解説に戻る

    むさしあぶみ 上

世すて人にハあらで世にすてはくられ、今
はひたすらすべきわざなく、かみをそり衣を
すみにそめつつ、楽斎房とかやなをつきて
心のゆくかたにしたがひ、足にまかせて都の
かたにのほり、爰かしこおがみめぐり、名におふ
北野の御やしろにぞまうでけり、身が古郷
ゆしまの天神とハ御一躰の御事なりと
ふしおがみ、かなたこなたと見まハすところに
年ごろあづまの方へ行かよふこま者うりに
あひたり、此男大きにきもをつぶし、扨いかなれ

ばかかるすかたにはなり給ふといふ、楽斎房云
やう、さればおもひの外なるめんぼくをうしなひ
て、身のをきどころなきまゝに、かゝる姿にハ成
侍りといふ、それはいかなる恥をかき給ふらんおぼ
つかなしととひければ、さればこそかたるに付て
なおなおつらきことの侍り、さだめてそのかみ
明暦三年ひのとのとり正月の火災の事ハきゝ
および給ふらんといふ、男いふやう、それハかくれ
なきことにて其時の災難に都方にも手代
わかきものくだりあハせてむなしくなりたる
事ありて、今になげきかなしむ親子とも是

おほく聞つたへたるありさま、さしもおびただし
さらバ御坊ざんぎさんげのため、そのありさ
まをあらあらかたりてきかさせ給へといふ、楽斎
房申すやう、ものうき事かなしき事わが身ひと
つにせまりておぼえたり、かやうのことハとハぬも
つらく、とふもうるさきむさしあぶみ、かけても
人にかたらじとハおもへども、ひとつハさんげのた
めとおもへばあらあらかたりてきかすべし

注 武蔵鐙さすがにかけて頼むには 
とはぬもつらし とふもうるさし
  (伊勢物語)

P4
(絵)
扨も明暦三年丁酉正月十八日辰刻ばかりのこ
となるに、乾のかたより風吹出ししきりに大
風となり、ちりほこりを中天に吹上て空に
たまひきわたる有さま、雲かあらぬか煙のう
ずまくか、春のかすミのたな引かとあやしむ
ほどに、江戸中の貴賤門戸をひらきえず、夜
は明ながらまだくらやミのごとく、人の往来も
さらになし、やうやう未のこくにおしうつる時分に
本郷の四町め西口に本妙寺とて日蓮宗の寺によ
り俄に火もえ出てくろ煙天をかすめ、寺中
一同の焼あがる、折ふし魔風十方にふきまハし
P5
即時に湯島へ焼出たり、はたごや町よりはるか
にへだてし堀をとびこえ、駿河台、永井しな
のゝ守、戸田うねめのかみ、内藤ひだのかミ、松平しも
ふさの守、津軽殿そのほか数ヶ所、佐竹よしのぶ
をはじめまいらせ、鷹匠町の大名小路数百の
屋形たちまちに灰燼となりたり、それより
町屋かまくらがしへ焼とおりぬ、かく当酉の刻に
いたりて風はにしになりはげしく吹しほりけれ
ば、神田橋へハ火うつらずしてはるかに六七町へだ
てゝ一石ばしの近所さや町へとびうつり、牧野さ
どのかミ、鳥井主膳正、小浜民部少輔、そのほか町

奉行の同心屋敷、八町ぼりの御舟蔵、御舟奉
行所のやかた数ヶ所、海辺にハ松平越前守、さし
も大きにつくりならべられし殿舎ども風に
したがひ煙につゝまれて焼あがり、猛火のさかん
なる事四王忉利の雲のうへまでものぼるらん
とぞおぼゆる、こゝにおひて数万の男女けふりを
のがれんと風下をさしてにげあつまる程に向ふ
へ行つまり、霊岸寺へかけこもる、墓所のめぐりハ
はなハだいろければ、よきところなりとて諸人
爰にあつまりいたる處に当寺の本堂に火か
かり、これより数ヶ所の院々にもえ渡り、一
P6
同に焼あがり、くろけぶり天をこがし、車輪
程なるほのほとびちり、かぜにはなされて
雨のふるごとく大勢むらがりいたるうへに落
ければ、かしらのかみにもえつき、たもとのうち
より焼出、まことにたえがたかりければ、諸人あ
はてふためき、火をのがれんとて我さきにと霊
岸寺の海辺をさしてはしり行、泥のなかにか
けこみける、寒さハさむし食ハくハず、水に
ひたりてたちすくみ、火をばのがれたりけれ
ども精力つきはてゝ大かた凍死する、それま
でもにげのぶることのかなはざるともがらハ炎

五躰にもえつきてことごとくこがれ死す
うめきさけぶこえすさまじく、ものゝあハれ
をとどめけり、すべて水火ふたつのなんに
死にほろぶるもの、九千六百余人なり、此海辺
までちりも残らず焼はらひ、海のむかひ四
五町西のかた、佃島のうち石川大隅守の屋し
きおなじくそのあたりの在家一宇ものこら
ず焼うしなふ
P7
 (絵)

P8
その日の暮れがたにおよんで、西風いよいよはげし
く吹落て、海上ハ波たかくあがり、其うへに去年
の冬より久しく雨ふらず、かハき切たる事
なれば、なじかハたまるべき風にとびちる炎十町
廿町をへだてたる所へもえ付て焼けあがる程に
神田の明神皆善寺社頭仏閣をいはず堀の丹
波守、太田備中守、村松町、材木町にいたる迄
あまたの家々ことごとく、柳原より和泉殿
橋を切てみな焼通りぬ、扨又右の駿河台の火
しきりに須田町へもえ出て、一筋ハ真直に通りて
町屋をさして焼ゆく、今一筋ハ誓願寺より追ま

ハして押来る間、江戸中町屋の老若、こハそもいか
なる事ぞやとておめきさけび、我も我もと家
財雑具をもち運び西本願寺の門前におろしを
きて休みける處に、辻風夥しく吹まきて
当寺の本堂より始て数ヶ所の寺々同時に
鬨と焼たち、山のごとく積あげたる道具に火も
え付しかバ、集りいたりし諸人あハてふためき命
をたすからんとて井のもとに飛入、溝の中に
懸入ける程に、下なるハ水におぼれ、中なるハ友に
おされ、上なるハ火にやかれ、ここにて死するもの四
百五十余人なり、さて又はじめ通り町の火ハ伝馬
P9
町に焼きたる、数万の貴賤此よしを見て退あし
よしとて車長持を引つれて浅草をさして
ゆくもの幾千万とも数しらず、人のなく声
くるまの軸音、焼くずるゝ音にうちそへて、さな
がら百千のいかづちの鳴おつるもかくやと覚えて
おびただしともいふばかりなし、親ハ子をうしなひ
子ハまた親におくれて押あひもみひせ
きあふ程に、あるひハ人にふみころされ、あるひ
は車にしかれきずをかうふり、半死半生に
なりておめきさけぶもの、又そのかずををしらず

(絵)
P10
かゝる火急の中にも盗人は有けり、引捨てたる車
長持ちを取て方々へ逃げ行く、殊更におかしかり
けるは、位牌屋の某が我一跡は是なりとてつくり
たてたる大位牌小位牌、朱塗、箔綵(はくだみ)色々成
けるを、車長持にうち入引出し、余りに間近く
燃えきたる火を逃れんとて、うち捨てたるを
何時の間にかはとりて行、浅草野辺にて錠をね
じきるも蓋を開たりければ、用にもなき位牌
ども成けり、火事を幸に物をとらんとねらいけ
る盗人共、あるいはぬか俵を米かとおもひて取て
のき、或は藁草履の入たる古かわごを小袖かと

心得て奪い取りてにぐるも有、其中に此日頃
重き病を請て、今をかぎりとみえし人を火事にお
どろき、すべきかたなくて半長持におし入、かき出し
辻中に卸し置たりしに、何者とは知らず盗取
行方なくなりにけり、是を尋んとする程に、家財一跡
皆焼すてたる人もあり、あるひは我子をば取うしな
ひ他人の子を吾子とおもひ手をひきうしろに
負て遠く逃げたるものもあり、年老たる
親、いとけなき子、足弱き女房を肩に
掛け手を引、せなかにかき負て、なくなく落行
ものもあり
P11
(絵)
爰に籠屋の奉行をバ石出帯刀と申す、しき
りに猛火もえきたり、すでに籠屋に近付しかバ
帯刀すなハち科人どもに申さるゝハ、汝ら今
はやきころされん事うたがひなし、まことに
不憫の事なり、爰にて殺さん事も無惨
なれば、しばらくゆるしはなつべし、足にまかせ
て何方へも逃行、随分命をたすかり火も
しづまりたらば、一人も残らず下谷のれんけい寺
へ来るべし、此義理をたがへずまいりたらば、我が身に
替ても汝らが命を申たすくべし、若し又此約
束を違えてまいらざる者ハ雲の原までもさがし
P12
出し、其身の事は申に及ばず一門迄も成敗すべし
と有て、すなはち籠の戸をひらき、数百の科人を
ゆるし出してはなされけり、科人共は手を合わせ涙
をながし、かかる御めぐみこそ有がたけれとて、おもひ
おもひに逃行けるが、火しづまりて後約束のごとく
皆下谷にあつまりけり、帯刀大きによろこび、汝等
まことに義あり、たとひ重罪なればとて義をま
もるものをばいかでころすべきやとて、此の趣
を御家老がたへ申上て、科人を許し給ひけり
道ある御世のしるし、直なるまつりごと、上に正し
ければあまたの科人ども義を守りて命をたす

けられけるこそ、ありがたけれ、此事をきく人みな
いわく、帯刀に情け有、科人また義あり、御老中
に仁ありて命を助け給へり、爰におひて国道
あることは明らけしとぞかんじける、其中に一人
の囚人しかもいたりて科の重かりしが、よき事に
おもひて遠く逃のび、我古郷にかへりしを、在所の
人々、此ものはたすかるまじき科人なるに、のがれ
て帰りしこそあやしけれとて、連れて江戸
へまいりければ、奉行がた大ににくまれ給ひてこ
ろされしとなり
P13
(絵)

しかるにかのあさ草の惣門をこゝろざしてに
げ出けるともがら、貴賤上下いく千万とも数
しらず、されどもむかふは河原なり、枡
がたをだに出たらバさのミせきあふまじかりし
を、いかなる天魔のわざにや籠屋の科人ども
ろうを破りてにぐるぞや、それのがすなとらへ
よといふ程こそ有けれ、あさ草のますがたの惣
門をはたとうちたりけり、これはおもひよらず
諸人いづれもわきまへなく、跡よりくるまをひ
きかけひきかけ押来る程に、伝馬町よりあさ草
の惣門つゐぢのきハまでそのみち八町四方があ
P14
ひだ、人と車ながもちとひしとつかえて、いさゝ
かきりを立つべきところもあき地ハさらにな
し、門はたてゝあり、跡よりハ数万の人おしに
押されてせきあひたり、門のきハなるものども
いかにもして門の関貫を引はづさんとすれ
ども、家財道具をいやがうへに積みかさね
たれば、これにつかへてとびらさらに開かれ
ず、さてこそ前へ進まんとすれば門はひらけ
ず、うしろへかへらんとすれば跡より大勢せ
きかくる、進退ここにきハまり、手をにぎり
身をもみて只あきれはてたるところに、北の

かたはじめ焼とまりし柳ハらの火おこりて
ぜいぐわんじ前の大名小路へおしうつりて立
花左近、松浦肥前、細川帯刀、丹羽式部
少輔、安藤但馬、加藤出羽守、おなじく遠江
山名禅閣、一色宮内少輔、都合三十五ヶ所、寺
がたにハにちりんじ、かんぜんじをはじめとして
ちそく院、こんがう院にいたるまで百二十ケ寺
一同にもえたつ、右伝馬町の火とひとつにな
りて焼あがり、ほのほハ空にみちみちて風に
まかせて飛び散りつつ、さながら集まりおし
あひもミあふ人のうえに三方よりふきかけ
P15
しかば、数万の男女さハぎたち、あまりに
たえかねて、あるひハ人のかたをふまへてはしる
もあり、あるひは屋の上にあがりてにぐるも
あり、これハこれハといふ程こそありけれ、高さ
十丈ばかりにきりたてたる石垣のうへ
より堀の中へ飛び入けり、命のたすかる
かとかやうにせしともがら、いまだしたまで
おちつかず石にてかうべをうちくだき、かいな
をつきおり、半死半生になるもあり、したへ
おちつくものハ腰をうちそんじてたちあが
ることを得ざるところへ、いやがうえにとびかさ

なり、おちかさなりふみころされ、おしころ
され、さしもに深き浅草の堀死人にてうづ
みけり、その数二万三千余人、三町四方
にかさなりて、堀はさながら平地になる
P16
(絵)

P17
のちのちにとぶ者ハ前の死骸をふまへて飛
ゆへに、その身すこしもいたまずして河向ひに
うちあがり助かるものおほかりけり、とかく
する間に重々にかまへたる見付の矢倉
に猛火燃えかかり大地にひびきてどうと崩れ
死人の上に落かゝる、さて人にせかれ、車にさへぎられ
ていまだ跡に逃おくれたるものどもハむかふへす
すまんとすれバ前にハ火すでにまハり、後によりハ
火のこ雨のごとくにふりかゝる、諸人声々に
念仏申事きくにあハれをもほよす間
に前後の猛火にとりまかれ、一同にあつとさけぶ

声、上ハ悲愴のいただきにひびき、下ハ金輪の底迄
も聞ゆらんと、身の毛もよだつばかりなり、翌日
みれば馬喰町、横山町の東西南北にかさなり臥
たる死人のありさま、眼もあてられぬありさま
なり、さてその夜の亥の刻ばかりにうつりては
悪風なおもしづまらで、海手をさして下屋敷
以上十九ヶ所ひとつも残らず炎上せり、此時
にあたつて御倉のうしろ、逃げおくれたる
もの七百三十余人有けるが、御倉に火かゝりて詰
置かれし米俵にもえつきたりければ、諸人こ
の煙にむせび、うちたおれ、ふしまろび
P18
あるひハ川中に転び入て死す、それより
炎は七八町もへだてし大河を飛こえ、うし島 *現回向院付近
新田にいたり、しまの在家迄ことごとく焼
ほろびて、其夜の寅の刻に火事ハこれ
までにてしづまりぬ

(絵)
夜すでにあけくれば四かく八方へおち散たり
ける者共、親は子を尋ね、夫は妻をうしなふ
て涕とともに声うちあげ、そんでうそのなにがし
と名を呼びつつ声々によばはりて、やうやう
尋ね逢てたがひによろこぶ人もあり、又は
死にうせて巡りあふ事なく、力をおとして
歎くもありて、ものゝわけも聞えず、ここかしこ
にあつまりて焼死て重なり伏したる死骸
どもをかたずけかたずけ、親子兄弟夫婦の屍を
尋ねもとむるに、あるいひハかしらの髪みな燃え
つくして半は過て大方尼法師のごとく、くろ

くすぼりに焼こがれ、あるひハ小袖着る物みなもえ
うせて五躰焼めぐり、竪横に肉さけて魚の
あぶりもののごとくなるもあり、みしにもあら
ぬおも(面)わすれして、それかこれかと見ちがへてたず
ねまどへるもおほかりけり、その紛れには盗
人共たちまじりて死人の腰につけ、肌へに
つけたる金銀をはづしとり、その焼金をもち
出て売代なす、これをまた買とらんとてあ
つまりける程に市のごとく、その外町の中
辻小路におとしすてたる家財雑具共数も
しらず、拾ひとり持ち出して売りしろなし
P20
にわかに徳付たるものもおほかりけり、らくさい
ばう又かたりけるやう、それがしの母も行き方
なくなりしかば、今は定めてむなしくなりぬ
らんとおもひさだめ、夜のあけがたに死人のか
さなり臥たるあたり、彼方此方と尋ねも
とめしに、母に似たる人焼死てうち臥たるを、こ
れこそそれよいざや家にとりてかへり葬礼
仏事せんとて戸板にのせて家にかへりければ
孫子兄弟跡まくらにさしつどひてなげき
かなしむところに、門よりしてまことの母かへ
りきたれり、人々此よしを見て、あれはいかに

はや亡霊になりて来り給ふぞや、此日比
申給ふ念仏は何のためぞや、妄念をもさま
して、すみやかに極楽の上品上生に往生
せんとこそおもひたまふへきを、まだ此娑婆に
執心を残して亡霊になりて来り
給ふかや、あさましき御事也、とくとくかえり給へ
跡をばねんごろにたふらひてまいらすべし
かまへて六だうの辻にばしまよひ給ふなと
いひければ、母大きにおどろき、われハ芝口まで
逃のびて命たすかり侍り、死なずしてかへり
しをばよろこばで、これはいかなる事をいふぞや
P21
と申さるゝ、人々聞て御死骸はまさしくこれに
有、死なずと宣ふこそ心得侍らねとて、彼取
てかへりし屍を能々みれば、さしもなきものゝか
ばねなり、人たがへは世の常あることなれども
にがにがしき中におかしかる事也、まず何
事もなく帰りおはせしこそうれしけれとて
とるものも取あへず、かの屍をばひそかにかき
すてたる由々しさよ、さらば一家は何事なく
たすかりける祝ひ事せよやとて、酒肴かひ
もとめてかなたこなた数献に及びてよろ
こぶ事かぎりもなし
(絵)


P23
   
むさしあふみ 下
明れば十九日江戸中によろこびをなす者
歎きをいたすもの相まじはりて、いとさうぞうし
かりけり、焼け残りし貴賤其一族どもの類火
にあひしを日ごろのよしみ此時なり、いかでか見す
つべきとぞ、焼跡にはせ集りとやかくやと懸
まはる、あるひは粥を煮てもち来り、あるひハ酒
肴をおくりつかハしなんどする處に巳のこく
ばかりに、小石川伝通院おもて門の下新鷹匠
町、大番衆与力の宿所より焼亡出来れり、此
煙りのありさまを遠き所より見るものは、しばし
P24
が間ハ旋風にまきあぐる土煙なりといふ者も有
又きのふの焼野のきえ残りたる煙なりと云
ものもありて、火事とはしかと見さだめず、しか
も北かぜ宵よりも猶あげしくふきしかば
時刻をうつさず吉祥寺の学寮院々坊々もえ
うつり車輪ほどなる炎くろけふりの中に飛
ちりて、十町二十町が外にもえわたる事、同時に
廿余ヶ所なり、しばしが内に水戸中納言殿さし
もつくりならべ給ひし大きなる御やかたに火か
かり、焔と煙とまきたてもえあがり、大堀をへだ
てゝ本鷹匠町の森の下、飯田町、典寿院の御

所、左右典厩公の南御殿、中の丸横御殿守、二の丸
三の丸を初めとして、松平加賀守おなじく伊豆守
土炊遠江守、水野出羽守、本多内記、酒井津の守、藤
堂大学頭、小笠原右近大夫、安藤対馬守、土屋民部
少輔、井上河内守、酒井雅楽正、松平和泉守、おな
じく五郎、おなじく越前守、これらの御やかた金
銀珠玉をちりばめてみがき立たる大夏高楼、棟
との大名十五ヶ所、其外南町奉行の御台所、中
川半左、伊奈半左衛門、天野五郎大夫、御細工小屋
ともに五ヶ所、ときは橋のうち合せて廿か所、それ
よりうちつづきて、鍜治橋の内むねとの大身に
P25
は細川越中守、松平新太郎、おなじく相模守
御執事酒井讃岐守、山内土佐守、有馬中務、京
極丹後守、戸田左門、蜂須賀阿波守、森内記、京極主
膳正、小笠原主膳正、吉良若狭守、保科弾
正、松平丹後守、溝口出雲守、新庄越前守、松平但
馬守、織田因幡守、松平遠江守、同出雲守、小出
伊勢守、織田丹後守、杉原帯刀、松平能登守、伊丹
蔵人、久世三四郎、酒部三十郎、おなじく長門守、毛利
壱三郎、水野下総守、山名主殿、米津内蔵介、前田
右近、出野甚内、中根吉兵衛、近藤石見守、同縫殿介、日
根野織部、神尾宮内、伝奏屋形、医師道三に至る迄

大名の屋形廿六ヶ所、小名の屋形十七ヶ所、伊達遠江守、
奥平大膳正、真田河内守、大久保加賀守、井伊兵部、松平
山城、青山大膳、九鬼大和守、堀美作、各々数奇屋橋の内
九ヶ所、南北都合七十二ヶ所、年内日比作り并たる屋形之
善尽美尽みがき立たる大廈高楼の構、数万間前後十五町
一同にもえあがり、黒煙天をこがし、炎は空を焼、棟木瓦
のくずれ落る音おびただしともいふハかなし、乾坤
これがためにかたふき、山河此故にくつがへかと、諸
人肝をけし、魂を失ふ、世界さながら猛火となる、ただ
これ天の三災一時におこりて国土ことごとく劫火の
ために焼うするかとぞおぼえし
P26
(絵)
申の刻より北風西になをりて、いよいよあらく吹
しかば、これにて焔を吹きかけて、紅葉山西の丸ハ堅
固に残りけるこそあやうけれ、御馬場の近辺土手
をさかひてやようすかしへとびうつり、北みなみ廿余
町一面になり町屋をさして焼出る、これによつ
て中橋京橋の町人ども、きのふの火事のまださ
めざるにうちそへて、又けふの大火事これはそも
何事ぞや、只今世界は滅却するぞやといふ程こ
そ有けれ、大きにあハてさはぎて、昨日の焼跡へのか
むとて中橋を北へとこころざすものもあり、又
風下を心かけ京橋を南へとはしる人もありて
P27
男女家も町も上を下にもてかへし、鍛冶町と
長崎町のものども、前後ひとつになりて逃出つゝ
いやがうえにせきあひたり、去年霜月の比より今
日に至る迄、既に八十日ばかり雨一滴もふらで乾
切たる家の上に火のこ落かゝり、はげしき風に
吹たてられて、車輪のごとくなる猛火地にほと
ばしり、町中に引出し火急をのがれてうちすて
たる車長持は辻小路に積み上げせきあひ、人更に
心のまゝに通り得ず、諸人もみあひ、こみあひ
ひしめく間に、猛火先々へもえ渡りしかば、目の
前に京橋より中橋にいたる迄四方の橋一度に

どうと焼落る、爰におひて火の中にとりまかれた
る諸人、一連に南に行、北に帰り、東西を
あがきめぐり声をそろへておめきさけぶ、すで
に間近くせまりて燃来りけるとき、あまり
にたへかね、われ人をたがひに楯になして火をよ
けんとする中に、まくれかゝる煙にむせびて臥
まろぶものもあり、あるひハ五躰に火もえ付て
たおれまどふ、せきあひおしあひける中に煙に
むせび、火にやかれてうちたおるれば、其後なる
者共将棋倒しのごとく一同にたおれこ
ろぶ、其うへゝ焔おちかかり煙うづまきせきさ
P28
けぶ声、これや此地獄の罪人共の焦熱
大焦熱の焔にこがされ、獄卒のかしゃく
をうけ、叫喚大叫喚の声をあげてか
なしみさけぶらんも、かくやと覚えて哀れ也
爰にて焼死するものおよそ二万六千余人、南
北三町東西二町半にかさなり臥累々たる死骸
更に空き地はなかりけり、家財雑具太刀かた
な、金銀米銭いくらといふ数しらず、辻小路
にうちすて、踏付、焼うする、あはれといふもお
ろかなり
(絵)
P29
そこより南は新橋木挽町、東は材木町、水
谷町へ焼わたり、二町余りの河むかひ、紀州大納言
尾張大納言の両御蔵屋敷より奥平みまさ
かの守に至る迄大名の蔵屋敷十六ヶ所こと
ごとく塵灰となる、果には鉄砲洲へ吹つけて其
日の酉の刻ばかりに海辺にて焼とまる、浅草川
深川よりこれまで惣じて六里あまりの湊々に
て舟どもの焼ける事幾万艘とも数しらず、か
くてやうやう焼しずまるとおもひしに、申の
刻ばかりに江城の西麹町五町目の在家より別
に火もえ出て、松平出羽守おなじく越後守同く

但馬守其外数十ヶ所さしも綺麗厳浄なる
山王権現勧請の地、天神の社にいたるまで、たち
まちに咸陽一朝のけふりとなり、いよいよ西かぜ
はげしくして、東照権現の御屋しろ、紅葉山
へ猛火しきりに吹付しかばあやうかりける處に
権現応護の御力をや添られけん、俄に北風と
なりて吹切ければ、西の丸つつがなく残りける
こそめでたけれ、それより南のかた大名小路へ
焼とおる、井伊掃部頭、上杉弾正少輔、毛利長門守
伊達陸奥守、島津薩摩守、黒田右衛門佐、鍋島し
なののかみ、南部山城守、真田伊豆守、丹羽左京、相
P30
馬大膳、京極刑部少輔、松平伊賀守、同周防守、戸
沢右京、水野美作守、水谷伊勢守、金森長門守
板倉周防守、土方河内守、相良左兵衛、浅野安芸守
同内匠、同因幡守、仙谷越前守、亀井能登守、伊東大
和守、松平左京大夫、同大和守、柳生主膳正、秋田淡
路守、小出大和守、太田原備前守、大関土佐守、鍋島紀伊
守、究竟の屋形廿六ヶ所、小名には兼松又四郎、高木
肥前を始として都合廿余ヶ所、その外御成橋の御
門の中は一ヶ所も残らず忽ちに片時の煙と
なりにけり、又西の丸の下に至りて阿部豊後守
堀田上野守、水野監物、松平外記、北条出羽守、稲

葉美濃守、大久保右京、酒井備後守、松平縫殿、同
若狭、其外一文字に桜田の町屋に焼うつりて
すぐに愛宕の下大名小路へうちつづく、まず大名
には有馬蔵人、大村丹後守、秋月長門守、稲場能登
守、脇坂淡路守、中川内膳、島津但馬守、一柳監物、木
下伊勢守、山崎甲斐守、植村出羽守、桑山修理、青木
甲斐守、分部左京、北条美濃守、松平隠岐守、大島
茂兵衛、小出大隅守、織田源十郎、堀三右衛門、佐久間不干
内藤左京、能勢小十郎、伊達政宗の中屋敷、毛利長
門守の下屋敷、同吉川美濃守の宿所をはじめと
して大名小名の屋かた八十五ヶ所に焼くずれた
P31
るとて、桜田の火すでに通り町に燃え出て、海辺に
て保科肥後守の下屋敷、伊達陸奥守の倉やしき
脇坂淡路守の下やしき、又そのほかに芝の浜手に
は松平相模守、亀井能登守下屋敷かたにい
たるまで以上都合十八ヶ所、増上寺の中にては
東照近縁の社頭、台徳院、おなじく御台の御廟
おなじく本堂、経蔵、鐘楼、五重の塔婆、三門北
のうら門などはつつがなく相残れり、されども所
化寮百十ヶ寺、おもての東門、神明の本社、神楽堂
護摩堂、あやしのかずならぬ禿倉にいたるまで
その夜の丑の刻ばかりにみなことごとく炎

上せり、此の時分には風おだやかにゆるく吹け
れば、うちけすならばたやすかるべきに、諸人
ただおどろきあハてゝ方々ににげちりて命を
大事とかまへたれば、人さらになし、風はふかね
ども火はこころのままに焼行ほどに、増上寺よ
り南へ十一町、芝口三町目海手に至りて火は
おのづから消にけり
P32
(絵)
本郷よりこれまでその道すでに六十余町
四方十余里、まさに広き野原となりて、眺々と
してほとりなし、惣じて町中五百余町、大名小路
五百余町、大名の屋形五百余宇、小名の
宿所六百余ヶ所、その外汎々の輩はあげて
かぞふべからず、御城の殿守、大手の御矢倉を
はじめて外郭、浅草の目付、神田の枡形に
至る迄、矢ぐらの数三十余ケ、又日本橋をはじ
めとして江戸中にありとあらゆる橋々六十ケ
所、此うち浅草橋と一石橋一つ、すなはち其橋も
と後藤源左衛門といふものゝ家ばかり江戸中の名
P33
残に只ひとつ焼残る、土蔵の数九千余庫、そ
の中に焼けのこりたるは十分が一もこれなし、代々の
重宝、家々の記録も此時にあたって失せぬらん
次に堂社には神田明神、山王権現、天神の社、神明
の本宮、誓願寺、知足院、日輪寺、西東両本願寺、本
誓寺、典学院、吉祥寺、金剛院、弥勒院、大龍寺、船光
寺、薬師寺、珠見寺、願教寺、唯然寺、地蔵院、霊岸寺
報恩寺、調善寺、長久寺、信経寺、常蓮寺、増上寺の所
化寮、開善寺、海庵寺、常徳寺、善徳寺、円応院、其
ほかの寺院三百五十余宇みなごとごとく焼ほろ
びたり、昨日十八日の昼より焼おこり、十九日のあげ
ぼの、廿日の辰の刻まで昼夜四日の大火事におびたゝ
しき旋風ふきて、猛火さかりになり、十町廿町をへ
だてゝ飛こえ飛こえ燃え上り燃え上りたるほどに
前後さらにわきまへなく、諸人逃げまどいて焔
にこがされ、煙にむせび、又大名小名の家々に
日ごろとしごろ秘蔵して立飼れける馬ども
幾らと云数しらず、家々に火かかればすべき
かたなく綱を切りて追放し追放しせられしかば
此馬共人と火とにおどろき、逸散にかけ出し
数多むらがりたる人の中にかけこみ行つ
まりて、人と馬とおしあひもみあひければ、これ
P34
にふみころされ、うちたおされ、火にやかれ煙に
むせび、あそこ爰の堀溝に百人弐百人ばかりづつ
死にたおれて、なしと云う所もなし、火しずま
りてのち、つぶさにしるし付たれば、およそ十万
二千百余人とぞかきたりける、一類眷属の有
ものは尋ねもとめて寺におくるもあり、大か
たはいかなる人いづくのものともたしかならず
かはりはてたるありさま、それとさだかにしる
事なし、やがて此死骸をば河原のものに仰付
られ、むさしと下総との境なる牛島と
いふところに船にて運びつかわし、六十間四方に

掘りうづみ、新しく塚をつき、増上寺より
寺をたて、すなはち諸宗山無縁寺回向院と号
し、五七日より前に諸寺の僧衆あつまり、千部の
経を読誦して跡をとふらひ、不断念仏の道場
となされけるこそ有がたけれ、江戸中の老若男
女袖をつらねて参詣し、声うちあげてもろ
ともに念仏申て回向するこそ尊けれ
P35
(絵)

P36
あるひは老たる祖母おうぢは生残りて、若く盛ん
なる孫子をうしなひ、あるひは女房只
一人残りて子供や夫にはなれたるもあり、す
べて一家のうちには五人三人又は十人あまり
も空しくなりて、つれなく只一人二人生残り
て歎き悲しむといへども、さすがに身をも
棄てられねば、血の涙をながして泣より
ほかのこともなし、家々は残らず焼て江戸中
広き野原となりて、とり囲うべき竹のはしら
すがごもだになければ、焼つちの上にうづく  *菅菰
まい、昼はせめてもの音にも紛れよかし、夜に

入れば何となくものすさまじく思ひめぐら
せば悲しきとも辛きとも言葉には述べ難し
親におくれ、夫にはなれ、子を失い、妻をころ
して悲しさのあまりに五輪卒塔婆をかひ
もとめて回向院につかはし、無縁塚の上に立る
ある人一家に十人あまり失いて、其ため
に卒塔婆十本もとめけるが、此うちへ今一本を
添て給れといふ、売手聞ていふやうは、五輪そ
とばなど申ものは余慶多くはせぬ事なり
何のために一本を添えとは宣ふと云えば、此人こ
たえて申たるは、親類のうちにやけどをしてい
P37
たむ者あり、もし死たらばそれにも立てゝと
らせんためなりと答へけり、いにしへ五輪を
添よと申せしはなしの有て、世の笑種とな
れり時にとってはかやうのことも有けるものかな
あまたの死に屍ををひとつ穴にうずまれし
事なれば、我親類はそこもとに埋れたりとは知
ねども、せめて悲しさのあまりには思ひ思ひに
五輪卒塔婆を塚の上に立ならべて、聖霊頓 *極楽往生を祈る
証仏果のためと回向して花をさし、水をくみ
て跡をとふらひ泣く泣く念仏申すありさま
見聞だにつけてあはれなり
(絵)
P38
去年の十一月より当年正月に及ぶまで日で
りして晴天しゃかに黄泉も乾きリテ今月の
廿日まで雨は一滴もふらざりしに、廿一日に大雪
俄にふりつみて、あらし激しく寒き事
いふばかりなし、かかる程に江戸中には米と云
もの一粒もなく、三日が間大飢饉して、その
上竹木なければ俄屋をもはらず、大方みな
雪霜にひらうてにうたれて寒さはさむし
肌凍て老少男女おほく死けり、一業所感の因
果は人ども死すべきときの定まりけん、火をの
がれては水に溺れ、飢て死に、凍て死す、いづ

れ命は助からず、無慙と云もおろかなり
然る處に御城の西の方、山のて筋僅かに
残りし大名小名よりして思い思いにあるひは
日本橋或は京橋方々におひて、仮屋をたて
奉行を添えられ粥を煮て餓えたるものに
施行せらる、又御城中よりは内藤帯刀、松浦
肥前、岩木伊予、これらの人々を御奉行とし
て御成橋、新橋、日本橋、筋かい橋、増上寺前
に仮屋をたて、かゆを煮させて飢人窮民に
施行し給ふに、江戸中の老若男女あつまりて
給はる、もとより受けて喰べき入れ物もな
P39
ければ、焼われざる茶碗のかけ、瓦のわれにて受て
食す、それにも及ばず、あまりに寒く飢たる
悲しさに直に手にてうくるもあり、其諸人の有
様、或は頭の髪型、かお半焼てうけたるも有
或は小袖の前後裾まで燃たるをもみけして
やうやう肩にかけ、手足の焼損じたるも有、妻子孫
子に別れてなくなく集る人も有、そのかみはさしも富貴栄
花なる人一跡皆失ひつつ手と身とになり、命計りを
たすかりて、寒さのまゝに恥を忘れたる若き女房
なんども多く集りて小鉢の破に粥をうけて、泪と
ともに食うもあり、あわれなりける有様也

(絵)
P40
さて二月の中比には城外の在々には夫々に
小屋を立て商売を営む、江戸中の焼出さ
れは諸縁にしたがひて入こみしかば、貴賤の出入
繁く、さしも賑わいて見ゆ、三月の比にはとかく
才覚をめぐらし町屋どもかたの如くの柴の庵を
結び雨風を防ぎしはそのかみに引替ていと
ど物あわれなり、まことに治世安民の政道ただしき
御事なれば、かじけなく公方より銀子壱
万貫目を町人にくだし給はり、これにて家造り
し、元の如く商売すべしと仰下さる、御町奉
行所神尾備前、石谷将監両人承り江戸中四百町城
外の辺町百余町の町人をめしよせて相渡さる
そのとしの九十月には土木の功なりて、町並一様に
六万間棟をならべ、軒を揃て綺麗にたて侍り
もとの大地は広さ六間なれば往来狭しとて
今は広さ十間なり、これによつて車馬道にとど
まらず、人のゆきかひやすらかなり、又白金
町より柳原まで町屋一通りのけられ、高さ
二丈四尺に石をもって東西十町あまりに土手を
つかせらる、日本橋の南、万町より四日市までの
町屋をとりのけ、高さ四間に川ばたにそふて北を
うけ、東西二町半に畳上らる、又日本橋より京橋
P41
まで八町の間に町家三ヶ所を取りのけて、会所
三十間づつに広くなれり、是は町屋あまりにせきあ
ひ、諸人いやが上に入こみ、やゝもすれば失火を出し、人物を
そこなふ事の度々に及ぶ故、土手をつきたらば江戸中の者
いかなる事有とも退足たやすきためにとの御事也、扨右
の取退けられし五ヶ所の町人共に引料として家壱
家に付金子七十両宛替地にそへて下されけり、又其
年の暮には、焼給ひし屋形屋形の大名小名へ残ず黄金
を恩賜有けり、上は公侯より下は民間に至る迄、あまね
き君の御めぐみに程なくもとの如く江戸中治り繁
昌して高家貴人は礼義厚く、あやしの庶民も財産の *あやし=賤

利に飽てめでたくさかふる事日々に百倍せり
(絵)
P42
楽斎房申すやう、いかに狛物売殿聞給へ、それがし
殊の外なる大面目を失ひたると申は、此折か
らの事なり、とてもの事に語りてきかせ侍らん
それがし十八日の火事には、親類家中無事なりし
かば、めでたき事なりとて、酒肴買もとめ十九日の朝
に祝言して数献のみける酒に酔ふし、前後さらに
しらざりしに、又火事よといふに妻子ども我
をいかにどかすべきとて、車長持におし入、錠をおろし
て引出し、芝口にうちすてたり、ぬす人どもあつまり
鎖をねじきり長持をうちわる音の寝耳に入
て目をさまし、あたりをさぐりまわせば、四方は板也

側には刀一腰小袖なども手にさはれり、それ
がし思うやう、我は死に侍り棺に入て野辺におく
りたり、獄卒共が呵責せんとてかやうに棺を
うち破るなり、此刀にて一まづ防ぎて見ばや
と思い、引抜きて踊出たれば盗人共は肝を
消して逃ちりけり、扨立あがりて見れば、辺りはく
らやみにて、はるかの東はばうばうと燃えて、人のお
めき叫ぶ声の聞えしを、心に思うやう、あ
そこは定めて無間地獄なるべし、罪人共の猛
火にこがされ、獄卒に呵責せらるゝ音やらん
あらおそろし、いかにもして極楽の道に行かむやとお
P43
もひて行ければ、馬どもおほくはなれてかけ来る、さ
ては爰元は畜生道のあたりなるべしと思て
猶たどりゆくに、焼出されの女、わらは、老たるもの共人の
肩にかゝり引立られて来るを見ては、是は只今む
なしくなりける罪人をしゃば世界より獄卒
どもの連れて来るにてぞあるらんと心に心を
迷わされ、暗き方に行けるが、芝口に出つゝ十王
堂の躰を見れば、燈明かすかにかゝげ、えんま大王、俱
生神ならび給へり、それがしは娑婆に有し時に人
悪かれとも存せず、人の物は盗みたることもなし
折々念仏は申侍り、定めて罪科も軽く侍らんに極

楽に送りて給はれといふに、もとより木像の焔
魔大王なれば、とかくの返事なし、いかなる目にか
あふべきと恐ろしさにそこを走り出て、かたな
こなたとする處に、鐘の音念仏の声の聞こえけり
是ぞ西方極楽の上品上生なるべしと思い近
く立よりて門をたたけば、内より何者ぞといふ
娑婆の往生人にて侍り、爰を明けさせ給へ、観音
正姿殿、早く百宝しやうごんの蓮のうてな
の上に上らんとの云に、内より大きに笑いど
よめき、火事にうろたえて気の違いたるものゝ
来たれるぞやと云う、力なく其所を行過る程
P42
に、夜はほのぼのと明にけり、かゝる處、大名方
の焼やしきにて粥を煮させて施行し給ふを
見れば、諸人あつまり手を差出してこれを受け
て喰らう姿、いずれも物がなしくあさましか
りければ、爰は定めて餓鬼道なるべしと思い、又か
たわらを見ればものをとりてにぐる盗人を追懸
て只一うちに切り倒すを見ては、修羅道かと
思い、念仏申と休みいたれば、しれる友達来り
是はいかにと云う、これにて夢醒めつゝ恥ずかしき
事かぎりなし、一門、妻子、家も宝もみな滅びし
しかば、これを菩提の縁となし、すぐにかみをそ

り、衣をすみに染めて、これまでさまよひのぼ
りしなり、我生ながら六道を巡りたりとお
ぼえ侍り、今は中々世をわたる物うさにくらぶれ
ば、生仏になりたり、心にまかせて行たき方に
行つゝ、今少しの命をたのしみ侍り、仏種従縁
起と仏の説き給へり、火事にあふて一跡皆たお
れしは物憂き事ながら、菩提の縁となるからに
はよき善知識にて侍らずやといふ、こま物
売重ねて云やう、まことにかゝる一大事
こそためしもまれなるおもいがけぬ事には
必ず心うろたへてかやうのおこがましき
P45
事もあるものなり、さのみに恥とおぼすべからず
さていにしへもかやうに人の大勢一同に死した
るためしもありけるかといふ、楽斎こたえ
て曰く、昔の事をつたへきくに、もろこし
には宋の仁宗皇帝の御宇、京祐四年十二月
におびただしき大地震ありて、民の家々
を揺り倒す、これにおされて死するもの
二万二千三百人、疵を蒙りて半死半生に
なり、或は一生の片輪になりけるもの国
中に五千六百人としるせり、その後又大元
の世宗皇帝の御宇、祥興廿七年八月に又
大地しきりに動いて山崩れては谷をうず
み、大木倒れてじゃ川をせき、地は裂けわ
かれて、下より泥を押し上げ、くろけぶり
天に舞い上がりて、国中に人の死する事七
千余人としるせり、同じく宋の成宗皇帝
の御世大徳十年八月に大地震ありて五千余
人死せり、同じく武宗皇帝の御世至令三
年六月に洪水みなぎり来りて、官舎民家を
押し流す事二万一千八百廿九軒なり、これに
溺れて死するもの数を知らずとしるせり、
そのほか飢饉洪水兵火にて人民死にほろび
P46
たる事度々多しと見えたれども、いまだ
此たびの火難の人数には及ばず、又日本にては
人皇第十代崇神天皇の御宇、即位五年に
あたつて、人の死する事天下半に過ぎたり
と言えども、これは疫病のはやりしによりてなり
中ころ平家世をとりてほしいままに奢り
けるが、南都の大衆平家をふくみて調伏
すると聞て、治承四年十二月廿八日、本三位の
中将重衡三万余騎にて南都に押寄せ、般若
坂の在家より火をかけて攻めければ、七大
寺の大衆煙に咽びて防ぎ兼ねて落

ゆく、乾の風激しく吹て、黒煙既に大仏
殿に燃えつきたり、此大仏殿の上には橋を
構えて、児わらは尼法師いくらといふ事も
なくあがりて隠れいたるところに猛火すで
に堂に燃えつきしかば、我おとらじと降りく
だる程に梯をふみ折りて下になるものはおし
ころされ、上なるものは高き天井より落かさ
なりけり、天井の奥に有けるものどもは何を
とらへて何をふまへてか下り降り侍べらん、あ
やの小屋ならばこそ下より抱きおろし
足をとらへても引おろすべき、さしも日本第
P47
一の大伽藍なれば、十丈にあまりし梁の上なり
今更助かるべき手立てなし、あまりのか
なしさに飛び落つるものは微塵に砕け
て死にけり、火の燃え近付くに従ってお
めき叫ぶ声大地にひびき、やうやく煙に
むせびて臥まろび、かしらの髪、身の
衣に火もえつき、その間に仏殿の火ど
つともえたちて焼崩れ、仏と共に灰と
なりたりといへり、その後北条平の貞時
天下の権をとりし永仁元年四月に俄に大地
震して、家々をゆる倒す。或は長押

に押され壁に押され襲の石て頭をうち
くだかれ、すべて鎌倉中に死する者
一万余人、その外手足を打ち損じ、耳
鼻をうち欠きて半死半生になり永き
片輪となるもの数を知らずとしるせり
近きころ正保二年には尾州濃州に洪水
ありて、両国一面に海のごとく、提崩れ家流
れて、人多く死したりと聞しかど、此たび
の炎上に数万人の焼死たる事前代未聞
の事也、いつの頃にやありけん、さざれ石の
岩ほとなりて、二葉の松の生そひてなどと
P48
いへる小歌のはやりてうたひける折には、上も
下も目出度くおもしろかりけるものを、何
ものゝつたへてはじめたりけん、此ごろ北國
の下部の米つき歌とかや、柴垣といふ事
世にはやりて、歴々の会合酒宴の座にても
第一の見ものとなり、いやしげにむくつけき
あら男の罷出、黒く汚き肌をぬぎ、
えもいはぬつらつきして、目を見出し口を
ゆがめ、肩をうち胸をたゝき、ひたすら身を
もむ事狂人のごとし、右に左にねじか
へり、あふのきうつぶきあがきけるを、座中声を
たすけ、手を打ちてもろともに興せられし
を、見る人さへ疎ましく片腹いたかりしが
はたして諸家ともに皆柴垣となり、大方
は最早此町には住まれ申さぬもあり、火に
焼かれて遁るゝかたなく、柴垣うちうち果ける
にぞ、謳歌の事も思い合わせらるゝと、まゆ
をひそめ、鼻柱を縮めてつぶやく人も
有けり、かやうの事も時節到来の理り
なれば、今更おどろくべき事ならねども、時
に行あたつて諸人めいわくせしぞかし、されど
も前に語る如、君の御めぐみのいともかし
P49
こくおはしますゆえに、江戸中二たび榮
にぎわいて、国もゆたかになびく世の猶
治まれるためしとて、松に小松のおひ
そひて枝もさかゆる若緑、仰ぐに
あかぬ御世ぞ久しき、と云歌に立かへり侍り
今は是迄なり、いとま申とて鳥居の
方を南に向いて行たり

  万治四年丑三月吉日
    寺町二条下ル町
       中村五兵衛開板