解説へ戻る

            落穂集巻之十二
p364
一九月廿三日 秀忠公信州木曽路通りを御上着被成、直に大津へ
 御越被遊候処に 内府公にハ御持病気の由にて御対顔不
 被遊候付、御供被致候衆中共に御目見不被仰付、
 秀忠公にハ夜に入草津の駅へ御帰被遊候となり
  此義を旧記に記し候ハ 秀忠公真田表に御隙を取れ
  関ヶ原御一戦の御間に合せられず候段、思召に不相叶
  候ニ付、御対顔不被遊、夫故大津に御止宿難被成、草津へ
  御帰り被遊候と有之候へ共、左様にてハ無之、京極高次籠城
  の節、大津の町屋の義ハ自焼被致候に付、御一宿可被遊家
  居無之、尤下宿共に無之ニ付、本多上野介世話に被致、御本
  陣の義ハ不及申御供中の居所迄草津近辺の在々に
p365
  割付有之候ニ付、草津へ御帰被遊候となり
一同日の夜中本多上野介方より 内府公御持病も御快候付
 御対顔可被遊との御意に候間、明朝大津へ御越可被遊候
 其節今度御供被召連候面々共に御目見可被仰付との旨
 被申上候付、翌朝大津の城へ御上り被遊御対顔の節、御供に
 被召連候面々義も御目通りへ被召出候と也、 秀忠公被仰候ハ
 私義今度関ヶ原表へ参陣遅ハり、大切の御一戦の手首
 尾に御逢不被成候段、御迷惑被成候旨被仰上候へハ、参陣の
 時節を申遣たる使の者共口上の間違の上ハ可致様も無之
 事に候、惣して天下分ケ目の合戦などと申ものハ囲碁の勝
 負も同事に候、其碁にさへ勝候へハたとへ相手の方に目を持
 たる者幾所も有之ても用にハ立さる如く、関ヶ原表の一戦に

 さへ勝候へハ、真田如きの小身者如何程城を堅固に持堅め罷
 有候ても己れと城を明渡して降参致すより外ハ無之
 積りなるに、あれに居候者共の中にて左様の義を其元へ申
 たる者の無之やと御尋被遊候へハ 秀忠公被聞召、其義を
 戸田左門ハ申候と被仰上候へハ、夫ハ如何様に申ぞと重て御
 尋に付、上田表に於て左門存寄を申上候趣委細被仰上候
 得ハ、何れも列座の方を御覧被遊、左門と被為召候とも間
 遠にて聞へ兼、御請無之ニ付 秀忠公御高声に左門被
 為召候と被仰候ニ付、左門罷出候へハ御側に被召呼、御前に有之候
 御菓子を両の御手に御すくひ被遊左門へ被下置候節、小
 身にてハ口がきかれざるな、頓て口のきかれ候如くして取らせん
 ぞと被仰候付、左門ハ余りの忝さに難有とある御請にも不及
p366
 候処に 秀忠公左門義難有御意被成下忝次第に可存と
 御取合を被仰上候となり
  右の趣き世上流布の旧記等の書面にハ見当り不申候へ共
  慥なる義と承り伝へ、其上慶長六年に至り左門義大
  津の城在番にて被居候を被為召、只今迄の大津の城場所
  から不宜候間、膳所へ御引可被遊候城地の見立、縄張等の
  義も其方存寄次第に絵図相認可差上候、小身者の義に候へハ
  普請中奉行人並に入用等の義も御上より可被仰付と
  有之仰出にて、夫迄ハ武州川越領の内鯨井五千石被
  下置候を、膳所近辺に於て三万石被成下、城主に被仰付候
  となり、然ハ大津にての御意に都合仕りたると被存候付、書
  記し候となり

一大津御逗留の内に加賀中納言利長、土方勘兵衛相共に
 参着登城有之御一戦御勝利の義を賀せられ、北国筋
 の義委細被申上候へハ、大聖寺の城を攻落し山口父子被伐
 果候段御感悦の旨被仰述、利長被申上候ハ、悪弟能登守義
 大聖寺城攻の節迄ハ無二の御味方にて形の如く軍忠を相励ミ
 候処、其以後悪徒等に誘れ、領地へ引籠り罷有ニ付、不届と存
 勘兵衛を相頼、両度に及び能州へ差越し種々異見を加へ
 候へ共承引不仕、御敵対の色を立候段不及是非次第の由被申上
 候へハ、土方も同じく私も両度迄罷越し種々異見仕候へ共
 同心無之ニ付、利長にも御前への申訳も無御座義と有て殊
 の外なる不興に御座候と勘兵衛被申上候へハ、人ハ心々の事に
 候へハ不及是非義に候と御意に付、土方重て能登守義尤
p367
 凶徒一味とハ有之候へ共、家来共の義ハ不残利長に属し供可仕
 旨の申付に御座候と被申上候へハ、とかくの仰も無御座候となり
 干時利長被申上候ハ、小松宰相最初ハ凶徒一味に候へ共、秀
 家、三成が邪謀たるの旨相聞へ候ニ付、先非を悔土方存の通り
 拙者方へ降参を乞、越前表へ発向致すに於てハ先手を仕、忠
 義を相励ミ可申との願ニ付、和談の上及対面候処、関ヶ原御一
 戦御勝利に有之ニ付て御忠節の申上所も無之ニ付、拙者方へ
 ひたすら願越候、御一戦御勝利以前降参の義にも有之候へハ
 御恩免あられ被遣度旨被申上候へハ、尤其許御申の義にハ候へ共
 宰相義に於てハ差赦し候義決して不罷成候、子細は宰相親
 秀重相果候仕形、武将の本意に非ざるよし、秀吉不興に依て   *長秀か
 領知を取上られ只今の長重難義に及び候を、我等義親秀     *長秀

 重と入魂之筋目を以て種々介抱致し、秀吉へも取成る候故
 小松の城主共なり官位まで昇進致したる義に候処に、其厚
 恩を忘却致し逆徒方に成、剰へ其元へ対し弓矢に及び候
 と有ハ重罪の者に候へハ死罪に不申付してハ不叶とある仰の
 下にて利長種々御詫被申折節 秀忠公御出座被成候を
 幸に被致、何とて長重御助命の義を被仰上被下度旨利長
 御願被申ニ付、 秀忠公にも達てと御取成し被仰上候御詞ニ付
 土方も頻りに御詫言申候へハ漸々と御聞済被遊、利長達て
 の願の上ハ御助命可被成旨、城をハ利長家来中へ明渡し
 其身ハ早々加賀の地を可立退旨被申越候様にと土方勘兵衛へ
 被仰付候となり、利長重て越前北の庄の城主青木紀伊守
 義も御赦免被成下度旨拙者方迄相願候段被申上候へハ、青木が
p368
 類の輩ハ外にも可有之事に候、死罪の一段ハ差ゆるし候逆
 徒一味と有之上ハ何れの道にも城を明退候様に可被申越
 と仰有けれハ、土方申上候ハ、紀伊守義病身故世倅右衛門佐を
 今度利長に相添差登せ候、何とぞ御免の被仰出も有之候ハ
 忝次第に可奉存と被申上候へ共、一向御聞済も無御座候ニ付、右
 衛門佐も無是非越前へ罷帰候となり
  右の次第旧記の面にも相見へ候へ共少つゝの相違有之候
  此書に相記候ハ内藤善斎浅野因幡守殿へ物語あられ
  たる赴を以書留候也
一松平丹波守、水野六左衛門、西尾豊後守大垣の城をハ在番松
 平周防守へ引渡し、大津へ参上して彼表落城の次第
 御直に被申上候へハ御感の仰有之、其上御尋被遊候於ハ先達ての
 
 注進に津軽勢の働相見候へ共、右京方よりの届ハ無之段御  *津軽左京亮
 不審ニ付、丹波守被申上候ハ、御意の如く私共義も右京参陣
 無之を不審に存、頭分の者に相尋候処に、其者共申候ハ、右京
 亮義も出生可仕との義に有之候処、俄に領分の内一揆蜂起
 仕り其仕置等申付可罷登の間、先勢の者共義ハ片時も早く
 罷登候様にと申付候故、我等共計罷越候由申候、侍分の者共
 の義ハ不及申、足軽長柄の者等に至る迄何れも強情に相働、本
 丸攻の刻、桜場左衛門次郎と申者頭の侍一人討死仕候由
 被申上候へハ、偖其者共の義ハ如何仕候やと御尋ニ付、大垣落城
 以後ハ私共方へも不申通候故、国許へ罷帰候共又ハ此辺に罷有
 候とも不存旨被申上候へハ、遠国者共の義なれハ諸事不案内
 たるへき間、其者共の在所を尋、早々津軽へ帰候様に申付
p369
 可然と仰有けれハ、六左衛門承られ、津軽者共の持参仕候
 長柄鑓のさやハ金の錫杖にて御座候間、早□相知と申にて
 可有御座と被申上候へハ、居所相知れ候に於てハ津軽より此表
 へハ何方へ掛りて罷出候や、越後辺一揆の様子ハ不承候や、此
 段相尋候様にとの仰ニ付、方々尋候処に草津の宿より一里計
 も隔候在郷の寺を借り津軽者共罷有候由相聞候、勝成方より
 呼に遣候へハ一町田何某と申もの罷出候ニ付、越後表一揆の様
 子を不承候やと有之候へハ、一町田申候ハ、上杉殿よりの催し
 にて一揆起り候処に、越後の堀殿を初め其外溝口殿、村上殿
 などの人数を以て一揆共をハ切たいらげられ事鎮候
 由、道中筋の者共の咄にて承候旨申上候ニ付、勝成にハ其赴を被
 申達、書状を相添津軽へ罷帰候となり

  右の趣キ旧記等の表にハ、大垣寄手衆の内に津軽右京
  と相記し見へ候へ共、自身の出勢にてハ無之候となり、我
  等若き比芸州広島にて兼重勘九郎と申浪人、是ハ
  小幡勘兵衛殿門弟にて候が水野日向守殿に罷有、島原表
  へも供仕たる者にて、我等若き節迄刈谷以来の傍輩
  共存命致し雑談仕候由にて物語仕候趣を相記し候なり
一田中兵部大輔へ石田三成義を何とぞ生捕に致させ候様にと
 永原へ御着陣の節被仰渡候ニ付、家人を方々へ差越し終にハ
 尋出し囚人に致して大津へ被差出候へハ、御感悦不斜則チ
 鳥井久五郎を被召、其方親の仇なれハ預被下候由仰ニ付、其夜ハ
 久五郎宿所に留置、衣類食物等宜く沙汰致し、翌日本多
 上野介を以て、私親彦右衛門義ハ御奉公之為に相果申候、石
p370
 田義ハ今度逆徒の張本にて天下の科人の義に候へハ、大切
 の囚人にも有之候を、私親の仇と有て御意を以て御預ケ
 被遊候段、難有奉存一夜ハ手前に差置候、何とて外人に御預ケ
 被遊被下度旨願被申候へハ、御聴届被遊則上野介へ御預ケ
 替の旨被仰渡候と也
一籐堂佐渡守大津にて御夜話に出られ候へハ、大垣の城に楯
 籠候垣見、熊谷など義を被仰出候御序に其方知音の毛利
 民部ハ如何致し候やと仰ニ付、高虎承られ、関ヶ原表敗軍
 の奴原此節ハ追々西国へ逃下り可申間、九州筋に於ても
 関東方御勝利と有之義相知れ可申候間、日比中悪の石田を
 始め、福原垣見など仕合を民部承候ハ嘸悦可申候、定て近日
 御勝利の御悦に罷上り申にて可有御座と被申上候へハ、此節

 九州表の様子ハ如何有之候や、民部などが様成小身者ハ人
 数を持ざる義なれハ無心元ものなりと仰られしとなり
  右の御意の赴ハ有之候処今時世間流布の旧記等には
  秀家三成などへ一味して、大坂表へ馳上り候西国勢の
  中に毛利民部と書載有之候ハ必定あやまりと被存候
  なり
一大津八町の新番所伊那図書当番の日、京都より福島政則
 不相伺して不叶用事ニ付、佐久間佐左衛門と申侍を
 内府公へ使者に進し申候処、新番所を守り候足軽共、誰人の
 家来に候へハ大切の御番所の前を乗打致さるぞと咎めけるに
 付、佐左衛門聞て、我等ハ福島左衛門大夫使者の者也、此関所ハ
 何方よりの関所なれハ乗打をハ咎め候ぞと申より互に言
p371
 葉論と罷成候処に番人の中より粗忽もの有之棒を持出し
 やつに物な言せぞと申て掛り候ニ付、佐左衛門ハ下馬致して
 罷通り其使者を相勤候と也、其比図書義ハ少々気分悪く
 上番所に臥り居候が、番人共の高声を仕るを聞付、戸を明ケ
 立出番人共を叱り候を、佐左衛門ハ図書自身の下知にて如
 此と心得違ひ、京都へ罷帰り政則家老の福島丹波に
 逢て右委細を申述、其場に於て番人共を打果し可
 申かとも存候へ共、大切の御使に罷越候を以て、曲て堪忍仕
 罷帰候、大津の番所に於て棒すくめに逢候と有てハ男を
 たて可申様も無之間、切腹仕相果可申と也、 丹波聞て其
 赴を申候へハ政則ハ、番人共図書差図を致し候とある佐左衛門
 が申口に依て大きに腹立あり、堪忍不罷成と存るに於てハ

 心に任すべし、解死人の義ハ三日が内に取りて遣へきの間、心
 易存候へとの義にて佐久間ハ切腹をとげ候、跡にて委細の
 趣を書状に認め、井伊直政へ使者を以て被申候ニ付、直政も
 驚き被申各相談の上、政則と日比心易き面々を一両輩京
 都へ差越、図書組下の足軽共の内に於て其節出合候輩一
 両人も死罪にて事済候様にと有之処に、政則得心無之して
 被申候ハ、一向我らに兎角の義を不申堪忍仕候へとの義は
 格別、侍の下手人に足軽風情の者が取れ申すものにて候や
 各にも了簡有之給ハるへし、直政方よりの返書次第にて
 我ら義ハ高野の住居を覚悟を相究め罷有義なりとある
 政則口上の趣を大津へ帰り演説候へハ、直政御前へ罷出御聞
 に達られ候刻、左衛門大夫今度関ヶ原表の戦功に誇り我侭
p372
 を申候かと何れも存る旨被申上候へハ 内府公御気色を変ら
 れ被仰出候ハ、たとへハ戦功ハ有にもせよなきにもせよ、人の主
 たる者の身となり、我が家来の侍を他家の足軽などに棒あ
 しらひにせられて堪忍可致様ハ是なし、其上彼番所の
 義ハ我等父子上洛せざる内諸人猥に京都へ入込さる
 様にと有ため計の番所なるに、我ら今度の一戦に勝利
 を得たると有義を以て図書が組下の足軽風情の奴原
 迄権柄を振まひ、我等の不申付下馬咎めを仕ると有ハ
 沙汰を限りたる義なり、畢竟頭共の申付ゆるがせ故と被
 思召候由の仰にて、下手人の義ハ何の被仰も無御座候へ共
 右の御意の段を図書承り伝へ、自滅致し相果埒明候と
 なり

  此義を世間流布の記録の面にハ、政則被申様不届と有て
  御腹立被遊たると記し、並に図書義も切腹被仰付候旨
  相見へ候へ共、左様にてハ無之由、右の趣ハ八木但馬守殿浅野
  因幡守殿へ物語有之候旨趣を以て書留候なり
一廿四日毛利輝元大坂西の丸を出、木津の下屋敷へ閑居仕るニ付
 池田輝政、福島政則、浅野幸長、黒田長政、有馬豊氏、藤堂
 高虎など立合、大坂の城を受取
一二十五日秀頼、拓榴大炊助に大野修理亮を相添使者として
 今度の逆乱、秀頼幼年たるに依て全く其意趣を不存、皆
 以て石田治部少輔が悪逆より事起り候旨被申述候と也
 此日増田右衛門尉長盛義一命を御助ケ被成の間、郡山の城
 の義ハ池田輝政に相渡、高野へ登山可仕旨被仰遣候と也
p373
一廿八日 勅使大坂の城へ来駕 内府卿当城御帰座あられ候
 を賀し仰られるゝとなり
一十月朔日今度逆徒方の張本石田、小西、安国寺三人の輩、洛中
 の大路を引渡し六条河原に於て首を刎らる、奥平美作守
 信昌が従士是を警固す
一加賀中納言利長、大坂の屋敷に移り居られ候処、榊原式部大輔
 を御使として、今度北国表の軍功を御賞美被成、廿万石
 余の御加増の地を被遣、勝手次第に帰国有へき由被仰渡
 舎弟能登守利政義ハ領知被召放、孫四郎と名を改め京都に
 登り、其後ハ東坂本に居せしめ一生安楽の身となりて終ら
 れ候となり
一丹波国福知山の城に小野木佐渡介楯籠候を細川越中守

 忠興一手の勢を以て攻抜キ申度由願被申候処、願の通り被
 仰付、被馳向候由、子細ハ老父長岡幽斎、丹後田辺籠城の節
 小野木寄手の主将として、既に攻殺すへきと致せし其
 遺恨ある故也、然る処に山岡道阿弥彼地へ行、小野木に
 異見を加へ城を渡させ、其後山岡方より小野木御助命の
 義を願ひ上候へ共、御赦し無之ニ付、東山浄土寺に於て切腹
 仕候となり
一勢州鳥羽の城に楯籠る九鬼大隅守、紀州の堀内安房守関ヶ原
 に於て逆徒悉く敗軍の由を聞て、城を明ケ退散仕ルニ付
 九鬼長門守鳥羽に帰城して後大坂へ参じ、池田輝政へた
 より、父大隅守義御助命被成下度旨願候へ共、御免無之ニ付
 重て福島政則を加へて頻に願申ニ付、御恩免被遊、其上二万石の
p374
 御加増を被下旁以て忝次第と有て重隆悦ひ限りも *守隆(1573-1632)嘉隆嫡子
 無之、其比大隅守義ハ豊田五郎右衛門と申者の方に蟄居
 致し居けるを、豊田相謀りて殺害仕り其首を大坂へ持せ
 て差上ける使の者と、大隅守御赦免被遊候とある御教書持
 参の使者と勢州牛崎の茶屋にて行違候と也、長門守大
 きに力を落し豊田義をハ早速斬罪被申付候由
一京極宰相高次大津の城を和談に致して被明退候処に、関ヶ原
 御合戦御勝利の段相聞へ、今一日籠城相遂候於に於てハ猶更の
 御忠節たるへき処に残念の至り哉、と家中一同に後悔致し
 ながらも既に出城の上の義なれハ是非に不及、紀州高野へ
 登山被致候処に 内府公にハ大津に被成御座候内より井伊直
 政へ被仰付、高次義早々被罷出、関ヶ原表御勝利の御悦をも被

 申上候様にと有之候へ共、籠城相遂ずして城を明ケ退、何の
 面目を以て 内府公へ可掛御目やと有之返答にて下山
 不被致ニ付、直政より追々使札を以て被申越候と也、大坂
 御入城の義、高野へ相聞へ候ニ付、御悦且又井伊直政を以て
 度々被仰遣候御意の御礼旁以、多賀善兵衛とかや申者
 を使者として高野より被差出候処、早速御前へ被召出、久々
 御対面不被遊御なつかしく被思召候間、早々下山御待被遊旨
 御直の御返答被仰出、多賀御前を罷立御次へ退出致候へハ
 井伊、榊原、本多三人衆多賀に対談あり、宰相殿よき場所に
 御籠城あられ、関ヶ原表へ出勢可仕大分の人数を御喰留
 に付、彼表の一戦も致し安き如く有之候ハ、偏に宰相殿の御
 精力故の義に候へハ、早速被掛御目右の御礼をも被申度との
p375
 義に有之候間、近々御下山あられ候様に御申達可然となり
 干時多賀申候ハ、各方にも御勘弁あられ可被下候、大津寄
 手の義ハ目に余る程の大軍と申、近辺御味方と申義無之
 候へは、加勢後詰の頼へき様も無之 内府様濃州表へ御
 出馬ニとハ申候へ共、世俗のたとへに申候雪道を木履にてある
 き候如く埒も明不申、破れあんどんを見申様なる大津の城に
 高次にて有之候へハこそ一日も籠城をハ仕り候へと座興に事
 よせて申候へハ、三人の老中方にも成程其元被申通に候と
 笑ながら挨拶あられ候と也、其後井伊直政を高野へ被遣
 必ず同道致し参候様にと被仰付、高次ハ直政と打連大坂へ
 参上被致候へハ、御懇なる仰にて若狭国を拝領あり直に
 小浜の城へ入部被致候となり

一西の丸に御座被成候内、本多忠勝ハ井伊直政、榊原康政
 両人へ被申談候ハ、信州上田の真田安房并左衛門佐父子の義
 大罪の者にハ有之候へ共、何とぞ御助命被成下度旨御両
 所と申談し取持くれ候様にと、伊豆守願候へ共、拙者義ハ
 伊豆守と間柄の義にも有之候へハ、遠慮に存候間、御両殿
 様へ可然様に御取成被仰上遣され給り候へ、と被申候へハ
 両人聞き其元御申の通り彼等父子の義、大罪の者の事
 に候へ共、親子の義に候へハ豆州の身に致してハ尤の願に候間
 随分と 御両殿様へ申上見可申と有之、其赴を
 内府公へ被申上候へハ 秀忠公合点なれハよきが、大形ハ得心有間
 鋪がなれ共、先申聞見申様にとの仰に付、偖ハ 内府公の
 御前ハ別義なしと有之 秀忠公の御聞に達られ候処、以
p376
 の外御機嫌悪く、伊豆守ハ父子の義なれハ助命の義を
 願候と有も尤の義也、たとへ 内府公御聞届御恩免可被成
 と被仰出候とも、安房守に於てハ忝と申様成者にてハ無之
 只今に至り助命を願ふ心底なれハ式部存の通り、上田
 表へ我らの旗を向ケ候節早速降参不致して不叶、其砌
 我らへ手向ひ候於故に安房守に掛りて関ヶ原表御一戦
 の御見届をも不申上候段、心外の思ふにたとへ内府様
 御免可被成とある仰たり共、我ら御願を申上成敗不して
 差置ものにてハ無之、重て申聞る義無用とある仰ニ付、其趣
 を両人衆忠勝へ申達候と也、其後伊豆守ハ三老中列座の前へ
 出られ、此間ハ老父安房義ニ付、何かと御苦労に被成被下候段
 中務方委細に被申聞、不浅忝存候 秀忠公御意の段御

 尤至極とかく可申上様も無御座候、ケ様可有御座と存候付、式
 部大輔殿にも御存の通り、上田表に於て毎日の様に異
 見申越候へ共同心不仕候へハ不及是非候、もはや御助命の
 御取持持に於てハ御無用になし置れ可被下候、就夫我等御願
 の義有之候、各中御取持を以て親安房守義御仕置に被仰
 付候砌、私へ切腹被 仰付被下候様に願存候、逆意の者の世倅
 の義に候へハ、左様可有之義と諸人も可存候へハ、御仕置の障り
 にも罷成間敷かにて候、親安房守存生の内に我等相果候を
 御見せ被成、其以後御仕置に被仰付被下候様に仕度と被
 申上候へハ、其詞の下にて康政被申候ハ、其元御願の義尤ニ候
 成程承届候、房州御助命の段ハ我等請合申候間、御気遣
 有間敷候、其元には古への義朝にハ勝りたる人にて候との挨
p377
 拶にて其段達御聞候処に、 御父子様御聞届被遊、伊豆守
 願の通、安房守父子御助命被遊、高野へ入山被 仰付候砌
 落髪黒衣の躰に罷成に不及、其侭安房守にて罷有へ
 き旨被仰渡候となり
  右の赴世間流布の書物の表にハ相見へ不申候へ共、土井
  大炊頭殿子息達へ毎度咄し聞ケられ候を側にて承り
  候と有て、大野知石我らへ物語の赴を以て書留候なり
一廿八日尾州大納言義直公御誕生 御幼名五郎太丸、又右兵衛督
一十一月十八日 秀忠公 御参内
一今度凶徒の面々欠国の地を以て関ヶ原表軍忠有し外様
 大名中へ分被遣候、結城三河守殿へ越前国、松平下野守
 忠吉公へ尾張国を被進候外、御譜代衆の内にハ誰にても
 
 所替、御加増物頭の衆ハ無之候となり
慶長六年元旦大坂の城に於て 内府公御不予に依て
 何れも参賀無之、同月十五日御快然ニ付、列候以下悉く
 登 城有之新年の慶賀を被申上、二月三日 秀忠公
 池田輝政の宅へ御茶会に御入被遊、先月十八日 内府
 公より飛騨肩衝の茶入を輝政拝領被致ニ付ての義也、右
 御馳走の次第、以前にかハり御成の規式にさのミ不相替候
 となり、関ヶ原御勝利以後、外様大名衆の宅へ被為入候御手
 初めの由
一此月井伊直政、上州蓑輪より江州佐和山の城へ十八万石に
 て所替、本多忠勝上総の大瀧より本高にて桑名の城へ  *十万石
 所替、其跡大多喜へ城食五万石本多忠朝へ被下、忠朝ハ忠勝二男なり
p378
 其外御譜代衆数輩、尤外様大名衆共に或ハ御加増にての
 所替も有之、又ハ本高にて城地を替被下候も有之候となり
一三月廿七日秀頼権大納言に任ず    *八歳
一同廿八日 秀忠公権大納言に任ぜらる *廿一歳
一同廿九日 秀忠公御参内
一五月十一日羽柴利光元服(干時十三歳)侍従に任じ 内府公より
 松平の称号を被遣、松平筑前守と号す *前田利常 加賀二代藩主 1594生
一六月廿八日利光養父利長の家督を継。利光後改利常、実利家四男
一同月 内府公戸田左門を召せられ大津の城地を膳所へ
 引移候様に被 仰付、采地三万石を被下す、委前段談之
一七月廿四日上杉中納言景勝会津より上京、去年以来結城
 秀康公を頼被申、御赦免の義を被願候付、秀康公種々御

 取持有て其罪を御免被遊候也
一八月廿四日上杉只今迄の領知百万石を被減、米沢三十万石を
 被下の旨被仰出候と也
  右上り地の内居城外城共に近国の大名中に御代官衆
  其外御役人中立合にて請取被申候処に、最上出羽守義
  光へ被請取候筈の須田と申城にハ上杉家の侍、河村
  兵蔵、志田修理と申者両人在城仕候が出羽守へ城を相渡
  間敷旨にて楯籠候ニ付、義光の方より種々被申聞候へ共
  得心不仕候故、義光不興有之出羽守三男清水大蔵太夫
  を武将として□岡甲斐、本居豊前、鮭延越前、里見越
  後、志村伊豆など申頭分の者共を始め惣人数一万余り
  を須田の城へさし向る処に、城主志田河村、須田の城より
p379
  出向ひ、最上川を前に当て相支ゆ折節河水増りて
  最上勢渡し得ざる処に、去年降参致せし下治右衛門
  と云者十町余りも川下より猟船に取乗て川を渡り
  須田勢に突て掛る、城兵共鉄炮を厳しく打掛候付、下が
  家人手負死人多出来候を見て、清水大蔵川を乗渡して
  治右衛門を援け掛る、城兵共こらへず敗走に及ぶを治右衛
  門城際まて追打して余多の首を討取を見て、最上勢
  各川を渡す、戸沢九郎五郎が従士、戸沢相模城下の家
  屋に火を放て責入候を以て城兵防ぐ事不叶、志田河村
  降参致ニ付、大蔵太夫是をゆるし両人を召倶し最上へ
  勢を引入候也
一同廿五日景勝旧領会津六十万石を蒲生藤三郎秀行へ被

 下候となり
一九月晦日 秀忠公の姫君(干時三歳)加州松平利光へ御入輿 *利光七歳
 大久保相模守忠隣、青山常陸介忠成、安藤帯刀、伊丹喜
 之助、鵜殿兵庫、久志本左馬助等御送り被仰付、越前国
 金津の宿に於て相模守御輿を渡す、前田対馬守是を
 請取、青山常陸助御貝桶を渡す、長九郎左衛門是を請
 取となり
一此秋叡山寺領三千石豊国の廟へ社領一万石御寄付被遊
 の旨被仰出の由
一十月十二日 内府公伏見御城より東国へ御下向被遊、翌十
 三日佐和山の城へ被為入候刻、直政物頭役の侍、門番所の
 前へ罷出、御駕先近く成候へハ頭同心共に何れも平伏仕
p380
 候処、番人の足軽共の中より御目通りとおほしき比ほひ
 何やらん物を申たる者有之様に相聞へ候と有り、者頭役の
 侍吟味を仕候へハ、一人罷出御穿鑿迄も無之私にて候と申
 に付、其頭以の外に肝を潰し、夫ハ何と申たるぞと尋候へハ
 私義久々にて御目見申上候ニ付、久々にて御目に掛り候と申
 上候と答候付、言語同断のうつけ奴めかれと頭もあきれ果
 て外番所に相詰罷有候同役等を呼に遣し、如何致して
 可然と打寄相談仕候処に、中の門の番頭急ぎ本丸へ可
 罷出旨申来ニ付、定て件の慮外者めが事成へし、先腰刀
 をもき番人を付置候へと申て頭ハ急ぎ罷出る処に、直政傍へ
 呼、先刻中門御通り被遊候節、其方組の番人共の中より御
 久敷と申上たる者有之由、其方ハ不承候やと被尋候付、仰の通

 私義も承り付候を以て御入被遊候以後吟味を仕候へハ其者相
 知レ申候、大形ハ乱心仕り候者と存候付、先腰刀をもぎ取番人
 等を申付差置候由申候へハ、直政聞玉ひ、いやいや左様の義にてハ
 無之、其足軽にハ知行をあたへ侍に取立遣し候様にとの仰
 に付、新知行百石申付候間、難有奉存候へと申渡、先ツ宿元へ返し候
 様にと直政御申に付、頭も安堵致し其段申渡し候と也、偖
 直政御前へ罷出候へハ、先程の足軽にハ知行を何程取らせ候や
 と御尋ニ付、百石取らせ候由被申上候へハ御くしをかゝせられ
 能々訳に立ぬ奴にてこそ有らんと御意被遊候となり
  右の足軽ハ直政若年にて井伊万千代と申せし比、御意に
  入られたる御児小姓衆御座の間の御庭続きの所に部屋
  有之、折々御庭つたひに彼部屋へ被為入候刻、髪結の草
p381
  履取にて直政へ奉公仕りたる者故、御目通りへも切々罷
  出候ニ付、佐和山の城へ被為入候刻、者頭を初め組の足軽共は
  各々頭を地に付て罷有候中に、件の足軽一人頭高に
  致し罷有候ニ付、御目障りに罷成候、御不審に被思召候処に
  右の如く申上付、以前の義を被思召出候と也、実不実ハ不存
  候へ共、我ら若年の砌去ル老人の物語にて承候赴を書留候也
一去年九月十五日濃州関ヶ原表御一戦の刻、御譜代大名の中に
 軍忠の品相見へ不申衆も数多有之候ハ、一にハ江戸の御城に
 御留守被 仰付候衆中、二ツにハ 秀忠公御供にて中仙
 道を被越候衆中、三にハ上杉景勝押へとして御残あられたる
 結城秀康公へ御組添の衆中、四には濃州表への道筋所々
 の城々へ在番被 仰付候衆中是なり、年数相隔り候程人々

 の心付のため如此、偖又外様大名衆の中にも関ヶ原表へ
 出勢無之御味方の衆も、多くハ奥大名の大身衆にてハ
 伊達陸奥守正宗、最上出羽守義光、越後にて堀久太郎
 此三人ハ上杉景勝御退治と被仰出候節より領知向寄の
 責口を請取、 内府公白川口へ御働の御日限の御左右を
 相待居られ候処、上方の逆徒御退治として野州小山より
 御馬を入られ候刻、右の衆中の義も当分人数を引取、弥
 無油断上杉が所行を被見届尤の旨被仰遣候付、関ヶ原
 御一戦御勝利の旨相聞へ候以後迄も上杉家の押へとして
 南部、戸沢、六郷、本堂などハ最上近辺に陣取、義光へ申
 談し有之候ニ付、無二の御味方と有之訳相立候と也、其中に
 赤高津孫次郎などを始め小山よりの御一左右の刻、上方
p382
 大老衆奉行中一同して 内府公へ御敵対との義に驚き
 義光へ断りの申届も無之、陣を引払帰りたる衆中の義ハ
 心底如在無之候にも、出羽守強き不興故凶徒の訳に罷成候と也
 其比越後の義ハ景勝唯今迄の領知と云、其上上杉家代々
 持来れるよしみたるに依て景勝領知の節、郷村方の役
 義に掛りたる郡奉行、代官手代など申類の者共を撰び
 出し密に越後の国の在中へ入レ置、一揆を催し小倉主膳
 守る所の下倉の城を囲ミ攻るの由、堀丹後守直寄坂戸
 の城に有て是を聞、後詰として下倉へ馳行、城外の山へ
 着陣して城内へ使を遣し、内外手筈を定て一揆の勢
 を切絶すへしと有之処、小倉如何なる所存や其返答にも不
 及して、城門も開き突て出敵陣へ馳入て討死を遂る

 丹波守小倉が□慮を怒て一揆の勢へ向ひ自身鑓を取て
 突掛りけれハ、家中の者共も粉骨を尽し忽一揆を追崩
 し首余多討取、其趣を注進申上けれハ、御感の御書を被
 成下候となり、偖又溝口伯耆守秀勝が居城新発田の義ハ
 会津領と川一筋を隔て程近き義なれハ、景勝方にも
 何とぞ致して攻取度との義にて様々手段をめぐらし
 一揆を催し集め、既に押寄ると相聞へkれハ、秀勝勢を
 率して新発田を出張し、阿加の大河を渡り逆寄に
 致し、一揆の兵と相戦ひ忽勝利を得、一揆の首数級を打
 取、地下の奴原見懲のためと有て、爰かしこに獄門に掛ケさらし
 新発田へ引取候処に、同国三条の城ハ丹後守が兄堀監物が
 居城なりしが、爰にも一揆蜂起して城を取囲むの由、新発
p383
 田へ聞へけれハ、秀勝ハ三条の城の後詰として出勢可被致と
 有て人数を揃へ既に被打立候刻、武功ある家来等申合せ
 異見申候ハ、三条表へ御加勢と有も御尤にハ候へ共、当城の義ハ
 会津領に境たる義にも候へハ、御出勢御無用の由申候へハ、秀勝聞れ、各々申
 分も一理有と云へ共、上杉勢の寄セ来る事もや有へきとて出
 勢を相止メ一揆共に三条の城を責落させ、監物を捨殺し
 若も当城へ敵の寄セ来らざる時ハ我らの弓矢の乙度を取る
 のミならず、 内府卿への申訳も無之仕合なれハ、後詰を不致
 してハ不叶、然れ共各異見の通り我ら留守を見かけ津川の
 城兵共一揆と申合せ当城へ寄せ来るに於てハ城門を堅く

 閉、弓鉄炮を以て厳しく敵を防ぎ可罷有也、其内にハ我ら
 取て返し寄手の奴原を悉く可追払間、其節城門を開き
 突て出手首尾を合する如く心得候へと申置て馬を乗出し
 三条表へ出勢有けれハ、其段三条の城の寄手の方へ相聞へ、俄に
 城を巻ほぐし退散仕るを幸に監物城内より突て出、一揆
 の兵を余多討取候と也、去に依て新発田勢ハ其手首尾に
 逢不申ニ付、秀勝ハ城内へ使者を差越し、是迄出勢致したると
 有しるし迄にて一揆共の在所の村々を焼払ひ新発田へ
 勢を引入、右両度の赴を書認め加治丹右衛門と申侍を使
 者として御注進被申候ニ付、御感の御書を被成下候処、右の
 丹右衛門義道中に於て一揆共に取巻れ主従共に打果され候
p384
  右の赴其時代の義を書記し候旧記の書面にもあらまし
  は相見へ候、爰に書留候ハ徳永下総守殿新発田へ御預ケの
  節、我等養父徳永四郎左衛門其節ハ曽我市太夫と名乗り
  下総守殿の供仕り新発田に罷有候内、溝口殿家来の侍の
  中に関ヶ原御一戦時代の老人共数輩罷有候て、下総守殿方へ
  出入仕り、物語仕候を承候由にて、養父我等へ申聞候赴なり
一今年秋田城介古来よりの領知を被召放候、子細ハ関ヶ原表へ
 出勢可被致旨 内府公より被仰遣候処に、初ハ相心得候旨御請
 被致、其後使者を以て被申候ハ、手前領分の内に浅利与市
 郎と申者一揆を企申候ニ付、浅利義をハ誅殺致し候へ共、其残
 党相残り、領分鎮り兼候ニ付、今度出勢仕り難きとの御断を
 申され候付、勝手次第に被致候へとハ御返答被仰遣候へ共、大身

 の秋田の家に於て一揆つれの押へを申付る人の無之と有
 も事の欠たる義なりとある御咎めの由也、然れ共右大将
 頼朝卿の時代より相続たる旧家たるに依て、本領をハ悉く
 被召上、五万石の地を下され候由
慶長七年正月六日 内府公従一位に御昇進
一同十九日為御上京 内府公江戸御首途被遊
一二月一日井伊直政死去、四十一歳
一四月十一に島津修理大夫義久入道龍伯へ薩摩大隅安堵の
 御印を被遣
一五月八日佐竹義宣領地、水戸八十万石を被召放、秋田廿万石を
 被下、松平周防守、松平五左衛門、由良信濃守、菅沼与五郎
 藤田能登右の面々水戸城在番被仰付
p385
一六月十一日本多上野介、大久保石見守へ被仰付、南都東
 大寺の宝蔵を開き蘭奢待を切らせらる、勅使勧修
 寺右大弁光豊、広橋右中弁総光と云々
一七月水戸表に於て車丹波、其子所左衛門、馬場和泉、其子
 新助、大窪兵蔵など申浪人者共、佐竹家の軽き浪人等を
 相語らひ一揆を企、大窪が家人潜に城へ忍び入候処を松
 平五左衛門番所に於て是を捕へ、糺明を遂る処に悉く白
 状して其事顕れ候を以て、城番の面々相談して弥吟味を
 相遂へきと有之処に、夜中俄に一揆の奴原勢を催し三の
 丸を取囲ミ候を、城番の面々弓鉄炮を以て厳しく防ぎ候故
 一揆の賊徒等利を失ひ、悉く敗散仕るとなり、其翌日張
 本人車丹波を捕へ其外の者共をも召捕て其赴きを江戸

 表へ注進有けれハ、安藤五左衛門、大久保甚右衛門両人検使と
 して罷越、一揆の張本人五人を召連江戸へ罷帰、奉行中立
 合御吟味の上、右の逆徒五人共に身とへ被差越彼地に於て
 御仕置に被仰付事済候となり
一八月廿九日、伝通院殿御逝去、御歳七十五歳 *家康生母於大 1528-1602
一十月十八日金吾中納言秀秋死去(廿二歳)継子無之ニ依て家断
 絶す、         *小早川秀秋 病死
一十一月八日松平三郎四郎(干時十一歳)遠州掛川より江戸へ参上
 本多佐渡守を以て達高聞、 内府公御新城へ被ナ為召、寒
 天の時節参府御感悦の旨被仰、本丸より伺公の者ハ無之哉と
 御尋の節、青山七郎右衛門御本丸より参上仕罷有候由、御側衆
 被申上候へハ御前へ被召出、是ハ隠岐守が三男にて遠州より
p386
 来り 秀忠へ奉仕可致と有旨相願候ニ付、則我等の寄子
 たるの由能々申達候へと被仰付、御同朋吾阿弥を被相添
 七郎右衛門と共に御本丸へ上り候へハ、大久保相模守忠隣
 奏者にて御目見被仰付候となり
一同廿六日 内府公御上京として江戸御首途被遊
一当月武田万千代公へ常州水戸を被遣(元ハ下総国佐倉)*家康四男 武田信吉
一十二月洛陽東山大仏殿焼失
  右大仏殿炎焼の義、秀吉卿建立の節の本尊ハ土仏にて
  在之故、先年大地震の刻致破裂候処、秀吉卿御申候ハ
  地震に出合如此破裂被致如くの不甲斐なき仕合にて
  三界の導師の勤るへき様無之とて、弓に矢をつがい崩
  れたる仏像に向て射放し悉く河原へ取捨よとい被

  申、其後信濃国善光寺の如来を迎へ登せ、大仏殿の本
  尊と被致候処に、間もなく病気付れ候節、北の政所、淀
  殿などより大仏の本尊を早々善光寺へ被送帰候様にと
  有之、其以後ハ本尊なしにて候処に異国迄も聞へ渡りたる
  大仏殿の義に候処に、本尊なしと有も如何の由相談に候へ共
  其時代迄ハ仏師共不才覚にも候や木仏に造り立て
  申との請合を仕る仏師無之、 鋳物師共ハ仏殿をハ其侭
  差置、本尊計を金仏に鋳立可申旨請合候ニ付け、重畳の
  義と有之、大坂よりの奉行中金仏に申付候処に、本尊
  の下地をハ材木を以て組立塀下地の如く仕り、其上を
  土にて塗り立鋳形を調へ本堂の後ロに山を築き其上に
  たゝらを仕掛、仏像の頭上より鋳かけ候如く仕候ニ付、見物
p387
  の貴賎群集を成し候と也、然る処に銅湯を流し掛候へハ
  如何仕候や土形の内へ流れ入、下地の材木より炎致し
  一度に燃上り仏殿悉く焼失仕候となり、其砌大坂より
  蒋田隼人正見分に上り候ニ付、委細承り候由にて牧野是
  休斎物語也
一同廿八日島津忠恒伏見へ参上あり、浮田秀家義薩州へ逃
 下り拙者領分の内何方に成共養ひ置呉候様にと頼候付
 其躰様を承り候に近藤三左衛門、黒田勘十郎と申家来の侍
 供仕り候が、右の両人共無刀の仕合の由、勿論秀家義目も当
 られざる風情に有之候旨、家来共申聞候、彼者義ハ格別の科
 人とハ乍申何とぞ御恩免被下度旨御訴訟被申上候へハ、窮鳥
 懐に入則ハ狩人すら是を不殺とある義も候へハ、貴殿秀家が

 助命を願れ候段尤にハ候へ共、今度天下騒動の根元ハ皆以
 秀家一人が所行也、其党石田小西など義も仕置に申付候
 上ハ棟梁の秀家を助命とある義ハ難被成とある仰の上
 にて一向に忠恒種々御詫被申ニ付、貴殿左様に被申上ハ助命
 致すにても有へし、先薩州より呼登せられ候へとの仰に付
 程有て秀家父子両人の家来共に大坂へ上着仕候故其段
 忠恒より被申上候へハ、両人の家来共を被召出、秀家関ヶ原
 表敗走の様子両人の者共腰刀をなく仕候次第迄をも委細
 御尋の処、中山の郷と申所にて郷人共余多罷出腰刀を
 不相渡候てハ一人も通し申間敷旨申候間、主人の為と存私共
 両人の腰刀の義ハ片目なる郷人に相渡候と申ニ付、御吟味の
 上右の刀脇指も出候と也、偖三左衛門義ハ御家人に被召出、黒田
p388
 勘十郎義ハ島津家へ呼出し、浮田父子ハ一命を御助ケ
 被成八丈か嶋へ流罪被仰付候となり
  秀家の噂ニ付、或時江戸の町人に八丈島より被召帰たる者
  有之由花房志摩守殿被聞及、其者を呼寄八丈が嶋に於て *花房正成(1555-1623)
  浮田八郎殿と申人と出合たる義ハ無之候や、未タ無事に被居
  候とあるハ弥其通なるかと被尋候へハ其者申候ハ、成程御息
  災に御入候、私義ハ被掛御目を切々参上仕、御咄の御相手に
  も罷成候が、御前の義にても御座候や八郎様我らへ被仰候ハ、
  手前義も哀れ此嶋を御免被成、今一度日本の地へ帰り
  花房が方にて米の食の白きを腹一盃喰て死度候へと
  常々被仰候と語り候へハ、志摩守殿老眼に泪を浮め、其者にハ *元浮田秀家家臣
  目録なとをあたへて帰され、其日の夕方土井大炊頭殿へ

  罷越され、右八丈島帰りの者の申たる趣を語り出され願
  くハ白米廿俵つゝ浮田存命の内合力仕度存候間、御免
  被遊被下候様に御取成給り度と被申候へハ、大炊頭殿にも
  尤なる義に候間、同役中へも談し見可申と有之候へハ
  志摩守殿重て被申候ハ、御存の通り極老の私義に候へハ
  明日の義も難計候間、何とぞ早く御相談被成被下度と
  申て被帰候へハ、翌日の晩方御用有之間、罷越候へとある
  大炊頭殿より案内に付、参上被致候処に、其元被願候通り
  今日同役中申談、達上聞候処、願の通被仰出候付、則
  御勘定頭衆へも申達候間、浮田八郎存命の間白米廿俵 *秀家(1572-1655)
  つゝ伊豆御代官衆へ頼被差越候にと御申渡候と也、実
  不実ハ不存候へ共、我ら若き時分承りたる義故書留申候
p389
  大猷院様御代始めの事の由なり       *家光代(1623-1651)
一伏見城中に於て忠死を遂被候四人の衆中の子息方へ
 今年本知一倍宛の御加恩を被成下、其中にて鳥居左京亮
 一人の義ハ一倍五刻の御加増にて奥州岩城十万石被下
 其上岩城へ入部仕候に於てハ亡父彦右衛門追善のため一寺を
 建立仕候へ、仏具料の義ハ公義より御寄付被遊可被下之旨
 被仰渡候ニ付、岩城へ入部候と其まゝ右の寺を建立被致候処
 知行百石の寺領を被下置、 則彦右衛門戒名を以て寺号と
 成し、長源寺と申候由
慶長八年二月十二日 内府公征夷大将軍牛車兵杖を給り
 同く淳和奨学両院別当源氏長者右大臣に任せらる
一同日越前中納言秀康公参議に任じ、従三位被叙

一今年板倉四郎左衛門勝重従五位下被叙伊賀守に被成下
 京都所司代の本職に被仰付候となり
一四月廿二日 秀頼卿内大臣に任じ給ふ
一同年七月廿八日 秀忠公の御姫君干時七歳秀頼卿へ御入輿
 干時十一歳、此時 将軍様にハ伏見に被成御座、 秀忠公にハ江城
 に御座あり、 御台様にも姫君御見送りのためと有て御
 上京被成、御逗留の内御女子御誕生あり(御成長之後京極忠高嫁)姫君
 御船にて大坂の城へ被為入、大久保相模守忠隣御輿に付、干
 時西国大名御馳走のため川辺を警固あり、黒田長政ハ
 弓鉄炮長柄等を出さる、堀尾信濃守ハ人足三百人に各
 鋤を持しめ、御船の通りかたき所をハ土砂を掘除候如く被
 申付候となり、御船着以後大久保忠隣御輿を渡され、浅野
p390
 幸長御輿を被請取
  右御入輿の節、大坂の城大手の門より玄関迄の間御道通り
  に畳を鋪其上に白綾を鋪可申との義にて其支度相調
  有之候処に、片桐市正左様の美麗ハ 将軍の御気指に
  相応すまじの旨達手申けるに依て相止
一八月十日水戸中納言頼房公御誕生(御幼名鶴松丸)
慶長九年二月四日江戸より諸方への道中筋一理塚を築
 しめらる、大久保石見守是を奉行す、同年五月下旬悉く出来
  大久保石見守一里塚の上に何にても木を植候てハ如何と被
  相窺候へハ一段可然との仰ニ付、何木植させ可申と重て被
  相窺候処によひ木を植させ候様にとある仰にて候を石見
  守ハ榎を植よとの仰聞違、精を出して榎木を植さ

  せ候となり
一四月廿日参議秀康公、越前国拝領以後初て江戸へ参向
 秀忠公品川迄御出迎被遊、二の丸の御殿に御座あられ
 候様にと有之、大手先大久保相模守屋敷を明ケ秀康
 公の御供中之止宿に相渡され候となり
一七月十七日江戸の御城内に於て 家光公御誕生
一此日伏見に於て 将軍家、宰相秀康公の亭へ御成定
 て御能御興行の御馳走なども可有御座と諸人存の外
 相撲御見物被遊候付、加州の相撲順礼と越前の相撲追
 手と三番取結び、追手三番勝て則名乗候となり
一今年十二月松平伯耆守忠一家老の横田内膳を成敗す *中村一忠 一氏嫡子 米子十七万国
 其故ハ頃年忠一行跡みだりに成、よろず手荒き事のミ *一忠(1590-1609)十四歳
p391
 を好み、亡父式部少輔代より勤め来りたる古老の者共をハ *中村一氏 三中老、東軍味方
 役義を取放し、近習を遠さけ役にも立ぬ者共計を側近く
 召仕ひ出頭致させ候ニ付、内膳是を歎き或ハ直に諌争し
 又ハ書付を以て異見を加る如く有之ニ付、忠一是を憎み
 出頭人安井清太郎、近藤善右衛門、天野宗葉、道家長右衛門
 など申者共と相談して横田を殺害可致と有之処に
 四人の内近藤善右衛門一人得心不致して種々申留ると
 云へ共忠一承引無之、相残る三人の輩と相議し横田を
 城中へ招き料理を給させ、其上にて酒興を催し其虚を
 見合せ忠一刀を抜て横田を切、横田ハ疵を蒙ながら座を
 立て次の間へ退しを忠一并三人の者共横田を追て次
 の間へ出候処、横田が刀を持せ置たる小童主の刀を引抜キ

 忠一に切付候を宗葉右の手を以て是を請留、疵を蒙る
 干時近藤善右衛門ハ兼て忠一を諌め候へ共得心なくして
 其日横田が挨拶にも三人の者共計罷出候ニ付、若も兼ての催
 しの如く若輩の忠一武功の横田を殺害被致義も可有
 之かと気遣ひ存じ間、所を隔て聞居ける所に案の如く
 物騒しけれハ、されハこそと思ひ長刀を以て横田を切殺す
 件の幼童をハ安井、道家など切り殺し候と也、内膳が嫡子
 横田主馬是を聞て、居城飯山の城に取籠る、忠一家人の
 中にも柳生五郎右衛門など申者を始め数輩主馬に一味して
 飯山へ楯籠る故、以の外なる騒動と成り雲州辺へも相聞へ
 候ニ付、堀尾帯刀、同信濃守父子共に人数を召俱し伯耆へ
 発し、忠一が人数と一同に飯山の城を取囲ミ急に攻掛候
p392
 処に城兵共も鉄炮を放し能防候を以て寄手の中にも
 命を落し疵を蒙りたる輩余多有之、然れ共多勢に
 不勢なれハ不叶して、城将主馬従卒共に自殺致し事
 済候也、 是等の赴キ関東へ相聞候ニ付、 将軍家御機嫌
 不宜、右四人の者共を始め其外数輩被召下、御詮儀の上横田
 内膳義ハ御上にも御存の者なり、近年に至り家老をも相
 勤候者にハ似合さると有之如くの所行なとも有之候や、其段
 明白に言上仕候へとの御尋なり、三人の者共兼てハ横田が
 身の上に於て宜しからざると有之義ともを取繕ひ、若し
 御尋の節ハ可申上と相談し置たる品ハ有之候へ共、近藤
 善右衛門が手前を憚り不実なる義を申出す事不罷成内
 膳身の上に於ての悪事とある義ハ不存候と申上候へハ、重ての

 御詮義にハ、横田義ハ式部少以来家の一老にも有之、其上公
 義御存の者にも有之候を伯耆守若気故成敗可致と申候
 共何れも申談差留可申義なるを其義に不及候や、又ハ差
 留候をも伯耆守承引不仕候やとある御尋ニ候へ共、近藤が座に
 罷有て承る義なれハ差留候とある偽りを申義も不罷成
 三人共に無言にて赤面仕り罷有ニ付、其後ハ御詮義も相止ミ
 程過候て三人の者共義ハ死罪に被仰付、近藤善右衛門計にハ
 何の御構も無御座候となり、 翌年の春伯耆守参勤の節
 品川より内へ入候義遠慮可仕旨被仰出、品川の内に寺を借り
 蟄居被致候ニ付、身上を御果し被遊候か又ハ知行の高減少
 にて所替なとも可被仰付かと江戸中にてハ取沙汰仕る処
 諸人積りの外程有て御免被仰出候となり
p393
一今年松平三郎四郎定綱に下総国山川領内の内五千石
 を被下 *家康異父弟(久松)定勝三男 1592-1652
慶長十年正月九日 将軍家御上洛として江戸の御城
 御首途
一同年二月廿四日 秀忠公江戸御首途、洛に赴せ給ふ
一同年四月十日 将軍家 御参内
一同月十二日秀頼卿右大臣に任ず(元内大臣)   *十二歳
一同月十六日 秀忠公征夷大将軍源氏長者淳和弊学 *家康三男二十六歳
 両院別当 勅許並内大臣被任正二位に御昇進
一同日三河守秀康公権中納言に被任、松平下野守忠吉公 *二男三十一、四男二十五歳
 左中将に任じ従三位に叙せられる、上総介忠輝公左近衛権 *家康六男十三歳
 少将に任せらる

一今年 大御所様榊原式部大輔康政の娘を御養女と被成
 池田輝政の男右衛門督利隆に嫁せらる、輝政の室ハ
 大御所の御姫君也、 利隆ハ別腹にして中川瀬兵衛清秀
 が娘の腹に出生也、 御入輿の日青山播磨守忠成御輿を
 役し、土井大炊頭御貝桶を渡す、安藤対馬守、鵜殿兵庫
 伊丹喜之助など御輿に従ふ、浅野弾正、黒田長政餐膳
 を相伴し、加藤清正、浅野幸長、蜂須賀至鎮、加藤嘉明
 など馳走人たり、前代未聞の婚礼の次第の由取沙汰仕 
 候となり
慶長十一年四月榊原康政病気の由、 将軍家の上聞に
 達し依之酒井雅楽頭、土井大炊頭を館林の城へ被遣病
 中に被付置医師、延寿院玄朝等上意に依て館林に相詰
p394
 療治を加ふ、度々上使を以て病躰御尋被遊之
一同年五月四日榊原康政死去 五十九歳 阿部備中守正次を上使と
 して、遠江守喪を御尋被遊候となり
一同年九月昨日島津忠恒伏見の御城へ被為召 大御所様
 仰として松平の姓御諱を被下、家久と号
一今年浅野弾正長政、常州真壁五万石、江州愛知郡にて
 五千石を被下上意の下に於て御請無之旨、大御所様達
 御聞、弾正へ被仰候ハ、其方真壁の城地辞退の由、其方一代の
 不思案成へし、子細ハ紀伊守こそ国主にて罷有レ右兵、采女 *紀伊守=幸長
 両人の子共を持ながら、謂れざる辞退にて候、 将軍よりく *1576-1613
 れ被申に於てハ如何程ももらひため末子共に譲る分別を   
 被致よと有る御意に付、翌日に至り御請被申と也

  後日に至り嫡子紀伊守死去子なきが故、舎弟右兵衛長晟
  初ハ秀頼の側に仕へ、其後北の政所付にて被居候が、幸 
  長の家督に被仰付、三男采女義隠居跡真壁を拝     *長重 
  領被致候由 
慶長十二年三月五日松平薩摩守忠吉公、江戸旅館に於て
 病気快復ニ付、発駕有之処に病気再発、品川の駅に於て
 卒去(干時廿八歳)、遺躰を増上寺に移し葬送なり
  右の遺体を増上寺に移し候節、尾州犬山の城主
  小笠原和泉守葬礼に掛りたる役人を呼て、殉死の面々
  の入棺四人前支度可致旨申渡ニ付、心得候と申て座を立
  其人数を聞合せ候へハ、石川主馬、稲垣将監、中川清九郎此
  三人の外ハ無之ニ付、右ハ和泉守心得違にやと有て和泉守
p395
  前へ出、御供中の入棺の義、其元にハ四ツ御入用の由御申聞
  候へ共、三人ならでハ無之由に候、外の義とハ違ひ棺の
  余計を支度仕るも如何に候と申候へハ和泉守聞て、我々
  の申付候義を謂れさる念をつかハれ候との返答を人前
  の義候へハ、右の役人も不快に存、殉死三人の衆中の義ハ
  誰々と相知れ申候、今一ツの棺の義ハ誰人の入用ニ候やと
  尋けれハ和泉守聞て、其棺の入用我ら心得あれハこそ
  支度被致よと申渡候、万一其棺へ入る人無之に於てハ
  此和泉守が皺腹を切て棺を塞ぎ可申間、念の入
  らるゝに及ハず、早々支度被致よと有之ニ付、棺の数四ツ
  を調へ、三ツハふさがり候へ共残る一ツハ入用にも無之、方丈
  の片隅に押入有之ニ付、件の役人傍輩中へ向ひ、棺の

  余計御無用と我ら申たるに下手念をつかふうつ気
  者の様に和泉守殿被申候が、今に於て明棺にて有之人前に
  於て我らへ被申聞たる口上もある義なれハ、たとへ御
  家老にてもあれ皺腹を所望不致してハ不罷成由広
  言申候と也、然る処和泉守息男監物義、薩摩守殿の
  機嫌を損じ奥州松島に蟄居致し罷有候が卒去
  あられ候段、父和泉守方より早飛脚を以て知らせけ
  れハ殉死の心掛にて増上寺へ馳来候に付、和泉守其段を
  方丈へ申達し監物ハ落髪にて長上下を着し、太
  刀折紙を持参罷出候へハ、存応和尚牌前へ向ひ小
  笠原監物義御勘気御免被成御供に被召連忝次
  第に奉存候旨御披露被申、其跡に親の和泉守罷出
p396
  候へハ同く存応和尚仏前へ向ひ和泉守義世倅監物
  御勘気御免被成御供に被召連忝奉存旨被申上、其夕方
  監物切腹致し候ニ付、右の棺も塞がり候となり、監物が家
  人佐々喜蔵と申者も監物ために殉死候由
一同年閏四月八日中納言秀康公、越前北の庄の城に於て
 逝去(干時三十四歳)其臣土屋左馬助、永見右衛門等殉死仕候と
 なり
  右秀康公御病中、於佐の局と申 大御所様御存知の
  女中を駿河へ被遣候由御口上にハ、去三月五日尾州
  薩摩守殿にも死去あられ、私義も病気聢と無御座
  候へハ、快気の程難計覚へ申候、在世の内此旨可申上と
  存、局を差上候となり、局駿府へ登り右の通り申上候

  得は、御驚き被遊、我等子共多き中にも秀康ハ惣領
  に生れ、其上度々我等び用にも立たる者成を、越前
  一国計をあたへ置候段、今更心外に思ふなり、今度
  病気快気の祝義として廿五万石の地を加増して
  百万石に成し遣す間、其方義も道を急ぎて罷帰り
  右の赴を申へしと有上意にて、近江下野の内にて
  廿五万石とある御書付を被遊、局へ御渡し被遊ニ付
  局も悦ひ急ぎ罷帰候処、岡崎の宿にて秀康公
  御逝去とある義を聞て駿府へ取て返し、直に御城へ
  上り候処 大御所様にハ囲碁を被遊御座被成所へ局
  参りて、中納言様御事御養生御叶不被成御逝去の由申
  上候へハ、殊の外御愁傷被遊候と也、局ハ右御加増の御書
  付を取出し、大切の御書付故差上候由申候へハ、女性の身
  にて気の付たる義なりとの仰にて御請取被遊候と也、此
  義を越前の家中の者共伝へ承り、謂れざる局の利発
  だて哉と沙汰仕候となり
慶長十三年四月廿四日右兵衛義直公へ尾張国を被遣(其前甲斐国を被領)
一同年十月四日 女御様(東福門院)江戸の御城に於て御誕生
慶長十四年二月廿一日島津家久、琉球国征伐の義を両
 御御所様へ被相窺候処に、可任其意旨被仰出候となり
一同年九月西国諸大名方所持被致たる五百石以上の武士
 船向後御停止の由にて、悉く被召上、駿河江戸表へ可
 乗廻旨被仰出、其奉行として九鬼長門守重隆に向井
 将監、久永源兵衛両人を被差添、三人淡路国へ渡海し
 
 是を改む、右大船の内一艘(紀伊国抱と云)池田輝政に被下、翌年に
 致し右船二艘九鬼重隆に被下候となり
一同年十二月駿河、遠江両国を頼宣公へ被遣候となり
一此年江戸御本丸と西の丸の間に新に舞台を被仰付、御能
 あり両 御所様御桟敷へ被為成御上覧、御譜代外様の諸
 大名中見物被仰付、御料理被下候となり
 


落穂集巻之十二終