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小林誌二之巻

 田中頼庸 長歌

 あか木の通園か小林誌といふ書を
 作りて示しけるに読ておくり
 ける長歌        頼庸

朝日さす ひむかの国の久志ふるの 
峯にあもりし 皇祖のかみの御蔭   
に栄えたつ 赤木のきみは いに(し)
への道の おくかも言霊の 八十の
ちまたも ねもころに わけ入ながら
著せしうつ書なれは、あめつち
の神の御宝は あきの美明らめや  
すく をちこちの 野山のさきは 春か 
すみ おほゝしからず たけきおの
いくさの跡ゆう 満人の おくつきまでも 
海ま こふね引つる あみの目も 
おちず かきつゝれりし いさを
しき君かほまれ 高千穂のみ
ねよりおつる たきつ瀬の音も
とゝろに聞えつゝ ながされ
行む 万代までに


   二十二 神社部


細野村ノ内
○霧島岑神社
祭神
天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
天津日高日子穂穂出見命
天津日高日子波□武鵜草葺不合命
木花之佐久夜昆賣ノ命
豊玉昆賣ノ命
例祭
九月廿八日廿九日  祭米 三斗五升
十一月廿七日廿八日
続後紀仁明天皇承和四年八月壬子、日向国諸県郡霧島岑ノ神官社ニ預ルと有るは即是也、
亦神名式ニ日向国諸県郡一座に霧島神社と有るも是にや、若是とすれば三代実録、
天皇天安二年十月巳酉授日向国従五位上霧島神に従四位ノ下と有るも此神社なるへし
今按に太古ハ高千穂二上峯、後霧島岑とも呼て、矛峯、火常峯二上在りし、其間瀬戸尾に
鎮座しを以て俗ニ瀬戸尾神社亦霧島中央権現とも称たり、夫レ高千穂峯は(註ニ此の峯の
名義などは下峯の下に委しく云べし)、固より日向大隅の国に跨り、高嶺は御空に近く朝日
直刺、夕日かがやく地なれば、始めて迩々杵命天降座ましてより、御代々磐余昆古命までは
高千穂ノ宮に千万歳大坐せしことは古事記・書紀などに正しく見えたる如くなるが、今其ノ墟と
云伝る処不詳は決て論ひ難けれど此ノ旧瀬戸尾神社を高千穂宮と上代には称しならむ、

今凡人の常にて平地にして広らかなるなどを勝地とせむ心には旧瀬戸尾の宮跡と云ひ伝ル所
にては手狭く見ゆれは疑ふ族も有るけれど其は畏くも神と人と、古と今との大に異なる故を
弁へざる狭意なり、固より旧瀬戸尾の地は広くあらざりし事は論ふけれど、片へなる火常峯の
いまだ炎出ざりし当昔は今の如くはなかりしこと、又其ノ高千穂宮とも云もさまで大くは有らざりし
ことを想像奉るべきものをや、

偖此神庿を瀬戸尾宮又瀬田尾神社、又瀬多尾社、亦御瀬太尾などとも称奉れど皆同じ、さて
瀬戸とは双方高く中窪りたるをセトと常にいひて、袁は高き処をも云ふ名なれば、此は瀬戸なる
山の尾の義ならむ、タとトは通音もとよりなり、
白尾国柱翁云、西峯と東峯との間を瀬田尾と云、昔は霧島神社茲に在し云々、さて瀬田尾は
瀬戸尾とも書たれば迫門丘の意成るべし云々、小林郷瀬戸尾神社あり、霧島中央六所権現と
云へり、中央と云は即迫門丘なり(中略)又神庿迫門丘に在し時は高千穂宮とも云ひしにや、
凡皇孫の庿号を高千穂と称せし例は、日向国児湯郡妻神社の内、高千穂宮とありて皇孫を
祀りしものにて知るべく云々、

八田知紀翁云、瀬田尾は土人の言に山のたばみて低き処をダヲと云を思へば、背の義にても
あるべし云々、
和田秋郷翁曰、瀬戸尾とは背峡(セタバ)てふ言の転れるなり、鹿児島府城の東大礒に越る道を
タラ越と称ふも同義にて、俗に山峡又谷峡などをタハ或はタヲと国の方言に云り、即此処なるも
二上峯なる東西の間を云へるにて、其は東ノ矛峯と西の火常峯との間のタハメル処、即背峡
なり、今瀬戸尾といふは音便と知べし云々といはれたり、共にしかり、

伝云鳥羽院天皇御世、天永三年壬辰二月三日、山上大に炎、亦六条天皇御世仁安二年丁亥
にも炎(按に此度の炎上に云へりしごとく、韓栗(国)嶽且大波嶽よりならん、然れとも具には知
かたし)度毎に神庿其ノ震火の災に罹るといへども、再ひ共に尚旧跡の如く宮殿を営れしと見え
つるが、其ノ后チ(百二十三年を経て)四条天皇御世文暦元年十月二十八日(此度は火常峯
より発せしこと明なり、火常峯炎終に陥り凹となる、今其火坑を御鉢と呼ぶ、或人曰、此炎より
大なるはなしとなり)の災いに罹り、夫より天の井(瀬戸尾寺縁起ニ曰、峯ノ水天社は曽ノ峯
旧瀬戸尾天ノ井に性空上人護摩修行閼伽井有て天ノ井に建立ノ水天ニ而此を名ケて峯ノ水天
曰云々あり、閼伽井とは例の仏語かにて知るべかられども、天ノ井とは按に天津神の寿言に
(上略)其下天八井出テ此処ニ持天天都水止所云々などある。

「朱筆欄外」「皇孫の宮地に出る御水は謂ゆる天津祝詞を以て術出し水なるべければ、天井と
云はむも誣言にいあらざるべし、然れども天降の時始めて高千穂の宮に忍穂井を崇居給ひし
跡所は上荘内安永村の宮原といふ地なるべし、其は己が著せし安智尾神社宝鏡銘に委と
記せり」

天の八井は此処の天ノ井ならむも知がたし、八は美称にて弥の略なればなり、(本居翁凡て古へ
は泉にあれ川にあれ、用る水に汲処を井と云へりといはれたり)
水涸れて用水方便なきに因りて旧瀬戸尾より乾に当り、霧辺王子(昔時より末社とす、旧跡より
十八町余下ノ地)社辺に遷座まし奉りて大凡四百七十八年の間此処に鎮り坐しし故、此処
故にや瀬戸尾越と呼ぶ踊又曽於郡なとより高原への通路あり、

此辺に生る小き梨あり、其を瀬戸尾梨子といひ、又瀬戸尾人参といふも多あり、最此処謂ゆる
二上峯と韓国嶽との間なれは瀬戸尾越と呼ぶと云説もあれども非し、其由は二上峯と韓国嶽
との間は一里余りも隔りければ、其ノ瀬戸尾とするも物遠ければなり、其は謂ゆる瀬戸尾神社の
鎮座し地なれば自然瀬戸尾越とはいへりしを、今に其名遺りしなるべし、凡地名より物の名発り
しも常なることなれども、はた物ありて地名と為るも少からねば、上古には瀬田尾と云地名より
神の名に負せ給ひしか、是にてははた神の名より地名に移りしと悟るへし

さて永禄七年大中公真幸院を松齢公に賜ひし時、十一月公加世田を発し霧島の険阻を経て
飯野に移り給ふとあるも此の瀬田尾越なりしなるへく、そは余に道筋あることなければなり、
かくて此難所を越給ふ故も私に訊るに、当昔までは北原残党、北原伊勢守、同新助横川城を
守りて往還を遮るなればなり、
慶長七年伊集院源次郎忠真を誅伐給はむとて鹿府を御発向給ヒし時も此瀬戸尾越より野尻に
物し給はむことも見え、又寛永ノ頃光久公太く病給ふ時、鹿府平田某請願の趣ありて、謂ゆる
御鉢に籠られしことあるが、其ノ人の日記の中に、其間瀬戸尾社に詣、此処に一宿えしと見へ、
はた瀬戸尾道普請の事等公より令せられたることなどもあれば、往昔よりの道路にてぞありけむ、
此は因なれば謂う

又享保元年(九月の六日申ノ刻を始メ其後日を重ねて止むことなし、此時石砂降、埋事六七尺
又二里余方生樹手便なく成りしとなり、且白尾氏の名勝考云、享保元年九月二十六日炎、
同二年丁酉三月炎、此ノ時東霧島社・狭野社、瀬戸尾社・神徳院及ヒ高原・高崎・小林郷等
民屋山林焚、俗ニ新燃ト云、此ノ時錫杖院及管下民屋凡諸県郡諸邑田前後被ル災者十三万
六千三百区と云へり、此ノ年江戸大火、又明和八年辛卯七月より翌年壬辰に至て炎、
享保元年より此歳に至り大に火を発し連日熄ず岩石化して瑫となり虚空より墜ち、沙石稃を
簸るが如く灰燼雨を降すに似たり、又昼にして夜の如く行客路を失ひ、人々相比ひて筵席を
戴て其圧傷を避防けり、数里の間田畴を埋没し、草木焦枯、皆人の親しく視る所なり、其往昔
の火勢亦おして察すべしと

神火発し社殿寺宇都テ燃え、此時神体仏体全て砂石に埋れ給ひしかは、見出奉ることは難かる
べきわざなるに、奇異きかも固より本殿五座の中一軀は降積し灰砂の上に現れ出坐せしとなり、
其を見着奉、やゝ積灰砂礫掘ること七尺余にして残四坐の神像を得奉りたいとぞ、扨此御神躰
は全く恙なく只焦たるのみなりければ、其まゝに奉祀りて今に至るといふ、末社の神躰及仏躰は
惣て消失し、即官命せられて新に彫刻ありしといふ)然とも御神軀のみは恙なく大坐ませし故に、
当昔神社の別当吉松内小野寺の修験僧恵法院隆盛といふ山伏を始、小林社家六名其余の
人々(其時官員旁登山の人々凡五十人とす)をして、柴御輿を設け其御神像を営奉り今坊
(瀬戸尾寺里坊)王子神社の傍に穴蔵御仮殿を営奉り、安置在しといへども猶神火弥まし、石火
を雨ふらし日を経て息(ヤム)べき状も見えねば、はた麓旧跡より戌方四里ばかり去)の如く守り
下り、岡原(飯野に通へる街道並樹入口北方少に高地なるが今に杉善くしけれり)と云処に
仮殿を興し、此処に暫ク(十四年の間)遷座ましき、故此処を瀬戸尾と云、

如此て天明年中に至ては漸く震火も鎮りけるに就て、彼ノ山手夷守嶽の東方の山懐、築地と
云へる地に若干所も新宮造営て、継豊公御代同十四年八月廿七日奉還こと今の如し、然れは
築地と称ふ名は既に失て今此辺を瀬戸尾とは呼るなり、按太古霧島神社は迩々杵尊一座を
崇奉り此レ一社のみなりしを物詣の便よからしめむがため、其処彼処に同じ御霊を勧請ありし
なり、今曽於郡田口村に坐す西御在所をも往昔は瀬戸尾に鎮座せしと今の地に遷奉りし云々と
いふ伝へもありとはいへども、其は別に社を設けて同じ御霊代を招奉りて斎き祀れりしにこそ
あれ、今に連綿として瀬戸尾の名を称奉りて鎮り坐せる、此神庿のあればなり、

今霧島とさへ称ヘバ西御在所のこととのみ女童子の輩はおもひとるなれど、そは西御在所は
固より治所に近くて公には更なり、多くの人々日に異に参詣もしげく、且タ正徳年間浄国公
御代、殊に御宮造りきらきらしく御再興ありて、他の宮居に甚く御稜威もまさり給へばなるへし、
はた高原郷蒲牟田村の山中にある東霧島御在所の事を国柱翁の説に、霧島峯とは即今の
東ノ方の矛ノ峯にて、是両所権現社の境内也、権現祠壇在所高原郷麓より二里山上にして
石磴(イシサカ)三百六十余級是より絶頂に至るも亦遠からず、続後紀に峯とあるは此の為也、

亦両所権現と称るは諾冊二尊を祀れるを以て也とあれど委しからず、そは謂ゆる瀬戸尾神社
の旧跡といふ地なればこそ、さもいはばいふへけれ、彼の在所は嶽の三分已下の処なるが、
謂ゆる旧跡は嶽の九分余とも謂ふべきいくばくも遥の高嶺なるをや(高嶺在れば岑とあるにて
論ふなきものをや)
又諾冊二尊を祀れるとあるも協(カナ)はず、其は迩々杵命の天降坐し地なれば、皇孫
迩々杵尊を祀れる方こそ道理なるべければなり、秋郷翁霧島神社といふもの、山中の彼処に
六社有を以て俗に六所権現或は六社権現なとの称あり、然れと今其本社と為る処詳ならねど、
此ノ瀬戸尾なるを霧島岑神とせば、必ず本社として違ふことはあらじ云々いはれたるは
然ることなり、

扨その六所と称ふに就て己レ疑ふことあれば此に論ひ、亦思ふ趣をもいささか試にいはむとす、
其は先ツ六所とは曽於郡田口村の山中にある霧島六所権現、高原蒲牟田村にある東御在所
権現、同所狭野六所権現、高崎妻東霧島権現、小林雛守六所権現、同所瀬戸尾中央権現
との六所を称とはいへることなるが、然せば曽於郡重久名にも止上権現と称ひ祭神霧島に
ひとしとも聞へたれば、七所になりて不府合されば止上なるは霧島を少カ隔り居坐す神社
なれば其数に入らざるものか、
又は高崎東霧島神社は本狭野神社の中古謂ゆる霧島山神火の為に彼の処に暫く御遷座
ありて、其後狭野の如く亦御遷座なるべき時に至りて、里人大に惜しみ奉るに就て、御跡に
御霊を崇奉と聞ゆれば此は中古の神社ゆえそを除くとするか、亦は瀬戸尾神社は最初より
高嶺なる中央に鎮座給ひしかハ、こは措て麓に后(ノチ)祀れるのみを六所と称るならむかと
おもひしかど、さにもあらず此は迩々杵尊、出見尊、葺不合尊、夫レに后神等三柱とを配せて
六坐とし祀れるゆえに六所又六社とも称来ること疑なし、そは例の三社某と称には三躰の神像
あり、十二所某とある社合には十二坐の神躰あるを以ても知るべきなり、しからずば上に云ふ
六処に祀れるに因ての名とするときは総べ称ふ大凡の号になりて、某の神号にはいかが
なればなり、

さて此霧島山内に幾所も等しき神社を祀れることを熟按に、夫霧島山は上にも云しごとく太古は
専ら高千穂峯と称し、始迩々杵尊天降坐まして継々御三代は更なり、神武天皇まて千万歳大坐
ませし高千穂宮と称たる御殿のありしことは神典などに見えたれは、かにかくに此山の辺
なりけむを其御跡をも又一処のみにもあるべからずなど、後人思ひ因れる心より迩々杵尊を始
其王子の大神たちを斎き奉むとして、山懐の内水土の浄き地を四方に策めて,若しくは六柱の
大神達を一柱づゝ六所には祭りしにもあるべし、然るを縦は迩々杵尊の御殿と始は定しものも、
其后神は更に云ず、火々出見尊、葺不合尊それぞれ五柱は共にさりぬべき御間柄なる神等
なる、かくて後に亦合せ祀れるにもあらむ、今其ノ六社の余にも同じ御舎に幾柱も合せ祀り
あるは、みな後の事なりかし
以下「」貼紙
「扨上に祭れる神等の由縁を知らむと欲ふ人は古事記・書紀其他の神典に就て見るべし、
はた迩々杵尊、火々出見尊、葺不合尊の三つの御陵は薩摩下の国と大隅上の国内にありて、
既に白尾国柱翁の山陵考といふ書を著され、又樺山資雄翁の山陵異考などあれば之を見て
するべし」

○左右隋神王  祭神不詳
此は膳神王とも書れば御食津大神などを祭れるにもあらむと一度はおもひしかとも、さにあらず
天忍日命天津久米命は迩々杵尊、天降坐時に供奉の神にして、古語拾遺ニ天忍日命
天槵津大来目ヲ便リ前駈とあり、古事記に天忍日命・天津久米命二人天乃石靭取負、頭椎之
大刀ヲ取偑、天之波士弓ヲ取持、天之真鹿児矢ヲ手挟、御先ニ立テ供奉云々、書紀にも書の
読は異ルに似たれども、同じ赴に記されたり、然れは余の社は兎まれ角まれ迩々杵尊の
鎮座す処には必ず此二人の命を託祀べき神なれば、此れならむとおもほゆ、今其ノ御像を
視奉に、左右二躰共にされべきものを取持給ふに依ばなり
但古語拾遺石屋戸ノ段ニ豊磐間戸ノ命櫛磐間戸ノ命に神をして殿門ヲ守衛せしむ云々、
古事記ニ天ノ岩戸別ノ神亦ノ名櫛石窓神ト謂、此神ハ御門之神也とあれば、此神を祀れる
ものなり
朱筆書入
「左右の隋神てふ物には他神にはあらじ、豊磐間戸、櫛磐間戸の二神なる事決もなし、隋神は
善神王など書こと世俗なれば御膳津神のこと思ひ混ふことなかれ」

 御宮殿の脇石
○須佐男命   御神像天夕の形也とぞ
 右同 左腋宮
○蔵王神社   祭神安閑天皇貼紙に曰
貼紙「」あり
「祭神は安閑天皇と云説あれども、其は大なる非なり、本社の例によるは社号は金峯と申して
金山彦神なること決もなし、頼庸公いはれたり」

 右同 左
○熊野神社 
祭神飯隈に同じきが不詳祭神伊弉諾尊伊弉册尊を祀ると伝ふに因りて思い定めつ
 右同 右
○霧辺王子神社祭神は未思得ねども若クは神武天皇を祭るにもあらなむ、そは霧辺の辺は
島の叢書に紛たるにて霧島ノ王子の意なればなり
 
 御殿より廿二三間卯ノ方
○峯ノ水天社   祭神水ノ神
 御殿より五十間余
○川路水神
○大山積命
  伝曰襲ノ峯守護ノ山神也云々
○二方荒神
○八方荒神
  右両躰共に蘇峯の峯中江建立為りしを今は遷せると伝ふ
 貼紙「」有り
「二神将祭神詳かならねど伴存す、襲十二方に建立したりしを同じく遷して今は本地堂といふ
社に祀るといふ」

 今坊
○王子神社 祭神上の霧辺王子と同じ、御霊ならむも知るべからず
 広原
○王子神社 祭神

上件の神社は共に霧島の末社と見ゆ、然て末ノ王子神社は今広原村にあり、
此は上巻に云ひし如く、広原村は本小林ノ内なりしを延宝年間高原郷に属けり、然れども
上世よりの例にて、今にも小林ノ社司等聚而祭祀を為すとなり
 
 種子田
○宇賀神社 祭日十一日初申ノ日
 按に此は豊受大神を祭るなるべし、そは宇気は食の義にて、宇迦と通へはなり、
古史伝に大冝都比売神冝は食津は例の助語なり、扨此食を放ちては宇気と云ふ豊受比売神
の保食(ウケモチ)ノ神なり、此は大宜と連く故に宇を省き云、又宇気を転て宇迦とも云ふは、
風をかぎ、稲を伊那、酒をさかといふと同じく第四の音、第一の音に転る格なり
宇気分注に記伝に宇迦は食(ウケ)なり、書紀に伊弉諾尊伊弉册尊又飢時に生児、倉稲魂命
ト号、倉稲魂此を宇介能美把磨と云々、此ハ其食の事に功坐ます神は云々とあり
伝て云、霧島宮末社なるが此処往昔神の御骸に稲の生ひ初しを取らして、稲種子にとて、
蒔ほどこらし給ひし所なれば、斎奉ると云ひ、即ち社の傍に御田地あり(その辺凡て水田なるが、
其中に二十歩ほとの水田あり、今御種子田と称て女は更なり、不詳輩は是を殖ることを許さず、
又糞の類しき入ることを忌むとぞ)故ニ此地を種子田村と云(内種子田門、外種子田門、
西種子田門と呼ぶ百姓の門名もあり)
 
橋谷
○稲富(イナフ)神社  祭日十一月初酉ノ日
  祭神詳ならねど上に同じく豊受大神を祀れるならむ、若しくは大年御年若年神を祭
にもあるべし
 朱書、稲富は稲生と同じくして豊受神にはあらじ、延喜神名帳考証など考合すべし
伝云、謂ゆる霧島の末社にして上に言る種子田に殖し稲の番をなし給へりし神とぞ

○三方荒神 八方荒神 瀬戸尾に祭る略
 高五拾石
  右者小林霧島岑神社官社の儀に付、御祭祀料として被付云々と証書にあり、上件
霧島岑神社は既に云ひし如く、固より官にも知し看し給ひて、殊ニ尊き御社なるを刈薦の
乱れにみだれたる世より其こともなく稍に衰へましましたる状にて謂ゆる内小野寺の山伏を
別当とハ居置れたるのみなりしかハ毎年の御祭をも他宮の神部より誂らへて、神事奉仕
ことの例とは成りて、万に足はぬ御形勢なれば畏けれと痛も慨く年頃おもひ奉りしに去往し、
慶応の度其別当いふ職は止給ひ、新に神司を定め給ひ、如此も今年明治四年と言年、
御神田(ミトシロ)さへに奇を進り給ふにいたれり、然れハいかばかり皇神等の大御心にも
御快く所思(オモホシ)給ふらむかし

 大久保
○稲積神社   祭神
 
 細野村ノ内、地頭館ヨリ一里十町未ノ方、鹿児島ヨリ廿二里四十九間
○雛守神社
  祭神 迩々杵尊  開那姫尊 貼紙
     火々出見尊 豊玉姫尊  五日町札の本分
     葺不合尊  玉依姫尊  三十五町弐拾七歩
  例祭  六月十五日 七月朔日 八月彼岸中日
       九月十九日 十一月十五日
  正祭  九月十九日 同十六日ヨリ同十九日迄
      十一月十五日 同十二日ヨリ同十五日迄の間
神事祀場中と称、此ノ祀場中には郷中ノ者他出、又他より帰ることを忌とぞ、然て往昔御祭日
に当り門前町十日町に於て流鏑馬射義行う、茲に依り四方ノ商売是ニ来り而市を為すと云、
然とも今は絶て其市締の式のみ遺れり

伝曰、上古ハ雛守嶽(霧島山中の一嶽なり、此即夷守地にて在を以て嶽名となれりと云)
山中宮ノ宇都(山の半服五合目程に旧跡と伝る処ありて、今に宮ノ宇都と呼り、ウトはウツロ
の約にて墟なる地なればなり、はたその山下の野方を宮ノ原といふて広野あり、
当昔夷守末社なと在りて地名ともなりしなるべし、今に大王権現社の跡と云伝る処も有る也)
に鎮座焉然ルヲ景行天皇崇敬ヒ今ノ地ニ(郡ノ宇止旧跡より寅卯の方ニ十町あまり山足なり)
遷宮ヲ令ス(伝云、天皇拝謁に便りよからざりし故に今の地に遷し給ふとぞ)故此ノ地雛守と
称ス、

偖景行天皇十二年ノ紀ニ曰、秋七月熊襲反シて不朝貢、天皇八月乙未朔日巳酉幸筑紫
(中略)十月日向国到、以行居ヲ起 是ヲ高屋宮ト謂 十三年夏五月悉ク襲国ヲ平、因テ以
於高屋宮ニ已六年居也云々、又十七年春三月紀ニ天皇将向京ニ以狩筑紫国ニ巡、始夷守
ニ到、此時於石瀬河辺ニ人衆聚、於是天皇遥望之、左右ニ詔曰、其集者ハ何人也、
若賊乎乃兄夷守・弟夷守二人ヲ遣令視乃、弟夷守還来而諮之曰、諸県ノ君泉媛依
大御食ヲ献而其族会之云々と有るは即此地にて、景行天皇行宮の遺跡と称伝ル処、今の社
地より寅ノ方十五六町計に在りて、其処に天皇行宮の跡と又御腰掛岩と云あり、

偖白尾国柱翁の名勝考雛守権現祠の下に夷守は古の官名なり、始て景行紀に見えたり、
伝へ云、此景行天皇の親征を迎へ奉りし所なり、蓋夷守処女の遺跡故に此名あり云々とあるを、
和田秋郷の評に夷守とは即チ彼ノ泉媛を称ふなるべし、然れども此をただに夷守処女と称はむ
はしいたる名なり、諸県君泉媛とあるものをや云々、又同じ名勝考に白石遺文ニ魏志を引て云く、
倭国曰、多模曰卑奴母離ト云々、此多摸は即チ伴造なり、卑奴母離は即夷守なり、凡伴ノ造は
国ノ造の属官、夷守は伴ノ造の副職にして夷服に在て兵守を兼掌れり、因て夷守の号ありと
云へるを、秋郷曰、此説いかがあらむ、若然らは此司は高千穂宮に天ノ下所知食(シロシメ)
しつゝ御世に始メて置れたるものにや、抑此地其夷守司が世々職を奉り住めりしより、天皇にも
輙(タヤス)く此処の如く巡狩坐ししなるべしと説れたり

脇宮
三徳神
○神武天皇
○経津主神
○武甕槌神
由略ニ云、左右ノ三徳神ノ事、智仁勇三徳ノ霊神か末詳、亦社記ニ曰乙護法并白山権現ヲ
雖祀、干脇宮ニ中古廃壊云々、又一書ニ曰、古記ニ神武天皇ヲ称白山権現ト、
経津主神、武甕槌神ヲ乙両護法社ト称ひ、此二柱会斎社ヲ号護法ト云々と見えたり、
按に廃壊とあるはいかがなれば、其は脇宮のみ廃して御身躰は猶在坐を御正殿の内に共に
配祀て、此三柱に身躰あれば其を呼て、俗に三徳の神とは唱しならむ、素より智仁勇は取に
足ず、然なれとすれば三躰の御神像在べきなるに今二躰  の神像焦げて残れるのみなれば、
若くは文政の炎上に一躰ハ焼て失せ給ひしにもあらむ、当昔は三躰なればこそ三徳の名にも
負けめさて、経津主神、武甕槌神は皇孫命の未タ天降坐ざりし先に降到まして、かにかくに
功の神等なれば併て此処に祀れしなるべし

 左右隋神王 祭神同前
○稲荷大明神社 
祭神
 貼紙 稲荷ハ神名式ニ山城国紀伊ノ郡に稲荷神社三座(并名神大月並新嘗トある)御社と
申せり、三座中坐宇迦之御魂ノ神、左右は猿田彦神、大宮能売ノ神なり云々あるが、これ正説
なりと頼庸翁いはれたり
 一ノ階左ノ上
○瑞山社
此は羽山津神、若くハ羽山后の神を祭れるならむ

 同所
○大王社 祭神不詳
 此は猿田彦命を祀れるならむ、そは古記に猿田彦神を大王権現とす云々、さて古事記に
大津神の御子天降聞故ニ御前に仕へ奉むとして参迎たりと申すとありて、皇孫命の天降坐る
時より故ある神なれば、迩々杵尊の鎮座す此処には必ず属添坐ますも理なればなり
 朱筆 大王はオホワと訓て大国主命ならむ知るべからず、一説に玉命なるべしといふ
めれども、確かなる証もなければ決めて云ひがたし

右同所
○岑ノ水神
祭神 罔象女命(ミズハノメ)
此は謂ゆる襲峯に祀れる処の御霊を勧請するならん
老松社庭ニ有り景行天皇ニ鞍掛松と云ヒ伝フル、然ども今枯て亡し、力柴と云樹庭上に有り、
此は松齢公御杖なるが生つきしと云伝て成長し今存せり、
天正五年丁丑中冬為野火ノ社宇焼亡、因爰ニ翌年御造立、松齢公御世天正六年棟札有り、
又光久公御世御再興貞享三年乙丑棟札有り、
文政七甲申年神躰社殿共焼失ノ故ニ斉興公御世神躰仏躰彫刻、天保十五年甲辰三月
棟札有り、
然に又嘉永元戊申年社宇焼失、‐欠‐御世御造営文久二年壬戌二月棟札有り

○高坏一対
右松齢公御寄進
按に高坏は万葉十六年云々、高坏に盛机に立而母に奉つ也等とあり
御短冊三枚  蓮亭院様御詠歌御事
  いけ水の 影をうかへて みなとせの
    よはひくみしる もものさかづき
  河水の なみのよるよる あらはれて
    ほたるとびかふ かぜのすずしさ
  ふけゆけば なほさえわたる 秋の夜の
    空にくまなく すめる月かげ
右は斉宣公文化十四年丁丑四月御神納、余ハ寄進物等略ス
高一石七斗三升七合 御神領(往古は御神領一町四段、三町八段とも)御寄付天正廿年
以来及再度減セラる
宝殿(六敷三間、子板葺)舞殿(四敷三間、茅葺)
拝殿(四敷三間、茅葺) 鳥居(木) 二鳥居(石)

右寺社方検者付御修補
鐘銘ニ
 真幸之院雛守六所大権現鐘興行、右意趣者奉為金輪聖皇天長地久御願、円満殊者
信心之大旦那伴氏朝臣兼守代官、伴兼亮並伴兼賢武運長久、子孫繁昌并椙氏朝臣
乗富大宮司並女大施主息災延命、各家内安穏子孫繁栄、院内豊穣、十方旦那万民快楽、
心中求願皆令一一満足、乗泉次郎三郎
 干時天文十七年戊申二月廿七日作者
           小幡信続、同信直
       願主押領司市左衛門昇久貞
         右如件 五郎次郎敬白

 先祖代々申伝覚
小林崇廟霧島六方之内、雛守六所権現神主被仰付候事、我等より五代前之先祖、黒木六郎
大夫飯野一之宮大明神神主代々仕候処、永禄七年甲子ノ年、兵庫頭様飯野江御移被遊候
処、元亀三年壬申年、飯野伊東勢差向可申旨取企被申由申散候、就夫御精進被遊候而、
右先祖六郎大夫被召出、御祈祷精々被仰付候事数々之儀候、其上御占可仕由被仰下候間、
御占仕言上申候者、近日伊東勢向可申通申上候、無間違元亀三年五月四日伊東勢飯野江
寄来候得共無口能食勝小林迄御手ニ入、御久慶被遊候付、小林崇廟雛守六所権現、
又北方諏訪大明神之神主右六郎大夫江被仰付候、其上六郎大夫子被召出、黒木次郎九郎
と名被下、御鎧拝領仕候、

而干今頂戴仕置候御神領トして一町四段被下之、天正五年之御支配目録、干今有之候、
其後右次郎九郎、黒木万吉左衛門ト名被召替候而、小林崇廟雛守六所権現之為神主、
天正八年庚辰年被召移候而、無程御参詣被遊候、御機嫌能御座候、於社頭御酒被召上候
金地之御盃一ツ、赤地之御盃一ツ被下之、今迄頂戴仕罷居候、其時右万吉左衛門、黒木
式部大夫と名ヲ被下候事下略
 延宝八年申十一月 小林崇廟雛守六所権現神主 黒木佐渡
 御紋付御帷子一枚 従松齢公御拝領
 御盃二ツ
   内一ツ金色 径四寸   同シ拝賜
    一ツ赤色  三寸八分 同右

○若宮八幡神社
 玉依姫   
 応仁天皇       
 神功皇后
 仁徳天皇
貼紙 按に天子山天子宮祭神不詳、俗には景行天皇を斉奉と云 
伝曰、三輪氏之霊神々々とも 鹿児島本藩 自諏訪氏供祭来等世々此を祀らる

 御拝鷹山
○拝鷹天神社
伝云、人王十二代景行天皇之草創の神社也と云
宝光印由来記曰、景行天皇高屋仮宮ニ在、於熊襲ヲ追討ノ為於軍陣ヲ調練之時、虚空ヨリ
鷹一羽飛来、翈翔徘徊而、世始富山之麓ノ千丘陵ニ到着、膳三望顧二視於軍中
其形勢雄威而猶、於軍陣ヲ擁護スル如シ、暫而咆哮シ敵方ニ向ッテ飛行ヌ矣、夫鳥之猛者ヲ
鷹ト云、於羽族之中ニ有 絶豪傑之表気剛悍躰ヲ感、銛鋒侔、観視之間偉如也、
軍将之威相ニ非那、応知是則天帝援天皇之軍祥瑞也、於此諸軍皆共拝敬焉、
由是名二当山ヲ、曰鷹導山ト、祝崇シテ彼鷹称拝鷹天神ト、
今以祭祝無懈者也云々、伝云、上古神事ニ就は流鏑馬数騎出、衆人群集為レ市云々、
当昔市場ト伝処を今は本市と呼ふ鳥居は遥南十町余ニ在、後世墾田ノ為大路を失矣

 御伊勢山
○天照皇太神宮
 仮屋
○正八幡神社
  玉依姫
  誉田天皇
  神功皇后
  仁徳天皇
 吉富山
○山王社
  大山昨神なり
 吉富山
○荒神山
  澳津彦命
  澳津姫尊
 島田
○須川原者
  祭神 罔像女命ならむ
 煮迫
○聖大明神社
  按に聖神を祀るなるべし、本居大人は聖とは日知の義といはれし
  貼紙 此神名にて本社は祭られた事あることなしと頼庸翁の説れしなり
 五日町
○稲荷神社
  須佐之男命・大市比売
 五日町
○荒神社
  祭神前同
 
 吉本雛守末社ト云
○山王社
  祭神前同
 
 十日町
○恵美須  祭神不詳
  朱書 恵比寿は事代主神或は蛭児にてあるべし
 十日町
○地眼   地眼は道士等の祭る神にして皇国の神衹にハあらじ
 
 巣浦
○山神
  祭神 上ニ同じ
 中園
○山王社
  祭神 上同(俗に此社を下ノ山王と云、前に載す吉本在を上の山王と称へり)
 数十所
○田ノ神
   此は大年神又御年神を祀ならむ

 真方村ノ内 従地頭館三十五町子ノ方 鹿児島より二十二里七町十七間
○八王子神社 祭神不詳
  八王子ハ世俗の説によれば三女五男の大神にませり、又伴信友が
 説の如くなれば八柱の山衹神なり、両説之内伴氏をとるべく覚ゆ
  例祭 九月九日 十一月中ノ丑ノ日 祭米 五斗二升五合
 按に由来記に源義経の尊像ヲ勧請云々、昔時斉藤常陸なる者従鎌倉請下シ小林崇廟
 として、真方と称フ所に安置云々、八王子とは義経之義ノ字を象り八王子と称ふと謂へども、
 附会の説にて信じかたし、
 そは八王子は三女五男の八柱より号て即字義の如をや、偖小林崇廟八王子権現頭取

  斉藤美濃前々より申伝の覚書に云、
 ○往昔は臨時の祭年に六度なりしを、当分は両度云々
 ○先年北原家代には神領五町相付云々
 ○伊東家領内に成りし時飯野に移さる
 ○惟新公飯野御在城の時、先祖斉藤弾正飯野に召れ、月並の御祈念、御祓命ヲ蒙り相勤、
 其折瀬崎ノ馬一匹、御弓箙御鎧、鑓二本、刀二腰、馬具一通拝領云々
 ○小林ノ内谷ノ木ト云所江伊東氏ノ党楯籠之時、斉藤弾正子甚五郎奉命、自飯野人数余多
 師て谷木に押寄セ則追払、飯野に帰り公に告、其時名を治部大夫と賜ふ、其ノ間ニ小林も
 御領に帰し、因て本所の如く移され、我らまで五代正祝シ勉ム
 ○木浦木山ノ神に御立願の砌、先祖治部大夫に神前の事共命せらる、其時ノ御願文に有り、
 其御立願文御筆と称シ左ノ如し
 一四目二本被立神舞之事
 一七添塩井之事
 一御宮作之事
 一知行五石御寄進之事
 右立願巣鷹於有之者早速可有成就者也、仍願文如件
  慶長十二年閏四月廿四日  惟新
 惟新公小林御光儀の刻八王子御参詣、治部大夫奉見、其時鳥目三百疋拝賜す云々
 ○先年祭米五表賜ひ其后高二石分減られ、又其後夫も廃られ、今は直米五斗二升五合宛
 賜ふて今に至るといふ、但し此文はかいつまむて挙たる也

  城内
○荒神山
   祭神同前
○水天
   右配祀 祭日十一月廿八日
 窪谷
○熊野三所神社  祭日十一月五日
   祭神 伊邪那美命
       事解男命
       速玉男命
  此は龍伯公の御勧請ノ神社云伝(此所窪谷口と唱、永禄九年龍伯公御陣営の処なれば、
 其時御草創なりしも知るべからず)

 熊野神社傍
○二ノ宮山王社
   祭神同前
 中窪
○今熊十二所神社
   又熊野十二社も
 福人
○今宮八幡  祭日十一月十七日
   応神天皇 神功皇后  仁徳天皇
   文亀二年棟札有り

 愛宕山
○愛宕神社  祭日十一月廿四日
  祭神 迦久土(カグツチ)命神
 神名帳に丹波ノ国桑田ノ郡阿多古ノ神社(即京ノ西の愛宕なり)も
此神を祭となり(阿多古とは御祖を焼たまひし故に仇子と云意にや)
寛永十三年家久公御代世々為御武運長久、当時居地頭諏訪氏建立云々、此故ヲ以至今、
自地頭所祭米七升五合を年々地頭所より供らると云

 水ノ手
○稲荷神社  祭日十一月三日
  祭神  同上
 貼紙 偖此社は小高き円山の上に坐、坐の其傍に明治二年鐘楼を建て、時を報ず是始なり
 伝云永禄年間伊東氏籠城小林城を忠平公御攻、二ノ丸迄責メ登給ふ時、須木ノ兵水ノ手
東ノ岡に来て後責を為す、忠平公御甲に矢当る、依之寄セ来軍兵共輙追散討取ノ上者、
右岡に稲荷社御崇給べき御祈願ノ処相叶ヒ、故に稲荷社御建立、即東方村ノ内大窪門知行
御寄付御崇敬有之ト云、後ニ神領召上ラル
 
 内門
○火ノ大神  祭日十二月朔日
 此は火之夜芸速男神を拝祀ならむ
 浜ノ瀬
○浜妙見宮  祭神不詳
 按に余ノ妙見と称には北斗ノ星を祭ると云り、此も然ならむ
 下津佐
○妙見宮  祭神不詳
   祭神は上に云へるが如し
 永久井野
○天万大自在天神  十六森天神も 祭日 十一月十六日
   祭神 菅丞相道真公
 伝云 忠平公小林城北ニ当テ天神御建立ノ御祈願あり、天満宮を崇祀、北ノ天神と称し
御尊敬有之云々
 
 木浦木吉牟田
○山之神  祭神 大山衹命、猿田彦命、但し三州山ノ神惣廟ト伝云
 同所中ノ八重、
○山之神    忠平公御願文有り(此正文は八王子神官家に在り、因て上神社ノ下に
 載せル如し)
 同所芋八重    各祭日十一月中ノ申ノ日
○山之神
 同所巣山
○山之神
 同所球磨界
○山之神

 木浦木
○若宮神社     祭神不詳
 大久保
○大窪神社     祭日十一月十二日
 
岡原       自地頭館二里七町亥之方
○諏訪神社
   祭神 建御名方余
   例祭七月廿七日 祭米 七升五合依先例自地頭所出ル
 右諏訪社ノ脇
○龍ノ社
 此ハ高龗神なるべしと頼庸翁いはれしなり、此は雨風ノ神なるが、本居云於可美は龍にて
 雨を物する神なり、書紀に高龗と云もあり、そハ山上なる龍神、この闇淤加美ハ谷なる龍神なり
 右同所
○熊野神社
 按ニ出雲国造神賀詞に熊野大神櫛御気炊命云々、(元注ニ此は須佐之男命を云ふなりと、
然らハ此も其神を祭るならむ)

 吉丸
○水天
 遊木猿
○祇園官
 岩瀬
○岩戸神社    祭日十一月七日
   岩戸別神ニハあらしかと頼庸翁いはれたり
     高二斗八升四合三夕八才 神領

○歳ノ神
○塞ノ神
○田ノ神
○年ノ神
  外にも年ノ神は多し略

○皇産霊幸魂神社

 陽石側面
 茎頭廻五丈七尺余
 同胴廻三丈九尺余
 亀頭ヨリ根迄弐丈四尺余
 惣根廻弐拾七間九尺余
 水涯ヨリ惣高サ四丈九尺余
 水中壱条六尺余
 乾より艮ニ向
  陰石側面
 水涯ヨリ惣高サ弐丈六尺余
 水中壱丈六尺余
 凡廻三拾間七尺余
 陽石陰石間壱丈九尺余
 艮ヨリ乾ニ向
 川幅三丈三尺余
但 卯方より斜に見処なれば陰陽
共に真を尽さす、就て見るべし

   陽石

    陰石

 我殿の管轄めす日向ノ国諸県郡小林ノ郷、東方村の岩瀬河の川中に奇しき石あり、
女男の隠処の形にて並び立てるさま、やがて図の如し、さるは天地の未成(ハジメ)の時に
成ませる二柱の産霊(ムスビ)の大神は女男の元つ大神にして御霊代なむ、やがて玄牡、
玄牝の形なる事、神典の註釈ともにこゝら見へ、既く下総ノ国人宮負定雄が其をひと川に
集めて、桜木に上せて世に行はる、されば其は悉く唯大形のかたちこそ似通ひつれ、
此神石にくらぶれば一ツ日にいふべき限りにはあらずかし、さて此陽石の根の方には
萱薄杯生茂りて、さながら陰毛の如く、又亀頭口と覚しき処よりは彼万物感陽気とかいへる、
春の頃には必ず水垂り滴落て恰も精液の如く、はた陰石の方はとことはに水したゝり落て、
ともに心ありげにみゆるなどあやしとも奇しともいへば更にて正しく神の造り給へる物
とこそいふべかりけれ、抑小林の郷はしもやがていにしへの夷守(景行天皇紀十八年記)と
見え、又延喜式の兵部諸国器杖の条に、日向国云々亜椰、野後、夷守、真斫等とみえて、
国史式等にも載られて名たかき処なりけり)のさとにて、かの天ノ下に二ツなき二上の櫛触の
高千穂の麓なれば、かかる尊き神石のあらむ事も自然なる理とやいふべからむ、
今般板に彫りて世におほやけになし給へるにつけて、そのよしいささか記し侍るになむ、
かくいふは
              薩摩国殿人
   慶応三年丁卯十二月         関盛長

 陰陽二柱神御由来
日向の高千穂二上山ノ下在る、名に負ふ石瀬河の河上の清く流る其ノ河(小林東方村と
真方村との界)の底津石根ゆ二柱並建しと神髄甚も奇しく天聳り鎮座まします衾易の大神の
御形石(ミカタシロ)はし、掛巻も畏き高皇産霊神、神皇霊産神(古事記神代一巻に古天地
未生之時、於高天ノ原有神者並独神成生而、隠御身矣とある大神等即チ是なり)の
産霊に従りて為成生ものにして、即其ノ御霊代(我カ師平田翁の古文伝に高皇産霊神は
男神にましまして産霊の外ツ事を掌坐し神、産霊神は女神に坐々て産霊の内ツ事をふむ
掌して給ひ定め置かれたる言の多なる中に、古史伝に御年神の御茎形を作りて祭らしめ
給へるも、神の形代なるべく思はれ、又皇産霊大神の事と聞ゆるが、其ノ御霊代は男か易
女を衾の石形なりと彼ノ国に云ひ伝へたりと説れたればなり、亦本居翁の説に世ノ間に有り
とある事は此ノ天地を始めて万の物類も事業も悉くに皆此の二柱の産霊ノ大神に資て
成出るものなり云々、

世に神はしも多に坐でも此ノ神は殊ニ尊く坐々て、産霊の御徳申すも更なれば、有ルか中
にも仰ぎ奉るへく、崇奉るべき神に坐すと諭されたるは、実は然ることにて天の下現世に
生出ぬるは誰しも皆此大神の御恵にあらざるはなし、然れば最も尊み拝奉て太き大御徳を
謝み奉べき態になむ有りける、按に上代には決て某とか御名を称奉て御祀仕奉れる礼事も
ありけむを、中古乱にみだれし世より以来其ノ祭事終に絶果つらめとは云ふものゝ少か遠き
在昔の風遺れるやあらむと所思由あり、そは今も近辺の人々毎年も九月十一日例のまにまに
参詣て共々に酒なと捧奉ることの有るとか、然はあれども斯く尊き大御神としらでは想ひ奉らず、
元来麓よりは一里余も隔り在れは、世にをさをさ知る人なく、誰やし心着ず徒に男易(オバシラ)
石と称へるのみにて等閑に過しを我が学の兄稲留翁は公の命蒙り天保と号し年の初より
此ノ里に折節物せられしが、不意其ノ地を過られけるに見得られて、あはれ此御像石ばかり
世に太(イミ)しく妙に珍き石は有こと無ければ、是なむ疑なく男女の御祖二柱ノ大神の御霊実
なめりと甚く感尊まれ(その折ノ歌に、
  霊幸ふ みやびの神の 御霊ぞと とてる岩木は 見るにゆゝしも)

頓て傍らに鳥居をさへ興しめ、御祀仕奉られしより近キは更なり、遠き堺の衆人殊更に詣来る
こととは成りぬ、今亦公にも聞召れて如此有る妙に奇毘なる神石の在せることを世に普く
流布し給ハむ大御心にもや、此度其ノ図を具に令模、又其ノ伝をも関盛長に令書給ひて板に
摺せるあれは、遠き境とかいひ、はた何くれの障なとにて得も参て来ぬ人にしては、必ス此ノ
一枚をだに見るべきものをや、然あれば今よりなほ神の御稜威は弥益々に天ノ下に輝きつゝ
日に異に真盛に成もと行むこと著しければ最初に其御名をし露顕し奉られし、並穂主が二柱
二ツとも莫き功績にざりける、但し陰処(漢土の古伝より玄牡玄牝是なり)の形如れば女童の
族は可笑気に思ふもあるけれど、其も師の古史伝、神代上一之巻茲に大虚空之中一物生而
其形難言とある史伝の注に、此は実は大空に現れ出たる象の妙に奇しく何とも名付難くかつ
顕露(アラハ)に言ふ可からざる衾易(メヲ)搆合の形状とも見えつらめ、其ノ初めて生出けむ時は
決めて小さく、唯混沌たるのみにて其ノ中の形なと見分つべきやうは非さりけみを、幾千年をか
過行くに随ひてやうやう大きく成もて行きて終に会元易初(メノハジメヲノハジメ)などとも名くbき
形状とは為れるなるべし、

亦伊邪名岐命於其妹伊邪那美命、問曰汝身者如何成、即答云、吾身者成々而不成合処
一処在矣、伊邪那岐命詔曰之、我身者成々而成余之処一処在と、古事記に見えたる
如く、伊邪那岐、伊邪那美命の始て目合(マクハヒ)為し給へる事の正しく明白に載られたると
皆人も知れる事なるが、六人部是香が説に人体に有ゆる処々目鼻耳口を始め皆やごとなき用を
なす物なれば、何劣れりとには非ねど、事に陰処(私云和名抄には陰は玉茎玉門等の通称也と
有りて和名はのせず)はしも奇しき処の極にて、皇産霊大神の霊幸坐して子を生しめ蕃息継べき
態を成すべき料に造給へる処にて有れば、躯中に取ては此処ばかり尊き処なきなりなどいへり、
信に然ることなればなていふことかある、少も憚思ふべきにあらねば、人々参詣て心々に深く
感奉て重く敦く祈奉らむには、などか験のなかるべき、

そは己も人もよく知ることなるが、此ノ神石に隣れる村は他処に比べるに、往古より人民の員
(カズ)専多かりき、是即チ自然御恩頼に因りて継々生子の蕃息ぬる証なればなり、然て右に
称る如く最も霊異しく尊き御霊代を然のみ放奉らむは無礼可畏き事なれば、語相し趣ありて
此地知らす近藤ノ主にも事窺に将同じ心に、其は最善けむ速に可計よと有に就て、此度新に
神の御門を興て、及一ツの舎を経営て拝殿とせむと衆工等に言依して不日に其ノ事成竟たれば
其月の足日を撰て社司等を聚て御祭仕奉にたり、然るを地頭近藤国中主心として皇産霊幸魂
神社と称ふ額(此は近藤主、田中某等と識(コトハアリ)て歴世神の宗原しろし看す神衹伯王に
乞申すされけるを即親筆とり給ふことなかりといへり)を物して献納けるなり、

然れは劣拙己なれど黙之あらで、是等の由縁は固より上ツ代の神典に従り、且世々の博識等の
節ども数々も挙、少想ふ旨をも謹み畏みも誌す
如此いふは里人赤木通園  明治元年戊辰十二月(此は既に別に綴りて置きしを此に出さむは
くだくだしくて如何なれど、はた彼縁起を著さむにも同じ称におつめれは其まま如くかくは
載せたるなり
男女の神石に人々参詣てよめりし歌ども見るたびに 
    くしきものは これそこの 
        神の造りし陰陽の石神
                 敦丘
    天カ下 ふたつともなき 二かみの
        嶽の山の足の 女男の神石
                盛長

上件神社と申す意大略をここに統いはむ、先 神とは記伝に神と申す名ノ義は未タ思ヒ得ず
(旧く説ることゝも皆あたらず)凡て迦微(カミ)とは古への御典等に見えたる天地の諸の神たちを
始めて其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人は更にも云ず鳥獣木草のたぐひ、海山など
其余何にまれ尋常ならず優たる徳のありて、可畏物も迦微とは云なり(優たるとは尊きこと、
善きこと、功しき事等の優たるのみを云に非ず、悪しきもの、奇しきものなとも世に卓て可畏き
をは神と云なり、 

さて人の中の神はまつ掛まくも畏き天皇が御々世にみな神に坐こと申スも更なり、其ハ遠つ神
とも申して、凡人とは遥に遠く尊く可畏く坐ますが故なり、かくて次々にも神なる人、古へも今も
あることなり、又天下にうけバりてこそあらね、一国一里一家の内につきても、ほどほどに神なる
人あるぞかし、さて神代の神たちも多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に神代と
云なり、
又人ならぬ物には雷は常にも鳴神神鳴など云へ更にもいはず、龍・樹霊・狐などのたぐひも
すぐれてあやしき物にて可畏けれは神なり、木霊(コダマ)とは俗にいわゆる天狗にて漢籍に
魑魅など云たぐひの物ぞ、書紀舒明の巻に見えたる天狗は異物なり、又源氏物語などに
天狗こたまと云ることあれは、天狗とは別なるがごとく聞ゆめれど、そは当時世に天狗ともいひ、
木霊とも云るを何となくつらね云るにて、実は一つ物なり、又今俗にこたまと云物は古へ山彦と
云り、これらはべを賜ひ、御頸玉を御倉板挙神と申せしたぐひ、又磐根木株草葉のおく言語し
たぐひなども皆神なり、さて又海山などを神と言ることも多し、そは其御霊の神を言に非ずて
直に其海をも山をもさして云り、此らもいとかしこきものなるがゆえなり)

抑迦微は如此く種々にて貴きもあり賎しきもあり心も行も其様々に随ひとりどりにしあれば
(貴き賎きにも段々多くして、最賎き神の中には徳すくなくて凡人にも負るさへあり、かの狐など
怪き業をなすことはいかにかしこく巧なる人もかけて及ぶべきに非ず、まことに神なれども常に
狗などにすら制せらるばかりの微き獣なるをや、されど然るたぐひのいと賎き神のうへのみ見て
いかなる神といへども、理を以て向ふには可畏きこと無しと思ふは高きいやしき威力のいたく
差ひあることをわきまへざるがことなり) 大方一むきに定めては論ひがたき物になむありける
(割注省略)まして善きも悪しきもいと尊くすぐれたる神たちの御うえにありては、いともいとも妙に
霊(アヤシ)く奇しくなむ坐しませば、さらにひとの小き智(サトリ)以て其理などすへのひとへも
測り知らるべきわざに非ず、ただ其尊きをたふとみ可畏きを畏みてぞあるべき、(割註省略)と
説れたり、亦師の古史伝一巻には、其神と言う名義よりまたしか称へ初たる所以までを実に
委しき考の趣、具に説しめされたり、然れど言長ゆえにさのみは元も引出ねば、其に就て
見るべし、

偖社のこと末世の識者たちの説を聞かねど按に社は舎屋城(ヤシロ)の義にてもあらむ、そは
宮も本御倉屋(ミヤ)なればなり、斯て神の御室(割註略)と云も宮のことなり、亦御殿(ミアラカ)
とも同く宮を云へり、扨宮も社も元は同ながら宮は社の上に言ふ如く、御舎(ミヤ)にて最も尊き
をのみ称ふと内ツ宮外ツ宮の如し、社は出雲の大社といふより小きにも及して弘く称ふ宮と
聞へたり、
師の古史伝龍田比古・龍田比女の神の下に、此の神のこと北畠親房卿の元々集に旧記を引て
正応六年三月二十日、官府社号ヲ改メ官号ヲ授奉リ官幣ニ預ル、二宮同前なり、
依異国降伏ノ御祈祷也、嘉元正遷宮之時増サレ宝殿ヲ作ルト見ユ(割註略)但中昔已来神々
某権現、某大明神など唱へ来るは元儒仏の徒か称初メたる言なるべけれは、其は改て某神社
とのみ称奉て宜しからむかし




   
 二十三 山部 峯嶽丘岡
高千穂峯
 古事記日向之高千穂之久士布流多気ニ作ル、日本書紀日向襲之高千穂峯、又日向櫛日之
高千穂之峯、又日向高千穂櫛触之峯ニ作ル、続日本紀ニ大隅国贈於郡曽之峯、
風土記高茅穂二上峯ニ作ル、 古事記序高千穂嶺と有るも共に霧島峯是也
高千穂は亦ノ名霧島山と云ヒ、此山一つにして嶽幾つも有り、故に嶽毎に名有て、殊に秀で
たる二つありて東嶽を二上峯と云ひ、其を分て指セ呼ハ前在るを矛ノ峯(矛建る故の合なり)
後なるを火常ノ峯(火常に有ゆえの名にして常を気布と云は日向の方言なり)と称ふ、西嶽を
韓国嶽と云ヒ、其他夷守嶽、蛇尾嶽、宍子嶽、新燃嶽、名無樹山、大平山、俎木山、大槻山、
丸岡、突嶔、夜気山、夏樹尾、丸丘、長端山、板山なと呼ぶあり、他郷に渉り甑嶽、白鳥嶽、
飯盛嶽、栗野嶽、大波嶽なと云あり、尚多かれと悉く茲に挙べきにあらねどさて置て、

高千穂は中古智尾とも云、今なほ高尾とも称ふなり、天保の初既に伊地知委安もいはれたれど
高尾とも云ふとは見えず、未誰も心着れさりしことを、按に其は今も常になへて御高尾と称ひ、
又於多加遠佐麻とのみ称へれは更に里謡の如聞なされ、本より高丘は彼ノ東峯と西峯とを指て
のみ称ふ御言にて、弘く亘て呼ふ号にも非る所以なり、上の於は御、下の佐麻は様にて、例の
美称の方言、多加遠は高穂、高保(多くホの仮名に用)高峯、高丘、高峡みな同て、上に引し
智尾も共に高千穂の上中の略言なるへし、穂は遠に訛ること常なり、(高千穂と書たるを
タカチヲと訓み、又高千尾と作成したるも中古より其例多し)

そは伊地知居委安の襲峯考の内に、或曰、知尾名曽於郡ニ在リ、康暦書ニ見ゆ、亦尾と穂ハ
合ず則恐高千穂の遺名ニ非ス也、委安対曰、穂と尾之訛亦久矣、建久八年日向国図田帳
於臼杵郡、書二高千穂一社八町且文保元年十二月二十一日、幕府政所道義公ヲ以テ
諸所地頭ト為シ下文シ亦日向国高智尾荘ト書シ、彼此既訛以行干世是ノ如ク也矣、
可不証ナル不可乎、問者の之ニ服スとあり、上注なり、

又餅原某か古き蔵書の内に、高知尾其外多く今猶唯に高尾と呼る地、謂ゆる韓国嶽の半腹に
あるは古へ専ら高尾と唱へし称の遺せるにもあらむか、(注に山に尾と云へるに二つあり、
一は高き処を云ひ、一つは鳥獣の尾の如く引延たる処を云へり、この尾のことは下も又丘の
下に委く云ふべけれは、ここには大概をいへり)
即ち其辺りを亦気武毛津の波奈とも呼て嶮絶て巌なと聳え、北の下つ方は夏も日影の当こと
更になしと聞くにも、其形は知らるゝを固より其□峨しき辺りには到り得べくもあらぬ処なるが、
其処を俗は鳴雷の令子産育(コオヤシ)所なと云ヒ伝て怖畏しげなる所なりとぞ、由有りげ
なれどもいかなる縁由とも知るべからず、将「けむもつのはな」といふ意も思ひ得ず、

扨皇孫命の天降ませし地は西嶽(韓国を指)ならむ知るべからずといふ説もあれど、其は東ノ嶽
(矛ノ峯、火常峯の事)よりは今は高くして、且衆山の中央なるなといふに拠れるにこそあるなれ、
己レは東峯ノ方にのみ思ひ、決してはあるなり、其由は東嶽も火常ノ峯炎陥さりし当昔は
いかばかり高在けむも知るへきにもあらず、
況して矛ノ峯と火常ノ峯との間は瀬戸尾と云い、上古は峯ノ神社在りて即ち傍らに天ノ井と称ふ
御手洗水の出もあり、今ハ其神社は文暦の炎災に依りて漸々に下の方に遷座して、矛ノ峯の
絶頂も謂ゆる矛のみ建チてはあれども、なべての人其嶽即惟神玉躰の如思奉りて、御高尾上り
御高丘様参りなど称て参詣もの其御矛を拝ことなるが、其嶽実に二タ上にして霊異に造り
建たる容なればなり、亦諺に御高尾参りは一世一度にては足らず二度は過しなど唱て、
一度は強に詣ま欲くは述ふめれとも、春秋よき節よき日ならでは上る事を得ざると云は然ること
なる障なと続きたらむ人に依りては、一度だにえも詣でずて終わるも無に非ずとなり、

さて其詣に就ては先身を忌み浄まはれるなとハ更なり、履物草鞋さえ峯ノ下ツ方もにて新に
踏換、亦御峯を履しものは穢ちを踏ますとて、予め用するなと皆然することにはあれとも、
其ノ内には不意も穢に触し人も交これる故にや、忽に雲霧は動鳴わたりて往先キ分たず
困するのみならず、頓に煩ひ付て、終には峯の半より下れることとも折々ありとか、

然して其御高尾詣には各々心々に石一つ宛持上がりて、捧る倣なるが、挙登る道東西北にも
あれど、共に嶮しけれは身ノ一ツたに行泥はかりなれは、大きは心に任せねは宜程の石をは
見立て、こころままに持て上り納むる事にて、矛ノ建テる周辺は都て其ノ石もて一丈余高く固
積重て有なるが、其ノ内には岩とも呼へきほとの大き石少からず、幾万代を経たらむなといふ
へくもあらぬは元よりにて、己は其処に登り其ノ石の専も大きを親しく見てこそ初て、
千代に八千代を小砂石の岩ほどなりて云々の歌も実にさもとは思ひわたりぬれ

さて其ノ矛は俗に天ノ逆矛と称ふものなりと伝れとも、さには非ず、知紀翁の説に、此の矛の事
を白尾氏ことごとしく名勝考に云われ、紀伝にも由ありげにいはれたれと、此は決して神代の縁
ある物に非ず、
城なる大館晴勝がいへるは、おのれが遠つ祖某は好事の者にて桜島の頂に矛を建置、今に
存れる由聞ゆれは、若くは霧島のも彼が仕業にはあらじかといへる一説なり、

おのれ度々彼峯にのぼりて人々と共に矛のさまを委しく見しに、逆さまに立たる物にあらず、此は真言宗に三鈷とか云ものにて (図) かくさまに物さしがかの炎上の時折損はれて、今は柄のみたてるなりけり、
されは例の性空が時、国主に進めて建立せし物にてあるへしと、襲峯一覧にいはれたり、亦近く文久ノ頃栗原某、東おりなりはへて物し、彼ノ峯に登り矛の柄の形をさへ書して説をたてしを見たれとも、当たれともおぼえねば爰には引出すなん、
彼峯にはおのれも三度なと登りたりしが、一日委しく其ノ矛を見てうつし絵にして置くあり、そは (図)如此面ノ形双方に有り、色は緑青如して銅とも石とも弁へかたく、かにもかくにも近世の物ともは見えず、
図 三鈷 図 逆矛

地中の長サ幾も知れずとはいへとも、さばかり長くは非ずとぞ、其由は文政の頃謂ゆる
霧島山中に仕組居たる木ノ子山の徒、彼ノ峯に登りて矛を動かす(按に椎茸を作れる所業に
おひては潤なくた善くも生出ぬもののよしにて旱続ひては雨をのそむといへとも心のままならぬ
は常にて、鳴呼なる杣子の倫峯に登りて矛を動かせは果して雨降出せる例有りてなるへし)
ことあり、
そは雨を降さむ料にて動すれば然することしばしばなれば、公に洩聞えて其を禁られるるに
就て、小林高原都城(按に御矛は上ノ三郷の堺なれはなり)の郷官出会て矛を動かさざるべく
物せきことあり、当時始めて地中の長見しとほのかに聞けり、然れは斯在ことを以ても矛を猥りに
為するは神等の御心にも違へる証なれば、仮令性空らの所業にもせよ、何者の建しにもせよ、
神の御心に協ひて其に憑籍て坐ますも量は知るへきにあらねば、今更甚に貶めて賤しむべき
物ともおぼえずなむ、

偖古事記 天津日子穂之邇々芸命天之石位を離れ、天之八重多那雲を押分て、伊都之道
別き道別きて、天之浮橋に浮きじまり、そりたたして筑紫の日向の高千穂のくじふる峰に
天降ましき
日本書紀には、日向襲之高千穂峰ニ天降、一書には日向櫛日高千穂峰に降到、又一書ニ
日向ノ襲之高千穂櫛日二上ノ峰ノ天浮橋に到、亦一書に日向襲之高千穂添山峰云々ともあり、
万葉廿に天平勝宝八年午六月十七日、大伴宿禰家持ノ歌に、
ひさかたの あまのとひらき たかちほの たけにあもりし 云々、

古事記伝曰、此ノ山ハ日向ノ国ノ風土記に臼杵ノ郡ノ内知鋪郷ハ天津彦々火ノ迩々杵ノ尊、
天ノ磐座ヲ離レ、天ノ八重雲ヲ橋排シテ、稜威之道別々々而於日向之高千穂二上之峯ニ天降、
時天暗宣昼夜不別、人物失道ヲ、物ノ色難別、於茲土蜘蛛有、名ヲ大鉗ト小鉗ト云、二人ハ
皇孫尊ニ奏言シテ、尊ノ御手ヲ以テ稲千穂ヲ抜キ籾ヲ四方ニ投散為サレバ開晴ヲ得ベシ、
干時大鉗等所奏ノ如ク、千穂稲ヲ撰ヒ籾ヲ投散セバ即天開晴日月照光、因高千穂ノ二上ノ峯
ト云、後ノ人改知穂と号スト見えたり、名ノ意高千穂は此ノ風土記に云るが如くなるべきか、
(其分注ニ或説皇孫ノ命斎庭の穂を御す故に其ノ都に供二染盛ニ一田なる故の名なり、
今も其田の趾ありて、里人不蒔稲と称すとなりと云るは山ノ名には田なく聞ゆ)とのみいはれて
本居翁もさし決られさりしも然ることにて、尚熟く按に千は千々、千千五百、千世、千度などの
千にて唯多きを大方にいふ言、穂は稲穂に限らず木ノ穂、垣穂、鑓ノ穂など言う、秀(ホ)にて
抜出てそり立つ意なり、然れは上に云る如く、此ノ山は幾つも某峯と呼る山ノ員有れば高く
千穂なり峯の意にてもあらむ、然なれは高千穂は総号にも聞え、書紀の日向襲之高千穂槵日
二上ノ峯、又日向襲之高千穂添山ノ峯云々あるなど冠辞にせしにてよく合へり、

世にも山は多くて北ノ郷、北ツ方なる山は謂ゆる球磨山に接て長く広く連山なれとも、唯に
波濤ノ如く壟立たる形にて、一つも名に称ふほどの山は更に非るに、此高千穂山は今こそ
日隅ノ国の堺にはあれ、太古日向一国なりし当時は日向国の真中央なりしが、元より群山
には遠く放れ、僅か十里余方に跨りて霊異(クシビ)に若干も巓衆き山なればなり、大凡山ノ名
は打見たる形より負へるぞ、本よりにて彼風土記の如、其ノ山に於て云々の事ありしより負しと
しては物遠きに似たればかくはいふなり、久士布流は霊異(クシ)ふるにて、書紀に槵日とも
あると同じ(槵は皆借字なり)布流と備とは同じ言の活用けるなりと本居翁のいはれたる如く
なるべし、
 
霧島の名義は此山殊に霧深所なれば然称ひ慣しならむ、島は方域をいふ名なり、八田翁云、
此霧島に属る諸郷はしも名高き霧深の地にて朝夕には只海原なして、何処も見え別ぬなり、
かの峯のみ独中央に浮出てける其名に負ふけしきなりけり、神代にはましていかになりさむ
思ひやるべしといはれたり、多気は嶽ノ字の意にて高き山をいへり、字に嶽は衆山之宗高メ而
尊者也、説文に峯は山の耑(ミネ)也、玉扁に山ノ尖なりとあり、

扨国柱翁の名勝考云、此地今日向大隅国之境山半ニ在、東ハ日向諸県郡ニ属、西ハ
大隅国曽於郡ニ属、郡々二上者此山二峯突峭ス、東ハ矛ノ峯(諸県郡ニ属す)と号シ
絶頂ニ矛ヲ建、西ハ火気布峯(曽於郡ニ属ス)ト号シ即二上之一峯也、火常ニ炎、後世終ニ
陥凹となる、今俗に其火坑ト呼び、御鉢と称す、其状空豁邃深目下数百丈、人ノ其上辺
馬背の如く行足甚危慄、既ニ又数険ヲ歴、則矛ノ峯なり
 
此西峯と東峯との間を瀬田尾と云、昔時は霧島神社茲に在しかとも、度々炎上して峯崩れ
岡陥りたれは、神社をは今の地に遷座なし奉じと云、さて瀬田尾は瀬戸尾とも書たれは
迫門丘(セトオ)の意成へし、
続紀桓武帝延暦七年七月巳、西太宰府言ス、去ル三月四日戌時、当二大隅国贈於郡曽の
峯上ニ一火災大ニ熾ル響如ク雷ノ動及び、亥ノ時火光稍止テ唯黒煙ヲ見ル、後砂峯ノ下
五六里ニ降ス、沙石委ク二尺計積ル、其色黒シ、凡霧島西峯炎の事続紀に載る所国史に
見得たる始なり、

其社殿に記ス処は仁安二年より起れり、後又文暦元年十二月廿八日の炎より大なるはなし、
此時社宇皆焼尽すと見へたり、此レ四條天皇甲午の歳なり、此後久く熄て又天文廿三年に
至りて炎(天文廿四年速改元弘治、此年後奈良天皇乙卯歳にて加賀国白山又炎たり)、
夫より又永禄九年九月九日炎之、人多く焚死す(此正親町天皇丙子歳なり、天下大に乱る)、
天正四年より同六年に至り又炎、慶長三年より五年に至り又炎(三年は後陽成天皇戊戌年なり、
此年豊太閤死去、五年関ヶ原合戦なり)同十八年より翌年まて炎(十八年は後水之尾天皇六年
丑歳なり、十九年には諸国地震なり)又元和三年より翌年に至りて炎(三年が丁巳、
慶長十九年より三年目なり)又寛永十四年丁丑より翌年に至りて炎(此年肥前島原兵乱)
又万治二年巳亥正月より寛文元年十二月に至りて炎(是後西天皇辛丑年にて皇宮炎上す)
又同二年八月より同四年三月に至りて炎(和漢合運云、寛文弐年十月大隅国大地震、
海成陸正に之をいうならん)

又享保元年九月廿六日炎(此時東霧島社、狭野社、瀬戸尾社、神徳院及高原高崎小林郷等
民屋山林皆焚たり)同二年丁酉三日炎(俗ニ新燃と云、此時錫杖院及管下民居凡諸県郡
諸邑田園前後被災者十三万六千三百区云り 年江戸大火)又明和八年辛卯七月より翌年
壬辰に至りて炎(此年江戸大火)又享保元年より此歳に至り大に火を発して連日熄まず、
岩石化して□となり虚空より堕ち沙石稃を簸るが如く灰燼雨を降らすに似たり、又昼にして
夜の如く行客路を失ひ、人々相比ひて筵を載せて其圧傷を遮防けり、数里の間田畝を埋没し
草木焦枯る、皆人の親しく視る所なり、其往昔の大勢亦推て察すべし

襲峯一覧云(八田知紀主著)記伝に霧島の方も峯二つありて二上也、すへて古へに二上と
いへるは皆峯二ある山なり、但高千穂の二上といふもの、古への違いあることなれど、実地を
踏まぬ人は知かたきなり、さるは二上ハ此上二峯突峭、東矛峯ト号シ絶頂ニ矛を建、
西火気布即ち二上之一峯也、火常炎後世終陥凹、今俗ニ其火坑ヲ御鉢ト称云々とある此レ
古の二上也、さるを其二上の一峯炎陥て火坑となし後は、かの矛の峯(東嶽なり)と韓国嶽
(西嶽なり)との二峯相対して二上とは成りしなり(此東西二上の間直径一里なり)、
さて又韓国嶽の半服はかりに大波の池と云あり、即東西三百間、南北二百間云々といへり、
此大波の池も本は一の峯にて上古の炎址んれは、それいまだ陥ざりしほどには韓国嶽と並び
立て二上なりけむ事疑なし、されは太古の時には二上と云もの東西二所にありて、殊更に作り
立たらむやうに二ツ宛添ひ立るより、曽波里の山てふ義なるべくおほゆ云々、又韓国嶽の
頂も北ノ方炎陥て火坑となりたり、此嶽よりは八町はかりも高けれは、未だ陥ざりし前には
いかはかり高く大きかりけむも知るへからず、又凡ての山の形もて考に、此韓国嶽中央にして
いと高くみゆれは皇孫天降の地は是なりけむともしられず、又此峯と矛峯との中間に新燃嶽と
云あり、こは低くしてことなることもなけれど、今になほ火のなごりありと見ゆめりとあり

亦其総論に掛巻も畏き皇孫命天降坐ましし日向の襲之高千穂の二上峯は即今の霧島嶽なる
ことうべなしざるを、日向風土記の説によりて古事記伝に、かの臼杵郡なる知鋪郷の山をしも
共に天降の地也と決られ、さて皇孫命はじめにかの知鋪山に下り着給ひ、夫より霧島の方へ
移幸しなるべくいわれしより、平田氏の古史集成にもさる筋には立られしなり、されどかの翁
たちも皆其実地をは不見す、只白雲の余所にのみしてものせられしからに、かくおほほしきくまも
ありて思ひ違へられけむうべなりけり、さあれ此山の独突出て奇麗なる事一たひ正月に
打仰けらたらむには、直にこれと思ひ決めらるべかりしを、かへすがへすも口惜きわざなりけり、

さて国々の風土記と云もの翁達もいはれしやうに、はやくより誤り伝し事もあるべく、又当時の
さかしら説も交るへけれは、すべては信かたき物なる事固よりなれど、猶暫く其説により
なむには、かの天降ましし時、天暗冥昼夜不別云々、如大鉗等所奏搓(抜)二千穂稲為レ籾
投散、即チ天開晴日月照光、因曰二高千穂二上峯ト一後ノ人改テ号二知鋪一とあるも即
我霧島に付ての古事なりけむを、臼杵郡の方に誤伝へし成べし、そハ右の文に後人改号
知鋪とある先いかがなるか、上にかの天暗冥昼夜不別とあるは、やがて霧島の霧深きに
因ありて聞之又稲穂の縁も正しく此峯にあり、

殊には此の霧島の事続日本紀大隅国贈於郡曽の峯と見え、又長門本平家物語に霧島の事を
日本最初の峯といへるなと、すべて天降の地のまきれなき証なりと思はれ、はた霧島の末社
なる税所祠は今の税所氏か遠ツ祖、左少将藤原篤如の霊を崇めしにて、そはかの篤如ぬし
治安年中大隅国に下向ありて高千穂神税の事を掌られし事、いと正なる由縁ありて皆知れるか
如し、此高千穂神社をしも朝廷より然格別に崇敬給ひしにても、当時天降の地の著明かりし
事を思ひ知へし、
さてかの後人改号知鋪の言はかへすがへすいぶかしきなり、そは実に皇孫命天降の地也と
伝へて稲穂の縁より出し、地名ならむには後人私に改めて物とほき知鋪の仮字など用ゆへきに
あらず、かの浪速を難波、盾津を蓼津と訛れるたぐひにはあらで、こは後人殊更に改めたりと
せる、甚いかが也、是又其伝の正しからざる一証にぞ有ける、

さて又此霧島に属る諸郷はしも名高き霧深の地にて、朝夕には只海原なしていづこも見え
分ぬなり、かの峯のみ独中天に浮出てげに其名に負ふけしなりけり、神代にはましていかに
なりけむ思ひやるへし、又山中に自然生の稲今にありて、昔より不蒔苗と云伝へたるが、
其陸稲の一種世に限りなくほいこりて年々野岡に作り出る事おひただしきを、今はそれにも
種々ありて、其上品なるは水穂にもおさおさ劣らすといふなれは、これはたかの稲穂の縁正しき
証ならすやといはれたり、みな論れたるが如し、

又白尾氏云、臼杵郡なる高千穂の方は夫々の名にそ設けたれ、其山むげに凡山にして更に
霧島の霊山と日を同じても論ふへきにあらず云々、そは日本第一の旧跡二上峯と称し
二神明神社を斎ふかく連れる層巒共皆小さく壟立たるにても一ツも高嶽らしき峯は見えす、
まして同じ所に槵触と云も両所にありて、又二上峯なと別所に分ち称ふこと全く後世の偽称に
して云々、
又此地に伊弉諾尊誕生の窟、迩々杵尊、火々出見尊の山陵なと云伝しがある、弥云に足らざる
ものなり云々、こはおのれ殊更に彼処に見に物して初めてその山丘壟如き小さき茂山なるに
驚て、疑なく古の高千穂峯にあらざる証拠を得つれは、記伝の違へるをも弁へ、後の疑ヒも
明らめなむとて、かくはものしおくになむ云々ともあけつらいおかれしなり

此より本書に、按に本居翁の古へ二上といへるは皆二つある山なりと思はれしは記伝に見え、
襲峯一覧にも引れてさることなるが、彼ノ翁等も此山を譬バ霧島とハ呼ばず、抑高千穂と
云ヒ又智尾、又高尾とも唱ふことをハ慥に知られ、且総ての山ノ容高千穂如く霊異なるは
更なり、二上にて添山ともいうべき山形を目近く見られ、将知鋪郷の方なるは郡山の中に
ありて、二上槵触なと名のみありて此と秀たる山にあらず、元より二峯ある所にもあらさる
なとを共に比べ見られたらむには、いかてかさは疑ひ混ハれまし物を、かかるに今ハよし
大凡の人々も思ひたかひてありしを、平田大人も終に霧島の方に落着られし趣、古道大意に
見え、はた今年明治二年春、彼ノ八田翁をはじめ樺山資雄、田原篤宲なとふりはへて彼ノ
臼杵郡の地を見に物せられしが、その帰りさには此邑を過られたる折、己が許にも一夜は
宿め参らせて、まずその山のことより問ひませしか、果して上にいへりし如くにて、取にも
足らぬ事のよし聞くも、元より名と実との違ひありしなればなりけり、されば知紀翁こたび
其発途の折の歌に
 高千穂の 二上山の 二たたびは
     ことやみぬへき 旅にやあらぬ
とよみおかれしが、如今よりは彼山との論は已に止みなむは、まのあたりにこそ、かくも右に
引ることとも照し考見て、皇孫尊の始めて天降坐しし地は我か高尾(キリシマ)なることを思ひ
決へきものぞよ、

扨此皇孫命の天降らししことは更なり、其前よりも度々天降の神等多くありて、又天上りし神等
上にも引て云えたりし如く、天忍雲根神従後小橋(後小橋とは彼ノ火常峯の事ならむ)上りき
云々あるなと其外幾柱も天に上りし趣は正しき御紀に見えたるなるが、心をそき脩には不審
思ふもあるべけれど、そは本居翁の玉鉾百首に「あやしきをあらしといふは此の間のあやしき
知らぬ癡(愚)心かも」とよまれしもさることにて、今の世にもたまたま壟りの事件あるを以ても
悟るへきものになむ、同じ玉ほこ百種に「いやしけど雷樹霊狐虎龍のたぐいも神の片端、
又「あやしきはこれの天地うべならべや、神代は殊にあやしくありけむ」なとの歌もあるおや

按に平田大人の述懐の歌に「せゝろきに ひそめるたつの 雲をおこし 天にかけらむ 時は
きにけり」ともよミおかれたるか、俄に速風起りて太く烈しき時は必ス龍上りといふものならむと
談合るに、果して其処に昔より在りし巌の無くなり、或ハ彼処に久しく在りし朽木が其雨風より
頓に見えずなりぬること有りて、此は化てありしか本の龍に変りて上りたるものならむといえるハ、
語り継てもあることが、

此郷北西方村深草といふ所の畠の畝より龍上りせしことあり、そは己も凡一里半計りより
見たるが、纔一町程より親しく看しもの、野辺某を始、其外数にて語、其辺は忽に雲風烈しく
起りたれは、元より快晴白昼のことなれども、尾先其外の形は即チ画にある龍を見る如くして、
ひらりひらりとして雲井遥に上りしとそ、頭の方は尚雲に包まれてよくは見えわかたず、
今年明治四年十一月六日辰ノ日未刻。加久藤西郷道本淵より砂か水か霧とも不分、
鳴動して川上の方に吹上行くもの即て薄雲となる。其色川霧よりも少し赤みありと見え、
其中に黒き真ありと覚しくて、中天に、向ひ凡東南ノ方斜に頭をなして大空三十町余りも上り、
夫より又東北ノ方をさして遥に登り後は大空と一つになりて見えずなりにける、同所橋口某なと
其雲六十間程の所に見、後は百間位真上に見る者多かりしが、其上天する姿長一町計と見え、
同所助右衛門、善四郎と云者は二丁半計りより其鳴動に驚き走出見けるに、日影さしながら
白旗を振が如くして登行し、鱗の形さへ見え頭は雲に包まれ見分けず、然れとも頭にて雲を
右廻りに巻登る、尾ハ左廻右廻にはね廻りて登天せしとぞ、此は加久藤上野坦介か知らせ
おこせたる書をいと約めて抜出せるなり


さて此山の近辺自然生の稲今にありて、此を昔より不蒔稲と云伝tる説ともは既に上にも挙て、
げにさることなるが近く天保十五年の九月、我か郷東方邑赤木屋敷の仁八と云もの一日
野方に出しが、不意茅に稲穂の出たるを見得て寄異しくも思ひつゝ、又人にも見すへく思ひ、
とりて即其茅一株を堀取り持帰りて彼レがせむさいに移植しかば、且疑ひかつ怪しみ、辺の
人々は更なり、やや遠きよりもことさらに見に来る人多かりしとそ、斯て翌年又其を蒔ほとこし
けるに沢(多)に蔓延れるまゝとりとり植試るに其位殊に善けれは、陸田種子等種々の中にも
是なむいたく勝れると称ひあへりて、此郷は更にもいはす、遠きわたりまて広こりて今に茅稲、
又茅葉稲、又茅ノ穂稲とも名に呼ぶなり、さるは固より常の陸稲の葉とは異なるやうなるが、
茅の葉に少も違はぬもの、時々出来ると聞ゆれはここに載つ

偖此霧島山は(其嶽も大概)半服より頂の方は総て赤焼石すずれて木草不生とはいへとも、
岩の間々に至る迄躑躅こゝらは生たり、其葉小さく枝短くして、花太く其色種々ありて種類
異れり、是を即霧島躑躅と呼び、又霧島さつきとも呼び世に名高く、田代清秋歌あり、そは
  秋ならぬ 霧島山の 岩つゝし  
     紅葉々よりも 照りまさるなり
下方には雑木の松・杉・梅・檜・槻・楠・樫・柏・桑・榎・賢木・赤木・朴・白檀。・其余挙ルに
遑あらす、但繁茂し鳥獣集レ焉、且此山中茸類は椎茸、松茸、香茸其穂か多く有り、 
又木炭は元より、樟脳、硫黄、明礬、芋、山百合(カタクリとも云)和人参など年来是を採り
鬻ぐもの少なからず、扨上に挙ぐべきを思漏せし故又云う、櫟(クヌギ、)は大木多し、
此実は餅に交ぜ又焼酎に造りて可也と云り、楊梅(医書ニ云、温也毒なし湯を上腸胃を通し
痰を去り食を消す)榧(カヤ、平にして毒なし痔治し虫をさり、食を消し筋骨を助け目を明にす)

高千穂山ノ内
韓国嶽
此嶽亦ノ名雪ノ嶽ともいひ、西嶽或箭筈とも称ふ、名勝考ニ曰、此嶽
は小林・飯野。曽於郡に属り此嶽極て高し、中領より上は草木なく白石、焦土、頽垂(クズレ)
て遠く望めは積雪の如し、頂の半腹は深谷の池にて大波池と称す、東西三百間、南北二百間、
其湖水決々として洪涛(オオナミ)を起す故に名とす、土俗云、是神龍の蟠潜せる所なりと、
此ノ頂に登るもの噪喧をなし、或は赤色の帨布(テヌグイ)を摩き飄す事を戒む、若犯すもの
あれば神瀷雲を起し霧を覆して風雨暴疾に及び、愕然て山下に下れば却テ白日晴天となる事
往々ありと云、按に師古云深州ノ界湫水有、清徹汚濁ヲ不容、喧汗毎ニ雲雨ヲ興、土俗元昇
此祈祷レ之龍之所居也と即是ならむ、按に同じく山中小林郷の内に蛇谷といふ所あるは、
大蛇の居る故の名ならむか、そは大波ノ池に限るにも非るかし、中島直広の歌
霧島の 御池の氷 解にけり ひそめるたつも はるをしるらむ

名義韓国嶽は霧島山中にて第一高くして炎陥らさりし当昔は殊に高かりしは著しけれは唐国
まても見ゆる峯にて、唐土見(カラクニミ)嶽なりと唱伝へ、二三を約れは二に反るによりて
然にも有らむかと思い居りしに、頼庸翁のいはるゝには韓国は白尾国柱翁より、かく始られし
ならむと思ふ由は、山田清安翁の考にも唐添挨嚢抄に引たる日向風土記韓槵生村の説を
出し、諸国一宮廻詣記に韓栗嶽としも記せるなと、試に正し拠なりと思ひしが、己公事ありて
此嶽の下なる踊郷横瀬村に到て土俗の信を聞くに、おしなべて韓栗嶽とは唱ふれども一人も
韓国嶽といふ者なし、
されば国柱翁の説は御紀の膐宍(リョジク)之空国より出し附会の言なるべしといはれしに就て、
然とも己が韓国嶽の説は最長けれはここには其大略をいふなりといはれたるに就て、尚按に
此嶽小林に属る北東の山懐を栗生(クリハエ)と呼る処ありて、そは栗の大木勝に生立る故の
名なりと聞は由ありげなれば、然ることにもあらむか、その説を具に聞きかまほしきことなり、

神名帳に大隅国曽於郡韓国宇豆峯神社とあるは今国分郷上井村なる韓国神社の事なるへく
思はるゝが、上古より今ノ地に宮敷坐せしことにや、若は太古には此韓国嶽に鎮座せしを
霧島岑神社の例にて震火ノ料に中昔遷座ませえしことはあらむか、然なれば嶽号は韓国宇豆峯
なるへし、かにかくに峯とあるを以て思ふに、抑麓の神社としては符(アワ)さるに似たれは試に
いふなり、彼ノ社殿なとを問ひ聞もし猶よく思ひたくして、
さて改めてむことにこそ、但し韓国嶽とは此辺(吉松辺より高原辺を云)の人々は今にもしか
唱ひ、尚正保元禄年間の諸書にも加良国嶽と見えたれは、国柱翁より然書始られしものとも
思はれす、そは国柱翁は享和前後の人なりべければなり、

偖雪嶽の名は白尾氏説し如く、白石焦土頽れて遠目には積雪の如く、はた雪も非時に
消兼に見ゆる故ならむ、西嶽とは東矛の嶽に対へ云ふなり、箭筈嶽とは頂に筈の如く
小林辺より仰なむには (図)如此形なれば呼ぶならむ、さて此頂にも矛建テり、
其は (図)如此状にて廻り五寸位、長サ壱尺五寸計も地上には出て、元より緑青なして
あれば何金の質とも弁へかたしとぞ、此縁由は知るべからねと其辺(飯野より吉松など
をさす)の人々は此処にも参詣て此を拝む、凡て御高尾参(メリ)と唱と、但し頂の炎穿跡を
大鉢と唱ひ、西ノ片つ片の虚を平鉢と呼り、其は火常ノ峯の火坑を御鉢と称と同じくて鉢は
植物鉢も又器の鉢も僧尼の叩くものにも鉢といふあり、此皆中虚なるをいふ名なるべし、
偖王子ノ尾と呼ぶ処なり、此は王子神社飯野ノ境に在て其辺なれは如此は称ふなり、
又水ノ頭といふ名は焼山の半服より水出るにより其水ノ頭の意なるへし

高千穂山ノ内
夷守嶽  亦雛守に作る
此山は専ら小林の細野村に隷けり、東嶽西嶽との間稍北に突き立たる一峰なり、諸木
繁茂す、名義は夷守といふ地にして即雛守神社ありし故の名なり、此嶽半腹に今宮ノ宇登
(宇登はツロの約となれは宇津呂なり、其処はいささか平地にして虚なる処なり、
当昔宮あるを以て宮の宇登とはいへりしなるへし)と称所夷守神社の旧跡是也、
伝曰景行天皇到夷守之貶干今地遷座玉ふ云々(委しくは神社の下にいふべし)、
其嶽の足に宮原杉林あり。

高千穂山ノ内  
蛇尾(ジャオ)嶽 岩下
此は又名家嶽とも云ひ東ノ峯に距二十町許戌亥に在りて諸木生繁れり、南ノ山腹霧島岑神社
旧跡にて稍平地なり、偖蛇尾とは如何なる所以にて名たるにや詳ならねと、此ノ山は矛の峯
の北ツ方に尾を異に長く引延たる山なれは蛇ノ尾の意にもあらむ、家嶽の意は半腹より
上ノ状舎屋の形にも似たる山なれば然呼るならむ、頓(ヤガテ)其辺に岩下と呼る処あるは、
大なる岩有故の名也

高千穂山ノ内
 宍子ノ嶽   従山腹水出
此は矛峯と韓国嶽との間に有て、元禄年間縄引帳に一里とある下ニ左右須焉に、但し志々戸ノ
嶽より小林曽於郡飯野踊四方界韓国嶽迄見えたり、然るを模し絵にはシヽトノ嶽に作れど、其ハ
志々戸と有る戸ノ字を止と訓て、止とハ書誤れること決なし、古より今に志々古とのみ呼来れる
なればなり、扨名ノ義東ノ方より見たらむには猪ノ子の居たる状によくも似たれは名には負けむ、
東西北ノ方雑木生茂れとも南ノ方は生木無くして赤崩為せり、然れは南辺の人は今赤崩
(アカグエ)とも呼とぞ、扨此宍子嶽の北ノ半腹黒須々と云ところより水流出て次ノ焼山より出る
水と流合ひ、末は岩瀬河に加はるなり、亦同嶽の東仲太川原といふ処より水流れ出て山中を
東に流れ末高原郷に到り濁川と呼り、其を元より田地に壅掛てありしが、近年頃高千穂新田
用水となれり

高千穂山ノ内
新燃嶽  旧名三ノ山又両部池
此は襲山郷の曽於郡ノ境に有て、元禄縄曳帳曽於郡境縄ノ下に此処より子ノ方二十四五間程
に両部ノ池有りとして旧き図には両部ノ池有ル処に三ノ山見ゆ、按に当時三ノ山と呼びしは頂
三つに別たる如き一つの山有けむを三ノ山とはは称へりしならむ、然るを中を放て双方なる頂は
後に炎陥て池と変りたるは、其形を以ても明かりき、其池南なるを金剛界、北在るを胎蔵界と
名つけ二つを指て両部ノ池とは呼びしを享保元年亦其両の池の間なる山炎出、そは諸書ニ
享保元年九月廿九日に金胎両部ノ池より燃出云々有て、普く人ノ知れる処なるが、享保ノ前
まては猶三ツ山の号ありしと覚ゆる由あり、然るを如此も三ツに派たる頂は漸々に皆燃穿たる
に就ては終に三ノ山の名は亡なむとする、折しも近く文政六年癸未十月二十日其ノ池の西ノ隅
より頓に炎出たるなり、然れとも山ノ形は高く遺りて有故に新燃嶽とは呼なり、但し文政度より
今になほ火気断ずとなり、

高千穂山ノ内
奈々志喜山
名ノ義は名無樹山なり、其は名ノ無き木有を以て名に負たるものなり、斯て其名無木とは
檜に似つかはしけれとも檜には非ずて、其名知る者なしとぞ、其は甚も古木なるが枝葉
弥栄にさかえて其ノ本はし五六畦余りは、いかなる長き雪雨にすら少しも雫の漏落てふこと
更になけれは、床ノ下の土の色の如くとぞ、茲を以ても其大木なるを繁れることの異なるを
知るべきなり、然れは此山に物する人の宜き宿所の状なれど、一夜だに泊れることは
努得為(ユメエセズ)となり、其由は必ず怪しき態の有ればなりとか、中昔数多の杣人屯来て
其樹を伐らむとすることありしが、果して奇異なることども有りて、此は神木なりと云て太く
畏みさて措きぬとこそ伝云ふなれ、此は決て葉守ノ神の坐ますこと明し、其樹の下には
少の木ノ葉だに無く凡ならざる故に、俗は天狗の棲処なめりいへり、其処に到見むと欲して
尋求めとも終には到着くことを得ざる者あり、適々不意行当りし人無に非ずて、予は親しく
到り着し二人より聞得て如此は記せるなり、但し記伝に云々其外あやしき樹ともくさくさあり
と挙られたるは右の樹などのことなるべし

高千穂山ノ内
大平ら山  附 水ノ出口
此は上にもいへる縄引帳ノ内に子丑ノ間に当り小林ノ内大多伊羅山二十五町程に見ると
有是なり、此山は谷々は雑木繁たれと野丘にして頂は平なれば大平山とは呼ぶならむ、
偖此ノ山東ノ半腹枯れ矛の本と云所より水流れ出て末ハ上に述し仲太河原の水と滑曽口
にて流会て後、高原高千穂新田用水になるなり

高千穂山ノ内
宇津伎我山
此山は夷守嶽の未申に隣りて諸木生繁をり、名義未考得す、若くハ大槻が山にてもあらむか
と思ふ由あり、そは今ハ大槻と呼へき樹は其処には非しといへとも、古昔の事は知へからぬ
は元よりにて、槻ハ最も寡き樹なるが接(ツケ)山には今も殊に大なる槻有る所ありと
いへはなり

高千穂山ノ内
丸岡
此山は夷守嶽巽に隣て北ツ方は雑木繁茂し、南ノ方ハ野岡にして其頂きの容ち丸ければ
然は呼るなり、此山上に紫池と呼ふあり、扨岡は字彙に山ノ背テ岡ト曰とあり

高千穂山ノ内
突嶔
此峯は矛ノ峯と夷守嶽との間に在て、南ノ方は佐奴女里(サヌメリ)の宇止と云ひ、北ノ方は
古乃宇止(コノウト)と云ふ、其間なる馬の背の如き中に別て高く耑(トガ)りて何処よりも信に
トツキムとも云ふべく見え、実は大なる巌にて危き所なれは、薩男の輩だすらに登て通り
得へきは稀なりとぞ、扨名義突ハ滑地突出ル皃也、嶔ハ高、聳也、字ノ如くにて山伏なとの
額に当てる物をトツキンといふも上に耑り在る故の名にて、尖に高き処をトツキンとは常呼
なれは、此処も然云ひ慣へるならむ、サヌメリノウトは猿ヌメリの意にや、其は猿すら滑ぬへき
とこなめなる処なればなり、ウトは既に宮ノ宇止の下に説し如くウツラの約なり、コノウトは
小き野ある故の名なり

扨亦別所にもトツキン石と云ふあり、謂ゆる霧島躑躅太く生副、大きなる石にて差出たり、
縄曳帳に此縄頭小林曽於郡境トッキン石有、左は曽於郡ノ内あさみかくぼ大たを、右ハ
小林ノ内中棚鹿倉とあり、因みに云ふ、右のトツキム石より六町余乾に中り、笈掛石
(オヒカケイシ)と呼あり、図にはオカケ石と作れども、此はヒの字脱たるにてオヒカケなるべし、
今おひかけと呼び又縄曳帳にも此縄頭左曽於郡ノ内に小岡ノ峠たたみ経といふ石塚あり、
右に小林ノ内おいかけと云石塚有りと見ゆれはなり、名義思ひ得ねとも此所より二町許の
処に笈掛東ノ門といふ所なとあれは、古昔峯ノ神社に隣る所なるかし、参詣る廻国の
六十六部てふもの笈を掛置く所より自然名しなる屁ければ此も決て笈掛石ならむ、

高千穂山ノ内
夜気山  山内水出
此山は韓国嶽の東ノ半腹に接きて、其間に池あり琵琶池是なり、夜気てふ名義は詳ならねど、
彼韓国嶽の頂太古に燃出たる当時、最近く隣れる山故に焼けたるは著しくて今も頭の方は
草木不生焼石而已見えたれは、焼ケ山なるべし、如此て此山東ノ半腹より水涌出、上に云る
宍子嶽の半腹黒焉より出る水と流合ひ山中を凡一里許も流るといへとも、何所となく水涸て
見えず成るを二町余を経、其水と覚しくて亦水流出なり、彼是を潜水と呼ふとぞ、此水も末には
謂ゆる岩瀬河に加はるなり

高千穂山ノ内
夏樹尾
此は新燃嶽の北に隣みたり、名義は夏木勝なる所以に呼るならむしかすかに間々赤松と
岩餅ノ木生たりとなり、尾とは記伝に凡て山に尾と云へるに二つあり、一ツには高き所を云ふ、
谿八谷峡八尾(タニヤタニ・ヲヤオ)、これ谷に対へて云へれは峡は高き所なること知るへし、
古書に高き処を云袁に多く峡字を用ひたり、山ノ間を云意には非ず、尾は借字なり、
さて此峡八尾の袁を書紀には丘と書れたり、此ノ字も袁と云に多く用ひたり)、高山ノ
尾上之坂御尾(オノエサカミオ)万葉に向峯八峯峯之上峯ノ字を書けるは高き処なるを以てなり
然れとも袁は必しも峯には限らず、オノエといへは峯のことと思はくはしからず云々いはれたり)
なと亦岡の袁(袁加は高き処を袁と云に加を添へたる名にて加はすみか、ありかなとの加と同く
処といふ意なり、坂の加も同じ、されは丘ノ字なと袁にも加にも通はし用ひたり、万葉七に
向ツ岡とも書り)、これら皆高き所を指て云るなり(尾と書るは皆借字なり)、今一つは尾頸の
尾にて鳥獣なとの尾も同く山の裔(スソ、裾)の引延たる処を云り(山には腹とも足とも常に云、
記中に御番登なともある類にて尾とも云ふなり)と説れたる如きなり

高千穂山ノ内
丸丘
此丸丘韓国嶽艮の尾妻とも云べき処にありて、諸木生繁り其形円ければ然称へることしる、
丘の意は上に云がごとし

高千穂山ノ内
板山  山腰より水出
此は夷守嶽の東半腹に接き余り小高くは非されとも、三方深谷廻りて離、艮に長く差出たる
山なり、名義思得されとも往昔多くの杣人を集て導板(ワキイタ)を為せしよりの名にあるむと
或人いへり、然もあらむ、斯て東ノ山腰より水流出て夷守宇田面の田地凡八町余の用水と
成るなり

高千穂山ノ内
長端山
此山は瀬戸尾越洗出より戌の方、襲山郷の堺に隣りて長き端山なり故長端山とは呼ぶなり、
此ノ郷は東ノ峯、西ノ峯の絶頂に係り、其ノ間一里許も有て北南にとりても幾ばくもあらぬを
如此まて名に負ふ丘少なからず、他郷に渉りては尚多く在るは上にも云ひしかごとくなり、
扨高千穂峯のことは田中頼庸翁の高千穂山ノ考に論るへきよしなれは、それに就てその
高千穂山の衆峯にして霊異なることどもを察るべきものなり、殊に亦霧島山に抑鎮まり坐す
神界のことは、同山中の明礬製れる所に文化の頃使はれたる善五郎か其女仙の許に折々
往通て仕奉りし正しき物語にて明なり、其由は八田翁の書取られし幽郷真語といふものに
委曲なれは、そを見て此顕世幽世のさかひ別なる故由を弁へ、又いまし神世の神々の
千万年長存大まし坐す理をも悟り、元より御許し無き人の外には目には見えまさねと、
この霧島山には其神仙の多く坐ますなれは、兼て尊み畏むべき事も知り給かしと思ふまま
いささかしるしおくになむ


   二十四 池之部
 南西方内韓国嶽東山上
琵琶池 縦五十間東西、横廿五間南北
 凡周 
名義 其形琵琶に髣髴(サモニタ)れは名たること疑なし、扨此のビハ池下にある紫池、
金剛界、胎蔵界ノ池を襲峯一欄には飯野亦曽於郡踊郷に在と載られたるは
思ひ違へられしなり

 細野村ノ内夷守嶽南山上
小波多池 亦小畑とも書り
 凡
名義未考得、若ハ小波の池にてあらむか、そは即て隣れる大波の池に対へえ小波池なりしを、
他に写し誤りし後は字音に小波池と云ふことと成たることにもあらん、試しにいふのみ、
尤大波池にくらぶれは小くはあれとも其湖水は洪々たり

 右同所丸岡山上
柴池 又志婆 泉水とも云ふ
  凡
志婆ノ名義は池ノ隅より汀迄都て笹柴のみ生て、池ノ中浅き所々も同じく柴生繁り有れは
柴池なるへし、如此て中島なと幾つもありて前載せのやうなれは泉水とも呼るか

 同右所矛ノ峯亥ノ方山上
両部池 西ヲ金剛界、東ヲ胎蔵界と称て二つとす
 凡周
名義は例の仏好ノ徒名たるかにて、其由知るへからす、此池稍連りては有れども西と東に
両の池の形なせれは両部とは呼るならむ、西なるを金剛界、東有るを胎蔵界と呼ぶとそ、
此は往昔より燃址と思はるを、享保元年にも炎、又近く文政六年未十二月廿日燃出て
以来、今も池ノ西の隅猶燃る故に新燃池とも云ふなり

 右同所
加良池 但し同所に池二つ有り、上ノ加良池、下ノ加良池と云
 凡周
名義は水の常に絶るといふ事は更に無れども、水涸れ状なる故虚池(カライケ)ならむ
 韓国嶽の山下
木ノ山池
 凡
名義未思得す、元より小野山と云端山の山中にあり、水溢て少は田地の用水と成れり
 夷守嶽山下
星ケ平池
 凡周
名義考得す、西ノ方にホシガヒラと云野岡あり、其辺の野方を池ノ原といへり
 右同

其辺ヲ平池ノ原と云ひ、又池ノ河とも呼るありて水流出るなれとも、今は池ノ形とも
見えたるは決て田に作為しものと思はる
 右同
八窪池 二つ
 凡周
其辺の野方を凡て池ノ原とそ呼り、名義未考得す、地名を云り
 右同
橋谷池 二つ
 凡周
名義不思得、然れと地名橋谷と云、橋谷門名あり
 右同
一重ノ池 名義考得ず
 凡周
上件琵琶池より星之平まて十余六の池ノ内には水の絶る期もあれば、池としては足はぬ
ことのやうに思ふもあるへけれと、そは辞典に池ハ沼也穿也水ヲ鍾ス也図ヲ池ト云、
曲ヲ沼ト云、孔安国曰停水ヲ池ト云、師古曰池ハ其包容浸潤ヲ云也云々あり、
されは共に謂ゆる霧島四十八池と云其内ならむ

 出水山
溜池
 凡周五百間以上
此池ノ水凡田地六十町余ノ田水と成れるとそ、但し至りての清水なるか鮒並蜆鱣田螺多し、
水性に依れるにや共に大くして味美し、其れ我小林の名物と賞せらる。
 本草曰、鮒ハ無毒治虚羸、又一書ニ温にして胃を補ひ食を進め、痔癒し、痢病を治す、
或人云、鮒蒸焼は脚気腫の妙薬也、又乳ノ痛には生にて付て妙なりとも、蜆は下温執気
利小便治黄疸、或書に冷にして無毒、熱を去り胃を開き渇を止、脚気を治し酒毒を解す、
鱣は俗専此ノ字を用れとも唐書には鱣、鱓也とありて種類異れり、漢書には鰻又は江鰻
とも見え、鰻□は殺虫、去風治小児疲労又虚羸を補、労熱を去り、血を益云々、
田螺は大寒毒なし、熱を除き渇を止、目赤くして痛むを治し、酒毒を解す、又利大小便ニ利、
肺気、黄疸、噤口毒痢目熱赤痛、痔瘡狐臭ヲ搽ル云々あり
 同村ノ内芹河
溜池
 凡廻り
 同村内大出水
溜池  上下二ツ
 廻

 水流迫村内穂屋ノ下
溜池
 廻五六十間程
此水凡田地二町余とそ
 同村ノ内山ノ上
溜池
 五拾間廻
 凡田地二町計の用水ニ成ル
 同村ノ内綿内
溜池
 凡三十五六間廻
 凡田地三町余ノ用水ニ成

 東方村ノ内遊木猿
溜池
 廻三百間ほど
 凡田一町三四反用水ニ成
 同村ノ内薗田
溜池
 廻八十間位
 一町程ノ田地用水ニ成
 同村ノ内上ノ薗
溜池
 廻百間計
 田地二町四五反用水ニ成

 北西方ノ内穴水
溜池
 廻百間余
 田地三反程ノ用水

 細野村ノ内南俣泉谷
溜池
 廻凡百五十間程 但し両池の間凡一町余
 小林田地三反九畝程用水ト成
 同所北俣泉谷
溜池
 廻凡百間余り
 田地五反程の用水とす
右両所ノ水流合高原広原村ノ内田地凡四十町余の用水也

上件出水山より泉谷まて十二池は溜池と載せしかと、そは中昔墾田の料に堤なと築き、
又は穿地て造りしにこそ因るなれ、元は何れのも自然なる池なりけんこと明かで、
況して池の字をも多米伊気と訓なるをや、されば池には異なきなりかし


小林誌巻之二終

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