を疎んじており、死去を聞くと大いに
悦んだと云う。
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      第二十七話 父子の隙間風
天正五(1577)年八月、武田勝頼が二万計りの軍勢で横須賀へ侵入し
浜辺に沿って陣を取った。 家康公は父子共に出馬して横須賀より
四町程北にある丸山に布陣した。 家中の面々は浜辺へ部隊を進め
警備した。しかし敵味方の間に入江があるので互いに鉄炮を撃合う
だけで、大きな競り合いもなかった。

そこで信康公は鈴木長兵衛唯一人を伴い、勝頼の旗の立つ場所から
二町程近くへ乗込み様子を見て、家康公へ是非合戦をされるべきと
申上げた。 家康公は、敵は大軍、味方は小勢であり、場所も良く
無いので戦っても勝利はない。 今後もこの様に考えよ、しかし
若者らしい心意気と云ったが合戦はしなかった。
帰陣後家老達へ家康公は、信康が私に軍事の指図するなど行過ぎ
である、どうも自分の考えだけで事を進めるのは良く無いと語った。
28
       第二十八話 信康の自害
天正七(1579)年家康公と信康公との仲が悪くなり、信康公は
岡崎城から二股城に移された。 家康公は服部半蔵、天野山城の
両人に立ち会いを命じて信康公の切腹が決まる。 信康公は最後に
なり両人に云った事は、自分の誤りも多いので今更言訳ができる
ものでもないので斯くなったのは当然である。 しかし謀反に
関しては全く毛ほども覚えがないのに無念であるとなじみの
人々に伝言があった。 死後の菩提は大樹寺の和尚へ頼むので
宜しく伝えよとあった。

いよいよ切腹に及び、半蔵に介錯を頼むと伝えたが、半蔵は落涙して
全身に震えが起こり刀を抜く事もできない様子である。時が立つと
苦しみも増すので良くないと天野山城が代って介錯した。 信康公
享年二十一歳で八月十五日に自害である。
信康公の最期の様子は目付衆から委しく報告されたが家康公は、
半蔵めは並外れた武勇の者だが、信康の最期に至り腰が抜けたな、
それも道理だと語った。
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      第二十九話 小宮山兄弟の事
家康公は小田原攻めの部隊編成する時、旗本の役人に指示して、
小宮山又七郎を長柄鎗奉行に任命した。 その時の意見として、
又七郎は未だ若年ではあるが、この役を申付けよ、その理由は
兄の内膳は武田勝頼の近臣として奉公していたが、仲間の讒言で
勘当となった。 しかし蟄居の身で有りながら勝頼の最期の場所へ
尋ねて行き、勘当を赦されて悦んで最期の供をした。その心掛けは
武士の手本である。 其内膳には子供がなく、跡を継ぐ者がないので
不憫に思い、その弟の又七郎を呼出して一家を立てさせたものである。
今度この様な役に任ずるのも兄の内膳に対するものである。此趣旨を
よく心得て自身の誉れと思わず、兄内膳のお陰と思う様にとあった。
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      第三十話 長久手の戦いを語る
家康公より浜松城である夜家老達に話しがあった。以前長久手の
一戦の時、私は小勢で秀次の大軍の跡を追い一戦を仕掛、水野、
岡部、榊原、大須賀、本多等の働きで三万に及ぶ敵軍を切崩した。 
中でも秀吉が大切にしていた侍大将の森武蔵、池田勝入父子を
討捕って其首を見分していた。 そこへ高木主水、内藤四郎左衛門が
来て注進したので早々小幡の城へ部隊を引き入れた。
案の定秀吉は味方の敗軍を聞いて大に怒り、直に楽田の本陣を出て
竜泉寺迄到着した。 しかし私が小幡の城へ引取った事を知ると
止むを得ず其夜は田中に陣を張り、夜明けに小幡の城を攻めるための
準備をしていた。

其夜諸君は相談して秀吉の陣の様子を窺がったところ、二万余の
軍勢の統制はなく野山に我勝ちに陣取り、夜襲に備える心掛けも無い
様子であるから、夜襲を仕掛ければ簡単に大勝利が得られますと
進言した。 家康はそれに同意せず、結局その夜の間に密に小幡の
城を明けて小牧へ帰った、 これを手緩いと諸君始、家中の者達は
論評したと聞く。 それに付いて其夜田中の陣へ夜襲を掛ければ、
秀吉を確実に討取る見込みが有って進言したものか、又それは別
として戦いには勝つという公算があっての事かと質問があった。

其時の一戦にお供した家老達ばかりであり、互いに目を見合わせ
即答は出来なかったが、漸く誰も秀吉公を必ず討留めると云う
見込みは有りませんでしたが、勝利は間違いないという公算で
申上げましたと答えた。 家康公は、多分そうであろうと私も推量
した。 例えば田中に布陣する軍勢を一騎も残さず討取っても、
秀吉と云う人を討洩らして、丸裸になっても上方へ逃げ帰らせば
それは家康の身の為には良く無いことである。 思えば長久手合戦
で森、池田父子三人を討取ったが、独りだけでも良かったのにと
思うぞとの事だった。
註1 長久手の戦 天正十二年(1584)三月秀吉との戦い、
同年九月 和議成立
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       第三十一話 小僧三ヶ条
家康公はある時家老衆へ咄をする際、諸君は小僧三ケ条と云う事を
知っているかと尋ねた。 誰もが承った事はありませんと答えた
ところ、それでは話して聞かせようとなった。
ある山寺の和尚が村から一人弟子を取り、小僧として使っていた。
その小僧がある時逃出して親元に帰り、私はこの様に頭を丸めた
以上、何とか学問を修め出家として生きたいと、今まで随分我慢して
見ましたが、師匠の僧が余りにも無理な事ばかり言い、折檻をする
ので迚も修行を続ける事が出来ず帰って来ましたと云った。

親達はそれを聞き、それ程難しい事とはどんな事があったのかと
問えば小僧は答えて、これが決定的と云うものはありませんが、中
でも困った事が三つあります。 第一に師の坊髪を剃る事を練習せよ
と剃らせました。 私は練習中ですから時々剃刀の先が頭皮に入り、
血の出る事があり大きな折檻をされました。 第二に味噌を摺る様に
云われますが、摺り方が悪いと朝夕叩かれます。 第三に用便を
足しに雪隠へ行けば、又雪隠に行くのかと叱られます。 つまり
こんな状況で一生勤まるものでしょうか。

親はそれを聞くと、そんな訳ならお前が居た堪れなくなるのも当然だ、
いくら弟子にしたからとて師の僧はけしからんと立腹し、即刻寺へ
行き和尚に面会して散々文句を述べ、小僧を取り戻すと云う。
和尚は聞いて、一般に僧門の勤めは難しいものであり、子供を二親
及び親類迄も含めて出家させたいと思っても成就は稀なものである。
まして其方なども小僧が言う事を真実と思い、とやかく言う様では
迚も出家を遂げる事はできまい。 希望通り小僧を貴方に返しましよう。
しかしこの事は他の諸旦那衆へ聞こえる事でしょうから、小僧の云う
三ヶ条の実情を述べましょう。

先ず味噌の摺り方が悪いと云う事は特別な事ではありません、寺でも
一般家庭でも味噌はすりこ木で摺るものです。 それを小僧は塗圴子の
背中で摺るので、朝夕私が注意しても全く聞入れず、今日迄杓子二三本も
摺り潰しました、と棚の隅からこれを取出して見せた。
次に雪隠へ行き用を足すのを叱った事ですが、これも理由があります。
あなた方も知っている様に、毎年代官衆が当村を来られた時は、当寺が
定宿になっています。 雪隠所が遠くては不自由だろうと云う事で村中
相談して客間の近くに新しく雪隠を作りました。 是は代官衆応接の
為であり愚僧を始め誰もこの雪隠には行きません。 ところが小僧
独りは是を使うので度々注意したが聞入れません。
さて又髪を剃る事は出家の勤めとして大切な事であり、何としても
剃り覚えよと私の頭を筆紙を添えて手習いさせました。 やがてそり
覚え、この頃では自分自身の頭をそる程習熟し、人の頭はそれ以上に
手際よく剃ります。 そこで最近私の頭を剃らせたところ、わざと
この様にしましたと頭巾を脱ぐと、何十ヶ所とも知れぬ切り傷があり、
頭中に血の跡と傷薬が付いていた。 
小僧の親は吃驚して両手を打って困惑して色々詫び言を云ったと言う。

是を小僧三ヶ条と云って、簡単な事の様に見えるが、国持大名を始め、
その下の家老、用人、奉行、目付、横目の役等を勤める人々はこの
気配りが肝要である。 一方の咄だけを聞いて判断するような場合、
特に間違いが有り勝ちなものであるぞと家康公は語った。
註1 この挿話は落穂集追加にもある
註2 第一巻及び第二巻の各挿話は概ね友山の落穂集前編に年代順に
納められている。
註3 岩淵夜話全体では大体年代順になっているが、一、二巻では
かなり挿話の年代が前後している。

岩淵夜話第二巻終