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小林誌第二巻


    田中頼庸 長歌

 あか木の通園が小林誌という書を作りて
示しけるに、読みておくりける長歌  
                   頼庸

朝日さす ひむかの国の久志ふるの   
*日向国の霊峰
峯にあもりし 皇祖のかみの御蔭     
*天降りし
に栄えたつ 赤木のきみは いに(し)  
*古の事
への道の おくかも言霊の 八十の    
*八十の=多くの
ちまたも ねもころに わけ入ながら    
*懇ろに分け入り
著せしうつ書なれは、あめつち       
*天地の
の神の御宝は あきの美明らめや    
*易く    
すく をちこちの 野山のさきは 春か  
*おちこち=遠近
すみ おほゝしからず たけきおの     
*猛き雄
いくさの跡ゆう 満人のおくつきまでも   
*古戦跡 *奥つ城=墓
海ま こふね引つる あみの目も     
*網の目に洩らさずに
おちず かきつゝれりし いさを      
*書き綴る
しき君かほまれ 高千穂のみね      
*功しい君の誉れ
よりおつる たきつ瀬の音も         
*滝つ瀬=急流
とゝろに聞えつゝ ながされ        

行む 万代までに

注1 田中頼庸(よりつね1836-1897) 鹿児島藩士、国学者、神道家、明治四年
 神衹省に出仕、大教正、伊勢神宮大宮司、神道界の重鎮 著書に校定日本記、
 校定古事記等。 
注2 長歌の内容は 赤木通園が小林誌を著した業績を称えている。
 但神社の関係ではかなり修正を入れており、通園もそれを受け入れている。 
 朱書とある書き込みは頼庸の書きいれのようである。 年齢は通園の方が20歳
 以上年長になる筈だが、頼庸の方が師であるかの様に見える。
 小林誌脱稿の明治二年現在、通園は55歳、頼庸34歳。

第二巻目次
  二十二 神社部
     主なもの
   ○霧島岑神社
   ○雛守神社
   ○八王子神社
   ○愛宕神社
   ○稲荷神社(水の手)
   ○諏訪神社
   ○皇産霊幸魂神社(陰陽石)

  二十三 山の部
   ○高千穂峰
   ○夷守岳
   ○韓国岳
   ○霧島山の諸峰

  二十四 池の部
   ○琵琶池
   ○小波多池
   ○両部池
   ○出の山
   ○その他池、溜池


 
二十二 神社部
  細野村の内
○霧島岑神社
  祭神
     迩々岐命(ニニギノミコト、天照大御神の孫)
     穂々出見命(ホホデミノミコト、コノハナサクヤ子)
     鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト、トヨタマ子)
     木花佐久夜姫命(コノハナサクヤヒメミコト、ニニギ妻)
     豊玉姫命(トヨタマヒメミコト、ホホデミ妻)
  例祭
     九月廿八日廿九日  祭米 三斗五升
     十一月廿七日廿八日

   瀬戸尾宮
 続日本後紀、仁明天皇の承和四年(838)八月、日向国諸県郡霧島岑ノ神を官社に預かる
とあるが此の神社である。又延喜神名式に日向国諸県郡に霧島岑神社と有るのも是では
ないだろうか。 もしそうならば日本三代実録にある天皇が天安二(858)年十月に日向国に
従五位上を授け、霧島神に従四位下を授けたとあるのも此神社の筈である。
思うに古代には高千穂の二上峯、後に霧島峯とも呼び、矛峯(高千穂峰)と火常峯(御鉢)の
二峰があり、その間の瀬戸尾に鎮座して、俗に瀬戸尾神社又は霧島中央権現とも称した。 

 高千穂峰は本来日向と大隅の国に跨り、高嶺は空近く朝日が直接当り、夕日に輝く地で
あるから、始めて迩々杵命が降臨してより代々磐余昆古命(神武天皇)迄高千穂宮に居住
した事は古事記や日本書紀等に載っている事だが、今その跡とは何処かは不明である。 
しかし此旧瀬戸尾神社を高千穂宮と上代には称したのではないか。 凡人の考えとして
平地で広々した場所が良いと思いがちで、瀬戸尾が宮跡と聞くと狭いのではと疑う者も
居るだろう。 しかしそれは神と人、古と今と異なる事を理解しないからである。 元々瀬戸尾
の地は広くない事は云う迄もないが、一方の火常峯が噴火する以前は今の様ではなかった
筈である。 又高千穂宮と言ってもそれ程大きくは無かったと考えて良いのではないか。

注1 日本後紀 平安時代初期に編纂された勅撰史書延暦十一年(792)から天長七(833)
  迄の四十二年間を記す、承和七年(840)完成
注2 延喜神名帳 延長五年(927)に纏められた延喜式巻九・十で当時官社に指定された
  全国の神社一覧(大小二千八百余社)で霧島関係では霧島岑、東霧島、霧島東、
  霧島神宮が載っている。
注3 日本三代実録 平安時代編纂の史書、天安二(858)から仁和三(887)の三十年間を
  扱い、 延喜元年(901)成立
注4 瀬戸尾 御鉢と呼ばれる西側の峰から東側の高千穂峰に向かう途中に窪地があり、
  そこに旧神社遺趾として鳥居が作ってある。草木はない。
    
   瀬戸尾の名称考
 さて此の神を祀る場所を瀬戸尾宮又は瀬田尾神社、又は瀬多尾社、又は御瀬太尾等と
称するが皆同じである。 瀬戸とは双方高く中が窪んだ所をセトと一般に云い、ヲは高い所を
言う名であるから、此は瀬戸なる山の尾の意味である。 又タとトは元々通音である。 
白尾国柱翁によれば、西峯と東峯との間を瀬田尾と云、昔霧島神社は此処にあった。 
瀬田尾は瀬戸尾とも書くので迫門丘(セトヲ)の意味であろう。 小林郷に瀬戸尾神社があり
霧島中央六所権現と云うが、中央とは即ち迫門丘である。 又神を祀った場所が迫門丘に
在った時は高千穂宮とも云ったのではないか。 

 皇孫(迩々岐命)の廟を高千穂と云う例は日向国児湯郡にある妻神社中の高千穂宮で、
皇孫を祀っている。 八田知紀翁は、瀬田尾は土地の言葉で山の起伏の低い所をダヲと
云っているので、背の意味もある筈と言う。又和田秋郷翁によれば、瀬戸尾とは背峡
(セタバ)云う語が転じた物であり、鹿児島城下へ行くのに東大礒を越える道はタラ越という
事と同じである。俗に山峡又は谷峡などをタハ或はタヲと国の方言で云う。 此処でも東西
二つの峰の間を云う事であり、東の高千穂峰と西の火常峯(お鉢)の間で撓んだ所、即ち
背峡(セタバ)である。 今瀬戸尾と言うのは音便と思えば良いとの意見である。

    瀬戸尾宮の遷座
 鳥羽院天皇の代、天永三年(1110)二月三日(1110)山上に大きな炎が上がり、又六条天皇
の代、仁安二年(1168)にも炎が噴出し、その度に宮は炎に罹ったと云われるが都度復活した
ようである。 しかし其百二十三年後、四条天皇代の文暦元年(1235)十月二十八日、此の時は
火常峯が噴火した事は明らかで峰が陥没し、今ではその火口を御鉢と呼ぶ。 或人によれば
此の噴火は最大だったとの事であるが、この結果天の井(泉)が涸れて用水に不便であるため、
宮は旧瀬戸尾より北西に十八町余(約2km)下の末社である霧辺王子社辺に遷座して凡そ
四百七十八年の間此処に鎮座した。 

 それ故此の地を瀬戸尾越と呼び、曽於郡や踊りと高原を結ぶ通路がある。 此辺に生へる
小さな梨があるが瀬戸尾梨子と云い、又瀬戸尾人参と云う物も多い。 一方此の地は二上峰
(高千穂、御鉢)と韓国嶽との間に在るので瀬戸尾越と呼ぶと云う説もあるがそれは誤りである。
理由は二上峰と韓国嶽との間は一里余りも隔たっているので、その間を瀬戸尾とするのは
不自然である。 
 これは瀬戸尾神社が鎮座した地であるから自然に瀬戸尾越と云ったものが今でもその名が
残っているのである。 一般に地名から物の名が起こる事が多いが、一方物があって地名となる
事も少なからずある。

注1 この時の神社移転先は現在高千穂河原北の山中、坊主が原と呼ばれる。
注2 白尾国柱(1762-1821)国学者, 鹿児島藩士、記録奉行, 物頭をつとめた。
 江戸で塙保己一,村田春海に学ぶ。藩主島津重豪の命で,曾占春と農事・博物書「成形図説」
 を編集した。 著作に「神代山陵考」「倭文麻環(しずのおだまき)」など。

    瀬戸尾越
 永禄七年(1564)太守貴久公が真幸院を二男義弘公に与えた時、その年十一月に義弘公は
加世田を出発して霧島の険阻を経て飯野に移ったと云われるが此の瀬田尾越だったのだろう。
他には道筋は見当たらない。 義弘公がこのような難所を越えざるを得なかったのは、その頃
北原家の残党である北原伊勢守、同新助が横川を守っており、真幸院への往還を遮っていた。

 又慶長七年(1607)伊集院源次郎忠真を藩主家久公が誅伐するために鹿児島城を出発し、
この瀬戸尾越から野尻に入った事も知られている。 又寛永年間(1640頃)二代藩主光久公の
病が重い時、鹿児島の平田某が病気平癒祈願の為に御鉢に篭った事が同人の日記に記され、
其間瀬戸尾社に詣でて此処に一宿した事も見える。
又瀬戸尾道普請の事が藩公より命ぜられた事などからも往昔からの道路であった証拠として
上げるものである。

注1 島津義弘が真幸院飯野に入部する時に、通常の吉松経由の往還道が使えないため
  霧島の難所を越えて飯野に入ったと旧記雑録にある
注2 伊集院忠真(1576-1602)忠真の父幸侃が謀反の疑いで藩主家久に殺害された事から、
 自領都城に立籠もり、庄内の乱を起した。 徳川家康の仲裁で一端和解したが、家久は
 忠真を狩に誘い野尻(現小林)で部下に誤射と云う事で殺害させた。 

   再び遷座
 又享保元年(1716)九月六日に霧島山が噴火して其後日を重ねて休みなく続き、此時は
石や砂が降り木々が二メートル程埋まり二里四方の木々が被害を受けた。 名勝考によれば
享保元年九月二十六日の噴火、同二年三月の噴火で東霧島社・狭野社、瀬戸尾社・神徳院
及び高原・高崎・小林郷等の民家、山林が焼けて俗に新燃と云う。此の時錫杖院及管下の
民家田畑の損害は諸県郡諸郷で十三万六千三百区と云う。 
 この時は噴石が空から落ち灰燼は雨の様に降り、昼でも夜の様に暗く、人々は道を失い、
互いに筵を載せて怪我を防いだと云う。 田の畦は数里に渡り埋没し、草木が焦げ枯れて
いるのが至る所で見られた。

 炎により神社や寺の建物も全て燃えて神体や仏体も砂石に埋もれて発見も難しかったのに、
奇跡的に本殿の五坐の内、一体だけが灰砂の上に現れていたので、其場を掘ると二メートル
以上下から残りの四坐の神体を得た。これらの御神体は特に問題なく其のまま祀り今に至ると
云う。 一方末社の神体仏体は全て焼失したので即新たに彫刻したと云う。 兎に角本殿の
御神体が無事だったので、神社別当である吉松郷小野寺の修験僧恵法院隆盛と云う山伏を
始め、小林の社家六名その他凡そ五十人が登山して神像の神輿を設けて今坊の王子神社の
傍に穴蔵の仮殿を設営して安置した。 しかし噴火は収まらず更に石火の雨を降らし、休む
様子もないので更に麓の方北西、四里程下り岡原と云う所に仮殿を設え、此処に暫く(十四年)
の間遷座した。

   夷守嶽東側に鎮座
 其後噴火も漸く鎮まったので、山手の方夷守嶽の東側山懐の築地という地に新宮を造営して
五代藩主継豊公の時、享保十四年(1729)八月廿七日奉還して現在に至る。 その結果築地
と云う名は既に失われ、今ではこの辺を瀬戸尾と呼んでいる。 今でも連綿として瀬戸尾の名を
継いでいるのもこれこそが真の神の祀り所であるからであろう。
注1 明治六年(1873)に雛守神社を合祀し、雛守神社跡に遷座し現在に至る

   霧島東西在所
古代には霧島神社は迩々杵尊一座を祀るのは此の一社だけだったが、参詣の便などを良く
する為に方々に勧請する事となった。 今曽於郡田口村に坐す西御在所も、往昔は瀬戸尾に
鎮座したものを今の地に遷座したと云う伝えもあるが、これは同じ祭神で全く別の社を建てた
ものだろう。 
 今霧島神社と云えば西御在所の事と女子供は思うが、西御在所は元々鹿児島城下に近く
多くの人々が日々参詣に通い、更に正徳年間(1715)に四代藩主吉貴公の時、美しい建築で
宮の再興があり、他の宮居に比べ甚だしく立派だからである。 
 
 又高原郷蒲牟田村の山中にある東霧島御在所について白尾翁は、霧島峯とは今の東側の
矛ノ峯の事であり是は両所権現社の境内である。 今権現祠壇の場所は高原郷の麓から二里
山上にあり、石磴三百六十余級あり是より絶頂に至る迄は遠くない。
続日本後紀に峯とあるのは此の為である。亦両所権現というのは伊弉諾、伊弉冊二尊を祀る
からとあるがすっきりしない。 これは謂ゆる瀬戸尾神社の旧跡と云う地だからこそ、其様に
言うのだろう。
この在所は嶽の三分以下の所だが、謂ゆる旧跡は嶽の九分余とも言う程遥かの高嶺である。 
又伊弉諾伊弉冊二尊を祀るとあるのも不自然である。 此処は迩々杵命の降臨の地であるから
皇孫迩々杵尊を祀るのが道理である。 

注1 西御在所とは現在の霧島市の霧島神宮の事で藩主吉貴の寄進で立派な神社となる
注2 東御在所 高原町祓川の東霧島神社

   霧島六所権現
 秋郷翁は、霧島神社とは山中の各所に六社有るから俗に六所権現、或は六社権現等と
称する。しかし今その本社となる所がはっきりしないが、此の瀬戸尾を霧島岑神とすれば本社
として間違いないと云うが同意である。 その六所について著者自身が思う所は、先ず六所とは
曽於郡田口村の山中にある霧島六所権現、高原蒲牟田村にある東御在所権現、同所狭野六所
権現、高崎東霧島権現、小林雛守六所権現、同所瀬戸尾中央権現の六所が考えられる。 
其場合曽於郡重久の止上権現も祭神は霧島に等しいとの事なので七所になり符合しなくなる。
霧島を少し離れていればその数に入れぬか、又は高崎東霧島神社は元々狭野神社が中世の
霧島山噴火の時彼の地に暫く遷座し、其後狭野の方へ戻る時村人が惜しみ跡に祀ったと聞く。
随ってこれは比較的新しいので除くか、又は瀬戸尾神社は最初より高嶺の中央に鎮座したので
これは除いて麓に後に祀ったものだけを六所とするか等考えた。

 全く別の考えで此れは迩々杵尊、火々出見尊、葺不合尊の三柱、それに后神等三柱と
合わせて六坐として祀るから、六所又は六社と云うのではないか。 他の例で三社某には
三躰の神像あり、十二所某には十二坐の神躰がある事からも推定できる。 

 さて此霧島山内に幾所も同じ神社を祀る事を深く考えて見ると、此霧島山は前にも述べた
様に太古は専ら高千穂峯と称し、始めに迩々杵尊が降臨して三代を経て神武天皇迄長い間
鎮座した高千穂宮と称する御殿があったと神話にあるが、兎に角此の山の周辺で一ヶ所だけの
筈はないと後の人が考え、又迩々杵尊を始其王子の大神たちを祀るには山懐の内で水土の
清い地を四方に求め、或いは六柱の大神達を一柱づつ六ケ所に祀ったかも知れない。 
例えば迩々杵尊の御殿と始は決めても、その其后神は云う迄もなく、火々出見尊、葺不合尊
それぞれ五柱は密接な間柄の神である。 そこで後に併せて祀ったのではないだろうか。 
今其六社の他にも同じ社に幾柱も合せ祀ったのは皆後の事であろう。 

○左右隋神王  祭神不詳
 此は膳神王とも書くので御食津大神などを祀ったのではと考えたが夫は違う。 天日命と
天津久米命が迩々杵尊の降臨に供奉した神であり、古事記に天忍日命・天津久米命二人が
天の石靭(矢筒)を負い、頭椎の大刀を偑いて、天の波士弓を持って、天の真鹿児矢を手挟み、
先に立って供奉したとある。 書紀にも書き方は少し異なるが同じ趣旨である。 随って他の社
は兎も角、迩々杵尊の鎮座する所には必ず此二人の命を並べて祀る神であるから、此れかな
とも思う。 但古語拾遺の石屋戸の段に磐間戸命と櫛磐間戸命に殿門を守らせるとある。
朱筆書入
 左右の隋神と云うのは他でもなく豊磐間戸と櫛磐間戸の二神である。 隋神は善神王など
書く事も俗にあるが御膳津神は無関係である。

 宮殿の脇石
○須佐男命   神像は天杓の形との事
 右同 左腋宮
○蔵王神社   祭神
 祭神は安閑天皇と云う説があるが其は間違いである。金山彦神であると頼庸翁は云う
 (鉱山の神)
 右同 左
○熊野神社 
 祭神不詳、伊弉諾尊・伊弉册尊を祀ると伝える
 右同 右
○霧辺王子神社 祭神は思いつかないが、神武天皇を祭るのかもしれない。 霧辺の辺は
 島の崩しに紛らわしいので霧島の王子の意味とすればである。
 御殿から四十メートル程東の方
○峯ノ水天社   祭神水ノ神
 御殿から九十メートル程
○川路水神
○大山積命
  言伝えでは襲峰(霧島連山)を守護する山の神とか。
○二方荒神
○八方荒神
  右両躰共に蘇峰の中に建立されていたが、今は移したと伝える。 
  貼紙で「二神将の祭神は不明だが並存する。山中十二方に建立したものを同時に移し、
  今は本地堂と云う社に祀ると云う」

 今坊
○王子神社 祭神は前述霧辺王子と同じ神体かどうか不明。

 広原
○王子神社 祭神
 前記二神社は共に霧島の末社と思われる。後の王子神社は今広原村にある。
 上巻で述べた様に広原村は元小林の内だったが延宝年間に 高原郷に所属した。
 しかし従来からの例に従い小林の社司が集り 祭祀を行う。

 種子田
○宇賀神社 祭日十一日初め申の日
  思うに此れは豊受大神を祭るようだ。 宇気は食の意味で宇迦と音通である。 
 宇気の説明は記伝に宇迦は食(ウケ)なり、 言伝えでは、此処で昔神の骸に稲が
 生えたのを取って稲種子にして蒔く様にとあり、その神を祀ったと云う。 
 社の傍に田地があるので此地を種子田村と云う。
 
 橋谷
○稲富(イナフ)神社  祭日十一月初め酉の日
  祭神は明かでないが前と同じく豊受大神を祀るのではないか。
 朱書、稲富は稲生と同じくして豊受神ではないだろう。延喜神名帳の考証など考へる事
 伝承では謂ゆる霧島の末社で、前述種子田に植えた稲の番をする神と云う。
○三方荒神・八方荒神 瀬戸尾に祭る
 高五拾石
  右は小林霧島岑神社が官社である事により、祭祀料として認められたと証書がある。 
 霧島岑神社は既に述べた様に元来官(朝廷)にも知られた尊い神社であるが、乱れに
 乱れた 世となり、その事もなくたいへん衰えた状態となった。 云われるままに小野寺の
 山伏を別当と して置いただけで、毎年の御祭さえも他宮の神部より頼まれて神事奉仕
 をする立場で万に不足する状態で嘆かわしい事と思っていた。
 しかし慶応年間には別当の職を中止し、新たに神司を 定められ、今年明治四年にこの
 様に神田(神領)が認められた。 これで皇神等の大御心にもどんなにか快く思われる
 事だろう。

 大久保
○稲積神社   祭神
 
  細野村内、地頭館より一里十町南々西で鹿児島より廿二里四十九間
○雛守神社
  祭神 迩々杵尊  開那姫尊 
     火々出見尊 豊玉姫尊  
     葺不合尊  玉依姫尊  
  例祭  六月十五日 七月朔日 八月彼岸中日
       九月十九日 十一月十五日
  正祭  九月十九日 同十六日ヨリ同十九日迄
       十一月十五日 同十二日ヨリ同十五日迄の間
  神事 祀場(シバ)中と称する。 此祀場中には郷中の者が他所に出かけたり、又他より
 帰る事を 忌むと云う。 往昔は祭日になると門前町である十日町で流鏑馬を行い、此の
 為 四方から商人が集まって市を開いたと云う。 しかし今は市を開く事はないが市締りの
 式だけは残る。
  伝承では、上古には雛守嶽山中五合目程に宮があり、今も宮の宇都と呼ぶ。 ウトは
 ウツロが詰ったもので墟なる地の意味である。 又その山裾の野方には宮ノ原と呼ぶ
 広野がある。
 古代に景行天皇がこの宮を崇敬して参詣の便のよい今の地に遷宮させたと伝える。 
 旧跡より東北東一キロ余山裾である。

   夷守名称考
 景行天皇十二年の紀に、秋七月熊襲が叛いて朝貢をしない。天皇は八月朔日筑紫に行き
十月に日向国に至り、仮屋を建てて住みこれを高屋宮と云った。 十三年夏五月に熊襲国を
悉く平定して高屋宮に居する事六年と言う。 又十七年春三月紀に、天皇が京に向かい
筑紫国を廻り狩をして始めて夷守に至ると石瀬河辺に人が集っている。此れを遥かに見て
天皇は左右の側衆に、あの集っている者達は何者か、敵ではないかと兄夷守と弟夷守二人を
偵察に行かせた。 
弟夷守が還って報告するには、諸県君の泉媛が天皇にお食事を献じるとの事でその一族が
集っているのですと云ったのは此の地である。 景行天皇の仮屋跡と伝える場所は今の社地
より北東二キロ弱にあり、其処には天皇仮屋の跡と又腰掛岩と云うものがある。 

 白尾翁の名勝考では雛守権現祠の下に夷守は古の官名で始めて景行紀に見える。 伝承
では此景行天皇の親征を迎へた所であり夷守処女の遺跡であるから夷守の名があると述べる。

 和田秋郷の評には彼泉媛を夷守処女と云うのは無理がある。諸県君泉媛とあるのにとの事。
又同じ名勝考で新井白石説として魏志倭人伝を引用する。 
倭国曰多模曰卑奴母離とあるが、此多摸は即ち伴造(トモノミャッコ)で、卑奴母離は即ち
夷守である。 一般に伴造は国造(クニノミャッコ)の属官、夷守は伴造の副職であり武装して
警固の兵を司る。それで夷守の名があると言う。 秋郷は此の説に肯定的で、そもそも此地は
夷守役人が代々奉職しているので天皇も気楽に狩に巡るのだと云う。

 脇宮
 三徳神
○神武天皇
○経津主神
○武甕槌神
 由緒によれば、左右の三徳神は智仁勇三徳ノ霊神かどうかはっきりしない。 又社記によれば
乙護法と白山権現を脇宮に祀っていたが以前に廃壊したと云う。 又一書によれば、古記に
神武天皇を白山権現と称し、経津主神、武甕槌神を乙若両護法社と云い、此の二柱を併せ祀る
社を護法と云う。思うに廃壊とするのは問題あるので、脇宮のみ廃して御神体は正殿の内に共に
祀り、此三柱も御神体があるので俗に三徳の神と称したのだろう。 ところが三体ある筈なのに
今は二体だけでそれも焦げて残っている。 恐らく文政の炎上で一体は焼失したのだろう。 
 三体ならば三徳の名に合致するのに。 経津主神と武甕槌神は迩々岐命が降臨する前に
露払いとして先に天下った功績ある神であるから併せて祀ってあるのだろう。
左右隋神王 祭神は霧島岑神社の項で述べた通り
注1仏教と神道が融合して神仏習合又は神仏混淆の思想が起こり、日本の神は仏が神の形で
現れる。 仏が神の形で現れるのを権現と云い、護法は仏法を護る鬼神で童子の形で現れる。

○稲荷大明神社 
 祭神
 貼紙 稲荷は神名式に山城国紀伊郡に稲荷神社三座の社である。り、三座の中央は
宇迦之御魂神(ウカノミタマ 食物の神)で左右は猿田彦神と大宮能売神(オーミヤノヒメ、
平安の神)とあるがその通りと頼庸翁は云う。

 一階左の上
○瑞山社
 此は羽山津神(山の麓の神)を祭ったものだろう。
 同所
○大王社 祭神不詳
  此は猿田彦命を祀ったものだろう。古記に猿田彦神を大王権現とするとある。 古事記に
 天津神の御子が降臨するので出迎えて仕えたとあるので、皇孫迩々杵命の降臨時より
 由緒のある 神であるから、迩々杵尊の鎮座する此処には必ず付添うのも理由がある。
 朱筆 大王はオホワと読み、大国主命ではないかと思うが不詳。
 一説に太玉命とも云うが決め手がない。 
 右同所
○岑ノ水神
 祭神 罔象女命(ミズハノメ、代表的な水の神)
  此は謂ゆる襲峰に祀る御霊を勧請したのだろう。
 
    雛守神社の歴史
 老松が社庭に有り、景行天皇の鞍掛松と云伝えたが、今は枯れてない。 力柴と云う樹が
庭に有るが此は義弘公の杖が生き付いたと伝え成長して今もある。
天正五年(1577)の冬野火の為に社が焼亡、これにより翌年造立され、義弘公の時の天正六年
棟札がある。 又光久公の時再興され貞享三年(1686)の棟札がある。 文政七元(1824)年
神体・社殿共に焼失したので斉興公の時代に神体を彫刻し、天保十五(1844)年三月の棟札
がある。 しかし嘉永元(1848)年又社を焼失、忠義公の時代文久二年二月の棟札がある。
○高坏(タカツキ)一対
 これは義弘公の寄進
 高坏は万葉十六に「高坏に盛、机に立てて母に奉る也」などある

○短冊三枚  斉宣公内室蓮亭院の御詠歌
    いけ水の 影をうかへて みなとせの
           よはひくみしる もものさかづき
    河水の なみのよるよる あらはれて
           ほたるとびかふ かぜのすずしさ
    ふけゆけば なほさえわたる 秋の夜の
           空にくまなく すめる月かげ
 右は斉宣公が文化十四(1817)年四月御神納、外寄進物等略す。

 高一石七斗三升七合 神領寄付は天正廿(1591)年以来再度に及び減らされる。 
 往古は神領一町四反ないし八反あった。
注1文禄年間(1593)の太閤検地で薩・隅・日の寺社領は大きく減らされた。

 宝殿(六敷三間、子板葺)舞殿(四敷三間、茅葺)
 拝殿(四敷三間、茅葺) 鳥居(木) 二鳥居(石)
 右寺社役人検査の上で修復した。

鐘の銘に
 真幸院雛守六所大権現の鐘を創建する。この趣旨は偉大な聖皇の天地長久と円満、この
神を信心する大旦那である伴氏の兼守及び代官である伴兼亮並び伴兼賢の武運長久と
子孫繁栄並びに椙氏の乗富大宮司及び女大施主の息災延命、各家内安穏、子孫繁栄、
真幸院内豊穣、夫々の旦那及万民快楽の願を一々満足せしめる事。 乗泉次郎三郎
    時は天文十七年(1548)二月廿七日作者
                  小幡信続、同信直
              願主押領司市左衛門昇久貞
       右この通り 五郎次郎敬白

注1 この鐘の鋳造は真幸院主北原兼守初期の時代で北原家は此の頃順風満帆だったと
 思われる。  この十二年後兼守が病死すると真幸院は内訌と一向宗の為に一気に乱れ、
 伊東家、島津家の主導権争いの場となる。
注2この頃の宮司は椙氏の一族の乗富と云う人と思われる。又女大施主とは誰か? 
 真崎院領主兼守の内室は日向で権勢を誇った伊東三位入道義祐の娘であるから、
 伊東家からの寄進ではないだろうか。
注3 明治6年(1873)に霧島岑神社と合祀

   先祖代々申伝えの覚え
 小林崇廟霧島六方の内、雛守六所権現の神主を仰付られたのは私より五代前の先祖
黒木六郎大夫です。同人は飯野一之宮大明神の神主を代々勤めて居りました。 
永禄七年(1564)義弘公が飯野へ移られた後、元亀三年(1572)年飯野へ伊東軍が侵攻する
計画であるとの知らせがあり義弘公は準備をなされました。 右先祖六郎大夫が召出されて
祈祷を仰付けられる事数度あり、其上占いも申付けられたので占って差上げ、近日伊東軍が
向かう事を申上げました。 間違いなく元亀三年五月四日伊東軍が勢飯野へ押寄せましたが、
問題なく勝って小林迄手に入れられました。 たいへんお喜びで小林崇廟雛守六所権現、
又北方諏訪大明神の神主を六郎大夫へ仰付られました。其上六郎大夫の子も召出されて
黒木次郎九郎と名前を下されて鎧を拝領致し今も頂戴しております。 

 御神領として一町四反を下された天正五年の目録は今も御座います。 其後右の次郎九郎
は黒木万吉左衛門と名前が替わり小林崇廟雛守六所権現の神主として天正八年(1580)に
移され、程なく御参詣に見えて御機嫌でした。社頭で御酒を召上がり、その時の金地の
御盃一ツ、赤地の御盃一ツを下さり、今でも頂戴しております。 又其時右万吉左衛門に
黒木式部大夫と云う名を下さいました。
    延宝八年(1680)十一月 小林崇廟雛守六所権現神主 黒木佐渡
     御紋付帷子一枚 義弘公より拝領
     御盃二ツ
           一ツ金色 径四寸  同じく義弘公より
           一ツ赤色  三寸八分同右

○若宮八幡神社
   玉依姫   
   応神天皇       
   神功皇后
   仁徳天皇
貼紙 思うに天子山、天子宮、祭神は不詳。 俗には景行天皇を祀ると云う。 
伝では三輪氏の霊神とも云う。 鹿児島本藩の諏訪氏より供物を添えて代々祀る

  拝鷹山
○拝鷹天神社(ハイヨウテンジン)
 伝によれば人皇十二代景行天皇の創建の神社と云う。
宝光院の由来記によれば、景行天皇が熊襲を追討する為に高屋仮宮に在所して軍隊を
調練していた時、空から鷹が一羽飛来して徘徊して、吉富山の麓の千丘陵に到着した。 
軍中を一顧して見渡しその形勢には威厳があり恰も軍陣を擁護している様であり、暫く咆哮
すると敵方に向かい飛んで行った。 
鳥の猛者を鷹と云い、鳥類の中で豪傑の気風があり、剛悍で銛鋒の感じで鋭く睨む。 
将にこれは軍将の様相ではないか。 これは天帝が天皇の軍を援護する験である。 
此れを皆拝し敬い当山を鷹導山と云、彼鷹を崇拝して鷹天神として今でも祭礼は怠らない
と云う。 古代には神事として流鏑馬が数騎出て多くの人々が集い市が立ったと云う。 
昔市場だったと伝えられる所に今は本市と呼ぶ鳥居が遥南十町程に有ったが、後世墾田
の為に大路を失った。

  御伊勢山
○天照皇太神宮

  仮屋
○正八幡神社
 祭神 玉依姫
 誉田天皇(応神)
 神功皇后
 仁徳天皇

  吉富山
○山王社
 祭神 大山昨神である(大山昨命 山の神、水の神)
○荒神山
 祭神 澳津彦命(竈を司る神)
     澳津姫尊

  島田
○須川原者
 祭神 罔像女命だろう。

  煮迫
○聖大明神社
  思うに聖神を祀るのだろう。 本居翁によれば聖とは日知の意味だと云う。
  貼紙 此神名で本社は祭られた事はないと頼庸翁の説あり。

  五日町
○稲荷神社
 祭神 須佐之男命・大市比売
○荒神社
 祭神前に同じ

  吉本 雛守末社と云う
○山王社
 祭神前同

  十日町
○恵美須  祭神不詳
 朱書 恵比寿は事代主神、或は蛭児だろう。
○地眼  地眼は道士等の祭る神で本邦の神ではない。

  巣浦
○山神
 祭神 須佐之男命・大市比売

  中園
○山王社
  祭神 上に同じ 
 俗に此社を下の山王と云、前出吉本の社を上の山王と云う

  数十所
○田ノ神
   此は大年神又は御年神を祀るのだろう。(何れも穀物の神)

  真方村内 地頭館より三十五町北の方、鹿児島より二十二里七町十七間
○八王子神社 祭神不詳
    例祭 九月九日 十一月丑ノ日 祭米 五斗二升五合
  由来記に源義経の尊像を勧請と云う。 昔斉藤常陸と云う者が鎌倉より請下して小林崇廟
 として真方と云う所に安置と言う。 八王子とは義経の義の字を象(カタド)り八王子としたと
 云うがこじつけの様で信じられない。 八王子とは三女五男の八柱から来たものではないか。
 小林崇廟の八王子権現の頭取である斉藤美濃が前々からの申伝としての覚書に云う。
  ・昔は臨時の祭が年に六度だったが、現在は二度である
  ・中世北原家が支配した時代には神領として五町付いていた
  ・小林が伊東家の領に成った時は飯野に移された。
  ・義弘公が飯野在城の時、先祖斉藤弾正は飯野に召され月並の御祈念御祓を命ぜられ
   勤めた。 その折瀬崎の馬一匹、弓箙、鎧、鑓二本、刀二腰、馬具一揃を拝領した。
  ・小林内谷ノ木と云う所に伊東軍が楯籠もった時、斉藤弾正の子甚五郎に命が下り
   飯野から兵士多数を率いて谷木に押寄せて追払った。 飯野に帰り公に報告し、
   其時治部大夫と云う名を賜った。その後小林も公の領になり、元の場所に移され
   私迄で五代主宰を勤める
  ・木浦木山の神に義弘公が御立願の際には、先祖治部大夫に神前の所作を命ぜられた。
    其時の願文があり、願文御筆と云われる文章は左の通り。
    一四目二本立てられた神舞之事
    一七添塩井之事
    一御宮作之事
    一知行五石御寄進之事
   右の立願は巣鷹が手に入れば即成就するものである。
       慶長十二年(1607)閏四月廿四日  惟新(島津義弘)
   惟新公が小林を訪れて八王子を参詣された時、治部大夫が案内して其時鳥目三百疋
   (金三両相当)拝賜した。
  ・以前祭米五表賜ったが其後高二石分減らされ、又其後夫も廃せられ今は直米
    五斗二升五合宛賜わっている。

注1 巣鷹 木浦木山中で捕れる巣鷹(鷹の雛)を訓練して鷹狩りに使う事は権力者の憧れか
 足利将軍、秀吉などから島津家に巣鷹を所望する文書が旧記雑録に残っている。
 この時代だと徳川家康の所望か。 

 城内
○荒神山
   祭神同前
○水天
  右配祀 祭日十一月廿八日

 窪谷
○熊野三所神社  祭日十一月五日
  祭神 伊邪那美命
      事解男命
      速玉男命
  此は龍伯公(島津義久)が勧請した神社との事
  窪谷口は永禄九年(1566)島津軍が伊東方小林城を攻めた時、太守義久が布陣した所と
 云うが、関係あるか。
 
 熊野神社傍
○二ノ宮山王社
  祭神同前

 中窪
○今熊十二所神社
  又熊野十二社も

 福人
○今宮八幡  祭日十一月十七日
  応神天皇 神功皇后  仁徳天皇
  文亀二年(1502)棟札有り

 愛宕山
○愛宕神社  祭日十一月廿四日
  祭神 迦久土(カグツチ)命神
 神名帳に丹波国桑田郡阿多古の神社も此神を祭るとある。阿多古とは親を焼いたから
 仇子というのか。
  寛永十三年(1636)家久公の時、代々武運長久の為小林居地頭の諏訪氏が建立したと
 云う。 この為か今も祭米七升五合を年々地頭館より供えられる。

注1.神話では伊邪那美命は火の神である迦久土を産んだ時の火傷が元で死んだ。

 水ノ手
○稲荷神社  祭日十一月三日
  祭神  同上
 貼紙 此社は小高い円山の上に鎮座しており、其傍に明治二年鐘楼を建て
     時を知らせる事が始った。
  伝に云う、永禄年間伊東方が籠城する小林城を義弘公が攻めて二ノ丸迄攻上った時、
 須木の伊東方援兵が水ノ手東ノ岡に来て後ろから攻め、義弘公の甲に矢が当った。 
 そこで 寄せ来る援軍を追払い討取った上はこの岡に稲荷社を創建すると祈願した。 
 やがて小林が手に入り祈願が成就したので稲荷社を建立し、東方村内大窪門の知行を
 寄付して崇敬したと伝える。後にこの神領は召上られた。
 
 内門
○火ノ大神  祭日十二月朔日
 此は火之夜芸速男神(前出迦久土と同じ)を拝祀であろう。 

 浜ノ瀬
○浜妙見宮  祭神不詳
 思うに他の妙見には北斗星を祭ると云うので此れも同じか。

 下津佐
○妙見宮  祭神不詳
    祭神は前と同じ

 永久井野
○天万大自在天神  十六森天神も 祭日 十一月十六日
   祭神 菅丞相道真公
  伝に云う、義弘公より小林城北に当り天神建立の御祈願があり、天満宮を崇祀して
 北ノ天神と称して尊敬されたとの事。
 
 木浦木吉牟田
○山之神  祭神 大山衹命、猿田彦命、但し三州山ノ神惣廟と伝承。
 同所中ノ八重、
○山之神   義弘公の願文がある。此の原本は八王子神官家在
 同所芋八重    各祭日十一月中申ノ日
○山之神
 同所巣山
○山之神
 同所球磨界
○山之神
○若宮神社     祭神不詳

 大久保
○大窪神社     祭日十一月十二日
 
 岡原       地頭館より八・七キロ北北西
○諏訪神社
   祭神 建御名方命(タテミナカタ、武神)
   例祭七月廿七日 祭米 七升五合先例で地頭館より出る
  右諏訪社ノ脇
○龍ノ社
  此は高龗(タカオカミ)神であると頼庸翁は云う。此は雨風の神であるが、本居が言うには
  古事記の於可美は龍であり雨を司る神であり、書紀では高龗と云うが、それは山上の龍神で
 あり、この闇淤加美(クラオカミ)は谷の龍神である。
 右同所
○熊野神社
 思うに出雲国造神賀詞に熊野大神櫛御気炊命(食物の神)とあり、これは須佐之男命を云う

 吉丸
○水天

 遊木猿
○祇園宮

 岩瀬
○岩戸神社    祭日十一月七日
    高二斗八升四合三夕八才 神領

○歳ノ神(サイノカミ、塞ノ神と同じ) 
○塞ノ神(サイノカミ、道祖神、悪霊の侵入を防ぐ)
○田ノ神(年の神を祀る)
○年ノ神(穀物の神)
  外にも年の神は多いが略す。

    陰陽石
○皇産霊幸魂(ムスビサチタマ)神社
  陽石側面
 茎頭廻十七m余
 茎胴廻十一・七m余
 亀頭より根元迄七・二m余
 総根廻四十九・八m余
 水辺から総高十四・七m余
 水中四・八m余
 北西から南東に向く
  陰石側面
 水辺から総高サ弐七・八m余
 水中四・八m余
 凡廻五十六m余
 陽石と陰石の間五・七m余
 東南から北西に向く
 川幅約十m

   陽石
 
   陰石
 但 東側より斜めに見ないと陰陽共に真実らしくない。その方向から見る事。

 我殿の管轄する日向国諸県郡小林郷、東方村の岩瀬河の川中に神秘的な石がある。
女男の隠し所の形で並び立つ様子は図の通りである。これは天地が出来る時に存在した
二柱の産霊(ムスビ)の大神で女男の元となる神の御霊が宿っているのであろう。 これは
成長した牡牝の形である。 既に下総国の人宮負定雄が同様のものを一つの川に集め、
版木に載せて世に紹介した。それは大きく形こそ似ているが、此神石に比べればとても
同列にはできない。さて此陽石の根の方には萱(カヤ)が薄く生い茂りまるで陰毛の様である。
又亀頭口と思われる所から、万物が陽気を感じる春ともなると必ず水が垂り滴が落ち、恰も
精液の様である。 一方陰石の方は常に水が滴り落ちて共に気がある様に見えて不思議で
神秘的であり、当に神が造ったものだろう。
抑(そもそも)小林の郷は書紀の景行紀にも夷守の里として登場し、延喜式兵部の条にも
野後、夷守、真斫などと国史に載る名高い所である。 又天下に二ツとない二上の櫛触の
高千穂の麓であるから、この様な尊き神石があるのも自然の理であろう。 
今般板木に彫って世に公表されるので、その様子を少々記すものである。 

                             薩摩国家来
   慶応三年丁卯十二月                   関盛長

     陰陽二柱神の由来
 日向の高千穂二上山の麓にある岩瀬川川上の清く流れる川底から二柱並んで、神秘的に
天に聳えて鎮座する陰陽の大神の御形石(ミカタシロ)は、畏き高皇産霊(タカムスビ)神、
神皇霊産(カミムスビ)神の産霊(ムスビ)によって生成したものであり即其御神体が是である。
亦本居翁の説に、世の中のある物事は此の天地を始め、万の物類も事業も全てが皆此の
二柱の産霊の大神によって成出るものである。 世に神は多くあるが此の神は特に尊い産霊
の徳であり、仰ぎ奉り崇奉るべき神であると言われた。 実にその通りであり天下現世に生まれ
出たのは誰もがこの大神の恵であり、従って最も尊び拝すべき神ではないだろうか。

 思うに古代には何とか神の名を称えて祀ったであろうが中古には乱れた世になり祭事が
絶えてしまった。 しかし少しは昔の風儀も残っており今でも近所の人々が毎年九月十一日
に参詣して酒等お供えする事もあるとか。 しかし此れほど尊い大神とも思わず、元々小林
中心地より一里余も隔っている事から余り知る人もなく、又誰も重要視せずに単に珍しい
陽石と称えるだけで等閑になっていた。 
 我が学兄稲留翁は公務で天保年間の初めからこの郷を時々訪れたが彼陰陽石を見て、
嗚呼この御像石(ミカタイシ)は世にも珍しい石である。 是は疑いなく男女の御祖(ミオヤ)
二柱の大神の御神体であると深く尊敬して歌を詠んだ。 それは
 霊幸(タマジワ)ふ みやびの神の 御霊(ミタマ)ぞと たてる岩本は 見るにゆゝしも
やがて傍らに鳥居を建てて祀ったので、近隣は言うまでもなく遠くの人々も参詣する様に
なった。

 今では藩公にも聞え、このような不思議な神石がある事を世に普く流布しようとの御心
だろうか、此度其図を細かに模写させ又その伝を関盛長に書かせた。 出版されれば遠方
とか或いは何かと障害があり参詣できない人々も必ず此の一枚をみるだろう。 そうなれば
今よりも更に神の威光は天下に輝き日々盛んになるのだろう。 
但し陰所の形となれば女子供は可笑しいと思うかも知れぬが、其も神代上巻に虚空の中に
一物生じ、其形は言い難しとある史伝の注に、此は実は大空に現れ出た珍しい形の何とも
名付け難く、且つあからさまに言えない陰陽の搆合の形状とも見えるとある。  
其初めて生まれ出た時は究めて小さく、唯混沌としていて形など見分けも付かなかった
だろうに、幾千年を経過してこの様に大きくなり陰陽の形状になったのだろう。

 六人部是香の説に、人体のあらゆる所目鼻耳口を始め皆夫々大切の役をなし、どれが劣る
というものはないが特に隠所は重要なものであり、皇産霊大神が子を生み繁殖をする為に
作ったので身体の中で是ほど尊い所はないと云う。 実にその通りであるので少しも憚る事は
なく、人々が参詣して深く心に感じれば、どうして霊験がない事があろうか。

 これは我も人もよく知っている事だが、此神石周辺の村は他に比べて昔から人口が多い。 
是は自然のご利益により代々繁殖が盛んな証拠である。 この霊験あらたかな御神体を放置
する事は無礼極まりない事である。 そこで相談して此地を治める近藤主にも窺った所、全く
同じ心で、それは直ぐに実行しようと、此度新に神の御門を建て、一ツ舎を造り拝殿とする
普請の指示があり短時日に出来上がった。 其月の吉日を撰び社司等集めて祭りを行い、
地頭近藤国中が主心として皇産霊幸魂神社と称する額を物して献納した。 
そこで稚拙ではあるが、是等の由緒と記紀に載る神代の事、又当節の識者の意見等も挙げて
思う旨を謹んで記す。                      斯言うは里人の赤木通園である。
         明治元年(1868)十二月 

  男女の神石に人々が参詣して詠んだ歌。
    見るたびに くすしきものは これそこの 
          神の造りし 陰陽(メオ)の石神      敦丘
  天カ下 ふたつともなき 二かみの
          嶽の山の足の 女男(メオ)の神石    盛長

    神社名義考
 此れまで述べた神社と云う定義の概要を纏めて説明する。 先ず神とは、記伝に神と云う
定義の説明は見当たらない。 全て迦微(カミ)とは古への神話に現れる天地の諸々の神を
祀る社に鎮座する御霊を云い、又人は言う迄もなく鳥獣木草の類や海山などその他何でも
通常から並外れて優れた徳があり、畏敬するものを迦微と言うのである。
優れているとは尊い、善い、功があるなどと優れた事だけを言うのではない。悪い事、珍しい
事なども卓越して畏れ多いのは神である。
 人の中でもまず畏れ多い天皇は代々皆神に坐す事は言う迄もなく、それは遠つ神と称して
凡人とは遥かに遠く尊いものである。 それ程でなくとも神と云う人は昔も今もあり、一国一郷
一家の内にも程々の神と呼ばれる人もある。

 さて神代の神たちも多くは其代の人であり、其代の人は皆神であるから神代と云いう。 
又人以外のものには雷は通常でも鳴神とか神鳴など言う迄もなく、龍・樹霊・狐などの類も
特別不思議なもので畏るべきものであれば神である。 海山などを神と言れる事が多いが
是等もたいへん畏敬すべきものだからである。
そもそも微はこの様に貴いもの賎しいものもあり、心も行いも其様々に随って行くものであるから
一括で論じる事はできない。況して善くも悪くもたいへん尊く優れた神であるから、凡人がその
理を量り知る事はできない。 唯その尊きを尊び、畏敬するべきだと師は言われた。

 社の事も未だ世の識者たちの説を聞いていないが、思うに社は舎屋城(ヤシロ)の意味だろう。
其は宮も本御倉屋(ミヤ)であるからである。 斯て神の御室と云うのも宮の事である。 又御殿
(ミアラカ)も同じく宮を云う。 宮も社も元は同じであるが、宮は社の上に言うように御舎(ミヤ)
でも最も尊いものを言い内ツ宮とか外ツ宮と云う。 社は出雲の大社と云うが、もっと小さいものに
対しても広く云う様である。 但し中世以来神々を某権現、某大明神など唱える事があるが、
これは元々儒者や仏僧が言い始めた事であり、やはり改めて某神社とのみ唱えるのが良い
のではないか。


2

   二十三 山部 峯嶽丘岡
○高千穂峰
 古事記では日向の高千穂の久士布流多気(クシフルタケ)と云い、日本書紀では日向襲の
高千穂峯、又は日向櫛日(クシビ)の高千穂峯、又は日向高千穂櫛触(クシフル)の峯と云う、
続日本紀では大隅国贈於郡曽之峯と云い、風土記では高茅穂二上峯と云い、古事記序で
高千穂嶺と云うのも凡てが此の霧島峯の事である。 
高千穂は別名霧島山と云い、又智尾とも高尾とも云う。此山一つで嶽が幾つも有り嶽毎に
名がある。 特に秀でたものが東西に二つあり、東嶽を二上峯と云い又高尾とも云う。
更に二上峯を分けて呼ぶ時は前にあるのを矛ノ峯(高千穂峯)後にあるものを火常ノ峯(御鉢)
と称する。 西嶽は韓国嶽と云い、此れも又高尾と云う。
其他夷守(ヒナモリ)嶽、蛇尾嶽、宍子嶽、新燃嶽、名無樹山、大平山、俎木山、大槻山、
丸岡、突嶔、夜気山、夏樹尾、丸丘、長端山、板山等があり、他郷に渉っているものとして
甑嶽、白鳥嶽、飯盛嶽、栗野嶽、大波嶽等がある。

    智尾と高尾
 高千穂は昔土地の人は智尾と云ったが地名にもなり、今曽於郡にその名前があると云う事を
天保の初め伊地知委安も言っていた。 
高尾とも云う事は未だ誰も説明していないが、思うに今も常に御高尾と云い、又オタカオサマ
と云えば民謡の様に聞き慣れている。 本来高丘は前述東西二つの峯だけを指して云う事で
広く全般に云う事ではない。 上のオは御、下のサマは様であり、例の美称の方言、タカオは
高穂、高保(ホの仮名によく使う)高峯、高丘、高峡みな同じで前に出た智尾も共に高千穂の
上又は中を略した言い方だろう。  ホはヲに訛る事は多く、高千穂と書いてタカチヲと読み、
又高千尾と書いたものも過去の書に多い。
 
 其は伊地知居委安の襲峯考の中で、ある人が、知尾名は曽於郡に在り康暦書に見える。
又尾と穂は合わないので高千穂とは関係ないと云うと、委安は答えて、穂と尾が訛る事は古く
からある。  建久八年の日向国図田帳で臼杵郡に於いて高千穂社八町と書き、且文保元
(1317)年十二月二十一日、幕府政所は道義公を諸所の地頭とする下文に又日向国高智尾
荘と書いている。 この様に彼是訛っている事から証明できるのではないかとある。

 餅原某の古い蔵書の中に高知尾、其外多くが今猶単に高尾と呼ぶ地では、韓国嶽の半腹
に古くから専ら高尾と唱えてきた所がある。 其辺りを又ケムモツノハナとも呼び大変嶮しく岩石
が聳え、北側の下方は夏でも日差しが当らないと聞く。 その場所は分っても到達する事も
できない所だが、其処を俗に鳴雷の令子産育(コオヤシ)所云って畏れている所と云う。 
なにか由緒ありそうだが全く分らない。 第一ケムモツノハナとは何を意味するか思当たらない。

注1 伊地知季安(1782-1867)鹿児島藩記録奉行、薩藩旧記雑録の編纂者
注2 道義公 島津忠宗(1251-1325)島津家第三代当主、道義は戒名。元寇で武功あり。
 文保元年に日向高知尾庄、肥前松浦庄の地頭に任せられた。

    高千穂参詣詣
 ところで天孫が降臨した地は西嶽(韓国を指す)かも知れないと云う説があるが、その根拠は
東嶽(矛ノ峯、火常峯の事)より今は高く且つ山々の中央に位置すると云う事に依る。 
しかし著者自身は東の峯の方と決めている。理由は東嶽も火常峯が噴火で陥没する以前は
どんなに高かったか分らないと云う事である。 況して矛ノ峯と火常峯との間は瀬戸尾と云い、
上古は峯の神社が在って傍らに天ノ井と云う御手洗水の湧出もあった。 
 其神社は文暦(1234)の噴火により今は下方に遷座したので矛ノ峯の絶頂は謂ゆる矛だけ
が建っている。 しかし多くの人が其嶽の神体の様に崇めて、御高尾上りとか御高丘様参り
等と云って其矛を拝むが、其嶽自体が実に二上(フタガミ)で霊異(クシビ)に造られた姿で
あるからである。
 
 諺に御高尾参りは一生に一度では足らず二度はやらねばと云うので一度は何としても
詣でたいと思っても、春秋の良い季節で天候も良くなければ上る事ができない。随って何か
支障が続くと一度も詣でる機会がなく終わる人も無いではない。 いざ詣でるとなると先ず
身を清めるのは当然で、履物草鞋さえも峯の下で新しい物に履き替える。 又峯で履いた
もので下界の穢れた場所は踏まぬ言う事で皆予め用意する。 
 中には偶々穢に触れた人が交る事があると、忽ち雲霧に覆われ大地が鳴動し、方向も
分らなくなり困惑するのみならず、体調も悪く途中で下山せざるを得なくなる事も時々あるとか。
 
 更に御高尾詣には各人が石一つ宛持って上がり頂上に捧げる習慣がある。 上る道は
東西北にあるが何れも嶮しく、身一つ上がるだけでもたいへんであるから、石の大きさは良く
考え程々のものを見立てて持ち上がり納める事である。 矛が建つ周辺は持ち上った石で
一丈程高く積み重なっている。 中には岩の様な大きな石も少なくないが、長い年月を
経たからか。 著者は其処に登って大きな石を見ていると、千代に八千代に細石の巌と
なりて、の歌の通りかと思にひたる。
   

    天の逆矛
 ところでこの矛は一般に天ノ逆矛と云うものであると言うが実は違う。 八田知紀翁は、此の矛を白尾氏が大げさに名勝考の中で取上げて紀伝にも関係するものと言うが、此は決して神代のものではない。
都城の住人大館晴勝が言うには、自分の祖先の一人に物好きがいて桜島の頂に矛を建て今も在るとの事だが、もしや霧島の矛も彼の仕業ではないかと言っている。
 (知紀)自身も度々此の峯に登り人々と一緒に委しく矛の様子を見たが、これは矛を逆さまに立てた物ではなく、真言宗で云う三鈷と云うもので図1に示す。

 正常に立てたが火山噴火で頭が折れて、今は柄だけが残った状態である。可能性の一つとして例の性空が霧島を訪れた時、国主に進めて建立した物かも知れない、と襲峯一覧で述べている。  彼峯には著者も三度登り、一日委しく其矛を見て図にしたものがある。 図2の様に面の形が双方に有る。 色は緑青で銅とも石とも判断できないが最近の物とは見えない。
図1 三鈷    図2 逆矛

 地中の長さは分らぬがそれ程長くはないようだ。 これは文政の頃、霧島山中に茸を栽培
する山人が、この矛を動かした。 茸は潤いが無いと善く生えないので旱が続けば雨が 
欲しいが思うようには行かぬものである。 そこで峯の矛を動かすと雨が降った事があったので、
雨を降らす為に動かす事が時々あった。 事が公に聞えたので矛を動かす事は禁止された。
 この矛は小林、高原、都城の境界点になっているので各郷の役人が出て矛を動かさぬ
ようにしたが、その時始めて地中から抜いて長さを見たと聞く。

 どんな経緯にせよ此の矛を粗末に扱う事は良くない。  仮令性空達の仕業でも又外の
何者が建てたにせよ、神の心が憑いているかも知れないので、今更むげに貶めて賤しむ
物でもないと思う。
 我師(篤胤)の鬼神新編で、人も不思議な霊をもつものであり、其霊を集中させて祈る時は、
神がそれに感応して験がある云々。  随って木像、石像等の物も人が信心をして祈れば、
神霊がこの物に寄添い実の神になると云われたが、今は此矛も神体としても良いのでないか。

注1 性空上人(910-1007) 天台宗の僧で霧島山でも修行したといわれる

    日向風土記による異説
 古事記に、天津日子穂之邇々芸命は天の御座を離れ、天の八重たつ雲を押分けて勢い
よく道を別け進み、天の浮橋に立って、それから筑紫の日向の高千穂の尊い峰に降られたと
ある。
 日本書紀には、日向の襲の高千穂峰に天降る、一書には日向櫛日高千穂峰に降り到る、
又一書には日向ノ襲高千穂櫛日二上峰の天の浮橋に到る、亦一書に日向襲の高千穂添山
峰云々ともある。 万葉廿に天平勝宝八年午六月十七日、大伴宿禰家持ノ歌に、
 久かたの天の戸開き 高千穂の峯に天降りし天皇の神の御代より 云々とある。

 本居翁は古事記伝で云う、此山は日向国風土記によれば臼杵郡の知鋪郷へ天津彦の
迩々杵尊が天の磐座を離れ、天の八重雲を排して勢いよく日向の高千穂二上の峯に天降
した時、天は暗く昼と夜がはっきり分れておらず人々は道を失い物の色も分らなかった。 
この時土蜘蛛の大鉗と小鉗の二人が皇孫尊に申上げるには、尊の御手で稲千穂を抜いて
籾を四方に投散らせば明るくなるでしょうと云った。 そこで大鉗等が奏上する通り、千穂稲を
撰んで籾を投散らされたところ、空が晴れて日月の光は地を照らした。 因って高千穂の
二上峯と云う。 後の人改めて知穂と名付けたと思える。 
高千穂の名の意味は此風土記に云う通りなのかとだけ言われ本居翁も決めかねている。

 しかし良く考えて見ると千は千々、千五百(チイオ)、千世、千度等の千であり単に多い事を
一般に言う、穂は稲穂に限らず木ノ穂、垣穂、鑓ノ穂等に云い、秀(ホ)であり抜出てそそり立つ
意である。 前に述べた様に此山は幾つも何峯と呼ぶ山が有るので、高い千穂のる峯の
意味であろう。 そうであれば高千穂は総称にも聞え、書紀の日向襲の高千穂槵日二上峯、
又日向襲の高千穂添山峯等とあるのは修飾語として適切である。 世に山は多くあり北の郷、
北方の山は球磨山に接して広い連山であるが、唯波濤の様にうねっており、これと云った名の
ある山はない。 

 此高千穂山は今日向と大隅の国堺だが、古代に日向一国だった時は日向国の中央であり、
球磨の群山からは遠く離れて僅か四十キロ四方に跨った霊異(クシビ)山々である。
一般に山の名は見た形で称されるものである。 日向風土記に云う様に、其山で何かあったから
と云い、それを山の名にするのは本末転倒である。久士布流は霊異(クシ)ふるであり、書紀に
槵日とあるのも同じ(槵は皆借字)で布流と備とは同じ言の活用であると本居翁が云う通りである。
 
 霧島の名称は此山が特に霧の深い所だから、この様に言慣わしたものだろう。 島とはある
方域を云う名である。 後にも述べるが八田翁によれば、此霧島に接する諸郷は何処も霧が
深い事で有名であり、朝夕には只海原の様であり何処も見えない程である。 その中で彼峯
だけが中央に浮出しているので其名に相応しい景色である。 神代にもさぞ神秘的だったと
想像されると。 
多気(タケ)は嶽の字の意味で高い山の事を云い、山々の中でも高いものを言う。峯は山の耑
(ミネ)であり玉扁(六世紀中国の辞書)で山の尖(トガリ)とある。

注1 古事記伝 本居宣長(1730-1801)が多くの古事記写本を校合して註釈を付けた
 古事記の集大成。

    瀬戸尾と噴火の歴史
 此地は今日向と大隅の国境で山の半ばに在り、東は矛の峯と云い日向諸県郡に属し、西は
火気布峯と云い大隅国曽於郡に属す。 この二峯は山々の中で突出し、東の矛ノ峯は絶頂に
矛を建て、西の火気布峯は火が常に燃えて後世終に陥没して、今俗に其火口に準じて御鉢と
称する。 火口は広く深く眼下数百丈あり、人は其上縁の馬の背の様になった所を行くが大変
恐ろしい所である。 そこを経て暫く行くと矛ノ峯である。
 此西峯と東峯との間を瀬田尾と云い、昔は霧島神社が茲に在ったが、度々の噴火炎上で峯
が崩れ陥没したので神社を今の地に遷座したと云う 瀬田尾は瀬戸尾とも書くので迫門丘
(セトオ)の意味だろう。 

 続日本紀によれば桓武帝の延暦七(788)年七月、西太宰府から報告があり、去る三月四日
夜八時、大隅国贈於郡の曽の峯上に火災が起り雷が鳴動する様に響いた。 夜十時には
火炎は止んだが黒煙が上がる。 後砂が峯の下五六里に降り、沙石二尺程積り色は黒い。
これが国史に載った最初である。

 其社殿の記録では仁安二(1167)年から炎の記録があり、後の文暦元(1234)年十二月
廿八日の炎は最も大きく、此時社宇が皆焼失した様である。 此後長く火山活動は収まって
いたが、天文廿三(1554)に至り炎が上がる。 この時加賀国で白山が噴火した。 
夫より又永禄九(1566)年九月九日炎上し人が多数死亡した。 此の頃室町幕府の末期で
天下は大に乱れる。 天正四(1576)年より同六(1578)年に至り又炎が上がる。 此の年
九州で大乱があった。 
 慶長三(1598)年より五(1600)年に至り又炎が上がる。三年には豊太閤死去し、五年には
関ヶ原合戦があった。 同十八(1613)年より翌年迄炎が上がる。十九年には諸国で地震が
あった。
 又元和三(1617)年より翌年に至り炎が上がる。 又寛永十四(1637)年より翌年にかけて
炎が上がる。 此年は肥前島原で兵乱があった。 又万治二(1659)年正月より寛文元(1661)
年十二月にかけ炎が上がる。 又同二(1662)年八月より同四(1664)年三月にかけて炎が
あがる。 和漢合運によれば寛文弐(1662)年十月大隅国で大地震があり海が陸に到るとは
この事をいうのか。
 
 享保元(1716)年九月廿六日炎が上がり、此時は東霧島社、狭野社、瀬戸尾社、神徳院
及高原、高崎、小林郷等の民家山林が皆焼けた。同二(1717)年三日炎が上がり、俗に
新燃と云う。 此時錫杖院及管下の民家、諸県郡の諸郷の田園の被災は十三万六千三百ヶ所
と云う。又此の年江戸で大火があった。 
 又明和八(1771)年七月より翌年にかけて炎があがる。 享保元(1716)年より此歳(1772)に
かけて大いに火を噴き連日休む事がない。 岩石は燃え滓となって空から堕ち、沙石は糠を
吹き飛ばす様で灰燼は雨の様である。 又昼でも夜の様に暗く道行く人は迷い、人々並んで
筵を載せて其圧傷を防いだ。 数里の間田畝を埋め尽し草木は焦枯れ、この光景は至る所で
見られた。 其昔の様子をこれらから推察されるだろう。

注1 噴火はどの山とは書いてないが、享保元年の新燃の噴火は諸書にあり、上記も新燃嶽
 か御鉢の噴火と思われる。 一説によればこの二峰が交互に噴火していると云う。

   霧島こそが天孫降臨の地
 八田知紀翁は其著襲峯一覧の総論で以下述べている。
畏き皇孫命が天降りなされた日向の襲之高千穂二上峯は今の霧島嶽である事は疑いない
事だが、日向風土記の説により、本居翁は古事記伝で彼臼杵郡の知鋪郷の山を天降の地と
決め、皇孫命は始め知鋪山に下りた後、夫より霧島の方へ移動したと云われたが、平田氏も
古史集成でその説の側に立っておられる。 しかし彼ら翁達は皆其実地を見ずに遥か遠くで
考えて書かれたので思い違いもあるだろう。 もし独り突き出て美しい霧島の山を正月に仰ぎ
見られたら、当に天降りはこれだと定められるだろうに口惜しい事である。

 ところで国々の風土記と云うものは翁達も云われる様に早くから誤り伝えた事もある様で、
その地を良く見せる説も交っているので凡ては信じられないのは当然である。 しかし暫く
其説に随えば、かの天降りの時、天暗く昼夜がよく分かれていないとか、大鉗等の奏上の通り、
千穂稲を抜いて籾を投散らせば忽ち天が晴れて日月の光が照った。 そこで高千穂二上峯と
云い、後の人が改めて知鋪と名付けるとあるのも、それは我霧島に付いての古事であるものを
臼杵郡の方に誤り伝えたものだろう。 前述「後人が改めて知鋪と名付ける」とあるのは先ず
如何なものか。

 この「天暗く昼夜がよく分かれない」とあるのは、つまり霧島の霧が深いからではないか。
又稲穂の因縁も正しく此峯にある。 特に此の霧島の事は続日本紀で云う大隅国贈於郡
曽の峯と思われ、又長門本平家物語に霧島の事を日本最初の峯と云う等、すべて天降の
地に紛れない証と思われる。 又霧島の末社である税所祠は今の税所氏の遠い先祖である
左少将藤原篤如の霊を崇めたものである。 其は篤如が治安年中(1021‐23)に大隅国に
下向して高千穂神税を掌った事は確かで由緒ある事実である。 此高千穂神社は朝廷より
格別に崇敬されていたのも、その当時天降の地とされていたと確認できる。

 それにしても「後の人が改めて知鋪と名付ける」の言はどう考えても疑わしい。 それは
実に皇孫命の天降の地と伝えて稲穂に関連しそうな地名に後の人が勝手に改めて知鋪の
仮字など使うべきではない。 かの浪速を難波、盾津を蓼津と訛る類で、これらも後の人が
改めたと言うが如何なものか。 是も又日向風土記の記伝が正しくない証の一つである。

 又此霧島に接する諸郷は名高い霧深の地であり、朝夕には只海原の様で何処もはっきり
見えないが、かの峯だけは独り中天に浮出て実にその名に相応しい景色である。 神代には
これ以上だったかも知れない。 
 又山中に自然生の稲が今でも有って、昔から不蒔苗と云伝えるが、其は陸稲の一種で
自然に蔓延り年々野岡に自生する。今はそれにも色々種類があり、中には水穂にも決して
劣らない。 是も又彼稲穂の由緒正しい証ではないかと述べている。 全くその通りと思う。

 又白尾氏は、臼杵郡の高千穂の方は夫々の名前こそあるが、其山はむしろ平凡で霧島の
霊山とは比べるものではない。其は日本一の旧跡二上峯と称して二神明神社を祀る。
山々は皆小さく連ねてはいるが一つとして高嶽はない。 まして同じ所に槵触と云うが両所
に有り、また二上と云って別所に分れて、全く後世の偽称である。 又此地に伊弉諾尊誕生
の窟、迩々杵尊、火々出見尊の山陵等の言伝えるものがあるが、語るに足りないものである。
 我は特に彼処を行き初めてその山丘は小さな茂山である事に驚き、疑なく古の高千穂峯
ではない証拠を得た。 記伝の間違いを確認し、後の疑問も明らかする為にも茲に
書留めると云われた。

 思うに本居翁は古へ二上と云うのは皆二つある山であると云われたが、此山を霧島とは
呼ばず高千穂と云い又智尾とか高尾とも唱えている。 この霧島の姿が高千穂をなして
霊異なる事は云う迄もなく、且つ二上で添山ともいう山の形を目近く見られ、一方知鋪郷の
群山の中には二上とか槵触等の名前だけで是と云った秀でた山がなく、第一二峯ある所も
ない事を比べられたとしたら、翁も疑問の余地はなかったであろうに。 
 しかし今では大方の人々は思い違いに気付かれている。 平田大人も終に霧島の方に
落着かれた事が古道大意に見える。

 又今年明治二年春、八田翁をはじめ樺山資雄、田原篤宲等が連れだって彼臼杵郡の地を
見に行かれた。その帰路小林郷を通過する時、著者の家に一泊されたので、先ずその山の
事を問うたところ、果して上に述べた様な事で、取にも足らぬ事と聞いた。 元々名と実との
違いがあったからである。 そこで知紀翁の此度出発の折に一首。
 高千穂の 二上山の 二たたびは ことやみぬへき 旅にやあらぬ
と詠まれた。 
 此以後知鋪郷の山との論争は終わった事を目のあたりに見た。 この様に述べて来た事を
考慮すると、皇孫尊が始めて天降なされた地は我高尾(キリシマ)である事と確信できた。
    
    不思議な現象
 皇孫命の天降(あまふり)された事は云う迄もないが、その前に度々天降の神等も多くあった。
又天に上った神もあり、天忍雲根神は後小橋(彼火常峯の事か)から上ったと云う。 其外幾柱も
天に上った事が記紀神話に見える。 考えると不審に思う事もあるが、其を本居翁は玉鉾百首の
なかで「あやしきをあらじといふは此の間のあやしき知らぬ癡(愚)心かも」と詠んでいる。 
 今の世にも不思議な事が色々ある事からも悟るべきものだろう。 同じ玉鉾百種に
「いやしけど雷樹霊狐虎龍のたぐいも神の片端」又「あやしきはこれの天地うべならべや、
神代は殊にあやしくありけむ」等の歌もある。
 平田大人の述懐の歌に「せゝろきに ひそめるたつの雲おこし 天にかけらむ時はきにけり」
と詠まれたが、俄に速風(ハヤテ)が起って非常に烈しい時は必ず龍が上るものだと云われて
いる。
 果たして其処に昔から在った巌が無くなったり、或は彼処に長くあった朽木が雨風の後急に
見えなくなった等ある。 此等は化身であり元の龍に変わって上ったのだろうと語り継がれる。

 此郷の北西方村深草と云う所の畠の畝より龍が上った事がある。偶々著者も凡そ六キロ程
はなれた所で見たが、僅か百メートル程の近くで見た野辺某を始め其外数名が語るには、
其辺は忽ち雲風が烈しく起ったが、元々快晴の白昼の事であるから、尾の先其外の形は全く
画で見る龍の様でひらりひらりとして天高く上ったと云う。但し頭の方は雲に包まれてよくは
見えなかった。

 今年明治四年十一月六日辰の日午後二時、加久藤西郷村で道本淵より砂か水かそれとも
霧か分らぬものが鳴動して川上の方に吹上げて行き、やがて薄雲になった。其色は川霧よりも
少し赤みがかって見え、其中に黒い芯と思われるものがあり、中天に向い凡東南の方へ頭を
斜めにして大空へ三千メートル余り上り、夫から又東北の方を指して遥かに登り、後は大空と
一つになって見えなくなった。 
 同所の橋口某等は其雲を百メートル程の所に見て後は二百メートル程真上に見た者が
多かったが、其上天する姿は長さ百メートル程に見えたと言う。同所助右衛門、善四郎と云う
者は二百メートル程の所からその鳴動に驚いて走出て見たら、日に当たりながら白旗を振る
様にして登って行き、鱗の形迄見えたが頭は雲に包まれて見分けられなかった。 しかし頭で
雲を右廻りに巻登り、尾は左廻右廻に跳ね廻りながら登天したと云う。  此は加久藤郷の
上野坦介が知らせ寄越した書を要約して抜き出したものである。

注1 玉鉾百首 本居宣長の歌集二巻、1768年成立、 神話に因む百種の和歌を載せる。
注2 竜巻を目近に見た話題二つであるが、天に上る龍神として見ている。

     野生の稲
 此山の近辺に自然に生える稲が今でもあり、是を昔から不蒔稲と云伝える事は既に述べた。 
実に有った事だが、近年天保十五年九月、我郷東方村で赤木屋敷の仁八と云う者がある日
野原で偶然に茅に稲穂が出ているのを見つけた。 、珍しく思い又人にも見せようと、その
茅一株を掘り取って持帰り、彼の庭先の植込みに移植した。 
 疑ったり不思議がったりして近辺の人は勿論、遠くから興味を持ち見に来る人も多かった。 
こうして翌年又それを蒔くと更に沢山蔓延る。色々植えて試して見ると、品質は陸稲の色々な
種子にも勝ると評判になり、此郷は言う迄もなく遠くまで広がり、今でも茅稲とか茅葉稲、
又茅の穂稲とも呼ぶ。 これは本来の陸稲の葉とは異なるが、茅の葉に少しも違わない物も
時々出来ると聞くので此処に載せる。

     霧島山の植物
 霧島山は、どの嶽も大方半腹より頂の方は総て赤焼石で木草は生えないが、岩の間々に
至る迄躑躅(つつじ)が蔓延り生えている。其葉は小さく枝は短いが、花太く其色も色々あり
種類が異なる。 是を即ち霧島躑躅、又霧島さつきとも呼び有名である。 田代清秋の歌
  秋ならぬ 霧島山の 岩つゝし 
         紅葉々よりも 照りまさるなり
 山腹下方には雑木の松・杉・梅・檜・槻・楠・樫・柏・桑・榎・賢木・赤木・朴・白檀・其他挙げる
遑がない。 但し繁茂しており鳥獣も茲に集る。且つ此山中で茸類は椎茸、松茸、香茸其他
多く採れる。又木炭は当然で、樟脳、硫黄、明礬(みょうばん)、芋、山百合(カタクリとも云う)
和人参などで、年来是等を採り商いする者も少なくない。尚前に挙げるべきで洩れたものとして
櫟(クヌギ)は大木が多い。 この実は餅に交ぜたり焼酎に混ぜると良いと云われる。
楊梅(ヤマモモ、医書に体を温め無毒、痰をとり、食を消す)、榧(カヤ、毒なし痔を治し虫を
排除して食を消し、筋骨を助け目を良くする)

 霧島連山      図クリックで拡大

○韓国嶽
    大蛇伝説
 此嶽は又の名を雪の嶽と云い、又西嶽或いは箭筈(ヤハズ)とも云う。此嶽は小林・飯野・
曽於郡に接して極めて高い。中腹より上は草木無く、白石、焦土が頽れて遠から望むと積雪の
様である。頂の半腹は深谷の池で大波池と云い、東西五百メートル南北三百メートルあり、
其湖水は滔々として大波を起す事で名が付いた。 土地の人は、是は神龍が潜んでいる所で
あるから、此の頂きに登る者は騒々しくしたり、或は赤色の帨布(テヌグイ)を晒す事を戒める。 
若し犯すものがあれば、神龍は雲を起し霧で覆い風雨を烈しくする。是に驚いて山下に下れば
忽ち白日晴天となる事往々にあると云う。
 思うに師古(注1)が「渓州ノ界に湫水有り、清徹にて汚濁を容れず、喧汗毎に輙(スナワチ)
雲雨を興す」と云ったが、土地の者が昔から龍の住む所として祈るのは是であろう。 同じ山中で
小林郷の内に蛇谷と云う所があるが、是は大蛇の居るからの名だろうか。それは大波池に
限らないようだ。中島直広の歌に
  霧島の 御池の氷 解にけり 潜める辰も 春を知るらむ。

   名称考
 韓国嶽は、霧島山中で一番高く、噴火で陥没しなかった太古には更に高くて唐国迄も見える
峯だから、唐土見(カラクニミ)嶽だと言伝え、約してカラクニかと思っていた。 しかし頼庸翁の
説では、韓国とは白尾国柱翁が書き始めたものと思う。山田清安翁(注4)が引用した唐添挨嚢抄
や諸国一宮廻詣記では韓栗嶽とも記している。 試しに正しいのか頼庸自身が公用で此嶽の
麓である踊郷横瀬村に行き、村人に確認したところ、皆おしなべて韓栗嶽と云い一人も韓国嶽と
云う者は居なかったとの事。 
 考えるに此嶽の小林側になる北東の山懐に栗生(クリハエ)と呼ぶ所があるが、栗の大木が
沢山あったので其名になったのか、韓栗の説も委しく聞きたいものである。

 一方神名帳に大隅国曽於郡韓国宇豆峯神社とあるが、今国分郷上井村にある韓国神社の
事の様に思われる。古代より今の場所に宮があるのだろうか、若しや大昔に此韓国嶽に鎮座
したものを、霧島岑神社の例にある様に噴火により、古代に今の場所に遷座したのではないか。
それであれば嶽の名は韓国宇豆峯だった筈である。兎に角峯神社と云う以上、元々麓の神社と
しては符合しないので疑問を持った次第である。彼の社殿を訪れ確認したいものである。
但し韓国嶽とは此辺、即ち吉松辺りから高原辺迄の人々は今もずっと韓国嶽と呼んでいる。 
正保や元禄年間(1640‐1700)の諸書にも加良国嶽と記載されているので、国柱翁から韓国と
書始められたとは思えない。国柱翁は享和(1800)前後の人である。

   韓国嶽詣
 此の嶽は西嶽とも云うが、これは東矛の嶽(高千穂峯)に対して云う。 箭筈(ヤハズ)嶽とも
言うが是は小林辺より眺めると頂上が箭筈の形に見えるので名が付いた。 (注5図)
 又この頂上にも矛が建っている。 是は棒状のもので、直径五センチ、長さ五十センチ程で
緑青を帯びて何の金属かは判断できないと言う。 この由緒は分らないが、近辺の人々
(飯野から吉松辺)は茲にも参詣して是を拝む。 凡て御高尾参(オタカオメリ)と云う。
 又頂の噴火口跡を大鉢と云い、西側の虚(ウツロ)を平鉢と云う。 これ等は東嶽の火常峯の
火坑を御鉢と呼ぶのと同じで、鉢は植物の鉢も器の鉢も僧尼の叩くものも鉢だが、中が虚ろ
になって入るものを云う。嶽北側に王子の尾と呼ぶ所があり、是は飯野との境に王子神社が
在る辺りなので此の名がある。 又水の頭と云う名は焼山の中腹より水が出るので、その
水の頭の意味だろう。

注1 顔師古(581‐645)唐の学者、漢書の注で有名
注2 塵添壒嚢鈔 (じんてんあいのうしょう)室町時代に編纂された辞典で全二十巻。
 天文元年(1532年)成立。 流布している版本の刊行は1650~1660年頃と見られている
注3 諸国一宮廻詣記 橘 三喜(たちばな みつよし、1635‐1703)  江戸時代前期の神道家
 延宝三(1675)年から廿三年かけて全国の一宮を参拝し、その記録を『諸国一宮巡詣記』
 全十三巻として著している。
注4 山田清安(きよやす1794-1850) ,国学者、鹿児島藩士。香川景樹(かげき)に歌学、
 伴信友(のぶとも)に考証学を学ぶ。 嘉永二(1849)藩主後継問題で世子斉彬の擁立を
 はかって失敗、同年切腹。 著作に「設楽(しだら)歌考」など。

注5 箭筈 矢筈 弓矢の軸の最後部分の玄を受ける凹み

○夷守(ヒナモリ嶽、雛守とも書く
 此山は凡てが小林の細野村に属す。東嶽と西嶽との間でやや北に突き出た一峰で諸木が
繁茂する。名義は元々夷守と云う地であり、雛守神社もあるからだろう。 
此嶽の半腹に今宮の宇登と云う所があるが、夷守神社の旧跡である。 宇登は宇津呂の略で
あり虚(うつろ)が元である。 昔宮があったので宮の宇登と云う。 伝説では景行天皇が参詣に
便利な様に今の地に遷座させたと云う。 この嶽の麓に宮原杉林がある。

○蛇尾(ジャオ)嶽 岩下
 是は又の名を家嶽とも云い、東嶽から二キロ程北西にあり、諸木が生繁る。 南側山腹は
霧島岑神社の旧跡でやや平地である。(注1) 
 蛇尾とはどんな理由で名付けられたがはっきりしないが、此の山は矛の峯の北方に尾を
長く引延したような山だから、蛇の尾の意味だろうか。 家嶽の意は半腹より上の状態が家屋の
形に似た山だからその様に呼ばれるのだろう。 尚其辺に岩下と呼ぶ所があるが、大きな岩が
あるからである。

注1 現在坊主が原とよばれている。

○宍子(シシコ)嶽   山腹より水出る
 此は矛峯と韓国嶽との間に在って、元禄年間の測量で一里とある下に左右須々山、
但し志々戸ノ嶽より小林・曽於郡・飯野・踊四方境の韓国嶽迄見えるとある。是を絵にして
シヽトノ嶽と書かれているが、其は志々戸の戸ノ字をトと読んで書き誤ったに違いない。
古より今に至る迄シシコと呼んでいる。 名称の意味は東の方から見ると猪ノ子に良く似て
いるからと思われる。
 東西北の方は雑木が生茂っているが、南ノ方に生木は無く赤く崩れている。随って南辺の
人は今も赤崩(アカグエ)とも呼ぶ。 此宍子嶽北側中腹の黒須々と云う所から水が流出て
隣の焼山より出る水と合流して末は岩瀬河に加わる。又同嶽の東側の仲太川原と云う所
からも水が流れ出て山中を東に流れて末は高原郷に到り濁川と呼ばれる。 其は元々
堰き止め田地に使用していたが、近年は高千穂新田用水となった。

○新燃(シンモエ)嶽  旧名三ノ山及び両部池
 此は襲山郷がある曽於郡との境に位置し、元禄時代の測量帳には曽於郡境の地点より
北の方へ五十メートル程に両部の池が在り、旧い図には両部池から三ノ山名が有る。 
 考えるに当時三ノ山と呼んだのは頂が三つに分かれた山が一つ有ったので三ノ山と称した
のだろう。 ところが両脇の頂きが噴火して火口が池となった事はその形から明らかである。 
 南側の池を金剛界、北側を胎蔵界と名付け、此の二つを合わせて両部池と呼んできた。 
ところが享保元(1716)年又其両池の間にある山が噴火した。 此れは諸書に享保元年九月
廿九日、金胎両部の池より燃出したと有り、多くの人が知ったが、享保の前迄は猶三ツ山の
名が有ったと思われる。 この様に三ツに分かれていた頂は漸々に皆噴火して火口が出来、
終に三ノ山の名は無くなった。更に近年文政六年(1823)十月二十日、其池の西の隅から
頻りに炎が出たが山の形は高く残ったので新燃嶽と呼ぶようになった。 但し文政から今に
至っても猶炎は途絶えない。

注1 新燃嶽は2018年現在でも活発に噴煙を上げている。

○ナナシキ山
 名の意味は名無樹山であり、名の無い木があったので名付けけられた。 この木は檜(ヒノキ)
に似てはいるが檜では無く、誰もその名を知らなかったと言う。 大変な古木だが枝葉は益々
栄えて其木の下百五十坪程は、どんな雪や長雨でも少しの雫も決して落ちる事がないので、
床下の土の様な色をしていると云う。 
この事からも大木でしかも葉が繁っている事が想像できよう。  それなら此の山に行く人に
とっては良い宿所の様に思われるが、一夜と雖も泊る事はできない。
理由は必ず不思議な事が起こるからである。 昔大勢の木こりが来てこの樹を伐ろうとした事が
あったが、果して奇怪な事があった。 此は神木だと云って大変に畏れ、そのままにして置いた
と言伝えがある。 又此れは定めて葉守の神が宿っている徴か、樹の下には少しの木ノ葉も
落ちて居らず唯事ではない。 俗に天狗の棲みかではないかとも云う。 

 其処に行こうと思って尋ねても決して到着できず、偶々思いがけず行き着く事もあると言う。
著者は最近到着したと言う二人から聞いて此処に記す。但し記伝にも不思議な樹も色々
あると述べられているが、前述の様な樹を云うのだろう。

○大平山  水が出る
 前にも述べた元禄の測量図の曽於郡境から北北東二・七キロ程の小林の中にオオタイラ山と
見えるのが是である。此山の谷々は雑木が繁る野丘で、頂が平なので大平山と呼ぶのだろう。 
山の東半腹にある枯矛の本と云う所から水が流れ出て末は前述仲太河原の水と滑曽口で
合流して高原の高千穂新田用水となる。

○宇津伎我山
 此山は夷守嶽の南西に隣接して諸木が生繁る。 名義は不明だが大槻が山かも知れない。
今は大槻と呼べる樹は其処には無いが、昔の事は分らない。 槻はたいへん少ない樹だが、
隣接の山には今でも大きな槻があると云う。

注1 槻 ケヤキの古名

○丸岡
 此山は夷守嶽の南東に隣接している。 北側は雑木が繁茂して南側は野岡で頂上の形が
丸いのでこう呼ばれる。 此山上に紫池と呼ぶ池が在る。 岡は字彙に山の背で岡と云とある。

注1 字彙(ジイ) 中国の辞書、漢字を類別して集め、意味などを解説した書物

○突嶔
 此峯は矛ノ峯と夷守嶽との間に在って、南側はサヌメリノウトと云い、北側はコノウトと云う。 
其間は馬の背の様であるが、中に特に尖った所があり、実にトツキンの様に見える。 実は
大きな岩で危ない所なので薩摩の男達も登って通行する事は稀である。
名称は、突は滑らかな地から突出でる事を云い、嶔は高く聳える意味である。 山伏等が額に
当てる物をトツキンと云うのも上に尖っているからである。 サヌメリノウトは猿がヌメリの意味か。
即ち猿でさえ滑る様な常滑の所なのだろう。ウトは既に宮ノ宇止で説明したがウツロの訛った
もので、コノウトは小さな野があるからの名である。

 又別の所にもトツキン石と云うものが在る。謂ゆる霧島躑躅が沢山廻りに生えた大きな石が
突出ている。測量図に、此縄頭(始点)に小林と曽於郡境のトッキン石がある。左は曽於郡の
内あさみかくぼ大たを、右は小林内中棚鹿倉とある。 
序に言うと、此トツキン石より六百五十メートル程北西に笈掛石(オイカケイシ)と呼ぶものがある。
図ではオカケ石とあるが、此はヒの字が脱落しておりオイカケのはずである。今おひかけと呼び
又測量図でもこの測量の始点の左に曽於郡ノ内に小岡ノ峠たたみ経と云う石塚が在り、右に
小林の内おいかけと云う石塚があるとなっている。 名義は思い付かないが此所より二百メートル
程に笈掛東の門と云う所があるが、昔の峯ノ神社に隣接する所である。 
 参詣の廻国六十六部と云う笈を掛けて置く所から自然に言われたので是も笈掛石だろう。

○ヤケ山  山から水出る
 此山は韓国嶽の東側半腹に接して、其間に池があり琵琶池と云う。ヤケと言う名義ははっきり
しないが、太古に彼韓国嶽の頂が噴火した時、最も近くに隣接している山であるから、焼け方も
著しく今でも頭の方には草木が生えず焼石だけであるから焼ケ山だろう。此山の東側半腹より
水が涌出して、前述宍子嶽半腹の黒須々より出る水と合流して山中を凡そ四キロ程も流れると
水が見えなくなるが、二百メートル程経た所から其水と思われる水が再び流出する。 
是を潜水と呼び、末は岩瀬河に合流する。

○夏樹尾
 此は新燃嶽の北隣に在る。名称は夏木が盛んな意味だろう。間々に赤松と岩餅ノ木が
生えている。 尾とは記伝によれば二つあると云う。一ツには高い所を云う。 
谿八谷峡八尾(タニヤタニ・ヲヤオ注1)の谷に対して峡は高い所であり、古書では高い所を
云うヲに多く峡の字を用いる。 峡は山の間を云う意味ではない。 尾は借字であり此峡八尾
のオを書紀では丘と書いてある。 此丘の字もオと云い多く用いる。 
高山の尾上之坂御尾(オノエサカミヲ)、又岡のオ、これらは皆高い所を指し云う。 
今一つは尾頸(オクビ)の尾で鳥獣等の尾も同じく山の裾を引延ばした所を云う。

注1 谿八谷峡八尾 古事記の神話でスサノオが大蛇を退治する段で、大蛇の長さを
 表現するのに谷を八つ、峰を八つに渉る程と言っている。

○丸丘
 丸丘は韓国嶽の北東の尾根とも云う位置にあり、諸木が繁茂して形が丸いので斯く
云うのであろう。 丘の意味は前述と通り。

板山  山腰より水が出る
 此山は夷守嶽の東半腹に接して、余り高くはないが三方に深谷が廻っており北東に長く
延びた山である。 名称の意味は不明だが、昔大勢の木こりが集り導板(ワキイタ)を作った
事から出た名と、或人は云うが其通りかも知れない。 
尚東側山腰より水が流出して夷守麓の田地凡そ八町余の用水と成る。

○長端山
 此山は瀬戸尾越洗出から北西方向の襲山郷(曽於郡)との境に隣接した長い端山だから
長端山と呼んでいる。
  
   霧島は信仰の山
 此小林郷は東嶽、西嶽の絶頂に接しており其間四キロ程、南北にもそれ程距離のない
中に此れほど名を持つ山々が少なくない。 他郷に渉っては更に多くある事は前に述べた
通りである。
高千穂峯の事は田中頼庸翁も高千穂山考に論ずると云う事だが、それに付けても霧島山系
の霊異なる事は察する事ができる。特に此山々に鎮座する神界について、同山中で
明礬(みょうばん)作りに文化の頃携わった善五郎と云う者が仙女に出会い折々通って奉仕
した物語でも明かである。 この話は八田翁が書取った幽郷真語と云う書に委しくある。 
此れを見ても現世と幽界とは別である事を弁え、神代の神々が今も鎮座ある事を悟るべき
である。 もちろん選ばれた人以外は目には見えないだろうが、この霧島山は神仙が多く
棲む所であるから、常に尊び畏む事を心掛けられる事を此処に記す。

注1 霧島各山標高 韓国岳 1,700 高千穂峰 1,574 新燃岳 1,421 獅子岳 1,428
    御鉢 1408 夷守岳 1,344 大浪池 1421(水面1239) 高千穂河原 970
   以上2018年現在標高値
   

   
二十四 池の部
  南西方、韓国嶽東の山上
○琵琶池 縦九十メートル東西、横四十メートル南北
  名称は其形が琵琶に良く似ているので名付けられたに違いない。
 此のビハ池の下にある紫池、及び後述金剛界、胎蔵界の池を襲峯一欄では飯野郷又は
 曽於郡踊郷に在ると載せられているが誤り小林郷に属す。
 
  細野村、夷守嶽南の山上
○小波多池 又は小畑とも書く。
  名称の謂れは分らないが、若しかして小波の池ではないだろうか。隣に大波池に対して
 小波池だったものを他と写し間違えた後は字音に小波池と云いったかも知れない。 
 大波池に比べれば小さいが湖水は満々としている。

  細野村、丸岡の山上
○柴池 又シバ、泉水とも云う。  凡
  シバの意味は池の隅より汀迄凡てが笹柴のみ生え、池の中も浅い所は同じく柴が生繁って
 いるので柴池である。池中に島が幾つもあるので幾つもあって前載の様で泉水と呼ばれるか。

  細野村、矛峯(高千穂)北の山上
○両部池 西を金剛界、東を胎蔵界と云う二つの池
  名称は仏教関係者が付けたもので由緒は分らない。 此池は繫がっているが西と東に両方
 で池の形になっているので両部と呼ぶのだろう。此は昔の噴火の跡と思われるが、
 享保元(1716)年にも噴火し、最近では文政六(1823)年十二月廿日の噴火以来、今も池の
 西の隅から炎が上り新燃池とも云う。
 同所
○加良池 但し同所に池が二つ有って上の加良池、下の加良池と云う。
  名称は、水が絶える事はないが、水涸れ状になるので虚池(カライケ)なのだろう。
 
 南西方村、韓国嶽の山下
○木ノ山池
 名称の意味不明、元々小野山と云う端山の山中にある。水が溢れて少しは田地の用水となる。

 夷守嶽山下
○星ケ平池
 名称由来不明。 西の方にホシガヒラと云う野岡あり、其辺の畑地を池ノ原と云う。
 右同
○池
  其辺を平池ノ原と云い、又池ノ河とも呼ぶ所があり水が流れ出たが、今は池ノ形に見える
 田にしたと思われる。
 右同
○八窪池 二つ
  其辺の畑地は凡て池ノ原と呼ぶ。名称は地名を云う。
 右同
○橋谷池 二つ
 名称は地名から取る。橋谷門名がある。
 右同
○一重ノ池 

 以上琵琶池より星之平迄十六の池の中では水が絶える時もあるので、池としては当たらぬ
様にも思える。 しかし辞典には池は沼であり穿であり水を満たす。是を池と云う。 
師古は云う、池は其包容浸潤を云うと。其なれば謂ゆる霧島四十八池と云うが其内だろう。

  南西方村出水山(イデミヤマ:出の山))
○溜池
 周囲は凡そ九百メートル以上
 此池の水は田地凡そ六十町余の用水となる。但し至って清水であるからか、鮒、
蜆(シジミ)、鱣(ウナギ)、田螺(タニシ)が多く生息する。 水が良いのか皆大きくて味も良い。
これは我小林の名物と賞せられている。
 本草(注1)によれば、鮒は無毒で痩せを回復し、又或書では身体を温め、胃を援け、
食を進める。 又痔を癒し痢病を治すと云う。 或人によれば、鮒の蒸焼は脚気の腫に対して
妙薬である。又乳の痛には生で付けても良いと云う。蜆は湿を下げ、熱気を取り。小便を利し、
黄疸を治すと云う。 或書には無毒で熱を下げ、胃を開き渇を止める。 脚気を治し酒毒を解す
とある。 鱣は俗に専ら此字を用いるが、唐書には鱣は鱓であるとして種類が違う。 漢書では
鰻又は江鰻とあり、鰻は殺虫、風邪を治し、小児疲労や痩を補う。又虚羸を補、病気の微熱を
下げ、血流を良くする。 田螺は無毒で、熱を下げ渇を止める。目赤くなり痛むのを治し、
酒毒を解す、又大小便ニに利し、肺気、黄疸、に利く。

注1 本草綱目 中国、明代の本草学研究書。1596年刊。動物・植物・鉱物約1900種に
 ついて、名称・産地・形態・薬効・処方例などを記述、本草学を集大成したもの。日本には
 慶長十二(1607)年伝来。

 南西方村芹河(せいこ)
○溜池
  同村大出水
○溜池  上下二ツ
 
 水流迫村穂屋ノ下
○溜池
 周囲百メートル程、此水は田地凡そ二町余の用水となる。
 同村山ノ上
○溜池
 周囲九十メートル程、 田地凡そ二町分の用水となる。
 同村綿内
○溜池
 周囲凡八十メートル程、 田地凡そ三町余の用水になる。

 東方村遊木猿
○溜池
 周囲五百メートル余、 田一町三四反の用水となる。
 同村薗田
○溜池
 周囲百五十メートル位、 一町程の田地用水になる。
 同村上ノ薗
○溜池
 廻百間計、 田地二町四五反用水ニ成

 北西方穴水
○溜池
 周囲百八十メートル余、 田地三反程の用水となる

 細野村南俣泉谷
○溜池
 周囲凡二百七十メートル程、 但し両池の間凡百メートル余
 小林田地三反九畝程の用水となる。
 同所北俣泉谷
○溜池
 周囲二百メートル程、 田地五反程の用水とする。
 右両所の水流は合せて高原広原村の田地凡四十町余の用水である。

 上記出之山より泉谷迄十二池は溜池と載せたが、夫は以前墾田の為に堤等築き、又は
掘って造ったものである。 元は何れも自然の池だった事は明かで、まして池の字をタメイケ
と読むからには池には変わりない。

小林誌第二巻 終

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