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                岩淵夜話別集現代文

                      巻五

55
第55話 鷹狩の目的

或時駿府で家康公が泊掛けの鷹狩に行かれる事になり準備万端を本多上野介が承った。
その時上野介はお伺いを立て、今迄狩場に連れて行かれます女中方は乗掛馬でお供される
ように指示されて居られますが、今は天下一統で静謐ですからこれからは駕籠でお連れされる
べきと思います、と申上げた。 

家康公はそれを聞かれ、確かに其方が云う様に武士は大身小身ともにその時々の身分相応に
働く事が大切である、そうは云っても小身の時は全てを控えめにする事が作法であるといっても、
中には重く丁寧にして良い事もありこれを体裁という。
又大身の場合は体裁を全て重く丁寧にする事が作法であるが、全く軽く控えめにする事もある、
一般に物事の作法は人々の位や身分によって大体決まるものであるが、時と場所によって
体裁は替るものであると心得るのが良いぞ、何事でも同じ様に考えるのはよくない。

すなわち大名が狩をするのはただ鳥獣を取ると云う事だけではない、武士は大身小身ともに
変事の役人であり、世の中が平和な時だからといって楽をしていると手足も弱り、いざという時に
役立たないので常に心身を鍛えておく事が良いぞ、だからと云ってむやみに野山を駆け巡るわけ
にも行かないので、鳥狩や鹿狩等の名目で平常は駕籠の乗る身では馬に乗り、自身で鳥を鷹に
取らせ、鹿を狙う時は歩行で山坂を登り川を渡り、その上家中の者達の働きを見届ける、是も又
大将の心掛であり嗜の一つである。

それだけでなく家中の者達は皆が歩行で供を勤めるので体も健康になり、力も付いて自然に
山野の歩行に馴れ、いざという時の心得になる事も多い、従って大名が狩場へ出かけるのは
軍陣の訓練と心得るのが良い、但し軍中へは女を連れて行かないが、狩の場合は慰みも兼ねて
いるので側に仕える女を多少連れて行くが、普段駕籠に乗るものは馬に乗り、馬上の武士は
歩行で供に連れるのが適切である。 其方などは全ての事について此心得がなくてはならない
ので十分心得る様に、と有った。


乗り掛け 江戸時代に宿場の旅客・荷物の輸送で馬一匹に廿貫目の荷物を載せ、其上に人独りが
乗った

56
第56話 雷に対する用心の話

或時駿府の御城で夏の空が急に曇り雨が烈しく雷も頻りに鳴っている時、御前で伽衆が集まり
話をしていた。 
その時家康公が云われた事は、万事に用心しないで良い事は無い、地震などは急に来るもの
であるが家を丈夫に作るとか、或いは又家の近くに避難所などを用意して置けば、難を避ける
事もできる。
ところがこの雷だけは何処に落ちるかも分らず、その上真直ぐに落ちるとは限らず斜めに落ちる
事もある様なので対応の方法が無い、そうは云っても雷に対しても用心の方法はあるが皆分るか、
と云われた。 伽衆は誰もが唯今の上意の様に雷だけは用心の方法が無いと思います、と
申上げた。

家康公が云われた事は、実は用心の方法があるので皆に教えよう、例えば身分が高く居宅も広く
部屋数ある所に居住する者は勿論、どんなに小さな家に居住する者でも今日の様に強く雷の
鳴る時は、夫婦、兄弟があちら此方に離れて居る様にするのが大切な用心である。 理由は
親、子、兄、弟でも各自の運命で当人だけが雷に打たれるのは仕方の無い事である。 
この用心をしない者は雷雨の烈しい時に限って家中の者が一箇所に集まり、寄せ框をして
いるのは馬鹿げた事である、
人が多く集っている所へ雷が遠慮し落ちないわけも無く、もしその中に落ちれば一家全滅となる
事は明らかである、前に京都の町人が雷が鳴ると狭い座敷に家内全員が閉じ篭り、戸や障子を
閉めて火を燈して香を焚いている所へ雷が落ちて、死人が多数出て生き残った者も
大部分は片輪となり、天罰に当ったのかそれとも前世の因縁か等と評判になったが、これは
天罰でも無ければ因果でもなく単なる愚か者と云うべきもの、と言われお笑いになったという


ヨセガマチ: 寄せ框 商家などの入口の敷居、昼間取り外し夜戸を閉めるときに取り付ける


57
第57話 仏法の話

駿府の御城に居られる時江戸のある浄土寺の和尚が訪問され、在府の間折々夜話にお城に
登った。
ある夜仏道の細かい点について質問され、その和尚が申上げたのは、仏法は元来釈迦如来の
一法のみでしたが、時と共に八宗から十宗と分かれ、その宗派毎に夫々の教義や勤め方も
御座います。
従って元来は釈迦の一法だからと云ってあれこれと色々宗派を渡り歩けば、雑学・雑門などと
云ってどの宗派としても良くない様になります、ましてや念仏宗などはその最たるもので
御座います、と申上げた。 

家康公はそれを聞かれ、なるほどその様なものか、全ての道の学問も諸芸を修める一筋に
思入れて修行しなければ大成する事は難しいという道理である、しかし死後の願の形には
大身と小身の者により替るはずである、理由は自分一人だけが救われるだけの目的で死後を
願う者は自分の気に入った宗旨に頼り、他の宗旨には見向きもせずとも用が足るものである、
しかし既に天下国家を治めるものにとっては自分だけ成仏する様な事をしては大身の義理が
立たない。 願わくば天下万民が全て成仏できるようにという願をしなければならない。
天下の民の宗旨が八宗・十宗と有るならば、諸宗共に気を遣わずに皆を洩らさず導く様にする、
これが天下国家を治める者の願というものである、と上意があった所例の和尚は何もあれこれ
云わずにごもっともの事で御座います、と云った。 
この和尚の名前・寺の名などは失念してしまったので記さない、とある人の覚書にあった。


58
第58話 阿部川から泉水を引く

駿府の城内の泉水へ阿部川の水を引こう、との御意があったので、奉行衆が水道を設計して
標識を立てて置かれたの家康公が鷹狩の時に御自身で検分された所、その水筋に小寺が
あり、その寺の敷地内を掘割り水を通す様に標識がたっているのが家康公のお考えに合わず、
寺を潰して水を引くのであればその必要なしと云われた。 御側衆の一人が、これは御用地と
して扱い、外に代わりの土地を与えて寺を引かせましょう、と申上げた。
家康公はそれを聞かれ、用地と云うのも目的に依るものである、泉水へ水を引などと云う事は
単に慰み事であり私事である、家康一人の目を悦ばすために古来の寺を動かしてはならない、
寺を除けて水を引くなら引いて良い、と上意が有ったと云う。


ホウジ: 勝示  札に記して示すこと、境目
     

59
第59話 火事を出した老婆

駿府で鷹狩に出かけられた時、道端で年老いた女が一人幼い子供の手を引いて泣いていた。
家康公はこれを御覧になって、あれは何者で何故泣いているのか急いで尋ねよ、といわれた。
御供衆が立寄って理由を尋ねたところ、老婆が言うには、私は向こうに見える村の者です、
昨夜早く誤って火事を出し家を焼いてしまったところ、ここを治めるお代官様から火の元の
不始末で火事を出した罪で夜の内に村を立ち退く様云われました、何方ヘ行く当ても無く
この様にしております、と言うので其通り報告したところ、家康公はそれを聞かれ、その老婆の
村の名を尋ねて管轄の代官所へ連れて行き以下申し伝えよ、誰も家を焼きたくて焼いたので
ない、火事を出した者を他国へ行かせる決まりなら、家康も最近二度まで城より火をだしたが
何処へも行かなかった、と間違いなく言い聞かせ、この老婆は幸いに私の目に留まり不憫に
思うので元の様に家を作って与えるようにと付け加えよ、との上意があったとの事。


60
第60話 駕籠は独りで担がず

家康公が駿府に居られた時、江戸の秀忠公からの御用の件で家中からある一人を遣わされた。
その人は在府中に頻繁に御前へ呼ばれ、よろずの事を聞かれて以下上意があった。

其方は将軍の前ヘ出仕して諸事の用を気安く言い付けられると見える、だからこそ今度の
用事にも其方が指名されたものであろう。 貴賎ともに主人の気に入る様に奉公する事は
中々できない事であるが喜ばしい事である。
それだけに其方の心構えが大切である、今では近習から外様まで大身も小身も大勢の
侍達がいるが、将軍の恩を有りがたく思うか、又恩を受けても恩とも思わす恨みや不満に
思うかは其方等の心掛け一つである。 この点はよくよく考えるべきである。

第一に主人の覚えが目出度ければ自分では気が付かなくとも自然と奢りの気持ができるのが
古今の人情である。 奢は徐々に付くものであるから自分では奢っている気がなくとも
他人の目にははっきり見えるものであるぞ、奢が付くと怠る様になり、怠りから全ての悪事が
起こると認識し、前々から用心をして、主人に気に入られて親しくなれば成る程に益々
慎み、遠慮し、わがままをせぬ様に心掛け、傍輩と交りでも依枯贔屓する事なく、ともかく
その者の人柄、心構えを見届けて将軍の為を第一に考えて、熱心に奉公をすれば後々は
幹部や奉行役人等にもなりそうな人物ならば、どんなに自分が気に入らなくても、連れ歩き
目を懸けてやり奉公し易い様にするのが良いぞ、自分と仲の悪い者でもこの様に考えれば
外の者に付いては云うまでない。

第二は自分一人が目立って万事の用向を他人に扱わせず、一人で事を取り仕切り解決
したがるのは、これも又主人に覚え目出度い者の大きな欠陥である。 その様な心構えの
者はどんなに才知が勝れていても当座の解決は出来るかも知れないが何の役にも立たない
器量である。
理由は乗物に乗って行く際に、力も背格好も揃った六尺が前後二人で担ぎ、その外に添肩と
云って前後を担ぐ者に手を添え、力を貸し、更に替肩として幾人も前後に立添ってこそ険しい
道や長旅も安心して駕籠に乗る事が出来るものである。 どんなに力が強くとも乗物を
一人では担ぐ事はできない、もし担いだとしても乗る方は安心できないし、脇から見ても
危なっかしい。

この様に天下国家を保つと云う事はたいへんな重荷であり、重荷を独りで持って持ち損ずる
のは問題と思い、臣下という大切な相談相手を幾人も撰び、それに官禄を与えて、その
者達が力を合わせてこそ国家をも保つ事ができる、それを他人を交えずに自分独りだけが
主人の相手に成ろうと思うのはたいへん悪い考えである。
乗物の前後に適切な六尺が多く付けばどんな山坂でも凌いで遠くへも旅が出来る様に、
天下国家を治めるにも有能な家老達が多く寄集って、且つ正しく奉行諸役人を撰び任命し、
何事も率直に相談・評定をしながら政治を行えば、天下は平和に幾世も続く筈である。

国家の正道に必要な宝は人間以外には無いのである。 だからこそ異国、本朝を問わず
良臣とか忠臣として名を知られた者達は、自分の功を立てずに仲間の中から賢良の者を
撰び、幾人も勧めて主人に役立つ様にしているではないか、この事を良く良く心得て
江戸へ帰ったら同役達へ詳しく語り聞かせよ、と上意があったと云う。


61
第61話  人材は宝の中の宝

家康公はある時、旗本役人の空きがあるので後任者を任命しようと思われ、土井大炊頭を
呼ばれ、何某について人柄はどんな者かと尋ねられた。 
大炊頭は承って、その者は通常私の方へ気安く出入しておりませんので、どの様な人柄の
者かはっきりとは存じ上げません、と答えられた。 

家康公は御機嫌悪く云われた事は、多くの旗本の諸侍を洩れなくその人柄を知ることは
私にも無理である、又同僚の善悪を知らなくても済む役の者に質問して知らなかったとしても
それは止むを得ない。
この者は大勢の旗本の中でもそれ程人に知られていない程の身分の者でもない、まして
其方は家中の者の善悪を常に見たり聞いたりしてこれを胸に収めて置き、私が尋ねた時には
それを答える筈の役人であれば、どんな事でも知らないで済むものではない、其方がその様
な心構えと知らずに、若いが有能な者と見て家老の一角に指名して私の代弁をさせる様に
した事は全くの眼鏡違いだったと思うぞ。

この事は十分考えて見るべし、一般に武道に長じて自信のある侍は、家老筆頭などにむやみに
へつらったり、追従などせのものであるから、其方に限らず家老等の所へ出入をせぬ者達の中に
有能な者が居る筈である。 その様な者が埋もれぬ様に気を付け、心に懸けて尋ねて来る様に
する事が主人の為を思う家老筆頭というものである。
道楽の道具か脇指の類で名物・名作がどれほど蔵の隅も埋もれていると聞けば間違いなく
熱心に探し出し私に見せて悦ばそう思うだろう、 しかし器物はどんな名品であっても必要な
時には役立たない、宝の中の宝とは人が全てである、と私が常に口癖の様に云っているのに
それをぼんやり聞き流しているから、今の様な訳もない返答をするのだ、其方等の所へ朝夕
出入りして親しくなり、気心を知られた者ばかりが役に付き、出世すると思うと旗本の諸侍の
心構えが悪くなり、諂い、追従のみに熱心になり全てが軽薄者になるであろう。

およそ人間の元気が衰えて死ぬ様に、大名の家中でも諸侍が恥を知り義を守る様な家は
元気であるが、諸侍の心汚くなり恥を知らず、鼻は曲っても息さえ出ればと思う様になっては、
主の恩をも恩と思わず、物事を其の場凌ぎで辻褄を合わせるだけになり、諸士の心構えも悪く
規則も乱れ、その家の破滅も直ぐにやってくるものである。
以後必ず肝に銘じよ、と上意があったと云う。


大耳:  聞き流す事


62
第62話 親子の話

家康公が駿府の城に居られた時、秀忠公が江戸より訪問された事があり、その時もてなしを
されて投頭巾の茶入を進呈された。 其夜に御伽衆の人々より、今日秀忠公へ大切な宝物の
お道具を進呈なされましたが、秀忠公も非常に有難く思って居られ私共にもその旨ありました、
と申上げたところ家康公聞かれ、それでは皆も秀忠にねだって投頭巾の茶の湯に招待されよ、
と大変御機嫌でその時次の話をされた。

人が子を欲しいと云うのは少しでも早く家督を渡してその子の働きを見届け、自分は安心して
老後を過ごし、この世を終りたいが為である、然し家督を渡すと云う事はその子の器量や
年配にもより、又その時の様子によって考えるべきである。
家財や道具などはどうせ譲り与えるものであるから家督相続の前でも徐々に与え喜ばせるのも
良い、自分の身ひとつとなり引退する事が本意と思う親もあり、これを世間では何と潔い事と
誉める事もある。 又自分の秘蔵の道具等は身から放さずに隠居し、家督を継いだ子に与えて
喜ばせる親もあるがこれも悪くはない。

細かくは私も若い時から見聞きする中で、常々たいへん仲の良い親子でも隠居して家督を
渡して後不和となる事も多い、親子の事であるから本来互いの心には気を遣わないもので
あるが、人は年を取ると成人した子供を頼りなく思いつい我侭を云うのと、老衰した親を
朝な夕なに大切にしない子供の態度から始まって、他人の目には不和と見えるものである、
その様な事を避けるには隠居する年寄の持っている道具を少しづつ機会を見て子供に譲り
与えれば他人には疑われない、是も又我が子を悪く言われない様にとの親の気持ちより
起こるのである、と上意があったので、御前に伺公する面々は御尤の事です、と感心した。

更に次の上意があった
人によっては隠居をした後、家督を継がせた子と真実に仲が悪くて様々の非難をして迷惑を
懸け、隠居に不似合いな派手事を好み道楽して浪費して、それを家督を継いだ子に処理させ、
その子の勤めも出来ない様にしてしまう者達が身分の上下共によくある事である。
もっともその子自身の問題による事もあるが、第一は親の不手際である、理由は古人も言って
いる様に、子を知る者はその父に勝る者は無い、とあるが親として我子の善悪を見届けない
事は大きな怠慢である。 
自分の怠慢でその子の器量も見届けず家督を渡したのであれば、どんな犠牲を払っても
親として手段・工夫を考え、何としても家を無事に維持するようにすべきである、従って
士農工商共に家を継がせる子の器量を十分の見極めて家を護る事は先祖に対する孝行の
道でもある。 

特に国郡の主となる者は我が子がどんなに可愛いからとても、諸民の上に立つべき器量で
ない者に無理に家督を譲れば、後々気まま・我侭を尽くし、誤った支配をする事は間違いなく
その場合家中の侍達を初め、領内の町人や百姓達迄苦労させ困難に陥れる事になる、是は
大身の意地では無い。 たとえ長男に生まれたからと言ってその子の器量を見極めない限り
無理押しを避け、他の者を一門の中から選び家督を継ぐよう定める事は当然であり、ここに
迷いを生じないのが大身の者の意地であるぞ、と上意であった。


投げ頭巾の茶入れ: 室町時代の茶人、僧侶の村田珠光(1423-1502)が一目見て感激して
被っている頭巾を投げた、という名器の茶入れ


63
第63話  池田家忠義の侍の話

大坂冬の陣の前に片桐市正は秀頼郷の側を離れ、摂州茨木の居城へ引篭り家康公の味方と
なった。 その頃堺の津に居た柴山小兵衛は大坂に近く、しかも近辺には話し合う味方もなく
苦労していた。 片桐は関東の味方に参加する験
(しるし)に柴山の急難を見て見ぬ振りは
出来ないと思い、手勢の内少々を分けて、摂津の国海道を尼ケ崎まで行き、そこから船で
南北の岸へ押渡って柴山を同道して帰る様にように指示した。

片桐の家来達はこの指示に基づき急いで尼ケ崎へ駆け下ったが、早くも堺の浦へ大坂方の
手勢がいるとの風聞があった。 此小勢で渡るのは無理ではないか、と集まって評議していると
大野修理の手勢が大坂より来て、尼ケ崎近辺の野武士を集めて一揆を起こしたので片桐の
兵士達は苦戦し、尼ケ崎の城中へ使いを送り、加勢を出すか又は我々を暫く城中へ入れて
戴くかいずれかの協力を頼んだ。
城の主は建部三十郎と云い未だ幼少だったので、松平武蔵守方から家来の池田越前、
宮城筑後、南部越後等の武功の者達に人数を添えて後見としてこの城に置いていた。

此者達が集まって相談した結果、加勢を出す事も城中へ入れる事も出来ない旨の返答
だった。 片桐の人数は仕方がなく、この上は少しでも茨木の方を目指して、と退却したが
一揆は益々大きくなり、それに大坂勢も次第に加わったので、伊丹近辺で片桐の家来達は
残らず討死をした。 その時の世間の評判でも尼崎城中の者の不届なやり方は前代未聞
である、これが池田家からの加勢の者達なのに今度の始末は不可解である、何となく主の
武蔵守が大坂方へ内通しているのではないか、と家康公へ武蔵守を悪し様に申上げた
人もあった。

随って冬の陣和睦の後、二条の御城でこの尼ケ崎の一件に付き調査があり、武蔵守の家来
の中から伴大膳と云う者が出てきた。 
御前へ呼出され直々に尼ケ崎の事の経緯を御尋ねになったところ、大膳が謹んで言上した
事は、尼ケ崎は大坂に程近い所であり、その上西国への交通の要地ですから大坂方が
攻取りたいであろうと思いました、そのため何時軍勢を向けて来るか分りませんので、昼夜共
に遠見張番をだして城中では大いに用心しておりました。 
そこへ片桐の手勢と称する者が城外へやって来て彼是云っている内に大坂勢も来るし、更に
そこの一揆等が起こりました。 城中ではこれは只事ではないと覚悟しました。

もっとも市正については大坂を離れて味方に成られたとの風説は聞いて居りましたが、確実な
事は存知様もなく、その上市正は余人とは事替り大坂方の随一の仁でも御座いますので、
如何様の深い謀事もあるかも知れぬと疑っておりました。
然しながら城の人数が多ければ外に出る事もありますが、小勢の内から加勢の備を作って
城外へ繰り出せば、近辺の葭原の中に軍勢を伏せて置き突然湧起り城へ攻め込む事もあり
得るので、外へ加勢に出る事も難しく、また前述の様な疑いもあるので小勢で篭る城内に
茨木勢を呼入れもてなして万一城を取られた、となれば第一に内府様への不忠、次には
池田家の恥なる、と城中の者達相談を究めて、片桐の者達の希望に添わなかったものです、
と言上した。

家康公はたいへんな御立腹で、今になってとやかく言っても眼前で味方が討たれるても
放置せよ、と普段から家来に言っている武蔵野守の根性は一体どんな積りなのか、と云われ
そのまま座を立たれるのを見て、大膳は左手で脇差を抜き後ろへ投げ捨て御前へ這いより
小袖の裾にすがり、これはお情けのない上意で御座います、いくらお姫様のお腹から
生まれたのでは無くとも、武蔵守の事はお孫さんと思われないですか、今申し分を聞いて
戴けず、いつ聞いて戴けるのでしょうか、と涙を流して申上げたのを家康公も聞かれ、
よしよし聞分けてやるぞ、早く帰って武蔵守にも此旨を報告して安心させよ、と上意が
あったので大膳も手を合わせて御礼を申上げ御前を立った。

その後で家康公は座に付かれて御前伺公の人々に言われた事は、あの大膳の親も大膳と
云って、当時三左衛門が庄三郎と云う若輩だった時、馬の口取りをした中間上りである。 
以前長久手合戦の時親の勝入、兄の庄九郎父子が討死したと聞いて、両人が討れた
場所へ庄三郎も乗り付けようとするのを、馬の口にすがり引き返し連れて退く時、庄三郎が
腹を立て、放せ放せ、と云って鐙の鼻で大膳の頭を続けて二三町の間蹴りつけたが、顔に
血が流れ出るのも少しも構わず庄三郎を連れて退いた。 後に播州一国の主となったのも
彼の大膳の働きがあってこそである。 その者の子であるだけに今の大膳も、主の為には
身を構わず愛いヤツと思うぞ、現在家康の前へ出て今の様に云う者は外には知らない、
武蔵守は良い人を持つ、との上意だった。


長久手合戦: 小牧・長久手の戦い 秀吉対織田信雄を支援した家康の戦い、 
この時、池田輝政の父、兄が秀吉側で討死、
三左衛門: 池田輝政(1565-1613)の別名、父・兄の死後家督を継ぐが関が原で家康に付き
播州一国52万石を得る
武蔵守: 池田家二代目、輝政の正室の子池田利隆(1584-1616)通称武蔵守、輝政の継室が
家康の娘督姫


64
第64話 小出大隈守の事

元和二年五月七日大坂夏の陣勝利の時、大坂城中より煙が出ると同時に大きく燃上がる
のを家康公は茶臼山の陣場より御覧になられ、旗本の人々もこれを見てこれで戦も完了した
と悦んだ。
その時家康公は小出大隈守に来る様にと云われ、大隈守が御前に畏まって出たところ、
あれを見よ、と上意があった。 大隈守は大坂の方を一目見て、これはたいへん気の毒な
事で御座います、と挨拶を申上げた。 近所に居合わせた人々はこれは失礼な答え方で
あると思ったが、家康公はこれを聞かれ、確かに其方は特別に秀頼と関係があったので
その様に思うのももっともであるとの上意で、その後御家老達へも大隈守について語られ
感心されたと云う。


65
第65話  虚飾を叱る

家康公は若い頃から召仕われる近習の侍達について、少々行届かない事があっても細かい
事は云われず、多少の云い間違いなどは咎められる事もなかったのでたいへん奉公し
易かった。 然しながら少しでも人の道に外れる事や辻褄の合わない事に関してはたいへん
立腹され、苦々しくお叱りになる事も度々あったと云う。

これについて大坂夏の陣勝利の後二条の御城での事である。 大坂城中に居た三宿勘兵衛
の事を、関東にいた頃良く知っていると云う同国の侍が旗本に居たので呼び出し尋ねられた
ところ、三宿の事は申上げずに下総国の高野台合戦での活躍の話をして、自分の名が上がる
様に申上げた。
家康公は暫く考えられて云われた事は、其方が云う永禄年間の高野台合戦当時は北条氏康が
五十歳内外、子息の氏政が廿六・七歳ばかりの時である、その合戦の時は其方四・五歳の時で
あろう、辻褄の合わない事を言う者か、そこを出て行け、と云われた時の顔色は二目と見られない
程怒って居られた。

その後上意でも、あの様な虚飾を云う者が一人でも家中にあれば、全ての旗本の風俗まで悪く
なる恐れがある、更に懲罰を云いつけるとの上意であった。 ところが非常にお忙しい時期で
あり処分が延引している内に翌年の四月に他界され、結局懲罰はなかったと安藤帯刀の
物語である。


高野台合戦: 国府台の字が通常当てられる、永禄七年(1564年)小田原北条氏康・氏政と
安房・上総を制する土豪、里見一族との国府台(市川付近)における戦い、北条勝利


66
第66話 仇を報いるに恩を以てする

大坂夏の陣後駿府の御城でお咄の人々がある夜御前に集まっている時に、家康公が云われた
事は、私は皆も知ってい居る様に戦国時代最中に生まれ、若い頃から合戦の評議に明け暮れ
心身をすり減らし、学問をする事も無かったので文には疎い、然しながら只一條の文を聞覚え、
是を常に心に忘れず、三河国岡崎に在城していた昔より天下一統の今日に至るまで、この
一條の道理に随って当家創業の功を立てた。 さてこの一條とは聖賢の教えや仏典の中で
何であると思うか、其方達考えて見よと云われた。 

その時御前に伺公した人々で学問のある面々が、これではございませんか、あれでは御座い
ませんか、と色々申上げたが、それは違う、それも違う、と云われるので人々ももう分りません、
と申上げた。 家康公が云われたのは、今皆が云ったものは全て四書五経の中にある聖賢の
詞と思うが勿論それは人の道に大切な事である、 しかし私は文に疎いのでその様な事は
しっかりと聞いた事はない、 しかし「仇を報いるに恩を以てす」という一條は若い時から
聞覚えて常に心に忘れず、大事にも小事にも役に立つ事が多かった、 それ故大切してきた
詞であるが今日皆に伝えるぞ、と云われお笑いになったと云う。


仇を恩で報いる: 恨むべき人にかえって情けをかける(広辞苑)


67
第67話 家康公の右手指のたこ

家康公の右手の指節には四本ともにタコが出来ており、年を取られてから更に固くなり直ぐに
指が伸びないのを、駿府の御城に居られる小姓衆の者が気付いたが理由が分らなかった。

年寄りの人々の話すのを聞けば、家康公は若い頃から戦の度毎に始めの内は采配で指揮
されたが、緊迫してくると、掛れ、掛れと云われ、拳で鞍の前縁を叩かれので、指の節より血が
流出るので帰陣されて治療をなさるが、傷が未だ癒えない内に又次の戦があり、前述の様に
なさるので傷口が破れ、痛くてもその時は少しも意識されないので、あの様な指形になられた
のだ、と語るのを聞き皆不審が晴れたと云う。 
大坂夏の陣まで一生の間に、大小の合戦に逢われたのは四拾八度とか伺っている。 
尚、更に考えるべきである。 

岩淵夜話完