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    落穂集巻之十五
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一兼てハ五月二日両 御所様京都を御出馬可被遊と有之候
 処に、四月廿六日江州の御代官鈴木左馬助を戸田八郎
 右衛門と申浪人、兄の仇の由にて日の岡に於て打果し
 山城を三井寺の方へ立退候由にて、左馬助か持せたる挟
 箱を板倉伊賀守方へ持出候処に、其内に大坂城内よりの
 密書一揆企の廻文等有之候を伊賀守二条の御城へ
 差上候付、御吟味被仰付候処に、左馬助が舅古田織部、茶道
 木村宗喜を始其同類廿四人有之、糾明に逢白状申候ハ
 両 御所様御出馬の御跡にて主上を取奉り二条の御城を
 攻取京中を焼払ひ可申との企の由也、依之二日御出馬ハ
 相延、其後宗喜を始め同類廿余人日の岡に於て磔罪に
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 被仰付、織部義も申訳相立不申、子細有之切腹被仰付
 候と也、ケ様の義を以て京都の義無心元被思召、上杉
 景勝にハ大坂出勢に不及、八幡辺に在陣仕り京都を可相
 守と被仰渡候と也
一五月五日巳の刻京都を御進発被遊、尾張宰相殿、駿河宰相
 殿御供被成の由、 将軍様にハ 大御所様御先達被遊
 伏見の御城より御出馬、山鳥の尾の御羽織、羅紗の唐人
 笠之御甲を被為召、本多上野介被指上たる桜野と申
 御馬に被為召、銀の天衝の御馬印、金の扇の御纏、二重
 ふくへの御小印、五十振の中巻其外御行列冬御陣の通
 の由
一同日水野日向守ハ大和寄合衆の惣司として国分に陣取

 本多美濃守、菅沼織部正、松平下総守。徳永左馬助、遠山
 久兵衛なと段々相続きて陣取、大坂方後藤又兵ハ平野に
 陣を取罷有処に、毛利豊前守、真田左衛門佐両人平野へ来る
 明六日の戦の義ハ夜深く勢を出し、未明に国分山を越、何とぞ
 両将軍の旗本を目掛ケ可相戦旨申合て罷帰る、後藤ハ宵
 より支度を調へ、五日の夜半に至り平野を打立、松明数多
 をとほし大和路に向て押行、藤井寺に着キ後陣を相待候
 得共遅く候に付、誉田の八幡に掛り候へハ夜明近く成ニに付、松明
 を消させ道明寺へ押付、又兵衛か内にて両先手古沢四郎兵衛ハ
 左り巴の紋付候旗、山田外記ハ釘貫の紋付たる旗を押立
 片山の上へ取上り左右に分りて備を立る、大和勢の内奥田
 三郎右衛門ハ三千石の知行高候へ共、名有浪人を五人迄養ひ置し
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 を同道して片山へ向ふ、右浪人の内岡本加助金の琵琶へらの
 指物にて真先に進む、桑山左近奥田に向ひ、日向守参陣
 を被相待、一所に掛られ可然と有之候処に、加助聞て左様に
 候てハ時刻移り候と云もあへず片山の上に駈上る処に後藤
 か先手より打掛候鉄炮に中り加助相果候を見て、奥田を
 始め残る四人の浪人并に奥田か従士相俱に鎗先を揃へて
 突掛る、後藤か先手の者共数輩相掛りに掛て戦ひ、山田外
 記か組下の士佐伯次郎太夫等を討取と云へ共大坂方多
 勢の義なれハ、奥田終に戦ひ負て三郎右衛門を始め神子田
 井上下野、阿波仁兵衛等枕を並べて討死を遂る、干時松倉
 豊後守ハ後藤か左り備を追立本道を南へ進ミ上る、後藤か左り
 備へ取て返し、松倉か同勢に突て掛る、天野半之助立こらへ

 一番に鎗を合せ、其外の者共も随分と相働しか共、後藤方多
 勢の義なれハ、松倉か者共悉く討たるへきと見ゆる処に堀丹
 後守自身鎗を取て真先へ進ミ横相に掛て後藤か人
 数を突立候ニ付、半之助を始め松倉か者共、丹後守手の者と
 一所に成、敵を追崩し候と也、其頃大和組、美濃組を始め奥州
 勢片倉か手の者迄惣掛りに懸て戦しかハ、後藤か左右の備
 も乱立て敗軍となる、家老の古沢四郎兵衛を始め相組の
 者共大形ハ討死致し、其上後藤も鉄炮に中り行歩も不叶
 仕合に付、其場を去らず甲を脱て家人金森平右衛門と申
 者に首を討せ、遺言にて首をハ具足羽織に包、深田の中へ
 埋させ候由なり、薄田隼人義ハ後藤に差続き自分の一手を
 備罷有か、其日の早天に家来共に向ひ、我ら義ハ後藤に申
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 談る子細有之ニ付、先手へ罷越也、物前の義なれハ追付可帰
 間、左様心得候へと申て馬に打乗り罷出候ニ付、近習の若き
 侍共歩行士なと共可致とて罷出候を一人も無用の由申て
 鎗持一人召連乗出し候か、我備へハ再び不帰、後藤に面談
 致し、戦ひ半の比馬を片山の方へ乗出し、水野日向守
 手へ乗掛る処に河村新八郎立向ひ、互に鎗組候へ共勝負
 別れずして組打に罷成る、隼人ハ聞ゆる大力故新八郎を
 組伏候処に、水野か家来中川嶋之助、寺島助九郎両人折
 合薄田を討取候由
  右薄田隼人討死の次第ハ牧尾又兵衛其日も供致し隼
  人先手へ罷越候節供可仕とて罷出候五七人の内の由也
  隼人義只今可帰と申て馬を乗出し候処遅く候故
 
  家中の者共待兼居申内、道明寺表に於て鬨の声、鉄
  炮の音烈く仕候ニ付、何れも心元なく存じ迎に可罷越
  と仕、七人申合候処に、侍共我も我もと可参と申ニ付、左様
  有之候てハ隼人兼て定め置れ候備の法も相立不申候
  如何と存る処へ並びの備頭山川帯刀馬に乗来、用有
  けにて隼人を尋られ候付、我ら立向ひ今朝夜明前に
  後藤殿に申談候旨有之由にて被参候刻、鎗持一人より
  外ハ供の者ハ無用に候、只今可罷帰との義に候か今に帰不申候
  先手にハ合戦も始り候と相聞へ候ニ付、近習廻の士共迎に
  可参と申候へハ、外の侍共も可参と申ニ付、左様に候てハ備も
  乱れ可申かと有義にて埒明不申候、其元様幸ひ御出の
  義に候へハ御差図被成被下度と申候へハ、帯刀聞れもハや
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  可被帰事に候か不審成事に候、隼人殿義ハ二の手の義に
  候へハ先手の勝負合を見合被申かにて候、何れの道にも物
  前の事に候へハ、備を堅く立設けられ候事専一に候と被
  申処へ、歩行士を預りたる権平と申者罷出、我ら預りの
  歩行士共ハ備に構ひ申義にても無之候へハ、旦那迎に参
  度由申候へハ、成程尤の由帯刀被申候ニ付、歩行の者と申ハ
  廿人計有之候か、歩行士に準じ候者共取合せ三十人余り 
  茜の羽織を着し罷有候輩を権平引纏ひ走り出候か
  間もなく追々罷帰り、途中にて旦那の御馬の口を引
  帰る中間に出合承候へハ、旦那にハ御討死の由御鎗持も切
  殺され、後藤殿も討死にて先手の輩ハ悉く破れ候由語り
  候に付、家中一同に力を落し罷有処に、道明寺表にて

  敗軍仕りたる者共、大坂の方へ引退候をみて、此方の
  人数より跡に備へ被申候衆中の旗指物ともに俄に
  動き出る程もなく、惣敗軍と罷成、大坂の方へ引取
  申候由、隼人義ハ旧冬馬喰か渕の出丸を乗とられ候
  刻ハ、大坂城中に用事有之罷有候へ共、近所の町屋に
  遊女を愛し酒に酔罷有候由取沙汰有之ニ付、今度の
  義ハ合戦初日とひとしく討死と存極候由、牧尾
  意休斎物語なり
一毛利豊前守ハ前日後藤に申合の通、天王寺を出勢して
 藤井寺辺迄押出し候処に又兵衛ハや討死の由にて敗
 軍共崩来候ニ付、申合せたる手段相違致し以上ハ真田を
 相待可相談致と有之候へ共、真田も不来候故力を落し
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 罷有候処に、関東勢ハ片山の一戦に勝利を得、勇み進んで押
 来候か折節、真田左衛門佐七八千計の人数にて押付候を
 見て豊前守も力を得候と也、真田と同く福島伊予守、同
 武蔵、渡辺内蔵助、大谷大学、伊木七郎右衛門なとも来候へとも
 豊前守と一所にハ成ずして誉田の方へ押通り、伊達政宗
 先手へ向ひて備を立、足軽を進め鉄炮を打懸夫より片倉
 小十郎と迫合初る、片倉か勢利を失ひ誉田の方へ崩れ
 申候か、片倉麾をて下知致し人数をもり返し真
 田か勢を追帰す、此節城方渡辺内蔵助も手を負候となり
 真田ハ池の有之所を便りに金の蠅取の馬印を押立返し
 合せ、再び正宗か人数を追立、奥州勢を誉田の町中迄追
 込候刻、片倉小十郎、真木野大蔵手柄の働有之候由、其後

 真田ハ森豊前と一手に成ル、右一戦の刻真田か嫡子大助十
 六歳初陣成しか、組討致して其首を取、高股に鎗手を負
 討取たる首を鞍の塩手に結つけ乗付来り、馬より下り
 候へハ、豊前守、槙嶋玄蕃両人大助か側へ立寄、二人共に扇
 をひらき大助をあをき、偖も偖もと申て大きに感し候
 刻、父の左衛門佐も喜悦の躰にて笑なから、手ハ浅きかと
 尋候へハ、大助聞てうす手にて御座候由答候と也、干時左衛門
 佐豊前に向ひ、手前義時を取違へ刻限遅くなり又兵衛、
 隼人其外討死と承り此上ハ手立も不入、責ての申訳と存シ
 一戦に及ひ候、何事も拍子の違ひ候事秀頼卿の御運の末
 と存つと申て悔ミ候となり、豊前守真田へ申候ハ、最早此
 以後の義ハ相知れたる事に候へハ、今日此表に於て討死致し
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 埒を明候方能候半と申候へハ真田聞て、我らなとも左様に
 存候と申合候処に大野修理方より秀頼卿の仰の由にて
 黄母衣衆の面々を追々指越、関東勢段々と押入候由に候間、早々
 其表を引払ひ被罷帰候様にとの義に付、然る上ハ其通りにもと
 有之処に若江矢尾表の一戦勝負相知レ不申ニ付、真田も
 毛利も暫く見合罷有候と也
一同六日の朝藤堂高虎ハ千塚に陣取居られ候か、五日の夜半 *八尾市千塚
 家老共を呼集め、明朝ハ何方へ勢を押詰可然哉と相談
 の処に渡辺勘兵衛進み出て申候ハ、是より八尾久宝寺の方
 へハ地形不宜候へハ、道明寺口へ御働き御尤と申、其通り議定
 致し、翌朝に至り勘兵衛申候ハ、拙者義御先へ罷越、道明寺
 辺の相見へ候処有之間、見切可申とて馬を乗出し件の小山

 の上乗上ケ見渡し可申と存じて馬をはやめ候処に、物見に
 罷越候浦井与右衛門に逢様子を尋候ヘハ、道明寺表へハ城方
 後藤又兵衛罷出、片山の上へ押上味方大和衆と出合、鉄炮
 を打合候躰に相聞へ候と也、勘兵衛聞て其赴に候ハ只今より
 道明寺口迄押付候内にハ事落着致し、中々間に合申間
 敷候、先其通りを被申上候へと申て件の山へ馬を乗上候へハ
 片山の方に当り鉄炮の音、人声夥敷聞へ候ニ付、乗帰るへき
 とて西の方を見やり候へハ、木村長門か人数若江村より矢
 尾堤迄一面に相見へ候ニ付、急ぎ馳帰り候処、藤堂仁右衛門か
 手の者共道明寺表へ心さし押来候を勘兵衛押留申候へハ
 仁右衛門勘兵衛に向ひ、片時も早く道明寺口へと急ぎ候人
 数を何故押留被申候やと咎めけれハ勘兵衛聞て、されハの事
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 に候、道明寺表にハ最早一戦初りたると相見て候、是より
 一里計の道を押行間に合申義にてハ無之候、幸ひ間近き
 所へ敵勢出張致したる義なれハ此表に於ての御一戦可
 然と申て指をさしのほり先を見せ候へハ仁右衛門も得心
 致し備を押留め西向に押掛るへき支度に及ぶ、勘兵衛ハ
 高虎の前へ罷越所存の通りを申述候処に、其段如何有へ
 きとの義也、勘兵衛重て申候ハ千万も入不申義に候、敵方より
 仕掛候一戦の義に候へハ御思案所へハ参間敷と申に付、高虎も尤
 と有之、先手の家老共へ使番を以て其趣を被相触候、勘兵衛
 申候ハ此辺殊の外足場悪く以前より懸引の有之たる場所に
 てハ無之間、田の中四筋の道をハ行義よく静に押行、横堤
 に至り候て各待合せ、人数を揃へて後掛り候様に御座有度

 と申候へハ、高虎も尤の由にて是又諸手へ被申触、勘兵衛ハ自分
 の備へ立帰り具足羽織を脱捨、糸たての指物にて我旗をハ
 遥の跡へ押下ケ参候様にと申付、南二筋の道へ掛り候、藤堂仁
 右衛門、同宮内、桑名弥次兵衛、渡辺掃部なと備をハ横堤に
 於て勘兵衛押留候へ共北二筋の道を参候、藤堂玄番、同新
 七、同与右衛門此手の者共義ハ横堤にて押留候仕形もなく
 村々に押掛り候を見て、南二筋の備も踏留らすして押 
 出し、仁右衛門、弥次兵衛、宮内、掃部なとは矢尾の地蔵堂を見
 掛て押行、勘兵衛ハさんとあの村へ向て押掛り、四筋に別れ押
 行候、高虎勢一所に纏ふ事不叶、一手切の手前合戦の如く
 罷成候由、木村長門守ハ若江へ取込候処に相備、長宗我部い
 また矢尾に居候処へ、はや藤堂が人数押掛候ニ付、若江へ行事
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 不叶、備を東向に立直し家老の吉田内匠方へ使を越し
 此表一戦と覚へたり、旗下不勢なれハ急ぎ来りて一手
 に成候様にと有之候へ共、内匠か手先へも渡辺勘兵衛押
 向ひ候付、此方へも敵取掛候間、一手切に仕る外無之由返答
 に及ぶ、仁右衛門、弥次兵衛、宮内、掃部備々の旗をハ押、前の
 如く真先に進めて中にも仁右衛門ハ只一人先を急候ニ付
 弥次兵衛追着、何とて左様にハ被致候ぞ、余りに軽々敷
 躰其元にハ似合不申と申候へハ、我々なとへ勘兵衛たて
 心得かたく候と計にて、脇目もふらず馳掛候ニ付、弥次兵衛も
 捨兼、同く乗込候ニ付、両組の士従者等合て二百余りの者
 共無躰に走付候処ニ長宗我部ハ三百余の軍兵を左右に立
 自身麾を取て、敵ハ殊の外そゝり立て見ゆる間、近々と引

 付、高ミより真下りに落しかけて討取候へとの下知に付
 各其旨に随ひ甲を傾け鑓衾を作りて待居たる処へ
 仁右衛門、弥次兵衛ハ馬を乗放し鎗を引さけ声々に名乗
 て突掛る、長宗我部ハ弥次兵衛か名乗るを聞付、すはや桑
 名目か来りたるぞ、のかさず討取候へ下知しけれハ三百余の
 者共一度に立上り、えいや声を上ケて突掛り候を以て
 藤堂仁右衛門、桑名弥次兵衛、其外頭分の侍八九人討死を
 致し、残る者共ハ矢尾の方へ崩れ候となり、長宗我部
 勝に乗て追掛、藤堂か人数を小池の中へ追込、爰に於て
 藤堂か兵士六十三騎、雑兵二百余り討死致し候由
一木村長門守義ハ相備長宗我部手にて合戦初り候段をも不
 存、若江村へ打入、兵糧をつかひ暫く休息仕罷有処に佐久間
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 蔵人馬をはやめて乗帰、只今敵間近く寄来候由申に付
 南の方見やり候へハ藤堂新七、同玄番銀の牛の舌の
 差物にて押掛り候、長門組の者共差向ひ候ニ付、何れも
 取静て掛り候様にと長門下知致し、平塚五郎兵衛を
 相添遣し候と也、 藤堂か人数是を見て相掛に致に付
 長門組青木七右衛門一番に乗入て高名を遂る、藤堂新七は
 白縅子の羽織金の御幣の腰差にて名乗掛参候処へ木村か
 手の者数輩立向ひ、新七を討取る、同玄番も深手を負、首
 を取るへかりしを玄番家来鷺川某駈付、上なる敵を討取
 主の玄番を肩に掛一町計も立退候処に深手故相果候と也
 藤堂か人数敗走致し候を城兵共追懸候を平塚五郎兵衛
 麾を振て追留させ勢を引とらせ候由なり

  藤堂家の家老共右之通の仕形に及び候とある子細は
  主人高虎、渡辺勘兵衛に一万石の知行をあたへて召抱
  寵愛せられし処に、旧冬誉田表に於て城兵紀州侍
  新宮左馬助城中へ引取候刻、藤堂家古参の侍共何れも
  追掛打留可申と申候処に勘兵衛達て無用と申て押
  留候故、新宮を討留不申談各残念かり申の由、高虎是を
  聞れ、高知行を出し比丘尼を抱候とある蔭噂を被申候
  と有義を告知せたる者有之、此義を勘兵衛不足に存
  帰陣以後暇を願ひ、出仕をも相止て罷有候処に又候
  陣起り候ニ付、止事を得ず罷出る処に高虎不相替念
  比に被申、軍旅の義をも被相談候付、古参の家老共義有
  甲斐なき仕合是非に及すと各申合せ候、とかく討死と
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  覚悟を相究候となり、万一此義実正にも有之候へハ其
  家の長臣たる面々の上にてハ聊短慮の至りとも可申
  にて候、子細ハ己を潔ふせんと欲して大倫を乱ると古
  人の詞にも相見へ候由なり
一井伊掃部頭是も道明寺口へと被心掛候処に時刻もおくれ
 其上間近き所に木村か旗先相見へ候ニ付、備を西向に押
 直し若江村へ相働く、庵原助右衛門、長坂十左衛門、三浦与
 惣右衛門なと下知して備を立配り押掛り候を木村か
 先手の足軽共堤の上より鉄炮を打掛候へ共、程なく引立
 申候ニ付、掃部頭手の者共横堤を取敷候也、掃部頭家老
 川手主水ハ兼て討死と覚悟致セしに依て、同役共と
 同じく下知する躰にもてなし馬を乗出し敵勢の中へ

 駈入候を見て組下の満座七左衛門を始め、山口伊兵衛、向坂
 弥五郎、遠山甚次郎四人の者、主水に続て突掛り候へ共
 城方にも河崎和泉、牟礼彦三郎、佐久間蔵人、平塚熊
 之助、根来知徳院なと申武辺誉れの者共を初め、木村方
 の侍鎗の穂先をならへ罷有所の義なれハ、川手を初め
 五人共に討死致を見て、庵原助右衛門采配を打ふり大音
 を上惣掛りの下知を致し、其身も鎗を取真先に進むを見
 て八田金十郎走出、味方五人の討れたる死骸の上を踏こへ
 一番と名乗て鎗を打込、長門守者共も形の如く相働しか共
 八千に余る佐和山勢一同に押掛けれハ終にハ敗軍に及ぶ、青
 木四郎左衛門、早川茂太夫、長門を引立退被申よと諌め候へ共
 同心不致候処へ、庵原助右衛門十文字の鎗に木村か縨を懸
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 て引けるに付、木村ハ田の中へ倒れ候を助右衛門か家来の侍三
 四人寄集り木村を切殺し、首を揚んとする所に安藤長
 三郎走来り庵原に向ひ、我ら未タ手をふさけ不申候、此首
 を給り候へと申けれハ、安き義也、遣し候と有之付、長三郎木
 村か首を取母衣絹を施し可包と致候節、庵原か児姓傍に
 居けるか、此首ハ人手に渡す首にてハ無之にと申て幌の出候
 の白熊をハ金の出候串共に件の小姓取り来候となり
一木村か左り備木村主計か手先へハ榊原遠江守掛り被申候、遠江
 守若年故弓矢指南のため、上杉浪人藤田能登武功の者
 と有て御付置被成候処に、榊原家中にハ親父康政以来の
 武辺者共数多在之ニ付、掃部頭手の者共の掛るを見て、同じ
 く主計か手へ突掛るへきと申候を藤田聞て、掃部頭手の者

 共ハ只今追崩され候間、今少勝負の様子を見合候ての義と
 申に付、家老の伊藤忠兵衛尤と心得、備先へ罷出、自分の持
 鎗を横たへ、下知無之に一人にても掛り候義無用と申て押
 留候内に掃部頭手先を以て敵を突崩し、敵方敗軍に
 及の刻、木村か手の者共見崩に崩れ立悉く敗走致しけれハ
 榊原家中の者共ハ手を空しく致し候を以て、遠江守も無念
 の至りと被申、家中一同の取沙汰にハ三河以来井伊、榊原と
 相並び御奉公たての義に於てハ井伊家に仕負ケたる事も
 無之処に、今日初て此仕合と有ハ偏に忠兵衛不器量故の
 義也と申て悪口致す由を聞て、無是非仕合と覚悟を究
 め、翌七日一戦の刻忠兵衛ハ無理成討死を相遂候となり
一若江表の合戦、佐和山勢の利運と成、直孝家中跡備にて
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 芝居をふまへ罷有候ニ付、渡辺勘兵衛ハ弥力を付、其上藤堂先
 手に於て討死致したる家老共の組下の侍共五騎六騎つゝ
 渡辺か手先へ相加り候を以て人数もかさみ候ニ付、長宗我部か
 手前へ押掛り首数多討取、猶も其場を取堅め罷有処に
 高虎より追々使者を差越是非引取可申との義付、勘兵衛
 義も勢引取候となり
一越後少将忠輝公にハ大和口惣軍の主将として押向れ候か
 其日道明寺口の義ハ不及申、矢尾若江表の一戦共に事済
 候以後着陣あられ、朝昼迄の軍の次第を聞て家中の
 面々残念の至りと存る処に、溝口伯耆守、村上周防守両人
 つれにて上総介殿前へ参て被申候ハ、私共両人義ハ其元御
 道中の間ハ御跡先を一日替りに押上り候様にとある江戸

 表よりの被仰付を相守り罷越候付、今日一戦の間に合不申
 段残念に存候、定て其元様にも左様可被思召と存事に候
 就夫此辺より見渡し候ヘハ大坂勢と覚しくのぼり先相
 見候間、周防守と私義ハ旗を絞り長道具をふせ急に馳付
 敵を喰留可申間、早々御旗本の御人数をも被押寄御一戦
 可然候と也、忠輝公にも一段尤の義也、其段玉虫対馬其外
 家老共へも早々被申談候様にと有之、花井主水を始め家
 老共玉虫対馬、林平之丞なとを召出し相談の処に、玉虫
 更に合点不仕、林義もなま合点に相聞へ候ニ付、家老共も其
 義に同じ事調ひ不申、両人ハ不興の躰にて立帰り候と
 て上総介殿小姓共の聞前にて、伯耆守被申候ハ自余の大名
 共ハ其通り、堀丹後目か思ふ所近比無念に候と被申候由
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  右の趣旧記等にハ相見へ不申候へ共、翌七日大坂落城の刻
  茶臼山へ上総介殿参上あられ候処に 大御所様にハ
  御覧被成さる御ふりにて被成御座を、本多上野介上
  総殿参上と有義を二三度被申上候以後、御見向キ被遊、其 *死に目に会う術
  方ハ親の死めに合すへをも不存候なと苦々敷 上意被遊候由
  此段を家中の面々承り伝へ何れも気の毒に存、昨日伯
  耆守被申たる如くの手首尾にも有之候ハ、ケ様の 上意は
  御座有間敷物をと申て打寄悔ミ候由、其節迄ハ毛利、真田か
  両手も城よりハ遥此方に出張て罷有、就中長宗我部
  父子ハ其日城中へ帰らずして合戦場より直に立退候故
  猶も一戦を持たる躰にもてなし、日の暮るを相待城外に
  罷有たる義なれハ猶更残り多き義共に候由、其節上総

  介殿に罷有候大道寺久右衛門入道道白物語也、玉虫義も
  右相談の節指図不宜由にて 将軍様より御改易被
  仰付候と也、其比世上にて玉虫とハ不申して逃虫対馬
  と申候となり
一右矢尾表一戦の刻、増田右衛門尉長盛か嫡子増田兵太夫義長曾
 我部か手に付大阪城中より働出候か、渡辺か手先へ掛りいさき
 よく討死を相遂候と也、右兵太夫義去年冬陣の節ハ
 将軍様の御旗本へ便りて罷登、御在陣の内何ぞ城方の
 宜敷様の義と申せハ悦ひ、悪敷噂を聞てハ悔ミ候と有之旨
 御和談以後 大御所様の御聞に達し候処に兵太夫にハ似合
 たる義也とある上意にて何の御咎めも無御座候と也、今度ハ
 果して木村長門を頼ミ秀頼の家人と成討死仕候と也
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一御先手の義井伊掃部頭手に於ても川手主水を始め討
 死、手負の者有之と云へ共、御先手役の勤り不申と在之
 如くにハ無之候へ共、藤堂高虎手前に於てハ戦死の人数も
 多く、其上先手の隊長たる者共大形討死仕候段、両 将軍様
 の御聞に達し候ニ付、双方共に翌七日の御先手段御用捨
 有へきかと相聞へ候ニ付、越前少将忠直にハ家老両本多義
 将軍様御陣営へ罷上り、本多佐渡守に逢ひ様子を聞
 合せ、明七日惣御先手の義此方へ被仰付被下旨申上候
 様にと有之両本多罷越、佐渡守を呼出可申談と仕る処に
 俄に 大御所様被為入候由にて、佐渡守御迎に被出候由、御
 入の刻両本多共に手を突罷有候を御覧被遊佐渡守へ
 御向ひ被成、あれに居申者ハ何者そと御尋に付、越前の両

 本多にて御座候と御披露申上られ候へハ、両人方へ向ひ被遊
 今日越前の家中の者共ハ昼寝を致し罷有候や、と御意被遊
 あの者共ハ何用にて参候やと仰に付、佐渡守明日の御備の
 義ニ付罷上候由被申上候へハ両人方へ御向ひ被成、明日の先手
 をハ加賀へ云付たると迄の上意にて 将軍様と御雑談被遊
 なから御通り被遊候付、可致様無之両人罷帰右の趣申達候
 へは、三河守殿聞玉ひて、此表の義も明日中にハ埒明へき間
 其上にてハ越前の国を差上高野の住居をする外ハ無之と也、伊
 豆守承り、夫ハいか成思召を以の義に御座候やと申けれハ忠
 直聞玉ひて、其方達か尋る迄も無之義也、加賀利常に劣たる
 三河守也と両 御所の見限りに預り男か立たるゝ物かと宣ひ
 けれハ、伊豆守承り、さほとの思召に候ハ明日此表に於て被
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 成度義を被成候て、御軍法御違背と有之御上より越前
 の国を御取上ケ候様にハいかゝ可有御座やと申候へハ三河守殿
 聞玉ひて大きに悦喜あり、願くハ左様に致度と有之付、然る
 に於てハ吉田修理を御呼有て明日御一戦の義を御頼御
 尤と申ニ付、三河守殿修理を呼出し、其段被申聞候処に、左様
 の思召に候ハ短夜の義に候へハ只今より御仕度可被遊と申、両
 本多に向ひ、某義ハ罷帰り支度出来次第出生致候間、御両
 所の義も我ら備に相続き勢を被押出、其跡より御旗本を
 進られ候へと申合せ罷帰候と、程なく組侍手勢共に押出し
 罷越候処に、加賀勢の先手の者共今日の御先手ハ加賀へ被
 仰付候間、誰人たり共先へとてハ通し申義不罷成と申所へ
 修理馬を乗寄セ、我等義ハ吉田修理と申筑前殿にも御存

 知の者に候、其元へハ如何被仰出候や、此度被仰渡候ハ岡山筋の
 先手ハ加賀へ被仰付候、天王寺表の御先手ハ越前へ被仰
 渡候義を筑前守殿より各へハ申伝へも無之候や、公義より
 被仰出候御軍法と有ハ大切の事に有之候を近比疎略成
 義共に候、右の通此方ハ場所違ひ候と申捨て押通り候ニ付
 其跡より段々と備を進め茶臼山の近所迄押詰、未タ夜の内に
 候へ共修理下知して有増にハ備を立配り、頭奉行の面々へ
 向ひ、昨晩 大御所様此方の家老中へ今日の合戦の刻
 越前家の者共昼寝を致し罷有たるかと有上意の由に候、然
 れハ目のさめたる働なくてハ不可叶候、何れも其心得を被致
 尤の由、自身触廻り候と也、後に考見候へハ修理義ハ其節より
 討死と覚悟を相究めたる様子に有之候由
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一六日の晩本多上野介 大御所様の御前へ罷出、明晩の御台
 所支度の場ハ何方と可申付候やと被相伺候へハ、茶臼山と
 上意有之候付、未タ御味方へ取敷たると申場所にても無
 之候処に合点不参とハ存なから其旨被申渡候処に、果して
 翌七日の夜ハ茶臼山を御本陣に被遊候、御明察なる御事
 共の由上野介物語被致候由
一本多出雲守ハ去年冬御陣の刻、仕寄口の義ニ付 大御所様
 御機嫌損し、親中務ならハ左様にハ有間敷なと被仰渡
 候を深く心底にこめ、御陣ひけ候以後知行所大瀧へ
 帰り候ても不機嫌に居られ候処に、又仲春の比より大坂表の
 義とや角と風聞有之候ニ付、弥事募り去年の通りに御
 動座をも被遊に於てハ是非討死を遂へきと思ひ定め被

 居候処に、二度御供と有之御陣触に付、本望の至りと被存候
 と也、大坂表へ着陣被致六日の暮方、舎兄美濃守道明寺の
 陣所へ見舞、美濃守へハ対面なくして甥の平八郎、甲斐守
 能登守三人を芝堤の上へ呼出し、今日城方の毛利、真田
 をハ如何して当手よりハ討留不申にや、本多家の名折
 と存る也、向後とても武辺の義祖父中務殿の弓矢形義を
 学び被申義肝要に候とて、美濃守陣場より酒筒を取
 寄、何となく三人の甥と盃を取かハし矢尾の陣所へ帰り被
 申候処ニ、御本陣より被為召候由付、急ぎ参上被致候へハ岡
 山表の御先手の義ハ加州筑前守へ被仰付候、其方義ハ
 天王寺口へ罷向ひ彼辺へ押詰候面々へ差図可仕旨被仰渡候ニ付
 畏奉存旨御請申上、陣所へ罷帰り家老小野勘解由を
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 始め各罷出しに、右上意の趣を申聞大きに悦喜候と也、干時
 勘解由申候ハ、明日御一戦の義付、私の存寄り三ツ有之、一の仕合
 にて討死、二の仕合に一番鎗、三の仕合にハ高野の住居にて候と
 申候へハ、出雲守と角の言葉も無之打うなつき居被申候由、然る
 内に夜も更候ニ付、相備の秋田城之助、真田河内、松下石見、六
 郷兵庫、浅野采女、植村主膳正なと方へ追付出勢あられ可
 然旨申遣し出雲守も支度を調えへ矢尾を打立、夜の内に四里
 及びの道を押行、夜明に至り越前家の者共の備に相並び
 備居被申候と也、其日城中諸人の考にハ寄手の面々ハ城の
 虎口前請取の場所を定めて段々と押寄、備を立堅め一戦
 の義ハ必明八日にて有へきなと申合、七日の朝迄ハ具足なと
 着し候者ハ十人の中に一人も有かなきかの躰罷有候処、関東

 の惣軍夜中より惣懸りに致し夜明候へハ野も山も軍勢
 計の如く見へ渡り候ニ付、城中俄にうとたへ騒き候、只今考候へハ
 油断千万なる事共に候と高桑七左衛門我等へ物語仕候なり
一城方真田左衛門佐義ハ茶臼山の上より取続き庚申堂の前迄
 段々と備を立る、大谷大学、渡辺内蔵助、伊木七郎右衛門、真田
 采女、福島武蔵、同伊与、吉田玄蕃、石川肥後、津田左京、結城
 権之助等真田一手の由なり、天王寺の鳥居の南にハ江原
 石見、填島玄蕃、藤堂土佐、本江右近、早川主馬、福島平三郎
 細川讃岐守、長岡与五郎等備を立る、勝曼院の前にハ郡
 主馬、野々村伊予守、其外寄合組備を立る、天王寺南門筋ハ
 毛利豊前守、浅井周防、竹田永翁等是に従ふ、毘沙門院
 の南の方にハ大野修理か一手に昨日討死致した後藤、
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 薄田、木村、山本なとの組下の敗兵等是に随ふ由也、秀頼卿
 金の瓢箪の馬印、津川左近持せ出、岡山表に立候となり、大野
 主馬一手の義ハ大組にても有之ニ付、岡山口の一の先手と
 定り、組下にてハ新宮左馬、岡田縫殿、布施伝右衛門、岡部大
 学、中瀬掃部、二ノ宮与三右衛門、御宿越前、根来三十騎なと
 各一所に備之、 将軍様の御先手へ向ひ一戦を可遂
 との心入の由なり
一大御所様より御使番衆を以て合戦を急ぎ申間敷由御触
 有之、何れも畏り候と御請被申方も有之、又存寄の赴を被申
 上候方も有之候由也、水野日向守勝成義ハ御使番衆へ向ひ、今
 日ハや巳の刻に罷成候間、早々御合戦御初させ被成御尤に候、御
 手間を取るゝ義にてハ無之候、此日向守申候旨仰上候へと被申候

 由、其後又久世三四郎、坂部三十郎、小栗又市、佐久間河内なと
 惣陣へ乗廻り、御合戦ハやまり申間敷由相触候処に、将軍
 様より安藤対馬守、佐久間将監、安藤治右衛門を以て、もハや
 合戦を初め候様にと可申付候間、左様に可被思召被仰進候付
 夫より 大御所様にも御急ぎ被遊候へ共、御旗本御大軍
 ゆへ押前埒明不申所へ又 将軍様御使番を以て、城中より
 大軍出申候間、早々御旗を詰られ候様にとの御事なり
 大御所様以の外御機嫌損じ、城中の者共不残罷出候と
 ても七万より上の人数ハ無之筈の義也、然るを大軍と申如
 くなる不調法にて 将軍の使番か勤る物かと仰られ
 事々敷御叱り被遊候と也、其節安藤対馬守被参、最早御一
 戦に被及候ても能可有御座候、 将軍様にも其思召に御座候
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 由申上候へハ、御駕籠より御出被遊、夫より御馬に被為召、尾張殿
 駿河殿へ早々御詰被遊候様にと被仰遣候由
一真田左衛門佐ハ茶臼山の上、出先の方にたゝすみ寄手の方を
 見やりて罷有候か、息男大助を呼寄、其方義ハ昨日の一戦に
 手を負候へハ、今日ハかばか敷働ハ成間敷候、其上我等思ふ子細も
 有之間、唯今之内に城中へ帰り、秀頼公の御側に罷有て
 如何にも成果可申旨申聞候へハ、此表物前にも罷成候処に城中へ
 帰可申段ハ非本意候、何分にも御手前様と一所と存究め候由を
 断り、再三に及けれハ、左衛門佐ハ大助を近く引より何事やらん
 暫くの間申含候へハ、大助ハ親の側を立退き馬に乗へき躰に
 相見へ候か、左衛門佐方を見やりてたゝすみ居候を左衛門佐ハ
 近習の者を以て急ぎ罷越候様にとの催促に付、馬を乗出し

 候か幾度共なく馬上より親の方を見帰り、夫より坂を乗
 おろし城中へ罷帰候と也、稲垣与右衛門と申者其節真田か
 手に罷有、直に見申たる由にて物語致候付、書留候なり
  右与右衛門申候ハ、大助城中へ帰るましき旨断り申候刻
  側近く引よせ申含候趣ハ何様の義に候も不承候へ共、其
  身別心なく戦死を相究候と有之義を秀頼卿へ知せ可申
  ための証人心にて大助を城中へ帰し入レ候と存る由
  物語仕候となり
一加藤左馬助、黒田筑前守長政、細川越中守忠興なと義去年
 冬御陣の節ハ江戸又ハ国元に被差置候か、今度ハ小勢に
 て御供可仕旨被仰出候ニ付、加藤、黒田一所に本多大隅守
 相備に居られ、今日も出勢の処 将軍様被為成候由にて
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 騒ぎ申すニ付、両人共御目見可申とて被罷出候処に御甲をハ不
 被為召、黒き御具足の上に山鳥の御羽織を被為召、桜野と
 申御馬に召、御歩行小従人衆へかけ二三十人計の御供廻
 にて、諸手を御見分のため御出候処へ、黒田長政ハ一の谷の甲
 左馬助ハ富士山の甲を家来に持せ御目通りへ罷出候へハ
 両人方へ御馬被向候ニ付、両人罷出左右の御馬の口に取付、昨日ハ
 城兵共足長に罷出候へ共、打漏し引取せ候段残念に存候処
 今日又たふたふと人数を出し申候、御武運に御叶被成たる御事
 に候と被申上候へハ、 将軍様御機嫌能追付に候とある上意
 にと御通り被遊候ニ付、両人衆も少の間御供被致候へハ、最早夫
 にと仰に任せ両人控へ被居候処に、本多佐渡守ハ山駕籠
 乗り渋帷子に甲計を着し、大き成渋団扇にて蠅を打払ひ

 なから御供也、 其時筑前守左馬助に向ひ、 将軍様常の御
 様子とハ替り偖々御手軽き義と被申候へハ、左馬助聞て、されハ
 の義に候、 惣してケ様の節御手軽きと有ハ御親父様以来の
 御家癖にて候と返答あられ候へハ、筑前守聞もあへず、随分
 能癖にて候との挨拶也、筑前守其辺を見廻し、我ら共義は
 此辺に相備候ても宜く候ハんか、前に沼有ていなものにて候と
 被申候へハ、左馬助返答にハ一段と此辺可然候、其元我等なとハ
 今日手に合ぬか御奉公にて候、我等次第に被致候へ被申候と
 なり
一敵味方相備て互に睨ミ合居申処に、本多出雲守手より鉄炮
 を打初め候とひとしく越前の備より七八百挺鉄炮を一
 しきり敵方へ打掛、其跡より一の手、二の手の差引もなく
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 二万に及ぶ軍勢一同に押掛けれハ、真田か一手の者も相掛
 りに打て掛る時に、忠直の舎弟伊予守忠昌自身十文字の
 鎗を取て城兵壱一人を突伏、家人に命して其首を取らせ
 被申処に城方倉流左太夫と申剣術名人の聞へある者忠
 昌を目掛て突掛り候処に、忠昌右の倉流をも鎗つけ、其
 首を取て御旗本へ持セ越し、猶又忠直の人数と同じく
 城兵と相戦ふ、此節吉田修理ハ自分家来組中を率し
 やれ死やれ死と申掛り言葉にて真先に進を見て、越前
 家の諸手の軍兵我劣らじと突掛り候を以て、流石の真田
 も手に余し、終にハ戦ひ負て悉く敗走に及び、幸村ハ越
 前家の侍西尾仁左衛門に討れ候と也、吉田修理義ハ天満の方へ
 崩れ行敵を追討に致候とて、天満川の深ミへ馬を乗入、其身

 馬共に水底に沈ミ相果候由也、忠昌ハ本多伊豆守か組中の真
 先に進ミ大手の門へ押入旗を城中へ一番に入させ被申候
 となり
  右忠昌の義其比十九歳にて 将軍様御側に御奉公故
  本多佐渡守相備に被仰付被差置候処に、六日の晩舎兄
  忠直先登の志有之由を被聞及、御本陣に於て佐渡守を
  以て願被申候ハ、私義今晩より三河守か陣所へ罷越、明七
  日御一戦の刻、彼手に於て相応の御奉公をも仕度との義ニ
  付、佐渡守其段被申上候へハ 将軍様暫くの間と角の仰
  も無御座候か、程有て其身左様に存るに於てハ心次第と
  有上意に付、其段被申渡候へハ、忠昌被申候ハ、然らハ只今
  罷出 御目見申上度候との義に付、佐渡守もはや夫にハ
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  及び申間敷と有之候へハ忠昌聞れ、いや左様にてハ無之候
  是か御暇乞に成可申も不存候と被申候へハ佐渡守大きに
  感じ尤々と被申御前へ出其段被申上候へハ早速御目見
  被仰付、夫より忠直の陣所へ馳行れ候処に、明七日先陣
  の相談申最中也、其様子を聞レ吉田修理か手に差続
  きて出勢被致、備場に於て越前家の左り備を四五十
  間計出張て別段に備居給ひ候と也、舎兄忠直の義も
  大御所様両本多への御意の趣に付、是非討死と覚悟被
  致候心底の由なり、合戦初り候少前方湯漬を給可申
  との義ニ付、真子平馬と申近習の侍膳を持居候へハ立なから
  食し玉ひて兵糧をハつかひたり、もハや餓鬼道へハ落
  ましきそ、死出の山をも心安く越て真直に閻魔の庁へ着
  
  へきぞと宣ひなから馬に乗被申候、其顔色常とハ格
  別に相見へ候由なり
一此節岡山天王寺辺に於て本多出雲守と城方毛利豊
 前守と一戦初り互に鉄炮を打合候処に豊前守か手の者 
 共懸り、鬨を揚て一度にとつと突掛り候ニ付、出雲守か侍共
 粉骨を尽し相働き候を以て毛利か手の者共ハ出雲守
 か相備秋田城介、植村主膳、松下六郷、浅野采女なとか手
 先の者共と相戦ひ、越前勢の備たる右脇の方へなたれ候
 と也、干時小笠原兵部大輔父子、保品弾正、内藤帯刀、松平
 安房、同甲斐、水谷伊勢、松平丹波、酒井左衛門、榊原遠江
 稲垣摂津各鬨をあけ一同に突て掛る、城兵浅井周防、大野
 修理か手の者、竹田永翁其外寄合組の者共相掛りニ掛り
p490
 算を乱して相戦ふ、此節小笠原兵部、同信濃守父子共に
 鎗を合せ、兵部ハ深手を負其場を引取終に相果、信濃
 守ハ討死なり、末子大学生年十八歳成しか、父兄討死と
 聞て其場へ馳付、身命を惜まず相戦ひ手疵を数ヶ所
 蒙り既に打死と相見へ候処に家来共馳付、大学をつれ退
 後に右近太夫と名乗長生候と也、此節本多出雲守も深手
 を二三ヶ所に蒙りなから左の手にて馬の鼻ねちりを引
 さけ、右の手に刀を振上ケ逃行敵を追駈候とて、溝の中へ
 倒れ手負の義なれハ起兼被申候処へ敵ハ立帰り首を取り
 て帰り候か、出雲守首をハ紅の腕ぬきにてくゝり鼻をそ
 きて田の中へ捨置候を其日の晩方、出雲守家中の又もの取  *家来の家来、陪臣
 上ケ持帰り候由、此節保科弾正なとも自身働て手疵を蒙り

 被申候となり、水谷伊勢守ハ十七歳にて出勢の処に家中の者
 共城兵に突立られ敗走仕るニ付、家老の水谷太郎左衛門伊勢守
 側へ馬を乗よせ、只今敗軍致候者共を能御覚へあられ、連々
 と御暇を可被遣、我等成とも責てハ討死可仕と申て敵の
 仲へ馳入て討死致し候となり
一岡山筋の義ハ天王寺、茶臼山両所の合戦始り候以後、加賀の
 先手本多山崎、村井伊八郎、安見右近、篠原織部等を
 始め、其外一同に鬨を揚ケ突て掛る、御旗本組にてハ水野
 隼人、青山伯耆守、松平越中守、高木主水此面々の組中、何れも
 力戦を遂る、此節岡山筋にて埋火はね上り候ニ付、各是に
 驚き色めき候を御覧被遊、 将軍様にも御自身鎗を
 とらせられ御進ミ被成候処へ、安藤対馬守一番に馳付、馬

 より飛下り、勿躰なきと申て御馬の口に取付て留被申
 然る処へ本多大隅、加藤左馬、黒田筑前馳来り御馬の廻りを
 堅め被申候となり、此節三枝平右衛門御旗の裁判見事なる
 仕形の由、城方大野主馬、同修理か手の者其外の城兵等
 暫く防ぎ戦しかとも、加賀勢の大軍に指向ひ、其上御右
 備本多豊後守、遠藤但馬守、本多越後、片桐兄弟、宮城、蒔
 田、石川なと横合に突掛りけれハ、主馬終に戦ひ負城の方へ
 引退候を、寄手の面々勝に乗、逃るを追事数十町に及ぶ、稲
 荷の前に於て城兵共踏止り相防ぎ候へ共、不叶して崩れ行
 玉造口より城内へ引入候と也、其節藤堂高虎、井伊直孝両手の
 義ハ味方本多出雲守相備の面々敗軍の躰を見掛、横合に突
 掛候処に、大野修理か手の者共ケハしく鉄炮を打掛候へ共、夫にも

 構ハす、毛利か備へ押掛突立候ニ付、豊前叶かたく引退候を
 井伊、藤堂か者共勝に乗り追行候処に、天王寺の東北に
 備へ居たる七組の勢、青木駿河、真野豊前か組下の侍共
 鎗の穂先を揃へて突掛けれハ、井伊、藤堂か者共敗軍に
 及ふ、此節安藤帯刀嫡男彦四郎討死の由、親父帯刀へハ
 此表一戦の砌世話をやき候様にとある被仰付故、諸手を馳
 廻り下知被致候処に、家人馳付彦四郎様御討死被成候、御死
 骸をハ如何可仕と相尋候へハ帯刀聞れ、犬に喰せと云捨
 て馬を乗廻り被申候由、家人共余りなる義と存候処に其晩
 方陣所へ帰被申候以後、事の外に愁傷被致候由也、右敗走の
 刻、井伊掃部頭旗奉行孕石主水、広瀬左馬両人義も討
 死致し、井桁の紋付たる茜の四半の纏も金の蠅取の馬
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 印二本共に打捨有之候を八田金十郎、菅沼郷左衛門両人にて
 取帰り、天王寺の丸山に於て家老庵原助右衛門へ相渡
 し候由なり、同時藤堂和泉守手前に於ても人数崩れ
 立候於処に、九鬼四郎兵衛と申候旗奉行能裁判して、のほり
 三本を押立場を取堅め候を以て家中の者とも何れも
 踏止り候由なり
一細川越中守義ハ天王寺毘沙門池の辺に備を立罷在候て
 城方七組の内堀田図書、真野豊前、野々村伊予守、伊東丹後
 など鉄炮を打合、其後取くさり追立追返され暫くか間
 迫合けるか、越中守戦勝て七組の面々城の方へ引退候と
 なり
一水野日向守ハ天王寺の西より船場へ相働き候処に城方明
 
 石掃部ハ大野修理方より申送る旨に随ひ、天王寺の西の岸
 陰より寄手の脇へ廻り横合に突掛るへきとの心掛にて
 押来候処に早天王寺口の城方者共戦負引入候ニ付、武略
 相違致し、明石ハ討死と覚悟を究め召連たる足軽共に
 下知して鉄炮を打掛させ、其侭馬を乗たて馳来り候に付、
 其手に向ひたる寄手方の備敗亡に及ぶ、日向守馬上にて
 乗廻り、比興の者共日向守是にあり、何れも見知りたるぞ返 *卑怯
 し候へと呼ハり候を以て踏留候者共有之、夫をも聞入ず
 逃散候者も数多有之候と也、然る処に日向守家来広田図書
 尾関佐次右衛門なと申者共立こたへ、鎗を合せ明石か手の者
 共日向守を目掛て討て掛り候処に、日向守自身突払ひ
 終に利運を得、明石掃部をハ日向守か侍汀三右衛門討取候
p493
 由也、城方の者共悉く戦ひ負城内へ逃入しも有て大方ハ
 散々に落行中にも大野主馬、同道犬、仙石宗也なと義ハ戦ひ
 未タ終さる内に立退候由なり、主馬か組下御宿越前義ハいか
 なる心にや、只一騎越前の手へ乗付、野本右近に討れ候也
 其節迄も秀頼にハ桜門に備を立、真田よりの一左右次第に
 出勢可被致と有て床机に腰をかけ居られ候処へ速見甲
 斐守天王寺表より馳帰り、城外の御合戦御味方の諸手
 共に勝利を失ひ候上ハ、御馬を被出候ても其専有間敷候、此上ハ御本
 城へ御引入様子を御覧合され御尤と申ニ付、本城へ引取被申候
 へ共誰一人狭間配りの下知仕る者も無之、各落支度計を仕
 るに付、無是非千畳敷へ取入被申候と也、七組の内郡主馬も
 乗付来り候処に、佐々弥助と申者逆心仕り大台所へ火を付

 次第に燃上候ニ付、郡主馬、真野豊前、中島式部、堀田図書
 野々村伊予、渡辺内蔵助抔ハ爰かしこに於て自殺仕候と也
 秀頼卿ハひとまつ天守へ上られ、程なく下り給ひて月見
 の矢倉より芦田曲輪の矢倉へ取入被申候と也、其節御台所
 にも御同道有之候処に、大野修理御介抱申、女中に向ひ
 て申けるハ、最早如此の次第に成申たる義に候へハ御前様にハ
 御城外へ御出被遊、 大御所様へ御願被仰上、秀頼様御父
 子の御身命御恙無御座様に御取計ひ被進可然との義ニ付、
 御供の女中も口々に、修理被申上候通りに被遊被進御尤
 に候由申ニ付、夫より城外へ御出被遊候へ共、其節大台所ハ
 焼上り城兵共うろたへ騒ぎ抜身の長道具を携へ走り
 廻り候ニ付、御供の女中を始め身を縮めてあるき兼、高石
p494
 垣の下へ寄り集り、御姫様を中に取包ミ居候処に紀州熊
 野侍に堀内主水と申者、新宮左馬助なと一所に冬陣の
 比より城中に罷有候か、右の石垣の方を見やり候へハ廿人計
 の女中の中に白地に葵の丸のちらしの付候かつきを着せ申
 たる女中方の御座候ニ付、心付主水走り寄、誰人そと尋候へハ
 是ハ関東の御姫様にて候、御用有之城外へ御出被成候まゝ
 御供被申候へとの義にて、左候ハ御供可申上とて主水御先へ
 立て人を払ひ罷出候処へ坂崎出羽守参り逢ひ御供仕り候由
 其節大野修理か家老米村権右衛門義ハ修理か側を離れず
 供仕り候処に、御台所御立退被成候以後、修理権右衛門を招き
 寄セ、其方義ハ急ぎ御台様へ追付奉り、我ら娘を以て可
 申上候、先程も申上候通り、今日の内夜中迄の間に御願の相立

 候様に可被遊候、 両御所様へ御直に御願にて事済申間
 敷候間、本多佐渡守へ御頼ミ可致仰上の由能々申上候様に
 と有之ニ付、権右衛門申候ハ只今此時節に望ミ御城外への
 御供と有ハ心外の至に候と申候へハ、修理不興致し、我等の
 申付候義を違背仕り、たとへ手前一所に相果候へハとて夫を満
 足と思ふへきか、秀頼様御父子の御助命とあるハ重き義
 に非ずやと申て叱候ニ付、夫より権右衛門走り出し大手の堀
 端に於て追付奉る処に、坂崎が人数とも女中方を取包ミ
 罷有候付、権右衛門ハ出羽守側へ立寄、其段を申候へハ、貴殿の義ハ
 兼て聞及候、急ぎ其旨を被申上可然候、幸の事に候間其方にハ
 女中方に相交り御供被致候様にと坂崎差図候由、去に依て坂
 崎ハ佐渡守陣所を聞合せ御供仕候処、茶臼山と天王寺との
p495
 間に佐渡守家来共一所に集り居候、近所に百姓の家有之
 を幸に御姫様の御座所に致し、坂崎か人数を以て四方
 を警固仕り、茶臼山へ佐渡守を呼に遣し候へハ、早速山駕
 籠に乗り来、御願の旨を承り則茶臼山に参じて被申上
 候処に 大御所様にハ御姫か願と有ハ尤の義也、秀頼父
 子を助ケ置たれハとて何程の事か有へきなれハ、将軍へ其旨
 申候へとの上意に付、則岡山の御陣営へ佐渡守被参、御姫様御
 願の赴 大御所様仰の赴共に被申上候へハ、 将軍様にハ以の
 外御機嫌悪く、謂れさる事をぬかしありかす共、秀頼と
 一所に罷有て相果ハ致さすしてと迄の仰にて御座候故、佐
 渡守承り、とかく 大御所様の思召次第に被成置レ御尤に

 御座候と申上られ直に陣所へ帰り 両御所様御聞届
 之上ハ御安堵被遊、御膳をも被召上候様にと付々の女中方
 にもしたゝめなと仕られ御伽被致候様にとの義ニ付、女中方
 何れも悦ひ候由、権右衛門義ハ爰元に誰も男きれ無之候間、其
 夜相詰居申様にと有之、其夜ハ右の百姓屋の片脇に有之
 牛部屋の内に罷有、御膳下の由にて御酒迄被下置候付、少
 の間休息のためふせり居候か、数日の辛労故か只一眠に致し
 翌日の昼前目覚め候て、修理娘に付居ける自分の娘に様子
 を相尋候へハ、間違の義有之御城内にてハ上々様方不残御
 果被遊候との義を御聞被成候て、御台様にも殊の外なる御歎
 きの由、修理娘も立出泣々被申聞候に付、権右衛門大きに
 驚き承合候へハ、城門共の義ハ昨晩方より御旗本の諸組へ
p496
 勤番被仰付、出入も不罷成候との事故、其侭御姫様の御方に
 罷有候由なり
  天樹院様大坂城中御出被遊候次第ハ右の通の訳紛れ無之
  候処、今時世間流布の旧記等にハ御未練故淀殿、秀頼卿
  なと一所に御滅亡を御厭ひ被成、城中を御落出候如く
  書記し有之候、勿論御女性様の御事にも有之候へハ、共通の
  御事にハ有之候へ共、御未練かましき義も無御座候処に、末
  代迄の人口に御掛り被成候とあるも御本意ならさる義
  なりと存るに付、我等の承り及びたる赴を此末に書付
  申候也、右申米村義主人修理娘、天樹院様へ御奉公申
  上居申候付、其身浪人にて罷有折々御座敷へ罷上り候へハ
  大坂以来御聞及ひの者故、天樹院様にも御念比に被遊

  御金、衣服等の拝領物なとも被仰付候と也、然る処修理娘
  虚労の如くなる煩を仕出し、種々養生の義御世話被遊候へ共
  聢と無之、存生の内親の寺詣なとをも仕り相果度との
  願に付、御暇被下候節、権右衛門を御呼被成、其方召連上り
  随分養生をも致し遣候様にと有之、関所手形、道中 
  雑用等をも潤沢に被下置候ニ付、自分の娘共に召連登り、種
  々保養を相遂候へ共、快気無之修理娘相果候付、都妙心寺
  にて取置火葬に仕候節、権右衛門ハ用事有方丈へ罷越候、其
  跡にて娘火葬の火の中へ飛入、棺に抱き付焼死候ニ付、灰よせ
  を致し候節、主従の骨の見分ケ無之候故、一所に仕て高野山へ
  持上り骨堂へ納め、則頭を剃り権入と名を付、京都妙
  心寺内嶺南和尚に随身致し江戸へ罷下り、芝東禅
  寺の衆寮に罷有て、寺内の掃除なと仕り罷有候処に、或日東
  海寺の沢庵和尚、嶺南和尚と同道にて浅野因幡守殿へ
  振舞に入来の節、沢庵和尚被申候ハ、御亭主にハ随分の
  人数寄に候へ共、嶺南和尚の持れ候如くなる人をハ御持
  あるましきと也、因幡守殿聞れ、夫ハ何と申者にて候やと
  尋られ候へハ沢庵和尚宣ひけるハ、大野修理か家老米村
  権右衛門と申者有之、其者修理配所への供をも相勤め関ヶ原
  合戦の刻、浮田中納言家来、高知七郎左衛門と申者を組
  打に致し、其後大坂冬陣御和談の刻、城中織田有楽
  大野修理方より物に心得候侍一人つゝ差出し候様にと
  有之、有楽方よりハ村田喜蔵、大野方よりハ米村権右衛門
  両人義、度々城中より罷出候、和談相済候前方、茶臼山

  御陣所に於て両人共に御目見被仰付刻、権右衛門義御
  前を不憚して段々の次第を言上致し退出候跡にて
  大御所様米村を殊の外成る御賞美の由、其権右衛門今程ハ
  男を止め嶺南和尚方に罷有候と也、干時因幡守殿被申候ハ
  其権右衛門ハ世間に隠れなき者にて候、拙者召抱申度候、修
  理方にての宛行をハ御存知なく候やと有之候へハ、両和尚
  共に先知ハ二百石の由聞及び候と申候へハ、因幡守殿聞れ
  然るに於てハ四百石遣し可申と也、沢庵和尚迚の義に五
  百石御やり候へかしと御申候へハ、五百石と申知行高にハ
  ちと差合申候子細も有之候間、其替りにハ足軽を預ケ、道信
  者の躰に候ハ腰刀も有之間敷候間、時分月迫にハ候へ共、当年
  の物成を不残支度料に遣し可申との義にて身上相済
p498
  因幡守殿家来と罷成、八十有余の年齢まで無病息災にて
  者頭役相勤罷有候、然る処に同家中に槇尾又兵衛と申
  者、町奉行役にて罷有候か此者義も薄田隼人正近習を
  相勤罷有候、さして武功とてハ無之候へ共、利発なる者故因
  幡殿目をかけ被仕候か、或時件の又兵衛町方の用事に付
  罷出候刻、大坂一戦の義を因幡殿被申出、落城の日天樹
  院殿城中を御出被遊候義を被相尋候処に、又兵衛承り
  世上にての取沙汰の通り淀殿秀頼と御一所に可有
  御座義を御女中様とハ申なから御不甲斐なき御事の由
  其砌より申触候由物語仕候となり、程過候て権右衛門是を
  承り大きに腹立仕り、家財諸道具迄をも悉く取片付
  其上にて申出し候ハ、、槇尾又兵衛義去ル比御前に於て

  天樹院様御噂を申上候段承り伝へ、其通りにてハ差置かた
  く候、子細ハ天樹院様城中を御出被遊候義ハ秀頼御父子
  御助命の義を御願ひ被遊候様にと有之義を修理達て
  申上候に付ての事に候処、又兵衛申上候赴に有之候てハ天樹
  院様に御悪名をとらせ申候とあるハ、修理か身に致してハ
  迷惑と申物にて候、ケ様の片田舎に於て又兵衛を相手に
  仕り御裁許に預り候てハ、世上の申訳にハ不罷成候間、私
  義ハ御暇を申請、江戸表へ罷下り公義へ相願ひ、天樹院
  様御恥辱の申訳を不仕候てハ、古主修理への私奉公相立不
  申候と申に付、家老山田監物、八島若狭も大きに難義致
  し、内証にて種々申聞候ても、米村得心不仕候ニ付、因幡殿へ
  其段申候へハ、又兵衛方へ内意有之候ハ、其方古主薄田事ハ
p499
  五月六日道明寺表に於て後藤と一所に討死の義なれハ
  隼人組下の士の義ハ城中へも引入、家来共の義ハ六日
  の晩方城中を立退候由也、然れハ天樹院殿城中より
  御出候義ハ七日の義なれハ直に可存様とてハ無之付
  定て世上一同の取沙汰の通りを聞の侭に申たるにて
  有へし、然ハ其方如在も無之義なれハ権右衛門へ其段を
  理りを申、合点致させ尤に候、同じくハ内々にて事済候様
  に有之度事に候、左様候へハ我等の為に候との義ニ付、又兵衛
  よく合点仕り、近比不調法の至り迷惑仕候との義にて権
  右衛門堪忍仕り候由也、右の次第を以て考へハ天樹院様
  御未練故城中を御出被遊候と有之説ハ大きなる相違と
  可申候也、右堀内主水義御旗本へ被召出、我ら若年の比迄
  
  無事に居られ、我ら親類水野如心斎と申者の方に於て
  切々出合致し物語なとをも承り申候、子孫今以て御
  旗本に居られ候なり
一其日 大御所様にハ茶臼山へ御陣を御移被遊候処に、中
 井大和兼て支度致し置たる切組小屋を人夫に持せ罷越
 取立可申と仕り候処に、本多上野介大和を呼れ、左様に
 手広き義ハ思召に相叶ふましきと有て被相窺候処に、九
 尺竪に二間六畳敷よりも広くハ御用に無之旨被 仰付
 其通りに押立上三畳下三畳の間をハ布交セの内幕にて張
 切、御外帯を引廻し候計の事故、早速出来候へハ其内へ被為入
 諸大名衆御目見へに罷出候ても表の三畳敷の所へ御出御逢
 被遊候と也
p500
  今時世上流布の記録の中にハ夏御陣の節、黒本尊の
  阿弥陀を御もり被遊、茶臼山御陣営の内の御持仏
  堂に被差置候由、其外奇特の事共を書記し有之候へ共
  皆以て信用致しかたき義なり、右六畳敷の御陣営
  の義ハ慥に見及び候と申者、若き節まてハ幾人も有之
  候也
一大御所様茶臼山へ御上り被遊候節、城方の者と相見へ四五
 百人一所にかたまり居申候を御覧被遊、尾張、駿河の御両
 殿へ御とりかひ可被遊との上意にて、尾張殿、駿河殿御方へ
 山上弥四郎、内藤長助両人を御使にて急ぎ御出可被成旨
 被仰遣候へ共、其内に件の城兵共退散仕、其後御両殿茶臼
 山へ御出被遊候ニ付、早速御出可被成義を御延引故、事の

 間に御逢不被成旨上意有之候処に、駿河殿御返答被成候ハ
 私共へも御先手を被仰付候へハ、手に逢申義にハ候へ共と被仰
 御残念なる御様子にて御落涙被成候付、御前に松平右
 衛門大夫居られ候か、駿河殿御方に向ひ、御前様には御若年に
 御座被成候へハ、此末幾度もケ様の義にハ御逢可被遊と被
 申候へハ、駿河殿御聞被成、やあ右衛門大夫、我等が十四歳の
 事か再び有物か、うつけ計をと被仰、右衛門大夫を御叱り被
 成候付、 大御所様駿河殿へ御向ひ被遊、其方其言分か
 則血鎗なり手に逢たるも同時なるぞと有上意にて御悦喜
 の御様躰に御見へ被成候となり
一大阪城大台所の火焼広がり千畳敷其外の家屋ともへ
 焼付、夥敷大火に有之候由、其節諸大名方にも茶臼山へ参上
p501
 御利運の義を賀し被申上候刻、小出淡路守も御目通の
 芝の上に被居を御覧被遊、淡路と被仰候へ共可被為召
 との思ひ掛も無之付、御請も無之候処に重て小出淡路と
 御高声の上意に付、淡路守御前へ伺公被申候ヘハ、大坂城中
 の方へ御指さしを被遊、あれを見よと仰有けれハ淡路守も
 大坂の方を一目ミかへりて両手をつき、近比御笑止千万なる
 御様子に候と被申上候へハ 大御所様被為聞、其方に於てハ
 左様に存る義尤なりとの上意に候と也、其御返答の次第思
 召に相叶ひ候にや、其以後ハ御懇意被遊、御鷹野の鳥なと
 拝領被仰付候由
一右同時 大御所様にハ夏目を呼候へとの上意に付、御側衆
 其段を御使番方へ被申侍候へ共夏目次郎左衛門少身の
 
 義なれハ旗、馬印なとも無之に付、何方に居可申と有心当も
 無之付、諸番頭中一所に寄集り居られ候所に於て夏目を
 被為召候か誰の組にて何方に居可申哉と尋られ候へハ、番頭
 衆の内にて手前相組にて候、我らの旗馬印ハケ様の通に候と
 の義ニ付、其所へ駆付、夏目を同道致し其段申上候へハ、則
 御前へ被召呼、以来味方か原御一戦の刻、其方親次郎左衛門
 奇特成討死を致し候とある上意を被成下候由、何れも承り
 伝へ弁へなき若き面々なとハ世話に申、藪から棒とやらん
 つかもなき上意の如く存る者も有之、又弁へ有之輩ハ御尤
 至極成御事と深く感心したる族も有之候となり
一翌八日の早朝に井伊掃部頭へ被仰付、城中芦田曲輪に罷
 有女中の内二位の局にハ御用の義有之旨、片桐市正を以て
p502
 申通し茶臼山へ被為召刻、本多上野介御前へ同道被致候へハ
 秀頼の装束ハ如何様の出立に有之やの旨御尋、其外芦田
 曲輪に取籠候男女の人数なと委細に御聞被遊、二位事ハ城中へ
 返し入申に不及旨被仰付候と也、其朝芦田郭に罷有秀頼
 付々の者共義ハ秀頼卿身命計ハ御赦しも可有之やと相
 待候へ共、何の御沙汰も無之内に井伊掃部頭、安藤対馬守両手
 の足軽とも芦田曲輪へ向ひ頻りに鉄炮を打掛候ニ付、偖ハ
 御台所の御願ひも不相叶候やと覚悟を究め、秀頼、淀殿
 を始め男女の人数三十余人自害有之候由、其姓名の義ハ
 旧記に相見へ候ニ付、略之
  此節井伊掃部頭を以て 大御所様より秀頼へ御助
  命可被成と被仰遣候有之御口上の趣意を書記し

  たる旧記等も有之、又弥御助命有之間、只今出城あられ
  候へとの義に候処に、城方速見甲斐守然るに於てハ御乗物
  一挺是を担候者共に被差越給り候様にと申候へハ、近藤石
  見、此時節左様の義ハ不罷成候、乗馬にて御出あられたる
  か能候と申候付、甲斐守腹立致し、いかに此躰に御成果
  候へハとて、秀頼、淀殿母子共に乗馬にて出られ可申様
  は無之と申て、門を指堅め淀殿、秀頼へも甲斐守自害を
  すゝめ候由の一説も有之候、事せわしき節の義に候へハ何
  れを正説共難定候、畢竟間違と申にて事済可申やと
  存る処なり
一大御所様にハ越前少将忠直の中へ打取候真田左衛門佐首を
 御覧可被遊との上意に付、西尾仁左衛門茶臼山御本陣へ
p503
 持参仕候処に御覧被遊、真田義存生の内終に御目見不
 仕もの故御見知不被遊、首持参の仁へ夫首の向ふ歯かけて
 有之かと御尋に付、口を開き見て向ふ歯かけて有之候と  *前歯、門歯
 被申上候へハ、仁左衛門方へ御向ひ被遊、勝負ハと御尋候処に
 仁左衛門とかくの御請に不及、平伏致し罷有候へハ、よき首を
 取たると上意を被成下、仁左衛門罷立候跡にて御側衆へ御
 向ひ被遊、勝負ハ不致と相見へ候と仰られ候よし、次に野本
 右近か討取候御宿越前首を御覧被遊、偖々御宿めハ年寄
 たる事やと上意にて右近方へ御向ひ被遊、勝負ハと御尋
 に付、右近申上候ハ、越前義天王寺表より只一騎の乗来り候か
 馬の側に茜の羽織を着候歩行士両人罷有を呼寄、何事
 やらん申付候へハ二人共に跡へ走り帰り申候、其後私方を見候て

 鎗を取馬より下り候処へ走り寄、鎗付申候へ共手向ハ仕不
 申候と申上候へハ、よき高名を仕り候との上意の由、右近御前
 を罷立候跡にて御側衆へ被仰候ハ、御宿めか若き時ならハ
 中々あの者なとに首を取るゝ事にてハ無之とある上意に
 候由なり
  右ハ高木伊勢守其節直に承りたると有て物語の由丸
  毛五郎右衛門方我等への雑談を以て書留候なり
  御宿若き時分御家に御奉公申上候由
一大御所様にハ秀頼生害の由を御聞被遊、御乗物に被為召
 板倉内膳正計を御供にて御穏便に茶臼山を御出被遊
 城内の焼跡御廻り被遊、京橋へ御出被成御帰路被遊候節、ケ
 様の大合戦の後ハ雨の降出る事有物なりとの上意に候へ共
p504
 其日晴天にて中々雨の降可申気色も無之処、守口辺
 より大南の風吹出、甚雨に付御供中迷惑仕、漸々淀へ
 御着駕被遊候へハ、与三右衛門殊の外に相働き、御供中へ雨具
 なとを出し、夫より二条へ御着被遊候処に、大手の御門番
 共還御と有之、御先左右なとも無之、所司代よりの申付も
 無之に付、御門を開き兼候に付、内膳心付、親父伊賀守預り
 の御門より走り入、大手の御門を開き被申ニ付、其後御城へ
 被為入候由なり、 将軍様にハ翌九日岡山を御立被遊、其日の
 晩方伏見の御城へ被為入候由なり
一二条の御城へ越前の家老両本多を被召出、今度大坂表御先
 手の義ハ加賀筑前守へ被仰付候処に、越前勢夜の内に出勢
 仕り、加賀勢を押抜候と有之ハいか成子細に有之旨言上

 可致由被仰出候と也、干時伊豆守申上候ハ、此方家中に御
 上にも御存の者にて候吉田修理と申て、大名分の者罷有
 候か一万四千石領知仕候ニ付、自分の人数も余程有之尤
 組付の侍共も有之候処に、修理いかなる所存候や、去ル
 六日の夜中、自身の一手を引纏ひ城の方へ押出し候と
 有之義を家中の者共承り及び、修理か組下の者共に先
 を越れ候てハと有之、我も我もと馳出し候ニ付、私共両人義
 も心元なく存、跡を追ひ出勢仕候故、三河守旗本計跡に残り
 留へき様も無御座候付、出勢仕候、右の次第にて家中の者共
 義ハ修理か跡に付、茶臼山の近所迄押詰申たる義に御
 座候、夜明候ての義ハ申上るに及す候、此段に於てハ後日に
 至り御尋も可有御座候間、修理存寄りの旨をも承り
p505
 届ケ可指置と私共両人申合罷有候処に、其日一戦の刻
 修理か手先にて追崩し候城方の者共天満の方へ敗
 走仕候を追討候とて、修理義ハ天満川へ乗入其身馬共に
 沈ミ相果候ニ付、何を承り可届様も無御座、近比粗忽の至り
 恐れ入奉存旨申上候へハ、其後ハ何の御尋も無御座候と也
一其比榊原遠江守家老伊藤忠兵衛世倅采女と申者直訴
 仕候ハ、去ル六日若江表一戦の刻、木村か左備木村主計か
 備、遠江守備より手寄の義故、家中の者共何れも押掛り
 討取可申旨申候処に、御旗本よりの御検使藤田能登、私
 親忠兵衛へ被申候ハ、時分を見合せ我等差図を可致旨、夫より
 内に一騎一人たり共備先へ働き出候に於てハ其方乙度たる
 へき旨、堅く被申付候を以て、親忠兵衛も其旨を相守一

 人も罷出間敷旨下知仕、押留候内に城兵裏崩仕敗走に付
 家中の者共手を空しく仕候段、偏に忠兵衛下知宜し
 からざる旨、家中一同の沙汰に及び候上ハ一分相立不申と
 存を以て、翌七日天王寺表一戦の刻、忠兵衛義多勢の
 敵中へ馳入、討死を相遂候、此段御吟味被成下度との義ニ付
 能登被召出、願人采女義も罷出候様にと有之処に、采女義ハ
 漸々十六歳に罷成候ニ付、同家中伊奈主水と申者罷上り
 藤田能登と対決に及び、主水利運に申取、能登義は
 御改易被仰付候となり
一大阪表へ出陣有之諸大名京都へ上り集り被申人ハ二条
 の御城へ被為召、 大御所様御目見被仰付候節、着座の 
 御書付を以て御目付中列座を差図有之、干時松平
p506
 伊予守忠昌にハ上総国姉ヶ崎と申所にて一万石被下置
 候節の義なれハ、表通りよりハ三番目計りも後ロに着座
 被致候由、然る処に 大御所様出御被遊、何れもへ上意の
 旨有之、各頭を下ケ居被申候後ろにて忠昌のり上り、松平
 伊予守是に罷有候と高声に被申上候へハ、 大御所様
 御覧被遊、其方義ハ自身の高名迄を相遂候とある御感の
 上意を被成下候由なり
一大坂方の落人長宗我部盛親嫡子右衛門太夫、大野道犬
 なと生捕となる、秀頼公の嫡子国松丸城中をまぬかれ
 出しを伏見に於て是を召捕誅せらる、今度大坂表一戦
 の砌、寄手方へ討取候惣首数御改の義、伊東右馬助、永田
 善右衛門留任へ被仰付候処に、一万三千五百三十余級と也

 右の内岡山表の御先手加賀利常の手へ三千余級、越前忠直の
 手へ三千六百余級となり、其外略之
一六月十六日 大御所様御参内被遊、年号をも当七月より元和元年と
 御改め被遊、天下泰平の御代と罷成候也

  子や孫の為とはかりにしなしをく
        稗ましりの落穂なれとも
  享保十二丁未歳冬至日 大道寺知足軒
                  八十九歳認之

 落穂集巻之十五大尾

  干時天保四癸巳年自夏四月二十八日至
  五月十八日、従巻之十二至巻之末四巻 以
  横田氏家蔵本於益城下郡砥用郷 柏
  川邑重見山中書写之、本書全篇直
  片仮字也、予写時換母字云爾
              中村万喜直道