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 むさしあぶみ
              
―明暦の大火物語―
 現代では災害の最たるものは地震及びそれに伴う津波などで大火と云う言葉は
聞かない。火事がなくなった訳ではないが、耐火住宅や消防の発達などにより大火に
なる事はないと思われる。 近世江戸時代に大都市江戸では大きな火災が頻繁に
起こっている。 天正十八(1590)年徳川家康の関東入国時から、江戸は政治、商業、
文化の中心となり急速に発展し人口も増加した。 しかし基本は木造建築であり、
町が密集した事により火事の危険は常にあり、大火の記録も多い。 

 その中でも明暦三年(1657)年正月十八、十九両日の大火は空前絶後のものだった
ようである。 この時はそれ以前三ヶ月程雨が一滴も降らず家々は乾燥しきっており、
又強い北風が吹き夕方から急に西風に替る等種々の悪条件が重なり、大火の死者十万余
と伝える。 
 又この大火は全く関連のない三つの地域から十八日午後二時に本郷、十九日午前十時に
小石川、十九日午後四時に麹町より夫々出火し、両日共に強い北風と夕方から突然の西風に
より江戸の中心地を隈なく焼き、多くの人々が避難先で火に追い詰められている。
 江戸の町は現在以上に堀や川が縦横に防禦と運送の為に造られていたが、炎はいとも
簡単にこれらの障壁を越えたようである。 江戸城は現在も残る大きな堀で囲まれているが、
当時存在した天守閣が導火線の様になったか、十九日の火が城内に入り本丸(現東御苑)も
類焼している。西の丸(現皇居)は残ったが、その西側(現吹上御苑)にあった御三家の
屋敷も類焼した。

「むさしあぶみ」は上記明暦の大火の記録物語であり、大火の四年後、万治四(1661)年
京都の中村五兵衛出版である。 作者名の記載がないが、浅井了意と云う浪人文筆家に
よると云われている。
 物語の構成は大火の際、不覚を取り家族、家財産を全て失い世捨人となった楽斎房と
名乗る男が京都彷徨中に昔の知合いの小間物屋と偶然出会う。 小間物屋の需に応じて
大火の様子及び、幕府の復興支援及び都市改造等を委しく語り、又自分がとった不覚も
話して聞かせると云う筋書きになっている。 最後にとってつけた様に、大火前にあった
好ましくない風潮(柴垣踊)が大火で一掃されたのは良い事だと云っているが、その頃
横暴を極め社会の鼻つまみ的な存在だった旗本奴の事ではないかと思われる。また楽斎房の
前身は不明だが、小身の真面目な旗本武士だったのではと思われる。しかるべき屋敷に
住み刀も持っていたようである。(20220529)

   現代文訳及び挿絵 → こちら       製本版はこちら

    むさしあぶみ全文翻刻 → こちら     PDF

参照: むさしあぶみ 中村五兵衛版  国立国会図書館デジタルアーカイブ
    落穂集追加巻九 酉年の大火  国立公文書館内閣文庫
    正保年中江戸絵図       同上

     むさしあぶみ 最初の頁     むさしあぶみ 最後の頁