1839年版の日本記で注目されるのは1837年(天保8年6月)に起きたモリソン号事件を船側から見て
委しく記している事である。 事件は浦賀沖と鹿児島湾で起き、当時のオランダ商館は一切関知して
居なかった。 翌年1838年(天保9年秋)オランダ風説書で初めて日本の漂流民7名送還のためイギリス船
(実際はアメリカ船)のモリソン号が日本に来ると伝えている。 しかし実際にはその1年前に既に
渡来して砲撃され、素性も目的を知られぬまま出港地マカオに戻っている。 この1839年版は誰が
作者で誰が日本語に翻訳したか定かでないが、事件当時の商館長エルディン・ニーマン(1834-38滞在)
が帰国後モリソン号関係者の記事か話を聞いて書いたのかも知れない。 叉邦訳が何時頃行われたの
か明示はないが1839年の1-2年後と思われ、それまでよく分らなかったモリソン号の素性が分り、幕府の
無二念打払政策転換に影響を与えたと思われる。
写本は上下に分かれているが、上の後半にあるモリソン号の記事以外は先任者であるケンペルや
ツンベルクの引用が多く特に新規なものは見られない。
19世紀になると外国船が頻繁に日本近海に現れ、鎖国政策を続ける日本との間に諸々の事件が
発生し、特にイギリス船とロシア船が問題を起した。業を煮やした幕府は1825年に無二念打払令を
発し外国船が海岸に近づけば無条件に砲撃し打払うという方針でオランダを通じ西洋諸国に通達した。
その最中1837年夏モリソン号という武器を搭載しないアメリカ商船が浦賀に入港しようとして
砲撃され、更に鹿児島の港に入港しようとしたが、受入れられず予告の上砲撃された。 この事件は
歴史に埋もれず江戸時代後期の政治に大きな転換をもたらしているが、それは以下の事による
1.幕府ではオランダ風説書に基き、イギリス船が日本の漂流民送還のために渡来するのを
打払うべきか否か議論の末、打払方針堅持に決定した。 これに対して非人道的だ、という蘭学者
グループ(江川英龍、渡辺崋山、高野長英等の尚歯会)からの啓蒙運動が起った。一方幕府権力
(町奉行鳥居耀蔵などの儒学を基本とする保守グループ)は蘭学グループに対し種々の罪状捏造を
行い、弾圧した所謂「蛮社の獄」(1839年5月)を起した。 鳥居の進言に対し幕府中枢(水野忠邦
を首座とする老中)も調査の結果、罪状の多くは事実無根である事から江川などは連座を免れたが、
幕政批判とも取れる書を出すか、あるいは下書きをした高野や渡辺に対しては鳥居の弾圧を容認した
ようである。 幕府側も蘭学者グループも共にモリソン号はこれから来日するイギリス船と思って
おり、既に一昨年浦賀沖で打払ったアメリカ船がそれという事実は知らなかったと思われる。
2.モリソン号の一件が次第に明らかになり外国船漂流の場合もあるので無差別打払いは人道に
背く事、叉英国と清国の戦争で清が敗れ打払は戦争の危険をはらむと云う事等から、幕府は1842年に
方針転換した。 その後は漂流した外国船に対して食糧や薪水を与えて立去らせる天保薪水給与令
を出している。
3.モリソン号事件やその後の漂流米国鯨漁船扱いで米国世論は対日批判で沸騰した。米国政府
も日本に開国を迫るべく腰を上げ、1853年ペリー艦隊の派遣となり1854年日米和親条約により日本は
開国に踏み切る事となった。
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