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翻刻文 現代文訳及び註
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    加治木
一畠山治部少輔、構要害候加治木土器園之儀、相尋候
 処ニ古老之者申候ハ、能仁寺之上黒川嶽ニ右石墻
 今に相残有之、且叉古昔ハ右嶽之下ニ土器園、平之園
 等之村三ツ為有之と候得共今にハ無之由申候、丑四月
 四日案内者召列、右之所々登り候而見申候へハ、右石
 垣所々ニ有之候、 能仁寺之上ゟ白浜権現上迄石垣
 所々ニ相残有之候、先年碗皿之類堀出為申由候
一天文廿三年五月廿九日、伊集院大和守忠朗父子、
 黒川崎ニ陣取、肝付越前守・蒲生・渋谷之主家対陣を
 取候所相尋見分仕候、黒川崎能仁寺之上辺古陣□
 古老之者申
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 伝候、肝付方之陣取候所を今に今陣と申伝有之、□
 □陣之出申候へ共、古陣共出申哉と存候、黒川を隔
 □ 対陣ゟ西之方ニ而候、段土村と申民家右之辺ニて候
一忠昌公、肝付次郎左衛門ニ被下候
七月三日之御状ニ
 相見え申候本安国寺之地相尋申候、当時安国寺有之
 候ハ加治木城之下ニ而候、本安国寺ハ当安国寺ゟ
 二町少坤之方ニ而為有之由古老者申候
一天文十一年三月 日新様 貴久公敵攻加治木ニ、生別

 府之城ゟ御発向ニ成、吉原ニ御陣為被成由候、北原兼
 孝(或祐兼)真幸院ゟ入溝辺、高杉城ニ而其後札立ニ陣
 取為申由候、右札立と申候所ハ加治木城坂口ゟ五町少し
 坤之方ニ而候、当時士屋敷有之辺にて候、吉原之御陣と
 申候ハ城ゟ南六町少々有之所ニ而当時田畠ニ而御座候
一天文廿三年八月廿九日渋谷・菱刈・蒲生衆多勢加治木
 城向申候、城主肝付三郎左衛門開城門、網掛橋ニ□□
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 古昔之網掛橋ハ只今之橋より少川上之方ニ有之
 由古老之者申伝候、川之流も昔ハ当橋ゟ上四五町□
 □ 之方ニ流廻候而、川下ハ只今之所へ為有之由候
一右同日ニ清水・宮内・長浜卒等走来市場ニ戦、清水
 衆市来彦六、長浜卒中村舎人戦死と有之候、只今
 市場と申所無之候、昔ハ城下近町有之、城下郷田と申
 所ゟ城坂口之辺迄町屋有之、城坂口ゟ西之方へ市
 場為有之由、古老之者共申伝候
     加治木
一日向守護の畠山直顕が加治木の土器園に要害を
 構築した場所を尋ねた。 古老の話しでは能仁寺
 の上の黒川嶽に今も石垣が残っていると言う。 
 叉昔はこの山の下に土器園、平野園等という三つの
 村があったが今は無いとのこと。 
 丑年の四月四日に案内人を連れ同山に上って
 見たが石垣は所々にあり、能仁寺の上から白浜
 権現の辺り迄石垣がある。 以前に碗や皿も掘り
 出したとの事である。
註 畠山治部少輔直顕: 南北朝時代に幕府領保全
 の為足利尊氏により日向に派遣された。 大隅にも
 介入した為、薩摩大隅守護の島津貞久とも争った。

一1549年5月29日、伊集院大和守父子が黒川崎に
 陣取り、肝付越前守、蒲生氏、渋谷一族と対陣した。
 黒川崎能仁寺上を古陣と云い、 肝付方の陣を今陣
 と申し伝えている。 黒川を隔てて対陣しており西の
 方に段土村というのがあり民家がある。
註:黒川崎の戦いは天文18年である。 島津家の大隅
 統一過程の一つ。 

一忠昌公(11代太守)が肝付次郎左衛門に七月三日
 に出した書状に見える本安国寺に付いて尋ねた。 
 現在安国寺は加治木城下にあり、本安国寺は当
 安国寺より200m程南西になると古老は云う
註:島津忠昌11代守護(1474-1508在職)

一1542年3月日新斉と貴久公は加治木に敵を攻める
 為生別府から出陣し、吉原に布陣した。北原兼孝は
 真幸院から溝辺の高杉城に入り、其後札立に陣を
 移した。 札立とは加治木城の坂口より500m程東南
 の方である。 現在はこの場所は田畑になっている。

一1554年8月29日渋谷、蒲生、菱刈連合軍が加治木
 を攻めた。 城主の肝付三郎左衛門(守護側、兼演)
 は城門を開き網掛橋で戦った。 昔の網掛橋は現在
 の端より川上にあったと古老は言う。 叉川の流れも
 昔は現在の橋より4-500m程離れており、川下は現在
 の所という。
註:黒川崎の戦いでは肝付兼演は反守護側だったが
 降伏後守護側になり、この時の城主兼演は守護方

一上記合戦時、清水・宮内・長浜などから加治木救援
 で市場に駆けつけ、清水の市来彦六、長浜の中村
 舎人が戦死したと記録にある。 市場と言う所今は無い
 が昔は城の近く迄町があったと思われ、郷田と言う所
 から城坂口の辺りまで町屋があった。 城坂口の西の
 方を市場と云った、と古老は伝える。 
註 加治木: 現姶良市加治木町 
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    溝辺
一氏久公之御代、本田重親籠溝辺城、畠山之軍囲之及
 危難候処、帖佐萩峰城ニ畠山之執事野本藤次籠城仕
 候を守護方ゟ責申、是も急難之故、双方以和睦両城
 互ニ引取、命を保候通有之候、且叉肝付越前守等在城
 之由候、今に本城二之丸其旧跡相見得申候
一天文十一年春北原使、師旅発向、干溝辺玉利塁已破
 候際、本田之士卒救来候処、北原之兵対之於上野□
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 合戦仕、本田刑部少輔五六十人余屠殺仕候と有之候
 溝辺城三町少南之方ニ有之、三方ハ深谷ニ而、東之
 方田上野之広原ニ続キ平地有之、当時民家多有之候
一北原兼孝(或祐兼)日新公・貴久公ニ御味方仕、加治木
 城を為攻、溝辺高杉城に入、夫ゟ加治木札立ニ陣取候
 と有之候、
 高杉城ハ溝辺之内、せまりと申村ゟ十町少北之
 方ニ有之、通道ゟ西六七町ニ有之候野原ニ而、能キ
 要害之地ニ而御座候、東之方道一筋の通路有之候

 今に要害之切岸・曲輪慥ニ相□レ有之候、三方
 深谷ニ而一方も容易ニ多人数押出申様成所ニ而
 御座候、城之腰を廻り候て通路有之、城外ニ古昔之弓
 場と申伝所御座候、当時弓場カ廻と申畠ニ而候、馬場
 カ廻と申所も有之候、城ゟ壱弐町東之廻にて如何様
 古ハ高杉之通路ニ而候哉と存候、当時ハ其廻畠之通
 路之小道を通申候
      溝辺
一氏久公(六代大隅守護)の時代に本田重親が溝辺城
 で畠山軍に囲まれ危難に陥っていた。 一方帖佐の
 萩峰城では畠山の執事野本藤次が守っていたが、
 守護方に攻められ、矢張りこれも苦戦していた。 
 そこで双方が和睦を話し合い両城を互いに囲みを
 解き延命した。 
 肝付越前守もここに在城したことがあるという。 今でも
 本丸と二の丸の跡が残る

一1542年春北原(真幸院領主)の派遣軍が溝辺を
 攻め、玉利塁も破られたので、本田の兵が救援に
 向かい北原軍と戦った。 その時本田刑部少輔は
 五六拾人殺戮したという。 この場所は溝辺の城より
 三町程の南の三方が谷で東の方に田や広原が続き
 今は民家も多数ある

一北原兼孝が日新斎、貴久公に味方して、加治木城を
 攻めた時溝辺高杉城に入り、それから加治木札立に
 布陣したという。
 高杉城は溝辺の中「せまり」という村から1000m程北に
 ある。 通道より西7-800mの野原で要害の地であり
 東の方に道一本ある。 今でも要害の切崖、曲輪など
 が残っている。 三方が深い谷で一方は多人数を楽に
 押出せるような所である。
 城の周囲には道があり、城外に昔の弓場があった由で
 今は弓場廻と言う畠である。 馬場廻という所もあり
 これは城から100-200m東にある。 昔は高杉の通路と
 思われるが、今は畠となり小道が通っている。

註 溝辺: 現霧島市溝辺町
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   踊
 踊城ハ麓ゟ半里少西南之方ニ而御座候、東之方野
 頭と申候而、一方平地に続申候、南西北ハ深谷ニ而急流
 之山川、城下を続申候而、橋なくてハ終而渡無御座候
 石堅城々と有之、山下ゟ見あけ候へハ、鳥も翔り不
 申躰ニ而候、俗説ニ申伝候ハ昔日敵寄来申候へとも
 城中ハ少も困障不申、踊を仕居候故、踊城と申

 伝由と申事にて候、日当山境ニ而候城下之谷を隔
 西之方ハ日当山ニ而候
      
  踊城は麓から半里少し西南にあった。東の方は野頸
  と云い、一方が平地に続いている。 南西北の三方
  は深い谷で急流の山川が城下に続いており、橋が
  なくては渡る事はできない。
  石による堅固な城で山下から見上げれば、鳥も飛ば
  ない程である。  俗説であるが、昔この城に敵が
  攻めてきたが城中は全く支障なく、踊りを踊っていた
  ので踊城ということである。 日当山との境となる城下
  の谷を隔て、西は日当山である。

註 踊: 現霧島市牧園町
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   横川
一横川城ハ北原伊勢介・同新介父子籠候処ニ、
永禄五年
 六月三日□ 攻之、忠平公・歳久為大将御発向被成、
 貴久公ハ溝辺御陣被遊、新納忠元・伊集院久春被仰付、
 横川ニ被差向、 忠平公指揮被遊、御攻被成、忠元・久春
 抽戦功、攻之候処、 北原父子奮出相戦候、本田刑部
 少輔・滝聞美作守対之、終ニ北原父子戦死為仕由候、
 城山ハ当時麓ゟ西七八町ニ而御座候、南之方野頸へ
 相続、西東ハ谷、北東之方

 北ニ河流、大手ハ南ニ而候、北原父子塚之木と申杉数本
 有之候由、其木ハ枯申し候、乍然今に枯木ニ而有之候、
 大手ゟ東、荒神城と申曲輪之小道之脇にて、南之
 野頸と申城山上之方ニ軍配松と申大木有之候、忠平様
 御軍配為被遊所之由候、然ハ 忠平様ハ野頸ゟ御攻被
 遊候半と存候、歳久ハ吉田之兵を率、城門ニ攻入為被成
 由候故、 大手ゟ御攻被成候半と為候、北原戦死之場ハ
 当分申伝候塚木之辺ニ而候哉、叉ハ別所ニ而戦死候を
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 葬らい申伝も無之候、只北原之塚とも古老申伝□
 軍配松と申ハ当時畠之中ニ而有之候也
一忠昌公、肝付次郎左衛門へ被下候御書ニ昨日野頸之手
 仕一途事成候□□井手之事、其日之案否之由□□申候
 □ □之處ニ□切落候事喜悦候と有之候、城□□
 之口前ニ川流有之、当分井手有之候ハ川上に有之□□
 大手ゟ間遠有之候、昔ハ大手之前ニ井手有之候故
 井手之事安否と有之ことと存候、当時荒神
 □下川□□御座候を色紙カ渕と申、昔合戦
 之□□□ニ而色紙を流候ニ相□故、色紙カ渕と
 申之由、古老申伝候
一伊集院久春横川地頭ニ而、城山本丸ニ被罷居候へ者大
 平之時分、不自由故、後ニハ住寿寺馬場と申城麓ニ
 移居にて候、今に久春父子之屋敷申伝相知候
一城山麓之方ニ高キ山御座候、城ゟ間一町少有之候、
 内記之城と申伝、曲輪の御跡相見得有之候へ共、別ニ申
 伝説も無之由候
    横川
一横川城は北原伊勢介と同新介父子が守っていたが
 1562年6月3日守護方が攻めた。 忠平公(島津義弘)
 及び歳久(義弘弟)を大将として出陣し、貴久公(15代
 太守)は溝辺に陣を取り、新納忠元及び伊集院久春を
 横川に派遣した。 忠平公の指揮の下で忠元、久春は
 戦功を争って攻撃した。 北原父子は奮出て戦った
 が、本田刑部少輔や滝聞美作が対応し、終に父子は
 戦死した。
 城山は現在麓の西8-900mにあり、南の方は野頸に
 続いている。 西と東は谷で北東には川が流れており、
 大手は南である。
 北原父子塚の木と云う杉が数本あったが、その木
 は枯れてしまった。 しかし枯れ木の状態で今も残って
 いる。 
 大手より東の荒神城と云う曲輪の小道の脇で、南の
 野頸と云う城山に軍配松という大木がある。 忠平様
 が軍配をもって指揮した所だと伝えている。 この事
 から忠平様は野頸から攻めたのではと云われている。
 歳久は吉田の兵を率いて城門から攻めたとあるので。
 大手から攻めたと思われる。 
 北原父子戦死の場所は今伝えられている塚木の辺り
 だったろうか。 或は別な場所で戦死したのを葬らった
 のか伝わっておらず、只北原の塚と古老は云う
 軍配松というのは今は畠の中にある。

一忠昌公肝付次郎左衛門へ被下候御書ニ昨日野頸之
 手仕一途事成候□井手之事其日之案否之由□申候
 □ □之處ニ□切落候事喜悦候と有之候、城□□
 之口前ニ川流有之、当分井手有之候ハ川上に有之□
 大手ゟ間遠有之候、昔ハ大手之前ニ井手有之候故
 井手之事安否と有之ことと存候、当時荒神
 □下川□□御座候を色紙カ渕と申、昔合戦
 之□□□ニ而色紙を流候ニ相□故、色紙カ渕と
 申之由、古老申伝候

一伊集院久春は横川の地頭に任命され、城山の本丸に
 住居していたが、平時は不便なので仁寿寺馬場と云う
 麓に移り住んだ。 今でも久春父子の屋敷と伝え知ら
 れている。

一城山の麓の方に高い山が城より100m程にある。 
 内記の城と伝わり、曲輪の跡の様にも見えるが、別に
 申し伝えもない。

註;横川: 現霧島市横川町
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   栗野                   目次に戻る
 栗野城山 維新公天正十七年ゟ御在城ニ而文禄四
 年迄被遊御座、高麗へも栗野ゟ御首途為
 被遊由候、御屋敷之旧跡有之候、其時分ハ本丸ゟ二之
 曲輪ニ橋為有之由候、大手ハ西向ニ而一二之曲輪之
 間を通り、本丸之腰を北之方ニ廻り候、御本丸之口
 東向ニ而候、本・二之外御厩城・八幡城・弥掛城・松男城
 □□城・□城・半助之城・鷲尾城と申八ツ之曲輪
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 御座候、栗野城惣名を蓬莱山松男城叉
 松男山栗野城と申俗説二様有之由候

一直顕北方・島津上総入道、以肥後宮令旨引率薩摩
 凶徒并所々悪党等逐落、大隅隈本城・栗野小里
 城云々、小里城と申伝所無之候、坂元と申所、麓ゟ
 西半里少ニ古城山有之候而、堀切等も相残有之候
 此城山ニ而も可有之候哉、別ニ小里と申所も叉ハ城山
 無之候
    栗野
 
栗野城山は維新公(島津義弘)が1589年から1595
 年迄在城し、朝鮮への出陣もこの栗野から出発したと
 云う。 屋敷の跡があり、その頃は本丸から二の丸の
 曲輪への橋も有ったと云う。 大手は西向で一の丸、
 二の丸の間を通り、本丸の下を北に廻っていた。 
 本丸の口は東向で本丸、二の丸以外に厩、八幡、
 弥掛、松男、半助、鷲尾等八つの曲輪があった。 
 栗野城全体を蓬莱山松男城叉は松男山栗野城と
 いう二つの俗説がある

一畠山直顕は北朝武家方(幕府側)の島津上総入道
 (六代薩摩守護師久)と共に、南朝宮方の令旨を
 奉じる薩摩の豪族達を大隅隈本城、栗野小里城に
 攻めた云々と記録にあるが、小里城という所はない。
 坂元と云う所は麓から西半里ほどだが、此処に古城が
 あり堀切等も残っているが、この事だろうか。 外に小里
 と言う所も城山もない。

註 栗野:姶良郡涌水町
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   吉松
 吉松城山者 維新様御縄張之由申伝候、麓
 東之方八九町ニ有之候南之丸と申所本丸ニ而候
 北之丸と申曲輪ハ本丸同前之曲輪ニて候、南
 北之間二三町も有之候、大手ハ北方ニて候、東ハ吉田
 城有之候、城之北ハ深河ニ而吉田・馬関田・加久藤・飯野
 □□□ニ而候、大手ゟ北東之方牧坂口と申所
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 維新様別而為被入御意處之由申伝候
一亀城と申城山ゟ向西北之方ニ当小高所有之候、当分
 民家有之候、日州方ゟ菱刈へ罷越候、般若寺越
 通路ニ而候、是をも 維新様被入御意、為被仰付
 置處之由候
一中城と申候て田之中へ差出候中高キ所之□場ニ而
 是者要害之所と申伝候、本城・□□城之中間
 □有之、其間者深田ニて候

一大永之頃新納殿西之城飯野と所々相見申候
 西之城と申所ハ無之候、当麓を西と申候由候
 城山ゟ西ニ相当り平山城之様子ニて、要害之
 □有之候間、西之城ハ此所ニ相究申候
一般若寺ニ勝久公為被成御座由候、門前之内ニ奥之
 御屋敷ニ為被成御座由申伝候、古昔ハ勝久公
 御屋敷と申儀を者隠密為仕由、古老ゟ伝候
一□田吉松之内鶴丸名迄ハ日州之由ニて隅州□□
 
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 □□為被召加由候
一般若寺越と申菱刈通路ハ般若寺ゟ北五六
 町ニ有之候
 元久公御譜ニ筒羽野ハ元来愛甲某居等と相考候
 箱崎八幡之宗廟之辺、筒羽野と申所ニ候得共、当時筒
 羽野之所境之儀相知レ不申候、永仁三年癸酉八月
 十五日箱崎八幡宮へ愛甲太郎右衛門景威寄進状
 御座候、尤筒羽野箱崎八幡宮と有之候右文書座主
 光照院□□□
    吉松
 
吉松城山は維新様(島津義弘)の設計と云われており
 麓の東9-1000mにある。 南の丸と云われている所が
 本丸で、北の丸という曲輪は本丸同様の曲輪である。
 南北の間は2-300mあり、大手は北の方にある。 東は
 吉田城があり、城北は深い河で吉田、馬関田、加久藤
 飯野の各城が続く。 大手より北東の方にある牧坂口と
 云う所は維新様が特にお気に入りの所と云われている
註:川内川に沿って上流に上記城が続く

一亀城と言う城山から見て西北の方に小高い所があり、
 今は民家がある。 これは日向国方面から菱刈への
 般若寺越と呼ばれる通路である。 これも維新様の
 お気に入りであったと云う

一中城と云う田の中へ突出た高い所があり、これは要害
 の場所と伝えられている。 本城と亀城の中間にあり、
 その間は深い田である。

一大永の頃(1521-1528)新納殿西の城飯野と所々に
 記録が見えるが、西の城と云う所は無い。 この麓を
 西と云っていたという。 城山より西に当り平山城の
 様子であり、要害の地とあるので西の城とは此場所に
 間違いない。

一般若寺には勝久公(14代太守1519-26))が滞在し
 門前の奥の屋敷に住んだという。 昔は勝久公の
 屋敷であると言う事は秘密になっていた、と古老は
 伝える。
註:伊作島津家、島津忠良(日新斎)と貴久父子に追わ
 れ当地に隠棲した。 最終的に豊後に逃れたと云う

一吉松の内鶴丸迄は日向の国である
註: 現在吉松付近及び鶴丸も鹿児島県

一般若寺越という菱刈通路は般若寺より北に5-600m
 の所である。
 元久公(7代太守1376-1406)の記録にある筒羽野
 元々愛甲某が居た所と考えられる。 箱崎八幡の宗廟
 の辺に筒羽野と云う所があるが、現在筒羽野の境界は
 分らない。 永仁三年8月15日(1295年)箱崎八幡宮
 へ愛甲太郎右衛門景威の寄進状がある。 これには
 筒羽野箱崎八幡宮とあり、座主は光照院何某とある。

註: 吉松:姶良郡涌水町、 菱刈: 現伊佐市
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   吉田
 吉田城ハ麓ゟ北二三町少有之候、三曲輪有之候哉
 平野六郎左衛門地頭迄ハ城中ニ為被居由候、成程小城
 ニ而御座候、大手口ハ広弐間少々、堀長サ三十間少々と
 右之櫓ニ而城へハ上為申由候、西之方ニも城門御座候
 南方之口本丸ゟ走り下りニ而取遣申候、其節
 切懸為申様成岸壁ニて候、本丸之外二曲輪
 堀切ニ而、橋ならでハ通シ不罷成候へは、往昔ハ橋為
 有之候哉と存候
p13
 城山之南大手ゟ一町少ニ当時弓場御座候、忠平公
 菱刈御出陣之節、弓場地ニ而御整揃為被遊通申
 伝之、般若寺越ハ壱里少間有之候
    吉田
 
吉田城は麓より北へ2-300mのところにあり、三つの
 曲輪で構成されている。 平野六郎左衛門が地頭を
 している頃迄は城中に居住していた。 かなり小城で
 大手口は幅3.6m少々、堀の長さは50m弱で右の櫓
 から城へ登るようになっていたという。 西の方にも
 城門があり、南の本丸から走り下るようになっており、 
 途中切り掛けの岸壁になっている。 
 本丸の外の二曲輪は堀切になっているので橋がない
 と通行できない。 昔はおそらく橋があったと思われる。
 城山の南方大手から100m少しのところに現在弓場が
 ある。 忠平公(島津義弘)が菱刈へ出陣するとき、
 この弓場に軍兵が集まったと伝えられる。 ここから
 菱刈への般若寺越は一里程である。

註: 吉田: 現えびの市最西部
p13                        目次に戻る 
   馬関田
 城山ハ麓ゟ一二町北ニ有之候、曲輪三ツ御座候、大手ハ
 南向ニ而候、三方ニ口御座候、十町余廻り之小城ニ而候、
 口之外ハ高キ岸壁ニて候、城内石墻等罷残有之候
一城之東五六町ニ新城と申古陣御座候、求麻之人数為陣
 取由申伝候、求麻越之路土瀬戸越・駒帰行と申二通之
 路ゟ寺園と申郊原之南之はつれニ而、加久藤徳満
 城と馬関田之城之間ニて候、尤求麻ゟ真幸ニ押入候節
p14
 此寺西之原ニ陣取不申候而ハ不叶程之能陣場
 ニ而、真幸中ハ見下シ申所ニて御座候、徳満城・馬関田
 之城を間近ク見下シ申所ニて候
一求麻越土瀬戸□□寺西之原ニ民部塚と申所
 御座候、北原民部少輔を伊東三位入道馬関田
 右衛門ニ謀候而討為申由候間、此民部少輔之塚ニ而
 御座候哉と存候、原上ニ少地を高ク引あけ、方
 二間少ニ土壇有之候て、其中ニあけち之方成塚
 壱ツ御座候、平人之塚ニ而有之間敷様子ニ御座候

 北原民部少輔塚ニ候と存候、二ツ之内壱ツ□
 如何様共難致推量候故、民部塚ハ馬関田・加久
 藤之墻場所ニ而御座候
一平と申所ニ阿弥陀堂御座候、犬太郎殿形代之
 阿弥陀と申事ニて、先年炎上有之候故、棟札等ハ
 無之由候、加久藤之内徳満之城ゟ四五町西之方
 御座候、切腹之節供衆六人之石塔、堂之辺ニ有之候由
 当時ハ無之、石塔一ツ相残候、石塔之石其辺ニハ
 少々有之候、左馬尉久林徳満城ニ而切腹之由候へハ
p15 
 定而右之處ニ墓為申にて候哉と存候、仏躰
 なとも無御座候、如何様炎上仕候哉、往昔之仏像
 ニ而ハ有之間敷と存候、堂ハ小キ薬堂ニて候
 久林切腹之介錯ハ竹添名字之者仕候間、則自
 身も切腹為仕由申伝候、右之子孫ハ馬関田衆中
 山下伝右衛門と申者之由候
一大円寺ハ城之西ニ有之候、北原氏菩提所之由候、古
 石塔三基、古旦那之由候間右之通、其外古神主有之
 一瑚庵玄珊 一明珍□ 一量月主計

 右三基之石塔年月日・元俗氏書記無之候、歳□□
 之入たる石塔ニて候
 一宗翁乗公禅定門      一捨田檀那古岩奉公庵
               永正一年乙巳六月十四日  
                十一代北原民部少輔久兼
 一家宗舜篤記室禅師     一捐舘雪岺玄盛大禅門
   天正四年丙子葉月十三日 
 一助翁浄祐禅定門      一捐舘瑚庵玄珊大禅定門
   弘治二年六月
 右六人者神主有之候、古旦那ニ而候事と存候、此外□□
 古神主余多有之候
 
    馬関田
 
城山は麓から100-200m北にあり、曲輪が三つある。 
 大手は南向きで三方に口がある。 周囲は1キロ余りの
 小城である。 口の外は高い崖になっており、城内には
 石垣の跡が残っている。
一城の東5-600mのところに新城といわれる古い陣跡が
 ある。 球磨(肥後南部、人吉)の軍勢が陣を敷いた所
 と伝えられている。 この陣は人吉方面から土瀬戸越、
 駒帰行と云う二つの通路か寺園という原のはずれで
 加久藤の徳満城と馬関田城の中間である。 人吉方面
 から真幸地方を攻めるには最上の場所であり、真幸中
 を見下ろし、直ぐ下に徳満城と馬関田城がある。

一人吉方面への土瀬戸通路寺西の原に民部塚と云う石
 がある。 これは伊東三位入道(義祐)が馬関田右衛門
 に謀殺させた北原民部少輔(兼孝)の塚と推定する。
 野原の上に2間四方程土を高く上げ、その中一間四方
 の塚がある。 普通の人の塚ではない様子で、北原
 民部少輔の塚と考える。 もう一つ塚があるが、これは
 誰のものか推定できない。 民部塚は馬関田と加久藤
 の境界にある。
註:真幸院領主北原家当主兼守が小林三山城で病死
 した時、北原一族は兼孝を後継に押した。 しかし
 兼守の舅である伊東義祐が介入し、北原一族の庶子
 の馬関田右衛門を支持し、右衛門に兼孝を謀殺
 させたと云われている。 兼守死去は1558年

一平という所に阿弥陀堂があり犬太郎殿阿弥陀と云う。
 以前に炎上したので棟札は無い。 加久藤の徳満城
 から4-500m西の方にある。 切腹時の供衆六人
 の石塔も堂の廻りに有ったと云う。 今は石塔一つだけ
 あり、石塔の石片はその当りに少しある。 左馬尉久林
 は徳満城で切腹したと云われているので、おそらく墓
 だろうと推定する。 仏像など炎上したと思われ今ある
 仏像は昔の仏像ではないと考える。 堂は小さな
 薬堂である。
 久林切腹の時、介錯は竹添某が務めたというが、彼も
 直ぐ切腹したと伝えられる。 彼の子孫は馬関田の者
 で山下伝右衛門と云う。
註: 島津家総州家と奥州家の争いで総州家子孫の
 久林は真幸院、北原氏を頼り徳満城に匿われたが、
 島津忠国(9代太守奥州家)に知れ、軍勢を向けられ
 切腹したと云う(1442年)

一大円寺は城の西方にあり、北原氏の菩提所である由
 古い石塔が三基あり、古い檀那と思われ古い
 霊牌がある
  ・瑚庵玄珊  ・明珍□  ・量月主計
 上の三基には年月日、俗名など表記ないが、次の
 石塔には年月日が入っている。
 ・宗翁乗公禅定門     ・捨田檀那古岩奉公庵
            永正一年乙巳六月十四日(1504)
                十一代北原民部少輔久兼
 ・家宗舜篤記室禅師   ・捐舘雪岺玄盛大禅門
   天正四年丙子葉月十三日 (1576年)
 ・助翁浄祐禅定門     ・捐舘瑚庵玄珊大禅定門
   弘治二年六月 (1556年)
 上記六人は霊牌があり古い檀那と思われる。 外にも
 古い零牌が多くある
註1.神主(しんしゅ) 儒教の葬礼で、死者の官位・
 姓名を書く霊牌。仏教の位牌にあたる
註2. 捐館: 館(屋形)を捐(捨てる)てる。 死ぬ事。

註 馬関田(まんがた): 現えびの市西部
p16                       目次に戻る
   加久藤
一加久藤城山本丸ハ御屋地ニて候而忠平様為被成御座候
 と所之者ハ申伝候、御前様ハ慥ニ被成御座候、 忠恒様
 産所と申候而本丸ニ松有之候も往昔之松ハ風ニ倒申候故
 其後植次為申候由候、妙見・荒神・水天之三神を一所ニ
 祟、当城之擁護として元亀三年三月四日ニ本
 丸ニ忠平公御建立被遊候、幻生様於当城御卒去
 被遊、則城内西之尾箱ニ御墓所有之候処ニ後□
p17
 御移シ被遊候故、当分ハ印之松も御座候、御遺躰ハ
 不動寺ニ箱之内に奉納、爾今被成御座候、元亀三年
 五月四日、伊東之族当上江筋ゟ当城ニ逼候時、搦而錀
 掛口と申方、城之西之口ニ而候ニ責入申、誤而樺山淨慶
 と申人居申候搦手ゟ西ニ城曲輪躰之宅地御座候ヲ
 攻申候ニ付、淨慶父子三人於攻口戦死仕候内ニ
 城兵突出仕、敵を追出申候、当時徳泉寺とも
 寺地を淨慶屋敷と唱申候、左候而敵ハ城之南
 □□□□小田渡瀬ト申大河之渡を打渡□□

 □□居候処ニ、不動寺の住僧衣之下ゟ鉄砲を 
 持出候而敵将之内、米良筑後と申人を射殺申候
 夫ゟ敵敗北仕候ニ、加久藤之人数、其外吉松ゟ
 番手之人数続合押掛候へハ、敵ハ木崎原□
 様ニ為参候由候、 忠平様ハ加久藤ニ敵迫之通
 被聞召、且叉煙火立上り候ニ付、四五十騎ニ而野谷
 筋を御通り被成候処、大明司二八坂之遠見番之者
 敵ハもはや木崎原之辺ニ引返申候由申上候故、杉
 水流筋之様ニ御成為被成候由候
p18
一彦山寺往昔ゟ之土地之由候、一唯様御石塔
 御牌被成御座候、其由緒ハ前住光厳上人と申
 僧 叉市様御師匠故、御牌御石塔被立
 置候通申伝候
一徳満城ハ往昔北原氏属求麻故、相良之弟
 祐頼、於徳満城北原と執口論、差違へて死申候
 其時北原之世倅 元久公ニ改先非御加勢申請
 相良之兵を追出、真幸を全領知為仕候由候
 
 御記録之内ニ相見得候徳満ハ十二三町も廻り
 申小城ニ而、曲輪三ツ有之候野城ニて
 北之方ハ深谷ニて候、城之北馬関田之内寺園原と申広原
 ニて候、 求麻越之下ニて候、寺園と城と之間七八十間も
 御座候、左候て高サも同高サニて候、東南西下ハ
 平地ニて候へ共、城ハ切立候様成ワけニて候、本丸ハ
 西ゟ少北之方ニ有之候而御座候、一二三之間ハ道路
 ニ而候、昔之馬場其外本丸屋地等慥ニ御跡
 相見得罷在候、左兵衛尉久林於当城切腹為被成
p19
 御記録之内ニ御座候、所之者も申伝、他之
 久林形代阿弥陀と申候、古城ゟ西之方馬関
 田之内ニ阿弥陀堂御座候、其間四五町有之候
一幻生様御遺躰不動寺ニ被成御座候前ニハ
 壷ニ被入為被成御座由候得共、頃日ハ箱之内ニ奉
 納置候而 御牌之内ニ奉安置候、宰相様飯
 野ニ御移之節者毎日古寺参被遊候故、中途
 之御合懸候時分ニ候得者飯野ニ御寺御立被成

 御石塔も加久藤城内ゟ御移為被成由候、夫故□□
 を飯野ニ御建立之由候
一伊東氏密使を相良氏ニ遣、伊東ハ飯野田原ニ陣築
 狙飯野申候へ共無益候間、相良ハ大明司山ニ陣取、伊東
 加久藤柿木古塁ニ陣取可申旨申遣候ニ、右使求麻士
 皆越六郎左衛門、以使 忠平様ニ御注進為申上由候、
 柿木塁と申候ハ加久藤城ゟ東ニ而飯野木崎原近クニ
 而候、加久藤城ゟハ間弐十町も御座候、陣城之要害
 ニて候、 大明司山ハ飯野之内ニ而候、加久藤城ゟハ間
 五六町御座候
       加久藤
一加久藤城山の本丸は屋敷地に成っており、忠平様
 (島津義弘)が滞在していたと土地の者は伝える。
 奥方は確かに在城しており、忠恒様(義弘の子、初代
 薩摩藩主家久)が生れた場所と云う本丸の松もある。
 昔の松は風で倒れたので、後に植え継いだ由である。
 妙見・荒神・水天の三神を一所に祀り、この城の守護
 とする宮を1572年3月4日、本丸に忠平様が建立
 した。  幻生様(義弘長男鶴寿丸、幼折)は当城で
 逝去し城内の墓所の後ろに葬られ今も印の松がある。
 遺体は最初不動寺に箱に納めたが、後今の場所に
 移した。
 
 1572年5月4日、伊東方の軍勢が当城に攻寄せた時
 搦手である西の口から攻めて来た。 誤って樺山淨慶
 と云う人が住む搦手の西にある一見曲輪風の宅地を
 攻めたので、淨慶父子三人は戦死した。 その後城兵
 が突っ込み敵を追い出した。 現在では徳泉寺と云う
 寺地を淨慶屋敷とも言う。  その後敵は城の南側の
 小田渡瀬という大河の渡しを渡って攻寄せたが、不動
 寺の僧が衣の下に隠していた鉄砲を取り出し、 敵将
 の米良筑後という人を射殺した。 それ以後敵は旗色
 が悪くなった所に、加久藤の軍勢、吉松からの軍勢が
 押し掛けたので、敵は木崎原方面に向けて退却した。
 忠平様(飯野城)は加久藤に敵が迫ったと聞き、且
 のろしが上ったので、40-50騎で野谷筋を急いだ。
 途中大明司二八坂の物見番より敵は既に木崎原辺に
 引返しつつある旨報告を受けたので杉水流筋に変更
 した。
註1.米良筑後守: 須木の地頭で伊東方の戦死者と
 して有名人物。 薩摩側の記録では加久藤で戦死
 した事になっているが、日向記では木崎原の合戦で
 伊東方総崩れで小林に向けて敗走する中、殿を務め
 部下と共に玉砕した事になっている。

一彦山寺は古くからある土地であり、一唯様(義弘二男
 久保、20歳病死)の石塔、位牌がある。 ここにある
 理由は、この寺の住職光厳上人が叉市様(久保)の
 師匠だった事から、石塔が置かれたと伝えられている。
 
一昔北原氏が肥後人吉の相良氏と同盟を結んでいた
 が、五代北原範兼と相良氏の弟、祐頼と口論になり、
 この徳満城で刺違えて双方共死亡した(1396年)。 
 相良家と関係が悪化したので、世倅北原久兼は元久
 (七代薩摩太守)に過去を謝罪し、保護を求めた。
 以後相良の勢力を真幸院から一掃し、北原家が
 真幸院全体を領する事になった。

 記録によれば徳満城は周囲時13-1400mの小さな
 城で曲輪は三つある野城である。 北は深い谷で先は
 馬関田の寺園原という広い原である。 人吉方面への
 道の下で寺園と城の間140-150m程である。 高さも
 同じ位で東南西の下は平地であり、城は切り立って
 居るように見える。 本丸は西より少し北に寄っており、
 一、二、三の曲輪の間は道路である。 昔の馬場や
 その他本丸の屋敷跡など確かに確認できる。

 左兵衛尉久林(島津久林)はこの城で切腹したと記録
 にあり、土地の者もそのように伝えている。 他に久林
 形代阿弥陀という、阿弥陀堂がこの城より西の馬関田
 の中にある。 この城より4-500mである。

一幻生様の遺体は不動寺に納める前は壷に入れて
 あったが、その後箱に納め位牌を付けて安置した。
 宰相様(義弘の事か)飯野に移った時も毎日この古寺
 に参詣されたが、やがて飯野に新しく寺を建立され、
 石塔も加久藤城内から移された。

一伊東氏は密使を相良氏に送り、伊東は飯野田原に
 陣を築き飯野を狙うので、相良は大明司山に陣を取、
 伊東は加久藤柿木古塁にも陣を取る旨伝えた。 
 この事を相良家の士、皆越六郎左衛門が使いを送り
 忠平に注進した。 柿木塁というのは加久藤城より東で
 飯野の木崎原近くである。 加久藤城からは2km以上
 あるが陣として要害の地である。 大明司山は飯野内
 で加久藤城からは500-600mある。

註 加久藤 現えびの市中央部

徳満城址城山とその碑

彦山寺跡
p20                        目次に戻る 
   飯野                   
一大川平ハ代々大川平氏領之候、飯野麓東ゟ少
 北ニ相当、壱里有之候、飯野之方ニ向候而ハ好要害
 ニ而候へ共小林ニ向而ハ平原ニつづき申したる所ニて候
 夫故三之山伊東領之節ハ宅地難保候而、川向飯
 野之方ニ築要害、号今城籠居候、今城ハ前ニ大
 河深谷有之飯野を後ニ持たる城ニ而候、尤当
 大川平□□□昔日ゟ之宅地ニ被罷居候、大川平ハ
 求麻・須木・小林ニ境申候
p21
一田原陣 或桶比良陣
 永禄十一年八月九日伊東氏合心を相良氏、設一
 陣丁比之時、加久藤・馬関田百姓等変心為
 敵対、犯飯野城□謀已顕故、 忠平堅
 守飯野城と有之候、田原陣ハ飯野城ゟ南
 方廿四五町之広原要害之地ニ而、陣城ニて候
 後ロ南之方小キ尾筋之小路筋続キ申、其
 
 外ハ深谷ニ而飯野之方北口一筋敵付之
 口有之候
一木崎原御合戦之地ハ古老申伝委細出記有之
 略之候、木崎原三角田之畦ニ六地角之石塔有之
 是ハ御合戦之場と申、建立之由申候、木崎原之
 図此下ニ入置也
一出水観音堂ハ麓ゟ巳午之間壱里余ほど有之候
 田原之陣ゟ□少西ニ当り八九町少ニ有之候、伊東衆
p22
 寄進之繋馬之図アリ、左ニ記之候
 
  永禄十一年九月
       廿七日
     繋馬
     同
    修理亮

一伊東衆なけしに楽書有之候、左ニ記
  日州住
    都於郡衆
   落合新五
   山田次郎三郎
   壱岐助次郎
   湯地助八郎
   蓑田左馬助
   村堂石見守
   田爪藤八郎
   河方次郎五郎
   実野吉九郎
   六月七日
p23
一大日
  日向之酒
    都於郡衆
    佐土原衆
     五月二日
      参詣申候
       右衛門佐殿 
       福村叉三郎
       同名九郎次郎
       中村掃部左衛門
       小木須藤太郎
       石なた与五郎
       荒武宗右衛門
       米良常陸
       海老原藤五
       新納四郎五郎殿
   永禄十二年
p24
一同
   永禄十一年十月廿八日
      参詣申候
       米良彦十郎
       米良右近次郎
       肥田木藤次郎
       北原叉九郎
       米良源右衛門尉
       宮永三郎左衛門尉
       中山本市丸
       北原雅楽之助
         筑後守
一馬之絵壱枚
 
  馬形詰楽所
   馬
  永禄十年六月十八日園屋上総守 敬白
p25
 右之通書取観音堂ニ有之候
一木崎原之村之辺ニ石塔有之候
          慶長十八年癸丑三月十五日
 奉供養大乗妙典一千部 施主一雄元巣庵主寿位  
          伊集院肥前入道逆修也    
一飯野城山ハ麓上北ニ有之候、大手南向ニて、一之丸
 三之丸三曲輪谷を隔有之候、北之口ゟ西之原ニ
 出候、忠平様元亀三年五月四日、加久藤之城ニ
 伊東之兵逼候節、御走つづき被存候、此北之口
 
 から西之原ニ□野谷筋と申加久藤城江之
 直路ニて忍路ニて御座候、後ハ 忠平様城之
 大手之麓ニ御屋敷拵ニ而為被遊御座由候

一曹院様御霊屋、曹江院奥ニ御座候
    飯野
一大河平は代々大河平氏が領していた。 飯野麓の東
 から少し北に一里程ある。 飯野の方に向っては良い
 要害だが小林に向っては平原続きとなっている。 その
 為伊東氏が小林を領すると究めて守り難い事になる
 ので、川向の飯野側に要害を築き今城と唱え守って
 いた。 今城は前に大河や深谷がある飯野を後ろに
 控えた城である。 大河平は昔から宅地であり、人吉、
 須木、小林と境をなしている。
註: 大河平氏は肥後菊池氏の末で、北原氏が真幸院
 を治めて居たときは北原氏に臣従していた。 北原氏
 の後、島津義弘が飯野経営に携ったが領地は安堵
 されていた。 しかし伊東氏が北原氏の後を横領する
 に際し、1564年伊東氏に攻められ滅亡する。

一田原陣、叉は桶平良陣
 1568年八月九日伊東氏は相良氏と結び田原に陣を
 築き、加久藤や馬関田の百姓達を飯野に敵対するよう
 変心させ、飯野城を狙っている事が明らかとなったので
 忠平は堅く飯野城を守った。 田原陣は飯野城より南
 2400-2500mの広原で要害の陣城である。 後ろ
 南方は小さな尾根に道が続き、その他は深い谷で
 ある。 飯野の方北口に一筋の口がある。
註: 飯野攻略が不成功に終り、翌年伊東方は陣を
 焼いて撤退している

一木崎原の合戦の事は古老の言い伝えも多く、記録に
 もあるので詳細は略す。
 木崎原三角田の畦に六地蔵の石塔がたっている。 是
 は合戦の場と言う事で建立されたという。 木崎原の
 図はこの下に入れる。

一出水観音堂は麓より南南東の方に一里強の所にある
 田原の陣より少し西に当り、900-1000mにある。 
 伊東勢が寄進した繋馬の図があり、次に示す
  

 永禄十一年九月廿七日
 (1568年) 繋馬
         同
        修理亮

一伊東勢は長押(なげし)に以下落書
  日向の国在住
    都於郡勢 (現西都市)
     落合新五
     山田次郎三郎
     壱岐助次郎
     湯地助八郎
     蓑田左馬助
     村堂石見守
     田爪藤八郎
     河方次郎五郎
     実野吉九郎
          六月七日
  大日 日向之酒
    都於郡勢 佐土原勢
       五月二日 参詣申候
       右衛門佐殿 
       福村叉三郎
       同名九郎次郎
       中村掃部左衛門
       小木須藤太郎
       石なた与五郎
       荒武宗右衛門
       米良常陸
       海老原藤五
       新納四郎五郎殿
      永禄十二年(1569年)

   一同
     永禄十一年十月廿八日参詣申候
       米良彦十郎
       米良右近次郎
       肥田木藤次郎
       北原叉九郎
       米良源右衛門尉
       宮永三郎左衛門尉
       中山本市丸
       北原雅楽之助
         筑後守
  一馬の絵壱枚
 馬形詰楽所
     馬
  永禄十年六月十八日園屋上総守 敬白
 上記の通り書取る。 観音堂に書かれている

一木崎原の村辺に以下石塔がある。
       慶長十八年癸丑三月十五日  *1613年
 奉供養大乗妙典一千部 施主一雄元巣庵主寿位  
          伊集院肥前入道逆修也    
註1 伊集院元巣 飯野地頭
註2 逆修:生前に逆(あらかじ)め自己の死後の冥福を
  祈って仏事を営むことをいう

一飯野城山は麓の上、北にあり、大手は南向き、一の丸
 、三の丸の三曲輪が谷を隔て備わっている。 北の口
 から西の原に出る。 忠平様は1572年5月4日加久藤
 城に伊東勢が迫った時、この北の口から西之原を通る
 野谷筋という加久藤城への秘密の直道を走った。
 後には忠平様は城大手の麓に屋敷構えの家に住んだ
 と云う。
註1 麓とは
 江戸時代、1615年に一国一城令が幕府より出され、
 中世の城は殆んど廃城となった。 薩摩藩では従来
 山城に拠っていた武士を城山の下に住まわせ、
 郷士とした。 この郷士の住居村を麓といい、各郷の
 地頭も麓に住んだ。 現在も地名としての麓は南九州
 各地に残っている。
註2.島津義弘、(維新公、忠平、兵庫頭、松齢公)
 薩摩大隅を統一した島津貴久の二男で、真幸院経営
 ため、飯野城に26年間(1568-1594)在城した。
 
一宗江様の墓は宗江院奥にある。
註1.曹洞宗の寺、宗江院。島津義弘の四男万千代が
 9歳で死去し葬られた。 法名は宗江と云い、寺名も
 龍昌院から宗江院に変わった(三国)

註:飯野 現えびの市東部。

飯野城跡より木崎原方面望む、手前は川内川

木崎原古戦場、三角田付近
p26                      目次に戻る
   小林 三山
一城山北東ハ大河流、南は池長サ七十間余広サ三拾間
 也、西之方ニ大手有之候、東之方ハ水手口と申候間東之
 方ニ口有之候、昔ハ飯野ゟ之通路北之方ニ廻り、城之
 北西之間、川向ニ参候様ニ有之候、当廻り筋城南之士
 小路ハ城之拵之内ニ而、城之味方地ニて候、依之飯野
 之方ニ向大手を取申候、永禄九年十月廿一日□□
 義久公・忠平公・歳久衆中大軍御責被成、忠平公
p27
 御手負為被成遊由候、古老申伝ニも城東水手口と申
 搦手より城口を廿間程御攻入被遊、御手ヲ為被負
 由候、右水手口ゟ半町も東北之方ニ稲荷山と申
 小山御座候、其節須木之敵兵拠居、箭を散々
 射掛申候故、別手難儀ニ為有之由申伝候、城
 辺之図此下ニ入置候
一鬼塚原ハ飯野本地原ゟ十町東之方ニ而、飯野境
 ニて候、伊東勢木崎原ゟ引取申候而、本地原ゟ粥
 餅田筋・鬼塚筋二筋を返申候、鬼塚原ハ南之

 方、粥餅田と申ハ北之方ニ而、皆小林通路ニ而
 粥餅田之渡りと鬼塚原迄敵追留之由候
 忠平様鬼塚原ニ御追掛被遊、柚木崎丹後と
 御鑓為被遊由候へ共、右原之中いつ方こそ御鑓物
 と申伝所ハ無之候、大鬼塚・小鬼塚と申小キ丸岡
 弐ツ御座候、広野ニて候、右柚木崎丹後
 五代之孫兵右衛門と申穆佐士有之、当分小林中衆
 有之候、□祖父丹後と付来候、先年丹後子孫と
p28
 申出御高為申請、高岡士ハ丹後子孫ニ而ハ
 無之候而、丹後嫡孫、丹後成長仕候而、其訴申達
 両方口□ニ罷成、利運仕候故、当平右衛門祖父
 丹後三十石も之御高為被下候由候

一内木場・岩牟礼天正四年八月廿三日高原下城
 仕候砌、八ヶ所御手ニ入申候内ニて候、岩牟礼ハ小林
 麓ゟ東、野尻境ニて候、成程高キ岡ニ而候、西之方
 大河へ流、小林ゟハ川向ニ而候、羽柴秀長之人数
 
 岩牟礼迄押入申候得共、晴天ニ右河出水申、渡
 不罷成故小林迄ハ京勢押入不申通申伝候
 麓ゟ壱里有之候内木場ハ麓ゟ東方須木
 境ニて候
一伊東塚と申候而麓西之方ニ有之候、老松下之
 石塔有之候、銘左ニ記之候
   
   伊東叉二郎殿
  龍厳光金禅定門    霊位     
    元亀三年壬申五月四日
p29 
  伊東新次郎殿戒名即庵梅渓大禅定門
   観音像
  干時元亀三年壬申五月四日孝子
              敬白

  藤原朝臣上別府宮内少輔殿    
 南無阿弥陀仏為護阿弥陀仏
    元亀三年壬申五月四日
   
 稲津叉三郎
 為 晋山春智禅定門也 施主    
            敬立
    元亀三年壬申五月四日
   
  藤原朝臣肥田木四郎左衛門 三十七歳
 捐舘 松厳采仙禅定門
    元亀三年壬申五月四日 

   米良筑後守
 龍室玖虎禅定門
    元亀三年壬申五月四日

 剛山玄金禅定門
   元亀三年壬申五月四日
 右七基石塔皆如斯  (図)

  招土羅高転常西大将
 前□□朝臣米良喜右介
p30
 □□□□□
  元亀三年五月四日           
 
 右石塔如此    (図)

  伊東加賀守殿
   五代少左衛門尉   (図) 如此
   友喜合掌
  干時慶安三庚寅歳
   十一月朔日彫建之

 為 涼栄禅定門也
   前米良式部少輔重直
   天正二年十月十二日
  如此  (図)
 此外ニも為有之候由申候へ共当時無之候て
 右之物さへ或ハ倒れ或ハ折申し候
p31
   干時元亀三年壬申   道普
      落合新五郎 明知添光
 日州新納院 再蓬珠天公 深田右衛門施主
      大塚八郎 珠岳諸円
 奉彫造塔婆一本為権双成知公証大菩提故也
              塩月図書
        木森民部 宗秀禅門
   財部衆 僧阿弥陀仏  柄木左近
             巧阿弥
        五月四日  玉阿弥

 右城山之東壱町少ニ茶臼カ尾と申岡ニ石
 塔壱基之内ニ有之候

   為尊位妙果四十九日追膳也
 南無妙法蓮華経 孝主浮惟敬白
     慶長八年癸卯二月廿六日
 右一基之石塔ハ水流迫炭床北之原ニ
p32
 有之候、福永殿石と申伝候、右相添之通
 村ハ福永殿領分と申伝候

一今宮 天正十四年六月七日豊後発向不可猶
 予之通御神託有之候、今月中御発向可然
 去年堅志田・三船御手ニ入候時も、今宮之御託宣
 為有之候通 忠平公被給出之由、御譜ニ□□
 今宮八幡ニて御座候、四敷三間之□□□
一木浦木山山之神ハ巣鷹之□願は 維新様ゟ御籠被□
 木浦木山ニ巣鷹有之山と申伝有之候、山之神社も有由
 
 小林衆中八重尾筑右衛門と申士罷居候、小林
 麓ゟ三里有之山中三里ニて、須木麓ゟ
 三里山中壱里ニて候、深山の深谷ニ而求
 麻境御番之由候間、右筑右衛門ニ切米五石仰被下候
 木裏木共叉ハ木浦木共古書付ニ相見得候、須
 木小林之構山ニて候、日向巣鷹と申ハ此木浦
 木ゟ出申候
    小林 (旧三山)
一城山の北東には大河(岩瀬川)が流れて、南は池で
 長さ130m強、巾50m程である。 西に大手があり、東
 は水手口と云う口がある。 昔は飯野からの通路は北
 に廻り、城の北西から川向に通ずる様になっている。
 城の南の士小路は城の一角であり、城内になり、飯野
 の方(西)に大手を備えている。
 
 1566年10月21日、薩摩方義久(貴久長男)忠平
 (二男)歳久(三男)は大軍を率いて小林城を攻めたが
 忠平公は負傷したとの事である。 古老の話によれば
 忠平は城の東、水手より攻め込み手を負傷したと云う。
 この水手口より50-60m東北に稲荷山という小山が
 あるが、小林救援に駆けつけた須木の兵が盛んに矢を
 射掛けて薩摩方は苦戦したとの事である。
註1 小林城は伊東氏が真幸院攻略の為に強化した北原氏の
 城で島津方はこの城が要塞化する前に攻めたと云われる。
 この時は伊東方が守りきり、島津方は撤収する。
註2.城跡は小林駅より北北東2k、現在城山公園、初め
 三山城(宇賀城)と云ったが、北原氏の古い持城で三山城と
 云う城があったので、薩摩方が占拠した後混乱を避ける為
 小林城としたといわれる。 古い三山城跡は小林駅の
 南西1k程、専寿寺の裏山で住宅地となっている。

一鬼塚原は飯野本地原から1100m程東の方で飯野と
 小林の境である。 伊東勢が木崎原より引上げる時、
 本地原から粥持田筋と鬼塚筋の二つの道を撤退した。
 鬼塚原は南側、粥餅田は北側で両方共小林への通路
 であり、 薩摩方は粥持田の辺りと鬼塚原迄追留めた。
 忠平様は鬼塚原迄追い掛け、柚木崎丹後守と鑓で戦
 ったと伝えられているが、この原のどの辺りか場所は
 伝えられていない。 大鬼塚、小鬼塚と云う小さな丸い
 岡がある広い原である。 
 
 この柚木崎丹後の五代の孫に平右衛門と云う穆佐院
 の士がおり、今は小林衆となっており祖父以来丹後を
 名乗っている。 以前丹後の子孫と云うことで、俸禄を
 申請した高岡の士は丹後の子孫ではなかった。
 丹後の本当の嫡孫が成長の後、この平右衛門の祖父
 に俸禄が付け替へられ、三十石が与えられた。 
註: 柚木崎丹後と島津義弘の出会は、異なった記録が
 多数ある。 敗走を踏み留まった丹後は義弘に討たれ
 たが、後に義弘が丹後の子孫を探させ、彼に俸禄を
 与えた事は史実のようである。 叉義弘と丹後の出会の
 場所は粥持田説と鬼塚原説双方ある。

一内木場城と岩牟礼城は1576年8月23日に高原城
 が落城した時、島津方に渡った伊東方近隣8ヶ所の
 内である。 岩牟礼城は小林の麓から東の野尻との境
 にある。 たいへん高い岡の上にあり、西には大河
 (岩瀬川)が流れており、小林から見ると川向こうである
 豊臣秀吉の九州征伐の際、羽柴秀長の軍勢はこの
 岩牟礼城まで侵攻したが、晴天でも大河の水が多く
 渡る事ができなかった。 随って畿内の軍勢は小林
 には進入しなかった。 
 小林麓より一里の内木場城は東方須木郷との境に
 ある。
註:伊東方の城は日向48城と云われていたが、高原
 が落城した時、小林、須木、須師原、奈崎、内木場、
 岩牟礼、野頸、高崎の伊東方八城が開城した。
 
一伊東塚と云うものが麓の西方にあり、老松の下に
 石塔がある。 銘を以下記す
   
   伊東叉二郎殿
  龍厳光金禅定門    霊位     
    元亀三年壬申五月四日 註:1572年5月4日
  
  伊東新次郎殿戒名即庵梅渓大禅定門
   観音像                 
  干時元亀三年壬申五月四日孝子敬白

  藤原朝臣上別府宮内少輔殿     
 南無阿弥陀仏為護阿弥陀仏
    元亀三年壬申五月四日
   
     稲津叉三郎            
 為 晋山春智禅定門也 施主敬立
    元亀三年壬申五月四日
   
  藤原朝臣肥田木四郎左衛門 三十七歳
 捐舘 松厳采仙禅定門
    元亀三年壬申五月四日 

   米良筑後守
 龍室玖虎禅定門
    元亀三年壬申五月四日
 
 剛山玄金禅定門
   元亀三年壬申五月四日
 以上七基の石塔は全て長方形上部屋根形

  招土羅高転常西大将          
 前藤原朝臣米良喜右介
 □□□□□       形は長方形上部半円
  元亀三年五月四日           
 
   伊東加賀守殿
   五代少左衛門尉      形は五輪塔
   友喜合掌
  干時慶安三庚寅歳 註:時に1650年11月1日建立
   十一月朔日彫建之

 為 涼栄禅定門也      形は長方形上部屋根形
   前米良式部少輔重直
   天正二年十月十二日  註:1574年 
    
 此外にも有った由だが現在は存在しない。
 現存する物でさへ、倒れたり、折れたりしている。

小林城山の東110m程の茶臼カ尾と云う岡に
 石塔が一つあり、以下記してある。*茶臼岡
   干時元亀三年壬申   道普
      落合新五郎 明知添光
 日州新納院 再蓬珠天公 深田右衛門施主
      大塚八郎 珠岳諸円
 奉彫造塔婆一本為権双成知公証大菩提故也
              塩月図書
        木森民部 宗秀禅門
   財部衆 僧阿弥陀仏  柄木左近
             巧阿弥
        五月四日  玉阿弥
 下の一基の石塔は水流迫炭床の北の原にあり、福永
 殿石と言い伝えられている。 ここに添えてある通り
 この辺の村は福永殿の領分と伝えられている
   為尊位妙果四十九日追膳也
 南無妙法蓮華経 孝主浮惟敬白
     慶長八年癸卯二月廿六日 註:1603年
 。
註1伊東塚は木崎原で戦死した伊東方の主だった武将
 の塚で小林駅より北北西1k程の所にある。 塚には
 文化14年(1817年)の小林地頭市田長門による保存
 を訴える石碑がある。 この石碑の内容と上記記録
 及び現在の霊牌数は概ね一致する。
註2.水流迫炭床とは小林駅より東2k程

一豊後への出陣は、今宮の神託で1586年6月7日を遅
 れぬ事と出た事に随い出発した。 前年義弘公が堅志田
 三船を手にいれた時も今宮の神託に拠った。 島津家
 の記録にもある。 今宮八幡は四敷三間の神社である
註1; 今宮八幡は三国名勝図会にも義弘の棟札があり、
 小林郷細野村にあったと言うがどの神社をさすか不明
註2: 堅志田城:肥後の城、三船城:豊後の城で1585-
 86年に島津氏が九州を北上した時に攻落している

一木浦木山の山之神に巣鷹の祈願が維新様(義弘)
 から籠められた。 木浦木山は巣鷹が取れる山と
 云われ山の神社もある。 小林の郷士で八重尾
 筑右衛門と云うものが居るが、小林麓より三里、更に
 山中一里、須木の麓からも三里、山中一里の深山
 幽谷の場所で人吉との境の番人を勤めている。
 この筑右衛門の俸禄は切米五石である。 
 木裏木とも叉は木浦木とも古文書には見えるが、須木
 郷と小林郷の境の山で、日向巣鷹はこの木浦木から
 産出する。
註1:鷹狩の鷹は雛から訓練するが、これを巣鷹と云い、
 足利15代将軍義昭や秀吉から島津家に巣鷹を所望
 している書状が残っている。

註 小林 現小林市 

                伊東塚、四百年余経る
左より  伊東叉次郎     後列左より 不明     伊東加賀守
     伊東新次郎           米良喜右介    他不明 
     上別府宮内少輔         不明
     稲津叉三郎            不明   全部で12基か?

寺裏山が北原氏の三山城跡
p33                    目次に戻る
   須木                
一城山北ハ大河流、堅山厳高ク三十間余之瀑
 有之候、大手ハ西之方ニ而候、前代肥田木氏領シ為
 申候由候、元亀之比ハ米良筑後守領シ為申候由候
 筑後守於木崎原、伊東方ニ而戦死仕候、依之
 五月四日於菩提所一輪寺只今迄施餓鬼
 仕来候、立久公公本田氏ニ被下候三月十四日□□
p34
 此方向之事須木ゟ明日十五日仕事之由申候
 我々も致境目へ可打出候處ニ米良□□□
 比田木次郎太郎一日之合戦ニ手負候間、明日之
 仕事者延候と有之候へハ、米良・肥田木為罷居と
 相見得候
一須師原・奈崎ハ天正四年八月廿三日高原下城之
 砌御手ニ入候八ヶ所之内ニて候、須師原ハ野尻□□
 東方ニ有之候麓ゟ三里も有之候、奈崎ハ須師
 原ゟ麓之方ニ有之、なさぎと唱申候
一米良殿石と申候而西之高岳ニ石塔有之
  一山常心居士
  裏書  天正四年丙子四月吉日
      皆影長安某欠可多億
  ・ ・・・米良駿河守誌之
 右之通ニ自然石ニ彫付候、然者字不相見候
    須木
一城山の北には大河が流れ、山は切り立ち50m程高さ
 の滝がある。 大手は西の方にある。 前は肥田木氏が
 領していたが、元亀の頃(1570年)には米良筑後守が
 領していた。 しかし米良筑後守は木崎原合戦で
 伊東方として元亀3年5月4日戦死した。 それ以降
 毎年5月4日には筑後守菩提寺である一輪寺で今でも
 施餓鬼を続けている。
 立久公が本田氏に与えた3月14日の書状でも米良氏
 肥田木氏が居住していた事が分る
註 立久(1470-74、)島津家11代守護か。

一須師原及び奈崎城は1576年8月23日、高原城が
 島津方に落ちた時、島津側が手に入れた8カ城の
 内である。
 須師原は野尻郷との境の東にあり、須木麓より三里も
 ある。 奈崎は須師原よりは麓に近い方にあり、なさぎと
 云う。

一米良殿石と云う石塔が西の高い丘の上にある。
  一山常心居士
  裏書  天正四年丙子四月吉日 (1576年)
      皆影長安某欠可多億
    ・ ・・・米良駿河守誌之
 これは自然石に彫付けてあるので、字が見えない。

註: 1300年代南朝側で活躍した肥後菊池氏が、北朝
 の時代になり滅亡に至り、本家筋が米良に入り米良氏
 を称し、その一族が須木に移ったといわれている。

註: 須木 現小林市須木
p35                     目次に戻る
   高原
一城山四面深谷ニ而南ゟ少西之方少々之間平地ニ続
 申候、天正四年八月廿三日 義久公・忠平公御攻被遊
 伊東勢下城為仕由候、御本陣丹付尾ハ城ゟ四町
 東ニ而候、三方深谷ニ而東南之方少平原ニ続
 土井二重ニ而口一ツ有之候、喜入摂州白坂之上ニ□
 被仕居候通御記録ニ相見得候、当分白坂と申□
 □無之候へ共巽之方ニ坂有之、其上陣場有之候
p36
 麓ゟ壱町余有之場所ニ而御座候、古老之者も申候
一大手者卯辰之方ニ而候、大手ニ而二階堂氏鎗為
 被仕時、案内者馬場主馬石打ニ逢、手負為申
 由申伝候、二階堂氏ハ三左衛門先祖と申伝候、主馬と
 申者ハ有名之者故世話ニ申候、しれた主馬と
 申候ハ右之馬場主馬ニ而為有之由申伝候
 右子孫ハ高原ニ罷居候、家久・忠長陣場鎮守尾ハ西
 之方ニ有之候、其後山口利安地頭之節、城曲輪内ニ取入
 堀二重有之候
一広原城と申候而小林境ニ有之候、麓より壱里
 有之候、往昔合戦為有之由ハ申伝候へ共□□
 城主河内左京と為申由候、左京墓と申候は
 有之候へ共銘ハ無之候
一高原城内西之方曲輪、白坂玄□城と申候
 石塔有之候、伊東殿石ニて候哉、前々ゟ申之伝候
   梵字余多有之
 卍 前三州太守桂円法光 大禅定門 
     永禄十三年庚午
     八月彼岸月敬白
p37 
一水流名之内鳥越ハ天文拾年六月十六日伊東氏陣 
 取候而、北原氏ハ志和地ニ陣取、忠相之居城高城を
 攻候通相見得候、高城ゟ鳥越ハ乾之方壱里
 少々有之候、成程高キ野岡ニて能要害之
 陣城ニて候、志和地ゟハ東之方ニ相当り壱里
 少間有之候
     高原
一城山は四面深い谷になっており、南から少し西の方に
 若干の平地が続いている。 1576年8月23日、義久公
 忠平公(義弘)が攻めて伊東方は城を開いた。
 島津方本陣は耳付尾(あまつき)云う城から450m程東
 である。 三方が深い谷になっており東南の方が少し
 平原に続き、堀が二重になっている口が一つある。 
 喜入摂州が白坂の上に陣を取ったと記録にあるが、
 白坂云う場所は今は無い。 しかし南東に坂があり上
 に陣跡がある。 麓より100m余の所と古老は云う。
註: 義久: 義弘兄、島津当主

一大手は東南東の方にあり、二階堂氏が鑓で突込む時
 案内していた馬場主馬は投石で負傷した。 二階堂
 氏は三左衛門の先祖と云うことで、主馬は有名で話に
 しれた主馬、と云う者はこの馬場主馬と伝えられる。
 この子孫は高原に在住である。 
 家久及び忠長の陣は鎮守尾にあり西の方である。 
 その後山口利安が高原地頭の時、城の曲輪内に取
 入た。 堀は二重である。
註:島津家久、義弘の弟、 島津忠長、義弘叔父
 
一広原城と云うのは小林との境にあった。 高原麓から
 一里程ある。 昔合戦があったと伝え城主は河内左京
 との事。 左京の墓と伝えるものがあるが銘は無い。
 
一高原城内西の曲輪は白坂玄?城と云われているが
 石塔がある。 伊東殿石だろうか、前々から伝えられ
 ている。  梵字が多い
 卍 前三州太守桂円法光 大禅定門
    永禄十三年庚午八月ケ彼岸月敬白
註: 永禄12年(1569年)に病死した伊東家11代当主、
 義益の塚と思われる。 三州とは日向、大隅、薩摩国を
 指し島津家、伊東家共に三州の太守を称した。 
 
一水流(地名)の鳥越は1541年6月16日に伊東氏が陣
 を取った所で、北原氏は志和地に布陣し、北郷忠相の
 居城である高城を攻めた事が記録されている。 高城
 から鳥越は北西一里程である。 確かに高い岡で要害
 の陣所である。 志和地からは東に当り一里程である。
註1: 北原氏の東側最大領域は志和地、山田に及び
 都城を領する北郷氏と争っていた。 これは北原氏が
 伊東氏と組、北郷氏(島津家側)を攻めた時の事と
 思われる。 

註 高原: 現西諸県郡高原町
p37                     目次に戻る
   野尻                
一城山ハ麓ゟ南七町も有之候、天正五年十二月
 七日夜半、竹之内備前人数五六十召列、南谷
 ゟ城内ニ責入、池平山を登り新城ニ上り候処
 城主福永丹波守城戸口ニ出合引入レ為申由候
 野尻・猿瀬ゟ城迄ハ壱里も寅卯之方ニ有之
 城南ハ谷ニ而、其時分ハ新城と本城之間□□
p38
 新城ハ北之方、本城ハ南之方ニ而新城と本
 城之間ニ南谷通り申候、福永ハ新城ニ罷居、伊東
 方ゟ之勢ハ本城ニ籠居候、然処ニ備前新
 城ニ入候て、其後本城ニ福永逆心之趣を
 申入、攻戦候故、伊東方之番手之衆没
 落為仕由古老申伝候
一義久公高原城ゟ猿瀬を御越、跡瀬ゟ

 御発向ニ而野尻御巡見為被遊候、右之跡
 瀬ハ猿瀬之川下壱里少東ニ而候、城ゟ
 巽之方二十町も有之候
一兼重之城と申古城麓ゟ巽壱里少ニ有之
 跡瀬ゟ東ニ而候、四面深谷ニ而峯一筋之小道
 有之候、其外ハ終而通不罷成堅固之城ニて候
 兼重城と申候へハ肝付八郎兼重為□□
p39
 城ニ而も可有之候哉、兼重儀三俣ニ在□□
 由候、三俣高城ゟ右城迄ハ四里半も有之
 処ニ而候、別ニ申伝候地ハ無之候、尤城□□
 道一筋をも二重之堀有之候
一伊集院源次郎忠実、野尻之内大津内と
 申鹿□□ゟ麓へ罷帰候処を鉄砲ニ而打
 落為申由候、麓町西頭ゟ三町少西之方

 為有之由申伝候、忠実墓所と申候而□□
 西頭之はづれニ自然石之塚有之候、銘ハ無之
一猿瀬之上ニ伊東勢陣取候間、高原下城之衆ゟ
 夫馬之地を猿瀬迄申遣度由申候ニ付、使ハ御通
 □成状も□使僧ヲ以御届為被遊由御座候
 右陣場を相尋申候へ共所々ハ相知不申候、猿
 瀬之上ニ高岡有之候、是ニても候哉と存候
p40
 猿瀬村と申川之上ニ通路之人家有之、此
 辺ニ定而陣取候事と存候、京勢下向之節  
 陣取候所ハ今に申伝有之候、猿瀬村□
 東野尻之方六七町路辺之岡有之、其辺
 を陣カ原と申伝候            
一戸崎城ハ野尻麓ゟ十四五町東紙屋之
 方ニ有之、紙屋通路ハ戸崎城内を通申候、南
 方深谷ニ而候、野尻ゟ参候へハ平地ニ而候
 堀二重ニ而城門之様子相見得候、東紙

 屋之方ニて深谷有之候而難所ニて候、昔ハ
 野尻ゟ紙屋通り、戸崎ゟ南之原を
 為罷通由も申伝候
一紙屋城ハ紙屋御関所ゟ十町少巽ニ有之候
 三方深谷ニ而、丑寅之方ハ堀三重ニ有之候
 東ニ大手有之、此外城口無之、天正五年十二月
 伊東家臣米良越後守在城候間、野尻□□□
 □ □□□も□□□□
p41
 □ □□□□□越後□□□□□
 □□□御腰物を越後へ為被下由申候
 天正十一年十月地頭稲留□□
     野尻
一城山は麓から南へ800m程である。 1577年12月7日
 夜半、薩摩方の竹之内備前が5-60名率いて南谷の
 方から城内に攻め込んだ。 池平山に登り新城に向と
 城主福永丹波守が城門を開いて中に引き入れた。
 野尻の猿瀬より野尻城迄は東一里程ある。 城の南
 は谷でその時分は新城と本城は離れていた。
 新城は北の方、本城は南の方にあり、間は谷になって
 いた。 福永は新城におり、伊東方からの兵は本城に
 籠もっていた。 備前は新城に入り福永が島津側に
 寝返ったという事を本城に伝え攻めたので、伊東方の
 兵は降伏した、と古老は伝えている。
註: 高原城が島津方となり城主は上原長門になったが
 福永丹波は伊東義祐との不和から島津方上原に内通
 したと云われている。
 
一義久公は高原城より猿瀬を通過して跡瀬から出発
 して野尻を巡見した。 跡瀬は猿瀬より一里程川下で
 城からは東南2000m程である。
註 川は岩瀬川で、猿瀬、跡瀬は現代も地名が残る

一兼重の城と云われる古城が麓より東南の方向一里程
 跡瀬の東にある。 四面が深い谷で峰に一筋の小道
 がある。 それ以外は全く通行出来ず堅固な城である。
 兼重城と云うからには肝付八郎兼重が作らせた城
 だろうか。 兼重は三股に在住したと云う。 三股の
 高城から当城迄四里半もある場所である。 他に言い
 伝えは無い。 尚城に登る一筋の道も二重の堀がある
註:肝付兼重、14世紀中頃日向・大隅の豪族、南朝方
 の武将であり、畠山直顕と戦う。

一伊集院源次郎忠実は野尻の大津内という所で鹿狩
 をした場所から麓へ帰る途中、鉄砲で打ち落とされた。
 麓町西頭より300m程西方の場所と伝えられる。
 忠実の墓と云い、西頭のはずれに自然石の塚があるが
 銘はない。
註:伊集院忠実は庄内の乱(1599年)の当事者で島津
 家に反抗したが徳川家康の仲介で和談となった。
 しかし島津当主忠恒(後家久)は怨恨を持ち、鹿狩に
 かこつけ忠実を暗殺させたと云われている。 ここでは
 忠実となっているが、他の古文書は忠真となっている。
 島津家筆頭家老伊集院忠棟の嫡子で、父が忠恒に
 手打ちとなった事から、忠棟の領地都城に籠もり、島津
 本家に対して反抗したのを庄内の乱と云う。

一猿瀬の上に伊東勢が布陣していたので、高原開城の
 人々は猿瀬まで行き、伊東勢に合流したと云う。
 この陣の場所を尋ねたがはっきりしない。 猿瀬の上に
 高い岡があるので、これではないかと想像する。
 猿瀬村という川の上に通路があり人家もある。 この辺
 に恐らく陣を築いていたのではないかと思う。
 羽柴秀長の畿内軍が下向してきた時に陣を築いた
 場所は今でも伝えられている。 猿瀬村の東、野尻の
 方に7-800mの辺りは陣か原と伝えている。
註:秀吉の九州遠征で弟秀長は大軍を率いて九州東側
 南下した。 現在も陣原という地名がある。

一戸崎城は野尻の麓から1500-1600m東で紙屋の方
 にある。 紙屋への通路は戸崎城内を通過している。
 城の南は深い谷で野尻から来れば平地である。 堀は
 二重で城門の様子も残っている。 東の紙屋の方も
 深い谷になっており難所である。 昔は野尻から紙屋
 へ行くのに戸崎から南の原を通る道もあったと言う

一紙屋城は紙屋関所から1000m強の東南にあった。
 三方が深い谷で北東は堀三重になっており、東が
 大手である。 これ以外城の口はない。 1577年12月
 伊東家臣米良越後守が在城していたが、野尻が落城
 したので、島津方に開城の申し入れをした。 それに
 対し義久公は良しとして刀を越後守に与えたと言う。
 天正十一年十月地頭稲留□□
註1:江戸時代島津藩は藩外からの入国を検閲する為
 独自に関所を設けた。 日向方面から真幸院に入る時
 紙屋関所があり、肥後から真幸院に入るのに加久藤越
 にも関所があり、薩摩藩の二重鎖国と云われた。

註 野尻 現小林市野尻町

      写真は都城島津邸所蔵 

同左

紙屋方面から見た戸崎城山(正面)
出展:都城島津邸文書ID4341旧跡見分帳

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