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            真幸院の中世
              -えびの・小林の由緒


文化十四年(1817年)小林地頭市田義宜による伊東塚保存趣意文 
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  前回都城島津邸の古文書資料で薩摩藩に残る中世の城の由緒を解読したが、引続き地誌で真幸院を中心とした中世の由緒に取り組んでみた。 この本の筆者は古い記録を研究した上で各所を訪問し、夫々の土地の言い伝えも合わせて確認している。 
  書かれた時期は不明だが、江戸後期の文政から天保にかけて薩摩藩の文化事業として旧記雑録や三国名勝図会が成立しているので、同じ頃1800年代前半ではないかと推定する。 但し記事の中に筆者と同時代と思われる人物に付いて、木崎原合戦当事者五代の子孫と云う表現があるので、それが正しいとすると1700年位となるが更に検討を要する。 
  小林市にある伊東塚を始、中世の石塔の文言等細かく記録してあるのは貴重である。 ただ崩しがかなりきつい上に、虫食い、しみ、破損などで読めないところが多々あるのが残念である。  

   真幸院という地域名は今は存在しないが、元々は平安時代後期の荘園名である。 その名前は江戸時代末期迄便宜上使われており、現在の宮崎県えびの市及び小林市周辺を指していた。

   真幸院は南九州の真中に位置し、九州山脈の南端と霧島山系に挟まれた地域であり、西南に流れる川内川、東南に流れる岩瀬川の二つの大河を擁する豊かな地域だった様で、薩摩藩主食膳に上るのは真幸院の米と決まっていたと三国名勝図会では言っている
   古代の律令制で日向の国・諸県郡が定められたが、やがてこの諸県郡の中に貴族の荘園が成立し真幸院、穆佐院、島津院(都城)、三股院、求仁院などと呼ばれたが、それをそのまま中世の地頭・領主が引き継いできた。   
   近世に幕藩体制が成立すると真幸院を含む諸県郡全体が薩摩藩となり、残りの日向国は小藩に別けられ、飫肥藩、高鍋藩、延岡藩、佐土原藩、天領(宮崎市近辺)となった。 
   
   明治維新による廃藩置県で薩摩藩は消滅するが、宮崎県と鹿児島県の行政区画には紆余曲折があり、最終的には明治22年(1889年)諸県郡は西諸、東諸、北諸、南諸県に別けられ、南諸県は鹿児島県、残りが宮崎県となった。 その時の分割は江戸時代迄便宜上使われていた荘園名と略一致しており、真幸院は西諸県、穆佐院は東諸県、都城、三股は北諸県、求仁院(志布志他)は南諸県となった。

  真幸院の歴史は平安時代の荘園から始り、管理は日下部氏と云われているが、薩藩旧記雑録では真幸院も島津庄の中に含まれたという。
  
  その後14世紀の南北朝時代日下部氏が没落したので、代わって日向・大隅に力を持っていた肝付氏の一族である北原氏が代々真幸院を治める様になった。 北原氏の主要な拠点城は徳満城(えびの川北)、飯野城、三山城(小林細野)であり、北の相良氏、東の伊東氏、南の島津氏という強豪に挟まれ、彼らと合従連衡をしながらバランス良く200年以上真幸院を維持している。 周囲の三強も直接対決を避けるため緩衝地帯として真幸院の北原氏を利用していたとも見える。 
   
  戦国時代後期北原氏の当主兼守が病死すると、舅である日向の伊東氏(入道義祐)が北原家内の内紛に乗じて真幸院横領を始める。 夫を見て相良・島津両氏も黙止出来ず、北原一族を支援して飯野以西を北原兼親に取り戻させる。 しかし今度は北原一族が島津勢を真幸院から追い出す動きに出てきた。 そこで島津氏は飯野の北原兼親には薩摩内の領地を与え、1564年に当主二男の島津義弘を飯野城に送り込み真幸院の飯野以西を直接治める事になる。 一方小林以東は伊東方が押さえており、真幸院奪取の拠点とするため北原氏の城であった小林城を1566年に強化し、飯野城の島津義弘と睨み合いとなる。 

  数度の合戦があり、1572年木崎原の合戦で伊東方が大敗し多くの将兵を失う。 更に1576年島津方が5万の大軍を送り伊東方高原城を落としたので、それに伴い小林城含め小林・須木の全城が降伏する。 翌年島津方は野尻の各城を落とし真幸院全体が島津家に属した。
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  伊東義祐は基盤を失い豊後の大友氏を頼り日向より逃亡する。 勢いづいた島津氏は九州全体の制覇をめざすが、秀吉の九州遠征に敗れ1587年降伏する。 しかし真幸院を含む諸県郡は薩摩・大隅国と共に島津家に安堵され、その後の関が原の戦いで島津家は豊臣方に与したが徳川家康により領地は安堵された。 

  真幸院は200年余の北原氏支配に続き20年程伊東・島津の争奪戦の後、 江戸時代を通じて280年余薩摩藩に属した。
                      由緒翻刻及び現代文目次  クリックで当該郷にジャンプ
  大隅国各郷、真幸院へ隣接   真幸院各郷
  p1 加治木   p12 吉田
  p4 溝辺   p13 馬関田
  p6 踊   p16 加久藤
  p7 横川   p20 飯野
  p9 栗野   p26 小林
  p10吉松   p33 須木
  p35 高原
  p37 野尻
 1550年頃の真幸院(中央橙色)とその周辺勢力  画像クリックで拡大

p27小林より、画像クリック拡大
写真は都城島津邸所蔵

参考文献
  薩藩旧記雑録(伊地知季安)、 三国名勝図会(五代秀尭編)、 日向纂記(平部嶠南)