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                      落穂集(前編)
                     −徳川家康一代記―


 落穂集は江戸時代中期に大道寺友山が著した
もので、写本により若干異なるが前編は徳川家康
の一代記で15巻からなり、後編は江戸幕府初期
(三代将軍家光の時代迄)の挿話10巻からなる。 
後編十巻は当ホームページで落穂集追加として
翻刻及び現代語訳を既に発表したが、此度
徳川家康没後400年目に因み前篇の翻刻及び
現代語訳を試みた。 前編は徳川家康出生
(天文11年、1543年)から豊臣家の大阪城落城
(慶長20年、1615年)迄年代順に家康の行跡から
成っている。 
 写本は国立公文書館に数種類あるが、今回解読
の底本としては早稲田大学図書館がネット公開する
天保年間の写本を使用させて戴いた。 見開き500
ページ余と量が多いので一巻づつ翻刻、現代語を
発表して年内には完了させたい。(20150328)


   第一巻の内容は家康誕生から26−27歳迄の岡崎城主として三河を統一、 遠江国への進出迄。 
原文にはサブタイトルがなく一つ書きであるが、現代文には適当なサブタイトルを付けた。 
現代文サブタイトルは:
   1−1 家康、岡崎で誕生後、尾張熱田に幽閉 (0−7歳)  1−4 織田信長と和睦        (18−21歳)
   1−2 駿河国今川家に寄寓         (8−17歳)    1−5 一向宗を鎮圧、三河国統一 (21−25歳)
   1−3 今川義元の横死と岡崎で自立   (17−18歳)    1−6 遠江国へ進出         (25−26歳)

   時は足利幕府の中央権力が衰え、各地方の守護大名に代わる戦国大名が輩出し、日本史上では所謂
戦国時代と呼ばれた時期である。 家康が誕生した三河国(愛知県東部)は尾張国(愛知県西部)の織田家と
遠江国(静岡県西部)、駿河国(静岡県中部)、伊豆国(静岡県東部)を支配する今川家の争奪の場であり、
更に今川家の東には相模国(神奈川県大部分)の後北條家、北には甲斐国(山梨県)の武田家が天下を狙い、
夫々生存を掛けた領国拡大を企てていた時代である。 
   その頃の城は天守閣を持つ近世の城とはイメージが全く違い、山城、砦、要塞のようなものだが現在の
一市町村に相当する地域に5−10城位あり夫々に城主がいた。 家康が天下を取ると厳しく一国一城制度を
打出した。 これは若い頃城の取合いに明け暮れた経験から、泰平の時代を作るためには戦のより所となる城を
なくすべきと考えたからに違い無い。

落穂集前編第一巻 翻刻はこちら     同 現代語訳はこちら

落穂集前編第二巻 翻刻はこちら     同 現代語訳はこちら
 第二巻は織田信長の支援の下で遠江、駿河を今川家に代り支配する武田家との戦いが中心となる。
                第二巻現代語訳サブタイトル      
2−1 金ヶ崎の撤退と姉川の戦い  (27歳)  2−5 武田家の遠江諸城攻略  (32−34歳)
2−2 武田家と衝突 三方ケ原敗戦 (29歳)  2−6  嫡子信康の自害      (36歳)
2−3 長篠の戦い            (32歳)  2−7 武田家の駿河諸城攻略  (37−38歳)
2−4 武田方長篠余話
                                                           
落穂集前編第三巻 翻刻はこちら     同現代語訳はこちら
  第三巻は武田家が滅亡するが織田信長の横死で旧武田領の甲信2国をめぐる争いになり家康が勝利する。 
一方織田政権の継承は羽柴秀吉が掌握するが、信長二男信雄の要請で秀吉と対峙し一戦後和睦が成立する。
                第三巻現代語訳サブタイトル
3−1 武田家滅亡と本能寺の変          (39歳)     3−4 長久手戦余話
3−2 甲斐他旧武田領の争奪、北条家と和睦 (40歳)     3−5 秀吉と和睦  (41−42歳)
3−3 秀吉と対立、小牧・長久手の戦い     (41歳)

落穂集前編第四巻 翻刻はこちら     同現代語訳はこちら
   第四巻は秀吉が天下統一を達成するには家康を味方につける事が必要と考え、種々工作し家康も終に
豊臣政権の与党となる。 その後、反秀吉として最後に残った大大名の北条家の追討が始る。
4−1 秀吉妹朝日との婚儀             (42歳)     4−4 北条家追討       (47歳)
4−2 秀吉政権の与党となる                      4−5 関東各地の城攻略
4−3 秀吉の天下統一推進             (44-46歳) 

落穂集前編第五巻 翻刻はこちら      同現代語訳はこちら    
     第五巻では小田原の北条家が滅亡し、大名の大幅な国替があり家康は是迄の三河、遠江、駿河、
甲斐、信濃の五ヶ国から北条家の跡地関東へ国替となり江戸を居城と定める。 豊臣政権は最後に残った
伊達政宗が跋扈する奥州の整理をする。

5−1 小田原落城と徳川家関東入国       (47歳)     5−4 宇都宮陣余話        
5−2 小田原陣と関東入国余話                     5−5 国替と関東経営
5−3 豊臣政権の奥州政策                       5−6 奥州経営と一揆勃発
 

落穂集前編第六巻 翻刻はこちら      同現代語訳はこちら    
     第六巻では奥州の一揆も収束し全国が平定されると秀吉は関白職を甥の秀次に譲り、自らは太閤と
号して朝鮮(明国)への進攻を開始する。 その間秀頼が誕生すると間もなく関白秀次を謀叛の罪で切腹
させるが、秀吉自身も病となり伏見城で死去する。 遺言で朝鮮からの撤退及び秀頼が成長する迄の国政を
家康始めとする五大老、五奉行に委任する。

6−1 豊臣政権の奥州一揆処理    (48歳)    6−5 再び朝鮮進攻(慶長の役)    ( 53−54歳)
6−2 秀吉の朝鮮進攻(文禄の役)  (48−50歳)  6−6 蒲生家の所替とその余話
6−3 名護屋在陣余話                   6−7 太閤秀吉の死去と朝鮮からの撤兵 (55歳)
6−4 関白秀次の謀叛容疑
        (51歳)              

落穂集前編第七巻 翻刻はこちら      同現代語訳はこちら    
     第七巻では秀吉の遺訓で幼君秀頼を擁した五大老、五奉行の体制が始まるが、幼君名代の家康
(内府=内大臣)と外の大老、奉行との確執を抱えながらの不安定な豊臣政権が走り始める。

7−1 家康対四大老五奉行の確執    (56歳)    7−4  石田三成の佐和山蟄居
7−2 前田利家との関係修復                 7−5  伏見向島から伏見城へ引越し
7−3 石田三成と七人の外様大名の喧嘩  

落穂集前編第八巻 翻刻はこちら      同現代語訳はこちら    
     第八巻では豊臣内閣の中で家康が幼君名代として次第に政治力を強めて行き、政治拠点も
大阪城に移す。 大名統制の為の人質政策等将来の幕府政治の萌芽が見られ、反徳川勢力との
関ヶ原の決戦も近づいてくる。
8−1 内府家康の政務始動    (56歳)        8−4 前田家の苦難
8−2 家康暗殺計画の風聞                 8−5 束の間の平和
8−3 伏見城から大阪城へ                 8−6 宇喜田家の内紛

落穂集前編第九巻 翻刻はこちら      同現代語訳はこちら    
     第九巻は慶長五年(1600年)春になっても上洛しない上杉景勝の謀反容疑が固まったと
云う事で家康は政権代表として諸大名を率いて会津討伐に出陣する。 その留守に石田三成を中心
とする反家康勢力が大坂に結集する。 下野国小山の本陣では上方の謀反が明らかになり随行諸大名
と会議を開き、会津討伐を中止して上方に攻上る事が決まり東西対決の様相が明確になる。 
反対勢力は家康の政務所だった大坂城西の丸を接収し、次に家康預りの伏見城の攻略を目ざす。
9−1 上杉景勝の反逆容疑と会津進発(57歳)     9−4 大谷吉継の義理と友情
9−2 上方反徒蜂起と小山会議開催           9−5 上方反徒大坂に集結
9−3 東西決戦に向け武将達の去就           9−6 敵地に孤立した伏見城


落穂集前編第十巻 翻刻はこちら      同現代語訳はこちら    
     第十巻は慶長五年(1600年)七月上方反徒の大軍に攻められた伏見城が陥落し、家康譜代の
留守居四人全員が討死する。 関東方は福島政則、池田輝政を中心に反徒側の岐阜城を八月廿三日
一日で攻落す。 これを契機に家康は江戸を出陣して上方に向かい、九月十四日に大垣赤坂の本陣に
入り、翌日九月十五日に関ヶ原の合戦となる。 一方秀忠は宇都宮から直接信州上田の真田安房守父子
をせめるが時を費やして結局関ヶ原合戦に間に合わない事になった。
10−1 伏見城の戦い        (57歳)         10−4 上田城攻め
10−2 織田秀信の不了簡                  10−5 大垣杭瀬川の戦い
10−3 岐阜城の戦い                     10−6 関ヶ原へ

落穂集前編第十一巻 翻刻はこちら      同現代語訳はこちら    
     第十一巻は本書の最大の山場である慶長五年(1600年)九月十五日の関ヶ原合戦である。
西軍側の毛利家の中立不戦、小早川秀秋の裏切りなどもあり、朝十時から始った合戦は午後二時頃
には東軍の勝利となった。 東西二十万人が参加した関ヶ原合戦は僅か六時間程度で終了する。
勝利した家康は戦後策に手を打ち始める。
11−1 毛利家、小早川家の翻意 (57歳)         11−4 合戦諸将の人間模様
11−2 関ヶ原合戦前夜                    11−5 合戦終わって
11−3 合戦開始朝                        11−6 佐和山城攻め

落穂集前編第十二巻 翻刻はこちら      同現代語訳はこちら    
     第十二巻は戦後の処理及び関ヶ原勝利により豊臣政権の五奉行五大老は消滅し、実質的には
徳川政治となるが、家康は豊臣秀頼の名代と言う曖昧さも残る。 そこで征夷大将軍となり幕府を開き、
それを次代に継いで行くという家康の長期戦略が見える。 
12−1 秀忠の合流と北陸の戦後処理 (57歳)      12−5 浮田秀家の其後
12−2 家康大坂に入城                    12−6 家康征夷大将軍を拝命  (60歳)
12−3 家康の論功褒賞          (58歳)     12−7 徳川家の隆盛と世代交代 (62−66歳)
12−4 東北地方の東西対決

落穂集前編第十三巻 翻刻はこちら      同現代語訳はこちら    
     第十三巻は家康の大御所政治が始るが、秀頼が成長するに随い豊臣家の存在が徳川家にとり
悩ましいものに成ってゆく。 そこで豊臣家で再興した大仏殿の鐘の銘の事から、次第に豊臣方に圧迫を
加えて暴発を誘う様な様子が見える。 秀頼の家老である片桐市正は和平派で苦心するが、結局豊臣内部
で失脚し第一次大坂戦争(大坂冬の陣)に向かう。 
13−1 大御所駿府にて政治を取   (67歳)     13−4 和平派片桐の失脚
13−2 国家安康鐘銘事件       (70歳)     13−5 大坂冬の陣臨戦態勢
13−3 片桐市正の苦心                  13−6 第一次大坂戦争始る

落穂集前編第十四巻 翻刻はこちら      同現代語訳はこちら    
     第十四巻は大御所家康、将軍秀忠共に大坂に陣を移し大坂城攻撃が始る。 堅固な大坂城に
攻込む事は難しいが、周囲からの絶え間ない砲撃と一斉銃撃に悩まされた強硬派の淀も和睦に動く。 
徳川方も和睦を勧め条件等が提示され和睦が成立する。 和睦条件で大坂城の外回り総堀埋立と二の丸
及び三の丸の塀を取り壊す事だったが、幕府側は総堀だけでなく二の丸、三の丸の堀迄埋めてしまう。
そこで豊臣方は再び戦争準備を進め慶長廿年の夏の陣に向かう。 大坂勢は初戦で郡山城占拠するが、
樫井(泉佐野)で紀州勢に敗れる
14−1 大御所、将軍大坂に出陣 (71歳)     14−5 大坂城総堀埋立
14−2 今福、鴫野の戦い                14−6 大坂夏の陣の足音 (72歳)
14−3 大坂城攻撃始る                14−7 樫井の戦い
14−4 和談の動き                   
 

落穂集前編第十五巻 翻刻はこちら      同現代語訳はこちら    
     第十五巻は最終巻である 慶長廿(1615)年五月五日大御所家康、将軍秀忠は夫々京都
二条城、伏見城を出発、幕府軍を率い大和路を経由して大坂城の南から進撃する。 一方大坂方は城外
へ出て対峙し、五月六日には道明寺及び八尾・若江で合戦があり、大坂方の著名な武将達が討死する。
五月七日には天王寺付近と岡山付近で最後の決戦があり真田幸村も討死し大坂方の敗北が決まる。
城内では謀反人による台所の放火で本丸全体に火が広がる中で城に引揚げた武将達が自害、千姫が
秀頼助命の為出城するが色々行違いもあり五月八日の朝には秀頼、淀も自害し豊臣家は完全に亡びる。
元号も七月から元和となり長かった戦国時代も漸く終わり天下泰平の時代となる。
15−1 道明寺の戦い   (72歳)      15−4 天王寺・岡山の決戦
15−2 八尾・若江の戦い           15−5 大坂城炎上と千姫の出城
15−3 最後の決戦前夜と翌朝       15−6 豊臣家の滅亡
              
あとがき
今回の落穂集は江戸中期の大道寺友山著作の中で最も長編、且代表作であり取組みに多少躊躇もあった。
特にこの落穂集前編の活字化の記録は見当たらず勿論現代文訳はない。 今年は退職後古文書の勉強を
始めて十年、徳川家康没後四百年の節目であり、今しかないと思い翻刻と現代文合わせて50万字に挑戦
した次第である。 何とか予定通り完了する事ができたが、この間大道寺友山子孫の方を始め多くの友人達
に励まされた事を改めて感謝したい。 (20151224大船庵)


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