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落穂集巻之十四
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一将軍様にハ十一月十五日伏見御進発被遊、其夜枚方ニ御泊
 被遊候由
一十六日四時 大御所様にハ奈良を御立被遊、本多上野介
 是より御供面々甲冑を帯させ可申やと奉伺処に上意
 被遊候ハ、先年関ヶ原御一戦の砌、江戸御用人足方御用達
 金六具足を着し走り廻り候を村越茂助見咎め、町人の身
 として具足を着用不届の段申ニ付、此末を見よと云つるが
 一両日過候へハ道端の松の枝に具足一領掛り有之付、何者の
 具足ぞと其主を尋させしに、金六が具足の由ニ付、金六を
 呼出し吟味致させ候へハ、是迄ハ着用仕候へ共殊の外走り廻り
 の邪魔に罷成、身骨も痛候付抜捨たる由なり、此辺より
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 大坂迄ハ道法遠きに甲冑を帯候てハ草臥可申間、相待候
 様にと上意被遊候と也、其夜法隆寺御泊り、 将軍様にハ
 平岡に御泊被遊候と也
一十七日 大御所様にハ住吉へ御移り、 将軍様にハ平岡
 より平野へ御陣を御移し被遊候と也、 大御所様法
 隆寺を御立前、諸軍勢是より甲冑を帯し可申旨被
 仰出候、干時金地院、林道春、興庵寺、甲冑を帯し御前へ
 伺公致しけれハ、我等の幕下にも三人の法師武着有之
 との上意にて御笑ひ被遊候と也、此日住吉へ御着陣被
 遊候処、 将軍様被為入御対顔被遊、尾張殿、駿河中将殿
 御出座のよし
一十九日巳の下刻 大御所様茶臼山へ為成、此山は元来荒陵

 の由、天王寺より五町計坤に当る、世俗ハ茶臼山と唱へ候を
 勝山と御改め被遊候由、此時 将軍様にも被為成、尾
 張殿、駿河殿を始め御譜代大名衆各御供の由、爰に於て
 御備定め被 仰出、 大御所様の御左りハ尾張宰相殿
 御右ハ駿河中将殿、横田甚右衛門を被召加と也、御軍奉
 行永井右近、 将軍様御左りハ高木主水組共に御右ハ
 阿部備中組共に御後ハ水野隼人、青山伯耆、本多三弥
 被召加、御軍奉行安藤対馬守と也、右の御書付を御自筆ニ
 被遊、 将軍様へ御渡し被遊候と也、御すハたに鷹の羽
 のちらし付候花色の御羽織を被為召、御帰かけに堀はたへ
 御廻り被成候見て、城中より鉄炮を繁く打出し候へ共
 静に御見分被遊、住吉へ御帰被遊候と也
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一御船奉行向井将監、九鬼大和守、千賀与八郎、小浜民部等
 申合せ新家村の敵と迫合、各勝利を得て野田、福島、新
 家村三ヶ所に陣取、此所ハ大野修理差図を以て大安宅
 船、其外番船数十艘出し置所に、十九日の未明九鬼か
 家人共大安宅へ乗移り候を見て小浜、千賀が手の者
 共人に先を越れたると怒て、船楯の矢間より鉄炮を打
 掛る、九鬼か者共ハ大安宅の上へ乗り上り、船かきを以て敵
 船を引寄セ、鑓長刀を以て突立候ニ付、敵船の者共悉く敗散
 仕候ニ付、九鬼か者手前の船印を敵船へ持立る、其節向井
 将監ハ小船に乗り来て敵船へ乗移り、向井将監一番乗りと
 高声に名乗り候を、九鬼か者共聞咎め、是ハ此方より乗取たる
 船にて候を其元一番と御名乗ハ聞へ不申候、此船に乗せ置申義
 
 不罷成と申を将監聞て、九鬼ハ未タ参られず、我ら早々
 乗移りたれハ一番と名乗るに子細有へきかと也、九鬼が
 者共猶も同心不致雑言に及ひけれハ将監刀の柄に手を掛
 慮外者共と申て既に打果すへきと致す処へ小浜、千賀も
 飛来取扱ふ処へ九鬼も来る、両人九鬼に立向ひ、其元の家来
 として乗取候船へ将監も同じく乗移られ一番と名乗被申
 候ニ付、家来中との出入に成申候、将監早く被乗候をも我ら
 見及びたる義に候へハ、将監被乗候船の義ハ将監へ被相渡
 可然と也、大和守聞て船の一艘や二艘の義ハ其通りの事
 に候との挨拶にて事済候由
一廿四日大野壱岐守に被仰付、最前も被仰越候御和談の義
 とかく書状にて埒明不申候間、有楽修理方より誰成共
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 慥成者を一人つゝ差出候にと本多上野介承りにて与
 助と申者を使にて申遣候ニ付、有楽方よりハ村田喜蔵
 大野方よりハ米村権右衛門両人城中より罷越候ニ付、上
 野介対面して御和談の義具に申渡し、其上今度秀頼
 卿より諸大名へ頼ミ越れ候書状返書の留書共に各中より
 被差上候を取集め両人へ相渡し、如此に候へハ大坂城中へ
 心を寄せ被申衆とてハ一人も無之候、若諸大名の別心なとを
 頼に思召候に於てハ無詮義に候、御和談なとゝ有義も時節
 からのものにて候間、只今の内急度御了簡あられ可然と也
 其後城中より右の両人来りて、是迄御動座被成候印に
 候へハ外曲輪の矢倉を取払ひ可申と也、上野介被申候ハ
 外曲輪の義ハ勿論の事に候、二三の曲輪迄も破却可被

 仰付旨申遣すに付て承引無之御和談の義相延候と
 なり
一廿五日 大御所様茶臼山へ被為成諸大名も群参、御帰の
 節 将軍様より被進たる黒粕毛の御馬に可被召とて
 御牽寄候処、城之方へ向ひ嘲候へハ、敵陣へ向て嘲ふ
 馬は稀成もの也と有上意なり、藤堂和泉守是ハ御
 吉事の旨申上る、依之御機嫌能地道一篇乗り二篇被
 為召、諸大名蹲踞して見奉る、我等若き時ハ馬上にて
 鷹をも合せ鷹の取たる鳥を馬上より押へたる事なと
 も有しか、今ハ馬計さへ乗り兼ると上意也、和泉守
 御強勢なる御事と奉感なり
一大阪方より志貴野、今福両所の堤を堀切柵をつけ昼
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 夜番兵を置て守らせ候段、御聞に達し早く踏破る
 へき旨上意に付、上杉方へハ佐久間河内、小栗又市、佐
 竹方へハ安藤治右衛門、屋代越中を御検使に被遣候
 となり
一廿六日早朝、佐竹義宣先手の隊長渋江内膳、梅津半右衛門
 今福堤の柵を破押入候を番兵矢野和泉、飯田左馬、平
 瀧の文殊院、粉川福常坊、鹿瀬内孫市なと弓鉄炮を
 以て防候へ共不叶、矢野和泉、飯田左馬なと討死致ニ付
 今福口ハ破れ城兵悉く敗走致し、佐竹勢片原町へ
 押入候由にて、城中騒動仕るに付、木村長門ハ銀の瓢箪
 の馬印にて組の面々を率して今福表へ馳向候を秀頼
 卿は菱矢倉の上より是見玉ひ、側に罷有後藤又兵衛に

 向ひ、木村ハ無勢に見へ候間、其方加勢致し候へと宣ふ
 に付、後藤ハ矢倉を下り馬に打乗家人を宿所に返し
 組中何れも今福表へ罷越候様にと相触、我らの具足
 をも持来るへき旨申越候付、組の士も追々馳着、京橋の上
 にて具足を着し今福へ馳行候処に木村ハはや柵一重
 を取返して猶も佐竹勢に向ひ鉄炮を打合せ罷有
 処へ後藤馳来り木村に向ひ、其元人数ハ先刻よりの
 軍に戦ひつかれ可申間、我等入かハり可申候、秀頼公
 御直の仰も其通りに候と申断候へハ長門聞て、其元の義ハ
 多年の老功也、手前義ハ今日初てケ様の手首尾に
 逢申義なれハ、以来の功学にも致度候、只今敵を追崩し
 御目に掛へき間、暫く被相待候様にと申つるか、其如く能汐
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 合を見合せ自身鑓を取て組中を引まとひ無二無三
 に突て掛り佐竹勢を追立候ニ付、其後ハ後藤か手の者も
 打込に相働候となり、 然る処佐竹方渋江内膳、鳥毛の羽
 織を着馬を乗廻し見方を下知仕る躰たらく、只もの
 ならす見ゆるに付、木村後藤か手の者共、我も我もと内膳を
 目掛ケ候と也、然る処木村か組下の士に井上甚兵衛と申もの
 種子島の鉄炮を持居候を長門守招きよせ、あの鳥毛の羽
 織を着たる馬上の敵を打候へと申付るニ付、甚兵衛鉄炮を
 柵の横木に持せねらひ済して打出けれハ渋江か胸板
 を打貫候に依て馬より落て相果候と也、其節後藤又
 兵衛も鉄炮に中りけるか、其疵をさくり見て思ひの外
 浅手也、未タ秀頼公の御運強きと申、是を聞て今度の

 御一戦をハ後藤一人して荷ひたる如くの申分と取沙
 汰仕候となり、佐竹義宣江戸出勢前、秋田勢者不仕に付
 江戸詰合の人数計にて被打立候ニ付、第一不勢にも有之
 其上渋江なと討死致候ニ付、合戦危く相見へ候処に川向ひ
 榊原遠江守先手の者共三百計出張罷有候へ共、我等の *康勝(1590-1615) 康政三男
 下知なきに戦をいとむへからさる旨兼て遠江守申付
 置れけるに付、今福表のせり合を見物致し居けるか
 佐竹方利を失ふを見て、榊原先手の者共こらへかね
 三百計の中より河合三弥、貴志角之丞、渡辺八郎五郎、清水
 久三郎、白井平左衛門、佐野五右衛門、伴五左衛門、村上九郎兵衛
 なと真先に川へ乗入候ニ付、相残る面々我も我もと川を越
 掛り候を見て、木村も後藤も今日の軍ハ是迄なりとて
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 人数を引上候を、佐竹勢押掛り一戦に及ひけれ共朝昼両
 度の軍に戦ひ労れ相引に致し候となり、榊原先手の
 隊長伊藤忠兵衛、我等の下知不仕に何も抜かけを仕
 候段申遣し候ニ付、遠州不興有之、人ハ軽し法ハ重し
 急度可被申付かと有之処に、其日の晩方佐竹義宣
 より使者を以て、今日一戦の砌味方難義に及び候処
 御家来中加勢に依て利運に罷成大慶仕るの由被
 申越候ニ付、抜掛の者共の義其通りに罷成候となり
一同日鴫野口の寄手上杉中納言景勝手の者とも未明に押寄
 柵を破り攻入候ニ付、大坂よりの番兵竹田兵庫、小早川左兵衛
 岡村百之助以下防ぎ戦ひしか共不叶して柵の内へ引取
 既に敗走に可及処に、天満に普請して居合せける七組
 
 の輩青木民部儀初め伊東、速水、中島、野々村、真野、堀田以
 下鴫野口へ馳向ふ、城中へも其旨相聞へけれハ渡辺内蔵助、木
 村主計、竹田永翁、大野修理か手の者共ハ馳付、上杉勢と
 相戦ひ、竹田兵庫、同大助、小早川左兵衛、岡村百之助等
 討死を遂る、上杉方勝利を得城兵戦ひ負る中にも渡
 辺内蔵助手の者共敗軍の躰取り合見苦しかりけると也
 合戦の次第ハ難波戦記等の書面に有之候也、鴫野今福に
 於て朝昼両度の合戦の次第ハ秀頼卿菱矢倉の上より
 見届玉ひ、殊更今福表の義ハ後藤罷出、直に秀頼卿へ申
 達るに付て、夫より木村ハ弥出頭致し渡辺事ハ日比の広
 言の様にも無之と有て秀頼卿も見限り被申、城中諸人の
 取沙汰共に木村が働を感賞致し、渡辺を悪く申触候となり
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一廿七日雨降けるを松平陸奥守方より今日のしめり幸に
 御座候、風並も宜く御座候間、天満、船場辺放火可仕哉と有
 義を伺のため山岡志摩と申者を進上被致処に、山岡御
 陣所へ参上して猪の着物をハ御門前に指置、御陣営へ
 伺公仕るに付御前へ被召出候処本多上野介、使者ハ土足
 にて罷有候由被申上候へハ出御被遊、山岡義久々にて御覧
 被遊候処に、殊の外強勢に相見候と有之上意にて御湯
 漬を被下置候なり、山岡其節八十有余の年齢となり、此日
 御営中に於て小栗又市、佐久間河内、山本新五左衛門
 三人罷有、小栗ハ山本に向ひ今度御使番衆の者共の中に
 臆病者有之、諸大名の陣所へ御使に行ても竹束の外へ
 出る事もならざるを見て、目引鼻引諸家の物笑ひと致

 すと有ハ同役共の身に取て面目もなき事也と云、佐久間
 は聞ぬ振して居たるに、山本ハ日比小栗と入魂成しか
 聞咎め、其元にハあたまに口のあきたる侭に人の事を被
 申そ、誰か命を惜ミ臆病を働く者あらんやと苦々敷
 申けれハ又市笑て、御手前の事を申にてハ無之、臆病者の
 噂を申義也、臆病の覚へ有ものこそ聞咎めへき義なるをと
 高声に成て申、其節御前にハ本多佐渡守、同上野介、西尾
 丹後守三人罷有けるか、上野介罷立て御次へ出何事に候とある
 尋に付、傍の仁如此と申に付て上野介笑ひながら、右の面々
 の前へ来り、何れもの様成古老の面々左様に武道の詮義を
 厳敷被致に付、若年の面々迄も手前をうせき申如く有之ハ
 御上の御為重畳の事に候、ケ様のせんさくハ如何程も被致
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 尤に候と被申候由、其後御前より御酒を被下上意有けるハ
 寒天の時節、老人ハ別して苦労に被思召ニ付、諸番の中より
 年若き面々を一人つゝ御撰ひ被成御使役と有て被召加候
 間、左様相心得可申候、乍去伍の字の着物に於てハ右の面々へハ
 御免不被遊旨被 仰渡候となり
一大御所様鴫野口御順見被遊候節、景勝陣場御通り被成候
 刻、直江山城守差図仕り、城へ向て惣鉄炮をかけ景勝も罷出
 御目見被申上候節上意にハ、其方家中の士下々迄殊の外
 骨を折昼夜辛労仕よし御聞被遊候と也、景勝御請には恙
 皆童部いさかひの様成義に有之候へハ、さして骨折候事も
 無御座候と也、大将順見の節城へ鉄炮を掛候と有ハ故実な
 るに、さすかに上杉家ほと有之候と上意の由なり

一中井大和を被為召、来月四日勝山へ御陣の御移し可被遊
 の旨、船場辺の町屋をこほち取御陣営をしつらひ可申旨
 被仰付
一堺のへの□を始め大坂近在の百姓共を被召出、年内より真
 桑瓜の種を多く支度仕り、来夏に至り諸国の軍勢共
 の給候に事欠さる如く作り出し可申旨被仰付、右瓜種を
 調候、代物迄をも被下置候ニ付、寄手方にも此表御在陣ハ
 永々の義と取沙汰致し、城中へも此段聞へけれハ上下共に
 大きにあくみ退屈仕候となり
一極月二日城方後藤又兵衛打廻りて京橋より初め橋々を
 不残焼落させし処に本町一ツを焼残すニ付、又兵衛如
 何成子細を以て此橋計り焼さると咎めけれハ、大野主
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 馬此辺ハ我等の持の所にて候、其元の指図にハ及び不申
 となり、後藤聞て此橋々を我らの一存計を以て焼せ
 可申様ハ無之候、皆以上よりの仰にて候処に我侭なる義を
 被申候と有之より、言葉論と罷成候処、伴団右衛門かけ着   *塙(ばん)団右衛門
 後藤へ向ひ、橋の義ハ拙者見合せ候て焼せ可申候間、其元にハ
 先御帰り被成御尤と申ニ付、又兵衛罷帰事済候と也、主馬ハ
 其時節より是非一夜討とある心掛ニ付、橋をかハひ候由也
一近日両 御所様共に御陣替可被遊間、朔日二日両日の間に御
 先手の面々城近く陣を移へき旨被仰触候砌、諸軍勢
 行義猥ならさる如く随分物静に仕候へと御使番中乗
 廻りて被申触候ニ付、諸軍共に物静に陣替仕り候処に
 井伊掃部頭一手の義ハ陣替仕るやいなや城中へ向て惣

 鉄炮を放しかけ、鬨を上候に依て城中ハ不及申、寄手の
 諸軍共に色めき騒ぎ候ニ付、将軍様にも御驚き被遊
 直孝事兄の陣代として佐和山の勢を召連、人数珍し
 さにそバへての振廻成へし、 大御所様御機嫌の程如何と
 思召の間、佐渡守義急ぎ罷越、掃部の存たる義にてハ無御
 座、先手の隊長共の不調法故の義に候と申上、家老共の内
 一両人も乙度に被仰付事済候様に可取計旨被仰含ニ付
 佐渡守住吉の御本陣へ参上して御前へ罷出候へ共、如何
 申出し可然哉と案じ煩候処に、其方ハ何の為の使ぞ、定て
 今朝陣替の刻、掃部が手より惣鉄炮をかけ鬨を上ケさせ
 たる義にて有へし、偖々掃部ハ兵部か子程在之、陣替の刻
 城中へ惣鉄炮をかけ一塩付たる事 将軍にも感悦の余り
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 其義を被申越たるかと 上意有けれハ佐渡守寛爾と打
 笑ひ其御事にて候、御親と御子是程御了簡の揃申と
 あるハ奇妙なる御事に御座候、 将軍様にも掃部申付様を
 殊の外御感の余り私を被進候と被申上候となり
一真田か丸よりハ南の方にあたり伯母瀬の笹山と申小山有之
 此所へ城中より折々足軽を出し鉄炮を打せ候ニ付、加賀筑
 前守利常の家老本多安房守相備の面々と相談し、極月
 四日の暁天に及び本多が軍兵を以て伯母瀬山を取巻
 草を分て捜し求めたるに人一人も無之、然る処に並びの陣に
 罷有山崎長門入道閑斎、其様子ハ不知、本多に越れたると
 ある心得を以て俄に勢を発し、伯母瀬山を馳すぎ真田が
 丸へ押寄るを見て、安房守も山崎にをとらじと攻掛り候に、未タ

 夜の内の義なれハ暗さハくらし行先の目当もなく真田か丸
 の堀きわへ押寄ると云へ共、俄の事なれハ楯竹たハなとの様
 意も無之堀きわにひそまり居ける処に、越前、佐和山の両
 手の者共聞付、我も我もと馳来る、出丸の堀はたにハ寄手の
 人数透間も無く並居たる処に東しらみの比をひに至り
 出丸の屋櫓の上より雨の降か如く鉄炮を打掛候を以て、寄
 手の中に手負死人其数を知らず、両御所様御機嫌悪く
 御使番衆を追々被遣、早々引上可申旨被相触候へ共、互に先達
 て引取候義を恥あひ埒明不申ニ付、安藤帯刀直次を被為召、其方
 罷越引取らせ候様にと被仰付候故、直次ハ誰の家中によらず
 一番に寄たる手前引上可申旨下知被致候ニ付、加賀の手より
 引初め、其後各引取候と也、其後加州利常を初め越前忠直
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 井伊直孝なと方へ何者の仕業にて一番にハ攻掛り候そと
 の御吟味なとも有之候へ共、皆々一同に家中若者共の致し
 初めたる義に候との申開きにて事済候と也、其節井伊
 直孝の家老木俣右京一番に押掛り、剰手疵なと蒙り候段
 将軍様の上聞に達し、掃部か家にて口まねをも仕る者にハ
 似合さる義也、向後外様大名への仕置のためにも有之間
 急度申付候様にて掃部頭へ可被仰付かと有思召の由
 大御所様御聞に達し安藤直次を以て、惣して戦場に
 臨ミ身命を惜ますして諸人勝れて先掛を致とあるハ
 成かたき義なれハ、聞捨に致し置れ候へと能々 将軍へ
 申へきとの上意に付、右京義も別条無之ニ付、手疵如何と有て
 木俣小屋へ掃部頭見廻被申ニ付、同家老川手主水是を聞

 伝へ、最前よりの御下知を相守り罷有候我らへハ賞美も
 無之、軍法を背き候右京へ御念比と有之候てハ手前一
 分相立不申、我等の一手を以て真田か丸へ押寄討死不致
 してハ不叶と有て、其支度に及び候段直孝聞及れ、大きに
 驚き主水を呼、我等の誤りなれハ堪忍頼入候、然るに於てハ
 重て何事有之候共、其方を先手と可致旨被申渡候ニ付、事
 鎮り候と也、 翌年若江表に於て主水態との討死ハ右の
 故の由沙汰仕候と也、右出丸責の刻諸手に於て勝れたる働を
 致せし面々多き中にも、松平出羽守直政其比未タ若年の刻
 の振合並に小幡勘兵衛景憲、酒はやしの差物を堀底へ落し
 塀裏より打掛候鉄炮をいとハずして立帰り取て返り被申たる
 様子なとをハ其砌より専ら誉事に致し候となり
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一松平肥前守利常仕寄場見分として井上外記、安藤治右衛門
 両人罷越処に、玉造り口の辺に城兵十人計相見へ候を、外
 記鉄炮を以て敵一人手際よく打倒し候ニ付、間数も遠きに
 と申て諸人誉事に致す、治右衛門外記に向ひ、貴殿鉄炮
 の達人にも不似合候、子細ハ明日より此辺之仕寄付ケにくかる
 へし、只今的一人を打取しに付て敵町間を考へ可申かと也
 其如く翌日此所へ 大御所様為御廻見被為成候節、北見
 長十郎(後名五郎左衛門)御児小姓にて御供仕る所に城内より打出候
 鉄炮の玉振袖に中り長十郎少も不騒、其袖を御覧に
 入、如此鉄炮の玉参候と申上ると云へ共、御聞入不被遊候処へ
 安藤治右衛門参り、井伊掃部頭方仕寄場へハ殊の外鉄
 炮も参り候事けハしく御座候、ちと御見分被遊可然と

 申上るに付、然らハとて御馬を寄られ候処に、此所ハさのミ鉄
 炮も参らず候となり
一大御所様茶臼山へ被為成、夫より城の堀際近く御馬を寄
 られ候を城中の者共見知り奉り,矢さまを開き或ハ屏の
 上へ乗上りて鉄炮を厳しく打出し候ニ付、何も御馬の口に
 すかり勿体なしと申上ると云へ共御聞入不被遊、御供中手に
 汗を握る処へ、横田甚右衛門進ミ出、天性此殿ハケ様成矢鉄
 炮のきびしく来る処が御数奇なり、各々そこ退れ候へと
 て御馬の口に取付、船場表へハ城中より大鉄炮を打出し
 申に付味方殊の外迷惑仕る由に候間、ちと是を御覧被遊
 候様にと申て御馬の鼻を西側に引向ケ候へハ然らハ其辺
 を御覧可被成と有て、船場へ御越被遊蜂須賀阿波守
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 陣屋へ被為入候となり
一大御所様御前に於て本多佐渡守申上候ハ、御前様には切々
 城廻り御巡見として御出被遊候、 将軍様にも御巡見として
 御出被遊可然候半やと伺ひ被申候へハ、御笑ひ被遊なから被
 仰出候ハ、我等事ハ年若き時分より敵と相対し、陣中に
 計り居たる事ハ覚無之、乍去大将の心次第の義也とある
 上意に付、佐渡守驚かれ岡山へ罷帰其段被申上候ニ付、其後ハ
 将軍様にも度々御巡見として御出馬被遊候となり
一大御所様御下知被遊、備前島菅沼織部寄口より大筒百
 挺を揃候て城中へ打入る、其外玉造口寄場より千畳敷
 を目当にして大筒を放し入候処に、或朝淀殿の屋形の内
 三の間と申所へ女中多く集り朝茶を呑居候処へ大筒の

 玉一ツ来り茶たんすを打砕き候ニ付、惣女中肝を潰し其音
 淀殿の居間へもひゝき候ニ付、夫より淀殿の口も和らぎ何とそ
 御和談を相伺ひ候様にと有之、秀頼卿のためとさへ有之に
 於てハ江戸表へも下向あらるへきとの義に付、有楽、修理其段
 申遣し候へハ、秀頼合点無之候故、此上ハ近習の出頭の者共に
 諌言致させ可然との相談に候処に、渡辺内蔵助ハ鴫野表
 の一戦以後、秀頼の前を損し、薄田隼人義も馬喰か渕
 の出曲輪を取られ候段、日頃の力量自慢の様に無之と
 城中諸人の取沙汰を恥、其身も万ツひかへ心になりて罷有
 義也、木村長門守事ハ後藤か証人にて今福表の働の次
 第を秀頼聞届被申ニ付、日比の倍して出頭の義なれハ
 木村に申させ候ハ可然と有て、有楽、修理ハ長門を閑
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 所へ招き御和談の上、淀殿を江戸表へ御差下し可然旨被申
 上候へと也、木村聞て両人へ向ひ、只今各の御申聞の赴ハ
 事の最初に片桐被申たる赴に少もたかひハ無之候、只今に
 至り左様の義を申上候義ハ此長門守に於てハ不罷成候
 各方幾重にも御申上可然候、偖も如此の次第にも罷成もの
 にて候や、畢竟秀頼様御運の末となけき入存る外ハ無之と
 申ニ付、両人もあきれ果候と也、其後後藤より達て御申に付
 秀頼得心にて弥御和談の義相談有之候となり
 右之赴難波戦記等にハ相見不申候へ共牧尾是休斎物語
 にて承り候赴を書留候なり
一城方大野主馬義ハ道頓堀筋を持堅め候処、関東勢船場を
 乗越、土佐堀阿波座近辺迄取敷候付、とかく下町筋を打

 捨、上町計を持堅め可然との評義にて、秀頼卿より其赴を
 命せられ候に依て、下町を持抱へ候面々各承知仕候中に
 主馬一人承引不仕、此主馬一人をハ御捨殺しあられ給り
 度と申て引払ひ不申に付、或日主馬義不叶用事有之由
 にて城内へ呼寄セ、其留守の間を見合セ城中より忍の者
 共今福より罷出長堀を限り火を放し焼立候処に折節乾
 風烈く道頓堀筋風下故火急に焼付、主馬か陣所へも火掛り
 候故、武具、馬具等をも取あへず上町へ取込申候、塙団右衛門か
 一手計ハ武道具の分をハ悉く取持せ本町橋へ掛り城内へ
 引入候処に、此口の担当織田左門家老、今中右馬之助罷出 
 出入を改め候ニ付、団右衛門立向ひ、今宵の仕合無了簡御裁判
 近比念念の至りと申理る所へ織田左門塙を見付、其方か
p449
 所為にて主馬に強異見を加へ候由、言語道断の不調法に候
 と被申候へハ団右衛門腹立致し、只今迄如何程の軍陣に出
 合候へ共、陣払ひをも不致内に自焼を仕る様成うつけたる
 事をハ終に見たる事も無之候、さぞ関東方の笑草と
 存事に候、去ながら此団右衛門か手下の者に於て矢の一筋
 も取落したる者ハ無之候、其段ハ後日に相知れ可申と返
 答致し候と也、然る処に蜂須賀阿波守本町筋御堂辺に
 陣取候小屋小屋の前にハ主馬か手の者共の捨退たる旗差物
 なとを立なれへ物笑ひに仕るの由、城中にも其沙汰有之
 候を主馬聞て、心外に存るより事起り、団右衛門御宿越前
 なとゝ閑談を相遂、蜂須賀か手へ一夜討可仕との企に及び
 候由也、然れ共彼是と差つかへ候義有之延引の処に極月

 上旬の比より御和談の取沙汰頻りに有之ニ付、只明日にも
 御和談の旨事極り候てハ残念の義と有て、極月十六日の
 夜と相談を相極め其赴を主馬方より密に相窺候へは
 秀頼卿にも一段可然との義にて夜討の節門改めのため
 と有て、林伊兵衛と申目付役の侍を一人主馬方へ被相添
 候と也、 秀頼卿の命として夜討の隊長ハ主馬組にて塙
 団右衛門、夜討に出候人数の義ハ混甲八十人、但年齢十
 六歳より五十歳迄の者共計を撰ひ可申旨なり、干時其
 面々申合せ若手負候時のために候間、家来一人宛召連申度
 との義に付、願の通と有之、然る処に米田監物、上条又八
 両人、団右衛門方へ来り、夜討の人数に加り度旨願ひ候ニ付
 又八義ハ独身の義に候へハ願にまかすへし、夫共に外人への
p450
 理りの為に候間、其節に望ての義と団右衛門申に付、日の内
 より団右衛門小屋に忍び居候て、惣人数と一所に罷出候となり
 米田義ハ人数持の義なれハ罷成間敷に相究候処に御宿
 越前申候ハ、本町北の角池田宮内少仕寄場、蜂須賀陣所
 程近く候へハ夜討をかけ候刻、池田手より横入を仕る義も
 有へき間、米田監物一手の義ハ其押へとして出張あられ候
 様に有之度旨申出候付、尤とある評定にて米田か一手ハ
 夜討の人数出払たる跡に付て罷出候筈に事済候となり
 其時節に至り門の扉に差添、団右衛門と越前鎗の石突を
 入ちかへ一人つゝ出し候如く仕る、蜂須賀陣場近く押寄候
 処、篝を焼居候者共何れも眠り居候ニ付、陣中油断の所へ
 押掛候故、以の外騒動仕候へ共、稲田修理、同九郎兵衛父子を
 
 始め、手の者共迄早く取合せ罷出る、中村右近義ハ白き小袖
 を上着にして鎗を引さけ只一人駈出候を主馬組の士木村
 喜左衛門右近を鎗付候処、稲田修理欠付、喜左衛門を突
 倒すを見て同組牧野源太、畑角太夫、田屋馬之助など
 かけ付候ニ付、修理ハ引退候と也、団右衛門か組下生駒又右衛門
 最初に首を取、主馬方へ持せ遣し、猶又繰入致し中村
 右近倒れ居処へ行掛り首を取に掛り候処に九郎兵衛
 十五歳にて其辺に控居候か是を見付、又右衛門を突伏則首
 を取、右近が死骸を下知して引取せ候由、其夜団右衛門手へ
 討取首数廿三級と也、今宵夜討の大将塙団右衛門と
 書付たる札を数多戦場に蒔置候に依て、翌朝より
 団右衛門働の段物沙汰広く罷成候となり
p451
 稲田修理老父宗心義嫡孫九郎兵衛初陣の義を心元
 なく存、隠居の身に候へ共主人阿波守へ断を申、大坂表へ
 罷越、陣中九郎兵衛と一所に寝伏をも仕居申候処に
 十六日の夜俄に起上り九郎兵衛を呼起し修理方へも
 使をたて、今宵城中より夜討をかけ申にて有へし
 外陣へハ沙汰を致さす手前の人数計支度を調へ候様
 にと申遣し、自身九郎兵衛に具足を着せなと仕るに付
 修理を始め、家来共にいたる迄昼も同前の月夜に夜討を
 掛へきと宗心申段心得かたし、少ハ老狂にても可有之哉と存る
 所に程無く城兵共寄セ来候付、修理九郎兵衛父子の義ハ不
 及申、家来共迄悉く手に合候と也、宗心義古老の者故
 常を知時ハ変を知と云兵法をよく合点仕候となり

一其比 大御所様より被仰付、向後ハ寄口々より大筒小
 筒に限らず、惣鉄炮を厳く打掛、時刻を定なく鬨の声
 をあげ候様にとの御触に付、惣寄手より其通りに致し
 候付、城中の諸人別して困窮仕候となり
一十八日本多佐渡守に被仰付、阿茶局同道にて京極若
 狭守陣所へ罷越、若狭守老母常高院を城中より呼出し *浅井三姉妹淀妹 京極高次正妻
 御扱ひの内証申合、両人ハ茶臼山へ帰り常高院ハ城内へ
 帰り被申候と也
一十九日若狭守陣所にて常高院と上野介、阿茶局対談
 有之、関東方の御人数を以て惣構を御取払ひ可被成候
 城内の人数にて二三の丸の屏柵を取払ハせ、此表迄両
 御所様御出馬の印を御立あり、其上にて御誓詞相調候
p452
 様にとの趣に大方事済候となり
一廿日の朝本多上野介より有楽・修理方へ申越候ア
 上々様方一旦ハ弓矢に被及候へ共御親子の御契約あり、其上
 御重縁の御ちなみ不浅候へハ、御内証ハ御和談大形相済候
 処に表方より只今迄何の御沙汰無之候ハ偏に御両所の
 御分別を以て御和談の義を相障候かた有之、両
 御所共に御不審に候、早々御申分あられ可然候、表向より
 御沙汰延引の内に御内証より御和談事済候に於てハ御両
 所の御身上相立申間敷候、依て内意を申入候と也、両人共に
 大きに驚き村田喜蔵、米田権右衛門を以て申分仕候ハ
 上々様方御内意さへ相済候に於てハ下々にて兎角の義有へ
 き様ハ無御座候、我々共如在無之段ハ追付彼是可申上と申越

 御扱の義済寄御満悦の由にて淀殿より常高院、二位局
 大蔵局三人を使として、時服三重、緞子三十巻、御音信弥
 事調候様にとの義にて、其日有楽・修理両人方より御和談の
 義、我等共少も如在に不存候と有之申分のため、織田武蔵
 守、大野信濃守両人を上野介方迄証人に差上候ニ付、則本多
 上野介へ御預也、 秀頼卿の判元見届として板倉内膳正を
 被進
一廿一日弥御和談相済、御誓詞の御取替し、大御所様の御筆
 元拝見として木村長門守に郡主馬相加り、罷越御誓
 詞の面に御判を被成下候処に、長門守拝見仕、秀頼の義ハ
 何の存寄とても御座有間敷候、母公の義ハ女性の事に候へハ
 今少御血判をあさやかに被遊被下置度旨申上候へハ、我等ハ
p453
 年寄り指に血性も無之ぞと有上意にて女中衆の方へ
 御手を被差出候へハ針を以て御指を突被申躰に相見へ
 候か御判形の上にたつふりと御血をそゝかれ候を上野介
 取伝へ候へハ、長門守謹て頂戴仕、上野介方へ向ひ、ケ様に
 御和談相調ひ候段、私弐に至り候て重畳目出度恐悦に奉
 存方申上候て御前を罷立候と也、其節御前伺公の面々の
 中にハ若輩の長門にハ過分の振廻近比慮外者の様に被
 存たる方も有之ところに、其後上野介御前江罷出候へハ、其方ハ
 長門か年をハ不存かと御尋に付、廿三四歳計にも罷成候
 様に承及候と被申上候へハ、美男故か夫よりハ若く見ゆる、あ
 の者か年行候ハ如何様成ものに成へきぞと有上意に付、夫
 より長門守義何れも深ミ入被申候と也、上野介家中にて

 後々迄取沙汰仕候由、五十幡谷泉物語なり
一廿二日安藤帯刀、成瀬隼人、永井右近を被為召、諸口の寄手仕
 寄をひらき、本陣に可引取致仰付、松平下総守、本多
 美濃守に佐久間河内、瀧川豊前、山城宮内、山本新五左衛門
 なとを被差添、大坂四門の警固、雑人乱入の義堅く可制禁
 旨被仰渡、同廿三日より惣軍の人数を以て惣構への堀を
 埋立候となり
一廿四日織田有楽、大野修理茶臼山へ御目見に参上、呉服三重
 宛差上候、本多佐渡守、藤堂和泉守挨拶に出る、有楽・修理
 御目見被仰付、修理へハ別して御懇意の仰を被成下候由
 織田有楽御目見被致候以後、御次の間に於て御近習衆に
 向ひ御和談の義相調豊かなる御代となり、老後を安楽に
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 暮し可申段、我等一人の様に悦申義也と有之、茶をた
 て候真似を被致候由、此日此表参陣の諸大名不残茶臼山
 御陣営へ参上、御和平珍重の御悦被申上候と也、大
 御所様にハ蜂須賀至鎮を被為召軍功を御賞美被遊
 同家来各御目見被仰付、稲田宗心、林道感両人ハ黄金
 百両つゝ被下、稲田修理、同九郎兵衛父子にハ御感状に御
 腰物を御添被遊、是を被下、其外山田織部、樋口内膳助
 森甚五兵衛、岩田七左衛門、森甚太夫なとへハ御感状に時服を
 御添拝領被仰付候と也、其節御側衆へ御向ひ被遊、人の子
 共に名を付候にハ心得の有へき事也、あの九郎兵衛ハ当年
 十五歳の由なるに謂れざる九郎兵衛なと云をととなしき名を
 付候とあるハ散々の義也、何丸とか何若とか名付置候ハ今度の

 働きも別して奇特成事に人々可存にと上意被遊となり
 右之節松平宮内少家人横川治太夫、箕浦左近両人へも
 御感所被成下候由
一大御所様御帰路前、本多正純を被為召、当城惣構への義ハ
 云に及す、二三の丸の堀共に埋させ可申候、其埋様ハ三歳子
 の自由に上り下り仕る如くと心得候様にと被仰付候と也、依之
 大御所様御上京以後、上野介方より城中へ申遣候ハ二三
 の曲輪の義ハ御城方より有て兼ての御約諾に候へ共
 遠国の人数普請相済候迄の在陣難義仕候間、助ケて早く
 仕廻申度旨願ひに付、其意に任せ候旨相理り、堀を埋掛り候
 付、有楽、修理方よりも奉行人を出し御和談の節被仰
 合候ハ二三の丸の屏柵を取払ひ申迄の義に候処、堀をも埋
p455
 られ候とあるハ卒爾の至りに候間、無用に被致候へと申断
 候処に、諸手より出たる奉行役の侍共、口々に申候ハ、左様の
 被仰合と有義ハ手前共ハ不承候、堀を埋させ可申旨主人
 主人の申付を以ての義に候と返答して、猶更精を出し埋立候
 に付、有楽、修理腹立致し、上野方へ其赴を申達候処に上野
 助昨夜より風気以の外に付、平臥無性の躰に候由取次
 役の者申ニ付、埒明不申、其内に堀をハ埋立候となり
一廿五日 大御所様大坂表御立被遊御帰路被遊候となり
一廿八日 大御所様大坂表御在陣中度々勅使被成下候
 御礼として御参内被遊候となり
一慶長廿年正月三日 大御所様京都を御立被遊駿府へ
 御帰城被成候となり

一十日 将軍様御使者として安藤治右衛門、佐久間河内駿
 府へ参上、大坂表城壁をこほち堀を埋候由申上るとなり
一将軍様にハ猶も岡山に御在陣被遊、大坂城廻り破却
 の義を被仰付、正月十一日蜂須賀阿波守を被為召、軍功
 の御賞美の上松平の御称号を被下、御感書御腰物等
 拝領被仰付、先達て 大御所様より被下置候通家来の
 面々へも御感状拝領物被仰付、并佐竹義宣家中梅津
 半右衛門、大塚九郎兵衛、黒沢甚兵衛、戸村十太夫なと御感書に
 呉服御羽織を被相添、是を被下、上杉景勝家来杉原常陸
 須田大炊、鉄孫左衛門等にも御感状、黄金、呉服等拝領被
 仰付候となり
一十九日 将軍様大坂より伏見の御城へ還御、廿七日御参内
p456
 被遊、翌廿八日京都を御出馬被遊江戸表へ御下向被為
 成候由
一二月廿三日松平左衛門督忠継、俄に病を請備前の国に 
 於て卒去、年十七才
一此月 大御所様駿府に於て井伊掃部頭を被為召、其方
 兄右衛門大夫義常に病気故、御奉公も不相勤、去年大坂表
 にも其方を陣代として差出し候段、外の義とハ違ひ外様
 大名共の存る所有之様に被思召候へ共、病気たるの上ハ無是非
 次第に被思召候、親兵部跡式の義ハ其方へ被下置候、其方只
 今迄の領知上州安中三万石の所右衛門大夫へ被下置旨被
 仰渡候処に、掃部頭、安藤対馬守を以て被申上候ハ、重々難有
 上意にハ在之候へ共、兄弟の倫を乱し弟の身として其家

 を継候ハ不義の至に候間、御請難仕との義ニ付、対馬守、其趣を
 被申上候へ共、御許容不被遊候付、曲て御請可然旨被申候へ共
 掃部頭此段に於てハ幾重にも御辞退可申上と也、干時対
 馬守直孝へ向ひ申迄ハ無之候へ共、大切の義にも有之候へハ
 篤と了簡尤に候、子細ハ其元達て辞退あられ候へハとて
 御軍役等の勤をも不被致候仁を其通りに佐和山の城地に
 可被差置様とてハ無之候、然レハ兵部殿跡式相続の義
 御上よりハ御立候へ共、其元の御辞退に依て潰れたると申
 物にて候、大勢の家中の者共嘸迷惑可致と不便に存るとの
 対馬守被申様に付、直孝以の外違却被致、左様の赴に有之
 候ハヽ無異義御請可申上との義に事済候となり
一三月五日京都板倉伊賀守方より御注進申上候ハ、大坂再び
p457
 御反逆の企有之、大坂表に於て米大豆を買調へ城中へ取入
 旧冬埋候堀々の土を堀上ケ浅き所ハ腰たけ、深き所ハ肩を
 越申候、諸浪人の義も夥敷寄り集り、京都を焼払ふへきとの
 風説頻りの由、言上仕る所に大坂城中にハ是を不知、青木
 民部少輔、大蔵卿、二位尼三人を駿府へ差越、去年旱魃
 并兵乱に付、摂津河内耕作損亡多く蔵入米曽て無之
 城中難義に及び候間、御助成あられ被下度との義也
 大御所様にハ先達て伊賀守方よりの御注進に依て
 万端聞召及れ候へ共、御存知無御座分にて青木へ被仰渡
 候ハ、我等ハ隠居の身なれハ江戸表へ罷下り 将軍へ其段
 申入候に於てハ、定て心得も可有之との仰につけ民部少義ハ
 江戸へ罷下り、両女ハ駿府に留り候となり

一四月朔日松平下総守、本多美濃守東寺七条の間に陣取
 王城を警固仕候となり
一大阪城中に於て織田左門頼長、城中惣軍の指揮御申
 付可給旨被申候へ共、衆議区々にて埒明不申に付、我等義ハ
 信長甥の義なれハ城中の指揮仕間敷者に非ず、然る処に
 許容無之に於てハ不及是非、籠城詮なき由にて京都へ
 立返り被申、有楽事ハ正月中に先達て京都へ退去候となり
一大阪表御発向として 大御所様にハ四月四日駿府を御動
 座被遊、同十八日京都着二条の御城へ被為入、 将軍様にハ
 四月十日江城を御出馬被遊、御道中御急ぎ被遊候へ共、御
 大軍の義なれハ押前はか不参候、其節巷説仕候ハ 大
 御所様大坂表へ御着陣被遊次第、畿内中国計の人数
p458
 を以大坂へ御取詰可被遊との思召に候と也、此趣 将軍
 様御聞に達し殊の外に御驚き被遊、御着陣被遊候迄
 御動座の義御延引被遊候様に可申上の旨、藤堂和泉守
 本多上野介両人方へ御内々にて追々被仰遣候由なり
一同廿一日 将軍様伏見へ御着陣被遊、直に二条へ御越
 被成御対顔被遊候処に 大御所様上意にハ来る廿八日
 大坂表へ御出馬可被遊との仰に付、とも角も思召次第にと
 被仰上、其後和泉守を以て加賀、越前、出羽、奥州の軍勢共
 参陣の間ハ五七日も御出馬御延引被遊可然旨被仰上候処に
 大御所様被仰渡候ハ御察被遊に、今度の義ハ城辺不要
 害の義なれハ、籠城の防ぎを相止め城兵共城外へ出張不叶 
 迄も一戦に可及との評義鏡に掛たる如くなれハ、遠国の 
 
 勢を待合する迄も無之、たとひ敵勢ハいか程有にもせよ
 野合の合戦に於てハ片端より追崩して埒を明へき間
 兎角廿八日御出馬可被成との仰に付、将軍様にハ伏見へ
 御帰り被成、翌朝早天に二条へ御出仕被遊、昨日も被仰上
 如く、廿八日御出馬の義をハ御延引被遊度旨御直に被仰
 上候処、 大御所様御意にハ最前も和泉守に云聞する如く
 野合の合戦ハ勢の多少に依らず、今度ハ我等老年に
 及び打留の合戦なれハ手前先手を可致旨左様に被心
 得候様にと上意に付、 将軍様被仰上候ハ御尤の思召にハ
 御座候へ共、ケ様の義ハ諸家の記録等にも書記し末代迄も
 相残り申義の処、御前様にハ御先を被遊、其御跡より私
 参り候と有之候てハ天下の人口に掛り可申段、迷惑仕候間
p459
 此段に於てハ幾度も御断可申上旨被仰上候へ共御聞入
 不被遊して、本多佐渡守へ御向ひ被遊、 将軍にハあの
 通りに被申候へ共、今度の一戦の義ハ偏に我等の身に掛り
 たる義と思ふか故に、先へとハ云ぞと有上意に付、佐渡守
 御前へ進ミ出、左様に御親子様水掛論の如く御意被遊候
 てハ埒明不申義に御座候間、御先役の義をハ古法次
 第に被遊御尤と被申候へハ 大御所様佐渡守か古法と
 申ハ如何心得たるぞと御意に付佐渡守、私躰の承り伝へ
 候ハ、古来より先手の義ハ少成共敵地へ近き方より相
 勤め申候由、然ハ 将軍様にハ伏見の御城に御座被成候義
 にて有之候へハ、御先を可被遊とあるハ御尤の御事候
 大御所様の御無理にて候と被申上候へハ 大御所様にハ

 佐渡守ハ思ひの外なる古法知り也とある上意にて御笑
 ひ被遊、其義なれハ 将軍にハ先へ被相勤尤に候と有
 仰にて事済候、以後佐渡守弥廿八日に御出馬可被遊
 候やと被伺候処、遠国の軍勢不参候ハ五月朔日迄御延
 可被遊候、今度ハ手間入間敷間、惣小荷駄なとをも無
 用に致し、軍勢共腰兵糧計にて罷出候様にと可申触
 旨被仰出候と也、其後本多上野介罷出、御陣支度の義
 被相伺候処に、万事五日分と被仰候か、其後御膳米五升
 の積りを以て万ツ支度可仕旨台所方の役人共へも
 申渡候様にと上意被遊候と也
  右の赴旧記にも相記し有之候へ共有増相見へ候、爰に
  書留候ハ喜多見宗幽浅野因幡守殿への物語の赴
p460
  なり
一廿三日京極若狭守母義常高院を以て城内へ御和談を
 被仰遣候処に秀頼卿母公共に聞入無之候となり
一大阪城中に於て秀頼にハ古新の諸侍を召集め軍の
 評議を被致候処、何も天王寺表に堀切を致し柵を付
 逆茂木を引て一戦に被及可然かの旨也、干時後藤又
 兵衛申けるハ、平場の合戦に於て 大御所と勝負を相争ひ
 可被申仁外に可有之哉、其段ハ不存、我々共の可及義
 にてハ無之候也、利の得失と申に至りてハ又格別の義
 にも有之間、国府越、くらかり峠、新条越、立田越、皆是
 険阻の義なれハ彼地へ御勢を押出され防戦を遂られ候
 外ハ御座有間敷候、大軍を平場へ引請候ての一戦と有之

 御相談に於てハ此又兵衛ハ立入申事不罷成旨申ニ付、何レも
 尤と有之、然らハ大和口の一の手先の義ハ又兵衛に御申付
 候との義に相極り候由、手配の次第の義ハ一の先後藤又兵衛
 に差続き薄田隼人、槙嶋玄蕃、井上小左衛門、山川帯刀
 北川次郎兵衛、山本左兵衛、大久保左兵衛、吉田九郎八郎と也、二の
 先手ハ真田左衛門、毛利豊前、明石掃部、長岡与五郎、小倉佐
 左衛門、渡辺内蔵助、大谷大学、伊木七郎右衛門、大野修理義ハ此
 手に加り可罷出との義也、然る処に大野主馬方より先達て
 間者に遣したる北村吉太夫、大野弥五左衛門両人方より注進
 致し候ハ、紀州筋一揆の手首尾宜く、熊野有田筋高野山
 下の者共何れも御味方に参り、浅野但馬守泉州志達に
 在陣の内大坂より御手合セ有之に於てハ跡より押掛
p461
 前後より取はさみ、但馬守を討果し可申との趣に付、大野
 主馬大きに悦ひ、俄に陣触を仕り支度調ひ次第馳出可
 申、阿倍野に於て勢揃可致の由申触候となり
一浅野但馬守義旗本ハ泉州志達に陣取、先手の家老浅野   *浅野長晟
 左衛門佐、同右近両人義ハ番頭、惣侍、足軽等を相俱し佐   *泉佐野
 野村へ出張て陣を取罷有候処に、左衛門佐方へ告知らする
 者有之に付、大坂よりの間者両人を召捕へしと致し候処に
 大野ハ手早く取合せ相働を以て当座に切殺し、北村
 をハ生捕、籠に入置候へ共其段当分ハ大坂方へ相知不申内なり *牢
一廿六日両 御所様にハ水野日向守を二条の御城内へ被為召
 今度大坂表へ御動座ニ付、其方義大和組諸勢の差引を可  *指図
 仕旨被仰渡、右大和組と申ハ松倉豊後守、神保長三郎、別所

 孫次郎、桑山伊賀守、同左衛門佐、本多左兵衛、多賀左近、秋山
 右近、藤堂将監、村越三十郎、甲斐庄喜右衛門、山岡図書、奥田
 三郎右衛門等也、丹羽勘助、堀丹後守なとも此勢に相加り
 候となり
一廿七日水野日向守ハ鳥羽を打立、大和路へ罷向候処に大坂
 勢生駒山を越、焼働仕候由を聞て、夫より道を急ぎ候
 となり、其比松倉豊後守ハ五条二見に在城しけるに
 大坂勢生駒山を越、焼働き仕る由を聞て手勢を率して
 五条を出大坂勢へ馳向ひ、道筋居住の大和小身衆早々出勢
 可被致旨触遣し候へ共、何れも先達て法隆寺へ寄集り
 候付出合不申、其内藤堂将監一人ハ松倉に加り候由、奥田三郎
 右衛門ハ奈良より出て松倉に加る、大坂勢ハ日向守京都より
p462
 駈付、松倉南の方より馳付候、両旗先を見て早々引取、新
 庄越をして河内路へ引退申候を、松倉急に追詰六人生
 捕首一ツ取て京都へ差上候ニ付、両 御所様日向守、豊後守
 両人の働を御感賞被遊候と也、右大坂より大野主馬、後藤
 又兵衛両旗にて大軍を率し南都へ相働候段相聞へ
 けれハ、筒井主殿助与力三十六騎、足軽迄を支配仕る身上
 にて郡山を持堅め候義不罷成、郡山を明退き
 福住へ落行候へ共、一分相立申間敷と有ル
 に付、自害仕り相果候と也、日向守ハ南都の義を心元なく存
 一騎かけに駈付候処に、南都の奉行中坊左近、藤村市兵衛
 長池迄退来り、日向守に出合、大坂勢大軍にて奈良般若
 寺坂迄乱入候間、中々叶ふ間敷也、此辺に陣取様子を聞合セ
 
 其以後とも角も相働かれ可然と申候処に、日向守同心無之
 大坂勢に南都を焼せ候てハ両 御所様への我ら申訳相
 立不申、討死と相究めて罷向ひ申義也、各の義ハ南都を
 預りの義なれハ御大義なから案内被致尤との義ニ付、心得
 候とて両人も取て返し押行候処に、松倉十左衛門(豊後守舎弟)
 奥田三郎右衛門方より早馬の使を以て敵ハ郡山を焼
 払ひ陣取候、奈良ハ未だ焼せ不申候、我々計にて始終相抱
 候義ハ罷成間敷間、早々御押詰尤の由申遣に付、日向守
 大きに悦ひ弥揉たて急ぎ候に付、其日の暮比に至り
 南都へ馳付候と也、南都を焼払ひ可申と有て奈良辺迄
 出張候大坂勢の義も早々郡山へ引取、直に大坂へ罷帰候由
一廿八日紀州へ向ひ候大阪勢、大野主馬か一手の中にて塙
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 団右衛門を以て先手と申付候を同組岡部大学心外に
 存の旨あり、依之大学同勢をハ跡に置其身計二三騎
 にて馳出し、阿倍野海道を和泉路へ掛入候、団右衛門ハ
 是を不知、堺海道を安立へ押行候処に大学か組の者共
 塙か備を押抜先へ可罷越と仕るを団右衛門見咎め
 押留候へハ、岡部か手の者共口々に申し候ハ、備頭大学義
 先へ罷越候処に其組の者か跡に残り可申様無之候となり
 団右衛門聞て申候ハ、組頭の大学御軍法を破り抜掛被致
 候へハとて、組中迄御軍法を破られ候て能物にて候や、今
 日の先手の義ハ此団右衛門承りたる義なれハ、先へとてハ
 一人も通し候事不罷成と相断り、団右衛門か組の者共道を
 一はいに押行候と也、其比岸和田の城主ハ小出大和守にて

 金森出雲守加勢として籠り居候ニ付、其押へとして大野修理
 か家老宮田平七大津に備へ罷有候へ共、不勢の由にて堺   *泉大津
 の警固に罷有候槙島玄番、赤座内膳両手の人数、宮田
 に加ハり、其二の味として大野道犬斎堺の湊に陣取居て
 堺の町を放火申付候故、其火の光にて廿八日闇夜にて候へ共
 紀州へ働き出候人数ハ心安く押行候となり
一浅野但馬守長晟先勢の者共義佐野市場へ出張罷
 有候処に、北村か白状にて紀州筋一揆企の段、大坂城
 中より大軍にて此表へ発向可致との義も相知レ候ニ付
 先手の者共義も志達へ引取可然旨、長晟差図にて浅野
 左衛門佐、同右近両組の者共ハ引取、亀田大隅守初め足
 軽大将共跡に残り、大坂表の様子を聞合せ罷有候処に
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 夜の明方に至り、大坂勢の先手掛来り候に付、敵に八町畷
 を越させ、樫井村へ引入能キ図を見合せ、志達より真下り
 に押掛、悉く可討取とある但馬守了簡の処に、岡部大
 学義団右衛門と先を争ひ、金の馬櫛の差物にて一番に
 馳来り候か、紀州勢より放し掛る鉄炮に中り手負けれハ
 進む事不叶して馬を引返すに付、大学か手の者ともは
 さのみ進む事を致さす、然る処に塙団右衛門義も漸々
 騎馬の侍五六騎を率し樫の井町へ乗入候処に、上田主水
 入道宗古斎鎗を取て待構居候付、団右衛門も従卒共に
 一同に突て掛り候へハ、上田か家来高尾小平太、水谷又兵衛
 横井平左衛門なと申者共、主の宗古に立並びて鎗を打
 入、宗古義ハ団右衛門か家老三懸三郎右衛門と鎗組候処に

 宗古鎗を突折、無是非組打に罷成、宗古組敷れ候処に
 家来横井平左衛門、横関新三郎馳付三郎右衛門を討取申候
 其節宗古手負候へ共浅手に有之候と也、然る処へ但馬
 守者頭田子助左衛門、安井喜内、浅野左衛門佐か者頭松
 宮庄助、長田治兵衛、其外亀田か家来共寄集り迫合申候
 大隅も敵を突伏候て家来菅野兵左衛門駈付、其首を
 揚候処に其次に掛来り候敵を大隅又突伏セ、家人吹田作
 兵衛に首取セ候、塙団右衛門ハ矢手を負候処へ浅野左衛門
 佐家人、矢来新左衛門鎗を以て突伏せ打留候内、淡輪六
 郎兵衛儀も左衛門佐家人永田治兵衛に討れ、大坂勢悉く
 敗北候を大野主馬義ハ先手に合戦有とも知らず、貝塚の
 □ 半野分へ弁当を持参して振廻候馳走に逢居申処へ淡
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 輪六郎兵衛か下人共逃来り団右衛門、六郎兵衛其外主馬組
 熊谷忠太夫、須藤忠右衛門なと討死の由申ニ付、主馬是に
 驚き、夫より急ぎ樫ノ井へ押付候処に、紀州勢ハ悉く引
 取候ニ付、長岡監物、上条又八郎、御宿越前なと馬を馳廻り
 在所の者共を呼出し引退候、紀ノ国勢との間ハいか程隔る
 へきぞと相尋候処に最早一里の余も隔り可申也、是より先の
 道の義ハ殊の外成険阻の由を申、其上晩日にも及び候ニ付、追
 討の義不可叶との相談に窮り、主馬ハ大坂へ引取候刻家人
 に申付、団右衛門か死骸計をハ火葬に致し、樫の井の宿の入
 口に埋置候ニ付、其跡を尋ね雲居和尚旧友の因を以て石塔を
 建置被申今に有之候と也、右樫の井表の一戦に利を失ひ
 大野主馬大坂へ引取候由相聞へ候ニ付、岸和田押への勢宮田平七

 を始め何れも安立町迄引退候と也、但馬守ハ樫の井にて討
 取候首共に使者を差添二条へ差上被申候処に、 大御所様
 御感悦不斜、御感書を被成下、使者両人にも御馬を拝
 領被仰付候由、其節塙団右衛門か首をハ御覧可被遊旨
 被仰出候ニ付、本多上野介内見被致候処にほたし首也
 けれハ時分柄故か事の外に損し御覧に入候様にハ無御座
 由被申上、上野介差図にて友引の方へ取治め被申候と
 なり
一出羽奥州加賀越前の軍勢追々京着仕候ニ付、 両御所様にも
 近日御動座を被遊との御事故、御先手藤堂高虎四月廿
 六日に淀を立て河内の国須南に陣す、井伊直孝にも
 伏見を出勢あり、其外榊原遠江守、本多出雲守なとハ竹
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 田より打立、河内へ行軍なり、干時 大御所様にハ伏見の
 御城へ被為入、城内船入の御櫓より軍勢の行列を御
 上覧被遊候処に、井伊掃部頭旗奉行孕石豊前、広瀬左
 馬両人申合、掃部のほりを伏て押行候ニ付、掃部頭般
 若野宮内を呼、両御所様御上覧の義にも有之処に
 何とてのほりを伏せ候にや、早々押立候様にと被申越処に
 右の両人申候ハ、御旗の義ハ奉行次第に被成置候様にと申
 て押立不申に付、掃部頭腹立にて重て馬場藤左衛門
 を使にて是非のほりを立させ候へと被申越候へ共、それにも
 不構して、肥後殿橋を渡りて後のほりを押立候を
 矢倉の上より 大御所様御覧被遊、 将軍様へ御向ひ
 被成、当城へ旗先を向る事を遠慮して只今旗を押

 立候とあるハ流石信玄家風に馴たる者共程有之と
 上意被遊候となり

落穂集巻之十四終
   
   天宝四癸巳年五月十二日於 益城下郡砥用郷
   柏川邑奥重見山中写之    中村 直道