霧島山頂の天の逆鉾       戻る
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      南面図
霧島山絶頂鉾
一天瓊矛又天逆鉾
 右東御在所高原錫杖院由来記ニ出
一天瓊矛
 右西霧島曽於郡花林寺由緒記ニ出
一広矛
 右本田出羽守撰神社撰集ニ出

一鉾惣長四尺二寸八分からがね鋳物と見へ、薄緑青色
 にして、一躰丸く上に鍔の様なる所あり、廻り壱尺八寸位
 それより下タ五寸斗の所両方へ人面の形あり、鉾の躰
 所々大小不同ありて左右ニ鋳形合セ目の様に竪ニ筋
 あり、地中に立込所凡七寸余片なりにて鋤の先のごとし

一鉾の形東西同様南北同様絵形に大小星の如くあらハ
 れたるは朽目なり

一鉾鍔の様なる所の上に折目の跡三所あり、元来三俣の
 鉾にてありしと覚ゆ、正面よりみる所絵図のごとし
一銘文なし

一日州都の城安永村折生田代の明観寺といふ所ニ霧
 島山絶頂の鉾の先キを勧請したるといふを見るに
 鉾の三俣の中刃の折れと覚ゆ、されども霧島の鉾
 の押形にて折目を合せミれハ符号せず、考るに今
 壱ツ其間に折れあるべし、其かねハ霧島絶頂の鉾
 同様にして、所々に薄緑青之色あり、かな色少し黒し
 是ハ年久しく社内に勧請し雨露霜雪にさらされ
 ざるゆえなるべし、銘名なし、正面にのミ所々霧島の鉾
 同様の朽あり

一荒嶽権現ハ霧島山南方の半腹絶頂より一里程の所、都
 の城の内、安永村上床山の東牛礼山の境に往古性空
 上人の開基にて、不動寺荒嶽権現観音堂ありしに神火
 に壊滅し、その後又それより西半里と同邨之内、温池
 川原といふ所に再興し、正徳年中温池川原より又半
 里斗辰巳の方、同村之内今の折生田代に引移し、其
 不動寺を明観寺と唱へ、其境内を不動堂ととのふ

一昔日州の庄内といふ所に狂気の人あり、霧島の絶頂に
 至り鉾の折先キを盗取て麓に持下り、一ツを明観寺へ
 嵌置しといふ、二のハ在所つまひらか成らず、其事
 霧島山東御在所別当錫杖院の旧記に見ゆ

一霧島山絶頂鉾の在たる所高原・小林・都の城三郡の
 境にして往古より都城にてハ絶頂を荒嶽と唱へしゆへ
 その鉾の折先を荒嶽権現と勧請せしと云伝ふ、
 
 右南畝文庫の所蔵書写す      

あまのさかほこ
錫杖院は明治の
廃仏毀釈で消滅
現在頂上借地権は
霧島東神社の由



銅の鋳物製か
長4尺2寸8分
鍔周囲1尺8寸
両方に人面あり
鋳形の繋ぎ合せ
地中約7寸鋤の
刃状になっている

星状の腐食跡あり



鍔上の折跡三ヶ所

銘文は無い


日向国都城安永村
明観寺も今は無い
三又の真中の刃か
合せ目は符号せず
霧島の鉾と同じ金属
霧島の鉾と同じ
腐食跡あり





性空上人は10世紀
中頃霧島で修行
不動寺を開基したが
噴火で壊滅、その後
正徳:1711-15に
再興



日向国庄内
嵌(は)め置く
残り二つの刃
は行方不明



大田南畝(蜀山人)
1749-1823
幕臣、著述多数
東面図

鉾折先図
画像は国立公文書館所蔵内閣文庫視聴草による