落穂集巻十一      戻る                            Home
  
         霊巌夜話大意之弁
天下太平の時代に生れあいぬる輩ハ乱れたる世の有様をハ
むかし語りにのミ聞伝へ、只大方のやうに相心得居申候
と有は不了簡の至極、と我らなど若年の比迠
(ころまで)ハ右乱世に
出逢たると申老人も間々存生にて罷在候ニ付、其の老人の
直はなしを承りたる義なども有之候、乱世と有ハあな
がちに武士斗
(ばかり)にかぎりたる義にても無之候、農工商の三民を
始め其外沙門の族
(やから)も殊の外に迷惑難義を仕事(つかまつること)
よし、其子細を申に、先今時の武士と申ハ口にも白く
つきたる米の食に味よき味噌を汁として菜好を

仕り、其上に酒のさかなのと申ごとく是あり、身にも時々
の衣服を着かさね、冬の夜は臥具を用ひて寒気を
防ぎ、夏は 蚊張の内に寝起を心安く仕。 昼の間の勤と
ても畳の上の奉公の義なれハ、別に気遣ひなる事も
なき供番使番をさへも番間つまりて難義仕るなどと
申てつぶやき、主人より給る所の恩給をハ只取に仕る
分別より外にハ無之。 乱世の武士と申ハ口に給申物も
陣中に臼杵とても無之候得ば、つかぬ黒米を其侭にて  
食にたき味噌も無之候得ハ塩汁をすすり、勿論調菜
など申儀も是なく、野陣の時ハ申に不及、縦
(たとい)陣屋の内に
罷有
(まかりある)とても屋根ハ雨さへもらずとあるまでにて脇ハ

笹垣一本を囲ひ、下にハあんしき一枚を敷、臥具とても
無之義なれハ冬陣などの節ははだへもひへこほりて(冷え凍りて) 
夜の目もあわず、夏陣のせつハ夜もすがら蚤蚊に
つつかれ、時としてハ具足を着ながら夜をあかして、其
上外に取かへも無き身命をちりあくた(塵芥)の如く思ひなし 
て家をはなれ、妻子を忘て軍旅に月日を送る辛労
と有はいか斗
(ばかり)の義なるべし、今勘弁尤也。 次に農人
百姓共の義も、戦国の節ハ軍役の追立夫など申儀繁々
にあたり候を以、農業を勤いとまもなく、其上毎度の戦場
に於て足軽、長物、旗持等其外雑人の族敵に討れ
相果候、其供代りなくては不叶
(かなわず)といへとも乱世にハ下人奉

公を仕る牢人者とてもまれに候を以、大方ハ知行所の村々へ割
を掛け、百姓共の中にて手足もすこやか成る者共をハ理不
尽に召出し、軍場の供につれ行たる跡において、老たる
親妻子のなげきの程思ひやるべし。 去に依て天正十八年小
田原陣の以後 権現様関東御入国被遊候節、郷村の百姓共の
義ハ目もあてられぬ有様にて、其所の名主・百姓たりとも
家内に床をはり畳を敷たる家とてハ一軒も無之、男女
共に身にハ布子と申者を着し、縄帯を致しわらにて
髪をたハねたる者斗
(ばかり)の様に在之候由、其時代の老人
の物語を我等承りたる事に候処、今時の百姓共の家居
と申ハ大方ハ床を張、畳を敷詰、土間にねござ・わらむ

しろをなど敷たる百姓家と申ハまれなることに有之。
衣類等之儀も男女共にはれ着、不断着の差別を致し
髪にハ元結をたてて油をぬり申ごとし、是ハ其時の名主
長百姓と呼るる者の中成にも終に鍬鋤を手に取たる事
の覚へなきと申如く成者も数多有之候と也。 是偏に御
治世の相続き御世の物静成につきての義也。 扨工人の
義も乱世にハ武具・兵具・馬通具などの細工人ハ相応に
渡世を仕るにて候、其外家作に懸りあい候諸職人を初め
少成共栄耀がましき物をこしらへ覚へいとなミを
仕る細工人の儀は渡世の致し方無之、大方ハ出入致付
たる武家方の扶持人と成て口過を致すごとく有之物也。

然るに御世相つづき豊かなる儀なれハ、上つかたの義ハ申に
不及、末々かろき者迠相応に栄耀
(えいよう)なる物ずき
致すに付てハ、道々の諸職人は作業のいとまなく渡
世を心安く仕ると有、御治世故の儀と可申候。 扨又商売人
の義ハ猶又乱世にハ迷惑仕者のよし也、其子細を申
に世上物さハがしき時節にハ他国がけの売買と有儀ハ一円
に不罷成
(まかりならず)、自国のうりかいとてもはかばかしからず、其うへ
時代につれて盗賊、押込など仕るいたずら者も多く候ニ付、
一向に元手も無之候貧窮なる町人共の儀は其通り、少しも手前
有程なる町人の儀は取持いたしたる財宝の置所を気
遣ひ、夫に付てハ面々の身持迠も致しがたきごとく有之候。

然るに其日過を仕る町人たりとも大屋へ店賃さへ出し
公儀の御法度さへ守り候へハ何の気遣ひなく候、是治世の町人
の細もと手にても寝起を心やすく世を渡り申にて候、まし
てや手前よろしき町人の義は金銀の手廻し借(貸か)し
ふやしの義に世話をやき、或ハたくハへ(貯え)をへらさぬやうにと 
有了簡をめぐらし候迠にて、外にハ何の苦労もなく心ま
かせに寝起を致し、喰度ものを給、呑たき物をのミ
衣類等の儀も心にまかせ、家居抔も広々と寄麗に住    
ひ、男女へかけて召仕ひに手つかへ(手支え)もなく、何一色の事欠
る事もなく、無病息災にて長命を願ふより外の義
無之ごとくの輩も数多有之、是皆治世に生れ逢ひ

たるを以の故也。 其外出家沙門を始め品々の遊民共の
義は四民安危に随ひて渡世仕る義なれハ、猶更  
治世にあらずして身の安堵も是なし、右治世と申に
付ても段々の様子在事にて候。 委細を申に右大将
頼朝卿武家に於て始て天下の権をとられより以後、鎌倉
将軍家之代々北条時政が子孫高時入道まで九代が間
執権職を持、京都にてハ両六原と申役所を立置、天下の
政務を執りおこなひしか共、日本国中物静に治り
たると申にはハ無之、其後足利尊氏公・子息義詮両代
之儀も大方ハ治世の様子有之候へ共、西国にハ宮方の残党
関東にハ新田家之氏族等相残り居候を以一円に静

謐と申にてハ無之、爰かしこにおいて少宛の騒動ハ
有之候と也。 三代目義満将軍の代に至りて漸々世上
もおだやかに治りたる様に有之候に付、 公方家の諸式
の義も伊勢、小笠原の家々へ令せられ、古風の鎌倉様に
増減して 公方家の一通りを再興あられ、其外将軍
家の格式をも相立候を以、如此にてハ武門の繁栄・静謐
も限り有間敷様に我人思ひの外に、程もなくまた
戦国の沙汰に及び世上おだやかならず、元祖尊氏より
将軍義輝滅亡まで世
代の年数を考候へハ百六十年
程も罷成候得共、其内二三十年が間程もなく候、義満将軍
以後の儀も段々と威光おとろへ公方と申たるのミ
のやうに有之候と也。 右足利家滅亡の後平信長公

しハらく天下の権をとり被申たる様に有之候へ共、漸々にて
上方筋十五六ケ国斗手に入たると申迠にて、家人明智が
為に死亡被致、其跡にて羽柴筑前守秀吉逆心の明智
を追討して其後自立の功を立、漸々天下を握るいき
ほい有之候といへとも、其身卑賤の家に生れながら征夷
大将軍の号を蒙りたりとも、由緒正しき列国の諸
大名の渇仰
(かつぎょう)のほどいかが有之候哉との勘弁を以、武門の 
交りをはなれて公家に列し、関白職に着て天下の
権をとり、天正十八年以後日本国一統の大功を立られ
しかども、程なく病気を請、山州伏見の城中に於て
既に死去可被致かと有るまへかた、流石卑賤より出て大成

の功を立られたる器量ほど有て、秀吉公にハ両度迠
権現様を病床近く御招請被申
(ごしょうせいもうされ)、我等今度の病気
快気のほど覚束なく覚へ候、秀頼未幼年之義ニも有之
其上つつがなく成長候ても其人と成候程も難斗
(はかりがたく)候、天下
の政務と有ハ大切の事にも候へハ、我ら死後天下の政務
の義ハ其元へ譲り置可申旨被申候得ば、 権現様如何様之
思召哉、御許容不被遊達て御断被仰候を以、秀頼幼少之間
権現様にハ天下の政務を御沙汰あられ、加洲大納言利家卿
へハ秀頼養育の義を頼置との遺言にハ有之候と也。 扨
右之通にて事済候處、大老中の中にて備前中納言秀家、
五奉行の中にて石田治部少輔三成、外様大名の中にて

小西攝津守行長并
(ならびに)安国寺が輩心をあわせ、いわれなきに
返逆を企て諸大名と進めかたらひ、慶長五年庚子之
兵乱起り、日本国中の軍勢東西に別れ濃州関原表に
於て天下分け目の大合戦有之候刻、 御当家御譜代之
人持衆の義は大形 秀忠様の御供にて木曾路を被相越
候を以て関原御合戦の間に合不申候、十万餘り之上方勢に
わづかの御味方を以の御合戦と有ハ御勝利の程如何可有之
候哉と諸人積りの外、野州小山に於て御約諾被申
上候豊臣家の諸大名黒田長政、細川忠興、加藤嘉明
池田輝政、福島正則、浅野幸長、藤堂髙虎、其外筑前
中納言秀秋をはじめ、上方衆悉く御味方を被致

逆徒の軍勢を切崩され候を以、御味方にてハ松平下野守
忠吉卿、井伊直政、本多忠勝など手首尾に逢被申
(あいもうされ)
たる斗
(ばかり)にて、其外御旗本の大小之御譜代衆の手をよ
ごし被申たる衆とてハさのミ無之ごとくにて、御合戦御利
運と罷成、おのづから天下ハ御当家の御手に入候こと
と罷成候と有に、異国本朝共に古今ためし無御座儀
に候と也。 右の次第を以相考見候処に天のゆるせる聖武
など申伝候ハ 権現様などの御事にても御座可有
哉と奉存候所也。 其子細を申奉るに右関原御一戦御勝利
以後の儀は天下御一統の上の義ニも御座候へハ、御心任せに
被成度義をも被遊、御自由の御働なども御座なくては

叶ひ不申候処に、御自分の御身にとりての御栄花・御栄耀
御たのしミがましき事とてハ少しも不被遊、万民安堵致、
天下静謐の御仕置之儀共専ら御思慮被遊、元和二年四
月十七日駿府の御城内において御他界被遊候節の
御遺言にも神異と御顕れ野州日光山中に御跡を置れ
させられ、御当家御末代迠之御武運を御守り可被遊と有る
御念願の趣、叡聞にも相達候を以て
東照大権現宮と有之勅号を被仰出、元和四年以来日光
山に御宮跡被遊、天下を御守護被遊候を以、御代々相続たる
御静謐と申儀、慶長五年より以来百三拾年に及び申
ごとく成儀は異国、本朝共に其例無之事也。 猶此末に

如何程の御治世たるべきもはかり難し、是偏に
東照宮様之御神力の浅からざる故也。 日本上古之儀は
不存、中古以来人を神にいわい申と有ハ、其人の在世の
智・仁・勇の三徳義に相叶ひたる人の身後において
神明と仰ぎて社を立、時節の祭を致候。 諸人高
位の人に斗り限たる義にても無之、一孤微賤の者の中
中たり共智・仁・勇の三徳の兼備りたる人の神ともなら
てハ不叶道理に候得共、其身の幅が無之候てハ三徳の
広く物に及び相あらハれ可申様も無之ニ付、おのづから
その徳義もかくれ、人しれずに一生をむなしく相送り
申候他ハ無之候。 若又大身の人の中に三徳義のそなハり

たる方々などおハしまし候へハ、その徳行物に及びて
かくれなく諸人耳目にも相ふれ、世上においても広がり
取沙汰仕るごとく有之ものの由也。 右三徳の内一徳も慥
(たしか)
そなハりたると申す人ハまれなる由に候ヘハ、ましてや三徳共に
備りたる人と申てハ千万人の中にも有かね候と有ハ尤の
儀なり。 去によつていにしえ(古)より神明とあらハれ、諸
人の崇敬に預り申候ごとくの人ハ多く無之候となり、近来ハ
豊臣太閤秀吉公など在世の時よりの願に依て、豊国
大明神と有勅号を被成下、宮居等結構に建そろひて    
権現様の上意を以て壱万石の社領等迠御付置被成候へとも
秀吉公の人となり智・勇の二ツにおいてハ不足無之ごとく

生れそなハり給ひ候へ共、三徳の中にて第一とも申べき仁の
一道ハ一向に欠はて、却て不仁の方へつりたる生れ付の人
にて有之候と也。 智・仁・勇の三徳と申すハ金輪の爪などを
見申如く長短なしに揃ひ不申してハ不叶事の由ニ候
処に、肝要の仁徳の少も是なく欠果候てハ神明の本躰
とハ申間敷候がにて候。去に依て長久不致して退転仕、
社頭抔も今時ハ跡形もなく成果申候と被存候事に候也。
権現様の御事も御遺言を以神異と御いわれ被遊、日光山に
御宮跡被成候得共、元和二年より以来今年迠百十四五年が
間 御代御静謐に治り候を以、日本国中万民安堵に居住
仕ると有、其いわれハ御在世にて御座被成候節、智・仁・勇の

三徳ともに御兼そなハり被遊候を以の義也、其証拠を申に
先、智恵之義ハ参州岡崎の只一城より日本国の主と
御成被遊たると申にて相済申候義也。其上右申智と勇と
の二ツにおいてハ不足無之かと申、関白秀吉公天下一統の
大望有之候へハとかく 権現様の御合力にあらずしてハ事
遂ぐまじきとの勘弁を以て、或ハ御子三河守秀康公を以て
養い君と被致、又は姉君を浜松の御簾中となし被申て
御重縁に取組れ候ても 権現様一円御とりあひ不被遊
候を以て外に可被致様も無之、母儀大政所を以証人と有
之、岡崎の城中へ被差下候ニ付、然る上ハと有之御上洛被
遊、其以後御入魂被成、万事秀吉公と被話合を以て事

はか取、天正十八年に至り、小田原北条家を押倒し夫より
出羽・奥州迠手に入れ、多年大望の天下一統の功を立
られ候事、偏に内府殿御助力ゆへと有之て、秀吉公
一生の間 権現様御壱人の御事をば殊外に御馳走
被申候御客あしらひに被致候と申伝候。然れハ秀吉公の
智謀に御増りハ被遊候共御おとりハ被成たる様子には不被
存候、次に御武勇之儀ハ未御年若にて今川義元に御
随身被遊駿府に御座被遊候節、御年十七歳にて御初陣
に出被遊其以後大坂冬夏両度之御陣を懸ケ御
一代の間多きか少なきか敵味方に手負・死人の有之
ごとく成軍に御立被遊たる義四十八度とふれ候を以て

相しられ申たる義也、其身一生之間に五度七度も軍に
走り廻る有之、手をも不下(くださず)候者をも数度の場をふミ
たる武扁とて我・人の誉事ニハ仕にて候、爰を以て能々
了簡尤の所也。  次に御仁徳の儀ハ御年若ニて駿州宮カ
崎も御座被遊節より元和二年御他界被遊候節迠五六拾
年が間の御嘉言、御言行之段ハ其時代の旧記等の中にも
あらましハ相見へ、其上世の人の申伝にも相残り有之
儀なれハ委細申述る迠も無之事に候、其上千万も入
不申御仁徳の御そなハり被遊たる御大将にて御座候と申
においてハ慥成手掛り之証拠有之御事に候。其子細ハ
右にも申通り 権現様御一生之内大小御合戦に

御出合被遊たると申儀ハ四拾八度と有之候間、江州姉川、遠州
三方原、三州長篠、尾州長久手、濃州関原、此五合戦と申ハ
何も大軍にて敵に御向ひ被成小勢の御味方を以の御勝利
有之ハ何ゆえの事にて候へハ御家御譜代の御旗本、大身小身共
に 権現様の常々の御仁徳になつき居被申候を以、戦場に
おいて自分の身命をわすれ一筋に軍忠を励し、粉骨を
尽くして相はたらかれ候を以の御勝利と申義なども有之由に
候へ共一度や二度の義ハ可罷成事にて候、大小合戦の度ごとに定りて
味方の勝利と有るハ仁徳の有大将の場合斗限りたる事
にて、不仁不徳の大将の手前においてハ決して罷なら
ざる事ニ相極り候處を以相考候へハ

権現様にハ仁・勇の三徳に御叶ひ被成たる 御大将様と申奉
に相違は無御座候。猶又落穂集追加、霊巌夜話等の書物
において 権現様御在世之節の御伝に付て、家々
の承り伝へたる事共をハ、乍恐あらまし書記し差置候
との意趣を如何となれハ年月相隔りけると以前の
事共をばとなへ失ひ、古来の義を知る人もまれに成行申
に付てハ 権現様の御嘉言、御善行の次第を聢と承り
及びたる者も無之如く可罷成段、乍恐残念の至りなり
なげクわしき御事に奉存に付ての義なり。右申述
のごとく智・仁・勇の御三徳に御叶ひ被遊たる御人様を
東照大権現宮様と崇敬致し奉るにおいてハ、上古の諸神

達に増りは被遊候とも少しも成共御おとりハ可被成様とてハ無御
座候得共、凡情の浅ましきハ今時の世俗御信仰申上る
心ざしも無之、遥か西天竺の仏なる観音・薬師地蔵
など信心致し、或ハ本朝上代の諸神達ばかりを神と
おもひて崇敬仕 東照宮様へ御跡意申上ると有ハ御恩
しらずの不届とより外にハ可申様も無之、右 権現様より
御血脈の御つづき御座候御家門方の御事ハ申迠も無御座
其外御譜代の筋目の御旗本大名小名を初め、たとへ
外様むきの大名衆たる共、慶長五年庚子の兵乱以
後百三十年以来の儀も御当家御代々の御恩によつて
家々の相続も相立、家門繁栄と有ハ只大かたの義に有

ざる旨を能々思慮あられ、是偏に 東照宮様の恩深き
御恵ミと有之所へ心付給ひて常々信心あられ候ていよいよ
武運も相叶ひ可申事に候。然るにおいて自分自分の
身の上においてハ申に及ばず、相親しき人々の中に大切
の病人など有之節も外の仏神を頼ミ申におよばず
東照宮様へ立願被申上、其験御座有に於てハ重畳あり
がたき仕合と奉存、たとへ立願之間不相叶候ニても
東照宮様の御神力に相叶は不被遊義なれハ定て定業の
時節御出来故の事なるべしと思へ明らめ被申事と
有之度事に候、古人の詞にも其鬼にあらずして是を
祭るハへつらへる也と有之よしに候、去る慶長五年より

百三十年以来天下御静謐に治り、御代々相続きて
公儀の御恩沢に依て家門をつぎ、身を立、安来に渡世
あられ候面々とて
東照宮様の御事を其鬼にあらざる御神とハ決して被
申間敷候、此旨能々思慮あられ候事肝要のところ也
予寛政十六年に出生いたし今年にいたり九拾才の
春秋をおくりむかふといへとも、太平の御代の義なれハ武禄を
食ミながら身命をつつがもなく此世にながらへ罷在に付
ても、是偏に
東照宮様の御神恩故の御事といとたっとくありがたき
仕合におもひ奉て

   八十とせを世にふることもあつまかた
   てらす御神の御影ならずや

      享保十三大品       大道寺友山綴之

     落穂集十一  大終