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守谷村役人が阿波船由蔵を送る書状
由蔵を護送する村役人の清水家代官への届書

              松平阿波守様御手船
               幸宝丸十一人乗
                  沖船頭 徳之丞
右拾壱人乗之内水主由蔵と申者異国船より沖合ニて
漁船え乗移り、上総国夷隅郡守谷村分之地内納
戸浦と申所え上陸致候,右漁船は何れ国之漁船
とも不相分
              南部信濃守様内
               下総国銚子湊幸太郎船
               拾壱人乗
                 沖船頭 勇 助
右拾壱人之内水主太郎兵衛と申者、幸宝丸水主由蔵
と一同異国船より漁船ニ乗移、右守谷村え上陸仕候
守谷村は清水様御館え訴ニ罷出候由風聞、右阿州
様御手船幸宝丸は去辰ノ十二月廿六日阿波国出帆
いたし当巳ノ正月十三日何れ之国と不知嶋え漂着
之處、船破レ正月十三日より二月八日迄右嶋ニ罷在候所
同日異国船え乗移り助り、翌九日ニ又日本船見受右船
は南部様御手船ニて下総国銚子幸太郎船拾壱人乗り
此者共も異国船え助ケ乗懸られ、当二月十七日上総国
夷隅郡守谷村地内え右弐人上陸仕候由、残弐拾人は
未タ異国船ニ乗居浦賀表迄異国船ニて送り可来由
右無沙汰ニ乗入候事恐入候間、為御訴先両人之者を
上陸為致候由之風聞ニ御座候
               右由蔵を召連候て
                 清水様御領知
                   上総国夷隅郡
                  守谷村組頭 徳右衛門
右浦賀表江為御訴当湊村より二月十八日四半時乗船
致渡海候之由ニ御座候
右者阿部駿河守様衆石田市右衛門殿留書之写也

            松平阿波守様持船
                 幸宝丸11人乗
                 沖船頭   徳之丞
上記11人乗の内水夫の由蔵と云う者が異国船から沖合で
漁船へ乗移り、上総国夷隅郡守谷村中の納戸浦と云う所
へ上陸致しました。この漁船は何藩の漁船かは分りません
             南部信濃守様内
              下総国銚子湊幸太郎船11人乗
                 沖船頭  勇 助
上記11人の内水夫太郎兵衛と云う者が幸宝丸の水夫由蔵
と共に異国船から漁船に乗移り、守谷村へ上陸しました。
守谷村から清水様の御館へ訴へ出たと聞いております。
 阿州様御手船幸宝丸は昨年12月26日阿波国を出帆し
今年正月13日に何処か不明の島へ漂着しましたが
船も壊れて正月13日から2月8日迄この島に滞在しました
同日異国船へ乗移って助り翌9日に又日本船見掛け、この
船は南部様御手船で下総国銚子幸太郎船11人乗り
ですが此者達もこの異国船に助けられ、当2月17日上総国
夷隅郡守谷村地内へこの二人は上陸したそうです。残
20人未だ異国船に乗っており浦賀まで異国船で送ろうと
しているそうです。
報告なく乗り入れる事は恐れ多い事なので先ず御届の
ため上記両人を上陸させたとの事で御座います
               由蔵を召連て
               清水様御領知上総国夷隅郡
               守谷村組頭  徳右衛門
  
上記は浦賀奉行所へ訴え出る為、この湊村から2月18日
午前11時乗船して渡海するとの事で御座います
これは阿部駿河守様家来石田市右衛門殿のメモの写し
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松平下総守役人による由蔵引取り、浦賀へ差出しの報告書
松平下総守の老中への届書

昨十八日午刻清水殿御領知上総国夷隅郡守谷村役人
松平阿波守手船水主、由蔵と申者召連、私領分上総国
天羽郡湊村え罷越、村役人え申聞候は昨十七日午刻
守谷村沖合え異国船漂着、同日申上刻右由蔵外ニ壱人
字納戸浦え上陸致、左之通り
          松平阿波守手船
              幸宝丸拾一人乗
                 沖船頭 徳之丞
          南部信濃守手船
            下総国銚子湊幸太郎船拾一人乗
                 沖船頭 勇 助
右弐艘之内阿波守手船之方、辰十二月廿六日阿波国
出帆之處難風ニて、正月十三日何島ニ候哉、人家も無
之島へ漂着、二月八日異国船ニ被助、日本へ被送候
沖合ニて右信濃守手船難義之様子を見請候處日本船
之躰ニ付、助ケ呉候様相頼候へ共風並不宜朝より夕方
迄相見合居候間、漸右船え懸寄乗組之者共異国船え
為乗移、右船共其侭乗捨二艘之水主都合弐拾弐人
不残被相助、異船之乗組、廿弐人都合四十四人乗ニて
日本へ可送届と追々参候處上総路と見請候ニ付、此侭
乗入候得バ鉄砲ニて被打払候故、為上陸、右之義可相
届と上陸之儀心懸罷在、漁船を見請追懸両人乗移、昨
十七日申上刻守谷村え致上陸、右両人之内壱人清水
殿役所え申届ニ召連、由蔵義は浦賀え召連可申様ニて
湊村え十八日午刻致到着、直ニ浦賀え参候間
右異国船ハ凡三千石積程之船ニて帆十弐、小船六艘、
水主弐拾弐人乗之由申届候趣私領分富津陣屋詰家来
之者より申越候ニ付、此段御届申上候
                二月十九日   松平下総守


昨十八日正午頃清水殿の領知、上総国夷隅郡守谷村
役人が松平阿波守持船の水夫、由蔵と云う者を連れて
私の領分上総国天羽郡湊村へ参りました。 村役人へ
伝えた事は昨十七日正午頃守谷村沖合に異国船が
漂着、同日午後三時頃由蔵の外に1名が字納戸浦へ
上陸致し、次の通りです
            松平阿波守手船
              幸宝丸11人乗
                 沖船頭 徳之丞
            南部信濃守手船
              下総国銚子湊幸太郎船11人乗
                 沖船頭 勇 助
この2艘の内阿波守の持船は昨年12月26日に阿波国を
出帆したところ難風により正月13日どこか分らぬ島で
人家もない島に漂着、2月8日異国船に助けられ日本へ
送られる途中、信濃守の雇船が遭難しているのを見付け
日本船の様なので助けて呉れと頼みこんだが風向きが
悪く、朝から夕方迄様子を見て漸くこの船に横付けし
乗組員達を異国船へ乗移らせ、この船はそのまま乗捨て
2艘の水夫計22人残らず助けられ、異船の乗組員22人
と合計44人で日本へ送届けようと航海してきました。 

ところで房総付近迄来ましたが
このまま乗込めば鉄砲で打払われるので、2人を上陸させ
届けさせようとの事で上陸を試み、漁船を見懸け追い
かけて乗移り、昨17日午後三時守谷村へ上陸致しました
両人の内1人は清水殿役所へ届けるために連行き、
由蔵は浦賀へ連れて行くため湊村へ18日正午に到着、
直に浦賀へ参りました
一方異国船は凡そ三千石積位の船で帆12、小船6艘
水夫22人乗りとの事です。 以上を私の領分富津陣屋詰
の家来の者より報告して来ましたので此件をお届けします
                  二月十九日   松平下総守

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南部船太郎兵衛を清水家から浦賀奉行に引渡す書類

清水家家老の老中宛届書
見出し  清水殿御家老 曲渕和泉守
             下総国銚子湊幸太郎船
                  水主 太郎兵衛
右之外乗組廿壱人一同於海上難風ニ逢漂流、異国
船ニ被助書面太郎兵衛義、清水殿領知上総国夷隅
郡守谷村え上陸致し候由、一昨十九日同村役人共召
連訴出候處、異国船中ニ罷在候者之儀ニ付、締之
場所え入置候段、清水殿郡奉行共申出候、依之取計
方相伺可申所、右漂流人浦賀奉行土岐丹波守方ニて
尋之義有之候ニ付可差出旨、尤伺済之段申聞候間、
今廿一日丹波守え差出申候、依之清水殿代官共相糺
申立候書面其侭相添、此段申上候、以上
      二月廿一日     曲渕甲斐守
見出し  清水殿御家老 曲渕和泉守
             下総国銚子湊幸太郎船
                  水主 太郎兵衛
この者の外乗組21人一同海上において難風ニ逢い漂流
異国船に助けられ、書面の太郎兵衛は清水殿領知
上総国夷隅郡守谷村へ上陸致した由です。 

一昨19日同村役人が連行して訴出ましたが異国船中に
居た者でありますから、囲いの場所に入れ置きす旨
清水殿郡奉行から報告ありました。 これに付き取扱方
を伺いましたところ、この漂流人は浦賀奉行土岐丹波守
の方で尋ねる事があり差出す様伺っておりましたので、
今日21日丹波守へ引渡しました。 これに関して清水殿
代官聴取に対し申立ました書面はそのまま添え報告
致します、以上
      二月廿一日     曲渕甲斐守
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南部船水主太郎兵衛の取り調べ聞書
土岐丹波守の老中への報告添付書
          南部信濃守手船
            下総国銚子湊幸太郎船
              水主 太郎兵衛 当巳三十三才
右之者え異国船中之様子等承糺候処、江戸送り塩鳥
荷物積入当正月十日南部鎌石出帆、風様悪敷候ニ付
仙台たかつ島え同十三日より船掛り仕居、同十八日
順風ニ付同所出帆仕候処、同廿一日より廿五日迄大
難風ニて荷打仕候得共凌がたく追々遠沖え漂流いたし
大嶋南之方え吹流され、檣打損じ候ニ付、桁柱相仕
立漂ひ日本地方より凡弐百里程相隔可申哉ニ存候迄
ハ覚候得共爾後漂流方角迄も覚不申吹流され、追船
損じ候所出来あか入候ニ付難凌折節、当月九日朝四時
頃島之様ニ相見候もの有之候間、先え乗付可申と心掛
近寄候處、右之異国船ニて候処南部船を見受頻

ニ漕近キ候間、一同声を上ケ呼候得バ同船伝馬船
を出し日本人壱人異国人乗組漕寄候処、日本人申聞
候ハ赤キ装束いたし居候ハ大将ニ候間、拝ミ候得バ助
呉候趣申聞候間、則船中之者一同ニ拝ミ候処、早速
伝馬船え乗せ異国船え乗せ移し、其上南部水冠りニ
相成候船え異国人とも乗移、水主之着衣類・食物等
伝馬船え移し運び呉候由、其後船中ニても言語ハ
不通候得共至て深切ニ被取扱、薄着之者と火ニあて
など仕、種々を話仕候由、尤松平阿波守手船難船人
拾壱人并南部信濃守手船難船人拾壱人ハ一党ニ罷在
急で積移し呉候、糧米を食し居候由ニ御座候、且追々
走居候内地方等も相見え候得とも、何之地と申義も相弁
不申、唯今考へ候へバ八丈島・其外七島ニても可有之
哉、当月十七日房州沖え参、初て房州山と申義相分候
ニ付、上陸いたし度趣手真似仕候得共、異国人ハ只
江戸江戸と計申、且水桶之空ニ相成候を叩き貰ひ申度
と申様子、且琉球芋か、しかたら芋之様成物を差出見せ
候間、是ハ江戸ニ無之と答候由、然ル處尚又異国
人絵図面取出し為見候得共、横文字故書入は難相分
地図之様子ハ凡相分候共日本、異国共認有之と申候間
万国絵図と被存候、洲之崎之崎辺之様子も有之、内海
之深サ尋候様子ニ付、片手之指を出し見せ候よし、右は
深サ五尋仕と答候様子聞取候躰ニ付、右大船ニては
浅海之義早速浦賀迄乗入候義は有之間敷と申聞候

房州沖え参り候得バ地方ニ煙り立候を見候ては驚候様子
ニ付、何分地方え寄候事ハ恐怖仕居候御坐候由、然ル
處当月十七日房州沖え参候後、上陸手真似仕候付、先
上陸可致旨ニて伝馬を卸し候間両人乗移、異船人漕候
て漁船を見付漕寄せ候処、右漁船逃去候躰ニ付、追駆
漕寄右両人を乗移、直ニ異国人は漕戻り元船え
乗移、遠沖え走申候、右ニ付漁船之者え次第相咄し
頼候処、右漁船之者は後之掛り合を迷惑ニ存候哉、
清水殿御領分上総国夷隅郡守谷村字ナツト浦と申、
谷合之磯辺え差置漕戻り申候右場所は人家も無之、
太郎兵衛并阿波守手船水主芳蔵両人ニて所々相尋、
漸守谷村役人共見当り、委細申出

芳蔵ハ村役人差添浦賀へ送り、太郎兵衛ハ召連清水
殿湊町屋敷え訴出候趣申聞候、其外様子相尋候趣
左之通ニ御座候

一船中ニ長筒之鉄砲三挺有之、至て錆見苦敷玉ハ
 小指 之先 位有之由申候間、三四匁程之小筒と
 相聞取申候、 ヲハリト申鳥を打候真似をいたし候由
 ヲハリハ南部方言ニても候哉、鴎の大なる白キ鳥ニて
 鳥麁鳥と申候由申聞候、鉦太鼓□等之類も無之慰
 ニ用候哉胡弓有之候、 時計ハ無之磁石・遠眼鏡ハ
 有之、右遠 眼鏡も日本之水主之所持居候間、格別
 品勝り候程ニも無之由、外ニ朝四時頃日輪を見候眼
 鏡有之由、リンカラスト奉存候
 絵図え引当方角を見、又ハ道法迄も量り候角成眼鏡
 も有之由申候得共此義聞取兼申候

一絵図面は思ニ所持仕居候由、書入ハ横文字ニて
 分り兼候 得共日本ハ島ニ認有之至て細く美事成
 絵図之  由申聞候

一異国人弐十弐人之内船頭は緋羅紗の牡丹掛筒を
 着し羅紗之股引の如きもの着いたし、其外役水主ら
 しきものも有之、平水主とも一同羅紗之衣類色は
 黒・白・青等思ニ有之、夜具蒲団も羅紗之由、枕ハ
 作り枕と覚へ候由、船中通ニハ異国人は沓を用居
 候由、飾ニても候哉襟巻様之もの前ニて 結び襟の
 内へ入置候由

一鯨漁船ニ相違無之候、もりは何本も有之銘々持居
 候由、 船中ニてくじらの油製候大サ二間計之竈有之
 廻りハ砥石之如きものニて中ハ鉄ニも可有之哉、肉
 より油ニ成落候しかけの由、ちゃんをぬり鯨の骨薪ニ
 用候由、船底ニハ油樽有之候由之処見受ハ不仕由
 漂流人乗候得バくじら漁等無之、一途ニ送り届候事
 のみ走り居候由

一船頭ハ年格好五十歳位ニ見え背高く、其外背ハ
 高き低き も有之、髪ハちぢれ候もの二人程有之、
 其外ハ左程無之由、 髭ハ有之も無之も相見へ、
 眼中ハ猿の目のごとく其外ハさしてかハり候様子無之
 衣類ハ立派ニ候得共都て人物立振舞ハ賎キものニ
 相違無之、既ニ船頭と申ものも最初難船助候節てんま
 船の船櫓を押来り候由、食事等も水主一同ニ入交食し
 候由、船頭も気質は至て柔和之様子ニて水主を叱り
 候義なども無之、漂流人とも殊之外いたはり候由、
 一躰何れも強気ニハ不相見気質等ハ柔弱之方ニ相
 見候由

一何国の船に候哉何分相分兼候得共漂流人とも一同
 打寄咄合仕候ハ何分イキリス・ヲロシヤ等之類ニては
 有之間敷、右之類ハ是迄承及候處、中々海上などニ
 て人を助候様成義は無之、日本人と見掛次第追剥盗
 賊抔いたし候義、毎々承怖れ候事ニ候処、此度之異国
 人ハ甚仁慈之志深く、且船の帆ニ黒印有之候、是ハ
 蘭船之印と存候間、阿蘭陀船ニ可有之と存候旨申候
 得共、日本地辺で鯨漁ニ出候義故此義難取用義と
 奉存候

一日本人ハ異国人とハ別居所持之玄米を食し居、阿波
 船之方ニは茶も持居、右を貰ひ可呑候由

一異国人は唐黍を煎、獣肉ニ交食し酢ニても喰候由、
 其肉ハ何ニて候哉と仕形ニて尋候へハ両手を額に当
 指ニて角の形を致し見せ候間、定て牛ニて可有之旨
 申候、砂糖ハ多く持居水ニ和折々用候由、茶も有之
 候得共甘く用兼候由
 煙草ハ青莨も有之菪麦殻の如キも有之、きせるハ
 雁首ハ素焼の陶器と相見羅宇ハ木の根の様見受候
 由、折々其侭噛候て食候由、酒ハ一切無之様ニ候由
 右故凡異人ハ一切物いさしかひ仕候義も見受不申候

一琉球芋異国人用候由、此方さつまいもとハ違ひ丸く味
 も少し劣候得共、随分甘く日本人も是計ハ給られ候由
 近来所々作り候じゃがたら芋と申ニても可有之哉と
 被察候

一ぶた弐拾疋余も飼置人と雑居いたし居、日本人之飯
 など給居候處え参り拾ひ食などいたし甚困り候由、
 豚常ニは用不申、何ぞ祝日等之節食候由申聞候、
 此義如何いたし祝ひ日に用候事承知いたし居候哉、
 其節糺候得バ宜敷所跡ニて心付申候、鶏ハ居不申
 候由

一異国人之内桶屋・鍛冶屋・大工等居候由、医師は
 無之候由、薬はギヤマンの徳利より何か出し用ひ候由
 日本人之内病人等無之、薬等貰不申候

一異国船ハ風の順逆ニも不拘走り候哉と尋候処、中々
 逆風ニては走り不申、帆数多候間横風ニ乗候節日本
 船ヨリ少ハ都合宜敷哉と被存候、一躰船頭始メ水主共
 船中之働は巧者ニて中々日本之水主之及所ニては
 無之と申候、水泳ぎ候所ハ見受不申候、帆のあつかい
 都て日本之仕形とは大きニ違ひ候由ニ候

一船大サ十四間程幅四間程深サ四尋程と廻り惣躰ハ白
 木ニて水際銅ニて包、廻り之厚サも格別ニは無之、若
 大筒ニても中り候ハヽ忽打抜も可仕と存候由、帆数十二
 唐木綿ニて縫方等日本とハ違、伝馬船三艘ハ下ニ釣り
 有之、三艘は上に伏せ有之、三千石積位ニても可有
 之一体之船形ち薬研ニ似居、画ニ書候唐船之通りニ
 候申候、中ハ三段ニも四段ニも成居候様子、船底抔え
 ハ参りも不仕由申候、都て立派成事ハ無之旨申聞候

一異国人より一切何も貰ひ不申候、此者え紫檀之杖を
 一本異人より呉れ候付、是を貰ひ候ては致帰国首が
 ないと仕形ニて見せ候得バうなづき候間、其侭もりの
 中え置候由、 戯ニ羅紗之衣類を呉ぬかと申様子ニ
 仕形いたし候得バ、是を遣し候得バ其方の首がある
 まいと申様成仕形を仕候由、都て御国禁は弁居候由

一船中何ぞ神仏抔有之候哉、又ハ天を拝し候か唱事
 などの躰ハ無之かと尋候処、船中ニ一切神仏様之もの
 は無之、日本船ハ必船出之棚有之候得共、獣肉を食
 漁業を事とする故にも候哉、更ニ右体之事も無之、
 若哉切支丹の船抔ニは無之哉、帰国之後御吟味之
 種ニも相成候てハ迷惑と心付居候得共、曽て右様之
 品又ハ神仏抔拝し候様子も更ニ無之、日本水主共は
 ひたすら帰国を祈候付、一同金毘羅を念し線香など立
 手を合候を見甚笑ひ候由ニ御座候、此者首尾能帰国
 いたし候ハヽ四国金毘羅へ礼参可致と祈誓仕候由
 申聞候

一日本人持合之米遣候得バ噛て急吐出し候由、味噌漬
 鰹節も遣候処同様之由、魚も日本地之魚ハ食不申候
 様子之由

一筆紙等も有之横文字認候由

一船頭何ぞ道具など持居候哉尋候処、唐の中もある時見
 候得共何も持居不申、只々立派成物ハ羅紗之着物計、
 外ニふしぎと存候物ハ剃刀計ニ候由申候間、異国人何
 之為ニ持居候哉尋候得バ、髭を作り抔いたし候節用候
 由申聞候

一毎朝顔を洗ひ手足のごミを落し候様子之由

一器は不用獣肉を小刀之様なるものニて切、二股之柄之
 付たるものニてさして食申候由

一異国人共何ぞ日本言葉ニ似寄候事申候哉尋候処、
 江戸をイド、仙台をセダイ南部をナンブ四国をシコ大阪
 ハシヤカ八丈をハチ抔申候、浦賀之事などハ存不申候
 哉ニて都て江戸と心得居候と被察候由ニ候旨申聞候、
 既ニ水主二人伝馬え下候節江戸江戸と申大指を出し
 水桶之空ニ成候を叩き乞受度と申仕形いたし候由、
 芋を出し貰ひ度と申候様子ニ付、それは無之と仕形
 いたし候得バうなづき候よし、
 是ハ此者共芋は此節は江戸ニも有之間敷哉と存、左様
 申候由、頻ニ江戸江戸と申候付、江戸え近よれば首が
 なひぞと仕形ニて申候得バうなづきよし、右之通ニ候
 へハ日本地彼岸荒方存居候哉と被察候

一房州洲之崎辺より内ハ海底深さ如何程候哉と仕形ニて
 尋候付、片手を広げ五尋計故、迚も急ニは参り兼
 可申と申候得バうなづき申候

一漂流人心底ニは島々又は仙台ニても松前ニても何れ
 日本地ニさへ有之候得バ宜敷、何方成共上り度と仕形
 ニて申候へバ江戸江戸とのミ申聞候

一南部船荷主佐野与平治と申者之よし被頼船主ハ
 松兵衛と申者ニて上乗いたし参り、小児壱人十歳ニ
 成候者乗組罷在候船頭・水主・上乗かしき共ニて
 十一人乗ニて、壱人も死亡・病人等も無之よし、領主
 手船ニ候哉其所は弁不申候由、船頭水主ハ南部
 みやつこと申處之もの之由申聞候

一二月九日異船ニ被助候(所)ハ日本地と覚候哉異国
 之由と覚候哉尋候処、九日より十七日風順様々ニ相
 成或は走り、 或ハ戻り程々ニ成候故何方えも着岸
 不仕候由、潮之様子
 日本地ハいつ連ほはきものニ御座候得共あたたかく
 甘き汐も有之、又は苦き汐も有之候間日本地ニてハ
 有之間敷と存候旨申聞候

一最初漂流之節八丈島より百里か弐百里も南へ流れ
 候と申聞候間、阿波船之方罷在候無人島と申候は
 若哉小笠原島抔申候ニは無之哉と被察候

一異国船は松前之方え志し帰候哉と承り候由ニ申聞候

一何分江戸江戸と乍申地方え寄る事ハ甚恐れ候間、
 夜ニても大嶋辺え日本人を揚ケ帰り候心得ニは有之
 間敷哉と案し候様申聞候

一日本人江戸え参り候ハヽ酒を呑ミて踊るであらふ抔と異
 国人躍る真似抔いたし候由、又ハ唄もうたひ或ハおき
 或ハ寝□□多くいたし候由、分兼候ゆえ何分懇意ニは
 成不申候由、乍去双方卑賤之ものゆえ応接之様子も
 定て不作法成躰と被察候

一漂流人夜具蒲団は最初助候節異人共運び呉れ右ニ
 て休居候由

一阿波国の人異国船之内ニ居候付、始は驚候得共
 日本人と逢、実ニ悦喜仕候他所、其後十七日房州山
 を遠眼鏡ニて見出し候節、日本地え戻り候と存候時始
 て再生之心持ニ相成嬉しき事申計なく、全神仏之加護
 を以古郷ニも被帰候事と偏ニ難有存候旨申居候

一南部船仙寿丸乗組之もの相尋候所、上乗松兵衛、
 船頭、勇助、親仁長兵衛、表師長之助、水主長兵衛
・勘蔵・□蔵、太郎兵衛・□留之助・炊番小児勝と申候由
 太郎兵衛申聞候侭相認候

右太郎兵衛義始末相尋候處、南部之言語ニて聞取兼
候事多御座候得共、荒方書取入御覧申候、以上
    巳二月        土岐丹波守
        南部信濃守手船
            下総国銚子湊幸太郎船
              水主 太郎兵衛 当年三十三才
右の者へ異国船中の様子等取調べたところ江戸に送る
塩鳥等の荷物積入れ当正月10日南部釜石を出帆した
が風順が悪く仙台たかつ島に同13日から停泊し、同18日
順風になり同所を出帆しました。 ところが同21日から
25日迄大難風に遭い荷物を捨てましたが凌げず、次第
に遠沖へ漂流し大嶋よりも南へ吹流され、帆柱は切倒し
たので桁柱で代用して漂流、日本本土より凡そ200里程
隔てたところ迄は分っていましたが、以後の漂流の方角
も分らず吹き流され、段々船も傷み水漏れもありいよいよ
如何様にも成らなくなった当月9日朝10時頃、島の様
見える物があるので先ず上陸しようと近寄った所異国船
でした。 南部船を見付け近寄ってくるので一同声を
上げ呼んだところ、同船より伝馬船を出し日本人一人と
異国人が乗組み漕寄せて来ました。 その日本人が申す
には赤い服装の人が大将だから拝めば助けて呉れる云う
のですぐに船中一緒に拝んだところ早速伝馬船へ乗せ
異国船に乗せ移し、其上水浸しの南部船に異国人達が
乗移り、水夫達の衣類や食物等を伝馬船へ移して運んで
呉れた様です。 
其後船中では言語は通じませんが大変親切に取扱われ
薄着の者には火にあてるなどし、色々話仕をしたそうです
尤も松平阿波守持船の水夫11人及び南部信濃守雇船
水夫11人を一緒にする為急いで荷物を積移して呉れ
糧米を食べていた由で御座います。 

段々走っている内に陸地なども見えましたが、何処の地
と云う事は分らなかったようですが、今考えると八丈島や
其外伊豆七島だったのではないでしょうか。
当月17日房総沖へ来て初て房総の山々である事が分り
上陸したいと手真似をしましたが、異国人は只江戸江戸
とばかり云い、水桶が空に成っているものを叩き、貰い
たいと云っている様子で又琉球芋かジャガイモの様な
ものを見せるので、是は江戸には無いと答えた由です。

更に異国人は絵図面を取出して見させましたが横文字
なので書入は分らず、地図だと云う事は大体分りますが
日本、異国共にえ描いてあるので万国絵図と思われます
洲崎辺の様子もあり、内海の深さを尋ねた様なので片手
の指を出して見せ、これは深さ5尋あると答えた様です。
随ってこの大船には浅海であり、直ぐに浦賀迄乗入る事
は無いだろうと報告しております。 房総沖へ来たところ
陸地で狼煙が上がるの見て驚いた様子で、陸地に近寄る
事は恐れていた様です。 

そのような状況で当月17日房総沖へ到着後、上陸を
手真似し先ず上陸しようと伝馬をを下ろし、二人が乗移り
異国人が漕ぎ、漁船を見付て漕寄せました、ところが
漁船が逃げようとするので追いかけ漕寄せて二人を乗
移させると直に異国人は漕戻り元船は遠沖へ走りました

この漁船に理由を話し頼んだが漁船は後の掛合を恐れ
清水殿御領分である上総国夷隅郡守谷村字納戸浦と
云う谷合の磯辺に二人を下ろし漕戻りました

この場所は人家も無く、太郎兵衛と阿波船水夫芳蔵
両人は所々尋廻り、漸く守谷村役人が見付かり委細を
報告し、芳蔵は村役人付添浦賀へ送り、太郎兵衛は
清水殿湊町屋敷え召連られ訴え出た事報告しています。

その外の様子を尋ねましたが以下の通りで御座います。

一船内に長筒の鉄砲が三挺あり、錆びて見苦しく、玉は
 小指 の先位である由報告ありますが3-4匁程の小銃と
 推定します。
 ヲハリと云う鳥を打つ真似をした様です。ヲハリは南部
 方言でしょうか、鴎の大きく白い鳥で鳥麁鳥と云うもの
 のようです。 鉦太鼓等の類も無く娯楽用と思われる
 胡弓があった由です。
 時計は無く磁石・望遠鏡はあります。 この望遠鏡も
 日本の水夫が持っている物に比べ特に勝れてもいない
 ようです。 外に朝十時頃太陽を見る眼鏡がある様です
 リンカラスと思われます。 地図に当て方角を見、距離も
 測る角成眼鏡もある由ですが聞取りできませんでした。

一絵図面は色々所持しているようで、書入は横文字で
 分りませんが日本は島に描かれ、細く美事な絵図で
 ある事を報告しております

一異国人22人の中船頭は赤いラシャのボタン付き上着を
 着、ラシャのズボンをはいており、その外役付水夫らしき
 ものがおり、平水夫j達は全員ラシャの衣類で色は黒白
 青等色々あり
 夜具蒲団もラシャの由、枕は搾り枕と思われる由、船中で
 異国人は靴を履いているそうです。 装飾でしょうか襟巻
 の様なもの 前で結び襟の内へ入れているそうです。

一鯨漁船に間違いないようで、もりは何本もあり銘々が
 所持して いるそうです。 船中で鯨の油を製する
 大きさ二間程の竈があり 廻りは砥石の様なもので
 囲い中は鉄でしょうか、肉より油にして 落とす仕掛け
 のようです。 又鯨の骨は薪として用いている由で船底
 には油樽があるようですが見てはいない由、 漂流人が
 乗ってからは鯨漁は無く一途に送り届る事だけで航海
 していたそうです。

一船頭は年格好五十歳位に見え背高く、その外は背の
 高い低いはあり、髪はちぢれているもの二人ほど、その
 外は左ほどでもない様子、髭はある者も無い者も居り
 眼は猿の目の様であり、その外には特に変る様子なく
 衣類は立派であるが全体に人物立振舞は庶民に
 間違いなく、船頭でさえも真っ先に難船を助ける時
 伝馬船の櫓を漕いできたそうです。 食事等も水夫
 達に一緒に交わり食べているそうです。 船頭の気質
 はたいへん柔和の様子で水夫を叱る事など無く、
 漂流人達をたいへん労わったようです。 一見して
 気質は剛毅には見えずむしろ柔弱に見えたそうです。

一何国の船か分らず漂流人達は一同集まり話合いした
 結果、 恐らくイギリスやロシヤ等の類では有るまい、
 これらの類は是迄聞いているところでは、中々海上で
 人を助ける事は無く、 日本人を見懸け次第追剥や
 盗賊をするとの事で恐れていますが、此度の異国人は
 非常に仁慈の志が深く、且船の帆に黒印ありますので
 是はオランダ船の印と聞いているので、オランダ船かも
 しれないと云って居りますが、日本近海で鯨漁に来て
 いるので是は考えにくいものであると思います。


一日本人は異国人とは別居して所持の玄米を食べ、
 阿波船の方では茶も持っており、これを貰って呑んだ
 様です

一異国人は唐黍を煎り獣肉に交ぜて食べ、酢でも食べ
 ているようです。 その肉は何ですかと仕草で尋ねた
 ところ、両手を額に当指で角の形 をして見せたので
 確実に牛のはずです
 砂糖は多く持っており水に溶かして用いているようです
 茶もありますが甘くて用いていないようです。 煙草は
 葉莨もあり菪麦殻の様なものもあります。 煙管は雁首
 は素焼の陶器の様、羅宇は木の根の様えたそうです。
 時々はその侭噛んで食べる由、酒は一切無い様です
 随って異人の諍いは一切見懸けなかったと云って
 おります

一琉球芋を異国人は食べているそうです、是は薩摩芋
 とは違い丸くて味も少し劣りますが随分甘く日本人も
 是だけは食べられたそうです。 近来所々で作る
 じゃがたら芋と云うものではないかと推察します。

一豚を20疋余も飼っており人と雑居して居り、日本人が
 飯など食べている所へ来て拾い食いなどしてたい
 へん困ったそうです。 豚は通常は食べず何か祝日
 等の節に食べる由と報告ありました。 何故祝日に
 食べるが分るのかと聞きましたが、善い日なのだと
 後から気付きましたと云って居ります。
 鶏は居なかった様です。

一異国人の内桶屋・鍛冶屋・大工等が居る用です。
 医師は居らず薬はガラス瓶から出して使う様です
 日本人の内病人等 かったので薬等は貰わなかった
 と云っております。

一異国船は風の順逆に拘わらず走るのかと尋ねたところ
 中々逆風では走らず、帆数が多いので横風に乗る時
 は日本船より少しは都合が宜しいかと思われます。 
 総体的に船頭を始め水夫達の船中での動きは達者で
 中々日本の水夫の及ぶものでは無いと云って居ります
 水泳ぎしているところは見懸けなかったようです。 
 帆の扱い方は全く日本のやり方と違う様 です。

一船の大きさ十四間程幅四間程深サ四尋程で、廻り
 全体ハ白木で水際を銅で包み、廻り厚みも特別でも
 なく、もし大砲に当れば忽ち打抜かれると思われます。
 帆数は12唐木綿で縫方等は日本とは違っています。
 伝馬船三艘は下に釣り三艘は上に伏せています。
 三千石積位でしょうか全体として船の形はやかんに似て
 おり、画に書かれた異国船の通りと云っております。 
 中は三段にも四段にも成っており様で、船底へは
 行かなかった由申しており、特別に立派では無いと
 報告しております。


一異国人からは一切何も貰いませんでした、此者へ紫檀
 の杖を一本異人より呉れると云うので是を貰えば帰国
 して首が無いと仕草で見せたところ、頷いてその侭もり
 の中へ置いたそうです。 冗談にラシャの衣類を呉れ
 ないか言う仕草をしたら是を与えればお前の首がある
 まいと云う仕草をした由、全て国禁は弁えている様です

一船中に何か神仏などあったか又は天を拝して唱える
 事などは無かったと尋ねたところ、中に一切神仏様の
 物は無く日本船には必らず船玉の棚があるものですが
 獣肉を食べ漁業を事とするからですか、船玉様のも無く
 もしや切支丹の船では無いか、帰国後御調べの種に
 成っては困ると気を付けていましたが、過去にこの様な
 品や神仏を拝む様子も全く無く、日本の水夫達は
 ひたすら帰国を祈るため一同が金毘羅を念じて線香
 など立て手を合わせているのを見て笑って居たそうです
 此者は首尾よく帰国したら四国金毘羅へお礼参りを
 致しますと祈誓したと聞きました。

一日本人持合せの米を与えたら噛んで急いで吐出し、
 味噌漬、 鰹節も与えたところ同様の由、魚も日本付近
 の魚は食べないとの事です。

一筆や紙もあり横文字を認めているようです

一船頭は何か道具など持っているのか尋ねましたら唐の
 中もある時見たようですが何も持って居らず、只立派な
 物はラシャの着物だけでそれ以外不思議と思ったものは
 剃刀だけと云っております。 異国人はそれを何の為に
 持って居るのか尋ねた処髭を作る為に使っています、と
 報告しました。

一毎朝顔を洗い手足のごみを落としているとの事です

一器は使わず獣肉を小刀の様なもので切って二股の
 柄の付いたものに刺して食べるそうです。

一異国人は何か日本の言葉に似かよった事を云わない
 か尋ねた処、江戸をイド仙台をセダイ、南部をナンブ、
 四国をシコ大阪はシヤカ八丈島をハチなどと云います
 浦賀の事などは知らない様で全て江戸と思っていると
 推察されますと報告ありました。 水夫二人を伝馬船へ
 下ろした時、江戸江戸と云って親指を出し空になった
 水桶を叩いて貰いたいと云う仕草をしたそうです。 
 芋を出して貰いたいと云う様子なので、それは無いと
 云う仕草をしたら頷いたそうです。  
 是は此者達が芋は此季節に江戸に有るまいと思い、
 その様に云った様です。 頻に江戸江戸と云うので、
 江戸へ近寄れば首が無いぞと仕草をすれば頷いた由
 この通りですから日本の地形海岸は大体は掴んで
 いるものと察せられます。

一房総の洲崎辺から内側の海底の深さは如何程だろう
 かと仕草で尋ねるので、片手を広げ五尋程故とても
 急には行けないと云えば頷いたそうです。


一漂流人の気持としては島々又は仙台でも松前でも
 何処でも日本の地でさへあれば良く、何処でも上陸
 したいと仕草で云っても、江戸江戸とだけ云ったと
 聞いております。

一南部船荷主は佐野与平治と云者に頼まれ、船主は
 松兵衛と云う者で上乗しており、小児が一人十歳に
 なる者が乗組み、 船頭・水主・上乗、子供で十一人
 乗であり、一人も死亡・病人等も無いそうです。 
 領主の持船かどうかは分らない様です。 
 船頭及び水夫は南部宮古と云う所の者で聞いています

一2月9日異船に助けられた場所は日本の地と思うか、
 異国と思うか尋ねた処、9日より17日まで風順が色々で
 或は走り、或は戻りしたので何処にも着岸しなかった
 そうです。 潮の様子は日本の地は何れもほはきもの
 で御座いますが、暖かく甘い汐もあり、又は苦い汐
 あるので日本の地ではあるまいと思っている旨
 報告ありました。

一最初漂流の節八丈島より百里か弐百里も南へ流れた
 と聞いたので、阿波船の方がいた無人島と云うのは
 もしや小笠原島などではなかったのかと推察されます。

一異国船は松前の方へ向かって帰ると聞いておる由です

一何分江戸江戸と云いながら陸地へ近寄る事は大変
 恐れており夜にでも大嶋辺へ日本人を揚げる積りでは
 あるまいか、と心配していましたと云っております

一日本人は江戸へ行けば酒を呑んで踊るだろうなどと
 異国人は躍る真似などしたそうです。 又は唄も歌い
 或いはおき或は寝、何分分らないので懇意には
 ならかった由です。
 併しながら双方とも庶民の事などで付き合いの様子も
 確かに 不作法もあったろうと推察されます。

一漂流人の夜具蒲団は最初助けられた時異人達が
 運んで呉れたもので休んでいたそうです

一阿波の人が異国船の中にいたので、始は驚きました
 が日本 人と逢い本当に嬉しかったようです。 

 その後17日房総の山を望遠鏡で発見した時、日本の
 地へ戻ったと思い、始めて再生の心持になり、嬉しい
 事云うまでも無く全神仏の加護により故郷に帰れた
 事は偏に有りがたく思う旨云っておりました。

一南部船仙寿丸乗組の者を尋ねましたところ、上乗
 松兵衛、船頭勇助、親仁長兵衛、表師長之助、
 水主長兵衛・勘蔵・□蔵 太郎兵衛・□留之助・炊事番
 小児勝である由太郎兵衛が云うのを聞く侭認めました。

上記太郎兵衛の始末を尋ねましたが、南部の言語で
聞取れない事も多く御座いますが概ね書取り御覧に
いれます、以上
    巳二月        土岐丹波守

5解説に戻る
浦賀奉行より異国船浦賀受入れ伺書

奉行大久保因幡守より老中阿部伊勢守へ
伊勢殿 二月廿四日辰十郎を以御下申上置候書付
               浦賀奉行
                 大久保因幡守
 昨廿日申上置候通、見届船烈風荒波ニて海上難乗
切、見届船え組与力同心并通詞乗組差出、風様次第
遠沖迄も乗出遥ニ見当候得バ、夫迄罷越通弁之趣
納得仕、全漂流人を送届候心得のみニて、逆意之様子
不見候は当湊内え引込候心得ニて可罷在旨申渡、両船
迄差出候處、及暮候ても帰浦不仕、否難相分御座候
尤異国船之義兼て被仰渡之趣ニては城ヶ島・洲之崎
辺ニて差留可申候得共、右は波荒之場所ニて船掛出
来不申候故、迚も滞船相成兼警固船等之手当
も不行届、其上浦賀奉行程遠ニて通弁、其外共手
間取弁利不宜、殊ニ右異船は漂流人連来、其上組之
者共付添罷越候故、直ニ当湊内え引込置取調心得
方相伺可申と奉存候間、此段兼て申上置候、右之趣松平
大和守・松平下総守家来えも為心得申達置候、以上
   二月廿一日    大久保因幡守
阿部伊勢守が二月廿四日辰十郎経由で報告させる書付     
                浦賀奉行
                 大久保因幡守
 昨20日に申上げました通り、見届船は烈風荒波の為
走行が難しく、見届船には組与力・同心・通詞乗組ませ
風の状態次第遠沖迄も乗出して調べた結果、是迄の
情報の通りと確認ができ、全く漂流人を送届ける気持ち
だけで他意が無い事分れば浦賀湊内へ引込むつもりで
居る旨指示を与え、2艘の船を送り出ましたが、夕方に
なっても帰って来ませんので状況不明です。

一般に異国船に関し是まで仰出されている事は城ヶ島
洲崎辺で停泊させる事になっておりますが、この辺は
波の荒い場所で船を係留できませんので、とても滞船は
できず警備船の手当も行届きません。 
その上浦賀奉行所からも遠く交渉、その外手間取り
不便です。 特に此度の異国船は漂流人を連れて来、
その上奉行所の者も付添いますので、直に当湊内へ
引込み取調をするつもりですが、この点お伺いすべき
と思います。 この件事前に申上げます。 この事は
松平大和守・松平下総守の家来へもその積りでいる
様伝えて置きます。 以上
    二月廿一日    大久保因幡守
6.解説に戻る
浦賀奉行(江戸滞在)土岐丹波守から老中への伺書
太郎兵衛を取調べ浦賀受取進言を別紙に記す
 異国船え乗組漂流人水主共之義は請取、江戸表へ差
 越、町奉行・御勘定奉行之内え引渡可申と奉存候
一琉球芋・薪水等望候品遣候様可仕哉奉存候、右相済候
 ハヽ早々出帆仕候様申渡可申哉と奉存候、此段奉伺候
    巳二月         土岐丹波守

別紙
今般房州沖え異国船渡来、日本漂流廿弐人当月
八日九日両日ニ助ケ乗召連来候処、右漂流人請取方
之義、先達て伺置等御下知無御座之處、尚又愚存之
趣左ニ申上候
去々卯年唐・阿蘭陀之外異国船漂流人連越候共
請取間敷旨御書付も有之、前々諸国え漂流人召連
来候節は長崎へ差送候儀も有之候得共、今般之義
は海上ニて難風之船を助来候義ニえ、外国え渡居候を
其国人送来候共品替り、異国船之儀も未何れ之異船
と申儀分り兼候得共、多分は蛮国之類ニ可有之、兎
も角も鯨漁船之趣ニ候間、蛮国之漁民他国之人を
助候為ニ己が職業を止、実意を以送来候處、於彼地受

取不申時は自国之人民を棄候ニ当り  
御不仁之義、仮令長崎表へ差送候共棄船も数日にも
産業を廃候のみならず、長崎え差送候段申渡候ハヽ蛮
異賎民之義、自己の不都合等申立も難計、帰国を急候
人情より若恩賜等ニも拘不申、願立候得共其時に至候
ては御取上も有之間敷、左候得ハ却て恩を仇ニて報ひ候
義共心底残間敷ものニも無御座、勿論御国重キ儀ニて
御座候得共、外国え渡居候者を送来候と、海上途中ニて
乗せ来候もの差別も有之候間、漂流人は請取、異船え
厚く謝し相応之御手当をも被下候て可然哉、漂流人も
数日之苦心ニて漸彼地え着再生之心得ニて悦居可申、
此節洋中ニ漂ひ居候すら一日千秋之如く待居可申哉、
と推察仕候処

一旦之苦難のみならず安心気弛え再長崎渡海仕候
ハヽ必虚弱は別て之義病気等相発可申、殊ニ南部之船
之方ニは十歳之男子も居、骨肉未堅ク不申者と存候間
必痛可申哉疑敷儀と奉存候、此後若漂流人を送来候
を名として異船渡候共、漂流人相糺候得バ虚実は
素相知候義、必今般之通取計候ニも及間敷、其時宜ニ
より可申儀と奉存候、若又長崎迄送遣候て迷惑為致
候段、渡来見懲之為ニ候共重て急度其国之者来候義
ニも無之、然バ異国え被対候ても
御仁慈之御所置を見せ候方、却て国力之強キニて可有
之、仮令禽獣之如き国ニ候共、仁恵之国ニは難敵儀は
存可申、左候へバ後患を残候義ニは有之間敷、却て残

忍之意有之候ては、彼を憚り候のみならず非礼非
義之虚名を受候ては
御国体ニ拘不可然儀と奉存候、且又心配仕候は平穏ニ
長崎迄送越候得バ宜敷候得共、素他国之法度もど
かしく存、途中より漂流人をも其侭召連、蛮国え帰候て
却て彼え案内者を付置候様成義、途中護送仕候迚
も遠路渡海之義、何様之変事出来仕間敷共難
申、左候迚一艘之漁船え数百之人数ニて送候様ニも難
至浦賀表は別て御人少故ニ、跡々御備も差支当惑可仕
と奉存候、旁今般は於彼地請取ニ相成候方両全之義、
且は前文ニ申上候通、途中ニて助来候事故、曽て御書
付ニも寄不申哉と奉存候、右見込之通被仰渡候様
仕度と奉存候、右見込之通被仰渡候様仕度と御評議
中をも不顧愚存申上候段甚恐入候得共、此段尚又申
上候、以上
   巳二月          土岐丹波守

異国船に乗組んでいる漂流人の水夫達を受取り、江戸へ
送り 町奉行・勘定奉行の方へ引渡すべきと考えます。

一琉球芋・薪水等の希望する品々を与え、これが済めば
 直ちに出帆する様申渡すべきかと考えます。 
 以上お伺いします。
    巳二月         土岐丹波守

別紙
今般房州沖へ異国船が渡来しましたが、日本の漂流人
22人を当月8日、9日の両日に助けて乗せてきております
この漂流人受取り方に付き、先達て伺いましたが御指示
が無いので、尚又愚考を次に申上げます。
一昨卯年に唐・オランダ以外の異国船が漂流人を送り
届けても受取ってはならないとの書付もあり、以前にも
諸国への漂流人を送届けてきた時は長崎へ差回した
事もありましたが、今般の件は海上で難風に遭った船を
助けたものであり、外国へ渡った者をその国人が送って
来たものとは異なります。 異国船も何処の異国船かも
分りませんが多分西洋の諸国の類であり、兎も角鯨漁船
の様ですから、西洋国の漁民が他国の人を助ける為に
自分の仕事を止めて誠実に送って来たものを、その地で

受取りしなければ自国の人民を棄てた事になり非人道的
な事です。 たとえ長崎へ差送ったとすれば、この漁船
は更に数日自分の仕事を犠牲にするだけでなく、長崎
へ差送る事を言渡せば蛮異賎民の事ですから自己の
不都合を言い出すも有り得る事で、帰国を急ぐ気持から
若し国からの謝礼なども預からず願ってもその時は
お取上げも無いでしょう。 それでは却って恩を仇で
報いる事になり残念な事です。勿論御国法の重い事
で御座いますが、外国へ渡った者を送って来たものと
海上途中で乗せて来たものの違いもありますから、
漂流人は受取り、異国船には厚く謝し相応の御手当
をも下されべきではないでしょうか、漂流人も数日の
苦痛を越え漸くこの地に着き再生の気持で喜んで
おります。 今は洋中に漂い一日千秋の思いで上陸を
待っている事と推察いたします。

一旦苦難を越えて安心して気が弛んだところへ再び
長崎へ渡海すれば必ず弱り病気等を発病するでしょう。
特に南部船の方には十歳の男子も居り、骨肉が未発達
の者を思われ必ず支障が出るので無いかと思います。
今後もし漂流人の送届を名目として異国船が来ても、
漂流人を取調べれば虚実はすぐ分ります。
随っていつも今般の取扱いをする必要は無く、その時々
で処理すべきと思います。 もし又長崎迄送らせて
困らせる事は、渡来の見懲しめの為であっても再度
必ずその国の者が来る訳でもありません。 
随って異国に対して御仁慈を示される事は却って国力
が強いからでできる事であり、たとえ禽獣の様な国で
あっても、仁恵の国には敵し難い事と思います。 
そうであれば後患を残す事にならず、却て残忍の気持
があっては相手を憚るだけでなく、非礼非義の虚名を
受けましては御国体に拘りかねない事と思います。 

且又心配な事は平穏に長崎迄送れば良いのですが
本来他国の定めをもどかしく思い、途中から漂流人を
その侭連れて自国へ帰れば却て相手に案内者を
付ける様な事となります。途中護送をするにしても
遠路を渡海の事ですからどんな異変が起るかも予想が
難しく、 だからと云って一艘の漁船へ数百の人数で送る
事も行かず、浦賀奉行は特に少人数であり、後々の警備
にも差支えるので当惑すると考えます。
随って今般は浦賀にて受取りになれば相互に良い
事です。 又前文で申上げた通り、途中で助けて来た
事ですから前の御書付には該当しないのではと考えます
この考え通り仰渡れたいと思い、御評議中をも顧みず
愚考申上げます事恐れ入りますがこの件再度申上げ
ます、以上
   巳二月          土岐丹波守

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評定所一座の意見
阿部伊勢守の諮問に対する答え
書面異国船之儀、城ヶ島・洲之崎辺ニて差留可申処
波荒之場所ニて滞船相成兼候ニ付、組之者付添直に
湊内江引入置、取調心得方等伺可申旨申上候得共、右は
兼て被仰渡之趣ニも相振候間、列儀評議仕申上候通
取計可申旨被仰渡可然哉ニ奉存候
    巳二月    御勘定奉行 石河土佐守
            同    松平河内守
           吟味役   羽田 新助
            同    佐々木侑輔
            同    立田客太郎
            同    関 保右衛門

漂流人為乗組候異国船渡来ニ付
評議仕申上候書付        前六名

土岐丹波守相伺候異国船取計方之義ニ付、列儀評定
所一座評議書、并久須美佐渡守存寄之趣とも夫々一
覧仕勘弁仕候所、一旦地方え漕寄候日本人共差戻り一
同長崎表江相廻り候様申諭候も不都合之様ニて同人
見込之趣無謂儀ニも無御座候得共、去々卯年御触之趣
差略いたし護送等いたし候ハヽ浦々御固之向、其外異
人共心得方も混動いたし、終ニ御取締ニ拘候義出来致
間敷共難申、殊ニ大洋乗馴候異国船へ日本船護送
之義ハ却て海岸之案内をいたし候姿ニて不容易義深
情理ニ?ク候得共、自然国境之御取締立兼可申、且
追々丹波守申上候書付、并清水殿家老申立候書面、
其外御下ケ被成候書類とも一覧仕候所、右書面之内ニ
は漂流人共申立之趣符号不致慮も相見へ一定不仕
候得共、右ニて取計方異同有之候節も無之候間、旁
評定所一座評議之通、通信無之国々連渡候漂流人
共は、猥ニ不請取、御国法之趣相諭、去々卯年在留

之かひたんえ被仰渡候趣ヲ以、唐・阿蘭陀之内え相渡
候様可致旨申渡、食料薪水等は相応ニ与へ遣し、早々
出帆いたし候様得と可申諭旨被仰渡候方ニ可有御座候

尤漂流人之内弐人は異国人請取候とハ訳も違ひ、
今更差戻候筋ニも有之間敷候間、右は其侭留置浦賀
奉行ニて一通り糺之上取計方相伺候様彼是差図候て
は手延ニも相成、最早丹波守御暇も相済交代時節之
義ニも有之旁、早速彼地え罷越大久保因幡守打合
取計、委細申上候様仰渡可然哉奉存候、依之追々
御下ケ被成候書類返上仕、此段申上候、以上
書面による異国船の件は城ヶ島・洲崎辺で停泊させる
べきを波が荒い場所故滞船する事が難しいので、奉行所
の者が付添い、直に湊内へ引入れて取調べる方針等
伺っておりますが、是は前に仰渡された趣旨と異なり
ますので、関係者評議の上申上る通りに仰渡されるのが
当然と考えます。
    巳二月    御勘定奉行 石河土佐守
             同      松平河内守
             吟味役    羽田 新助
             同      佐々木侑輔
             同      立田客太郎
             同      関 保右衛門

漂流人を乗組ませた異国船渡来に付いて
評議の上申上げます書付        前記六名

土岐丹波守が伺っている異国船の取扱いに付き関係
評定所一同の評議書及び久須美佐渡守の考えなどを
夫々一覧して考えますところ、一旦陸地へ漕寄せた
日本人達を戻し一同長崎へ回航する様に説得する事
も不都合の様で、同人の考えも謂れの無いものでも
ありませんが、去々卯年の御触の趣旨を程ほどに扱い
護送等すれば浦々の警備も大変で、その外異人の
考えも混乱し終には取締に拘わる事も起る事も予想さ
れ、特に大洋を乗馴れた異国船を日本船が護送する
事は却って海岸の案内をするような事になり、

容易ならざる事で情理に欠ける事であり、当然国境の
警備を取締る事も難しくなる、という丹波守が申上げた
書類、や清水殿家老の報告書、その外御下げに成ら
れた書類を一覧致しましたところ、これらの書面の中には
漂流人達の云っている事に不一致も見え一定しま
せんが、これで取扱方が変るものでは有りませんので
私共評定所一座の評議の通り、通信のない国々が連れ
てくる漂流人は妄りに受取らず、御国法の趣旨を諭し
去々卯年(1843)に在留のカピタンへ仰渡された趣旨
の通り、唐・オランダ内に渡す様にする事を申渡し、
食料薪水等は相応に与へて早々出帆する様に得と
諭す様仰渡されるべきで御座います。 

尤も漂流人の内二人は異国人から受取る訳でないので
今更戻す事も無く、彼等はその侭留め置き浦賀奉行で
一通り取調べた上取り扱いは伺う様、彼是差図して
いては手遅れにも成り、既に丹波守の御暇も済み交代の
時節であるので早速浦賀へ出張し大久保因幡守と
打合せて取り扱い、委細報告する様に仰渡せられる
べきと考えます。 随って以前御下げに成られた書類を
御返しします。 以上申上げます
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老中筆頭阿部伊勢守の指示書
土岐丹波守への通達
阿部伊勢守殿御渡
   土岐丹波守え相達候覚
外国え之漂民共請取形之義ニ付、去々卯年相触候趣も
有之候得共、此度渡来之異国人共右之趣未相弁不申
義ニも可有之候間此度は全く一時之権道を以、漂流人
於浦賀表請取、去々卯年相触候通、向後仮令漂流人
連越候共請取間敷と通詞を以申諭、食事・薪水等相与へ
其外万端之取計方、何れニも図を不失後患を不残様厚く
相心得取計候儀可被致候事
右之通相達候ニ付ては、明十三日浦賀表へ出立致し
異国船早々帰帆候様取計可被申候、帰帆相済候ハヽ
委細之始末相尋候義も可有之候間、少しも早々一ト先
帰府致候様可被心得候事
三月十二日
阿部伊勢守殿御渡
   土岐丹波守への通達控
外国に対して漂流民の受取方に付いて、一昨卯年に
触れた趣旨もありますが、此度渡来した異国人はこの
趣旨を知らなかった様であるので、此度は全く一時の
仮処置として漂流人を浦賀で受取り一昨卯年に触れた
通り以後はたとえ漂流人を連れて来て」も受取らない
と通訳に説得させ食料・薪水等は与へ、その外万端を
尽くし各方面に対し機会を失わず、後の患いを残さぬ
様に厚く心得て処理される事
この通達実行に付いては明日十三日浦賀へ出張し異国
船に早々帰帆する様伝え、帰帆が済めば委細の始末に
付き尋ねる事も有るので、少しも早く一先ず帰京される事
三月十二日

去々卯年の触: 天保14年8月(1843年)の幕府令で勘定奉行宛に外国からの漂流民受取り方を指示しており、
オランダ商館長(カピタン)を通じて諸外国に通達した事になっている。 マンハッタン号は当時既に捕鯨に
出ている(1843年11月)ので通達を聞いていないのであろうと解釈し、土岐丹波守が云う触れの例外処理とは
云っていないが結果は同じとなる
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マンハッタン号に乗込んだ通詞報告書
   通詞差出候書付
一ホンねン島にエケレス人男女廿人在住致居候   *ボニン島:小笠原諸島の事、父島にハワイから20人移住の由
一上按針役之名者ウィルレムボウトと申当年三拾七相成申候       *一等航海士
一下按針役之名者ウリルタスカヒと申当年廿七歳相成申候         *二等航海士
一楫取之者名はヘルゲールと申当年三拾六歳相成申候  
 右四人之外大工壱人・金物師壱人・桶師壱人・料理壱人        
 有之、余は水夫ニ有之候
一二月十七日始て房総え相当候、地方
(じかた)へ乗寄セ漂流人弐人
 ツツ両所へ下シ、其辺え三日之間漂罷在候間、風波烈敷
(はげしく)沖 *両所:守谷村と惣戸村か
 合え吹払、廿二日継出檣(帆柱)壱本継、桁弐本吹折、少々穏ニ*2月20日-3月10日までのマンハッタン号の行動
 相成候ニ付、九日上総九拾九里へ相留候、地方へ近寄漂、又
 々烈風ニて吹払迄日々最遠方え罷在候
一本国出帆より北海へ乗渡千八百四拾四年皇国天保十五辰年ニ当ル *1844年8月-10月北海で鯨19頭捕獲、
 八月より十月間迄三ケ月之間、鯨漁都合拾九疋有之、夫より外       油2400樽絞る
 場所へ可移
(うつるべき)候處漂流救申候、右拾九疋之油弐千四百桶、 
 乗筋相糺候處船主申出候
一船主大形ヲルコル所持                          *オルゴールか
一南アメリカ人胡弓所持折々弾す              *南アメリカ人とは同行の黒人、白人は北アメリカ人と認識
一アメリカとエケレス戦争記録小本一冊有之、中に七拾年前之   *アメリカ独立戦争1776年
 戦争并三拾弐年前之戦争図有之候、弐枚共エケレス負      *米英戦争1812年
 軍之図ニ御座候      
  本船 長拾九間四尺六寸、幅四間三尺                  *長さ:35.5m、巾8.1m  
船板厚サ 曲尺壱尺八寸                             *厚さ:50センチ強
  穂檣 板上より拾三間五尺
  中檣 同    拾七間壱尺
  表檣 同    拾五間三尺
  船深 板下   五間
  同縁 板迄   五尺壱寸
  表出シ檣    拾六間壱尺
   内九間弐尺壱本ニて折、但六間目ニて継
   小船五艘 長四間四尺五寸、幅五尺七寸               *艀長さ8.5m、巾1.7m
     但小船六艘之処壱艘沖合ニて痛、薪ニ致し候由
   北亜米利加州之内
     ねウヨルグ  小島州                          *ニューヨーク州、ロングアイランド
     船名 マンハッタン
       右ねウヨルグ
     船主名 北亜米利加 メルケトル コハル 年四十才       *船長:Marcator Cooper(1803-1872)

     上按針名  同  ウイルレン ボウスト 年三十七才
     次按針名  同  ウリルヌスカ     年二十七才
     楫取名 南亜米利加 ヘルンルス黒人 年三十六才       *黒人舵手:Pyrrhus Concer 人気者
       拾八人之内 大工壱人、鍛冶壱人、桶師壱人
                        北亜米利加人       *アメリカ人(但しこの場合は白人を指している)
                 弐人     弗狼察人         *フランス人
                 八人     南亜米利加人*黒人、アメリカ人であるが白人とは違う国と日本人が認識
    右彼地千八百四拾三年十一月九日 
    皇国天保十四卯年閏九月ニ当 国元出帆        *ロングアイランド東端、サグハーバーから出帆

     異国人え被下物
(くだされもの)目録
     白米  四斗入弐拾俵   松薪   弐百把
     春麦   同          椀     十
     小麦粉  弐升        染付皿  十
     大根    百弐拾把    薩摩芋  拾三俵
     胡蘿萄
(にんじん)弐拾把   茶     五斤
     鶏    五拾羽       水
     玉條魚(平目) 二枚    杉 長七間廻三尺程      三本
     鮪      壱本      杉 長拾壱間一尺中程丸三四尺 壱本   *杉材は帆柱補修用
     右之通御座候
   三月十四日

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マンハッタン号に乗込んだ役人(浦賀与力)の報告

    亜米利加船雑事
一北亜米利加人眼中内色等欧羅巴人と変り、日本人ニ近き様ニ *アメリカ合衆国の白人種を此処では
  御座候、年齢ニ不合毛髪白又髭ハ赤色之者等有之候は欧羅      称している
  巴人同様ニ御座候、フランス人弐人は眼中内色共イキリス人と
  同様ニ御座候、別て船主コフルは色白柔和ニて人品宜御座候   *船長:クーパー(Cooper)

一南亜米利加人八人黒人ニ御座候、内三人は就中墨之如く爪迄黒 *現在の南アメリカの意味ではない
 兼て及承候、阿蘭陀人召仕候黒坊肉色とハ大ニ相違仕、且身体 *アフリカ系黒人
 も巨大ニ御座候、通詞ニ相尋候処阿蘭陀人召連候黒坊は咬留巴人 *オランダ人同行の黒人はジャワ
 ニて黒色も薄く更ニ人物も相違仕、今般之黒人之如きもの      付近の人種
 於長崎二人之外見不申御座候

一船はイキリスに類候得共大ニ相違仕、第一帆仕掛違三本之檣
(ほばしら)
 毎ニ横帆有之、檣に寄弐段ニ横帆有之、舳は別て違、硝子
 窓は至て小ク船主之部屋船張板上ニ屋形ニ建有之、入口左右開
 戸内ニ又小仕切開戸口有之、其内ニ船主寝所、又雪隠或は食     
 物仕立候所等有之、外口開戸青ミツダ塗、柱ハ白ミツダ塗ニ御座候
 其内より船下え下り候口有之、此下ニ漂流人を差置候、右船主
 居所上ニ二階有之、外ニ左右梯子二ヶ所有之、此所ニて楫取之
 磁石有之、楫は車ニて前後ニて面楫・取楫ニ相成候

一船至て深く上張板ニ口々有之、其下ニ水主共部屋之様ニ致し
 場所有之、至て闇候故昼も部所毎油灯有之、其下荷積場    *船内は昼でも暗く仕切りごとに
 ニて鯨油数ヶ所毎油灯有之、其下荷積場ニて鯨油数千樽      鯨油ランプがある
 詰有之様子ニ御座候

一表ニ有之候横ロクロ碇縄クサリを巻候を見候処、奇妙成仕懸ニて *従来見たロクロより非常に
 左右弐人宛四人ニて至極軽キ様子巻取申候、手木は鉄ニて     効率よい物使っている
 先曲柄之付候物壱人壱本宛さし、タタラの様ニ遣居自然巻き
 揚申候、イキリス船横ロクロ至て不便利成物ニて、人夫多更ニ埒明
 不申、通詞此ロクロ阿蘭陀船も不及と、右仕懸見極度候得共、其
 暇無御座
(ござなく)残念ニ御座候

一地図巻物ニて幅三尺位、青紙表紙付数巻有之、皆切絵図ニて
 至て細密成物ニ御座候、日本図至極宜、浦賀湊抔形能相分り
 申候、又壱尺壱尺五寸位表紙付折書之物有之、前ニ地球両面
 を配し、夫よりは切図ニ相成、図之間壱弐丁宛横文字入御座候

一ねウヨルク出帆後乗筋亜細亜ニ不来前より所々小島等え着      *ニューヨーク
 食料・水等を求候由、絵図にて指示し三ヶ所之芋三品為見
(みさせ)
 申候、三品大同小異ニ御座候、薩摩芋ニ似候得共大抵ジャガタラ
 芋と相見へ申候、甘ミ薄、色白ク形テも三品別々ニ有之候

一十一日夜浦賀湊入津、碇を入候と大勢同音ニ大声を発、夫より *胡弓とはヴァイオリンか
 胡弓を弾四人出テ躍、尤足踏六ケ敷様子、唄は無之側ニ居候異国
 人共躍を誉候様子、暫踊テ仕舞申候、是ハ湊入を祝候事之由    *入港した時の喜びを表す
 ニて阿蘭陀船ニも有之由、通詞申聞候

一胡弓形チ琵琶ニ似て胴箱ニて弓短く弦白馬尾之由ニ候得共
 日本之物と違幅四分程、厚壱分程中板残て跡先を堅メ候物ニ
 御座候、此胡弓魯西亜ニも有之、環海異聞ニ図相見へ名ドウチカとか *仙台の若宮丸がロシアに
 南亜米利加極黒人丈ケ六尺程、楫取ニて此黒人専ら胡弓を能弾申候、  漂着11年後1804帰国*
 此者海上至て切者之由横文字も認候、併船主抔に比べては遅半ニ御座候*このアフリカ系黒人は
一身丈ケ孰
(いずれ)も高、其内両三人六尺に余り候か、フランス人之内一人  Pyrrhus Concer
 別て高ク相見申候、六尺壱寸有之候由漂流人申候

一兎角ニて蹴候形チ致し、日本人帯刀ニて切掛候ても直ニ蹴殺
 申と真似いたし、たはむれにも相互に蹴申候

一剣術の真似いたし手元ニ有之棒を持、壱人三人え対し弐人は
 突、壱人は切候形致し為見申候

一三拾ケ年以前迄度々イキリス人ヨルクえ責来戦争ニ及候由       *1812-14年米英戦争、
 其節の絵入軍書(是ハ船中大工成者所持之本)有之、海湾之合戦絵ハ能相 NewYorkも攻められた
 分、ヨルク此度之船に用候通り之旗、イキリスは同国之旗
 建居候、此合戦ヨルク勝利得候由自慢致し候様子、右軍書読
 候得バ側ニ聞人も有之由、読ム咄は漂流人之話ニ御座候

一近年イキリスより清朝を責、地を取候由、船主所持之地図之    *アヘン戦争(1840-42)で
 内イキリス取候所々色訳致し御座候                 英国が中国を蚕食

一水主之内腕に玉疵癒跡有之もの壱人自慢之心か、腕を
 出し為見候由

一水主之内腕ニ己が妻の姿絵彫物致し候もの、又腕ニ鯨之
 絵形彫入候者両三人、外ニ何れか不分物彫入候者も有之由

一漂流人撫育甚親切、別て十才ニ成候勝之助不便
(ふびん)ニ存候哉     
 いたわり候由、右勝之助は南部釜石窮民之子ニて、継母非道
 に致し、近隣不便
(ふびん)之由ニ申合、右船頭より水主へ申談、船中ニ
 差置扶食
(ふじき)を与へ可遣と存、未だ幼年実は不用之者ニ候
 得共全仁慈之志ニて、当正月釜石出船之比始て船え連来為
 乗組候者之由、持具も改候処綿入壱ツも無之、着居候分共
 木綿古袷三ツ有之、余物無之至て見苦敷躰ニ御座候、異国人
 共此勝之助貰受本国へ連参り度、左候ヘバ如斯
(かくのごとき)見苦敷衣
 類は為着不置
(きさせおかぬ)由仕方致し候也、漂流人とも申之候

一被下
(くだされ)候食料・薪水相歓候様子、中ニも出檣ニ用候杉木と椀   *出柱は房総先端付近で
 を殊ニ歓候様子、椀麁末
(そまつ)之漆絵南天之模様御座候所、代る代る打  2月22日烈風で折れた
 寄詠誉候様子ニ御座候、警衛士之陣羽織毛類ハ更ニ目を懸
 不申
(かけもうさず)、却て下品ニても平金織物等誉好候様子ニ御座候

一船中花美之品更ニ無之、測量器ヲクダント至て上
 品ニて、先年イキリス船所持之品ニ増り、度を見候小遠鏡も
 替目鏡三挺迄揃有之、度之刻
(きざみ)え当候所針も無之仕掛も
 違申候、其外ニハ根付時計、砂時計、寒暖計、晴雨計等は
 所持有之、ヲルゴル壱面所持、彼胡弓をヲルゴルえ合候由

一丸砥は先年イキリス船之品同品ニ見え候間、尋候処イキリ
 ス産之砥也、砥石イキリス名産之由ニ御座候

一船之飾、舳之鷲矢来を持候は国王役之由、此鷲木彫金箔
 置模三間も可有之、水押ニも箔置候所有之、イキリス船ニ
 比
(くらべ)格別立派とは無之候得共船中奇麗ニて掃除致し、船張
 板をも洗申候、夫故か臭気も薄く御座候、豚拾弐三疋も有之
 候得共、親は箱え入置□□□打込候

一船は高金之掛り候様子、日本船同間数之船十倍ニも相当り
 可申と被存候、常々羅紗服着候は船主コフルのみニ御座候

一船主ヨルク宅絵図出し為見候、三階造之様ニて手広ニ被存
(ぞんじられ)候  *ロングアイランド
 是ハ自讃と被察
(さっせられ)候九才之女子、三拾四才之妻三人の像画     東端町の自宅
 三枚薄き箱ニ入、三ツヽ玉盤を掛候物為見
(みさせ)候、墨絵ニ候得共
 見事ニ御座候、妻子思情深き様子ニ被存候

一漂流人上陸為致
(いたさせ)候節、異国人共え助命之恩を謝、別れをする
 節漂民共一同落涙、異国人と相互ニ手を握別を惜、異国人
 とも至情深き様子、彼九才勝之助え異国人共打寄、何か同様
 之言葉暇乞致し候様子、言語不通候得共和語ニて申ハ必健ニ成長
 致せと申様成事と被察
(さっせられ)

一コウビイ呑候は阿蘭陀・イキリスに相替不申候、酒葡萄酒所持      *コーヒーか
 致し居候由、煙草は呑候へ共日本人程猥りニ用不申
(もちいもうさず)邂逅之様 *邂逅:まれに
 子ニ相見へ申候、イキリス之者え煙草をせし候は当分は丸メ口
 中へ入、いつか呑込腹中え納申候間、煙草食候様申候へばイキリス
 は食候得共ヨルクの者は不食由仕形致し、尤短き煙管を持居
 申候

一言語阿蘭陀語とハ違候由通詞申聞候、先年渡来之イキリス
 人之言葉聞覚書留置候もの有之、試ニ通じ見候所イキ
 リス語は通じ候様子ニ御座候

一船中ニて遣候蝋燭至て白く、会津晒蝋之様ニて真糸之如細        *晒蝋 白い蝋燭
 く、明り至て宜
(よろし)、是ハ鯨頭脳の油ニて製候物之由、右蝋燭食し
 為見、喰ひ候様申ニ付欠食見候処、風味は無之候へ共嗅気も無
 之由、随分飢候時は食糧ニ可被用
(もちいらるべし)と申者有之候、通詞阿蘭陀
 人之蝋燭同品之由、是ハ小児驚風ニ用切能御座候由申候
 右見聞仕候趣ニ御座候
     巳三月
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浦賀奉行の表彰
弘化二巳年三月廿九日
            御書院番頭格
             浦賀奉行
                大久保因幡守
   金五枚ツヽ    大目付
   時服三ツヽ      土岐 丹波守               
此度浦賀表え異国船渡来之節取計方行届
骨折候ニ付被下之
(これをくださる)
右於芙蓉之間老中列座下野守申渡之
(これをもうしわたす)

注: 
土岐丹波守: 大目付に昇進
下野守: 老中青山下野守
芙蓉間: 老中、大目付、勘定奉行、町奉行など
      三千石以上の旗本が詰める江戸城内の部屋



















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