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  蘭人日本の記上
    但し一千八百三十九年
天保十亥年 刻和蘭宝函
      第一百一葉ニ出
    オランダ人による日本の記 上
   これは1839年(天保10年)発行のオランダ雑誌
         第101頁に載る。
註1 宝函とはマガジン(今は雑誌と訳す)の江戸時代訳で
この頃日本に入ってきた1839年発行のHollandische
Magazien(オランダの雑誌)の雑多な話題中101頁に
この日本の事が載っており、それを日本語に翻訳筆記した
ものと思われる。 筆者・訳者は不明
p1
 
日本の事の欧羅巴人に知られたるハ一千二百余年の
比、支那を奪ひ取りたる大汗
按ずる元の世祖を云に久しく奉
仕せしへ子チア人マルコパラロを其高矢とす、但し此人ハ
親しく自ら其地に到りしにハあらす、此人ハ日本の
名を其土の節にハ「ヤハンス」シペンキュエと呼ひ、日の昇
り出る傍に在る国土をいへる義也といふにもとつき、是
を名つけて「シハンユ」と記したり、其後閣龍
人名ハ欧羅巴 
日本の事がヨーロッパの人々に知られたのは西暦1200
年代である。 其頃中国を征服したモンゴルの大ハーン
(元の世祖フビライ)に長く仕えたベネチア人のマルコ・
ポーロが最初に伝えた。 この人は日本を訪問した訳では
ないが、日本の事をヤハンス・シペンキュア、即ち日の昇る
傍らにある国の意味でジパングと記した。 

註1 マルコ・ポーロは1271年から24年間商人としてアジア
各地を旅行し、その時の話が東方見聞録として流布した
と言われる。 日本は中国の東2500kmにある大きな島で
黄金の国ジパング伝説の元となった。
p2
の西方に在る新世界を
即亜墨利加ヲ云 見出さんと志せしか
己の船を向へき方角とハ日本ハ全く東西の違ニあれ
とも彼意見にてハ西の方へ船を出さは、終ニ必らす
東に続り出ること疑なしと思ひけれハ「ハラロ」シバンゴ」
の記を見て大に悦ひ、必此国をも覔め出さんと
する志を興したり、其初次の航海の時古巴
是可海ニ並島ノ名 
を以て「マルロパヲルロ」所謂「ジパンロ」なりと想い誤り
たり、同年
本註千四百九十二年明応元年熱爾波尼亜の地学家
の造れる地球儀にはシパンゴを以てカープヘルチセ島
亜墨利加の西岸に在緑峰島と訳ス
の西を距ねこと頗る遠隔地に置たり、然るに

今ハ幾はくならず閣龍ハ更に其地を精査し得て、その
初見の誤りを暁りたり、千五百年の半
天文年間の頃に及ひ
波爾杜瓦爾人始て喜望峰を廻りて東印度ニ通ずる
海路を発明し後、其国人東方諸国及び諸海縦横に
尋訪ひしに、千五百四十二年
天文十一年葡萄芽の海客難
風に逢ひて、日本の一有名の港に漂着セしか、土人
丁寧に其人を歓待セり、これ二百年の前ハ此国へ外国
よりの通路甚厳ならさりしか故なり、葡萄芽の人ハ
此好機会を失ハす、己か国の交易を弘め行ハんと力を尽セ
し折から、千五百四十五年
天文十四年日本の一少年臥亜
東印度西岸の地
其後コロンブスはヨーロッパの西方にある新世界(アメリカ
大陸の事)を発見しようと志す。 船を向ける方向は日本
とは東西全く逆であるが西に向って進めば最後には必ず
東に至る事は間違いないと考え、マルコポーロのジパング
について読み大に喜び必ずこの国も求められると考えた。
初めにキューバ(カリブ海の島)に達し、これがマルコポーロ
の言うジパングであると誤った。 此年(1492年、明応元年)
にゼルマニア(ドイツ)の地学家が造った地球儀には
ジパングをカープヘルチセ島(アメリカ西岸)から西に遠く
離れた地に置いている。

其後間もなくコロンブスも更に調査してその最初の誤りを
直している。 西暦1500年の半ば(天文年間)の頃
ポルトガル人が初めて喜望峰(アフリカ南端)を廻りインド
に通ずる航路を発見した後、同国人は東方諸国や諸海に
縦横に航海した。 其際1542年(天文11)、ポルトガルの
船が難風のため日本のある有名な港に漂着した。 その時
土地の人々は丁寧に彼らを歓待した。 200年前は日本
への外国からの航海は厳しくなかったからである。 
ポルトガル人はこの機会を逃さず、自国の交易を拡大
する事に尽力した。 

註1: 最初の地球儀はポルトガル王に仕えたドイツ人、
マルティン・ベンハイムが1492年に作ったと言われる。 
これには南北アメリカ大陸はなく島が幾つかあり、アジア
大陸の東方(ヨーロッパの遥か西)にCipanguとある
註2:コロンブスは1492-1502の10年間に4度アメリカに
航海している。
註3: ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが1498年アフリカ南端
の喜望峰を廻る印度への航路を発見した。
註4:ポルトガル人は1543年(天文12)種子島に漂着した。
ゴアから寧波に向う途中遭難したという。 この時初めて
鉄砲が日本に伝わる
p3
ありて耶蘇教に入りしものにして、二三名の耶蘇会
士を伴ひて本国に帰り、其法教を弘めたり、初めの
程ハ其教法に信従するもの少なかりしかとも、会土
輩志ますます堅く精を凝し力を尽して、少しも撓屈
する心なく専ら其法教を説き弘めたりしかハ、遂ニ
百難に相克ちて今ハ遍く国中に其居所を占め、日本
第二の大都会なるミヤコに規制宏荘なる会堂を造営
するに至れり、同時に二三の葡萄芽国の商人ハ此地方ニ
居住して、土人と婚姻を結ひ一心に親しく交りけり
然るに葡萄芽人の洪福次第に増長するに随ひて、今ハ

此国人の威勢も次第に厳重に是とり扱ふ様になり、終にハ
日本人と外国人と親睦の交りも破れて、互に相讐するに
至れり、其国の古来制度及ひ其固有の神仏を信する
日本人ハ頻りに傲慢なる葡萄芽人と其法を仰ぎ信する
法徒を甚嫌ふ心を生じけれハ、其国中にて徒党二ツに
分れ互に相讐敵する事になれり、然るに和蘭人英吉利
人は釁隙に乗して葡萄芽人を逐ひ付けて、日本の交
易の一半を我有となさんと思ひ、力を極めて其策を
行ひしかハ、遂に其志の如く百事順成し、両国の人
今ハ平戸崎に商館を置て交易を為すに至れり
其頃1545年(天文14年)に日本の一少年がゴア(印度西岸
の地)に滞在しキリスト教に入信したが、彼に2-3名の宣教
師を付けて日本に帰国させその教えを広めた。 初めは
その教えに信従する者も少なかったが、宣教師達は懸命
に力を尽くし諦めずその教えを広めた。 その結果広く
国中に広がり、日本第二の都市である都(京都の事)に
広壮な寺院を造るまでになった。 同時に2-3のポルトガル
の商人はこの地方に居住して、日本人と婚姻を結び
たいへん親しくなった。 

ところがポルトガル人の勢力が次第に増長するに従って
日本でも次第に厳重に取扱う様になり、終には日本人
と外国人の親睦も交わりも破れ、互いに憎み合う様に
なる。 日本古来の制度宗教をを信ずる日本人は、傲慢
に自分達の宗教を主張するポルトガル人や信者に嫌悪の
情を抱き、国中が二つに分かれ互いにいがみあう事に
なった。 そこでオランダ及びイギリス人はその隙に乗じ
日本の交易の一半を得ようと工作をおこなった。 その
結果、希望通りになり両国は平戸に商館を置いて交易
ができるようになった

註1: フランシスコ・ザビエルがインドのゴアで洗礼を
受けた鹿児島出身のヤジロウを伴い1549年渡来し、
鹿児島で布教活動を始めた。 初め許可されたが間もなく
鹿児島での布教が禁止され彼らは九州を北上する
註2:織田信長にも信任されイエズス会は急速に拡大した。
註3:1609年オランダ、1613年イギリスが平戸に夫々
平戸に商館持つ
p4
然ハあれと和蘭国人此邦にて交易を許されし後ハ遂に
耶蘇教法を禁し欧羅巴の風のを世に弘むるを停止したり
千五百九十年
天正十八年に及ひてハ早々既に葡萄芽人
およひ其教に従ふ信徒と土人の古よりの神仏を信仰する者
との間に戦闘出来て性命を殯すもの多かりける、然
れとも二三のフランシスカネル宗の僧徒の狂愚なる意含此
国の政堂の怒りに触るゝ事なき前ハ未だ耶蘇徒を日
本より悉く放逐セんとまての評議には及ハさりし
なり、抑此僧徒ハ瑪泥呀
呂宋の都の名より来りしか、
深智ある耶蘇会士の倣誠をも此国帝の制禁するをも構ハす

其宗門の寺を建て、公にミヤコの町にて説法始め
たり、其説の正大なるを証セんとてヘイフル
古経典の類を引
上帝を仰ぎ尊んて、其教に従ふ事を世間の王道人
倫よりも甚たしかるへしと説き、昇天の洪福に膺
らんとする一心より矯慢の説を吐き、他の古典ニ見へたる
教義を悉く打忘れ、智あること蛇の如く順なること鳩の如く
なるの古諺に背き、日本人に勧めて仏像を破り寺
を焼しむごとく横行を為セし、以来葡萄芽人及耶
蘇会士の権勢頻に衰ふ、然して耶蘇教を奉する
土人ハ厳しく蹝跡セられけれは遂に大に怨りを懐き
しかしオランダ人はこの国で交易を許された後は
イエスズ会に入る事を禁じ、ヨーロッパの風習を此国で
広める事は止めた。
1590年(天正18)になるとポルトガル人及びその信徒
と日本人の昔からの神仏を信仰する人々との間で争い
が始まり、命を落とすものが多くなった。 しかし2-3の
フランシスコ会修道士や信徒の愚かな試みが日本の
為政者の逆鱗に触れる前迄は、キリスト教徒を総て日本
から追放しようという風潮にはならなかった。  そもそも
この修道士達はマニラ(フィリピン)より来たが、思慮深い
キリスト修道士の倣いにはずれ、叉為政者の禁止も無視し

キリスト教会を建て、公に京都の町で説法を始めた。
その説の正統である事を示す為に、バイブル(聖書)を
引用して天帝を尊び、その教えに従う事が世俗の
王道人倫よりも重要であると説く。 天上での幸福の為に
唯我独尊の説を述べ、他の古典にある教えなど悉く否定
した。 智は蛇の如くして鳩の如く従順である諺に背いて
日本人に仏像を破壊させたり寺を焼かせたりした。
これ以後イエスズ会宣教師の権勢は次第に衰えキリスト教
を信奉する日本人は厳しく弾圧されたので彼らは激昂し、

註1 慶長迄の禁教令は布教は禁止されたが、棄教迄は
強制されなかった。
1586年 豊臣秀吉によるバテレン追放
1596年 秀吉によるフランシスコ会関係者26名処刑
1612-14年 江戸幕府直轄地の布教禁止令、教会破壊
註2 原文で国帝とあるのは実質的な最高権力者を指し、
信長、秀吉、江戸時代の代々将軍をさす。 ケンペルや
ツンベルグ(後註)が彼らを帝(世俗の帝)と呼び、天皇を
内裏(宗教上の帝)としている説を踏襲している。
p5
寧ろ己れこの子弟を惨毒なる死刑に処セらるゝとも活て
ヘイテン宗
天竺の教と云を奉するに優れりと云ふに至れり、
然るに其頃和蘭人ハ葡萄芽王に贈る書一二通を得たりしか
ハ平戸に在るセネニール
総督これを帝に呈しける、此書牌
にて葡萄芽大望を企て全く其国家を傾覆せん
とする陰謀露れしかは、書牌を贈りし人ハ速に生
捕となりて死刑に処せられ、其後直に千六百三十
七年
寛永十四年にハ帝家の厳命下りて、外国人おは一切
其国に入るゝを禁じたりしか、其厳命方今に至る迄
緩む事なし、其内地に居れる葡萄芽人ハ支那に在る

其国の所謂澳門に放逐し、耶蘇教に入る土人ハ数を
尽して生捕られ、耶蘇僧徒の隠伏セるものを披し
得る人ハ褒金を賞賜すへきを約し、土人の耶蘇教
を奉する者ハ其国より逐出すへき命あり、是外国人
此国に来るもの有バ厳刑に処して決て是を界に入れさ
ること同じ道理なれハなり、此号令を行ひし後、数
千の日本の耶蘇徒一揆を企て、兵器を操て島原
の側なる古城に取籠り、命有ん限りハ是を防かんとし
たりける、既にして帝家にハ和蘭人ハ教法を此国に
伝へんとの望なく、独り交易の為にのミ渡海し来れる
むしろ自分や弟子達が死刑になるとしても、それは
生きて仏教を信じるよりも勝ると云う結論になった。
其頃オランダ人は宣教師がポルトガル王に贈る書状の
1-2通を得たので、これを平戸の商館長から幕府に渡す。
この書状によりポルトガルが日本の国家を転覆させるという
陰謀が露顕した。 直ぐに書状を送った人物は捕らえられ
死刑となった。 
其後1637年(寛永14)には幕府の厳命で外国人は一切
入国を禁じたが、此厳命は今でも弛められていない。 
国内にいたポルトガル人は中国の

澳門(マカオ)に追放され、キリスト教を信奉する日本人が
多数捕らえられた。 隠れているキリスト教宣教師を誣告
した者に報奨金が約束され、日本人のキリスト信者は母国
から追放するよう命じられた。 外国人が渡来すれば厳刑
に処し、決して入国させない事と同じ理屈である。
この命令が出されると数千の日本のキリスト信者は一揆
を企て、武器を携えて島原にある古城に立て籠り、命の
限り戦う方針をとった。 幕府ではオランダ人は宗教を
日本に持込む意図は無く、交易だけで日本に来ておる
のであるとして、

註1 1611年オランダとポルトガルが戦争状態にあった時、
このポルトガルの幕府転覆陰謀の密書が発見されたと
云い、オランダの謀略説もある。 
註2 元和(1615-)以降の禁教令はでキリスト教そのものが
禁止の対象となり、棄教を強制された
註3 島原の乱1637年は厳しいキリスト教徒弾圧に反抗
して起きたと言われる。 
p6
ものなれハ、是を政庁に呼出し今度の一揆を誅戮する
援兵になりて彼敵を討、忠信にして弐心なきを証す
へしと命セられたり、和蘭人ハ固より少しも不快を
懐くへき道理なく、世権にも法権にも少しも関係す
る心なけれハ、かたしけなきよし対へけり、かくて我国
人ハ軍艦を島原に向けて逆賊をして困迫して
城を落去する迄攻たりけれハ、速に一揆亡滅したり
此騒乱の間、日本人死するもの四万人と云、千六百三
十八年
寛永十五年一切欧羅巴人の平戸島に在る商館を
毀ち、和蘭人江ハ新に長崎港中に在りて一橋を以て往

来する一小島の出島を賜りけり、此島ハ爾来和蘭
の管轄となり仏蘭西の略奪
ボナバルテの時に遇し時も凡て地球
上和蘭の旗旌を建たる地ハ悉く仏蘭西英吉利に奪ハ
れしかとも、此島のミにハ何の障もなく、本国の旗を閃かし
たり、然れとも外国人ハ都て日本の岸塘に一歩も足を
容るゝ事を許さゝりし、然ハあれと日本国との交易ハ些
少の事にて、毎年唯二艘の舟を通するを許さるれと
多くハ一艘をハタヒヤ
瓜哇の和蘭一轄の府名より出島に遣りて
銅木蠟樟脳・二三の漆器及ひ其他の雑貨を交易するのミなり
然に商館に於て付合の雑費ハ頗る巨大なれハ吾們竊に
オランダ人は一揆の鎮圧に対し幕府に協力し、日本に
忠誠を示すべしと命じた。 元来オランダは一揆にも
イエスズ会にも特別な感情をもつ理由も無いので
これを受け入れた。 かくしてオランダの軍艦を島原
に向けて落城するまで攻めたので、一揆は速やかに
滅亡した。 この騒乱による日本人の死者は4万人と云う
1638年(寛永15)平戸にあるヨーロッパ人の商館は総て
毀して、オランダ人には新しく長崎港の中に一つの橋

で往来する小島である出島を賜った。 此島はこれ以後
オランダの管轄となった。 フランスのナポレオンが
オランダを征服し、地球上の総てのオランダ国旗のある
地はフランスとイギリスに奪われた。 しかしこの出島だけ
は何の波乱もなくオランダ国旗を閃かしていた。
併し外国人は日本の陸地には一歩も足を入れる事を
許さず、一方日本との交易は僅かなもので毎年船二艘
に限り、殆んどは一艘でバタビア(ジャワ島、オランダ
植民地、現在のジャカルタ)から出島へ来て、銅・木蝋・
樟脳・二三の漆器及びその他の雑貨のみの交易だった。
一方商館維持の雑費は非常に大きく、我々が秘かに

註1 島原の乱を契機に幕府は完全な鎖国体制に入り、
キリスト教徒を根絶やしにする事と外国との通行を禁じた。
但しオランダと中国だけは限定的な通商を許可し、これが
幕末の開国迄続いた。
註2 オランダ本国はナポレオンのフランスに従属する事に
なったのでイギリスと敵対する事になり、オランダの海外拠
点(ジャワのバタビア等)の多くはイギリスに占領された。
 
p7
謂らくたとひ此土の商館を毀ち傷る共、国計に於て
甚大なる減損にハ至らさるへし
千六百四拾年
寛永十七年に至て葡萄芽初め失ひし威
権を復セんと思ひ同勢七拾人の聘使を澳門にて
仕立、日本に遣したり、帝家にハ欧羅巴ニて使者を取
扱ふ寛宥なる法度を省す悉く捕へてこれを殺し
僅に十二三人を遣して是に令して思へらくたとひ葡
萄芽王自ら来るとも、日本の地に大胆に足を入るれは
日々死刑に処すへきよしを申達し、小船に打乗せ
て逐放ちたる、爾来葡萄芽の沙汰ハ終に叉聞事なし

英吉利の商館の平戸に在る者ハ其後頃迄は交易
を事努しに、千六百廿三年
元和元年遂に是を毀ちぬ
千六百七拾二年
寛文十二年に及て、再ひ日本に交易を取
結んと求しかとも、其願ふ処を遂る事能ハさりし
なり、近二百年来日本の事に就て色々の状態を  
世に弘めしハ毎年出島より江都の帝に聘する使者
の見分せし内地の風評及ひ奇観を蒐輯セし
功に因らさるハなし、此蒐輯ハなかんづく三個の医人の
書記する所なり、但し此三人ハ時を同しくセされとも、皆
和蘭の商館に来り住し同しく聘使に伴ひて旅行
思うには縦令この商館を壊して交易を止めても国家として
は大きな損害とはならないはずであると。
1640年(寛永17)になってポルトガルが日本で失った
権益を回復しようとして70人の使節を澳門で準備して
日本に派遣した。 しかし幕府はヨーロッパでは使者に
対しては丁重に扱うという習慣に挑戦するかの如く、これ
を捕らえて殺した。 僅か12-3人を返し彼らに伝言して
仮令ポルトガル王自身が渡来したとしても、日本の地に
足を踏み入れれば即死刑にすると。 そして小船に
乗せて彼らを追放した。 以後ポルトガルの事は全く
聞いていない。

イギリスの商館が平戸に在った頃交易に努力していたが
1623年(元和元)遂にこれを毀した。 1672年(寛文12)に
再び日本との交易を取結ぼうとしたが許可されなかった。
この200年来日本の事を世界に広めたのは、毎年出島から
江戸の将軍に挨拶に上る使者達が見聞した国内の情報や
風景を集めた功績によるものである。
その情報は特に三人の医師が収拾し書き残した事による。
この三人は時代は異なるが皆オランダ商館に滞在し、
オランダ使節(商館長)に随って旅行した。

註1 三人のオランダ医師
・エンゲルベルト・ケンペル:1690年来日、91年92年二度
江戸参府に随行、綱吉将軍にも拝褐。 「日本誌」を著す
・カール・ツンベルグ:1775年来日、76年江戸参府(家治
将軍の時代)、帰国後「日本紀行」を著す
・フランツ・シーボルト:1823年来日、26年江戸参府(家斉
将軍の時代)、シーボルト事件で追放される。「日本」を著す
p8
を為せり、其人ハ独乙郡の人エンゲルベルツ・けむへる・
ファン・レムゴ一
人の姓名
蘇亦斉人チユンベルグ
人名及び独乙郡人フランスフォンシイ
ホルト
姓名なり、此三医生ハ他郡の産なれと、和蘭に来り )
仕へしなり、シーホルトにハ別而千八百二十三年
文政六年より
同二十九年
文政十二年迄日本に逗留し、暫時其国にて獄に
繋かれたりしか、切要にして且新殊なる事物を採
輯して大業をなし、大に其書籍・図画・肖像・金貨
諸学科の品物・奇特なる産物を齎し還れり、叉ラーフ 
ルメール・フイスセル及ひ耶蘇会士カルレホイキスの二人も
日本の事を記したる参考の書を著したり、此外千八百

十一年
文化八年日本に囚となれる俄羅斯の甲比丹ゴロウヒン
も日本の記事を著したり、近き頃日本に詣らんと思ひ
立たるハ亜墨利加の商人輩にて澳門にて艤し世に
知られたる如く破船の難に逢たる七人の日本人を本国
に送こさんと志しけるか、其志す所終に全く遂ること
なし、是の為に仕置たる船ハ銃砲抔等の兵器をも備へさる
モルリツソンと名つくる船にて、船中にハ有名なる弘法
使者キュツラツフ
人名を乗セたり、千八百三十七年天保八年
江都の港に着す、然るに更に浦川の港に船を進めしか
烈しく弾射せられけれハ終にその素願を遂る事
その人々はドイツ人のエンゲルベルト・ケンペル
スウェーデン人のツンベルグ及びドイツ人のシーボルト
である。 彼ら3人の医師は他国人であるがオランダに
来て奉職したものである。 シーボルトは特に1823年
(文政6年)より同29年(文政12年)迄日本に滞在し、
其間入獄した事もあったが、重要で且つ新奇な事物の
採集に貢献した。 これは書籍、絵図、肖像、金貨及び
学術的に貴重な品々を持って帰った事である。
叉オーフルメール・フィッセル及びキリスト教宣教師
カルレホイキスの二人も日本に付いて書記している

この他1811年(文化8)に日本に囚われたロシアの艦長
ゴローニンも日本の事を書き残している。
最近では日本に渡来しようと思い立ったアメリカ合衆国の
商人が澳門で船の準備をし、よくある事だが難破した
7人の日本人を本国(日本)送り返そうと計画したが、その
計画は達成できなかった。 この為に準備した船には
鉄砲など兵器類は備えず、モリソン号という船で船中には
有名な宣教師であるギュツラフが乗っていた。
1837年(天保8)江戸の港(浦賀)に近づいた。 更に船を
浦賀の港に進めたが烈しく砲撃され、その目的を達する
事はできなかった。

註1 ゴローニンは1811年(文化8)国後島で6人の部下と
共に日本の守備隊に捕らえられ、2年程日本で入獄した時
の事を 「日本幽囚記」として著している。
註2 マカオに居たアメリカ合衆国の商人チャールス・キング
が漂流民返還を手土産に日本との交易を目論んだ。
註3 カール・ギュツラフはドイツ人宣教師でマカオをベース
に中国で活躍。 日本人漂流民の協力で聖書の和訳を
試み、漂流民返還を利用し日本へ上陸を目論む。
註4 ヲーフルメール・フィッセル 1820-30オランダ商館員
 日本風俗備考、参府紀行がある
p9    
能ハず、其初僅に錨を下すやいなや、無数の小舟ニ而
厳密に船の傍らに乗りしか初て船に乗入たる
人ハ老人なりけり、格別に取持れたり、此様子を見て
続ひて二三人乗りこみしか、酒及ひ鮮新の下
物を出して取り持しに初の程ハシケーコスペイコスト
船中にて
用る二度焼の蒸餅
少し計りを食するのミなり、船に来る人ハ少
しも交易の物を携へ来らず、其畦の雑貨・煙管・扇子
等を分ち贈るを喜ハす、此人々ハ大半雨天なれ共唯甚
薄き衣服を着し首ニハ冠りものもなし、其頭は巓頂
を剃り、髪を両耳の上より後の方へ撫やり、尾の形のごとく

為し、其刷毛先を下し垂る、婦人の髪は全頭に
生して丈長く多く櫛及び他の飾具を刺セり、其
男子ハ身体強健骨格好も好く造立セり、叉大抵好き
髪を生す、其目ハ長くして狭く、其容貌甚だ支
那人と異なり、其頸短く鼻扁平に上顎前に挺出セる
状、高麗・クリル島我奥蝦夷千島ヲ云及ひ北海に住る人と
相類す、婦人の容貌ハ男子よりも妍麗なれとも、其歯牙ハ
印度の檳棉を食する人の如く、其色黒し、其人多くハ
外套の一種を身に纏ふ、其製ハ蓆を織りたる者と   
相似たり
按るに蓑衣を云歟叉同状の竹筍の皮にて造れる大笠
初めには錨を下すや否や無数の小船がぎっしりと船の
傍らにやって来て、最初に乗込んできたのは老人だった。
丁重に取扱ったが、此様子を見て続けて2-3人乗込んで
きたので酒や食べ物を出して接待した。 初めシケーコス
ペイコスと呼ぶ船中で用いる二度焼きのパンを少し食べた
だけであり、 船に来る人は交易の品物はなにも持って
いない。 手持ちの雑貨・煙管・扇子等分かち与えても
喜ばない。 これらの人々は雨天なのに薄着であり、帽子も
被っていない。 頭は天辺を剃り、髪を両耳の上で後ろに

撫でつけ、尾の様にして先端を垂らしている。 婦人の髪
は総髪で丈は長く櫛や髪飾りを刺している。 男の身体付
は頑丈で骨格も立派で、叉大抵は髭を生やしている。
目は長くて細く、その容貌は中国人と大きく異なる。 頸
は短く鼻は扁平で上あごが前に突き出ているのは、朝鮮j
や千島やカラフトなど北海に居住している人と同種に
見える。 婦人の容貌は男よりも綺麗であるが、その歯は
黒く染めており、大抵はオーバーの一種を身に纏う。 是
はカラムシを織ったものに似ている。 叉たけのこの皮で
造った大笠を被っている。

註1 無二念打払政策の時期であり、ここでモリソン号は
日本人と接触しているとは思えない。 もし接触していれば
モリソン号の素性がもっと早く明らかになっていた筈である。
上の日本人の風俗の記録はこの時のものでなく、ケンペル
やツンベルグの記録の流用と思われる。
 
p10
を戴き、一片の紙に漢文にて水と食とを乞ひ、且官人
対面いたし度よしを記して手渡セしにて、日本人ハ
漢文を解し得たるよしをしりけれハ、キュツラツアは色々
手真似にて此方の心を暁しける、一員の官人船に
来りて対面せさる前ハ漂客を出し逢ハしむる事
好からさるよしも申合けれハ、深く匿して出会セしめス
日本の船ハ二三十尺の船の長サにして、幅六尺より八尺
はかり、舳前ハ尖り是によりて見れハ、日本の舟ハ支那の船
よりも堅硬に造就セる事明かなり、凡日本人の造れる器
物は皆精好と見へたり、明日は上陸せんと船中の人決心

せしに、夜中に四門の大砲を海岸の高所に架し
暁に及んて順々に打放さんとせしかハ、モルリツソン船ハ
遥々来りし甲斐もなく、空しく白旗ひらめかされ
敵になる旗色ヲ云 けれハ已む事を得ず錨を引揚け既に帆を
揚る時、三四十人の兵士を載たる砲船三艘港の方より出来り
無数の弾丸を自在砲
タラーイハスにて打放したり、幸に
して日本の火薬粗悪に打法も未熟なりけれは
モルリツソン船も毀傷に遇ふことなかりけり
今はモルリツソン船ハ江都を距ること三十三里なる鳥羽
の港に船を入れハ事の成否試んとしたりける、此
一片の紙に漢文で水と食料を願い、且役人に面会したい
旨を記して手渡し、日本人は漢文を理解するということを
キュツラフは知っているので色々手真似で此方の意図を
告げた。 役人が船に来て面会する前に漂客を彼らに
面会させることは好ましくないと打ち合わせていたので
船内に隠して表に出さなかった。 
日本の船は長さ7-8メートル、幅2-3メートル程で舳先は
尖っている。 これを見る限り日本の船は中国の船よりも
堅牢に造られているのは明らかである。 一般に日本人
が造る器物は皆精巧に見えた。 明日は上陸だと、船中
の人々が決心していたが

夜中に四門の大砲を海岸の高所に据付、夜明けと共に
順番に発砲し始めたので、モリソン号は遥々航海してきた
甲斐もなく空しく打払いの旗をひらめかされ、已むを得ず
錨を引上げ帆を揚げる。 その時サ30-40人の兵士を
乗せた砲船三艘港の方より進み出て無数の弾丸を撃つ。
幸に日本の火薬は粗悪で打法も未熟な為、モリソン号は
大きな傷は受けなかった。
浦賀を去ったモリソン号は江戸から三十三里離れた鳥羽
の港に船を入れる事を試みた。

註1 モリソン号が浦賀付近に渡来した時の浦賀奉行が
老中に上げた報告書は以下の通り
異国船は相模の野比村沖合いに留まっておりますので
早速打払を行うべきですが、その夜特に風雨が強かった
ので番船に厳重に監視させ、野比村の白根に三百目大砲
其外の大砲を回送し、今日暁に船が見えるようになると
陸地及び番船から砲撃したところ、早々帆を揚げて出帆
しました。
p11  
港ハ船中に在る漂客の中にて弐三人ハ曾て船を泊セりと
然れとも風悪しくして、寄セ此港に入る事能わず
已む事を得ず八月十日鹿児島の港に船を入たり、此所より
将校按針役に船卒四名を差添へ、港の浅深を測らん為
一番漁船に乗せて佐田浦といへる村の方へ漕寄たり
此村ハ塩名御崎カーブツエユツアクツフより半里余内地の
方へ入込たる所なり、此者とも速に官人壱人と其僕幾名とを
乗せ伴ひ来りたり、其官人ハ思慮ありて甚器量すへき
容貌なり、衣ハ青白の筋ある木綿の服にて擱大
なる帯を固く結ひ、これに二柄の刀をさし、烟蓑と

烟管と挿ミ掛たり、其余ハ皆全く保体なりき、官人少しも
別なることを云ハず、直ちに漂客に向ひて曰へらく
国人皆公等を盗賊なりと思ひ居れハ、此船を打払ハんと
支度セりと語りけれハ、今度来着せる主意を精しく
打明し物語りしに、彼もしからハ甚大切の事件なりと
思へる気色なりき、郡縣の役人并に帝に呈する書
此地ヲ公領なりと思ひたれハ帝といへるなるへ
を出しければ是を手に受取て届け達ス
へきよしを約し,一人の測水官をは其侭船に留たり
但し決して港内に深く船を入るまじきよしを戒し
めたり
この港は漂客の中の2-3人が以前船を停泊した事がある
と言う事だが、風向きが悪く港に近づく事が出来なかった。
已むを得ず8月10日鹿児島湾に船をいれた。 航海士に
水夫4名を付けて港の深さを測るためボートで佐田浦と
云村に漕ぎ寄せた。 この村は岬より半里程内側に入った
所である。 この者達は直ぐに役人1名とその下僕を乗せて
戻ってきた。 この役人は知的で堂々とした容貌であり、
青と白の筋のある木綿の服に幅広い帯を固く締める。 これ
に二本の刀を差し、煙草入れと煙管を挟んでいる。

役人は余計な事は云わず直ぐに漂客に向って、当地の
人々は皆諸君等を盗賊と思っているので、此船を打ち払う
準備をしていると語った。 そこでこの度の渡来の趣旨を
精しく説明したところ、彼はこれはたいへんな事になった
という表情をした。 より上位の役人及び将軍に差し出す
文書(此地を公領を思って将軍といったものか)を出せば
役人はこれを手にとり、届ける旨約束し水先案内人ひとり
船に留め、決して港内深くに船を入れぬようにと注意する

註1 7人の漂流民の中3人は尾張の船乗り、4人は薩摩
(肥後説もある)と云われており鳥羽は尾張出身者にとって
知己の港と思われる。 猶原文で江戸ー鳥羽33里となって
いるが間違いと思われる。 地図上では凡そ500km、
133里位である。
註2 佐田浦とは現在の大隅半島先端に近い佐多付近
であり御崎とは大隅半島先端の佐多岬と思われる。
p12
其後モルリツソン船へ薪水を贈り来る土人等多く、船四
面に来りて見物す、然れ共少しも交易をなさず、土人ハ
浦川の人よりも佳麗にして衣服も彼よりハ好し、日本の
漂客壱人上陸せしに甚だ懇に歓待し、土人漂客に語
りけるハ、国中一揆ありて江戸にて数人刑戮に遇ひ、国
中第三等の都府大坂ハ憤懣を懐ける官人の為に焼
かれて灰燼となれりといへり、前に遣したる書札ハ速に
差戻されしに使に往きし官人云へらく、上官ハ書札ヲ
請取肯せず、然れとも其趣を鹿児島に云送りたれハ
其返答も久しからずして来るへしと語る、同道セし

測水官ハ船を港の西の方の安全なる所に泊すへきよしの
命令を受たり、此際強く防禦を為す光景と見へたり
日本人の約束も速に憑たしとハ見へずなりける、十二日迄ハ
万事静謐なり、然れともこれ一時、風は括静なる後ハ
大なる海嘯を起すものなり、今はモルリツソン船へ食料をも
贈り越さず、宰船を出して船を好き錨を下すへき
所在へ導かんともせず、土人禁じて一人も船に来らし
めず、船にハ厳重に番船を付けたり、人々鹿児島
より官人の来るを待わび、いろいろ物語しける内漂客ハ
請取られましきよしの風説を聞たり、十二日の朝三の

その後モリソン号へ薪水を持ってくる村人も多く、船の周囲
に来て見物するが交易をしようとはしない。 ここの人々は
浦賀の人々よりも端正で服装も良い。 日本人の漂客の
ひとりが上陸したがたいへん歓待した。 その時村人が
語ったところによれば、国内で一揆があり江戸において
数人が処刑された。 国内第三位の都市大坂は不満を
持つ役人に焼かれて灰燼となった由。
前に提出した文書は直ぐに差し戻され、取り持った役人に
よれば、上役は書状を受取らなかったが、その趣旨は
鹿児島に伝えるとの事なので遅からず返答があるだろうとの
事である。

一緒に来た水先案内役人は船を西の方の安全な場所に
停泊せよとの命令を受けてきた。 これは防禦の姿勢とも
見え、返答の約束も直ぐに来る様子は見えない。 12日迄
は全て静かだったがこれは一時の事であり、風は静かの
後大波を起すものである。 既にモリソン号へ食料も来なく
なり、案内船を出して船が錨を下すに良い場所へ誘導する
事もない。 村人には一人たりとも船に近づく事を禁じ、船
には厳重に番船を付けた。 船内では鹿児島より役人が
来るのを待ちわび、色々話している中に漂客受取は無い
だろうと云う噂が聞こえた。 

註1 天保の飢饉で一揆が各地で頻発し一揆首謀者達が
多数処刑された。
一方苦しむ庶民を救おうと、大坂町奉行元与力の大塩
平八郎が1837年(天保8年3月)幕府に対して乱を起したが
半日で制圧されてしまう。 大塩の屋敷は自ら火を付けた
と云われているが大坂が灰燼に帰したと云のは大げさか。
註2 西の方というのは、薩摩藩の記録によれば大隅半島
側から薩摩半島側の山川港外に移動させた事と思われる。
p13
漁人船に入り来りて、漂客の其席に出逢し者に
語りける、此船ハ烈しく打払ハるへし、早く錨を揚出船
するこそ肝要ならんと熟思して語りける、間もなく
海岸に一の異しき軍備そなすと見へ、二三の役夫長く
且広く縫ひたる木綿布を長く続て木と木との間
に張て固く縛り慢陣を造る、此陣営を造り終りし頃
一二百人の兵士糧嚢を背上に負ひ、疾歩して陣中ニ
入ると見へしが、俄に大小の火砲より烈しく大丸を打出
セり、既にして船ハ帆を揚たりけれハ船卒力を尽して
大砲の届かぬ所迄漕除きける、十八時の間ハトイツ里法

にて一里許の広サ計りなる港の両岸より打出す火砲の
火の中に引包まれてそ居たりける、然れとも我方にハ
火器を備へされハ敵対すへき様もなし、かゝりけれハ諸の
望も絶へ果たり、薄命なる日本人
漂流七人をさす今ハ永世本
国より追放せられ還り来るへき取扱にあひて大に
怨を含める気色そあらわれける、七人の内二人ハ己が本
国を思ひ切たる証拠なりとて、全頭の毛髪を剃弁
たり、是迄毎度着岸セし形勢にて、推すときハ此上へ
長崎へ到るも好ましき事にもあらず、且漂客等も長崎ニ
赴く好まさりしにより、モルリツソン船も今ハ何の為し
12日の朝三人の漁師が船に来て漂客に逢って云うには
この船は烈しく打払われるから早く錨を揚げ出帆するのが
良い、と真剣に語った。 間もなく海岸で砲撃準備と見え
2-3の長く且つ広く縫った木綿布を木々の間に張って
固く縛り陣幕を造る。 陣が出来ると100-200人の兵士が
物資を背負い陣中に駆け込むのが見え、にわかに大小の
火砲から烈しく弾丸を打ち出した。 既に船は帆を揚げて
いたので水夫達は力を尽くして船を大砲の届かぬ所まで
移動させた。 

数時間の間7.5k程の広さの港の両岸から打出す火砲に
包まれた。 しかし我方は火器を備えて居ないので敵対
しようもない。 このような訳で諸々の望も今は総て消えた。
気の毒な7名の漂流日本人は母国より永久追放の取扱い
を受け、非常に怨みを含む事になる。 7人の内2人は母国
に見切りを付けた印にと、総髪を剃った。
是迄の着岸毎の打払い状況から、この上長崎へ云っても
決して受入られるとは思えず、叉漂客達も長崎に行くのを
好まなかった。

註1.ドイツ里法とは19世紀のドイツマイルの単位で
1メートルマイル=7.5km。
註2.この漂流民の中の音吉という人物はマリナー号という
 英海軍の船の通訳として1849年日本を訪れ、1854年に
 日英和親条約締結の際も英側の通訳として来日した。 
p14
出しける功もなく碇泊を許さゝる海浜を
辞し去り澳門の方へ乗行ける

日本ノ記上終

結局モリソン号は何もなす事なく、停泊を受容れられない
日本の海岸に別れを告げ澳門に帰って行った。

日本の記上終

註1 モリソン号については当時日本では素性、背景が
良く知られて居らずイギリス船とも思われており、幕府の
「無二念打払」方針の対象になっていた。 
この記録は船に乗って居なければ此処までは分らない
筈であるが、2年後のオランダ雑誌の記事にどの様にして
流れたのか興味ある問題である。
出典: 文鳳堂雑纂57分冊 内閣文庫(国立公文書館蔵 参考文献:ケンペル日本誌、ツンベルグ日本紀行


 蘭人日本の記下
    但一千八百三十九年
天保十亥年
      和蘭宝函第二百二葉に出
   オランダ人による日本の記 下
   これは1839年(天保10年)発行オランダ雑誌
     第202頁に載る
p1 
ケンプル
人名ハ日本を以て英吉利と比較セり、此比較ハ
一廉の言ならず挍ふへきもの多かりける、此二国は 
彼是に重立たる頭島あり、地形梢狭しといへとも
頗る長く、頭島ことに大都府の全形北方より起り
て南に竟り、毎島各全国中の重立たる所在を為
せり、叉両国の人口も大抵匹敵す、但し日本は二百五十
万人なりと書たれと、是推量に出たる説なれハ、信じ
ケンペルは日本をイギリスに比較している。 この比較は
一分野に限らず比べるものが多い。 この二国は基幹となる
島がある。 地形は狭いけれど非常に長く、基幹島毎に大
都市があり、北から南に亙っている。 叉両国とも人口は
同じくらいである。 但し日本は250万人と書いたものも
あるがこれは推量によるもので信頼するに値しない

註1 江戸時代の人口は各種の記録、推定があるが、
2,500万ー2,800万位である。 原文250万人とあるのは2,500
万人の書誤りとも思える。
p2
かたし、三大頭島にハ無数の小島各々これに属す
其中の尤大なる者をニホンと云長サ百四十里、次にシコユ
叉ソコフ」四国、次に九州叉「シモ」、これその三大島なり、
九州は西の壱分にして長崎港ハ其地に在り、和蘭の舘舎
出島も其港内に在り、四国・九州ハ皆ニホン島の南に在り
其北の方にハ日本に属従セされ共是と交係せる
蝦夷島あり、蝦夷と端島カムシャツカの間にキュルコシン
島千島と云あり数多の日本人もこの地に居住セり、蝦夷を
通して数ふれは、日本ハ北緯三十度より四十
五度に竟り、殆と八千箇里方積の大サなり、其四面の

海ハ甚た危く者ニて大風浪を起し、海岸の地ハ浅沙
あり、是日本人の他国と交らさる生理を為すためにハ
甚た便宜なりとす、大船ハ近く海岸に寄すへから
さる所多く、内地の船ハ是を以て浅砂を行く、其
国の時候ハ平和にして人に宜しく、冬日雪降り寒
気甚強し、然れとも夏日ハ暑熱高度に昇、雨ハ四時
を択ハず大に降る、但し六月七月の比を尤多しとす
国内地震あり時々大震して大なる害を為すこと
あれとも、土人是を惧るゝこと和蘭地方にて雷電ヲ
懼るゝよりも少し
三つの基幹島には無数の小島が各々に属している。
これら三つの中で最大の島をニホン(本州)と云い長さは
140里である。 次にシコク(四国)、次にシモ(九州)で三大
島をなす。
九州は西の部分で長崎港は其地にある。 オランダの商館
出島もその港内にある。 四国及び九州は皆本州の南に
ある。 本州の北には日本に含まれないが関係ある蝦夷島
(北海道)あり、蝦夷島とカムチャッカの間にはクリル島・千島
があり、多くの日本人が此地に居住している。 蝦夷を含めて
考えれれば日本は北緯30度より45度に亙り八千里四方の
大きさであり、その四面の海は非常に危険で大きな風浪が

起き、海岸の地は浅く砂地である。 これは日本人が他国と
交際を避ける為にはたいへん役に立つものである。
大船は海岸に近づけない所が多く、内地用の船は浅い所
を行く。 気候は穏かで人に優しいが、冬は雪が降り寒気も
厳しい。 一方夏は暑く高温になり雨は良く降り特に6月
7月が最も雨が多い。 国内には地震が多く時々大きなもの
があり被害を出す事もあるが、日本人はこれを怖れるのは
オランダ地方で雷を怖れるより少ない

註1 蝦夷(北海道)に関してはケンペルの記録によれば、
日本が国外に持つ最大の領地という表現を使っている。 
蝦夷は江戸時代中期頃迄は国内という概念ではなかった
と推定される。
 
p3
此国の内地は審に知るへからず、海岸も精しく
測るへからされとも、国中総て山岳多し、但し「ニホン」
島を尤甚しとす、此島にハ一高山あり一万四千
尺に至るかし、国中に高山あるが故に河水の流るゝ
勢ひ甚だ緩急なり、付属の小島の上に現に火
焔を噴起する大山多し、蝦夷島には一港あり火
坑港
ヒュルカーンハイシと名付く、これ港の両辺に火山ありて
是を囲むが故にて此名あるなり
最大島「にほん」の内にハ衆多の都府村鎮あり、全
国の頭府にて帝の居城を江都といふ、此都ハ「ニホン」

島の東南に在り其大サハ北京に比すへく、人口ハ一百
万叉ハ一百万五千許りなるへし、大抵日本人のいふ所
にてハ都府の大サも人口の数も過大に失す、都府ハ一日
に一方より他の一方に達すへからず、戸数ハ二十八万
人口ハ一千万たりといへり、家屋ハ皆木にて作り甚だ浅疎
にして高からず、街毎に木戸を設て帝宮ハ屋宇ニ
鍍金す、人の言によれハ周囲二里半余ありとす、此都ハ
千七百三年
元禄十六年地震にて殆ト全く荒れたり
第二の大切たる都府をミヤコといふ、国中の神聖なる
君主是に居住す、名付て内裏様といふ、千五百八十五
此国の内地を精しく知る事は出来ないし、海岸も精しく測る
事は出来ない。 しかし総じて国中に山岳が多い。 特に
本州島に多く、ここの一高山は14,000尺に達するという。
国中に高山があるので河水の流れはたいへん急である。
付属する小島の中には火炎を噴起する大山も多い。 
蝦夷島には一港があって火坑港と名付けている。 港の
両側に火山あるのでこの名前が付いた。 最大の島の本州
には多くの都市や町村があり、国最大の都市は将軍の居城
があり江戸と云う。 この都は本州の東南にあり、大きさは

北京に匹敵し、人口は百万ないし百万五千程である。
大抵の日本人は江戸の大きさも人口も過大に云い、江戸は
一日で端からから端へは行けず、戸数は28万人口は1千万
と云う。 家屋は総て木で作りたいへん簡単で高さを高く
しない。 街ごとに木戸を設けており、将軍の居城は屋根に
鍍金をしている。 話によればこの城の周囲は2里半あると
いう。 この都は1703年(元禄16)の地震で破壊された。
第二の重要な都市をミャコ(京都)、此国の神聖な君主が
居住しているおり、この君主を内裏様と云う。

註1 元禄地震 1703年12月31日関東地方を襲った大地震
でM7.9-8.2、関東南部で震度6-7と推定されている。 
江戸では比較的被害は少なかったようだが相模湾沿岸、
房総南部の被害が大きかった。
p4
天正十三年迄ハ政治の権柄を執りしとす、此府ハ「ニホン
島の内地にありて、其大サ江戸と相比したり、其書記す
所によれハ人口五十一万あり、寺院の数ハ「カムフルの説
ニハ六千宇ありといへり、第三の抔の都府を大坂及びイト
カイ
未詳とす、ニホン島の海岸に在る港なり、次に長崎鎮と
ハ九州島に在り、此五府ハ所謂国中の帝領
公領を云なり
長崎鎮ハ人口七万にして其港ハ厳重に警衛し
其形ハ頗る長く水の深サ四十尋より四尋に及へりといふ、
第二百一葉
原本の帖数に載たる第一図ニホンの南西部に
在る小海港下関の図なり九州とニホンとを分つ海峡に在り

此地ハ和蘭の使者長崎より江都に赴く途中に在り
長崎より先小倉に来り、次に下関次に大坂にいたり
終に江都に達す、但しその途は海岸に接する山
岳の麓を繞りて此都に到る、図に著セる如く日本の
家は卑く街道甚だ狭し、是を以て失火あれハ数千
百家を延焼す
第二版の図日本官道にして旅客平日旅行の状を見るに
足れり、旅行の事に就てハ甲必丹ゴロウニン下の文を記
せり、豊饒なる日本人ハ旅行する状甚だ華麗にして
高貴の人ハ車乗を用る、其制ハ欧羅巴の制と相似て其
1585年(天正13)迄はこの君主が政治を執っており、この
都市は本州の中頃にあり、大きさは江戸に次ぐ。 記録に
よれば人口は51万、寺院はケンペルの説では6,000と云う
第三の都市は大坂及びイトカイ(不詳)であり、本州の海岸
にある港である。 次に長崎は九州島にある。 これ等の
五都市は総て天領である。 長崎は人口7万で港は厳重に
警備されており、形は長く推進は4尋から40尋に及ぶと
云われている。 オランダ雑誌原本201頁に本州南西部
の小さな港、下関の図がある。 ここは九州と本州を分ける
海峡にある。

叉此地にはオランダの使者が長崎から江戸に行く途中に
あり、小倉を通り次に下関、それから大坂に至り江戸の到達
する。 図に載せる様に日本の家屋は貧相で街道は狭い。
それ故失火がれば数百数千の家が延焼する。
第二版の図は日本の国道で日常の旅客はの様子を知る
事ができる。 旅行に就いてはゴローニン艦長の以下の文
を示す。 豊饒な日本人が旅行する光景はたいへん美しく
高貴の人は車に乗る。 この習慣はヨーロッパの習慣と似て
おり、

註1 1853年(天正13)は秀吉が関白となり全国を統一した
時であり、 この時から天皇の政治権力は総て奪われたと
しているが、一般には12世紀の鎌倉幕府成立から天皇の
政治権力は幕府に移行したと考えられる。
註2 ケンペルやツンベルグの参府記録によればオランダ
使節の江戸参りは下関から瀬戸内海を船で大坂迄行き、
それ以後江戸迄東海道の陸路を取っている。
註3 文中第二版の図とはケンペルの日本誌に出ている図
と思われる。 オランダ使節の旅行図を見る
p5
始ハ和蘭人より伝ふる所なり、大抵此車乗ハ手にて曳く
然れ共亦馬にても牽くことあり、然れとも多くハ駕
籠を用ふ、叉馬に乗るものあれとも、馬
常に他人をして僵を引かしむ、其道路ハ好き規制にして 
二百年前英吉利の甲必丹「サリス」といへる人の記に曰く
道路は一里毎に小なる木を植たる丘ありて、其一里数を
表す甚だ的切の設たり、此制ハ我欧羅巴にてハ今に
至て無き所たりといへり、道の側に旅館及ひ駅站あり
チュレヘルゲ
人名上二見ユ曰く日本の人家の櫛比セる家並
及ひ華潔なる造構ハ甚だ和蘭に似たりチュンベルグの如く

ケ様に精しく其土俗を見たる説をせは、其国々ハ道路
の両側皆好く耕耘しえ種芸せる膏腴の地にして
一村を行ハ次の村続て出つとぞ
日本の外国と交易するハ和蘭と支那二国に限れと
内地の商売ハ海陸共に甚だ繁昌なり、毎港にハ必ず一
宇の運上役所あり商人の穀値を射中れる為に現物の
価を記セる一種の告文を出す、其重切なる商売の品物ハ
材木及び米なり、木ハ日本の北部の産物にて米は
南部に多く産す、叉茶煙草ハ叉家必用の物たり、此等の
産物の外に叉木綿布・繭帛を織り、塩を作り魚を漁
し、
初めはオランダ人が伝えたものである。 大抵の車乗は
人手により曳くが馬で曳く事もある。 しかし大部分は駕籠
を用いる。 馬に乗るものもあるが、その馬は常に人手により
手綱をとる。 道路は良く整備されており、200年前イギリス
のサリスと云う人の記録では、道路は一里毎に小さな木を
植えた丘があり、これは距離を表す適切な処置である。 
この制度は今でもヨーロッパには無い、と云っている。 
道路の側に旅館及び駅がある。 ツンベルグ(前出)が云う
には、日本の家並みは櫛の様になっており、美しい作り方は
オランダに似ている。 

ツンベルグの様に細かく風俗を見た説によれば、日本は
道路の両側は良く耕作してある。 各種作物が採れる肥沃の
地であり、一村を過ぎると次の村が同じ様に続くと云う。 
日本が交易をする外国はオランダと中国の二ヶ国に限ら
れるが、国内の商売は海陸共にたいへん盛んである。 港
には必ず税務役所があり、 商人の穀物の価値を図る為に
現物の内容を記した申告書を提出する。 主要な商品は
材木と米である。 木は日本北部の産物で米は南部に多く
産出する。 叉茶及び煙草も重要である。 これらの産物の
他に木綿や絹織物を織り、塩を作り、魚を取り
p6 
銅鉄山を稼ぎ、有名の陶磁器を製し、菜疏を培養
する所を其職業となして、商売の貨物となす也
其人種ハ何の鼻祖より分れたるや審ならされとも、形
体の貌に就て論する時ハマレイス
印度諸島の種の名種たる
へし、その風俗ハ支那よりひらけたりと見へたり、国人の説
し所によれは其太祖ハ半神聖のなるが故に、他国の人の
系統よりも尊貴なりと思ひ、外国の人種をハ皆これを
賎しミ悪めり、其神聖の君に内裏様ハ代々血統  
にて相伝し、上にも云たる如く、古ハ一国を治平する
政権にも関係し、大半ハ公方様即上将軍其大権を

握れり、其後名誉を好む公方終に人君の権を奪
ひ、久しき血戦の後これを盗ミて全く己が有と為
せり、然れとも制度法律の事に関りてハ一切内裏の
勅許を得るにあらされハ行ふことあたわず、表向にてハ
帝より内裏を崇尊すること極めて厚く定りたる
時月にハ究壮なる儀式を備へて使を「ミヤコ」に遣し
其尊候を問ふ、帝ハ本国の政柄を地方の名族に分ち
授け、国守県令たるものをして代々其地に土着して
是を行ハしむ、人民の階級ハ地方の政柄を執る公侯
貴族、僧官兵士商売職工農民奴隷是なり、其軍
銅や鉄山を採掘し、上質な陶磁器を焼き、各種作物を栽培
する事をその職業とする事により商品を作り出している。
この人種はどの様な分岐をしてきたかは不明だが、形容貌
に付いて云うと、マレー系(インド諸島の人種)の系統では
ないだろうか。 風俗は中国より開けているようである。 
この国の人が云うには、自分達の先祖は神聖な神々で
あり、他国の人々の系統より高貴と思い込み、外国の人種
はこれを卑しい者と考える。 特に天皇はその神聖の君
の系統で代々続いてきた。 前述の様に古代には天皇が
此国を治めたが、大半の政権は公方即ち征夷大将軍が
握った。 

その後名誉を好む公方が天皇の政治権力を全て奪い長期
の戦いの後公方が勝ち取った。 しかし此国の制度・法律に
関しては天皇の勅許を得なければ実行できないので、表向
は将軍より天皇を崇拝する事が定着している。
定期的に丁重な儀式を整えた上で、将軍は天皇に使を送り
機嫌を伺う。 将軍はこの国の執権を地方の大名に分与し
大名や代官をその土地に住まわせ監督させる。 人民の
階級は地方の政治を行う大名、貴族、僧侶、武士、商人、
職人、農民、非民がある。
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人ハ甚だ尊き位たり、公侯ハ自身に政官となりて其
領地に行き、近親のものをは帝への人質まてに江都ニ
残し留む、其官人ハ国家の法制を守りて、失ハさらん
と上下皆心を弾セり、毎年日本に在る和蘭国の交易
総督ハ帝の尊候を尋る為に江都に至る、此時二三の
官人をも伴ひ行く、日本人数十人前後を警守す、ケンフル
の時は此使の往来三月許りの月日を費したりとぞ
此使節の勤ハ第一ハ帝に奉る献上物を貢納する為
なり、此使にて旅行する間は厳重なる目付を以て
守衛せらる、但し其人にハ大小の者とも皆道理を知り

たる人なれとも守護の厳重なるにハ安き心なかりし
ケンフル曰く此道中一千六百九十一年
元禄四年経る所ろの
大府二十三、小なる所在七十五、二十九日の道中にて
始て定りたる場所江都に到着しぬ、拝礼の間彼是の
礼終りしとき、数百千の人々しばしば不都合なる疑問
を総て側に侍セるものに尋たる、日本人年齢を問イ
姓名を問へハこれを記し与ふを要すへく、ケンフルハ医者
なれハ問ていへらく、何の疾が危険の尤甚しきや、何の状
にて其腫膿漬するや、内患ハ何の方にて治すかやと問
ひ、和蘭よりハタビヤ
瓜哇まてハ幾許の距離、「バタビヤ」
中でも武士は高い位である。 大名は政治を行うため自分の
領地に行くが、近親の者を将軍に対する人質として江戸に
残し、役人達は国家の法律・制度を守って地位を失わない
様に上下とも心掛けている。 毎年駐日のオランダの商館長
は将軍のご機嫌を伺うため江戸に行く。 この時2-3の役人
も随行し、日本人数十人が前後を警備する。 ケンプルの時
はこの旅行の為に往復で3ヶ月程掛ったという。
この使節の勤めは第一に将軍に献上する物を持参する事
である。 この目的の為に旅行は厳重な監視の元に守られ
ている。 皆道理の分った人々ではあるが、守護が厳重な
ため気が休まる時がない。

ケンプルが云うには1691年(元禄4)の旅行では大き都市
23、小さな町村75を過ぎ、29日の行程の後目的地である
江戸に到着した。 将軍への拝礼、その他へ挨拶が終ると
数百の人々が側に侍っている我々に時々困るような質問
をする。 日本人は我々の年齢と名前を問うのでこれを
いちいち書いて与えなければならない。 ケンプルが医者
であるという事で、 何の病気が最も危険か、なにが原因で
腫瘍ができるのか、内臓はどうやって治すのか等問い、叉
オランダよりバタビアはどれ程の距離か、 バタビアから
長崎迄はどれ程の里数か

註1. ケンペルの日本誌によれば、これらの質問は全て
正式な拝謁終了後、大奥に使節達が招かれ、将軍(綱吉)
自身が老中、通訳を通して質問したとしている。
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より長崎にてハ幾何里なるや、欧羅巴の医師ハ何故に
人をして死セさらしむる方法を講究せさるや等の如し
帝ハ是迄ハ婦人の中に座しけるか自ら異国人の側に
来り、令して花美なる衣を着セしめ、衣を着し終
れは起き立しめて、其全身の状を観、其後歩まセ
しめ、止らしめ、互に揖セしめしめ舞わしめ、踊らしめ
辞するが如き状態をなさしめ、残廃なる日本語を
言ハしめ、和蘭文を誦ましめ、書セしめ、歌はしむ
等一切その命ずる所ハ悉く是をなし、帝及び官人の
嘲戯となる事少なからず、但し使節を奉する

総督のミかくの如き嘲戯を受ることなし、是れ此人は
本国の顕官の名代を勤めて朝聘セし人なれハこれハ
軽んセさる故に因れり、此等の儀式悉く終り高貴の
諸官に進物をなして後、一連の同伴初の如く長崎に
向て還ること図に著せるものゝごとし、其警固の厳
重なる囚人に異ならず、凡日本にて外国の人を厳
酷に取扱ふ事に就て爰に付す、欧羅巴の婦人を出島
に携へ来るを禁じ、若し一人にても婦人を船中に
帯ひ来ることあれハ、直にこれを別館に閉こめ置、次の
船便を以て送り帰す事とす、上にいへる如く日本人ハ
ヨーロッパの医師は何故人が死なない様な方法を研究
しないのか等という事である。
将軍はそれ迄腰元達にの中に座っていたが、自ら外国人
の側に来て、美しい衣装を着させる。 衣装が済むと立た
せて全体の状態を眺める。 それから歩かせ、止らせ、互に
挨拶をさせ、躍らせ、別れる挨拶をさせ、オランダ語で読ませ
書かせ、歌わせる等、総て命ぜられた様に行い、将軍及び
重職の娯楽となる事が多い。 

但し使節の役を為す商館長はこの娯楽に参加する必要は
ない。 これは使節は本国の重役の名代として訪れて
いるので、軽く扱う事はしないからである。 これ等の儀式が
全て終り、上位の役人に進物を贈った後、一行は来た時の
様に長崎に向けて帰る事なるが図の様である。 その警固
の厳重さは囚人と変わらぬ程である。 一般的に日本では
外国人に対して究めて厳しい例を挙げる。 ヨーロッパの
婦人を出島に帯同する事は厳禁であり、若し一人でも婦人
を船中に帯同すれば、直ぐにこれを別館に閉じ込めて置き
次の船便で送還する事になる。 

註1 将軍への拝褐は使節のみが表の間で行い、其後
オランダ人達は大奥に移って種々の質問や座興が行われた
と云う(ケンペル日本誌) 図を見る
 
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懐土の念深けれハたとひ如何様の事ありとも、国土を去り
他国に徒すること能ハさるへし、但し官より永世国土を放
逐するに非されハ反して是を為すもの一人も有ましと思ハる
叉我本国の官人の竊に出島に来り居れる者の実子あり
しが、今も猶厳重に番人を付らる、我方より度々其赦
宥のことを手入セしかとも決して願ひし事叶わ
さりし也

 蘭人日本の記下終
前にも述べた様に日本人はたいへん祖国を思う気持ちが
強いので、祖国を後にして外国に住むことは出来ない。 
但し国家より永久に追放された場合でない限り、自分から
国を去るものは殆んど居ないと思われる。 
叉我国の使節で出島に来た者の中には秘かに実子がいる
ものがあるが、今もなお厳重に番人を付けられている。 我国
より監視を弛める様に願っているが決して状況は変わらない

蘭人日本の記下終り

註1:オランダ商館長として最も長く滞在(1779-1803)
したヘンドリック・ドーフは丸山遊女との間に男子が有った
が長崎の人々が親切に扱い、ドーフ帰国後も地役人にとり
たてた。 叉シーボルトと楠本滝の娘も日本最初の女医と
なった例があるか妻子を連れて帰る事は出来なかった。
出典: 文鳳堂雑纂57分冊 内閣文庫(国立公文書館蔵 参考文献:ケンペル日本誌、ツンベルグ日本紀行
文鳳堂雑纂57分冊蘭人日本の記
上記p2の原文写真
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註1:文鳳堂雑纂は天保期から安政期頃迄活動した江戸の
本屋山城屋忠兵衛の編集と云われている。 歴史、地誌、
伝記、外国、上書(ペリー渡来時)、随筆など多方面に
亘り整理編集してある。 国立公文書館で所蔵しており
117分冊からなる。

註2:「蘭人日本の記」の独立した写本は早稲田大学の公開
図書にもあり、公文書館所蔵のものと同じ系統の写本と
思われる。

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