解説に戻る
小林誌第三巻

第三巻目次

   
二十五 古跡部
    ○景行天皇行宮遺址
    ○石瀬河(岩瀬川)
    ○泉媛出所

   
二十六 古城部
    ○小林城
    ○内木場城
    ○岩瀬城(岩牟礼城)
    ○三ノ山城
    ○野首城(野頸、野久尾)
    ○城ケ尾城
    ○龍ケ峰

   
二十七 古戦場
    ○華立口
    ○久保谷口
    ○鬼塚原
    ○粥餅田
    ○谷の木

   
二十八 寺院部
    ○昌寿寺
    ○神徳院
    ○廃寺

   
二十九 古墳墓部
    ○伊東塚
    ○茶臼ケ丘
    ○星指杉
    ○後川内古塚
    ○昌寿寺廟所
    ○仲後塚

   
三十 辺路番所
    ○木浦木辺路番所

   
三十一 橋部
    ○大手土橋
    ○水ノ手土橋
    ○大丸太鼓橋
    ○前田太鼓橋
    ○岩瀬板橋

    
○あとがき

 
二十五 古跡部
○景行天皇行宮遺址(夷守嶽より二千二百メートル北東)
 此旧址は吉留山(古代は道ノ山と云い三ツ山とも書く)の西の山裾の南側の長さ三百メートル、
幅百メートル程の平地で、西北に川が流れ、南の方にも川があったが、こちらは後世に開墾され
今は四方畠である。 此地に天皇行宮の跡と云う所があり、現在仏寺(宝光院)の境内である。 
高さ一・八メートル、周囲二・七メートル程の石の上に五輪石とか云う物を置き、そこには注連縄
が張ってあり、銀杏の大木がある。 此銀杏は著者の遠い先祖が其印として移し植えたものと
伝えられている。

 景行紀十二年の項に、七月に熊襲が背いて朝貢をしない。天皇は八月に西に下り筑紫に
向かった。 (中略)十一月日向国に到着して行宮(仮宮)を建て此が高屋宮と云われる。
十三年夏五月熊襲国を平定し、高屋宮に六年居住した。又十八年春三月紀に天皇は都に
向かい筑紫国を巡視するに当り、最初に夷守に到着した。 此時石瀬河辺に人が大勢集って
いる。此れを天皇は遥か彼方から見て左右の側人に云った。あの者達は誰か、若しや敵では
ないかと兄夷守と弟夷守二人を派遣して観させた。弟夷守が還って報告するに、諸県君の
泉媛が天皇に御食事を献上する為、その一族が集っていますと言ったのが此の地である。
即ち此の辺には石瀬河(岩瀬河)夷守(夷守岳)諸県(諸県郡)泉(出水)等云う地名がある。
注1 日本書紀の景行紀に載っているが、書紀成立は八世紀始であり、逆算するとその時より
 四百年程前の事である。 何らかの伝説があり書記に組み込まれたものと思う。 大和王権
 が強まる六ー七世紀に南九州の熊襲と王権の間では衝突が度々あり、其頃の伝説と推察
 する。 

 宝光院縁起によれば、当寺の起源は人皇十二代景行天皇の仮宮である日向国高屋行宮の
旧地である。 このため今でも寺の表門を宮門と呼び昔から死骸は通さない。又客殿は南殿と
称し、天皇が腰掛けた石が庭に有り、最も古い遺跡であると云う。
尚この辺の地を仮屋と云い、今は其川向には上仮屋、内仮屋、下仮屋と言う門(農民の一族)
の名がある。仮屋(カリヤ)とは行宮(カリミヤ)の略語ではないだろうか。又天皇が弓を試射した
的場と言伝える所もこの近辺にあり今も的場と云う。
注1 宝光院は承和十四(847)年慈覚大師の開基、性空上人もこの寺で修行したという。
  幕末維新の廃仏毀釈で廃寺。 現在は旧寺地に別寺があり、寺敷地に隣接して腰掛石
  もある。

 島門神跡考証の夷守石瀬河行宮遺跡の項で秋郷が述べているのは此処夷守には石瀬河も
又近くにある。 随って高屋行宮を出発して初めに先ず此夷守を巡視した事に疑う余地はない。
そこで今景行天皇行宮の遺跡と称する所は夷守嶽の麓で東方二キロ程で其処に天皇腰掛石
等と称するものがある。 俗に此処が高屋行宮の址と云伝えるがそれはありえない。
其処は天台宗の仏寺で宝光院と云い開基は行基とも性空とも云う。 腰掛石と称する物は
此寺の庭の片隅に有り高一・八メートルと言うが、今半ば土に埋れ、漸く高九十センチ程の
石である。多分此は後世に好事の者が設えた物だろう。 

 今此の場所が天皇行宮の遺址とは思えないが、彼高屋行宮より夷守に到り、石瀬河の辺を
遥望したと言う地は此辺に必ず有るはずである。 若此辺とすれば今腰掛石が有る所でない。
但し此上の丘を吉富山と呼び、中世以来の城跡と伝える築垣や堀切等が今も残り杉の樹が
生茂っているが、古代は小高い野丘であったと想像できる。 此丘より遥望すれば、東の方は
今堤村と言う所を一キロ余に臨む筈である。 堤村の旧名は石瀬河であり、其流れは此処より
四キロ程東でありはっきりとは見えないが、此河により一つの里全体の名になったとある。

 この説も尤ではあるが、堤村の旧名を即ち石瀬河と言うのは如何か。堤村は旧には堤分村、
又温水村とも云った。 狭くない範囲であるが今でも石瀬と云う地は川向に石瀬城趾が在る事
から知れる。
 この石瀬城は綾・野尻から小林に通う街道北の小高い野丘だが、築垣・堀切等が残っている。
此処は元亀の初(1570年頃)、伊東氏が真幸を侵攻する為に設けた連砦の一ツである。 
又天正十五(1587)年羽柴氏の陣所にもなった所でもあり、何所からもはっきり見える地である。
謂ゆる泉媛の一族は此処に集っていたと思われる。 それは石瀬河の辺ですと弟夷守が報告
した事に符合するが、天皇行宮の跡と言伝える所からは二キロ程あり、近く見える地である。
秋郷の説の前文にある様に天皇が石瀬河の辺を遥望した地は此辺に必ず有る筈である。
若し此辺としても、今腰掛石がある所ではなく、此上の小高い野丘の上から遥望すれば石瀬の
方も比較的近く見渡せたと思われる。 又石瀬河の辺に石瀬城があった小高い野丘があり、
泉媛一族は其処に集っていたと想像するのは自然である。

 又頼庸翁の意見では、行基や性空等が開山に関係したと言う寺院は全国に多数あるが、その
十中八九は僧徒のでっち上げと云われている。 自分も始め腰掛石は僧徒の辻褄合わせの説
だろうと思っていた。 しかし別な場所でも仮宮の跡と言伝える所もあり、夷守の名、又岩瀬河も
近辺に有る事から、暫時の行宮は疑なく此地に有ったと思う。又同所の寺の腰掛石のある辺は
昔の真幸街道である、今の都城、高城、高原等は勿論、綾、野尻等から飯野・加久藤の方へ
通う往還道である。 今も此の道筋は残っており上江通りと呼ぶ。上江は飯野の地であり、中世
以来元亀(1570)の頃迄真幸の地は大方伊東氏に押さえられており、此上江通は其頃の
本街道であり、今の往還道は遥か後の新設道である。又此の行宮跡と称する寺の南四百
メートル程には十日町と云う所がある。 今は僅かばかり田舎の町の形は残っているが、古代に
定められた夷守駅は此辺だろう。更に検討を要するとあった。

 昔天皇が高屋行宮を出発して筑紫の方を巡視しようとして始に此夷守に滞在した後、肥後の
球磨県、それから同葦北の方を巡視した事が書紀に見えるので、必ず此処を通過しなければ
球磨の方へは行く事ができない。 今も加久藤に球磨街道が有る。 此事からも夷守で彼の
泉媛が献上した食事を食した事は疑いないと思われる。又其泉媛を受入れ献上の食事をする
為に此処に臨時の行宮を設えたのではないか。 若しそうであれば其行宮の跡はどこかと
言うのは難しいが、この辺では城畳の跡と云う吉富山ではないか。併し此処を高屋行宮の跡と
云うのは後の誤伝であり、高屋行宮より此夷守に遷幸して此処に暫時の行宮を設えた事が
誤伝されたものだろう。

 又夷守、石瀬河の旧跡をも正しく踏査し、昔の形状を委しく知りたく思い近辺を歩き廻った。 
堤村にも往き、西の夷守の方を遥望して見ると、行宮の址と伝える寺は全く見えないが、吉富山
の古趾は大変近くに見えるので、今でも岩瀬と呼ぶ堤村の枝村からも良く見えそうである。 
但し近年植えたと思われる街道の並樹の小松が繁り、其れに塞がれて簡単には見渡せない。 
昔此辺は広野が続き夷守の方より遥望すれば更に近く見えたに違いない。それ故泉媛が大勢
の人々を引連れ此の広野を横切り、天皇の巡視を迎え饗応しようとするのを、夷守麓の吉富山
の辺より遥に眺めたと云う事は実に有りそうな事である。既に述べた様に昔此辺を広く石瀬と
呼んだのも其河が此地に在るからである。此河に石瀬の名があり今でも厳しい岩の瀬が有る
荒川であり、川下は浦ノ名と言う所で去川と合流して東に流れ、赤江口に出て東海に入る。

   高屋行宮とはどこか
 又同書の高千穂宮高屋行宮の項で(上略)今其行宮の遺址は大隅国肝属郡内浦と云う所に
在ったと云う説があるが、此は和妙抄で大隅国肝属郡鷹屋(タカヤ)と言う名が有るので後世の
人が高屋にこじつけたものである。今内浦の地に天皇廟と内裏(ダイリ)屋敷等が在ると云うが、
これ等も後の好事家のこじつけであり益々信じ難い。 又火出見命の高屋山上陵も高山と云う
地より内浦に越す山の頂を俗に国見嶽と云うが、これ等は皆鷹屋の地名により後世に設けた
ものである。 因に言えば、国見嶽は救仁見嶽である。 日向国諸県郡救仁(クニ)院、或は
救仁郷等が建久図田帳注文に見えるが今の大崎と云う地であり、国見嶽の東方十五キロ前後も
隔てている。 此嶽より眼下に臨むのが救仁院、救仁郷であるから国見と云ったものか。

 以上の事から高屋行宮の跡は今の都城の辺と推定出来る理由がある。 都城は諸県郡の内で
高千穂山よりは南の方角となるが、其処にある安永村と云う所は、高千穂の二上峰の東峰(矛峰)
に接する高千穂の麓である。 此地四方は遥に広がり西南に財部、末吉、飫肥(伊東氏の領)
山ノ口等がある。東北には高城、高原、曽於郡等と境をなし、其間五十キロ程の平地の広野で
目も届かぬ程だが、魚類や塩の取引も大変活発で藩内でも最も繁昌の地の一つである。
 又良質の米が出来て庄内米と云うが真幸米に次ぐ物である。 此地は旧くは都島と呼び、
我藩主島津家も島津庄の中の此地が基である。 
 
 都の名があるのは景行十二年紀に熊襲国を平定しようと筑紫の方へ巡視する道すがら豊前国
長峡県に到着し行宮を興して居し其処を京(ミヤコ)と有る。
 和妙抄には豊前国京都(ミヤコ)郡は昔高屋とも云った地とある。 この長峡行宮の滞在は九月
末の僅かの日数であるのに京(ミヤコ)の名が付いている。 天皇が此地に到着し熊襲梟師を
討つた後もこの高屋行宮には六年程居坐あれば時の人が都の名を称するのは当然である。 

 今都城の地に宮丸と云う所があるが、即其行宮の遺址であるかも知れない。 宮丸は今村名と
なり中郷と云う地にある。 都島と呼ぶ地も同じ所と云う。 永享年中(1429‐41)城塁を此処に
築き都ノ城と名付けた事から遂にそれが一郷の名と成ったと白尾国柱翁は云うが納得できる。
又同翁の説で高千穂宮の遺址であるから都の名が有ると云うが、これは少し強引である。 
そうは言っても今彼地に高屋の名を遺し伝えていないので決め付けは難しい。 しかし都城の
東方に高城が有り、又北方安永に接して高原、高崎等と呼ぶ地があるのは、高屋から来た名
ではないだろうか、又此高某は高千穂山の麓周辺に接するからかも知れない。

 併しながら景行十八年紀で高屋行宮を出発し帝都に還るため、筑紫国を巡視しようとし始めて
夷守に到る道程の文脈から考察すると、都城より小林迄は八里計で大方一日の行程になる。
彼記述の始めて夷守にとある此始の字に注目して考えると、高屋行宮は都城辺であれば程よい
一日の行程である。 此は秋郷が始めて考えた説であり、当否は分らぬが後の人が更に論じて
欲しい。

 ところで景行天皇を祀ると云う社が有り俗に天子の宮と称し、古への行宮の址と言伝えられる
所に川畑敦丘が詣でた折の歌が有る
  岩瀬川 いはてもしるき いにしへの
        御熟さゝげし かり宮ぞこれ
注1 天子の宮 第二巻 神社部 若宮八幡宮

○石瀬河 
 前に述べた行宮遺址より北北東二キロ余隔て街道を越えた辺りで川幅七十メートル程、水深
凡そ八十センチ程、 書紀景行十七年紀に石瀬河と有るのは即ち此地、石瀬である。 
 此河は今も岩瀬河と呼び下流は高岡で去川に合流するが、去川も源は岩瀬河と云う。
岩瀬河の源は南と北にあり、北は球磨の白髪嶽山中方ケ水(小林須木球磨三方の境)から流れ
出て東方村と真方村との境を通り岩瀬口から小林と野尻三ケ野山村との境を東に流れる。
又小川が有り是を茶臼川と云い、須木郷奈崎村の山中から流れ出て東方村の村中を流れ
岩瀬河に入る。 南の方は韓国嶽の山中から南西方村を通り飯野街道の石氷と云う所に出て、
夫から真方村を通り小林城を巡るので大手川、水ノ手川の名が有るが下流は岩瀬河に
合流する。

 この合流地点を河崎と云う。以前は此大手川に枝川三ツ有り一ツは鵜戸川と云い、北西方村
の大平山と東方村の坂ノ下山との間より流出し、真方村を通り大手川に合流する。 二ツ目は
向田川と云い、北西方保養良(ホヨラ)と云う所から流れ出し前述大手川に入る。 三ツ目は
堤川と云い、源は南西方村出水山と呼ぶ所から涌き出して溜池となり、細野村田地を潅漑して
小川となり、吉富山の西より東に巡り堤村と今は高原に附属する広原村との境の田地中を
流れた後岩瀬川に合流する。 此処を小林高原野尻三方境の鳶ノ流合(ハケ)と称する。

 岩瀬川の名義は幾つもの岩石続きの川で大変急流の荒瀬があり、実に岩瀬だからである。
此早瀬の為鮎さえも簡単に上る事が出来ない。 そこで鮎を上らせる為に延宝三(1675)年
伊福氏と赤木氏の祖先が計画して、此荒瀬を切り退け完了後に鮎場を申請し即免許状が
下された。 其文には岩瀬河一流云々と有ある。 
 又斎興公の時天保年中(1830‐43)、此岩瀬に大勢の石工等を集めて川底を浚った。 これは
船を浮かべる為との事である。 
但し正保(1644‐47)元禄(1688‐1703)両度の測量調査の際にも、岩瀬川に陣ノ永江又男淵、
女淵或は岩淵とも呼ぶ淵や早瀬、轟など記載されている。 古歌に、
                               読人不知
 高千穂の夷守おろし寒けれは 岩瀬川原に千鳥鳴なり
 岩瀬川せの音高く聞ゆなり 秋の夜深更にけらしも  生胤
 岩瀬川岩きり通す水の音の 高くもよそに聞ゆなる哉 盛名
     川によす            読人不知        
 夷守の山のふもとの岩瀬川 いはて心をくたく比かな   
    かがみあへ奉りし古事なと思ひ出て      知紀
 岩瀬川いく年なみをわたりても 動かぬ名こそ世々流れけれ

○泉媛出所
 前に引用した書紀景行紀に諸県君泉媛と記された泉媛の出所は、韓国嶽の山裾にある
大出水村と云う地ではないだろうか。 此処に水持山と云う山が有って、其山の下六百坪余の
所に水が涌出し、水量も多く元々清水である事は云う迄もない。 東北南の方が開けて広野に
なっており、中島の様な所に水神社が有る。 又別にある一社は某観音とか云うが、土地の
人は大昔の女神を祀ると云う。 若しかして泉媛の霊を祀る可能性もある。 此地は元々単に
出水村だったが後に大を加えた様である。
 今門名に大出水、小出水と云うのが有るが、此は仮屋の地に上仮屋、下仮屋、又種子田の
地に内種子田、外種子田の門が有るのと同じで、小出水門に対して大出水門と名付け、
又夫から大泉と云ったものではないだろうか。

 山田清安翁も特に此地に注目し視察に訪れた折、著者も同行したが実にそうだと思われた
様で、はっきりした証拠はないが泉媛の名は此処から出たのだろうと云われた。 外にも出水が
有る所は彼方此方有るが他は取るに足らない。 此の近辺で飯野、高原、野尻も訪ねて見たが、
これはと思う所もないので、此処大出水と仮定するものである。
 景行天皇夷守に到り、石瀬を望むと云う文から見て、此地に夷守嶽、又夷守神社があり、
岩瀬河及び岩瀬城も有るので、泉媛の旧址も遠い所ではない事は明らかである。

 さて因みに云うと大出水の地より出る水は前にも言ったが、上質の清水であり水量も豊かで
昔から小林内田地の灌漑には少しだけ用い、専ら飯野の水田の用水となっていた。
しかし明治になり南西方村は勿論、北西方村の墾田が進み、その用水とする為、飯野の用水は
同郷大河平山より流れ出る大河の水を堰止めて利用するようになった。 ところが大出水の水は
水質が善いので飯野人はたいへん惜しんだと聞く。
 一方小林の両村には士農合わせ凡そ百四十四家分計り、主に薩摩の加世田から希望者が
移された。 その費用は総て藩で負担したので膨大な出費だったと言う。 是をみても両村の
水量の豊かさと平地が広い事がわかる。


  
二十六  古城部
 真方村内
○小林城 地頭館より三百メートル余東北東の方角
 地理拾遺史によれば、小林城の東北には大川が流れ、南方は長さ百二十メートル余、
横五十メートル余の池である。 西が大手口、東は水の手口で昔の飯野からの通路である。
北に廻り城の西北の川向に往還道が有った。 今の通路である城南の士小路は昔外郭の内
に有った。大手口より東の方五十メートル程に稲荷山と云う山がある。
 一般に大手口は追手口であり、此方より追う人を追手と云い、其を彼方に待受けて搦取る人
を搦手と云う事から始った名である。此城の搦手口は今水の手口とも云う口だろう。 水の手は
用水が出る所であるから其水に関係して呼ぶ名であろう。 口は人の口と同じく、物を出し入れ
する門の名で人々の出入する道筋である。

 同書によれば、永禄三(1560)年北原兼守死後、馬関田右衛門が守り、飯野に敵対した。
右衛門妻は伊東義祐の女であり、北原兼守の後室である。 永禄六年に貴久公が小林城を
攻めた時は右衛門が籠城していたかもしれないが、永禄九年に義久公が大将で攻めた時は
城主は右衛門ではなく、米良筑後守である。

 伊東方壱岐の日記に永禄五(1562)七月廿四日に真幸の飯野を襲い、長善寺迄打破り
飯野城迄攻め込んだ。 各々激しく働き、一番に伊東源四郎殿、同名右衛門佐殿が進んだ。
しかし一番であったので負傷し 穂北の士も退けられ、両人を支援していた長倉刑部少輔殿も
負傷した。 坂肥掃部助、中山源六左衛門が働き、城側も苦戦しながら良く守る。 二番手は
長倉勘解由左衛門殿が最先に攻め込み、坂戸に三ノ山衆、三納衆が続いた。 坂戸衆は特に
手柄多く、中でも飯田肥前守は北原狩野介を討ち取った。 又永禄六(1563)年八月廿四日
妙見の尾で敵数人を打捕った。同年十月廿四日飯野の囲いを破ったとある。
 
 又日向記真幸大明神破る事とある項に、永禄六年四月十四日球磨の相良方、伊東と協議して
真幸方面へ軍勢を出して、大明神と言う所を破却して所々放火して諸軍が引揚げたとある。 
其日坂本を河崎河内守が討取ったとある。
 尚伊東方だけで飯野を侵したわけでなく、球磨と協議しての事である。其は伊東家臣壱岐某の
私書で永禄七年の項に、日向、球磨は協同で真幸を攻めた。 此方の諸軍は本地原より攻め、
球磨軍は吉田越をして攻めた。 球磨軍が引く時に敵が攻めて負傷者多く苦労したと聞く。 
その為か其後は球磨からの攻勢はなく、同五月廿九日大川平の城は此方で切落とした。 
六月の時分球磨から東ノ民部左衛門、同藤左衛門其外の衆百人程で大川平の守備に来た。 
七八月辺迄は此方と同様に守備したが、八月の末に球磨へ渡したが面倒だったか冬の
初めには城を捨ててしまった。 
注1 真幸院(小林、飯野、加久藤等)を領主北原兼守が永禄三年に小林城で死去してから、
 先ず小林が伊東家の物になり、次に飯野簒奪に動くが、北原兼親が薩摩や球磨の後押しで
 永禄五年に飯野城主になる迄伊東家が飯野も押えていたと思われる。
 永禄七年十一月島津義弘が飯野城主となる迄細かい戦闘が幾つかあったようだが、どの
 書でもはっきりしない。

 貴久公は、彼三つ山(小林)の軍勢を駆逐しなければ今後の患いとなると云い、永禄九年
(1566)十月廿六日、義久公を大将とし、忠平公と歳久副将として、兵卒多勢で三ツ山の城を
攻めた。 
此時に茂山源左衛門、間瀬田刑部左衛門尉、田尻荒兵衛尉,長谷場長門守、同弥四郎、
愛徳十郎、浜田右京亮、長野助七郎、塚田太郎左衛門尉、同太郎号郎、真連坊、
上床源兵衛尉、田口仲俊坊、重信平左衛門尉、伊知地新三郎等が力戦した。
 此日忠平公は戦場に臨み強敵に逢い疵を蒙った。 痛みが激しくその為薩摩軍は驚いて
力を失い、要害を陥せずに退陣した。 我軍の死亡者は阿多中務丞、末広又左衛門尉、本
田治部少輔、同姓与五郎、椎原某、阿多源左衛門尉、中山源三等である。この要害を陥せ
なかった事を忠平公は大変残念に思ったと云う。

 この一戦は諸書で永禄九(1566)年とするが間違いで永禄八年が正しい。これは伊東方壱岐
の日記で永禄八年の条に、同年十月廿六日に島津殿が神判の誓約を破り、真幸三ノ山に
押寄せて城を囲み悉く打破り本丸に火矢を射て内城の戸迄詰め寄った。城方の在番の士は
力戦して城は持ちこたえた。 紙屋の米良主税助、同城福永新兵衛、米良筑後、同弟美濃、
肥田木段右衛門紙屋図書、北原雅楽助、同又八郎、橋口河内等は討死したが其外力戦した。
御神判破りの罰だろうか、島津方は三原遠江其外有名の士数百人が負傷したと言う。 
その為か退却路には放置した負傷者が無数にあったと記している。
注1 小林誌では壱岐日記に基づき小林城の戦は永禄八(1865)年とするが後述の様に
 日向記は十年、薩摩(旧記雑録)は九年である。他の諸書から見ても九年か十年は何れが
 正しいか言えないが、八年は間違いと思われる。

 日向記では菱刈の使並び三山合戦の事とある条に、卯(永禄十1567)年十月菱刈より使いを
三ツ山に送り、島津家中では夜泊の戦準備をして待機している噂があるが、菱刈か或いは
伊東家の三ツ山を攻めるのか分らぬが用心されたいと注進した。 三ツ山では用意を調え、その
使が帰らぬ内に早くも敵が大勢三ツ山に押寄せ城を取巻き一気に攻めてきた。  
 此は十月廿五日で城内からも守備兵が応戦し数時間戦い、双方に無数の死傷者が出た。
城内からは米良弥九郎を始として城兵の勇士が進出て敵を鎗先に掛けては落として力戦し堀は
二重の死人で埋まった。 大手の寄手は島津金吾(歳久)、水ノ手からは同兵庫頭(義弘)、
同中務大輔(家久)が新手を次々入替えて攻めたが、味方は詰の丸(本丸)に陣取り、敵を多数
打ち伏せたので、この勢いに攻めあぐねて終に敵は退散した。斯くして三ツ山は本丸一つに
成って運が開けた事は古今無双の誉れである。 是は偏に菱刈からの注進があったお蔭との
風聞である。このため島津家は怒りを抑えられず早速菱刈へ軍を向けると聞く。

 前述島津殿神判の誓約を破ると云う事は、日向記の中で薩州から使僧の事とする条に、
同年(永禄十)の春、島津相模入道日新斎より坊ノ津の一乗院を使僧として御崎寺に着船した。
其趣旨は真幸方面の戦いは何時終わるとも見えない、義祐(伊東三位入道)も隠居の身であり、
我(島津日新斎)も隠居しているので互いに和議を相談したいとあり、紫硯一面を進上するので、
向後此硯が窪む迄休戦したいとの事である。 
 三位入道は、薩摩の計略は今に始った事ではないと心中では真実と思わなかったが、使僧に
面会し其上種々接待して返した。 当家(伊東家)よりは安宮寺を返僧として派遣し進物は
新古今集だった。  薩摩では伊集院大和守殿が接待に当たった。 伊集院が安宮寺へ云った
事は、貴家は兵士の損耗を気にされず或いは城攻め、或いは合戦を望まれます。 島津家は
一人の死は万人の愁ですから合戦を嫌い、上下を着て国を治めますとの雑談があった。 
夫より坊ノ津へ案内して一乗院に三日滞在し、その間種々宝物等を披露した。 一乗院が
密かに云った事は、薩州は武略により世を治めると云われていますから、油断はしては
なりませんとの雑談だった。安宮寺は帰ってから飯野・三ツ山の事は雑談だったと言った。 
神判誓約とはこの事を云うのだろう。
注1 使僧による日新と義祐との交流は日向纂記(日向記)では永禄十年(1567)春の事となって
 おり、小林城攻は同年十月となっている。 但旧記(薩摩)の小林攻は永禄九(1566)である。

 又旧記によれば貴久公は、三ツ山の小林城を根城として伊東が軍勢を蓄えて、球磨の相良と
同盟して真幸院を侵略する事度々である。 彼小林城を攻め崩して伊東の勢力を追払わぬ
限り、今後も煩いとなるだろうとあり、永禄九年十月廿六日軍勢を打出し、忠平公の負傷で
軍を収めた。
 時に永禄九年十月下旬の頃、三ツ山で戦死した人々のため、弥陀の名六字を連ねて弔う。
                陸奥守従五位下藤原貴久入道伯囿公
な 名を重く 思ふ心の 一筋に 捨しやかろき 命なりけり
み むらむらに 時雨るけふの柴よりも 昨日の夢そはかなかりけれ
あ ありはてむ 此世の中に先立を 歎も人の まよひなりける
み みつの泡の あわれに消し跡とかや 折々ぬるゝ袂なりける
だ 立そへる面影のみや亡き人の 忘れかたみと残し置きけん
ぶ 仏まつ 世をいつくとや尋ぬらん よへはこたゆる山彦の声

 永禄九年三之山で打死した敵味方の霊に等正覚六字を詠む
                  相模守忠良入道日新
な 何事もみな南無阿弥陀、南無阿弥陀猶うち死は名をあくる哉
む 無益にも むつかしき世にうは玉の 昔のやみの報はるらん
あ 悪敷よに あらゆるものも あしなれは あからさまには あらじ身の果て
み 南には弥陀観音の御座なれは 身まかる時も御名を唱へよ
だ 誰かにも 誰そと問はむ誰しかも 誰かは独りたれかのこらん
ぶ ふつふつと ふつと世も身も ふつきりに ふつとくやしく ふつとかなしむ

 或書によれば永禄十一(1568)年八月、先此三ツ山が伊東方の重要拠点であるから、大軍を
此処に集めて飯野を奪取する事を謀る。 一方その間三里を隔て、薩摩方の伯囿公が菱刈を
攻めている時、伊東義祐は其虚に乗じて飯野に侵入して田原塁を築き飯野・加久藤を
攻めようとした。
 これは永禄九(1566)年十月に三ツ山小林城を攻めた時、忠平公が疵を負い撤退したが、 
帰陣の通路である横川の町を通過する時、馬越城に篭る菱刈方の者が横川の街角で
薩摩・大隅の軍兵の負傷者の人数を日記につけていた。 この心中疑わしく放置しては後の
煩いとなるだろう。 しかし先ずは三ツ山小林城を責落し、次に菱刈をも攻めようと翌年八月、
貴久公は真幸院飯野で評議して暫く逗留した。 
 小林城を責落せなかった事は無念至極に思うので、此度も又小林攻めをすると触れた。
薩・隅数千の軍兵が横川を通過すると、菱刈方の者達は是を見て直ぐに伊東・相良に
連絡した。 伊東方は小林城に雲霞の如く兵を篭らせ、今や遅しと待構えた。

 ところが案に違い薩摩軍は般若寺攝木越から同十年十一月廿四日の朝、馬越の城に押寄せ
菱刈方馬越城主井出籠駿河入道父子三人打取った。 夫より菱刈九ケ城責落せば、菱刈方は
牛山の城(大口城)に籠城して相良の加勢を受けて戦う。 この合戦の最中に伊東勢が田原に
着陣した連絡が来た。
 又一説に八月伯囿公は大口を攻める事を謀る。 初め公は大口を攻めたいと以前から考えて
いたが、常に相良義陽が救援する事を憂慮した。 そこで使節を送り、山野を義陽に与へて
菱刈隆秋を救援しない様にした上で軍を起し大口を攻めようとした。 義陽は忽ち心変わりし
桶平(飯野田原塁)に軍を送り攻めようとしたので、忠平公は飯野に還ると旧記に記されている。

伊東側私記には永禄十一(1568)八月球磨、菱刈、其外四ヶ所を援護する為に飯野の白鳥山の
麓の田原(桶平とも云う)と云う所を此方の陣とし、近辺の村々を破ったとある。これらを合せて
考えると当時の状況が分る。 伝によれば吉松の小野寺相模坊が命を受けて、伊東調伏の法を
行うため、田原陣所に入って針を埋めたと云う。

 忠平公は馬越を去り飯野に帰ると黒木播磨守、遠矢下総等を蓑原本地口大道橋の下に
伏せさせ、一方軽卒を田原塁の辺を走らせて鶉を追わせる。 伊東の軍が出て此軽卒を追うと
黒木と遠矢の伏兵が忽ち起り追って来た伊東軍の後を遮り是を破った。 伊東方は漸く遁れて
田原に逃込んだ。 飯野城兵が一首の狂歌を竹に挟んで田原に立てた。 その狂歌は
「伊東めが真幸の陣は桶平に、飯のほしさに飫肥のゆるさよ」と。
伝に云、明年(1569)六月祁答院の長野城陥り、菱刈・渋谷等の勢力が衰へたので、伊東方は
田原の塁を焼いて三ツ山に退いたと云う。

 伊東方私記の永禄十二(1569)年七月十四日の条には、永禄十一(1568)年八月真幸
田原山に陣取り、同次年七月十四日開陣(撤退)とある。 又一説には七月十二日伊東義祐
嫡子の義益(当主)が死去した。故に田原の部隊は三ツ山に退くとの事。
 又伊東私記に永禄十二(1569)年七月十一日義益様は岩崎に御参篭の内に死去された。 
是を歎いて田原の塁を球磨(相良)へ無断で退陣した事で球磨は今でも遺恨を持っている。 
随って大口、菱刈四ケ所の士は相良から捨てられ、島津殿は菱刈其外知行を手に入れ、
新知行は城廿一二と聞く。

 又日向記では田原山陣並び義益早世の事と言う条に、最近従四位下左京大夫義益公は
飫肥の争いが勝利して治まったので、舎弟祐兵公に飫肥を譲り、この上は真幸方面に集中し、
奪取を目ざし飯野田原山に陣を構えた。 以前から数度真幸方面は侵攻しているので、
飯野を押える為に先ず田原の砦を堅固にして勝負に出ようと伊東勢を駐留させ人数も替番で
定めた。 飯野は田原山を取られると四ヶ所の城郭を維持するのは困難となり、北原家も既に
滅亡した今島津兵庫頭を地頭として守っている。
 ところが翌十二(1569)年七月、義益公が誓願の為に岩崎稲荷社に参篭している時
同十一日廿四才で急死した。 義益逝去以後、国中の諸将は皆剃髪をしたので是を屋形剃と
名付けた。 同八月二日に都於郡の池に俄に島が出来て遊行した。 この様な奇怪な事が
あり、慎む為か同月廿二日に真幸田原山の陣を曳き払った事と符合する。

 義祐は一族老臣と飫肥で会議し、飯野攻めの計画を議した。 皆が言うには、忠平
(島津義広飯野城主)の智力は侮れませんから、大軍を挙げて襲うのが良いでしょうとなった。
義祐は従い、助力を球磨の相良修理大夫義陽に乞う事とし、弟の加賀守を使節として送った。
 義陽は是に応じ共に飯野を襲う事を約束した。 是で義祐は大軍を編成し、伊東加賀守、
同右衛門尉(義祐二男)同源四郎(義祐四男)、同次郎、同権之介、同宗右衛門、同大炊助、
落合源五左衛門、佐土原四郎、長倉四郎兵衛を将として三千余の兵で三ツ山に入ったと云う。

 又一書によれば、伊東三位入道義祐が云うには、田原陣も勝利する事がなかったので、
島津当代の貴久・義久に至り権威を振い、一州に其勢力は日々に強大になり伊東家は切迫
すると思う。 殊に義久の舎弟兵庫頭は身心剛健で武勇の士と伝え聞く。 去る永禄九(1566)
年に小林が責られた時、城が落ちなかったのは我家の運が強かったからである、
今此侭では三ツ山で防留めるのも難しいと思う。  日向へ薩摩勢を引受けると伊東家も
たいへんな事になるだろう。 早速日向勢を動員し、小林の城を我拠点として大軍で薩摩勢を
真幸から追払い、兵庫頭を討取るべきと云えば、伊東家の一門一家譜代の将は尤と同意し
評議一決して国中に触れたので、大名小名が小林の城へと集った。
斯して元亀三年(1572)五月、大軍を起して飯野・加久藤を侵攻したが、此事は古戦場の部で
鬼塚原及び粥餅田の項で委しく述べるので此処では取上げない。

 地理拾遺史によれば、天正四(1576)年八月廿四日、三之山城を敵は捨て当城に火を掛けて
伊東方は退去したとある。 三ノ山城とあるが此は小林城を指して書いたものだろう。 此事は
次の三ノ山城の項で委しく云う
 高原郷は伊東一族の伊東勘解由が守っていた。 ところが霧島祭礼の日に当り、行動を起し
大窪・田口の両村に侵入して祭を妨げた。 忠平公は是を太守公(義久)に報告して高原を
討つ事にした。 義久公は鹿児島を出発して天正四(1576)年八月十六日飯野に入り、
十八日忠平公を先陣とし、左衛門督歳久、中務大輔家久、右馬頭征久、図書頭忠長を左右
後軍として花堂に布陣した。 明十九日鎮守ガ尾に移り進み城の四面を囲って攻めた。 
 
 城兵は小河内口地蔵渡で戦う。 義久公は計略で城への水路を断ったので城兵は大に
苦しんで城を保てず、落合豊前と肥田木河内が使節として降伏を申出た。 
 八月廿三日是を許したので伊東勘解由城を去った。 義久公は城に入り、上原長門守尚近に
命じて是を守らせた。 一方伊東方の援兵が猿瀬迄来たが、城の陥落を聞いて空しく帰る。
是により太守公(義久)の武威は日向で振るい雷鳴の轟の様である。
 是により高原以西の伊東方諸軍は恐れて八城を捨て遁れたと旧記にあるので、
三ツ山(小林城)の落城も此時だろう。
注1.伊東方退去の八城: 小林、内木場、岩瀬、城ケ尾、高崎、須師原(須木)、奈崎(須木)、
                 松尾(高原)

 これにより鎌田尾張守に小林城を守らせた。同八月廿五日忠平公は三ツ山に入り大軍が
従った。 同廿八日義久公が小林城に入り勝どきを挙げ、川田駿河守義朗が戦勝の式典を
執り行った。 義久公が内城の庭で床机に腰掛け諸軍が左右に並び、三献の配膳は
山田新助、三原左京亮である。三献の式が終わると各々が太刀を太守に進上した、忠平公、
島津薩摩守義虎、島津右馬頭征久、島津左衛門督歳久、島津中務大輔家久、
島津図書頭忠長である。 夕方には飯野の方へ帰陣したと云う。 
 一書によれば、義久公は三ツ山に入城すると兵を諸城(小林城は勿論、岩瀬、内ノ木場、
三ノ山、野頸其他)に残して飯野に凱旋した。

 東方村内 地頭館より東北に四・四キロ
○内木場城
 内木場城は岩瀬河の川上に位置し、西は河に添って絶壁になっており、他方は深い沼で
色々な木が繁茂している。 斉藤某の家蔵書では記場城と書かれている。
 又日向記の中では木葉城と有る。同書によれば真幸木葉陣の事とある項に、田原山の陣を
曳払った後は互いに何事もなく過ぎた。 元亀二(1571)年に成りその九月三日より真幸表に
木ノ葉の城を取立て、早速整備されたので城に伊東加賀守の諸部隊が籠もった。 
 その時誰の行為が分らぬが狂歌を読んで加賀守の戸口に貼り付けた。
「木ノ葉陣(城) 大材木に 小鋸(このこぎり) 引煩ひて泣きつ笑いつ」
是を朝直ぐに加賀守は見つけ、きっと是は道雲の仕業に違いないと思い、上下を着して慇懃な
態度で、道雲でなければ読める筈がない、悪くは思わない、加賀守は此城を預った以上一歩も
退かぬ覚悟であると涙を流して云った。 是には流石に勇猛な道雲も言葉もなく赤面したと云う。

 外に木葉陣と云う所はないので、この城を木場、記場、木葉陣とも云ったものだろう。 もし是で
あれば伊東加賀守と其他諸部隊が籠もった城である。 又永禄の頃橋口刑部の居城と言伝える。
又天正四(1576)年八月高原城が落ちた時に伊東方守備隊が撤退した八城の一つである。
地理拾遺史に内木場は地頭館付近の東で須木の境となっているが、境ではない。 須木の
境は其処より遥か深山の奥である。
 名義は木を伐払った跡を木場と呼び、此地は一ツの円山であるが、少し内側を伐払って城と
したので内ノ木場と名付けたものだろう。今は内ノ木場門と云う農民の屋敷と成ったが、周囲の
山は今も古木等残っている。 片側の小高い所には栗野神社が有る。郭内には出水も有り
只一方だけに出入口のある要害の地である。
注1 伊東加賀守 日向の総帥伊東義祐の弟、この翌年元亀三(1572)木崎原の戦いで
 伊東軍大将として出陣したが討死した。
注2 狂歌の解説は見当たらぬが、牛刀を以て鶏を割くと同じような意味で、伊東家大幹部
 (大材木)に小さな木場城(小鋸)でバランスが取れないと云う意味か。まさか小鋸が加賀守とは
 思えない。

 東方村内、地頭館より南南西の方四・六キロ
○岩瀬城、又は岩牟礼陣、枕ガ山陣、 温水城とも昔は言ったようである。 
 此城の東方は野尻の三ケ野山村に接し、西には岩瀬川が流れ、東南は広野、北に尾が長く
郡山に続き竹木はない。 堀切は三重程有って高所に用水が有る。
 伊東方の私記によれば、元亀三(1572)年六月、岩牟礼の城を取立てとあるが、その後は
兎も角、其前から既に伊東氏が籠城していたと思われる。 その理由は旧記に永禄年中(1568)
田原陣から三ノ山、岩瀬、野尻、戸崎、矢筈、紙屋の城と次第に都於郡へ連絡する為の連砦の
一つと有るからである。 此も謂ゆる天正四(1576)年八月高原落城の時、八城同時に城主が
撤退した一つである。 

 又地理拾遺史によれば、岩牟礼は麓(地頭館付近)より一里東、野尻境にあり高峰である。 
西の方に大川が流れ小林からは川向いである。 天正十五(1587)年夏、羽柴美濃守秀長の
兵卒は岩牟礼迄押入ったが、大川が洪水で漲っており渡れなかった。 故に小林迄侵入する
事が無かったと有る。 岩牟礼陣の峠に霧島勧請の石がある。 其処を陣ノたむ或いは陣ノ平、
陣の迫とも云う。 岩瀬城名義は既に岩瀬川の項で述べた通りである。
注1 羽柴秀長 豊臣秀吉弟、秀吉の九州平定で島津家を攻めた時、九州東側を平定
 しながら南下した部隊の総大将、西側は秀吉が率いて南下した。

 細野村内 地頭館から二・四キロ南西の方
○三ノ山城、長四百メートル余、横二百メートル余
 三ノ山城は古くは道ノ山だったであろう事は既に郷名の項で説明した。 此城は四方共に通路
があり、最初から南北は平地で、東西は尾筋が長いが、中に二百歩程の間隔で東西両方に
分ける通路がある。 西北東に廻る川が流れ、南も凡そ幅三メートル程の水が流れ、西の山裾に
仏寺が有る。 其山に日吉山王社も有って傍らに秋葉権現を祀る。 東の山上には拝鷹天神社
があり、山の高サ五十歩程で頂上は平地である。 周りに堀切が有って石垣が遺っている。 

 或書によれば、元亀三年春、三山小林城に諸将を籠め、遠見番手として三山城・岩瀬城・
野尻城・戸崎城、矢筈城・高原城、紙屋城等に遠見番を置いた。 又田原塁より彼地方へ連砦
を設けて守備兵を置き、烽火を上げて緩急に兵の連携を図った。 其連砦は龍ケ峯、三山、
岩瀬、野尻、戸崎、矢筈、紙屋等也とある中で三山は此三山城としたものは間違いである。 
 前述小林城を指して三ノ山城とも書いた物もあり、三山小林城に諸将を籠め、遠見番手として
三山、岩瀬等とある文を熟読すれば分る。 それでは此三ノ山城にも当然守将が居たと思われる
が名前不詳である。 

 地理拾遺史に天正四(1576)年八月廿四日、三山城捨て敵が退去したので鎌田尾張守に
守らせたとあり、又城内に忠平公の仮屋が有り、仮屋の守備に西田筑前と云う者を飯野から
移した(其子孫今も小林に住む)事なども記述あるので此三ノ山城と思うが実は違う。 
 此様に三山城と言っても、其は城の名をさておき郷の名で三山城と記されたのだろう。 
よくある事であり混乱しないように注意が肝要である。 又昔は小林郷の南半分程を三ノ山と
呼び、北半分を小林と唱えたと云う説もあるが、それは有りえない。 其は南の方に有る城を
三山城と呼び、北の方を小林城と呼んだ事からである。 
 既に述べた様に文禄年間(1592‐94)迄は昔から総て三山と唱えた事は諸書でも明らかであり、
また小林城と云う名により慶長(1595‐)以来総て小林と改められた事と同じである。
注1 細野の三ツ山城は十二‐十四世紀迄真幸院司を務めた日下部氏の居城で初期の北原氏
 も使用したかもしれぬが、北原時代後期には真方三ツ山城(小林城)が主城の様である。 
 旧記雑録でも細野三ツ山城は北原家の古い城と表現されており、 天正四年高原城落城と
 共に伊東方が放棄した小林・須木の八城にも無い事から既に城としては使われなかったと
 思われる。

 東方村内 地頭館から一・七キロ余北北東の方
○野首城 野久尾又は野頸とも書く
 野首城は何年誰の守城か不明だが、日向記に三山野久尾城主、米良筑後守等と見える。 
それでは野首、野久尾と文字は違うが、ノクビなら此野首の城主だったと思われる。 外には
此辺に野久尾城は無く 今でも其地を野頸と呼ぶ。 此処は二原と云う一キロ余四方の
広野だったが、近年灌漑して畑として、慶応年間に養蚕所が設けられた時、桑を植付けた。 
其数凡そ六万本、面積凡そ三十八町余に及んだとの事である。 更に又此処に綿を植える試み
があり、大和国の者十戸を移し、凡そ一町三畦を宛がったと聞く。 上方の人々が来たので
野頸か、又野尻に対する名として野頸かも知れない。

 伊東方某の私記によれば、永禄十三年(1570)二月廿日野尻の平戸先の城を取立てた。 
同廿一日真幸の野頸の城を取立て、三月一日に起工式を行った。 又同書の天正元(1573)年
の記事に、此年の三月下旬の頃、野頸の人米良美濃(米良筑後の弟)が上様(伊東義祐)に
不満があり、肥田木三郎兵衛、中山主計と共に謀反を企んだが、事が発覚した様で此の三人へ
呼出しがあった。 彼らは必ず参上しますと言って途中から薩摩の方へ逃げ落ちた。 この為
代りに伯母を呼び寄せたと云う。 同四月、野首城は彼等三人が内情を知っていると云う事で
城は閉鎖し、城か尾と云う所を代城として取立てた。 城主米良筑後守が木崎原で戦死後野首
城主となった新納伊豆守は、筑後守の子松太郎殿が謀反の兆しがあると云う事なので城柱に
頼もうとしたが、美濃等三人続き、足軽以下四十人程で薩摩方の飯野に逃げた。
注1 米良美濃守の恨みの理由は、木崎原で戦死した兄筑後守の知行を継承したが、その後
 召上げられ伊東家の身内に与えられた事により飯野の島津義弘に降った(日向纂記)

 東方村内 地頭館より十六キロ余北北西の方
○城ケ尾城
 城ケ尾の名称は木浦木の郡山中特に高い丘であり、上代にも既に城に見立てた地であるから
城が丘と呼んだのだろう。 日向記によれば、真幸で大敗(木崎原合戦)以後は交代城番で
守備したが、その歳も暮れ天正に改元された(1573)年の三月十一日より、当家山東の軍勢を
派遣し、真幸口の城ケ尾と云う所に陣を築き、交代で守備するとある。
 伊東方某の私書に、元亀酉(1573)三月、野頸を廃止して城ケ尾と云う所を城としたとあり、
又同書に天正四(1576)年八月の記事に、同十九日、真幸高原の城に島津殿、肝付殿、北郷殿
三家の軍勢が押寄せ城は包囲され水路を奪われた。 三日間城を支えたが廿二日降参して
城を渡した。 その日三ツ山の城が尾城、須木の城を捨て野尻・戸崎を維持したとある。

 南西方村内 地頭館より四キロ余西の方
○龍ケ峯
 此は小林より飯野への街道、石氷川の南側二百メートル余にある野丘で上に堀切が有る。
飯野の田原塁から凡八キロ程離れている。 此は永禄十一(1568)年伊東氏が飯野に田原陣を
構えた時、此所も同じく設けたものである。 此は田原に近く合図の為だろう。
 既に述べたが田原塁より伊東方本拠迄連砦を設け、守備兵を置いて烽火を上げて緩急に
備えた。 其連砦は龍ケ峯、三山(小林)、岩瀬、野尻、矢筈、紙屋等である。龍ケ峯は此目的で
ある。名称の由来は不明である。


2
    二十七 古戦場部
 真方村内 地頭館より北の方
○華立口 
 此は向江馬場と云所より飯野への通路を少しばかり坂道を登りつめた所を呼ぶ。

 真方村内 地頭館より五百メートル程北の方
○久保谷口
 此両所は永禄九(1566)年十月廿六日三ツ山城(小林城)攻の時、華立口には義久公、
義弘公、久保谷口には左衛門督歳久が陣営を置いた跡である。此戦いで義久公等は敗れて
囲みを解いて退陣したと諸書にある場所である。

 南西方村内 地頭館より八キロ西北西の方
○鬼塚原
 此は広野の中に鬼塚と呼ぶ丸い丘が二つあり、是を大鬼塚、小鬼塚と云う。 土地の人の
言伝えでは、大昔に鬼某と云う者がもっこで土を振るい置いたとの事だが取るに足りない。 
 又同じ野中に鬼のトウと云う所も有って大きな穴が幾つもあり、鬼の仕業だと云うが共に
信じられない。 又其処に隣接して鬼目門と言う農民の門名も有るが、此もどんな由緒の名か
分らない。 鬼とは神と呼ぶのも同じであるから、昔は夫ほど怪しむものではないと思う。
注1 鬼塚はもっこりした山で鬼がもっこの土を落としたと云う話は子供の頃聞いた事がある

 北西方村内 地頭館より
○粥餅田
 此は広野の中で少し低い所に粥餅田と呼ぶ田地が有るので其処を粥餅田の辺と云い、
其処に通ずる道を粥餅田筋と云う。
 名称の謂れは思い付かないが、粥は元々田に関係しない訳でもないが余り納得できない。 
祝詞に千穎八百穎(チカイヤオカイ)等云う穎(カイ)で穎餅田かとも思ったが違うようだ。 
此は刈持田ではないだろうか、カリのリは下に続くとイになる例は多く、持は持と云う時は
持運ぶの意味となる。 此地は野の中に田は少しばかりで人家より離れており、稲は刈取ると
直ぐに持運ばなければならぬような所だからと云うのは少し無理があるが敢えて云う。

 元亀三年五月四日、伊東軍は木崎原で敗れ鬼塚原筋、粥餅田筋の両所を退却した。 
味方は此両道を追討して鬼塚原、粥持田で追留したと云う。 忠平公は粥餅田で
柚木崎丹後守正家を自ら討ったと伝えられる。 
注1 三国では合戦の労を労い、飯野の民が粥を持寄り薩摩方将兵に振舞ったので粥持田と
 云ったとある。 是だと木崎原合戦より後に名付けられた事になり、それ以前は別の名が
 あった筈だが記録にない。

    木崎原合戦
 此合戦の始めに戻ると、元亀三(1572)年五月三日の明方前、伊東軍は上江筋を通り加久藤
を襲った。 上江筋は飯野城より二キロ余南を通る小林から加久藤への通路である。  この時
加久藤城には忠平公の夫人広瀬氏、実は園田清左衛門女、老中川上三河守忠智入道肱枕が
いた。 伊東軍は火を放て城辺の民屋をやいたが、夜に声を出さずに通過したので飯野城では
知る者がなかった。  肥後民部少輔が偶々戸を開くと火が見えたので忠平公に告げたので
公は西の原の岡に登って加久藤を望む。 その時上江死苦村の藤元彦六左衛門が報告に
来て、今夜大軍が上江を経て加久藤へ向かったが、三ツ山の軍が加久藤を襲うのではと云う。 

 公は直ちに城に帰り策を定め軍を分ける。 一軍は大道を行き加久藤を救う役で遠矢下総守
が将である。 一軍は村尾源左衛門を将として本地口の古い溝の中に伏せて、敵の帰り道を
攻撃する。 一軍は五代右京亮を将として白鳥山麓の民家に伏せて敵の背後を襲う。 
 若し球磨の軍が参入すると戦いは危ういだろう。 兵が少なく是に備える事は難しいので、旗を
大量に山林に立て、備が有る様に見せよう。 有川雅楽亮(伊勢貞昌の父)は留って城を守る。
 公は上井次郎左衛門、鎌田尾張守、細田武蔵守(一本細谷とある)、赤塚吉右衛門等五十人
で二八坂(大明寺東)に布陣して敵の動静を見る。

 伊東軍は加久藤の西、鈴掛口から城に登ろうとした。 徳泉寺口の後に山伏の樺山浄慶の
屋敷が有り城の外廓にあった。 夜は未だ明けないので誤って浄慶の屋敷を攻めたところ、
浄慶は大変剽悍な人であり、 父子共に奮戦して防いだが力尽き戦死した。 その時城中の
川上忠智が軍を整へて突出して戦った。  敵は相手の人数の多少が分らず退いて城南に
ある瀬により大川を渡って川南に集合した。 その時不動寺の僧が鉄砲で川を隔てて一将を
討落したが、是が米良筑後守である。 米良氏は菊池氏の末裔であり、代々日向米良を領し、
伊東氏に属していた。
 
 時に吉松から加久藤守備の交代軍が来たので進んで敵を討つと忠智も機に乗じて挟み
撃った。 敵は破れて白鳥山に登り高原に出て帰ろうとしたところ、その時山の僧光厳上人は
鐘や太鼓を鳴して鬨を発した。 これは寺の子供、山下の住民男女を問わず三百人程集めて、
紙旗を作り立てたもので、伊東軍は是に大に驚いて山を下る。 此時大河平及び横尾八幡山
の山林にも悉く白旗が立っており、敵は進退の道がないと見て木崎原の岡に集った。 其軍は
猶三千人を下らず吉松の軍兵五十人、忠智の兵卒二百人では敵し難く進撃を躊躇した。

 忠平公は二八坂より杉水流に到り是を望見て大に怒り、軍を督して直ちに木崎原に向かう。 
伊東軍は忠平公の孤軍が深く入る事を悦び、伊東又次郎、落合源五左衛門を先頭に岡を
下って来る軍勢は山河を揺すようである。 公の前衛は破れて六百歩程退く、久留伴五左衛門
と遠矢下総が公に告げて、公の軍は隊伍が既に乱れており必死の賊に敵対出来ません。
我等が先に出て賊と戦いますから其間に軍を整えて賊を破って下さいと言い終り敵に
向かった。久留刑部、野田越中坊、鎌田大炊介、曽木播磨が是に従い力戦して共に戦死した。

 此間忠平公隊伍を整へ敗軍を率いて敵に当り、自ら鑓を取って伊東新次郎を突殺した。 
三角田に石地蔵有るが是が其場所の目印と云う。 加久藤と吉松の軍勢も是に刺激され激しく
進んで戦ったので敵は敗れて狐疑原に退く。 初めに鎌田尾張守は公の命を受けて六十四人
を率いて広瀬の下を渡り末永の西に向い木崎原の後に廻ろうとしたが、 敵が既に敗れ狐疑原
に走るのを見ると末永より直に鳥越山を越えて狐疑原に出て敵を横から撃った。 
 五代右京亮も野間門の民家から突出して敵の後を撃てば、公の軍は勢いを得て挑み戦う。 
賊軍はばらばらになり、討たれる者は無数である。 五代右京亮の下僕が加賀守を射殺した。 

伊東又次郎、上別府甚四郎、稲津又三郎、肥田木四郎左衛門、米良式部少輔以下有名の士
百六十余人が爰で戦死した。 敵は皆三ツ山に向って敗走した。 
此を追って鬼塚原に到った忠平公は鑓を取って単騎で先頭を進む。 日向去川の地頭、
柚木崎丹後守が馬を返して弓を引いて射ようとした。 公は大に怒って、我は島津兵庫頭なりと
呼掛けるとその威厳に顔を上げて見る事も出来ず、丹後守は弓を捨て馬から下りて蹲踞した。
即是を突殺した。 

 後に公は丹後守の子孫を探したところ、柚木崎次郎右衛門が子孫と称したので、禄二十四石
余を与えて高岡に居住させた。 後に柚木崎丹波と云う者が実の子孫だと云う事が分り、
次郎右衛門は偽者と決まり禄は召上げられ丹波に与えられた(注1)。 
其子孫は今も穆佐に住み平右衛門と云う。 又丹後を突いた時、公は更に進み肥田木玄斎と
云う者を殺した。 是より三ツ山城が近いので軍を返した。
 言伝えでは、丹後を突く時、公の乗馬が膝を折って突き易いようにした。 この栗毛の牡馬は
膝突栗毛と名付けられ八十三才(注2)で死に、帖佐亀泉院に葬られ墓がある。 田中五右衛門
国明が命を受け碑銘を造ったと云う。

 公は飯野に帰り夫々功を賞した。 藤元彦六左衛門は永禄年中より伊東方へ間者として
派遣されて敵の陰謀をも聞付けて言上した。 故に作戦に役立った他色々あり、功により改名
して藤元丹馬として取立てられた。高百石の外に鎧、甲、鑓等を戴いたと言う。 丹馬が賜った
甲冑は浅黄革縅で今も子孫が保存している。 
 盲僧菊市は細作として三ツ山に入り、虚実を告げて功があったので、宅地及禄を賜った。 
この菊市は後に新清と称し又三宝院と改めた。日向十三郷の盲僧の司として今でも代々住職
している。此日討取の首五百余級、我軍の戦死者二百六十人、町田越中守忠辰が命を受けて
勝吐気を行った。 この時の伊東家戦死者は二百余人又は二百廿人、日向記では二百五十
人、主だった士九十六人、一家大将分五人と姓名は後述昌寿寺戦亡板にある。

 此日相良義陽は五百余人を率いて彦山(大明司上の野岡、球磨陣と呼ぶ)迄来たが、
大量の白旗を見て薩摩の大軍が飯野を援けていると思い皆逃げ去ったという。
注1 各書に載っているが、柚木崎丹後が降伏の意志を示したのに突き殺した事を島津義弘
 は後悔し、その子孫を探し禄を与えた。
注2 馬の寿命は廿五‐三十年と云われている。 この膝栗毛の世話をした義弘の中間橋口
 泰重は後に朝鮮や関ヶ原でも手柄を立てたが、享年八十三才で亀泉院に葬られたと云う。
 話が混同して伝わったのではないだろうか。

 伊東方某の私書には、元亀三年(1572)正月十一日に兵庫頭殿が死去したので年中の吉凶
如何かなと人々が言っていた。 同二月の頃長倉播磨守殿の二男勘解由左衛門殿が重職に
任命された。 先般佐京大夫(伊東義益)様のご逝去後三年は真幸方面の戦いは無かったが、
同年五月四日の厄日、真幸加久藤城を破った。 敵が少々打って出て、退いた時に大軍に
攻められ日向勢は敗れた。 

 此方の大将衆の討死は新次郎殿、又次郎殿、加賀守殿、同源四郎殿、右衛門佐殿、此衆
其他杢右衛門、御老中落合源五左衛門、御奏者長倉四郎兵衛殿、御蔵野村新左衛門殿、
平人の衆は佐土原八郎兵衛殿、長倉六郎三郎殿、同主殿助殿、同伴九郎殿、上別府宮内
少輔殿、稲津又三郎、同四郎次郎、落合弥九郎、同又九郎、同藤五、同源八、同織衛、
湯地式部少輔、同又四郎、河崎主税助、同弟河内守、荒武右衛門、同彦七、樺山太郎次郎、
福永四郎兵衛、同清左衛門、同因幡守、袋書記荒武小次郎、弓削伴七郎、金丸彦三郎、
米良衆右松又四郎殿、落合新五郎殿、大塚八郎、小森民部、塩見右衛門、山口図書、
壱岐治部、坂肥助七郎、中村壱岐守、梁瀬織衛、後藤九郎左衛門、同助七、河野善七、
竹井又七郎、丸目兵庫、肥田木四郎左衛門、米良筑後、橋口刑部、北原又八郎、栗下
又四郎、紙屋図書、肥田木治右衛門、宮地阿波、福崎三郎五郎、野村四郎左衛門、同七郎、
同源七郎、同三郎兵衛、いの木崎丹後、湯地宮内少輔、綾衆中野方、永峯弥四郎、
米良式部少輔、清武衆多田紀伊介、福永丹後守、其他一家年来衆、面々衆九十三人以上、
以下の衆三百程。

 又日向記の加久藤合戦敗北の事と有る項に、真幸の紛争は元亀二(1571)九月より翌三年
(1572)五月迄九ヶ月の間、飯野での防戦数度あった。 同五月四日、日向から大軍を催し
大将に伊東加賀守、伊東新次郎、伊東又次郎、伊東修理進の四人を大将として出陣した。
加賀守は飯野の押えとして妙見の尾に備えを立て、三大将は全軍を引率して加久藤城下を
打ち破り敵数輩討取り、周辺の家を焼き、囲も少々踏破り敵を城内に追篭めたので一端大河
迄引退がる。 軍律が乱れて足並みも揃わないので、詮議して備えを堅める為固めるので
引返せと制したが、過半は若大将達であり指令も区々になり、薩州勢が何するものぞ手並の
程を見せて貰おうと喚いて、頃も五月の事であるから水練などして時を過した。 

 一方薩摩側諸勢は栗野、横川の間から駆けつける。 斯して兵庫頭は伊東勢が纏まらない
事を見定めて評議して打ち掛かってきた。 日向勢の大将達は是を見て足を乱さずに尋常に
鑓を合せようと、我も我もと互に突合い火が出る程戦ったが、急には隊伍が整わず薩摩勢に
押され、はやりきった若侍達は多数討たれた。 
 伊東加賀守、同修理亮は兵を纏めて退き退いたが、誰々は討死、何某殿は生死不明等と
次々に報告あったので、老功の士も馳返し馳せ返し討死を遂げた。 中でも嫡男伊東源四郎
討死と聞いて伊東加賀守は、今は誰を救う事があろうかと取って返し自ら真先に進み、
島津兵庫頭を目掛けて敵の真中へかけ入って討死した。  
大将が斯くある以上は老若上下の区別なく引き返して皆討死したと聞く。

 又伊東方壱岐某の日誌に五月四日午刻(昼十二時)覚頭(加久藤)城下を破った。 
其日は滅亡日で特に南の方角は悪いと壱岐珠帝(此は伊東氏の兵道家)は堅く諌めたが
若大将達は、軍の先頭の立つ若者が迷ってはいけない、我々は唯走るだけと聞く耳を
持たなかったと言う。 有りそうな事である。

 さて此戦は其日午前四時に始まり午後一時に終り、たいへん烈しいものだった。
其時の島津家側の戦死者の姓名。
鎌田大炊助寛柄二男   曽木播磨守      野田越中坊
遠矢信濃守         樺山浄慶父子三人  富永刑部
西田後藤兵衛        阿多源左衛門     久留軍兵衛
宇都源三郎          伊集院刑部      伊集院宮内左衛門
蒲地越中           喜入掃部        逆瀬川孫七左衛門
愛甲源五左衛門       阿多伊豆        吉岡五郎四郎
川添図書           伊集院善左衛門   肥後新助
別府甚五左衛門       前田主税        野畑抜太兵衛
有馬豊前           上原阿波        鬼坂助八
久留五左衛門        野崎拾郎左衛門    有川主馬允 
海江田主水          上床六左衛門     新穂伊豆
向井蔵之助          井上市弥太左衛門  相徳七郎
岩下助左衛門        小川藤七兵衛     向井加太左衛門
宮路紀伊助          池田与八郎       二木市左衛門
瀬口主税助          鬼塚源六左衛門    三間市左衛門
井口大覚           大迫主税介       深水主水
椎葉大膳           小倉門左衛門      前田助六
竹内十郎兵衛        松下与七         小浜万左衛門
杉木甚五郎          吉祥坊          橋口市作
小倉万吉左衛門       井口禅左衛門      大河内七郎左衛門
長野仲左衛門        深島神左衛門      前田弥七
長田佐助           安藤千左衛門     川田伊豆
湯木禅右衛門        武 禅 門        大山六弥七
鎌田九郎兵衛        田中方作         原田三助
桑原主人           島田彦十郎       部中間吉左衛門
押領司右京          宇都源三郎       同持太郎三郎
宮内弥六左衛門       花北彦八郎       小牧左近
田実左近           福島助八郎       小倉六郎左衛門
大内田内匠          中山源三郎      栗野彦七兵衛
上師藤太左衛門       中門新兵衛      鹿島弥四郎
喜入掃部頭          梅室了香        立元蔵人
玉翁重淋           岩下主計        梅隣蓄番
谷山主殿           長野豊前        鮫島備前
都合百名、右の外名字不明の武士四十余名
 
 因みに云うと前述戦いの様子から敵味方共に勇壮だった昔の振舞の様子を想像できる。
此処に関盛長が以前木崎原を訪れた時、我君の遠い御祖神の事ども思い出してと有り、
  我か君の とほつみおやの そのかみに     *遠い先祖
           みいさをありし 木崎原はも    *御功 
又その昔の戦に全力を尽くして働き亡くなった方々の多い事を思い
  いにしへを 思ひ続けて露ならぬ         *古え
          露にも袖を ぬらすけふかな

 東方村内 地頭館より四キロ東北東の方
○谷ノ木
 言伝えでは、天正年間に伊東勢が立て籠もったので、斉藤弾正の子甚五郎が命を受け
飯野の兵多数を率いて谷ノ木へ押寄せて追払った。 飯野に帰り惟新公へ報告すると、
其時甚五郎は治部太夫と云う名を賜ったと斉藤氏の古文書にある。
 此事件は他の書には見当たらないが、伊東氏が天正四(1576)年三ツ山城を放棄した
後暫くの間は残党が立て籠もった事もあったと思われる。 此の谷ノ木と云う所は、地形は
低いが、深谷が続く要害の地である。 今は谷ノ木屋敷と呼ぶ百姓民家の住所になっている。
 谷之木の木は元から借字であるようで、古くは谷域と書いたのだろう。 域とは後世の城の
様にしっかりしたものでなくとも、仮に垣等廻らし構えた所を云う。 稲を積置く所を稲城、
馬を居らす所を牧(ウマヤ)と言う。 谷之樹としては由緒もなにも見えなくなる。


  
二十八 寺院部
○曹洞宗 明窓派 福城山 昌寿寺
  開基年月不詳
  当寺の開山は徳泉寺八世の環室端大和尚
  高二石 浮免高          *年貢対象外
  屋敷六反七畝十四武 御免地 *年貢対象外
  日新公(島津忠良)
  大中公(島津貴久)   御位牌在
  松齢功(島津義弘)
  毎年六月二十三日 六月燈の例会が有る

 伊東家戦亡板
大将伊東新次郎相州子年廿二郎従拾五人   大将 伊東加賀守 郎従六人
   伊東源四郎加賀子郎従四人         大将 伊東又次郎掃部子年廿五郎従四人
   伊東杢右衛門                      長倉六郎三郎 同六人
   伊東右衛門 加賀弟郎従二人       清武地頭長倉伴九郎 同二人
   長倉半十郎                   都於郡衆長倉主伝助
   長浦四郎兵衛                 佐土原衆 佐々宇都助八郎
   荒武小次郎                         荒武惣右衛門
   荒武彦七                    山東惣奉行落合源右衛門 郎従八人
都於郡衆落合織部助                      落合源八
都於郡衆落合藤五                        落合新五郎 郎従三人
清武衆上別府宮内少輔年四一郎従二人     三山野久尾地頭米良筑後守 同二人
    米良尾張守 披官二人                  米良民部少輔
   野村新左衛門                  都於郡衆 落合又九郎
内山衆 野村七郎                    同 四郎兵衛
     同 藤次郎                     同 源七郎
     同 右近丞                     同 三郎兵衛
都於郡衆長倉織部佐                    長倉 源八
     稲津九郎二郎             三山衆  北原又八郎
     橋口刑部丞                    紙屋図書坊
三山衆 肥田木孫右衛門          戸崎地頭 肥田木四郎左衛門
戸崎衆 湯地式部上             都於郡衆 湯地又三郎
都於郡衆湯地宮内少輔              同   壱岐珠帝 役者也
同   尺迦部市之助             財部衆 江之戸左近
   河崎主税助                都於郡衆 同 河内守 上主税助弟
佐土原衆弓削伴九郎             内山衆  柚木崎丹後守
三山衆 吉野監物                  同  野村玄秀
佐土原衆福永四郎兵衛               同 清左衛門
日知屋衆 同又八郎                  同周防守
       同新次郎              飫肥より使者 同丹後入道周岱
       同又四郎                      多田紀伊助
日知屋衆 福永孫右衛門            塩見衆  同 宮内丞
三山衆  丸目兵庫丞                     持原甚左衛門
三山衆  宮崎安房守              同越中守 右甚左衛門弟
佐土原衆 佐土原八郎兵衛                 河野善七 披官二人
    都甲兵部丞                       大塚八郎
    永峰弥四郎                財部衆  須田右衛門尉
    肝付与八郎                宮崎衆  尾脇宮内丞
    綾ノ中之坊                萩原先達 肥田木薩摩坊
    福崎三郎五郎              清武衆  落合弥八郎
    丸目二郎兵衛              戸崎衆  同 典内
都於郡衆 梁瀬織部助            日知屋衆 中村壱岐守
    畠山主水                        坂元右馬輔
    同 七郎二郎                     井上藤七左衛門
    後藤九郎左衛門                   同 助七郎
    猿瀬丹後守                      米良右近二郎 披官二人
    三輪四郎三郎            伊東加賀守ニ付
 以上凡二百五十人、内主立った士九十六人、御一家大将分五人
但し姓名の文字が違う事もあり、他本も同じで抜けもあるが此処では日向記に従い改めた。
尚此戦亡板は裏に元文二(1737)年七月誌と有るので、その時に作ったものだろう。 
 木崎原の敗軍は既に元亀三(1572)年であるから、元文の間百六十五年経過している。
これは郷内で怪異や変事があり占ったところ、伊東の亡霊の仕業と言うので戦死者を板に
記して昌寿寺に安置して、毎年七月四日多数の僧に是を弔わせた。 又毎年七月十四日
郷内の人々が集り行う旧例踊(俗に矛踊とも云)が有る。この起源は何年で如何なる由緒か
はっきりしないが、上述木崎原の役に於ける味方戦死者は勿論、伊東方戦没者の慰霊の
為と伝える。今はある町だけ踊を行っている。

○天台宗 霧島山 神徳院
 此は慶応四(1868)年に移寺となる。 其時布令では、
高十五石 高原狭野神社別当神徳院、此節別当職を廃止し、宝光院跡へ寺を移す事と
なった。 外の廃寺の石高の内から与えられる。

○外寺院
 円岳寺、観音寺、玉東庵、宝光院、龍雲庵
 興福寺、瀬戸尾寺共七ケ寺
右寺々は慶応年中(1865‐68)追々廃止され、同時に謂ゆる釈迦、観音、阿弥陀、大日、
虚空蔵の類、庚申塔迄総て廃止される。
中世以来仏道の隆盛だった事がこれでも察せられる。 しかし本来僧尼の徒が偽作した邪な
道であるから自然に衰えるのは当然である。 
注1 寺社の隆盛を押える為、江戸時代には水戸藩でも神仏分離を進めて寺社の数を抑制
削減する政策が取られた。 鹿児島藩でも慶応年間から廃仏が進められたようで、明治政府
の神仏分離政策に乗り全国でも廃仏毀釈が最も激しく、島津家菩提寺である福昌寺さえも
墓地を除き明治二年に廃寺となった。元来政府方針は神仏分離で破壊は意図しなかった
が結果的に破壊が蔓延し、明治四年に破壊を禁止したという。


    
二十九 古墳墓部
 真方村内
○伊東塚 地頭館より七百メートル程西の方

この石は故あって後に五代氏が
加賀守石前に慶安三(1650)建立
此石も後の慰霊碑と思われる
万治二(1659)建立
高130幅30厚15センチ
伊東加賀守墓

高138幅31厚15センチ
伊東又二郎
高147幅30厚15センチ
伊東新次郎
高130幅30厚15センチ
稲津又三郎
高148幅31厚12センチ
上別府宮内少輔

高120幅32厚12センチ
米良筑後守

野村四郎左衛門
高111幅24厚20センチ
米良喜右介
高95幅33厚11センチ
米良式部少輔

 以上の石が同所に有る。元は諸人の墓地であった。
  これ等伊東塚の墓石の前に次の碑石がある。 碑本体は高175、幅76センチ
碑銘には
 日向国小林村伊東塚と云うのは元亀三年(1572)五月四日、我が
先君松齢公(島津義弘)が戦いで大に伊東氏に勝たれた。其日伊東氏の一族、家臣の戦没
した者は二百廿余人。 其名は此辺りの昌寿寺の戦亡板に記してある。その中で多くを此所
に葬ったが、僅か二百余年を経て、其印の塚も多くは跡もなく、今僅かに残る所、伊東加賀守、
同又二郎、同新次郎、稲津又三郎、上別府宮内少輔、米良筑後守、同喜右介、同式部少輔、
野村四郎左衛門の塚だけである。 後の人が今を視るのも、今の人が昔を視る事と同じ理で
ある事を思えば、又年月を積重ねて雑草の中に跡もなく成ってしまい、遠い祖先の功績を後の
世に仰ぎ見る人が少なくなる事を嘆かわしく思い、今石に彫って残っている塚の数と名を記して
置く。 同じ此場所の人は我と心をひとつにして永く此数々の塚の傾覆を助け、旧跡を残して
遠い祖先の功績を末の世迄も仰ぎ見る事を思うのである。
                   文化十四(1817)年秋八月望
                               小林地頭 市田長門源義宣誌

 真方村内
○茶臼カ丘  
 伊東塚関連の人々の墓石がある
 左側 長一・二メートル横四十五センチ

       日州新納院、財部衆
 右側 長不明、横三十三センチ程
        山口右馬助他

 右二つの石は上に述べた伊東塚とは別な場所に有るが、確かに同じ時の戦死者の墓だろう。
尚他にも有るかも知れぬが今では分らない。

注1 茶臼ケ丘は小林城址東南百メートル程の小高い丘だが、今は小林玉(コベシダマ)墓地を呼ばれており、左側新納院衆の慰霊碑は現存する。

 真方村内一町(三千坪)畠
○星指杉
 此は老杉木が有ったが今は伐株だけ残っている。 言伝えでは元亀三(1572)年五月四日、
伊東方敗走の兵達が此処に来て揃って星を指した所と云い、今でも星指杉と呼ぶ、謂ゆる
伊東塚より三百メートル程南東に当たり今は四方田地の中央である。 昔は総て野原だったが
今は畠と成り一町畠と呼ぶ名も残っていた。開墾された頃は星杉の傍は尚そのまま残っていた。
しかし文政の頃(1825前後)其処を残りなく同じ新田としたと言う。ところが其田地を所有する者
に必ず災難が有った。 そこで其田地を少し戻して其地に星杉明神を祀った。 
但し其星指杉より僅か五十メートル程に文安四(1447)年の石塔が一基有る。 
そこには法華真読一千部等と書いてあるので僧徒の所為と見えるが此処に載せる。
注1 星指の地名は現在も残っている。 今市街地であり小林小学校の北側で病院の駐車場と
 なっている。 友人が小学生だった頃は未だ田んぼだったと言う(六十五年程前)。
 尚法華真読の石塔は近くのみどり会館庭隅に移設されて現存する。
注2 三国名勝図会では星合杉と云い、伊東軍が木崎原出陣の兵を集めた所となっているが、
 現在の地名が星指であり、小林誌の記述が正しいと思われる。

 後川内村内 地頭館より二キロ程西南西の方
○古塚
 此古塚は小林城戦争の時(1566)死骸を埋葬した所と伝える。
近年文政年中(1825前後)に刀類を堀出した者が居る。 戦死墓と云うのは無いが、諸人の
石塔は少し有る。

 真方村ノ内 
○昌寿寺廟所
 1.高一五五、幅三十余センチ 回慶宗英居士
 2.高一八〇、幅三五センチの 寿清宗文居士
 此二つの石は先の居地頭の墓と伝えるが、姓名が記されていないので誰の墓か不詳。
地頭の記禄に拠れば諏訪杢右衛門兼安が寛永十四(1637)年八月十四日に此地で
死んでいる。 年五十三、昌寿寺に葬ると有るので此二ツの内と思われる。
 3.高一二〇、横六十センチ 鎌田左京之進 施主
 4.   同上     ----大姉
 此も昔の地頭上井氏か鎌田氏の妻女ではと思われるが不詳。
以上の四つの石は同所に有り、是に連なり諸人の石塔が多い。
注1 上記1及び2は昌寿寺跡に現存確認する

 南西方村内 地頭館より八キロ余
○仲後塚  昌寿寺廟所より西の方十キロ程
           雄岳宗黄居士
 言伝えでは、先の地頭の同族の上井仲五の墓であるが、此処に独り離れて葬られている。 
庄内の役で戦死したが、幼年の頃手習いで飯野長善寺に通った人であり、遺言で長善寺の
鐘声が聞える所に葬って欲しいとあり、小林郷内の飯野に隣接した所に葬った。
庄内軍記によれば、伊集院源次郎謀反の事は他国にも知られ、庄内に隣接する城々は
皆城普請を行い軍勢の準備をした。
 小林では上井伊勢守、同次郎左衛門、入道伝斎の子息仲後等が太守忠恒公の出馬を
待ち従ったとある。 又同書の慶長四(1599)年九月十日の記事に、野々見谷は上井仲後
云々、小谷頭で上井仲後討死とあるので符号する。
 但しこの墓所は古へより両町が管理して年々花筒を取替えて掃除をする。


   
三十 辺路番所   一箇所
○木浦木辺路番所(注1)
     辺路番所の番頭八重尾筑右衛門祖先の覚書
 私の家元祖は藤原北家房前大臣の孫鷲取の系統です。三百年前に九州日向国へ下り
居住しました。 北原久兼の領内であり、小林木浦木山百鹿倉を宛がわれた文書を今も保管
しております。 その後北原殿と伊東殿の合戦があり、小林木浦木は伊東領内になりました。
しかし伊東方へは出仕せず、惟新様が飯野に御在城であり折々飯野へ出仕しました。 

 ある時木浦木山に大鷹が巣を作ったので、その子を取 って惟新様へ差上ました。 この事が
伊東方へ知れて、木浦木は伊東領内であるのに、此方へ差出さずに飯野へ差上げるとは
不届であるとして、八重尾一家は討果せと多人数が向けられました。 少勢では対抗できず、
木浦木を落延び飯野へ参上して委しく申上げました。 それでは召抱えようと云われ、飯野
大河平の今城守備を仰付けられ居住しました。 この為伊東は益々遺恨を募らせ、今城を
取囲み夜中に鬨の声をあげました。 戦いになりましたが少数では敵し難く、八重尾兵部、
八重尾源太左衛門、八重尾新次郎、八重尾後藤兵衛其外家来に至る迄悉く戦死しました。 
この時飯野勢を救援に送って戴きましたが、最早伊東勢は小林へ引揚げておりました。

 其後伊東を亡ぼされて小林を手に入れられたので、八重尾の子孫を出仕させようとの上意が
ありました。 八重尾与次郎が、伊東襲撃の時は狗留孫山へ手習に行っており、生延びた事を
聞かれて召出されました。 親が忠功を尽くしていた事により、何か願いがあれば申出よと
五代右京殿の御取次で仰渡されました。 そこで御願いとして、前々から先祖代々小林木浦木
の地へ居住して居りましたが、幸い小林が御手の下になりましたので、本領の木浦木に移して
下されば境目の御番を堅固に勤めてご奉公致しますと申上げました。 願い通り本領木浦木山
百鹿倉を下さり、其外上下、鎧甲、刀大小を戴きました。 飯野の鍛冶松方を呼ばれ、御前で
脇差には御紋の十文字を、はばき本三寸に切らせて、忠功の証として下さいました。 
これを子孫へ伝えよと五代右京殿の御取次で下さいました。 今でも木浦木境目番を堅固に
勤めております。 此度家伝由緒を報告せよとの事でしたので、以上申上げます。
  丑五月十四日      小林住民   八重尾筑右衛門

          口上覚
 私先祖は菊池家で本国没落(注2)の後は、小林木浦木山へ引込身を隠し数百年住んで
おります。 其後北原久兼と云う人より木浦木山を宛がわれました。 其後北原家伊東家合戦
の後、小林は伊東領になりましたが伊東方へは者出仕しませんでした。 
 木浦木山へ大鷹が巣を作りましたので 巣鷹を飯野のお城へ差上げたところ、伊東氏が立腹
して責寄せると聞いて惟新様へ申上げたところ、それならば召抱えようと云われ、飯野内の
今城と云う所を下さり奉公しました。 ところが伊東方が夜中に責寄せ、八重尾兵部親子兄弟
七人並びに家来達も残らず討たれました。 その時八重尾与次郎と云う者は幼少だったので、
狗留孫山へ手習に行っており一人だけ助かりました。

 元亀三(1572)年伊東方を責落され、小林を手に入れられた時、今城から元の所に
移されました。
 天正十六(1588)年十一月木浦木山百鹿倉、上下一揃、刀大小、鎧、甲、皮衣一着を拝領し、
貞享元(1684)年より年々米五石宛戴き木浦木辺路番を代々勤めています。 
 右鹿倉の若宮権現並び四ケ所の神社を管理しており、惟新様が立願なされた願文を八王子
権現頭取が保管して居ります。其外巣鷹の管理をしており、三州山の神の崇廟と伝える祭を
私の方で八王子権現頭取を頼んで神前を勤めております。

 木浦木は麓からの道法は四里程の深山であり、田畑も無く、下される米五石で右山の神社の
祭を行い、残った米を村中の現人数に配分しており、生計に苦しみながら境番の司を勤めて
おりましたが、宝永二(1705)年に地頭に島津求馬殿が御着任あり、生計の苦しい場所を御覧
になった折、食料として雑穀の御心付を御願いしたところ、御地頭名を書加へて申請する様に
御内意を戴き、御願いした処、粟六石宛毎年真幸組から下さる事になり、現在迄年々頂戴して
おります。
 木浦木は深山険阻で厳寒の場所ですから、木場稗以外は実が熟せず、少々ツヽ植えますが、
鳥獣に荒され収穫がありません。 殊に以前からの入植人数多く、たいへん苦しい状況ですが、
前述の有難いご処置があり、境番の司を代々怠り無く勤めております。

 此書は年月が記されていないが、小林木浦木番人へ年々粟六石宛支給されているのは
理由を申上げる様に云われた時のもので宝暦十二(1762)年八月の報告控であろう。
注1 木浦木は小林の最北、熊本との県境に位置して深山の中にある。
注2 菊池家は肥後の豪族だったが南朝方についた為、北朝方に攻められ衰退。 本家筋は
 日向の米良で米良氏として戦国時代から江戸時代通じて継続し、明治になり菊池姓に戻る。
注3 旧記では大河平一族が伊東方に永禄7(1564)年五月晦日攻められ90名全滅した事が
 載っており、 この中に八重尾兵部、弟藤左衛門等の名が見える。 


  
 三十一 橋部
 追手
○土橋 横二・七、長四三・二メートル余
 大手橋は小林城の追手口に有るので大手橋と呼ぶ。 川向を向馬場と云って士行路及び
真方村、北西方村への通路である。 又飯野への道もある。

 水ノ手
○土橋 横二・四、長四八・六メートル余
 此は同じく城の水ノ手口にあるので水ノ手橋と云う。川向にも士行路、稲荷社がある。 
本来東方村への通路であり、即ち須木街道も是である。

 大丸
○太鼓橋  
 此太鼓橋は新たに土地を開く為に設けたのであるが、又人馬の橋でもある。此は石を築いて
造ったが形が太鼓の様なので太鼓橋と云う。
 真方村の地から東方村に通じる。 是より前に川上に釣橋と云う危い歩道橋が有ったが、
此太鼓橋が出来てから後は無くなった。 この川の下流、浜ノ瀬(須木街道)又は岩瀬
(野尻街道)と言う所に歩道橋を架けた事もあるが、往々に満水時に流失した。 その為渡る
事ができず困っていた者も、此太鼓橋が通じてから大変便利になった。

     新墾の賀文
 天下には善い宝と言う物は多いが、一日も無くてはならない最高の宝は食物である。 
其は先ず人は命があってこそ、あらゆる分野で色々な事を行い、命が無ければ月も花も何の
意味もない。 随って人の世で何よりも尊い物は命であるが其命を維持するものが食物である。
 彼食穀のことに関して、かけまくも畏き大王(天皇)の新嘗等と云う重い神事は言う迄もなく、
昔は庶民も年々に新穀を食べ初める事を新嘗とも又「にえ」とも言って大変重要な行事とした。

 今でも此里では隣人達で語り合い、毎年新しい稲を御酒に醸して豊受の神に奉納する
事がある。 其日は村の長は勿論、女も子供も皆集ってきて誰も彼も互いに心安く楽しむ。
今はホハツホと言慣わして名前異なるがそのまま祭は残っている。 今は馴れてしまい誰も
あまり真剣に考えないが、決して軽いものではない、まして朝廷では毎年重い祭事としている
事からも、食物の大切さを知るべきである。

 処で其食物は何かと言えば、先ず真先に思うものは稲である。 稲は異国の国々にもあるが、
我国は特に稲穀の非常に勝れた国である。 瑞穂国の名もあり、遠い古代の神の時代から
稲穂に深く関わっている。 其稲穂はどんな所に植えるかと云えば水田である。随って古代より
広大な土地の中で田に成る限りは田にしてきた。 今ではそのような場所も少なくなってきた。 

 霊峰高千穂の麓北北東の方を小林郷と云い、其処に流れる川がある。 其源は肥後国の
白髪嶽から出て東南に流れる谷川であるが、古代から岩瀬河と呼ばれていた。 実に川面は
言う迄もなく、水底にさえも大きな石があり、中にも急峻な巌が続き、水が逆巻いて流れ、嶮しい
瀬もあるので岩瀬の名を得たものだろう。 

 其川の辺りに大丸と言う広くゆったりした所がある。 早くより其処を何とか水田にしたいと思う
人が多く、検討したが大きな岩が聳えた所で簡単事でなく口惜しく思いながら成しえなかった。
ところが稲穂の名を持つ稲留並穂氏は岩より大きな意志と水より深い工夫を廻らし、先ず其水を
堰入れる所と考えられる辺りは、遠い川上は滑りやすい硬い岩だが、此を厭わず多くの其道の
達人工人を集め、岩を打砕き、土を堀上、溝を作り謂ゆる川の上に此方より彼方の岸迄全て
角々しく切出した石を積み渡して橋の様に構築し、其上を水が流れる様に調えた。 其形は
柱も立てず梁桁の様な物もないが、善くも造ったものである。 其石で溝を作っているが、
全長二十五メートル余、高さ十二メートルあるとの事。世に太鼓橋として築いた物は所々に
多くあるが、此処の物程高くて長いものは無いと云う。

 斯くして其大丸と云う所は元々畠もあったが、野山もあり岡さへあったので、木の根を取除き、
草を刈払い、高所は低く掻き均して漸く広大な新田が出来上がった。 この努力は言葉に
尽せない程立派な功績を残した。 今後岩盤続きの溝の隅々を滞らずに流れる水は絶える
事なく稲を育み、末の世迄農民に富栄をもたらす岩瀬河である事は言う迄もない。

「岩瀬川 水せき入るゝ にひはりは                *にひはり=新墾
                 千秋八千秋 穂波よれこそ
「流れての世々に仰かむ 岩瀬河 
難きをなしゝ いさおしき名は                    *功しき
                 この様に悦びを述べたのは里人の赤木通園である。
 この様な拙い文を茲に引用すべきではないが、此太鼓橋の由緒は言う迄もなく、広大な
新田、凡十七町余を完成した我学兄並穂翁の功績を顕かにしたく、以前書いた物を見つけ
其の侭加えたものである。
注1 大丸(オオマル)の太鼓橋は弘化四(1847)に竣工、県指定有形文化財、東方小学校
 の近くにある。  尚加治木の豪商森山新蔵が私財を投じて完成させたとなっており、
 稲留並穂の役割は不明
注2.本文は全長二十五、高さ十二メートルだが、小林市案内板では全長三十一・五 高さ
  十四メートルとなっている

 細野村前田
○太鼓橋  傍に水神を祀る。
  石に彫った文は
 小林郷細野村前田の樋と云うのは、昔専ら墾田のために設けて次々板で調えたが、十年も
持たず朽ち破れ水が通せなくなった。 農民の歎きが藩に届き多額のお金を下さったので、
今度改めて半円太鼓と云う物を築いた。 そのため重ねた石も動かず通水も絶える事も
今はなく、大変喜ばしい事である。
 尚後の人々も為政者の深い思いやりを誰もが尊く思うだろう
                   明治三年二月     里人 赤木通園誌す
 こゝたくの石もてきつき やる水は             *こゝたくの=幾許くの、多くの
         青人草(あおひとぐさ)の千代のうるほひ *青人草=人民
 
下に
 地頭      近藤七郎左衛門   石工 伝助
 副役      田中十太郎         外 二人
 民事局検者  山口十郎       名主 与兵衛(志戸本)
 小林村掛常備隊
 半隊長     横山伴之進         長次郎(志戸本)
 右同民事局検査 井上軍兵衛       庄左衛門(吉富)
 同村掛小頭  赤木仲蔵       小触 平 助(南薗)
 同村掛郡見廻  森惣右衛門        市 助
            黒木源五      用水下役 小 市
 細野村庄屋   大坪市之丞            宇兵衛
 用水掛      富満八郎太            清右衛門
注1 廃藩置県は明治四年七月であるから、この事業は藩政時代最後のものと思われる。
注2 近藤七郎左衛門国中は小林、飯野、加久藤、高原、その他真幸院全体の最後の
  地頭(1867着任)小林在住

 岩瀬
○板橋 横二・一、長四〇メートル
 但し此所は野尻と小林との境目であり、野尻の地にも掛るので小林は長さ四〇メートル
の内十六メートル
 此岩瀬河は渇水の季節は左右歩いて渡る事ができるが、寒中、満水の時は歩行できず、
年々仮橋を設けて対応していたが、稍もすれば破損し、或いは水の為に流失して維持が
難しい。 そこで郷役人が相談して大工・石工を雇い、時は明治四年に始まり翌年二月に
完成した。 
 思うに古代にはしっかりした板橋が架っていた事が明かになり、今歩き渡る所から少し下り、
川幅の狭い所の岩の傍を穿って柱を建てたと思われる跡等が少し残っていた。 
今度も其場所に橋を架けた
注1 上記橋は既に二度架け替えられているが、橋の小林側渡口に永仁元(1293)年の
 碑があり、橋勧進、除蛮災と彫られており、古代の橋とはこの時の橋と思われる。 
 尚二度に渉る蒙古襲来から間もない時期であり、蛮災とは外国からの襲撃と解される。

              
あとがき
 巻の最後に云う。此小林誌を此様に書集めたのは一昨年の三月頃だったが、間もなく天下
はあらゆる分野で変革の世となり、藩を廃して県を置かれ、又郷の名前等も変る所もあり、
都度調べてはいるが前後合わないところも出てきた。 又熟読すると悪い所も少なくないが、
今年明治四年の十二月末ひとまず筆を置く。 読者は其意を汲み善い様に修正して戴きたい。


解説に戻る