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   落穂集巻三
一天正十年の春信州木曽左馬頭義昌、武田勝頼に背き  *西暦1582年
 織田信長の旗下と成るを以て、信長信忠父子甲信の両   *織田信忠(1555-1582)
 国に兵を発して武田家を追討へきと有て、近国の諸大将
 と被申合、駿河口の義 家康公三万五千にて御向ひ
 被遊、関東筋の義ハ北條氏政氏直父子三万余の勢にて被向
 飛騨口よりハ金森五郎八長近三千余の人数を以押入、木
 曽口へハ織田信忠五万余にて向ハる、信長の旗本ハ七万余
 の勢にて惣軍の跡より押入るへきと有之処に、信州下条
 伊豆か旗下に下条九兵衛と申者逆心仕り、信長へ志を通し
 濃州岩村の城代河尻肥前守軍勢を国中へ引入、信州
 伊奈の城を信忠へ引渡しけれハ、夫より武田家の諸勢
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 力を落し勝頼を背き織田家へ降参の者多く罷成、同茲
 家康公にも二月十八日浜松を御進発被遊、駿州田中の
 城を御取懸被遊の処、城主芦田右衛門佐和を乞たるに依
 て大久保七郎右衛門を以城を御請取せなされ、夫より同国
 真国寺の城へ御馬を被為向候処に、城主朝比奈駿河守
 降参致して城を明渡す、同国江尻の城主穴山陸奥
 守入道梅雪、是ハ余程の勢を以て楯籠罷有候を、御旗
 本長坂血鎗九郎を城中へ遣され、何とぞ相謀り見可
 申旨被仰付候処、梅雪長坂が異見に同して御味方と成
 則チ江尻の城を明渡したるに依て駿河一国に有之
 武田方の城々不残御当家の御手に入を以て、三月九日
 駿河を御出馬被遊、穴山梅雪を御案内者と被成、文殊堂

 市川口より甲州へ入せらる、同十一日に甲府へ御着陣被遊
 信忠へ御対面被成候、夫より前武田勝頼ハ軍勢共日々に
 落失セけれハ、甲州にもたまり兼十方を失ひ被居候処に信
 州上田の城主真田安房守方より使を以て、早々我等
 方へ被相越最に候、然るに於てハ身命に掛て御馳走可申
 旨申越候付、勝頼の義ハ左も可被致心底に有之処、其節
 迄ハ長坂釣閑跡部大炊助両奸人共付添罷有候時の義
 なれハ、種々に申妨ケ真田方へハ不被相越、郡内の小山田
 義ハ武田家代々の家老筋目の者の義なれハ、よもやとある
 頼 を以て郡内へ落行れける処に、小山田一向同心不仕
 剰へ足軽の兵を出し弓鉄砲を打掛ケ寄セ付不申に付て
 夫より天目山の麓田野村と申所へ落行百姓の家に
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 籠り居らるとの趣に付、滝川左近川尻肥前両手の者共田
 野村へ押入終に勝頼・信勝父子を討取、其首を甲府へ
 送りけれハ信忠より葉原助六・関嘉平次と申侍を差添
 信長へ持せ差越候処に、信長にハ勝頼の首を庭上に差
 置、親父信玄以来種々の悪事を云立悪口被申、此首
 家康へも見セ申様にと有之付、両使の者 家康公の御陣
 所へ持参仕候処に、勝頼の首をくきやうに載せ候様に被
 仰付、首対面の御取扱にて御覧被遊信長へ御返答被仰
 出候へハ、両人の使者申候ハ、私共義ハ是より直に此首を京
 都に持参仕候と申上るニ付、御返答無之、偖信長にハ上の
 諏訪に滞留あられ候内に関東筋所々の仕置を被申付
 駿河国一国 家康公へ進し被申、今度幸の義に候間

 富士見物として東海道を罷登るへきと御申に付、駿・
 遠・三ケ国の御領分所々に御て御馳走有之ニ付、其支
 度不斜、道橋掃除等の義ハ小栗仁右衛門、浅井六之助
 両人へ被仰付、信長安土へ帰城あられ候、以後ハ月初め
 家康公にも浜松を御発駕被遊、穴山梅雪を御同道にて
 安土へ御越被遊候へハ、信長にも殊の外悦喜あられ種々の
 御馳走あり、同廿一日梅雪を被召連安土を御立被成御
 上京被遊、直に堺の浦御見物として御下向被遊、南北の
 商家の者共方古来より持伝へたる珍器なと御取集め
 梅雪ハ田舎人の義たるを以て披見被致候様にと有て御
 逗留の所に、六月二日丹波国亀山の城主明智日向守光秀 *光秀〔1528-1582)
 義羽柴筑前守秀吉、毛利家と対陣の場所へ出発として
p63
 中国へ下らるゝと披露して軍勢を催し亀山の城を     *亀山城 京都府亀山市荒塚
 出て桂川を渡るころほひに至り俄に逆心の旨を申触て
 信長の宿寺本能寺へ取懸ケ急ニ攻撃候ニ付、当番の面々
 大きに周章して防ぎ戦ふと云へ共不相叶、信長四十
 九歳にて生害有之に付、明智義ハ直に二条新宮へ押寄セ
 城介信忠へも腹を切らせ候の旨追々注進有之に付
 家康公にハ堺より直に御上洛有之明智を御討果し
 被遊度との思含に御座候へ共、至て御人数少く、其上明智
 同意の面々有無ともに相知れ不申義なれハ、卒爾の御上
 京も如何と有之御思慮の処に、江州瀬田の城主山岡
 兄弟馳参して達て御進め申ニ付、山岡を御案内者と
 なされ伊賀越へを被遊岡崎へ御帰城被遊、近日御上京

 被成、明智を御退治可被遊との仰出されにて御陣触
 駿・遠・参三ヶ国に御勢を御催し被遊、酒井左衛門尉忠次
 を先鋒と可被遊旨仰渡さる、忠次にハ手勢組中を召
 連尾州の津嶋まて出張致さる処に、羽柴秀吉の許より
 家康公へ使者を以被申上候ハ、今度山崎表に於て明智と
 一戦に及び忽勝利被得、反逆の輩残り無ク討果し上方筋
 平均に罷成候間御心易被思召御出勢に不及候との義ニ付、御
 先手衆の義も津嶋より帰陣候となり
 右信長在世の内上の諏訪に於て勝頼領地の分をハ
 何れもへ割あたへられ候節、西上野の義ハ一円に滝川一益
 に給る厩橋の城に可罷有の旨被申渡、甲州半国をハ川
 尻肥前に与へ被申との義なり、其節信長 家康公へ *川尻肥前守〔1527-1582)
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 被申候ハ甲州の義ハ駿河へ取続き御領並の義にも候へハ
 川尻に御心を被添遣され候様にて有て、直に種々被申たる
 義に候へハ、信長横死と有に付てハ肥前守力を落し
 可申と有思召を以、本多百助を甲府へ被遣肥前守諸
 事の相談相手にも罷成可遣旨仰含られ、川尻方へ被
 遣候処に、肥前守心には 家康公の御表裏と存知違へ
 或夜児小姓に申付て百介が寝首をかゝせるに依て  *本多百助(1535-1582)
 本多が家来共大きに憤り、百姓の家へ寄集り主人
 を殺され生て返りたれハとて御助け置るゝ義にても有
 間敷義なれハ、川尻が宅へ押込切死に致すへし、然共主
 人の敵川尻を打漏してハ口惜き義なりと申を、武田
 家の浪人一人二人と聞及び件の家へ来り集て彼是

 と相談に及けるが、程なく一揆を起し川尻が家を取囲ミ
 早速攻破て川尻を始め従卒共に悉く討殺して中にも
 肥前守をハ甲州武川衆の内三井十右衛門是を討取候
 旨本多か家人共に使者を差添へ浜松へ御注進を申上るニ付
 家康公甚御感悦被遊、其後岡部次郎右衛門・成瀬吉
 右衛門両人に芦田右衛門佐を被相添、甲州へ被遣其以
 後段々と甲州への御手遣ひ初り候となり、其頃滝川
 左近将監一益義も上州厩橋の城に罷有処に信長横  *滝川一益(1525-1586)
 死の旨伝聞て大きに驚き力を落して関東を討捨
 上方へ可罷登との所存の由之聞へ有之旨、氏政氏直 *北條氏真(1562-1591)
 父子の内出勢あられ最の由新田の由良信濃守其外の
 上州衆・武州忍の成田なと方より小田原へ注進申ニ付、氏政 北條氏政(1538-1590)
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 氏直父子三万余の勢を率し厩橋表へ出勢ある、滝川
 も流石の者なれハ北條家の大軍を事ともせず厩橋の *厩橋城 群馬県前橋市
 城より討て出、小田原勢に向て快く一戦を遂るといへ共
 小勢の義なれハ終に戦ひ負、厩橋の城へ引取、其後笛
 吹峠へ掛り木曽路を経て上方へ罷登候ニ付、其跡西上野
 武田領の義ハミな悉く北條家の持分と罷成、其後氏直
 は西上野の人数を合せ四万余の軍勢を以笛吹峠を
 越し信州へ働入、芦田・真田を始として信州侍を悉く
 味方と成し、五万に及ぶ勢を率して川中島へ出張の
 處に、越後の上杉景勝も信州へ馬を出し善光寺辺に
 逗留あり犀川を隔て対陣なり、干時北條家の一
 門家老の面々、氏真へ異見申けるハ、小田原より手寄の

 甲州をハ被差置、爰元に於て上杉家と御対陣と有は
 詮なき事に候との趣氏直同心有之早速勢を引入レ、夫より
 直に甲州へ押入り若神子表に於て七月末より霜月迄
 五ヶ月の間 家康公と氏直の対陣なり、夫よりさき甲州
 浪人中より浜松へ御注進申上候ハ、北條氏直にハ此節信州
 表へ出勢有之処に親父氏政ハ小田原に居残り、相州三板
 の城へ人数を籠置キ甲州黒駒辺への手遣ひ専に候間
 片時も早く御馬を出され度とある願ひに依て浜松を
 御出馬被遊、其比ハ古府中に御座被遊候処へ氏直出勢の
 由御注進ニ付、新府中へ御馬を被寄、夫よりの御対陣なり
 然る所に或時 家康公より朝比奈弥太郎を御使にて
 北條美濃守氏規方へ御書を以て被仰越候ハ、当国の  *氏政異母弟 家康と親交
p66
 義ハ駿河へ取続き、手寄の義にも有之間、手前よりの
 支配に可致候、西上野武田の旧領を相添へ上野一国ハ一
 円に北條家より支配あられ最に候、此旨氏直得心あら
 れ候に於てハ向後和睦を相遂、来春に至り親父氏政にハ
 隠居あられ、氏直家督致され候ハヽ手前の娘を以て氏直へ
 嫁せしめ、幸ひ隣国の義にも有之上ハ万端ニ付無他事
 可被仰合旨委細の御書面を披見致し、氏直を始め北
 條一家の面々、家老共迄も一段可然との相談に窮り
 被仰越趣、氏直にハ其意を得られ候間、早速小田原へ申
 達し、氏政よりの返答次第に美濃守新府の御陣所へ
 罷越可申上の旨氏規方より御返答申上、氏直近習の侍
 遠山新四郎を以て小田原へ申遣候処、氏政も同心致され

 候へ共決断の談儀相済府申、使者新四郎小田原に逗留仕
 る内に漸々寒気に赴候ニ付、山手に陣取たる信州先方の
 侍共小屋普請を初め冬支度を仕り候旨 家康公の
 御聴に達し、以の外に御腹立被遊、或日の早天に北条家
 一の先手大道寺駿河陣所へ朝比奈弥太郎馬を乗懸ケ *大道寺政繁(1533-1590)
 来て先日も掛御目候弥太郎にて候、家康よりの使に参
 たると申ニ付、駿河陣屋へ呼入候へハ、弥太郎駿河に向ひ
 家康被申候ハ、先比和平の義申談、小田原よりの一左右
 次第に美濃守参陣可被致との返答ニ付、数日相待居
 られ候へ共、其義無之此間に至りてハ諸陣共小屋普請
 の躰に相見へ候、然れハ和談可有との返答ハ実義に非ず
 定て時節を延んための謀計たるへし、時分柄□陣候てハ
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 互に人馬の懸引も成ましき間、今日中ニ一戦を遂くるへ
 きと有る義を以て、手切レの使に罷越候と有之ニ付、駿河守
 驚き入て申けるハ、 家康公の御腹立被成候ハ御最至極
 の御事に候、然れ共氏直心底に於てハ最前美濃守方より
 御返答申上候と只今以て聊も相違無御座候、いつれの道に
 も美濃守へ御直談nあられ最に候と申候へハ、弥太郎聞て
 其義をも 家康我等へ被申付候、誰に依らす先陣の衆中へ
 申達し早々可罷帰旨被申付候故、当陣へ罷越貴殿へ直談
 申す上ハ美濃殿へ対談申に不及と有て座を立しを漸々に
 申留候て駿河義ハ氏直の本陣へ馳行、右の次第を申
 達けれハ氏直を始め何れも大きに驚き、然るに於てハ美濃
 にハ新府の御陣へ参られ、何分にも無事を相調られ可

 然と有相談に一決して証人の為、駿河守嫡子大導寺
 孫九郎を美濃守同道致し、朝比奈弥太郎を案内者と
 して新府へ馳行ク道すから、榊原小平太、大須賀五郎左衛門
 土井豊後此三備ハ若神子の上の山手へ押上り御左備
 酒井左衛門尉、石川伯耆守、本多平八郎此三手ハ組衆共に
 北條方上野衆並に信州佐久小縣衆へさし向ひ、はや
 手毎の物見をかけ合戦を待て備を押出す、其両陣の
 中を弥太郎ハ氏規・直繁を同道して罷通るを見て左
 右の備々より使を馳て事の次第を聞届候後ハ暫く
 備を押留候内に三人共に新府の御陣所へ乗付て、弥太郎
 御本陣へ参上して右の次第を申上るに依て早速美濃
 守を被召出候付、氏規罷出先達て被仰越候御和睦の御請
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 延引の次第を一々申上、不調法の至り迷惑仕旨申上候へハ
 家康公御聞被遊、左様の間違ハ無クて不叶と有仰にて御機
 嫌能御笑被遊、此上ハ御一戦にも不被及の間、御先手の面々
 義も人数を引入可申由被仰出、孫九郎義をも被召出御目
 見被仰付、偖美濃守義若年の節ハ北條助五郎と申
 親父氏康の方より駿河今川義元の方へ証人として被
 相越、其比 家康公にも 竹千代君と申奉り駿河富ケ
 崎と申所に御屋敷並にて御座被成、朝夕の様に御出
 会被成候ニ付、其節の義なと被仰出、御雑談の上美濃守
 孫九郎御弁当の御料理を被下置、美濃守御暇申上候へハ
 其元当陣へ被参直談の上ハ証人まてに不及義に候間、孫
 九郎を召連帰られ候へと仰有けれハ、美濃守承り、いや

 左様にてハ無御座候、ケ様の義ハ幾重にも手堅く仕たるか能
 御座候、氏直にも左様に被申付候間、御手前に被差置被下
 度旨申上候へハ、然るに於てハ孫九郎引替とし此方よりハ
 酒井左衛門尉せかれ小五郎を其元へ可被遣と思召候へ共
 今日ハはや晩日にも及候間、明朝可被遣との仰を美濃
 守承り、此方よりの御証人にハ及申間敷候へ共、夫共に可
 被遣と有思召に御座候者氏直にハ必す明朝此表を引
 払、帰陣可被致の間、小田原へ帰城の以後彼地へ被遣
 候様被遊可被下候旨申上、氏規ハ罷帰る、其跡にて榊原
 小平太、鳥居彦右衛門両人を被為召、氏直より証人孫
 九郎義ハ来年三月迄ハ両人へ御預被成候、其内彦右衛門
 義ハ当国に居残り申義なれハ孫九郎をハ何方に差
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 置可申と存候やと御尋被遊候へハ、元忠御請被申候ハ
 当国とても未だ聢と御手に入たると申にても無御座候
 得ハ外に差置可申心当も無御座候へハ、私手前に差置申
 外の義ハ御座有間敷旨御返答申上られ候へハ、重て被
 仰候ハ、人にハ頓死頓病なとゝ有義もなくてハ不叶ケ様の
 節人質と有ハ大切の義なれハ外に置所を思案致し
 見候様にと仰有けれハ、元忠ハ外に差置申所とてハ存
 寄無御座候となり、干時 家康公にハ御笑被遊、究意の
 置所の有を其方ハ心付ざるか、孫九郎をハ富士の根方へ
 遣し富士の社人共へ預置候へ、富士の社家共の義ハ関東に
 旦那を多く持義なれハ、北條家の家老の子を疎略
 にハ致すましきそ、我等幼少の時子細有て尾州へと
 
 らハれと成たる義有、其節織田弾正我か手前にハ置
 すして、同国勢田へ遣し社人共へ預け置しなりと
 仰有けれハ、元忠承り御最至極の御事と申と其翌日
 孫九郎を同道して富士の根方勝山村へ罷越、小佐
 野越後と申社人頭へ預け置て罷帰り明日三月に
 至り西の郡御姫君様、北條氏直への御婚礼相済候
 以後、榊原小平太・鳥居彦右衛門・水野藤十郎三人勝
 山村へ行て社人共方より孫九郎を請取、相州三坂の
 城へ同道して北條美濃守に相渡候と也
  右甲州を御手に入させられ候節ハ、黒駒表に於て
  北條左衛門佐相州上坂の城より甲州へ働入候を
  鳥居彦右衛門御味方を申候甲州衆と申合て馳
p70
  向ひ一戦を相遂、敵の首三百余を討取勝利を得ら
  れ候より外ニハ若神子表に於て氏直を百日余り
  御対陣と申迄にて事済、甲斐の国一円に御領
  知に罷成と有之ハ猶更の御手柄と其砌より世
  上に於て取沙汰仕候となり
一天正十二年尾州信雄卿の家臣津川玄蕃、岡田長門 *織田信雄〔1558-1630〕信長二男
 守、浅井多宮此三人の義、秀吉へ心を寄せ逆意の企 *西暦1584年
 有之旨、信雄卿へ告知する者有之に依て、信雄卿腹立
 あられ右三人の者共を勢州長島の城中に於て成敗
 被申付、依之信雄卿と秀吉卿と中悪く罷成、尾
 州へ参向て織田家を切たやすへしと有之ニ付、信長
 の取立に預り立身致せし諸大名の方へ信雄卿より

 出勢の義を頼ミ越るゝと云へ共、時の勢ひに付て誰一人
 同心の族無之に付、今度一大事の義ハ 家康公の御救ひ
 に預り不申候てハと有之ひたすらの頼に付 家康公
 被仰にハ、秀吉今天下を握る勢ひ有といへとも、本ハ
 信長の厚恩なるに、たとへ天下をこそ奪ひ候とも、信雄
 事ハ正しき主君たるを一切に攻亡すへきと有企ハ武
 道の本意に非ず、我等事ハさして信長の厚恩に預り
 たると云にハあらざれ共日比心易く申合せし間柄の
 義なれハ、其子息信雄を見放し申義とてハ致す間
 敷の間、いつによらす秀吉出勢と有に於てハ早速馬
 を出し見届可進の間、少も御気遣ひ有間敷との御
 返事を被遊、夫より尾州御出陣の御備定有之処
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 参遠駿甲四カ国の御勢に信濃衆を合せ候へハ惣人数
 堅三万五千余も有之候へとも、上杉景勝の押へとして
 信濃衆ハ大方主人無之、北條氏直の義ハ近き御縁
 者に候へとも親父氏政の表裏を御気遣ひ被遊、駿河国
 所々へ御勢を残され、其外参遠甲の三ヶ国の御留守居
 とても是亦丈夫に被仰付、依之諸人の積りの外御人数
 の引方多く、漸々一万五千余の御勢を以御出陣被遊候
 となり
一其比尾州犬山の城にハ信雄卿より中川勘右衛門を被籠 *犬山城 愛知県犬山市北
 置候処、勘右衛門ハ同国□の城の番手に居たる其留守を
 ねらゐ秀吉卿の味方として池田勝入三月十三日犬    *池田勝入(恒興1536-1584)
 山へ押寄、即時にしろを乗取、勝入犬山の城へ入代り

 弥秀吉方の色を立て所々を放火仕る旨 家康公
 被聞召、信長厚恩の勝入にハ不似合不届の至りなれハ
 何とて勝入を御討取被成度と有て、小牧より御自身      *小牧山城 小牧市小牧
 御馬を被為出候処に勝入ハ早速犬山の城へ引入、依之
 十六日より犬山表へ御人数を被差向処に羽黒の八幡
 なとに森武蔵守・尾藤甚右衛門陣取罷有て御味方の   *森長可(1558-1584)
 勢に向て鉄砲を放し掛る、奥平九八郎・酒井左衛門
 松平紀伊守此三手よりも鉄砲を打掛て鎗前いたき遠
 き所に武蔵守か備より使武者と覚しくて一騎
 乗出し候処に御味方の鉄砲にて是を打落す、是を
 見て敵の備少色めく処を、奥平九八郎千余りの手
 制にて即時に川を乗越し、武蔵守か三千計の勢と
p72
 一戦に及ふ、武蔵守不叶して羽黒の内へ引入候を奥平が
 勢進ミ掛り犬山近所迄追討を仕る、敵方野呂助左
 衛門・同助三郎父子返し合せて討死を致す、奥平に
 差続く御味方の勢押掛るを見て、犬山城外に張
 出したる勝入父子か人数、福葉伊予守・右京父子か備と
 もに段々に引入候を 家康公御覧被遊、御使番衆を以
 深働を無用に致し早々勢を引揚可申旨被仰越に依て
 御先手の面々追留の鬨を揚て引取るなり
一其比秀吉にハ大阪に出勢有へきとの処に、紀州根来近辺
 の一揆 家康公・信雄卿に志を通し、所々に蜂起仕るに
 依て暫く出勢延引有之処に、泉州岸和田の城主中村
 式部少輔一戦をとけ勝利を得るに付、一揆退散致し
 
 此上ハ気遣ひなし迚三月廿三日、拾二万余の軍勢を率し
 大阪を立て、同廿七日犬山の城へ入る、兼て秀吉の心にハ
 小牧山を本陣とし其近辺を諸軍勢の陣場と可被致
 と存候処に 家康公先達て小牧山を御見立有て信
 雄卿一所に御陣取被遊ニ付、秀吉卿の軍勢ハ尾口楽田
 近辺に陣を取敷、小牧山へ向て土居を築き柵を付て
 我等下知なき内に誰によらず一戦を遂候に於てハ曲事
 たるへき旨諸陣へ堅く被申渡候となり、其比 家康公にハ
 信雄卿と御相談被遊、蟹清水外山村・宇多津村に取土の
 城を御築せ、就中岡崎への通路の為と有て小幡の古
 城をも御取立被遊、本多豊後守・甲州穴山衆穂坂常陸
 抔を番手に被仰付となり
p73
一四月五日池田勝入犬山城へ来り秀吉へ申候ハ、信雄卿を討
 亡し給ふへき事ハ何様にも心安き義に候へ共 家康の
 加勢と有之を以諸事被成にくき事共に候、就夫某此間
 相考見申候処 家康公にも上杉・北條の両家を気遣ひ
 甲信駿三ヶ国の城々にハ人数を残され、参遠両国の勢と
 旗本計を以て此表へ出張あられ候分、慥に承り届候
 間、留守の義ハ定て不勢たるへきの間、不意に人数を被遣
 岡崎の城を御責させ候に於てハ 家康公にハ此表の勢を
 引入、岡崎へ可被帰候事必定に候、其址に於て小牧の陣所へ
 御取掛候者信雄卿を御討取被成候ハいと心安き義候と申
 候へハ、秀吉卿大きに得心致され岡崎発向の義ハ勝入心
 次第たるへき旨是を被申、森武蔵・堀久太郎両人を勝入に *堀秀政(1553-1590)

 相添、胴勢にハ三好孫七郎秀次を被申付、都合其勢五万 *三好秀次(1568-1595)
 余の軍勢を以岡崎の城を攻撃へきと有て楽田を出
 勢す、勝入ハ先陣するに依て六日の亥の刻より打立、翌
 巳の刻に至りて篠木柄井へ着陣して、九日に参州へ
 発向可致となり、然る処に篠木村の郷人共方より其
 趣を 家康公へ御知らせ申上るニ付、小牧には酒井左衛門
 尉、松平主殿、石川伯耆守、酒井与四郎等を御留守居に
 仰付られ 家康公にハ岡部弥次郎、榊原小平太、大    *榊原康政〔1548-1606)
 須賀五郎左衛門、水野惣兵衛、本多彦次郎、井伊万千代
 六手合て四千二百余の勢を召連られ八日の未の刻に至り
 小牧山を御立被成、御路次中の義ハ御旗をもしほり長道
 具抔を横たへ、穏便に御人数をも押し可申旨被仰渡
p74
 小幡の城へ御入被遊、本多豊後守に外聞の侍十人計御  *小幡城 名古屋市守山区西城
 付被成、龍泉寺辺へ被差越、敵勢南の方へ押行と見るに
 於てハ早速御注進可申上旨被仰含候処に、豊後守早
 速馳参り敵勢引も不切南の法へ押行候と申上るニ付、小
 幡の城を御出馬なり、池田勝入ハ八日の亥の刻より篠
 木を出勢して、丹羽勘介か居城へ取懸ケ伊木清兵衛
 片桐藩右衛門両人を先鋒として平攻に責入る、城主勘
 介義ハ小牧に有て舎弟次朗介備共に七人計にて籠り
 居ける義なれハ暫く相戦ふと云へ共不叶して次郎介を
 始め従卒悉く討死を遂る、勝入ハ事始めよしと大キに
 悦ひ猶亦岡崎へ寄んとす、同九日秀次ハ池田、森、堀
 三人を先勢として偏に岡崎へと計心さし、何心なく押

 行処に御味方六手の衆、秀次旗本の前備田中久兵衛
 手へ押懸て散々に切崩す、中にも榊原小平太、丹羽勘助
 両手を以て逃る敵を追詰急に切掛りしかハ、秀次の旗本
 見崩して悉く大敗軍となり、秀次ハ長久手の堤へ
 懸り漸く引退れ候由、干時池田父子、森武蔵、堀久太郎
 なとハ旗本に軍あり共しらず候処に秀次敗軍致され
 候ニ付、其落武者五騎三騎宛先手へ逃加るに付、三人共に
 大きに驚き各川を前に当備を立まうけて、堀久太郎
 大音を揚ケ、今日の軍ハ旗本か先手なり、敵来らハ間
 近く引請て一度に鉄砲を打へしと下知をなす、御味方
 の勢ハ逃る敵を追行処に堀か備の堅固なるを見て少し
 差支るを見て久太郎真先に進み責戦ふ、爰に於て
p75
 御味方の勢も少々討死ある中にも、本多彦次郎康重
 身命を惜ます戦て七ヶ所の疵を蒙る、久太郎ハ猶も
 味方をいさめて進ミ来る処に、井伊万千代(干時19歳)人数を
 率して長久手の山へ上り、敵を目の下に見おろして
 鉄砲をきひしく打懸るに付、堀か勢進む事を得す、森武蔵ハ
 自身鎗を取て、続けや者共と下知して掛り来りけるか
 万千代備より放し掛る鉄砲武蔵か眉間に中り馬より
 落る処へ本多八蔵走り依て首を取る、是に依て森か
 勢ハ敗走に及ぶ、池田勝入父子ハ手勢を下知して井伊か
 手へ討て掛らんとする処に、岩崎山の峰つゝきより朝
 日のかゝやく如く金の扇子の御馬印を差上たりけれハ
 すはや徳川殿よと云程こそあれ、池田勢見崩して悉く

 敗走す、然れ共勝入ハ少も驚かす、床机に腰をかけ居ける
 処へ永井伝八郎(干時廿二歳)勝入を突伏せ首を取る、勝入か
 嫡子紀伊守をハ安藤彦兵衛是を討て首を得たり、此
 一戦に克人父子、森武蔵なと討死致し、秀次も敗軍の
 よし楽田へ聞へけれハ、、秀吉以の外の不興にて 家康
 軍に勝ほこり居られ候処を馳散してくれんと広言にて
 金の瓢の馬印を押立、早速駆出玉ふニ付、我劣らしと馳付
 軍勢雲霞の如くにて龍泉寺表へ着陣あり、所の者共に*龍泉寺城 名古屋市守山区竜泉寺
 委細を尋られ候処に、 徳川殿にハ昼の一戦終り候と其侭
 小幡の要害へ御取籠候と申ニ付、然るに於てハ小幡の城へ
 取掛らるへきと有之候を、福葉伊予守日もはや晩に及び味
 方の御勢も楽田より馳参じ疲れたる義に候へハ、今日ハ
p76
 御延引可然と達て諌め申ニ付、然らハ明日の義と有て瀧
 泉寺の河原に野陣を取て其夜を明され候処に 家康公
 にハ其夜中小幡の城を御引払被遊、小牧山の御陣所へ御
 帰被遊候ニ付、秀吉卿にも其翌日楽田へ勢を入られ候と也、其
 後六月十三日秀吉卿犬山の城を引払帰陣あられ候故 *楽田城 犬山市楽田
 家康公にも小牧山をハ御引取被遊けれとも、秀吉方楽田
 二重堀の土手の内にハ上方勢相残り罷有に付、小牧山の
 御陣所にも御人数を御残し置被成候へ共。双方共に対陣
 と申計にて互に足軽を掛合と申様なる義も無之て事済
 候となり、其頃 家康公にハ尾州蟹江の城へ御働の義 *愛知県海部郡蟹江町蟹江本町城
 有之、其子細ハ滝川左近将監一益義、信長他界ましますに
 付関東より馳登る、羽柴筑前守、柴田修理なとゝ相倶に *柴田勝家(1522-1583)

 信長の御跡相続の義を取持候処に段々の様子有之
 後にハ羽柴、柴田の両家中悪く成、取合と罷成候刻
 滝川ハ柴田と一味仕る処に勝家ハ志津ケ御嶽の一戦に
 かけまけ、越前北の庄の城に於て自殺致しけれハ、滝川力
 を落し秀吉へ降参を乞、信長より給りたる北伊勢五
 郡を秀吉へ相渡し身命を助りたる迄の仕合にて、漸
 五千石計の所を領知して罷有けるか、今度信雄卿へ
 楯をつき秀吉への忠節に可致とある思案をめくらし申
 尾州蟹江の城主前田与一郎を語らひ、九鬼右馬丞喜隆
 と同船して六月十六日の夜蟹江の城へ取籠る
 家康公にハ折節清須に御座被成此儀を御聞被遊哉否
 御出馬被遊、蟹江の城へ御向ひ被成ニ付、井伊万千代
p77
 大須賀五郎左衛門、榊原小平太なと一番に馳付、海手の
 方を取堅め候ニ付、城内へ入をくれたる敵共ハ船の中より
 御味方の勢に向て鉄砲を放し掛ケ候へとも、間合遠く候
 故何の用にも立不申、干時城兵共二三十人計門を開きて
 駈出、御味方の勢と突合しか、不叶して引入る処に岡
 部弥二郎か手の者共、滝川一益か甥長兵衛を生捕に
 致し御前へ引出しけるを 家康公御覧被遊、既に生
 捕に致し候へハ、しハり首を切より外の義ハ有間敷、然るに
 於てハ滝川か家の名をりなれハ、一命を助け縄を解キ
 刀脇差道具迄をも返しあたへて、城中へ放し入候様にと
 被仰出けれハ、長兵衛感涙を流し忝と申て城中へ立帰
 伯父の一益に逢て右の次第を語りけれハ、一益聞て
 
 家康公の御仁情の程を感じ申けるか、忽ち心を変し
 城中の前田与一郎を殺害致し、其首を 家康公へ
 差上、其身ハ長兵衛を召連、城を出て越前の国五分一と
 申所へ罷越候と也
  右長久手御一戦の義に付てハ其説々幾通りも相聞へ
  候へ共、百四十年も過去り候以前の事と申、其時代の正記
  録なと申義も無之候へハ、慥に何れを実説とも可申様
  とてハ無之候へ共、先有増一通りの次第ハ右の趣に相
  聞へ候、右の御一戦に付て我等承り及たる実説なと
  をも猶叉些末に少々書加へ申候、虚実の段ハ右申通
  にて候へハ不存候
  一にハ長久手御一戦まへ、秀吉卿にハ先手の面々籠り
p78
  罷有候二重堀の要害へ犬山の城より被相越候を小牧
  山の見へ候矢倉へ上り居玉ひて、高山右近を呼出し
  被申候ハ、明日明後日の間に是非一戦を遂勝負を決
  へきと思ふに付、 家康方へ書状を以我等十二万
  五千の人数を段々に立て、備の後にハ土居堀を構へ
  味方の諸勢一足も不引退覚悟を以一戦を可遂の
  旨、其許にハ其心得あられ候へと可申遣となり、常任
  承り是ハ御無用に被成可然候、迚も 家康諾くなる  *諾く うべなく
  御返答ハ被致間敷候、然るに於てハ御せき被成、無理なる
  御一戦を被遂御負可被成候必定に候と申けれハ、秀吉卿
  聞玉ひて、譬 家康如何様の返答を被致候とて夫に
  せきて無理なる一戦を遂て負へき子細ハと有て増田

  右衛門尉に申付られ、右の通りの文言にて書状を調へ
  竹の先江結び付、 細川与一郎(干時十八才)を呼出し此状を
  持行 家康陣城の大手先に当り是より見ゆる小   *細川忠興(1563-1646)
  山の上に立置帰り候へと御申の時、高山右近、与一郎に
  申けるハ、其方殿様の御為を被存に於てハ其御書持参
  御無用に被致よと申に付て、与一郎も手を突罷有
  処に秀吉卿重て宣ひけるハ、あの小山の辺へハ小牧山よ
  り鉄砲のけハしく来る処なれハ、其方如き若輩者ハ
  成間敷、外の者に可申付となり、干時与一郎、高山に
  向ひ、其許いはれさる義を被申に付、あの如く成御意に
  預り我ら一分不相立候と申て件の竹を取て打かた
  け、片手綱にて馬を乗出し秀吉の差図被致さる
p79
  小山の下へ乗り付、馬より下りて竹を持上りゆるかさる
  様に突立馬に乗候処に、小牧山より雨の降ル如く鉄
  砲を打掛候へ共何事なくして与一郎罷帰る処に、小牧
  山より月毛の馬に乗り茜の母衣を掛たる武者一騎
  来て、件の書状を付たる竹を抜持て帰り候を秀吉
  見られ候て、頓て返事可参そと被申候処に程なく
  小牧山の上より金の琵琶へらの差物にて鹿毛の馬に
  乗たる武者、文を竹に挟て持来り、二重堀の陣城より
  見ゆる処に立置て帰るを秀吉見玉ひ、偖こそ
  家康返事を被致たり、与一郎あれを取て参れと
  被申に付、与一郎亦乗出して取て帰り秀吉の披見に
  入る処に、家康公の御返礼にてハ無之、御鉄砲頭渡辺

  半蔵、水野兵部佐両人よりの返礼なり、其文に
    御内書拝見仕候、然者明日明後日之間御一戦之砌
    柵堀を御跡備ニ被仰付、思召切て御一戦可被成間
    此方ニも其支度可被仕旨、御紙面之趣奉得其意候
    其許ニ者弥左様可被仰付候、其段此方ニ者入不申候
    柵堀を不仕候ても皆々関東者ニ而一足も逃申者
    無御座候、然上者家康江不及申聞候ニ付、乍憚我々
    共より御返答申上候となり
  右之書面を秀吉見給ひて、偖々にくき奴原かなと宣へハ
  高山承り、兼て私申上候通り兎角ろくなる返事ハ
  家康被致間敷と存候と申候へハ、秀吉卿不興有て、よし〳〵
  仕様か有とて忠興一人を被召連馬に乗て馳出られし
p80
  故、近習面々我劣らしと乗付る処に、秀吉ハ件の小山の上へ
  あかられ、尻をかきまくり打たゝき、 家康是くらへと
  云て乗帰り被申処に、唐冠の甲孔雀の具足羽織ハ
  まかふ所も無き秀吉と見知て、小牧山より雨の降如く
  鉄砲を打掛るといへ共中らず、秀吉天下の将軍に鉄
  砲ハあたらぬものなりと広言して二重堀の要害へ
  乗帰られ候となり 
  二にハ楽田二重堀辺上方勢の陣所の前にハ溝をさ
  くり土居柵を付廻し候を 家康公小牧山より御覧
  被遊、信雄卿へ被仰ハ先年三州長篠表に於て信長
  卿と我等両旗を以武田勝頼と対陣の節、信長卿の
  御差図を以味方の諸軍の前に土居柵を御付させあ

  りしを、勝頼若気ゆへ其柵を取破り候様にと諸手へ下知
  被致候ゆへ、味方より打掛る鉄砲に中り手負死人多ク
  出来候に付て終に軍も負に成て敗軍致したる義を
  存知出し、あの通り堀柵なとを被申付候にや、然ハ秀吉
  心には其許我等抔を勝頼も同然の相手と有心得
  と相見へ候と仰られ御笑ひ被遊候となり
  三ニハ長久手表に於て岡崎発向の諸勢 徳川殿に
  戦ひ負、先手旗本ともに大敗軍の由、二重堀の陣
  城へ追々申来けれハ、秀吉是を聞き以の外に腹立あり
  家康軍に勝ほこり被居処へ押寄かけちらしくれんと
  有て出馬に付、我も〳〵と馳行程なく龍泉寺に着陣
  ある、所の者に被尋しかハ 徳川殿にハ軍終り候と其
p81
   侭小幡の要害に御取籠候と申候へハ。秀吉卿馬上にて
   是を聞れ、覚へす手を打玉ひて、偖々花も実も有
   家康かなと被申候と也
   四にハ秀吉龍泉寺へ着陣以後、日暮候て小幡の城に
   於て榊原小平太、大須賀五郎左衛門其外の衆中共に
   申合せて御前へ罷出、龍泉寺表へ人を遣し秀吉の
   陣を相伺せ候処、今昼楽田より馳来候諸勢の義悉く
   疲れ果、陣取の作法もなく爰かしこにひれ伏罷有候
   為躰に相聞申候、夜半比に至り夜軍に御取掛被遊に
   於てハ大きに御勝利たるへき旨被申上候へハ 家康公
   御聞被遊、いや〳〵と被仰御顔を振せられてとかくの
   仰無御座ニ付、各御前を退出被致候へハ、豊後〳〵と被仰
  
   候ニ付、本多豊後守立帰御前へ被参候へハ、其方城の門々
   を見廻り誰にてもあれ門外へとてハ一人も出すへからさる
   旨番人共へ堅く申付候へと仰出され、夫より間もなく御湯
   漬を被召上、追付御馬を被出候間、随分穏便に御人数を
   揃へ可申旨被仰付候故、是ハ必定敵陣への御働たるへきと
   諸人積りの外、小牧山の御陣場へ御馬を入せられ候となり
   五にハ森武蔵守義一戦の砌討死と有之義ハ慥に相知候
   得共、其験を取差上候もの無之付、御前を始め御家中に
   於ても何れも不審仕候処に、木屋常貞と申研屋、上方
   者にて半年宛浜松に相詰罷有候か右御陣の節も
   御供仕、小牧の御陣場に罷有候を被召出、其方義ハ上
   方に於て森武蔵方へハ出入不仕候やと御尋被遊候へハ
p82
   成程武蔵殿へも以前ハ御心易出入仕候と申上るに付
   然らハ彼家の道具なとをも見覚へ罷有や、と御
   尋候へハ、大方ハ道具の義ハ見覚へ罷有候と申上るニ付
   然らハ先頃御一戦の砌分捕に仕たる刀脇差の中
   にて歴々の指料にても可有之やと存る様なる道具
   の義ハ差出候様にとの御触に付、数多相集り候を常
   貞に御見せ被遊処に其中にて刀脇差二腰見分ケ候
   て武蔵殿の差料に紛も無御座旨申上るニ付、其道具の
   出所を御吟味被仰付候へハ、くり形に本多八蔵と付
   札有之ニ付、八蔵を被召出其場の首尾を御尋させ被
   遊候処に、八蔵申上るハ敵陣の中より武者一騎同勢
   を放れて乗出し爰かしこと馳廻りけるか、鉄砲に

   中りて馬より落候処へ走り寄首を取候と申ニ付、偖ハ
   首をハ如何致し候やと有之時、八蔵申候ハ右の首を御
   旗本へ持参可仕と存候処に、最早首御実検相済候と
   承り候付、道端の竹薮中へ捨候と申ニ付、其趣を御聞
   に達し、武蔵討死と有之以後討死仕候池田父子か
   験ハ早速御覧にも入たる義に候処に、武蔵首持参延引
   の子細、今一応八蔵手前を承届可申やと被相窺候処に
   家康公御聴被遊、森武蔵討死と有にハまかひもなく其
   首をハ八蔵か捨たると申上れハ、夫にて事済たる義也、委
   細の義を相尋に不及と有仰まてにて御前向ハ相済候
   得共、御陣中に於て上下の取沙汰宜からず候、中にも八
   蔵義ハ折角取たる首を敵方へ奪ひ返され候と有風
p83
   説なとも有之由八蔵伝へ聞て、是非なき次第と存し
   究め候にや、蟹江の城御攻させ被遊刻、理不尽に敵城
   近く進ミ寄て鉄砲に中り相果候
   六にハ秀吉尾州へ発向の前、甥の三好孫七郎秀次を以
   先手の大将たるへき旨被申渡ニ付、蒲生飛騨守氏郷
   方へ秀次より被申入候ハ、其許に所持あられ候鯰尾の
   甲御借あれれ玉るに於てハ、今度晴の出陣に着用致
   度候と有之ニ付、氏郷安き御用と有て持せ御越候処に
   秀次ハ件の甲を着用被致散々軍に討負、長久手の堤江
   掛り見苦敷敗軍を致され帰陣以後、右の甲を氏郷
   方へ戻され候へハ、氏郷被見候て大切の甲に疵か付て最
   早我等か着用にハ成らぬ申されしか、其如く相州小田

   原陣の砌も外の甲を着用致され候と有之儀を結解勘助
   物語なり、右鯰尾の甲今程松平安芸守殿方の有之由
   七にハ長久手表の一戦に上方勢勝利を失ひ敗軍の由
   注進有けれハ、秀吉一騎かけの如くにて龍泉寺表へ馳出
   申さるゝニ付、我も〳〵と乗出し、尾口楽田二重堀の要害にハ
   人なしに成候よし小牧の御留守へ相聞へけれハ、酒井左衛門
   尉御留守居の面々へ向ひ、秀吉多勢を率し被馳着候に
   於てハ御味方ハ小勢と云、其上今昼の合戦に骨を折労
   れたる義なれハ、小幡表の御一戦無御心元存る間、二重堀
   の要害へ取懸ケ、留守の番兵共を悉く打果し陣屋へ
   火をかけ焼立候に於てハ其煙を見て、秀吉取て可被帰ハ
   必定なり、各にハ如何被存候やと有之ニ付、何れも左衛門
p84
   尉被申旨可然と同心被致候処に、石川伯耆守数正にハ其
   比より秀吉へ内通の志有之ニ付、一向得心無之堅く無
   用たるへき旨制止被致ニ付て相談埒明不申、干時本多 *本多忠勝〔1548-1610)
   中務被申候ハ、各是に御入の義に候へハ当御陣所に於てハ
   無心元御事も無之候間、我等ハ小幡表へ罷越御供仕可
   罷帰と有て、手勢計を召連小牧山を馳セ出、程なく上方
   勢に追付、秀吉の旗本近く備をたゝミて押並稍とも
   致してハ振合を被致候ニ付、秀吉先手の面々より、あれに
   見へ候ハ 家康の家来本多中務にて有之由ニ候間
   押懸討取可申候やと有之候へ共、秀吉如何思ひ玉へる
   にや、堅く無用たるへき旨是を被申、剰へ 家康の秘蔵
   せらるゝも最なりと馬上にて独り言に被申候となり

   其後天正十八年奥州陣の砌、宇都宮の城に於て中
   務を呼出し、佐藤忠信か着し候由の申伝へ有之甲を
   手つから中務へ給り候節にも、右長久手表の義を被申出
   殊外感賞致され候となり
一今年秀吉にハ 家康公と御和睦被申度と有下心にて、先
 織田信雄卿と和睦なり、其後信雄卿へ 家康公とも和平
 被致度旨頻りに頼被申ニ付、羽柴下総守、土方勘兵衛両人を
 以、信雄卿より秀吉と御和談の義を被申越候処に、 家康公
 被仰候ハ我等義秀吉へ対し少も疎意無之候へ共、先此小牧
 表へ出勢の義ハ、其許よりの御願に依て止事を得ず一戦に
 及たる事に候、然る処に其許と秀吉無事を調られ候上に於てハ
 秀吉に対し我らの遺恨と有義ハ毛頭も無之候、秀吉方
p85
 より其許まて左様に被致度との義に候ハヽ向後ハ以前の如くに
 可申通候とある御返答に付、御当家と羽柴家との御和睦
 相済候と也、其後亦信雄よりの使の由にて、下総守浜松御
 城へ来候て申けるハ、秀吉より信雄方へ申越候ハ先頃互に
 和睦の義申談候上ハ、底意なく相互に入魂申為にも有之
 候へハ御息おきい丸殿を秀吉被申請養ひ被申度との事に候
 御同心に於てハ信雄にも満悦可被致との義ニ付、御家老中
 被召集御相談被遊候処、此方にも御男子様と申てハ只今
 御座なく、其上世上の取沙汰にも御息男を以て上方へ人質
 に被遣候なとゝ有之候てハ御家のなをりにも可罷成やなと被
 申上衆中計の様に有之候へ共、如何思召候や信雄卿より御申

 越の趣御用ひ被遊、其年の十二月に至り於義丸十一歳の
 御時上方へ御登被成候、御児小姓唯三人御付被成候内、一人ハ
 石川伯耆守二男勝千代、一人ハ本多作左衛門息男仙
 千代、(後伊豆と改なり)
一天正十三年三月羽柴秀吉内大臣に任二位に叙セらるゝ、是   *西暦1585年
 迄ハ自ら平ノ秀吉と名乗被申しを内府に任官以後藤
 原の姓に相改被申候なり
一同年三月 家康公御背に瘤の御腫物御出気被成、既に
 御他界と他国にてハ取沙汰仕るほとの御様躰なり、最初ハ
 根太の少し大き成物にて候処に、前島長七郎、佐原作十郎
 河野甚太郎三人の小姓衆に被仰付大蛤の貝を以右の腫物
 を御はさませ被遊候ゆへ、一夜の内に御痛ミ強く罷成申ニ付
p86
 御家老中を始御医師衆拾人余りも相談の上にて勝屋長
 閑御療治申上候処に、唐人流の荒侯薬と御腹立被遊、御
 付ケ薬を御洗落させ被成候付、本多作左衛門罷出、先我等を
 御手打に被成其後此御薬御無用に可被成候、只今御他界
 被成候てハ、他人迄も無御座御縁者の北條殿を始め御持
 国をねらゐ可被申候ハ必定なり、御家中の面々も御年若
 の殿にをくれて力落しはかはか敷合戦も得仕間敷候、左様に
 してハ御跡潰れ申外無御座候、我等義ハ八十に及び目ハ片 *六十の誤りか
 目切潰され、指も三ツ切まけられ、脛にも手負候へハ、足さへちんハ *作左衛門1529年生まれ
 に成候へハ、世の人々片輪と申片輪を身共一人にてかゝけ候
 今日迄ハ 殿の御情にて御家中にても人多く罷有候、唯
 今にも御死去被遊候ハヽ此作左衛門事ハ即時に飢死仕る外ハ

 御座なく候、たとへ存命仕候共あれこそ 家康公に仕ハれたる
 本多作左衛門と云もの、何を楽しみに命を惜ミ存命候や
 と諸人にうしろゆびをさゝれ候てハ生たる甲斐も無御座候、頃
 日まて武田殿家中にて甘利殿と申諸人の尊敬に逢た
 る士も、主人の家潰れ候へハ今程本多平八郎組に成り、松下
 一党、匂坂一党の者共の下手をへつらひ居られ候、信玄鑓
 先盛の時ハ甘利殿なと如此あらん事ハ夢にもおもハさる事
 に候、是偏に勝頼の無分別ゆへ長篠合戦より八年目家滅
 亡いたし、歴々の士さへ右の通罷越候、殿にも今度長閑か薬
 御付ケ被成ましきと被仰候へハ、何れの道にも大将の無分別ハ
 同前にて候と段々道理をくとき立て泪を流し申上候へハ
 家康公御得心被遊、此上ハ其方申通り御療治可被遊と被
p87
 仰候ゆへ、長閑罷出御薬を差上御灸をも双六の筒の大きさに
 致し、作左衛門自身三火まてすへて進上仕り御内薬をも
 被召上候処、其夜半に御腫物吹切、膿水夥敷出申時、作左
 衛門声を揚てうれし啼になき申候、本多佐渡も同前
 の由、其後御腫物頓て御平癒なり
一同年七月秀吉関白に任じ此節列国の諸大名多く昇進
 の衆有之、於義伊君をも三河守少将秀康公となん被申
 候と也
一同年八月 家康公御自身御出馬ハ不被遊候へ共、御軍勢
 をハ被佐越、信州上田の城主真田安房守昌幸を御攻撃せ *真田昌幸(1547-1611)
 被遊候、其比事の起りハ去々年甲州若神子表に於て、北
 條家と御対陣、御和睦の節御約諾にハ、向後甲信両国

 の義ハ御当家より御支配可被成候間、武田の旧領西上野を
 相添へ上州一国の義ハ一円に北條家よりの支配と有之
 わけに事済候ニ付、北条家へ切取たる信州佐久郡をハ北
 条家より早速御当家へ被相渡候処に、真田安房守沼
 田の城を抱へ居て北条家へ渡し不申ニ付、氏直より御催
 促被申越候ゆへ、早々明渡し可申旨真田方へ被仰付
 候処、安房守御返答申候ハ、上州沼田の義ハあれから武田
 家より申請たると申にても無之、手前の鎗先を以切
 取たる城地の義に候へハ、本領上田の城にも取替へ不申所
 存に候所に御縁者の北條殿へ明ケ渡し候様にと被仰下
 候ハ余り御情なき事に候と申て中々同心不仕、其上
 秀吉卿の威勢日々に盛になられ候と有之義を伝へ聞
p88
 て上向ハ御当家へ随ひたる分に致して、証人なとをも浜
 松の御城へ差上置なからも、内々にてハ秀吉へ取入申旨兼
 て御聴に達し不届に思召御座被成候処に、今度慮外
 かましき御請に付、弥御腹立被遊、真田を御攻撃可被
 遊との御評義に相定り候と也、偖彼地へ被仰付たる衆中
 にハ大久保七郎右衛門忠世、鳥居彦右衛門元忠、平岩七之助
 親吉、岡部弥次郎長盛、諏訪小太郎頼忠、保科弾正   *大久保忠世(1532-1594)
 直、入竹左衛門佐勝永、柴田七九郎、三枝平右衛門、其外遠
 山、知久、下条、大草、武川、芦田の輩也、此面々申合上田
 表へ発向して後の八月二日より城を取囲ミ攻撃と云へ共
 城将真田よく守り防ぐに依て、戦ひ毎に寄手の勝利ハ
 稀にして城兵毎度勝に乗るの趣、浜松へ相聞へけるニ付、重て

 大須賀五郎左衛門康髙、井伊兵部直政、松平周防守康重此三 *大須賀康髙(1527-1589)
 人上田表へ罷越、先達て被差向候軍勢の義彼地を引とらせ、同道
 致し可罷帰旨被仰渡ニ付、三人の者上田表へ発向して仰の趣
 各へ申渡し三人共に城地の様子見分被致候処に、城のかゝり一段と浅
 間にして、さのミの堅城共見へさるに付、如何様攻城の一手段も有
 間敷に非ずと三人衆の心にもうかミ、先達て発向被致し面々の義ハ
 我々共数輩罷向ひ是程の小城を一ツ攻兼空しく罷帰候と有ハ
 近比残念之至りと被申ニ付、いつれの道にも今少見合候と有之処に城主
 安房守方より関白秀吉卿へ援兵の義を頼ミ遣しけるに依て
 秀吉卿より越後春日山の城主上杉景勝義大軍を催し上田の
 城へ加勢可被致旨下知有之ニ付、近日上杉勢発向の旨申触候付
 若左様の義にも有之候ては如何とある相談を以て何れも上田
p89
 の城下を引払帰陣なり、然れ共猶亦上田に押へとして大久保
 忠世の義ハ小室の城に相残り、其外信州衆にハ芦田、保科
 下條、諏訪、和久、大草なと申面々ハ各持城に籠り居て小室の
 大久保忠世と申合、真田を押へ被申候なり
一同年十一月三州岡崎の御城代石川伯耆守数正、関白秀吉卿へ属*石川数正(1533-1593)
 せんか為に女子を携へ岡崎の城を出て尾州へ立退候刻、松平源次郎
 家老松平五左衛門近正か方へ家人天野又左衛門を以て一味同心に
 於てハ秀吉卿の御手前の義ハ我等宜く取持可申旨申送ると云
 へ共、五左衛門同意無之に依て、信州小笠原右近太夫貞慶か方より差
 上置たる人質計を召連候なり、干時五左衛門後難を憚り数正方ゟ*松平近正(1547-1600)
 申越候趣並に自分返答の次第共に書付に認て一子新次郎に
 源次郎か家来両人を相副へ浜松へ差上委細言上仕るニ付、甚御感

 賞被遊、今度数正か進めに応せす、去年蟹江表に於ても軍功あり
 旁以御感浅からさる旨被仰出、せかれ新次郎義御脇差を被下
 大給の城へ御返し被遊候、ケ様の子細是あるを以て、五左衛門義ハ
 後にハ□近に被召出、関ヶ原御一戦の前方山州伏見の城御留守
 居四人の内にて討死を遂られ候となり、右伯耆守尾州へ退去
 の節 家康公より北條家へ御使札を被遣候
   先頃以飛脚申入候、重而二科太郎兵衛差越申候、去十三日
   石川伯耆守尾州へ退散候、信州小笠原人質召連候
   上方申合子細ニ付如此之様にと存候間、不可有御油断候
   委細太郎兵衛口上ニ申含候、恐々謹言
     十一月十六日          家康
        北條殿
p90
一同年十二月信州方に於て小笠原右近太夫、兵を率て同国高  *天正13年
 遠の城攻撃候処に城主保科弾正正直、拒き戦て勝利を得
 敵兵数多討取に依て、貞慶敗走仕るのよし御注進申ニ付、弾正
 方へ御感状並御腰物包水被下之となり
一今年羽柴下総守勝雅浜松へ罷越候、信雄卿被申候ハ関白
 秀吉卿にハ其許御上京の義を被頼候旨此方へも度々被申候間
 御大義なから御上京あられ候に於てハ手前に於ても大慶可致と也
 家康公御聞被成、我等義其許にも存られ候通り信長公在世の節
 毎度京都へも登りたる義なれハ、上方珍敷も無之、其上用事迚も
 無之ニ付、手前の諸用を差置ての上京と有ハ無益の義なれハ思ひも
 寄らぬ義也と被仰候へハ、下総守承り秀吉卿御上京の義を願ひ
 被申と有之儀を御存知なから御上語無之ニ於てハ秀吉卿腹立

 の上、三河守殿へ如何様あたり可被申も難計と有て、此儀を信雄にも *家康二男
 苦労に被致候と申けれハ、 家康公御聞被成、三河守義ハ人質証
 人と有て遣したるにも非ず、秀吉養被申度と有之付、信雄卿
 の取持にまかせ遣し候へハ、我等の子にてハ非ず、人の子を貰て養ひ
 置、夫にあらく当り候ても苦しからさる義ならハ、たとひ三河守を
 殺害致され候共秀吉の心次第なり、左様の義に付てハ弥以上京の
 義ハ思ひもよらさる事也と被仰けれハ、下総守も其後ハ兎角の
 義を申上るに及ハすして御前を退出致し尾州へ罷帰、夫より
 大阪へ罷越と勝雅か積りの外、秀吉卿にハ一段と機嫌克、流石
 家康程あり尤々と被申けるか、程なく秀吉卿の妹朝日の前を以
 家康公へ嫁せしめ可被申と有内談始り候由也
p91
一今年 秀忠公御七才の御時、青山藤七郎忠成(後号陸奥守)を以 *徳川秀忠 家康三男
 御伝役被仰付、浅井半兵衛、鴨田権右衛門、瀧六蔵三人を
 御抱守に被仰付候となり

       天保三壬辰年冬閏十一月二十五日写之
                    中村直道

  落穂集巻之三終