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                  捕鯨船が取持つ日米最初の出会い
                    −浦賀奉行、幕府内保守派を打破ー


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  弘化2年(1845年)江戸に荷物を運ぶ二組の日本の
廻船が仙台沖と紀州沖で夫々遭難した。 幸いにして
八丈島と小笠原諸島の中間位でアメリカの捕鯨船に
助けられ、一人の犠牲者も出さずに合計22人全員無事に
浦賀に送り届けられた。 厳しい鎖国体制の中で例外的に
交易を許されていた中国・オランダ船でさへ長崎のみと
入港が制限されていた時代に、江戸の入口である浦賀に
入港しての漂流民引渡しは当時としては画期的な事だった。
 これは助けた捕鯨船の船長の人柄、漂流民の知恵も
さることながら、管轄である浦賀奉行の人道主義と世界を
見た大局的な進言が幕府内保守派を抑え幕府中枢を動かした
事による。

弘化雑記第三冊(内閣文庫所蔵)にはこの時の各種記録が長短四十本余収録されており、関係諸大名
及び家来の報告書、浦賀奉行の意見書、評定所意見、老中指示、漂流民の聞書、浦賀与力の聞取り調査、
風聞などである。  
上の画像は国立公文書館所蔵本による

1.米国捕鯨業の当時の状況

   19世紀後半に石油が照明ランプに使われるようになるまでは、欧米では鯨油が照明のランプや
蝋燭、機械の潤滑油としても使われ鯨は重要資源だった。 初めは北大西洋の鯨を捕っていたが
資源が枯渇、その後北太平洋の日本近海が良質な油の採れるマッコウ鯨の生息海域として発見され、
1820年代からイギリス・米国の進出が始り1840-50年は北太平用の捕鯨業はピークに達する。 
中継基地となるハワイには年
300-400艘の捕鯨船が寄港した。又1830年頃には無人の小笠原諸島にも
ハワイからの移住民
20-25名の男女がイギリスの船で渡り、捕鯨船への薪水供給を生業としたという。
 ここで22人の日本人を救助したマンハッタン号もその近海にいる平均的な米国の捕鯨船のひとつ
であり、前後して漂流し後に有名となったジョン万次郎やジョセフ・ヒコなども小笠原近辺で
米国捕鯨船や商船に救助されている。
 後に米国政府が日本に対してペリーを通じて要求した事は通商もさる
事ながら、緊急課題は米国捕鯨船に対する薪水の供給と米国捕鯨船が日本に漂着した場合の乗組員保護だった。 

2.漂流・救助の経緯

  阿波徳島の松平阿波守(蜂須賀家)の持船幸宝丸(1200石積)は江戸に米など物資を運ぶ為、
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人乗組み弘化元年1226日快晴の徳島を出帆した。 ところが同日紀州沖で天候が急変し
烈しい北風で沖へ流され遭難し大晦日、元旦と漂流中に年を越し、船も壊れる寸前に
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小さな島
(鳥島)に流れ着く。 伝馬船に食料など積み上陸したが鳥しか住まない無人島で水も
岩場に溜まる雨水位しかない。 しかし持ち込んだ食料と魚や貝を食べ色々工夫して命を繋ぐ。
 その後強風で伝馬船まで失い落胆している中、
28日朝この島に山かと思う様な大船
(クーパー船長の捕鯨船マンハッタン号、
440トン)が停泊した。 艀で異国人が上陸して
きたので言葉は通じないが兎に角助けて呉れと拝んだら分った様で、残りの食料を携えこの船に
乗せて貰う。 浦賀の通行証を見せたので日本人である事も分ったようであり、クーパー船長は
浦賀に送り届けるべく行動を開始する。 翌日
29日航海中、又沈みかけている日本船を発見
したので阿波の水夫達はあの船も助けて欲しい、とクーパー船長に手真似で頼み是も艀を下ろし
救助する。 此船は銚子の船で南部藩に雇われ江戸に物資を運ぶ為、釜石を
11011人乗組みで
出帆したが風向きが悪く、
113日仙台付近で風待ちをして118日に再出帆した。 しかし21
から
25日迄強い北風に煽られ八丈島の南方海上を漂流、楫も壊れ浸水していた所であり九死に
一生を得た。

3.房総に接近、日本の異国船厳戒態勢

漂流民22人は船内では親切な対応を受けたが、言葉が通じないので本当に日本に送り届けて
くれるのだろうかと云う不安を抱き続けたが、
217日朝見慣れた房総の山々を見て漂流民達は
歓喜する。 併し海岸では早くも異国船発見の狼煙が上り大騒ぎになっている様子である。
 漂流民達もこのまま異国船が浦賀に行けば追い返されるのではないかと危惧して、この異国船
には救助された日本人
22名が乗っている事を何とか報せなければ、と阿波船から由蔵、銚子船
から太郎兵衛の水夫壱名ずつを上陸させる事にする。 本船から昼頃艀を下ろし近くにいた
漁船を追いかけ無理やり
2名が乗移り事情を話して上陸を頼む。 しかし関りあいを恐れた漁船は
二人を人気のない場所(守谷村納戸浦、外房和田付近)に下ろし立ち去る。 二人は苦労して
何とか土地の村役人に出頭し、その日の内に村役人付添で由蔵は夜通し房総を横切って、翌
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朝警備の忍藩の船で対岸の浦賀奉行所(大久保因幡守)へ出頭する。 尚二人が上陸した場所は
御三卿の清水家の領分であったので、太郎兵衛は江戸の清水家に送られ家老の尋問後江戸詰の
浦賀奉行、土岐丹波守頼旨に引渡される。 二人が漂流の経緯、異国船に救われ親切に扱われた
事、船は
22名乗組みの捕鯨船であり食料、水が不足している事、仲間が上陸を待ちわびている
事など一部始終訴えた事は言うまでもない。 同17日夕方にクーパー船長は更に2名を惣戸村
(千倉付近)に上陸させ、こちらは房総警備担当である忍藩(松平下総守)の管轄地域であった
ため、其のまま翌朝忍藩の警備船で浦賀奉行へ差し出された。 出頭の漂流民達の報告で
マンハッタン号が浦賀に入ろうとしているので、付近は厳戒態勢が敷かれたが2月20
-21日頃
房総半島先端は烈風が吹き波も高く、浦賀奉行の番船も近づけない状態の中マンハッタン号も
警備の視界から突然見えなくなり、遭難したのではないかとの噂も流れる。 

4.浦賀奉行の異国船浦賀受入れ進言、幕府内部の反対派と論戦

幕府の方針として房総先端の洲崎と三浦半島先端の城ヶ島と結んだ線の外で異国船を留めて
詮議する事を原則としているが、先行上陸の日本人水夫達を取調べた結果、浦賀奉行大久保因幡守
はマンハッタン号に関しては疑わしい点はないので、浦賀湊に受け入れた上で取り調べをしたい旨
老中筆頭阿部正弘に伺書を提出する。 又当時漂流民送届けを名目に交易を迫る例が多かった為、
幕府では天保14年(1843)国交の無い国からの漂流人受取りは禁止しており、受取る場合は長崎で
しかも国交のある中国・オランダ経由のみと触れていた。 是に対して江戸詰めの浦賀奉行
土岐丹波守は太郎兵衛を取り調べた結果、今回は異国で生活していた漂流民を届けた訳ではなく
異国船が漂流中を助けたものであり、しかも本業である捕鯨を中断してまで送り届けたのである
から触れの例外である。 これを浦賀目前にして長崎へ回航させる事は漂流民の健康の面、更に
捕鯨船の業務を妨げる事になり、又長崎迄の異国船の護送は警備上困難であり恩を仇で返す事にも
成りかねない、此度は漂流民を浦賀で受取り薪水・食料供与等相応の謝礼をしたい、という事を
老中に進言している。
 是に対して幕府内部で勘定奉行を中心とする評定所から大久保、土岐に対して猛烈な反対が
あり、薪水及び相応の食料を与えるのは良いとしても漂流民受取りはあくまで規則通り長崎で
唐オランダ経由、と主張するが最後は老中筆頭阿部伊勢守の英断で一時的処置として浦賀奉行の
方針を認める。

5.マンハッタン号の浦賀入港と漂流民の上陸

浦賀奉行と幕府保守派が烈しく論議している間、マンハッタン号は強風を避けるため九十九里
方面に避難していたが
310日再び房総先端の洲崎付近に現れる。 早速警備の忍藩、浦賀奉行与力、
川越藩などが次々乗り込み浦賀に入港させようとするが風向きが悪く、多数の引船により
311日に
入港する。その時の状況が弘化雑記の中、「無人島漂流記聞」の一節で次の様に表現されている
「浦賀湊へ数百艘の御用船・役船にて引き込ませ、その船の廻りを浦賀御備え船を始、御用船ハ勿論
その外房総の御固め船・大津陣屋(川越藩松平大和守)よりの御備え船、その外浦々の固め役船にて
十重、二十重に取巻き、兵糧運送船の外は更に異船へ近づけず、その厳重なる事夥し。 夜は州々
(諸藩)の固め提灯数を知らず、且篝火を海中に煌きさながら白昼の如く異船見物の人は海岸山野に
満々たり。 扨漂流の水主中(乗組員)疲れぬらんと厚き思召しにて兵糧方へ仰付けられ粥を下され、
夫より一両日過ぎて飯・魚類等迄下されけり、粥と汁を食せし時の好味なる事喩える物なし、殊に
御恵の程有り難し。夫より皆々上陸致し御礼ありける」

6.浦賀奉行の通達とマンハッタン号の離日

314日には土岐丹波守が浦賀に急行し幕府の正式な通達と漂流民送り届けの謝意をクーパー船長に
伝え、薪水・食料・その他を与えるが二度と渡来しない様にと付け加える。 尚マンハッタン号の
乗組員の上陸は許されず奉行側が同号を訪問している。 又異国船についての報告は風聞を含め
断片的に多数弘化雑記に掲載されているが、洲崎から乗り込んだ浦賀与力の報告と思われる
「亜米利加船雑事」が最も正確で且つクーパー船長の人柄や船員達の実像が良く表現されている。 

マンハッタン号は予定通り漂流民を引渡し薪水・食料を貰い3月15日早朝浦賀湊を出帆するが、
風向きが悪く再び洲崎まで多数の引船で引き出しの後日本を去る。 幕府では本件処理が行届いて
いたと云う事で浦賀奉行を表彰しており、土岐丹波守は大目付に昇進している。 マンハッタン号は
平和裡に浦賀に入港した始めてのアメリカ船となり、その翌年(1846年)アメリカ東印度艦隊の
ビッドル提督、更に七年後ペリー提督(1853年)の渡来と続く。

弘化雑記解読文及び現代語訳
1.
由蔵の村役人護送届書       2.松平下総守の由蔵届け書   3.清水家の太郎兵衛差出届
4.土岐丹波守太郎兵衛取調聞書   5.大久保因幡守伺書        6.土岐丹波守進言
7.評定所一座の異見           8.幕府指示書 覚         9.通詞差出の書付
10
亜米利加船雑事          11.浦賀奉行の表彰

参考資料
幕末の小笠原 田中弘之著 中公新書
黒船前夜の出会い 平尾信子著 NHKBooks


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