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  落穂集巻之二
一元亀元年正月遠州浜松御城御普請出来ニ付、御引    *1570年
 移被遊、岡崎の御城をハ信康公へ御譲被遊
一同年春織田信長、越前の守護朝倉義景を責撃んが    *朝倉義景(1533−1573)戦国大名
 ため 家康公へ御加勢の義を被申越付、御同心被遊、同
 三月浜松より御出勢被遊、信長と同く越前の国手筒
 山の城を御攻被成、城終に陥る、同国金ケ崎の城を御攻  *福井県敦賀市
 させ被成候処に、江州小谷の城主浅井備前守逆心仕る  *浅井長政(1545−1573)北近江戦国大名
 由注進有之、信長大きに驚き給ひて金ケ崎の城を
 巻ほくし、江州へ帰陣の刻、一陣ハ信長、二陣ハ      *京都へ帰陣か
 家康公、殿りの備ハ木下藤吉郎秀吉と定め勢を
 引入、漸く若州の堺に入る比、朝倉が多勢追来りて     *若狭国、福井県
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 秀吉が勢に喰ヒ付て一戦に及ぶ、秀吉不勢たるに依之
 既に戦ひ危く見ゆるに付、 家康公御勢を帰され
 候て、秀吉が勢に御加り、御一戦の刻御自身御鉄砲を
 取らせられ、朝倉勢を御防き被遊、御家中の面々
 力戦を励まる、依之朝倉勢追打事を得ず、信長ハ朽
 木谷へ掛りて恙なく帰陣なり、是を金ケ崎の御退
 口と申て其時代より大きなる御当家の御誉れと
 沙汰仕るとなり
   右金ケ崎より信長卿引退れ候節の義ニ付、一説有
    之、或時 家康公信長卿へ御見廻被遊、御対顔の節
    末座へ壱人出座候を何人やらんと思召御座被成
    処に、信長卿御申候ハ、 家康公にハ未タ御存知有

    間敷候、あの仁ハ松永弾正と申て、世上の人の致し難き *松永久秀(1510−1577) 三好家武将
    事を三度迄致したる仁にて候、第一にハ主人三好に
    逆心を進め、公方光源印殿を攻殺させ、其後其身も    *十四代将軍足利義輝
    叉逆意を企て主人三好が家を亡し、其上南都の
    大仏殿迄焼失ひたる仁にて候と御申ニ付、松永大きに
    赤面致し迷惑至極の躰を、 家康公笑止に被思召
    御座を御立被遊、松永が側近く御居寄なされ、其許
    の義ハ兼て承り及候へ共、手前義遠国に罷有故へ
    終に面談不申候、向後の義心安く可申承などと御挨
    拶被成候て、御旅館へ御帰被遊候処に御用の義有之
    御家老衆御前へ罷出候へハ、右の次第を御咄し被遊
    信長への御言葉の品もなく、其上松永が殊の外に
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   難義致したる躰を御覧被成ニ付、大きに御難義
   被遊候とある御物語の上にて被仰候ハ、先年信長金
   ケ崎表を被引退候節、浅井が催しを以て所々方々
   に一揆起候旨相聞、信長にも難義被致、朽木谷へ懸り
   て可被引取との相談の処に、朽木とても佐々木一   *近江源氏(六角氏系統)
   家の義なれハ、浅井と一味の段も難計と有之処に
   松永弾正進ミ出信長へ申けるハ、我等義朽木が館へ *朽木元綱(1549−1632)朽木谷武将 
   馳参じ随分と相計ひ、朽木を御味方に引付可申候
   朽木同心仕候に於てハ則証人を出させ、其者を相具し
   御迎に可参候間、暫く此所に御待合御尤に候、若我
   等帰不申に於てハ松永義ハ朽木と指違相果申候
   と思召、何方へ成共御馬を被向可然候と云終之

   朽木方へ馳行、証人を出させて是を召連て罷出候に
   付て、信長疑を散じ朽木谷へ入られ候と也、若此儀
   実正にも候へハと被仰、其末の御意ハ無御座候となり
   此赴きハ古き書物等の中にても見当不申候へ共
   土井大炊頭殿御咄の由にて大野知石、我等へ物語 *土井利勝(1573−1644)江戸前期の老中
   なり
一同年六月織田信長、勢を発して浅井備前守が楯籠小
 谷・横山の両城を攻撃に依て、加勢を朝倉に乞、朝倉ハ小
 谷の援兵として、同名朝倉孫三郎に一万の勢を付て、浅井に
 加勢す、 干時信長も 家康公へ御加勢の義を被申越候
 依之五千余の御人数を被召連浜松を御出馬被成、六月
 廿六日信長の陣に御来会、翌廿七日信長の陣所に
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 於て軍評定の節、柴田・明智が両手を以て一陣とし    *柴田勝家(1522−1583)織田家武将
 家康公にハ二陣に御備へ可有旨を被申、其時       *明智光秀(1528−1582)織田家武将
 家康公被仰候ハ、我等義、柴田明智が二の手に候てハ御加
 勢として出陣致したる甲斐も無之候、浅井朝倉両敵の
 中にて何れ成共、我等請取て切崩し御目に可懸と
 被仰候へハ、信長被申候ハ、仰御最に候、浅井義ハ我等相
 当る敵の事候へハ、手前の勢を以て切崩し可申候間、其
 元にハ朝倉へ御向ひ可被成や、但其許にハ小勢にて
 御出陣の処に朝倉義ハ多勢の由相聞候間、大身の人
 数持の中にて三四人も御手ニ付可申候間、誰にても御望
 候様にとの義なり、 家康公御聞被成、我等手勢計
 にても事済候へ共、是非御加勢可有との義に候ハゝ稲葉

 一鉄をと有御望に付、稲葉一人御備へ加る、時に一鉄御陣
 営へ参上して被申候ハ、明日御一戦の刻無勢の私何の御用
 にハ相立申間敷候へ共、御先手の中に被差置被下度と也
 家康公被仰候ハ被申赴最に候へ共、其元にも被及聞候通、朝倉ハ
 多勢、我ら手前ハ少勢の義なれハ、勝利の程無覚束候間、其
 元の義二陣に控られ、我等手前の一戦危キと被及見候に
 於てハ、横鎗に突掛て朝倉勢を切崩され最に候との仰に
 依て、一鉄ハ御跡備也、偖翌朝に至り朝倉ハ御味方を小
 勢なりと見けれハ、姉川を渡りて懸り来候処に御先備
 本多・大久保・堺・榊原・松平信忠・小笠原など相掛りに懸
 て朝倉勢を切崩し、御味方の御勝利と罷成、信長の先
 手坂井・池田が両手、浅井が先手礒野丹波に戦ひ負て
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 惣敗走に及ぶ処に、浅井勢ハ利に乗て是を追来り、信
 長の旗本備色めき立て、既に危く見ゆるに付
 家康公にハ一鉄方へ御使を被遣、我ら手前の義ハ敵を
 切崩し埒を明候処、味方の一戦危き様子候ニ付、手前も
 罷向ひ候、爰ハ貴殿先手の所にて候と被仰越置に御
 先手衆へも御使を被立、御旗本の義ハ東の方に御向ひ
 有て御馬を被寄候、御先手の面々ハ今朝より骨を折たる
 者共也、弥其場を取堅め休息致し可罷有旨被仰付、偖
 一鉄が勢と同く御旗本の勢を以て横合より御懸り
 被遊を見て小谷勢も不叶して引返し候を、信長の旗本
 の勢を以て切崩し、敵余多討て勝利を被得候ニ付、信長
 大きに悦喜有之、其後御帰陣の節、信長より種々の

 珍器共を進上被申候刻、書状の文言に今度の大功挙て
 云べからず、前代比倫なく後世誰人が雄を争ん、誠に当
 家の大綱、武門の棟梁なりと書送り進上被申候と也
 此姉川御一戦の義、場所がらの義たるに依て日本国中へ
 聞へ渡り、天下の武士の口すさみと成り、家康公の
 御武勇のほどを誉メ奉り候となり
一同年八月廿八日三郎君御元服有て、岡崎次郎三郎信康
 と申奉る、浜松の御城中に於て観世宗雪に右御祝
 義の御能被仰付候となり
一元亀二年正月五日、 家康公従五位上に叙せられ、同   *1571年
 十一日侍従に被任の旨
一同三年正月十三日御出馬被遊、金谷大井川御見分あり   *1572年
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 酒井・小笠原、井呂が瀬を乗渡して嶋田河原に陣す
 武田信玄是を聞て其約を被変候と有て、殊の外に立腹有て
 近日手切レの一戦を可遂旨にて、其用意あるとなり
一同年十二月廿二日、信玄三万五千に及ぶ人数を率し、遠州味 *三方ケ原
 方原へ出張有、其前の夜浜松御城に御て軍御評定の節
 先達て尾州より参たる出勢の三人申上候ハ、武田方ハ三万
 に余る人数の由に相聞候、然るに御味方小勢を以て平場の
 御一戦と有ハ如何と存候、先御籠城被遊候に於てハ武田
 勢押寄取囲可申候、其内にハ追て罷在候尾州よりの加勢
 の者とも義も参陣可仕候、其勢を以て敵の後へ取詰候模様
 を御覧合られ、御城内の諸勢一度に突て出、敵を切崩し
 申に於てハ御利運に任せられずしてハ叶候まじき旨申上候

 得ハ 家康公被聞召被仰候ハ各被申赴キ一理なきに非ス
 然れ共信玄が人数ハ如何程にてもあれ、敵を足長に城
 下迄踏込せて、防戦をも不遂して籠城致すとあるハ
 城持たる者の本意に非ずと存間、我等義ハ城外へ押
 出し一線を遂へきにて候、然者侍足軽の一騎一人も多く
 召連レ度候間、尾州より各被罷越当城に被居こそ幸の
 義なれハ、城の義ハ何れもへ頼入と被仰候へハ、加勢の三
 人承り仰の趣御最の御事候、然るに於てハ我ら共義も
 御勢に加り罷出可申との義にて、尾州勢を合せ漸く八千
 少余の御人数を以て、大野と申所に御陣被成、信玄の
 義も始めの程ハ是非一戦との心懸に候処に、尾州より
 先達て加勢の人数も来り、猶叉追て尾州を立候人数
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 の義も既に着陣致し候と被聞候ニ付て、一戦の企を相止メ
 勢を引入へしとの赴にて、跡備等の義ハ既に山際近く
 まで引退候処に、郡内の小山田左兵衛が同心上原能登
 と申者きよいケ谷より勝負の見切を致し、其趣を申
 述る処に一々其理に相当を以、信玄同心被致其褒美心に
 小山田に其日の一番の合戦を被申付、此節鳥居四郎左衛門ハ
 物見として御旗本より御先手の備へ来り居けるが、武田
 が備立の次第を見て、御旗本へ乗返し御前へ参上して
 申上けるハ今日の御一戦の義ハ被相止御尤に候、武田方大軍
 にも有之、其上段々の備立手配の次第共に宜しく相見候
 と申上る、 家康公御腹立被遊、今日の一戦を留むるハ
 其身ハ日比に違ひ臆したるやと仰有けれハ、四郎左衛門

 承り、私の剛臆の義をハ御構ひ不被成とも勝負の善
 悪を御分別有て軍をハ可被遊候、是非御一戦との思召
 に候ハヽ、敵堀田の郷へ押行候時分を御考へあり御一戦
 を始られ可然と申上る故、渡辺半蔵も物見より罷帰り
 今日の御合戦如何の旨申上候へ共、一円御同心不被遊して
 一戦を始め候様にと御先手の面々へ被仰越に付、晩景に
 及て合戦始る也、武田方小山田ハ御味方石川伯耆守と
 相懸に掛りて一戦をハ始む、石川内、外山小作一番に鎗を
 合、酒井左衛門・榊原小兵太・大久保七郎右衛門・柴田七九郎
 など掛て山家三方、作手・段峰・長篠此三手を切崩す   *奥平氏・田峰菅沼氏・長篠菅沼氏
 山縣三郎兵衛が備をハ御旗本を以三町計追立候間、武田   
 四郎勝頼ハ山縣が二之手なるに依て、大文字の旗を押
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 立大横に入掛り、此を見て武田左馬頭・穴山梅雪も
 勝頼へ続て押懸る、信玄下知を以て小荷駄奉行甘    *甘利信康 武田家臣、長篠で戦死
 利が人数迄も悉く掛り来る、爰に於て信長よりの加
 勢平手監物も討死を遂る、浜松勢惣敗軍なり
 家康公も御引退被遊処に、武田方城伊庵弟玉虫と
 打連追掛奉るに付、御馬を引返され候処に、夏目次郎
 左衛門馳付、大将の御討死被遊場にてハ御座なく候と
 申上、御馬の口を取て浜松の方へ引向ケ、持鎗の石突
 を以て、御馬をたゝき立候ニ付御馬ハかけ出る、夏目義ハ
 此跡に残て討死を遂る、 家康公ハ戦場を御引退
 被遊、浜松の御城へ被為着西の御門より御入可被
 遊候へ共、味方敗軍付、御城内の者共御大将の御安

 否の程を気遣、周章可致と有思召を以て、わざと御堀端
 を御乗廻し被遊、玄関口より御入被遊候と也、右御一戦
 の刻御家中に於て戦死を遂る面々にハ、本多肥後守
 岩城勘ケ由父子、松平弥右衛門、加藤次郎九郎、天野藤右衛門
 青木叉四郎、渡辺十右衛門、同新九郎、中根平右衛門、成瀬
 藤蔵など申衆を始として三百余人討死也、中にも鳥居
 四郎左衛門忠広ハ物見より罷帰候刻、其方ハ日比に違ひ
 今日ハ臆したるやと御意有しを心頭に差はさみ、御先
 手石川伯耆守備へ馳行、御合戦始るや否武田方土屋
 右衛門尉が手先へ乗掛り理不尽に討死を遂、軍散じて
 後、右衛門尉ハ鳥居が指物を取寄見けるが、紺地の布に
 金を以鳥居の紋を出し、其下に鳥居四郎左衛門尉
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 忠広と書付有之候を、信玄の披見に入候へハ、名ある侍の
 差物などをハ悪くハ致さぬ物なり、向後其方家中の
 番差物に用させ候様にと信玄の差図に依て、右衛門尉が家
 中の番差物に用ひ候ニ付、唯今御当家に於ても土屋の
 家の番指物に用ひ候由なり
一天正元年四月浜松の御城に於て御家老御前へ罷出
 候節、甲府に於て武田信玄死去被致候由専ら風説仕候と
 被申上候へハ、信玄程の弓取ハ当時外に有へき共不被思召
 其上歳も未タ五十の上ハ多ハ有之間敷に死去の義実な
 れハ近比惜事也と有仰にて、夫に付段々の御意有て何
 れも感じ奉り被申候となり
一同年の秋武田勝頼、左馬頭信豊・馬場美濃両人に申付
 
 遠州金谷の台城を取立、諏訪の原の城と名付候と也
一天正二年正月五日 家康公正五位に叙せらる
一同年四月八日三河国産目と申所に於て、越前中納言秀康
 公御誕生、故有て本多作左衛門へ御預被遊、御幼名於義
 伊丸と申奉る
一同年天野宮内左衛門を御攻撃可被成と有て、犬井の城へ *犬居城 浜松市天竜区春日町
 御取詰被遊処に、連日両陣兵糧運送の障あるを以て御
 家中何れも難義仕候付、御倉の砦へ御勢を被入候処に城 *三倉城 周智郡森町三倉
 主宮内左衛門御跡を付慕ひて一戦を始む、依て御家人
 共二十余輩討死を遂、干時水野・大久保・榊原康政など
 取て返して相戦、首級余多討取、敵を追払何事なく
 御倉の要害へ御馬を被為入、此退口の節大久保七郎
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 右衛門馬より下り、此馬に乗れと云ふ、文蔵聞て、近比空  *虚け うつけ
 気たる馬の下り様をめされ候、我ら如きの首五人十人相
 果候とも何事か候へき、大将たる人の一命ハ大切の事に候
 弓矢八幡も照覧あれ乗ましと申、七郎右衛門聞て、乗度ハ
 乗れ、乗るまじきならハ心次第、我等馬をハ爰に捨置そと
 云て歩行にて行、児玉甚内文蔵を抱き乗する
 家康公右の振合を御聞被遊、強将の下に弱卒なしとの
 上意なり
一天正三年正月十五日浜松御城下御放鷹の節、井伊万千代  *1575
 を始て御覧被遊、何者の子たるの旨御尋の処、私義ハ井伊
 信濃守直満の孫、肥前守直親が子なるの由を申上るに依て
 即日被召出、後日に至り井伊谷ハ先祖の旧領たるを以て、万

 千代に被下、井伊谷三人衆を与力に被仰付、其上木俣清
 左衛門、椋原次右衛門、西郷藤左衛門三人を御付人ニ被仰付
一同月十八日天野三郎兵衛康高が下女、連歌の発句を管見候間
 披露ある、来ル廿日御鎧の賀義の節、百韻の連歌に満へ
 きの旨被仰付、其年の六月長篠の御一戦御勝利に付
 御代々毎歳の御吉例と罷成候となり
一同年五月、武田勝頼二万の勢を率し参州長篠の城を
 責る、城主奥平信富、援兵松平外記能ク守り防ぐに依て
 武田勢毎度利を失ふ、然りと云へ共城中兵糧乏く難義
 の旨、鳥居強右衛門を以て岡崎へ申上る、夫より前小栗大
 六を御使として、織田信長へ加勢の義被仰遣に依て
 信長・信忠父子五万に及ぶ軍勢を率して出馬ある
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 家康公にも信康公を御同道被成、近日御後詰可被成旨
 被仰付ニ付、強右衛門長篠の城へ立帰り忍て柵を乗越へ
 城内へ入らんとする処を武田方の侍河原弥太郎と申者、其
 夜の廻り番に当けるが、強右衛門を見付て是をいましめ、勝
 頼の本陣へ召連候処、勝頼鳥居を召出し、事の次第を
 聞て被申けるハ、長篠城中に諸侍多き中に其方一人
 身を捨て城を罷出、大切の使を首尾克勤候とあるハ、誠に
 武勇の至り、大剛の武士と申ハ其方などが事成べし、夫ニ付
 其方へ申聞する旨あり、其義を同心仕るに於てハ一命を
 助け、其上勝頼が旗本の直参となし召仕ふへきが、其旨
 に随ふへきかと也、強右衛門申けるハ、一命を御助けあるさへ
 莫大の御恩を存る処に、ましてや直参に可被召仕と有ハ

 御恩の上の御恩なれハ、たとへ何様の義たりと云共、違背仕
 間敷旨申に依て、然らハ長篠の柵近く罷越、傍輩共を
 呼出して、今度の加勢の義、織田信長同心無之に依て
 徳川殿一旗を以ての加勢ハ成難キとの趣也、然る上ハ急ぎ
 降参有て城を明渡され最の旨是を申候へとなり、鳥居
 聞て委細心得候と申に付、小手の縄をゆるし胴縄計を
 付て城際近く成行けれハ、鳥居ハ柵の木へ上り強右衛門こそ
 唯今帰りたれと呼りけれハ、待兼居たる城内の者共門の
 くゝりを開て走り出、其方ハいかにと問へハ、強右衛門答て云
 我等義ハ岡崎より今晩方帰り島原山にて日を暮し
 夜陰に紛れ城中へ帰り入へきと仕るを、夜廻り番人に
 見出され囚人の身と成たり、偖岡崎の城ハ 家康公の
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 御事ハ不及申、織田信長にも此表御加勢と有て五万余の
 勢を率し岡崎迄着陣あられ候へハ、近日爰元へ御着
 陣有へき間、此旨を相達しくれよ、と申処を柵より引
 おろし縄を掛て勝頼へかくと申けれハ、大キに腹立有之、城
 より見ゆる所に強右衛門を磔に懸る、然る処に御加勢の四
 大将方、長篠表へ御発向あり、 家康公・信康公には
 八剱山高松山に御陣被遊、信長・信忠父子ハ極楽寺山
 御堂山に陣し玉ふ也、勝頼ハ兼て鳶巣山に向城を
 構へ、武田兵庫頭に三千の兵を分ケ預て、是を守らしむが
 爰に酒井左衛門尉武略の赴信長心に応じ、加藤市
 左衛門、金森五郎八、佐藤六左衛門三人を信長より被相添
 御当家よりハ、松平主殿頭、其子家忠、本多豊後、松井

 左近将監、牧野新次郎、菅沼新八郎、松平玄蕃、西郷
 孫九郎などを左衛門尉へ御加へ被遊、右の面々間道を経て
 鳶巣山の城へ押向ふ、十二月廿二日の黎明に至り、勝頼勢
 を率て瀧沢川を渡り十三段に備を立配りて
 家康公、信長の大軍にて然も丈夫に柵を結廻し、其内に
 鉄砲足軽を立配り、其跡に兵士を立、敵勢の掛り来るを待
 玉ふ処也、勝頼は何の遠慮もなく押掛り、柵の内へ矢
 玉を放し掛、昨を破んと下知せらるゝにより、諸手の侍共に
 至るまて柵際へ詰掛ケ、我劣らじと柵木を引破り責入ん
 と仕るを、数千挺の鉄砲の筒さきを並べて打懸るに寄て
 武田方の中にハ名有者迄も悉く弓鉄砲に中つて討死を
 遂るもの数限りもなし、其後敵味方の諸手一同に合戦
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 初ると云へ共、武田方終に戦ひ負惣敗軍と成、武田方の士
 大将討死の輩にハ、山縣三郎兵衛、内藤修理、馬場美濃
 土屋右衛門、真田源太左衛門、同兵部、甘利備前、原隼人
 安中右近、望月甚八、足軽大将の中にハ横田十郎兵衛、多田
 三八、小幡叉兵衛などを始として、信玄仕ひ立の剛兵共
 悉く戦死す、其日の早朝鳶巣の城へも酒井左衛門尉
 一手の軍勢押寄不意に攻撃けるに依て、城将武田兵庫  *武田信実
 頭、三枝勘ケ由左衛門、飯尾弥四左衛門、五味与三兵衛、縄無理  *名和無理之助
 之助等を始め数百人討死す、御当家衆の中にハ松平
 主殿討死也
   右長篠一戦の義ニ付、種々の説有之中にも、さも有つ
   へきと存寄たる事共を少々沙末に書出し候

   一にハ信玄以来武田家の老職たる馬場信濃、山縣
   三郎兵衛、内藤修理、土屋右衛門など申合せ、長篠一戦
   前勝頼へ異見申候ハ、今度の御一戦の義御無用ニ罷成
   可然候、敵ハ信長 家康両旗にて六万に余る大軍
   と申、殊に御覧の通り備先にハ柵・逆茂木を構へ罷
   有処也、小勢の御味方を以ての掛り合戦と有てハ御勝利
   を得らるゝ道理一ツも無之候、大軍の上方勢御当家の
   武威に恐れ備先柵逆茂木など引廻し要人仕るを
   御勝利と被思召、此度の義ハ奥平を御助命有之、御
   勢を被引入可然と申候へ共、承引無之ニ付、手を替へ
   品を替て種々異見申ニ付、勝頼も大形同心有之、猶
   亦分別可被致との義にて、家老共退出の後、跡部大炊   *勝頼側近(1547―1582)
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   長坂釣閑両人の奸人共を呼出、家老の異見の赴を      *勝頼側近(信秋1513−1582)
   被申聞、其方共義ハ如何存候哉と被相尋候処、両人申候ハ
   御前様の思召を以て是非御一戦を可被遂と被仰出
   候儀を御家人の身として御無用に被遊可然などゝ有之
   義、信玄公の御代などにハ中々存も寄さる義に候へ共
   御前様にハ御年若にも御座被成、其上当分御跡代と
   有之を以て、少ハ軽しめ奉る心より、何れも左様の義をハ
   申上るかにて候、尤上方勢大軍の由にハ候へ共、合戦の
   勝負に於てハ人数の多少に拘ハり不申由、信玄公毎度
   御意被遊候を我々共義も承り罷有事に候、是非御一戦
   と思召被定候ハ諸士大将共を被召出、其旨被仰聞猶
   其上にも家老共御異見がましき義申上るに於ては

   御家の御誓言を御立聞せ被成候ハ、何も覚悟を相定
   申外ハ御座有間敷と申候へハ、勝頼則其旨に随ひ家
   老を呼出し、其方共異見申に付て種々勘弁致し
   見候へ共、兎角一戦を相遂候より外の了簡無之の旨
   被申渡候付、家老承り最前にも申通り明日の御
   一戦の義兎角不可能の間、此上ながら御思案あられ
   御尤もと申候へハ、勝頼気色を害せられ、各同心無之に於
   ては御旗備なくも照覧あれ、我等旗本計にても一戦
   を不遂して差置間敷と誓言を以て被申出候へハ、家
   老共も是非もなき次第と存じ其座を罷立、然る上ハ
   明日一戦の場所をも見置可申と有て士大将共各
   申合せ罷出、見分終て後四人の家老共ハ清田村と申
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   所に至り、清水のわき流れ候池のほとりにて馬より下り
   一所に集り床机に腰をかけ休ミ居ける中に、馬場
   美濃申出けるハ、明日の一戦の刻互に死生の程難計候
   各我らなど義ハ信玄公御代より一所に相勤、多年
   入魂申来候処に、ケ様に寄集り参会申あるも是を
   限りと可罷成も難計候、野合の義に候へハ、酒盛と申
   ても無之候へハ、あれ成清水を汲寄セ今生の名残の盃を
   取かハし候てハ如何と有之候へハ、三人共に一段可然との
   返答故、馬場ハ家来に申付、柄杓を以て清水を汲寄セ
   腰にはさみたる水呑を以、我ら心見を可致とて一盃
   引請呑候へハ、残る三人も是を呑、其後あなたこなたと
   指つさゝれ候となり、是を其時代より武田家に於て

   清田表の水酒盛とハ申伝へ候となり、主人へ対し忠
   言を尽し、其事の行ハれざるを以て討死とある覚
   悟を極め同志の者共も水酒盛を致して今生の名残
   を惜ミ申とある心底ハ叉世に類ひ多かるへき事にハ
   非ずと存るを以、爰にかきとめ候
   二ツにハ右一戦の刻、山縣義ハ 家康公の御備先へ
   掛り候処に、信長卿より差図被申柵木を丈夫に被仰付
   候ニ付、是を引崩し不申候候てハ一戦難成を以て、武田
   勢柵際へ詰懸ケ初の程ハ押倒すへき仕形を致し候へ共
   柵木之根入深く倒れ不申に付、刀脇指を以て切破り
   押入へきとて我も??と柵際へ寄集候故、味方討を
   厭ひ方の鉄砲をハ放し候義不罷成、 家康公
p45
   には兼て御下知被遊、諸手の鉄砲を悉く柵内に御配り
   被成御使番衆を以て被仰付候ハ、大久保治右衛門手の
   鉄砲を打放候を相図に、柵の木の根際を目当に致し
   諸手一同に入替ニて放し掛候様にとの御下知に付、武田
   勢柵を切破り頓て可押入と仕候比ほひにても御味方
   の足軽共ハ膝台に鉄砲を乗セ待構へ罷有処に、治右
   衛門手先より鉄砲を打出し候とひとしく、諸手の足軽
   共雨のふる如く打懸候ニ付、柵際に於て手負死人数
   限りも無之処、山縣、広瀬郷左衛門を招きて、味方の
   人数をハ川原へ押出し、正楽寺の瀬より敵の左へ
   廻り 家康の旗本へ押懸ケ一戦を可遂と申越
   広瀬聞て一段可然とハ申候へ共、山縣が手の者共も

   四方へ散り、殊の外無勢に候処に山縣ハ馬上にてまとむ
   る采牌を打振候へハ、流石ハ山縣が手のもの共程有之
   時の間に三四百計ハ馳集るニ付、其勢を率して河原
   の方へ乗出すへきと仕候処、大久保手先より放し
   懸ケ候鉄砲、山縣が右の手に当り候付、采牌を左の手へ
   持替候へハ叉左の手へも鉄砲中り候にや、後にハ采牌
   口にくわへて猶も馳廻り候処に、三度目の鉄砲山形
   が乗鞍の前輪をかけて下腹を打貫れ候ニ付、采
   牌をくわへながら馬より落て相果しとなり、
   田家に於て大身の家老共数輩有之候へ共、山
   縣が事ハ 家康公にも只ものに非ずと被思召候にや、一
   とせ本多百介男子を儲け候へ共かたわに生れ付
p46
   殊の外悔ミ候由御側衆被申上候ヘハ、夫ハ如何様のかた
   わに候ぞと御尋の刻、大きなる口の由に御座候と
   被申上候へハ、夫ハ一段の義也、信玄家老の山縣ハ大キ
   なるいくちの由御聞及被遊候処に、山縣が魂移出
   当家譜代の百助が子に生れ来候と有ハ重畳の義
   なれハ、随分大切に致しもりそだて候様にと父百
   助に能々申聞候へと被仰候と也、次にハ石川伯耆守義
   御家を立退キ秀吉卿へ随身被致候年の翌年霜月
   六日とやらんに、御旗本を始め御家中一同に、唯今
   迄用ひ来る御家の御軍法一式の義、向後ハ悉く
   信玄流に遊し替られ候間、左様に相心得可申旨被仰
   渡候となり、其節の義にも有之候や、井伊直政へ御預ケ

   被成置候山縣同心の侍共御前へ被召出御直に被仰付
   候ハ、直政一手の義ハ向後赤備に被成、御先手を可被
   仰付の間、直政義山縣に相劣ざる如くに何も申合せ
   取立候様にと被仰付の由、然れハ山縣義ハ御惜み被遊
   たると有に紛ハ無御座候、左様の山縣など有て、右討

   死の次第、末代武士の頭を仕る侍の手本共可罷成
   義と存書留申候
   三にハ馬場美濃守事ハ柵際に於て手の者共悉く討
   死を遂ケ、或ハ手負と成て崩立候ニ付、無是非小口際を
   引退き、小山の上にあがり千島鎌の持鎗を杖に突キ
   敵方をハ後になし、味方敗軍の方を打詠め罷有処へ
   真田兵部来て山の下に馬を留、夫に見へるハ馬場
p47
   殿にて候やと詞を懸る、馬場聞て美濃にて候、貴殿にハ
   如何と答けれハ、兵部聞て兄源太左衛門義ハ引退候と
   承候故、手前も罷退候処に兄が乗行の馬を引返し候 
   付、其口付の者に相尋候へハ、源太左衛門義ハ討死仕候と
   申ニ付、今朝出勢の砌、討死を遂るに於てハ兄弟一所と
   申合候付、是まで引返し来候、若其元にハ源太左衛門
   討死の場をハ知玉ハずやと申ニ付、馬場申ハ、源太殿討
   死の場と有之ハ頓て柵際近き所にての事に候、其
   辺へハ最早上方勢入込可申の間、御越にハ及間敷候
   我ら義も此所に於て討死と覚悟致し罷有事に候
   間、一所に可申合との返答に依て、兵部義も馬場が側
   に立並び罷有処に、上方勢追々馳来候ニ付、兵部は最

   期を急ぎ、馬場殿ハ何をか見合せ玉ふやと詞を懸ケ
   候へハ、馬場聞て、今少待給へと申けるが、暫く有て美
   濃申ハ、唯今勝頼にハ猿橋を御渡り候、最早心易候
   と申て、鎗を取直して山より下り討死を相遂候と也
   世間に於てハ、日比主人の目かけに預りて身上をも取
   立られ出頭並びなきを以て、鷺を鳶と申争ひて
   も、其者の申義なれハ、其旨に随ひ給ふ如く有て、厚恩
   不浅主人にてもあれ、事の落目に望候てハ、日比の志を
   変じ、身構を致して主人の難義をよそにミなす類
   の者も間々有之事にて候処に、此馬場など義ハ主人
   勝頼の為忠言を尽すと云へ共、□将たるを以て信用
   無之ニ付、君はつかしめらるゝ時ハ臣死すとある古人の
p48
   言葉をかまへて討死の覚悟を極めたる上に於ても
   猶亦主君の行衛を気遣ひ、勝頼の猿橋を越し給ふ
   を見届て、案堵致して後討死を遂候とあるハ尤忠義
   の至りにして、世にたぐひ多かるへき事とハ不被存候、依之
   爰に書留申ものなり
   四ツにハ右一戦の砌、武田家の一家老高坂弾正義ハ上    *高坂昌信(1527−1578)
   杉家の押へとして、信州海津の城に残り居候が、長篠      *松代城 長野県松代市松代
   表の義を心元なく存、留守中の義をハ小幡山城に能々     *山城守虎盛(1491−1561)
   申付候て、川中嶋を出勢致し候処に、長篠表に於て勝
   頼一戦に利を失ハれ味方惣敗軍の由を聞て、小高
   場と申所に宿陣致し勝頼の義ハ不及申、侍中に
   至る迄不残料理を申付、馳走の支度を致して相待候処

   勝頼着陣被致候へハ弾正待迎、恙なく御帰陣目出
   度と申て、先に立て座鋪へ案内申所、勝頼弾正へ
   被申候ハ、今度長篠表に於て我等思案違なる一戦に
   及び、おくれを取のミに非ず、信玄公大切に被成候家老
   侍大将共悉く討死をハさせ候付、我らも討死可致覚悟
   の処に、穴山梅雪達て異見申され候ニ付、無是非其旨に
   任せ帰陣して其方などに向ひ面目次第も無之旨被申
   候へハ弾正承り、先其義をハ被差置御膳を被召上可然と
   申して罷立、いつに違ひ弾正自身立めくりて馳走致し
   饗応終て後勝頼、弾正を呼出され先程も荒増申
   聞候、返すがえす我等不思案故謂れざる一戦に及び敗軍
   是非に不及旨被申候へハ弾正承り、其許様にハ御年若
p49
   にも御座被成候へハ是非御一戦と有思召に御座候共、左様の
   時の為家老と相備り罷有面々申合、達て御異見不申
   上候へてハ成不申候処に、御前の御心任せに致し置段
   不届の至りに存る旨申候へハ、勝頼宣ひけるハ、いや??
   左様にてハ無之家老共義も無益の一戦と存付候と相見へ
   手を替品を替三度に及び一戦の義を差留候へ共、其
   意に任せす候ハ偏に我らのあやまりにて、家老共の科に
   非ざる由にて、右家老共の申達候異見の趣を委細に雑談
   あられけれハ、弾正承り、左様の御物語を承り候てハ猶以
   家老共の分別違ひと拙者ハ存候、如何となれハ迚も御
   勝利に不罷成御一戦と相考候に於てハ、外の侍大将共
   迄も召連候へて御前へ罷出、明日の御一戦の義ハ何れの

   道にも不可然候間、此上ながら御思案あられ可然旨一応も
   二応も申上、猶其上にも御承引無之候ハ、各御前に並居罷
   有て切腹仕相果可申事に候、然るに於てハ御前御一人
   是非御一戦と被思召候共、御先手を仕候士大将も無之ての
   御一戦も御成り被成間敷ニ付、先今度ハ御馬を入らるゝ外
   の義ハ有之間敷候、然ハ御人数を損じ可申様も無之ニ付
   重て叉何様の思召立も被成よき事に候処、返す??も家老共
   の分別違ひ残念之至りに候と申談て後、右討死を遂候
   者共義ハ信玄公御代より我ら一所に相勤、多年入魂仕
   候ニ付、不便の次第に存候と申双眼に泪をうかめ候二付、勝頼
   にも落涙に被及候と也、此等の趣は横田次郎兵衛殿宅に
   於て、小幡勘兵衛殿御申聞を我らも其席に罷有承り     *景憲(1572−1663)兵学者

p50
   候趣を以て書留申候
一同年六月  家康公浜松を御出馬被遊、遠州二俣の城  *1575年
 を御攻被成候処に、城主朝比奈弥兵衛打て出、御味方松平
 彦九郎を討取、時に内藤弥次右衛門弓を以て弥兵衛を射
 倒す、弥兵衛が弟朝比奈弥蔵、弥次衛門に打て掛る、弥次
 右衛門二の矢を以弥蔵を射殺す、城兵共引入んとする所
 を桜井庄之助追付、敵を突伏セ門際にて首を取て立
 帰る所に桜井が赤根の指物城門に掛りたる、其僕今若
 是を見て主人桜井に知らせけれハ、早速取て返し右の指
 物を取て帰る、干時 家康公には鳥羽山の上より是を
 御覧被遊、庄之介働を御感被成候と也、其翌日二俣の城主
 依田方より内藤が射る処の矢に札を付て、賞美の詞を  *依田信蕃

 書添へ石川日向守家成が方へ送るに依て、其趣を申上る処に
 家康公、弥次右衛門が射術武勇兼備るの旨御感の仰有之
 御胴服を被下候となり
一同年武田方朝比奈叉太郎が楯籠る光明の城を責させ  *高明城 
 らる、本多・榊原の両手の勢先鋒に進み二天門に攻登て
 大に戦ふ、城主朝比奈防ぐ事を得ずして城を渡し去に
 依て御馬を入させらる
一同年七月叉御馬を被為出、遠州諏訪原の城を責させらる
 城将今福丹波、諸賀・小泉等堅く守り戦ふ、干時鳥居   *室賀
 彦右衛門先鋒に進み戦ふ処に、城中より放す鉄砲に腹を
 打抜れ馬上にたまり兼候処、従士杉浦藤八と云者よく
 元忠を助け退く、其後城兵力尽て籠城叶わず、三将
p51
 城を捨去り同国小山の城へ退候、夫より諏訪の腹の名を
 御改被遊、向後牧野の城と可申旨被仰出、御馬を被
 為入、則当城ハ敵城近く其上境目たるに依て不意に

 敵の相窺ふべき地也、誰をか番手に可差置との御意の
 下より松井左近将監忠次進ミ出、苦しかるまじきと有
 思召に於てハ私義当城に相残り可申旨被申上
 家康公甚御感悦被遊、忠次を以御城代に被仰付、則
 御一字を被下、是より周防守康親と申候也
一同年九月牧野の城へ御出馬被遊、武田方小山の城を御攻
 撃可被成哉の旨御評義の処、酒井左衛門尉被申上候ハ、小山
 の城の義ハ要害の地にも有之候へハ、たとへ落城に及び候共
 御手間をとられ申にて可有御座候、然る所へ大軍を以後

 詰被致に於てハ、其時宜に依り御勢を御引取被遊様なる義
 も無御座候てハ不叶候、左様の刻御道筋険難多して不宜
 候間、先今度ハ御延引被遊御尤に候と也、干時周防守被申
 上候ハ、勝頼義去ル長篠合戦に於て、古老の者共多討死
 致し夫より武威衰へ候へハ、手強き後詰などと有義は
 存も寄ず候間、小山表へ御進発被遊候ても苦しかる間敷
 やと被申候を御同心被遊、則御馬を出され小山の城を御攻
 討セ被成候、此節石川伯耆・松平周防・本多平八・松平善四郎
 同叉八郎など各先鋒に進て力戦あり、然る処に武田
 勝頼二万余の勢を率し大井川の辺へ出勢の旨注進有
 之間、依之小山の城の囲を御解セ被成、牧野の城へ御馬
 を可被為入と有之処に、勝頼大軍以て近々と出張の
p52
 義なれハ御味方の諸人如何と存候処に、榊原康政・大須賀
 康高両人、爰ハ我々御先手可致と有て勢を押出し
 各戦ひを持て押行れ候、其備の厳整なるを見て、武田
 勢追討事不罷成候と也、其節迄ハ御旗本の御先へハ信
 康公、御跡より 家康公御引取被遊候処に、信康公の
 御人数を悉く道脇へ御片付被成、御自身にも御馬をひ
 かへられ御座候ニ付、 家康公より被仰遣けるハ、何とて夫
 に御控へ被成候ぞ、御先へ御引取御尤の由也、信康公被仰上
 候ハ、只今迄敵前近く候ニ付、御先へ罷立候、最早敵前も跡に
 成候へハ先御先へ御馬を被為入候様にとの御返答候処、叉
 御使者被立、敵前の遠近にハ御構なく只今迄の通りに御
 馬を被進候様にと御使者被申上候へハ、信康公御聞被成御

 使の者に仰有けるハ、其方共が身にとりても心得有へき
 義也、未タ敵前近き所にて親を跡に置子の身として
 先へ退るゝものか、此事幾度仰有候共、左様にハ仕間敷
 旨申上候様にとの仰に付、其通りを在躰に被申上候へハ
 家康公御聞被遊、偖々情のこハき奴が有ものかなとハ
 仰有けれ共、さのミ御腹立の御様躰にも不被為見して
 牧野の城へ御入被遊候とのなり
一天正四年犬井へ御馬を被為出、楢山の城を御攻抜被遊  *樽山砦
 夫より直に勝坂の城へ御取掛被成御攻被遊処に、城主   * 天竜区春日町鹿ケ鼻
 天野宮内左衛門、塩見坂の陣に有之防ぎ戦ふにより
 御味方の先鋒聊か利を失ひ、大原大助、大浜平左
 衛門等討死を遂る、其時水野忠重・大久保忠世
p53
 頻に攻戦ふに依て城兵等防ぎ守る事不叶、城将天野
 城を捨て遁れ出、鹿鼻の城に籠、依之御馬を被為入
一今年 家康公岡崎の御城へ被為入、干時 信康公   *1576年
 より本多作左衛門方へ御内意有之に依て、産目より於
 義伊君をいざなひ奉り岡崎の御城へ罷出候処に、信康
 公御差図を以て御座の間の御障子をたゝかせ申けれハ
 家康公御聞被遊、あの障子をたゝくハ誰ぞと御尋の時
 信康公御座を御立被成、次野間へ御出有之於義伊君
 を御抱き被成、御前へ御出有て、是ハ私の弟於義丸にて *後の結城秀康
 御座候と御申上被成候へハ、 家康公是へと被仰、御抱き
 被成御膝の上に被差置、よき生れ付にて候と被仰候得ハ
 信康公、仰の如く丈夫なる生付ニ御座候、此者息災にて

 成人仕候ハ、私のよき力にて候と被仰上候へハ、家康公にも
 御機嫌克暫く御寵愛被遊、来国光の御脇指を被進候
 となり、是よりして岡崎ハ不及申、浜松御城下に於ても
 於義伊丸様と申て諸人尊敬仕候となり
一天正五年八月、遠州へ御馬を被為出、山梨表へ御働被遊所 *1577年
 に穴山梅雪是を防と云へ共、御味方の諸勢攻撃事急な
 るがゆへに、梅雪終に戦ひ負ケ引退候に依て御馬を被為
 入
一今年十二月十日比従四位下に叙セられ、同廿九日左近衛
 権少将に任セらる
一天正六年三月浜松を御出勢被遊、駿州田中の城を御攻   *1578年
 撃被遊、酒井与九郎・内藤勘左衛門・熊谷小市郎・小栗叉
p54
 市此四人の面々御下知なきに、忍びて城壁に付候を兼
 て城外に伏置候敵兵等急に起立て突掛候所に、右四人の
 者共粉骨を尽して相戦ひ終に其敵を城中へ追入、比
 類なき働を致すと云へ共、御下知なきに抜懸を致し御軍
 法を背き申段、御尊慮に不相叶、四人共に御勘気を蒙
 る、其翌日御味方の諸勢田中の城の外部を攻破り敵を
 余多討取る、依之牧野の城へ御馬を被為入、右御勘気の
 四人の義ハ夫より三ヵ年を過、各御免被遊候となり、同月
 十三日越後謙信春日山城中に於て死去の由御聞に達し *上杉謙信
 候処に、武田信玄死去被致し跡にてハ謙信程に弓矢を
 取まハす人もなかりしにと有仰にて御惜ミ被遊候となり
一天正七年四月七日 秀忠公浜松の御城にて御誕生    *1579年


 被遊、土井甚三郎七歳の時初て御付被遊
一同年九月十五日三河守信康公、遠州二俣の城内に於て御
 生害、御息女御両人有之小笠原兵部大輔秀政、本多
 美濃守忠政へ御縁嫁なり
   右信康公御生害の義ニ付、我等若き時分去老人の物
   語を承りたる事有之、遠州二俣に於て信康公御生
   害被仰付刻、浜松より御検使として渡辺半蔵、天方
   山城守に御目付衆を被差添被遣候節、御科の品々
   立書に被仰付候て両人持来致し差上候へハ、信康公
   御拝見の上にて両人へ被仰聞候ハ、最早ケ様に被仰出
   候上に於て申分ケがましき義など可申上にてハ無之候へ共
   其方なども能々分別致し身可申也、子の身として親へ
p55
   対し謀叛逆心などと有てハ人倫の作法に非ず、然るに
   我等義武田勝頼に心を合せ、当城中へ武田勢を
   引入レ、逆心の企に及候との一ケ条に於てハ、日本国中
   の神慮をかけ一向の虚言にして跡形も無之義なれハ
   此一事に於てハ我等死後に此趣を能々御聞に達
   申訳を致くれよと被仰候へハ、両人承り委細奉畏候
   其段に於てハ御心安可被思召候、たとへ我々共大殿様
   の御機嫌を損じ何分に被仰付候ても、只今被仰聞候
   御遺言の一通りに於てハ御聞済被遊候様に仕り
   差上可申旨両人堅く御請申上候へハ、信康公御満
   悦の旨被仰、外に今一ツ其方共へ頼置義有之、当城
   下に於ても浄土一宗の寺有之由に候へ共、願くハ引

   導焼書の義をハ、大樹寺の方丈へ御頼被成度と思召
   候由被仰候へハ、両人承り何より以て安き御事に御
   座候、其外も何によらず両人に被仰置候様にと申上
   候へハ、最早思召残さる義も無之との仰にて、渡辺に
   被仰聞候ハ、其方事ハ我等幼少の時分より名染の
   義なれハ、介錯の義を其方へ頼ぞとある仰に付
   半蔵奉畏候と申て御次の間へ罷立、自分の刀を
   持て出、腰わきに差置候を御覧有て御肌を脱セら
   れ、いさぎ能御切腹被成、半蔵半蔵と被仰候へ共、半蔵
   義ハ御肌を脱セられ候を見るや否や大きに振ひ出
   前後の弁へも無之仕合を山城守見兼候て、半蔵義ハ
   あの通りに御座候、定て御苦痛可被遊候間御免に
056
   於てハ乍恐私御介錯可申上やと伺ひ候へハ、其方頼ぞ
   と仰に付、無是非山城守御介錯申上被差添候、御目
   付中の内一人御注進として浜松へ返し、両人義ハ
   暫相残、御葬送の義迄を沙汰し終て後浜松へ
   帰、登城仕候て両人共に罷出、委細の義申上候、次に
   御逆心と有之一ヶ条の義に於てハ御誓言を以て
   被仰置候御遺言の趣、両人御請の次第に涙を流
   しながら申上けれハ、  家康公にハ兎角の御意も無
   御座、御前伺公の面々各涙を流し候中に、榊原
   康政、本多平八郎両人ハ御前にこらへ兼声を
   揚て啼出し被罷立候ニ付、御次に相詰候面々迄も
   暫く落涙に及び被申候となり、其後御側衆を以て

   今度山城守二俣表へさして罷越候脇差の銘の義御
   尋有之処、千子村正作の由申上候へハ、 家康公被
   聞召、御前伺公の面々へ被仰渡候ハ、以前尾州森山に *守山城攻撃中
   於て安倍孫七郎乱心仕り清康公を殺害致した      *松平清康 家康祖父早速
   るも村正が作の刀の由被及聞召、叉 家康公御年
   若き時分、駿河富ケ崎に於て小刀にて御手を被
   為切、殊の外御痛被成たる事有つるもい、此小刀の銘も
   千子村正と有之、今度山城守不存寄信康公の
   御介錯を遂たるとあるも右同作に候へハ、必竟村正が   *畢竟
   作の打物ハ御当家に対し不吉とも思召候間、千子が
   作の打物類をハ悉く取捨候様にと御納戸方の役人
   中へ被仰渡候と也、偖叉右の天方山城守御家を立
p57
   去、行衛を存さる人無之候候の処、程過候て紀州高野山
   に閑居仕罷有との風聞有之、日比天方と睦敷傍輩
   も中、有馬入湯の御暇を願罷登、序に高野山に
   尋行、天方に出会して、其方義ハ何様の存念を以て
   浜松をハ立退候と尋けれハ、天方申候ハ、各にも被及聞
   候通、遠州二俣に於て存かけも無之御若年なる
   信康公を我ら手に掛まいらせ候より、何とやらん世の
   中あちきなく罷成、御奉公迚も心に染不、依之
   如此の躰に罷成たると申儀、追々言葉を尽して
   問尋けるに付て、天方申けるハ、今更申ても不入義と
   存る間、必々以て他言ハ無用也、我御家を立退候儀別
   の子細に非ず、先年信康公御生害の砌、御介錯の

   義を渡辺半蔵へ御頼候処に、御切腹の期に至て半
   蔵大きに振ひ出し御介錯申上候義不罷成、信康
   公にハ御腹をめされ候之上の義なれハ、御苦痛被成候
   も御痛ましく見兼候て、我等御意を伺て御介
   錯申たる事に候、然るに或時、 殿様御近習衆へ御雑
   談の節、渡辺事ハ鎗半蔵と呼れたる程の武辺もの
   なれ共、主の子の首を切る時に望てハ腰を抜したると
   有仰を伝へ承る、然れハ此山城義ハ主の子の首切り好キ
   の様に思召入られ候かと存付候へハ、御奉公と申ても入らざる
   事と思ひ究め、ケ様の躰には成たると語候となり、若
   ケ様の義などを御聞及有て不便の仕合と思召候にや
   結城秀康公、関ヶ原御陣以後、越前一国御拝領の
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   後、高野山より天方を被召寄、高禄を下され召仕
   候と也、然れ共年来隔りたる事に候へハ虚実の段ハ
   難計候へ共、我等承り及びたる趣を書記申処なり
一天正八年正月従四位上に御昇進          *1580年
一同年五月駿州へ御出馬被成、田中の城を御攻させ被成 *静岡県藤枝市
 城将芦田右衛門佐守防す、御味方の勢をして田中城
 外の麦作を薙キ払候様にと被仰付御馬を被為入所に
 同国用宗の城主向井伊賀が勢御跡備、石川伯耆守  *静岡区用宗城町
 が人数を喰留打て懸る、干時伯耆守を初め酒井河内
 守、松平周防守、牧野右馬丞、平岩七之介、内藤弥次右衛門
 鈴木紀伊守等取て返し敵兵八十余人討取
一同年九月松平家忠、牧野康成等をして用宗の城を

 攻撃せしむ、城主向井・三浦等戦死す     *武田家臣向井正重、三浦義鏡
一天正九年の春遠州天神の城落去す、当城義ハ何とぞ
 御攻取被成度と有思召を以て、去年以来遠三両国の勢
 を以て御攻被成候へとも、城兵等能守防を以て落兼申
 に付、御味方の諸勢へ被仰付候ハ必以力攻不可致、城を
 取囲ミ面々陣所を能取堅め、城中より夜討夜軍などを
 仕掛られざる様に用心を致して数日を経るに於てハ城中
 兵糧に詰て降参仕るか、叉ハ一方を打破りて切抜んとす
 るか、此二ツの外ハ有まし、若叉当城の援兵として勝頼出
 勢に於てハ、我等も其中途へ出向て武田勢を可切崩間、各
 心永く存、城と取囲ミ罷有候へと有御差図の通り、城中の
 兵糧、漸々尽果候ニ付、籠城成兼候段甲府へ申遣し候得共
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 勝頼の後詰延引に付、城兵気を屈して各申合せ、一方の
 囲を切抜城を遁れ可出と相議して、三月廿二日の夜半に
 及て城門を開き、石川長門守が寄場瀧が谷へ切て出、御
 味方の諸勢にてハ兼てより此変をこそ相待居ける事なれハ
 早速取合せ敵を瀧が谷へ追入レ悉く討取、残る輩をハ城
 中へ追返し、其勢ひに乗り諸方の寄手四方より一同に
 攻入けれハ、城兵とも戦ひ労れ、城将岡部丹波を始め諸卒
 不残打死す、其節信長よりも御加勢として、佐々内鞍助
 野々山三十郎両人来りて、当城の寄手の中に加り罷有ける
 右両人方より信長へ申送る書状にハ、天神籠城の兵
 士n首七百余級是を討取の旨書付遣し候と也、右城兵の中
 にて横田甚五郎唯一人御味方大須賀康、大久保忠世

 両手の間の柵を破、何事なく甲州へ引退て勝頼の前へ出て
 申けるハ、天神の城兵共徳川家康大軍に取囲れ、其上兵糧
 とほしく籠城叶がたく、城中の者共残りなく討死を遂候と申
 けれハ、勝頼もとかくの詞もなく赤面致されけるが、横田儀敵の
 囲の中を切抜罷帰候段神妙の由を被申、時の褒美として
 脇差を給り候へハ、甚五郎ハ是を手にも取ずして申けるハ、私義
 とても城兵共一同に打死不仕して相叶不申義に候へ共、左様有
 之候てハ、天神表の義を御聞可被遊様も無之ニ付、罷帰候
 武士たる者死場を遁れ首尾よく逃帰り候と有ての御褒
 美を拝領可仕様迚ハ無御座候間、恐れながら返上仕と申て終に
 不申請候となり、是等の趣を御聴に達し候にや、其翌年
 甲府に於て信玄衆数輩被召出候節、一条右衛門太夫屋
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 鋪に御座被成、夜陰に及び右の浪人共御前へ被召出、初て
 御目見被仰付候刻、横田甚五郎と有、御披露を御聞被遊
 御前に有之つる手燭を御自身御取被遊、甚五郎傍へ御
 立寄被成、去年天神落去の節、其方年ハいくつにて
 有しと御尋候となり

   天保三壬辰年閏十一月五日写之   中村直道

 落穂集巻之二終