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      落穂集巻之五
一其比豆州韮山の城に北条美濃守氏規楯籠り候を秀吉卿の
 下知として福島左衛門太夫正則、蜂須賀阿波守家政
 長岡越中守忠興、蒲生飛騨守氏郷、中川藤兵衛秀政、森
 右近太夫忠政、北畠信雄卿の軍勢を差添、韮山の城を
 攻撃せらる、家康公より監使一人被相添候様にと秀吉卿
 御申ニ付、小笠原丹波守を被仰付、韮山表へ被遣処に城兵共
 の防ぎ強く、其上城地も堅固なれハ、早速にハ攻落され間敷
 かと有之、諸将の評義をもとかしく思ひけるにや、小笠原
 父子理不尽に城中へ乗入、従卒共に不残討死致し候となり
 然処に 家康公より秀吉卿へ被仰談子細有けるが、其後
 内藤三右衛門韮山へ罷越し、城主氏規を同道して小田原へ
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 罷帰り其以後秀吉卿の下知に依て韮山の寄手ハ悉く
 勢を引上ケ城をハ内藤三右衛門江明渡し候と也
一同年七月五日小田原城中に於て氏直にハ謀叛人松田尾張を
 死罪に申付、 家康公の御陣所へ参られ候、籠城不相叶
 候間、父氏政を始め城中諸人の義御助命有に於てハ明渡し
 可申旨願被申処、 家康公被仰候ハ、我ら義其許と一所の
 義にも有之候へハ取持かたく候間、羽柴下総守を以て秀
 吉卿の方へ直に被申達候様にと御差図ニ付、下総守を頼ミ
 被申ニ付、勝雅其趣を秀吉卿へ申達候へハ、氏直頼の通にと
 相添、翌六日 家康公より榊原式部太輔康政を被遣、秀
 吉卿よりハ脇坂中務少輔安治、片桐市正貞盛此三人を以て
 小田原の城を受取被申候となり、依之七日より九日迄

 三ヶ日の間に籠城の諸人城中を退散仕様にと有之処に
 数万の人数混乱仕候ニ付、脇坂、片桐方より警固張番等
 を出し吟味を相遂候を以て、何事なく九日の昼時比迄に
 諸方へ立退候と也、其晩景に至り氏政氏輝兄弟の義ハ本
 丸を下り医師田村安栖か宅に移り被居候処に秀吉卿より
 大谷刑部少輔を以て 家康公へ御申越候ハ、氏直義をハ
 助命致し、氏政氏輝両人の義ハ切腹致させ可申と存候
 尚又御相談のため申入候と也、 家康公御聞被成、氏政
 氏直父子共に死罪と有之候てもの義に候処に、氏直助
 命あらるへきとの義、手前に於ても大慶不斜由御返答
 被成候と也、其節秀吉卿よりの御差図に依て翌十日
 家康公にハ御寄口芦子川口の内部へ御移被遊となり
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 同十一日氏政氏輝兄弟の義ハ医師安栖か宅に於て自殺
 也、秀吉卿より石川備前守、中村式部、蒔田権之助、佐々
 淡路守を検使に被申付、 家康公よりハ榊原康政を
 被遣候と也、氏政氏輝兄弟の首をハ石田治部少輔に
 被命、京都へ登せ一条戻橋に梟首せられしとなり
一同十二日氏直高野登山として小田原を発駕あり、秀吉
 卿より差図あられ候ハ侍分上の者三十人と率合て三百人
 に不可過と也、親族にハ美濃守氏規、左衛門太夫氏勝、従士
 にてハ松田左馬助、山上強右衛門、内藤左近、諏訪部惣右衛門
 依田大膳、是等ハ氏直側近き者共也、家老分にてハ大道
 寺孫九郎惣勢の跡を押へて供仕る処に 家康公にハ
 芦子川門櫓より氏直出城の躰を御覧被遊御座被成候か
 牧野半右衛門、小坂助六両人を以て御用の義有之由にて
 孫九郎を被為召、氏直道中の義並に高野山中住居の
 間の諸品々被仰付候となり
一同十三日秀吉卿小田原の城へ入、今度北条家御滅ニ付
 闕国の分を以て諸将へ割あたへらる、只今迄北条家領
 知の跡一国、其上御上洛の時のためと有之江州の御知行
 九万石、東海道筋にて石部開の地蔵、四日市右の宿々
 にて千石宛ハ以前よりの通、只今迄の御料地の内にて白
 須賀、中泉、清見寺各千石宛と嶋田二十石是亦御上洛の
 節の御用の御為と有之、今度 家康公へ進し被申旨
 被申渡、其比織田内府信雄の義ハ故有て改易あり、下野
 国那須へ追籠被申ニ付、其跡尾州並に北伊勢五郡をハ
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 近江中納言秀次へ給ハり、 家康公の御旧領の内、三州
 吉田の城地十五万石池田三左衛門輝政、同国岡崎五万
 石ハ田中兵部太輔長政、遠州浜松の城邑十二万石ハ
 堀尾帯刀吉晴、同国掛川五万石ハ山内対馬守一豊
 同国横須賀の城地ハ渡辺左衛門、駿河国ハ中村式部
 一氏、甲斐国ハ加藤遠江守、信州小室の城五万石ハ仙石
 越前守、同国伊奈郡ハ毛利河内、同国諏訪の城地ハ
 目根野織部、小笠原を石川出雲守(元名伯耆)如此被申渡候となり
一同月十四日秀吉卿会津伊達政宗退治の為として小田原
 を出馬あり、十五日江戸表に至り所々見分有て野州宇都
 宮の城に下着、此所に逗留ありて奥州筋の義を沙汰致
 され候となり

一同年八月朔日 家康公小田原を御発駕被遊江戸の御城へ
 移らせらる、是を俗に其御時代より唯今に至る迄関東
 御入国とハ申候と也、此節小田原御城代ハ大久保治部少輔
 忠隣に被仰付之、其以後直に拝領被仰付也(後改相模)
  右小田原陣の義ニ付種々の異説有之候を此末に書付申候
一、秀吉卿沼津へ着陣あられ候刻 家康公にハ織田信雄卿
 御同道被遊御迎に御出被遊候と也、秀吉卿の馬の真先に
 は餌差、鷹、犬、小鷹なと居へ並び参候鷹匠の中より、稲
 田喜蔵と申者 家康公の御前へ走り寄平伏仕候へハ御
 言葉を被為懸候と也、此喜蔵義ハ初て大坂へ御越被遊候
 節より御鷹野御用の義承候様にと有之、秀吉卿より
 御馳走被申付之候者故、毎度の御上洛にハ御道中迄御送に
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 罷出候ニ付御目を被為掛候故の義也、其節喜蔵義密に申
 上候ハ、殿下にも追付御着可被成候間、御覧可被遊候、殊の外
 異様なる御出立に御座候と申上て罷通候事急成義に候へハ
 何共可被遊様も無御座候処に、武田家の侍曲淵庄左衛門か
 御供に参候、三尺余り有之朱鞘の刀に大鍔の掛りたるを
 横たへ罷有を御覧被成、御側へ被召寄是に罷有候への
 仰にて庄左衛門御後に畏り居申内に、秀吉卿の馬近く成候
 時、御刀を抜せられ、其方刀に差替へ罷有候様にと被仰付
 庄左衛門か大刀を御差被遊御座候処へ秀吉卿来り玉ふ、其
 出立の異様と申ハ金の立烏帽子に緋緞子の袖有の具足
 羽織に紅金繍のくゝり袴、其身ハ作り髭をも致金作りの
 太刀をはき、金の土俵うつほを付、手にハ唐国羽を持チ
 小長けなる佐同馬に乗被申候と也、秀吉卿ハ 家康公
 信雄卿御出被成候を被掛見候ニ付、馬より下り被申候処へ御
 両人も御立寄被成候へハ、秀吉卿御在陣御苦身の由御申
 唐国廟にて 家康公の御指被成候御刀の柄を押へ被申
 是ハ近頃よき御物すきにて候と笑なから宣ひ、是より
 御同道可申とて半町計も御三人連にて歩行被成候処に
 参陣の諸大名衆各罷出候躰に相見へ候ニ付最早御馬
 可然と 家康公被仰候へハ秀吉卿然らハ陣中礼なし
 と申候へハ御免なされ候へと有て馬に乗玉ひ、外の諸大名
 中の前にてハ馬上より夫々に言葉を掛ケ通被申候となり
二、山中城攻の刻、一柳伊豆守討死被致候其晩方、秀吉卿本
 陣へ伊豆守舎弟市助並陣中へ供仕たる家老両人を
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 呼寄せ、秀吉卿宣ひ候ハ、今朝山中責の刻伊豆守討死
 残念の事に候、就其家督の義其方へ申付候間、当陣へ伊豆守
 召連候家中の者共主放れを致し定て力を可落候、今
 日よりハ其方家来に申付る上ハ随分目を掛召仕尤也、両
 人の者共義も今日よりハ市助を伊豆守と存知入て無油断
 奉公致し、家中の者共へも此旨申聞候様にと有之、偖市助
 方へ向ひ玉ひて、其方義ハ兼て聞及ひたるよりハ大き成ル
 いくち也、侍のいくちハ武辺の相に致し誉たる事也、重畳の
 義と被申けるとなり、此市助後にハ監物申候、男子数多
 有之末子を一柳助之進と申して松平安芸守光晟の家
 来に成り芸州広島に罷有候か我等への直物語也
三、山中落城の晩方戸田左門義御本陣へ罷上り、榊原式部太輔へ

 逢て申けるハ、今日城攻の刻御家中御先手の面々ハ中村
 式部少輔手の者共と同時に城際迄馳付候、中にも拙者
 と青山虎之助両人義ハ城へも一番に乗入、中村殿御家
 来藪内匠と申者と互に言葉をもかけ合申候、然る処に
 山中の城の義ハ中村殿家中にて渡辺勘兵衛と申者
 一番に城を乗候との御沙汰に相究候由、更々左様の次第
 にてハ無御座候、中村殿家中に於ても内匠を始め五三人
 計も拙者共と一所に乗入申候か其中に鳥毛の指物仕候
 者とてハ無御座候、殿様の御事ハ北条家の領知に境ひ
 たる甲斐駿河を御知行被遊候上ハ此表御発向に付てハ
 定て諸軍の一の先手を可被遊の間、山中の城の義ハ御
 当家の御勢を以攻落し可申と御家中の諸人ハ存入
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 罷有候処に思ひの外に近江中納言殿惣先手と有之ニ付
 御家中我人共に心外千万に存罷有処に、御人数押の道
 筋替り候を以御先手の面々ハ存寄らざる城攻の手
 筈に逢、然も中村殿の者共と同時に城へも乗入り候と有
 之義ハ、関白殿より被差越候黄母衣衆まて見届被居候
 上ハ其段被仰立候様にと奉存候、全く私共骨折を相立
 申度と有ル所存を以て申上るにてハ無御座候と申ニ付
 康政御前へ罷出被達御聞候へハ、左門を召出被仰聞
 候ハ、其方被申処尤也、然れ共婿の氏直か持の城を我等か
 手勢を以攻落し候へハとて、御のミ手柄に成る事にても無之
 其方共骨折候と有義ハ我らさへ聞届候へハ事済儀也、向
 後共に山中城攻の義に於てハ兎角の沙汰に不可及旨
 青山にも能々申聞候様にと御直の仰なれハ左門義ハ
 山中城責の義を問尋る人有之候ても場所せハく候故
 聢と覚へ不申候と返答致し候処に、虎之助義ハ山中の
 城にてはむた骨を折り、中村殿の家中渡辺勘兵衛一人の
 手柄に成り候、余り殿の結構たてか過申なと申触候と
 有之義を御目付被達御聴候へハ、 家康公にハ御笑
 被遊、青山めか左様に申ならハ其侭云せて置候へとまての
 仰にて御咎も無御座候か、江戸の御城へ御移被遊御家中
 何れもへ新知拝領被仰付候刻、戸田左門へハ川越領の内
 にて五千石被下置候と也
四、山中の没落の以後、上方勢各箱根山中へ押入在陣の所に
 家康公と信雄卿と被仰合、小田原へ御一味あり、両家の
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 軍勢を以て秀吉卿の本陣を始め諸陣共に悉く焼討の
 節、其刻限を定め氏政氏直義も小田原の城兵等を不残
 召連攻上りて、上方勢を追崩すへきとある企有之由、夫ニ付
 種々雑説を申出し、陣中の諸人気遣ひ罷有候折節
 小早川隆景ハ京都に用事有之箱根へハ遅く参陣被致
 候を幸に秀吉卿相談あられ候へハ、隆景分別被致
 家康公の御陣所へ秀吉卿御見舞可有との義にて御
 日限相定り、其日に至り候へハ、秀吉卿ハ伊達染の小袖に緋
 緞子の羽織を着被致、脇差計にて刀を小童の肩に掛させ
 織田内府、隆景、法印達其外の相伴衆迄も各脇差計にて
 或ハ手を引合、杖を突高雑談にて 家康公の御陣屋へ
 入玉ひて昼以前より夜半過まて種々御答懇あり、其後
 
 内府の陣屋へも秀吉卿 家康公、隆景抔御同道にて御入
 あり、其後秀吉卿の本陣へ 家康公、内府をも御招請被
 申、昼の間ハ能興行あり、夜に入候てハ酒宴に成りをとり
 小歌なとの遊興故、明方にも至り 家康公にハ御帰
 被遊候となり、 夫より後ハ諸大名の陣々に於ても会合
 有之ニ付て、諸人落付たる如く有之、於のつから右の雑説も
 相止ミ候と也、其砌是ハ秀吉卿の御作、此小歌ハ家康公の
 御作り被成候んとゝ申て陣中の貴賎謡ハやらかし候ニ付
 私ら式も其節謡候とて小木曽太兵衛と申老人、我ら若
 年の比申聞せ候ニ付書留申候
  人かひ船ハ沖をこくとてもうらるゝうらるゝ身をしつ
  かにこけ
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  我を忍ハヽ思案して高ひまとからすなをまけ
  面かと云て出あほふ
五、箱根山御陣中 家康公、伊奈熊蔵を被召出、御用被仰付候
 砌、熊蔵申上候ハ、去年中より御領国の米大豆等貯へ置可
 申旨被仰付候故、其支度仕今度の御陣中御入用ニ可有之
 存、沼津境まて運送致し置候処に此山中にて穀物の直段
 江尻沼津と同前に御座候ニ付、御領分の米大豆等の運送
 を相止、悉く此表にて御買上ニ仕候、ケ様なる合点の参ら
 さる義ハ無御座候と申上候へハ 家康公御聞被遊、夫ハ皆
 長束大蔵か致す事也、長束事ハさのミ武功の者と云には
 非され共、諸事ニ付勘弁の厚き者ゆへ、秀吉の心に叶ひ少
 身より段々と取立城主に迄被致候、惣して大名の常に

 倹約を用ひ無用の費を厭ひ物毎質朴に致すと有ハ事
 の変に望ミ費を厭ハす事の手つかへ無ク自由を調ん為
 の儀也、然るを常々も倹約を用ひ、入用の場所に臨ても
 用ひましきならハ金銀米銭ハ何の用にも立す、土石にハ
 劣りたる物なり、其方抔か役義にてハ合点の可有義なるを
 合点不参義と申と有ハ、我等も合点かゆかぬそと仰有け
 れは熊蔵大に迷惑仕候と也、右の趣ハ土井大炊頭殿家老
 共へ雑談あられ候由にて大野知石我等へ物語なり
六、秀吉卿笠掛山の陣城普請出来して陣替ニ付 家康公
 信雄卿御同道にて御身廻被成候処に秀吉卿御申候ハ、
 此山の出さきより小田原城中の能く見ゆる所有之候と
 有て 家康公を御同道にて御出候へハ信雄卿も同じく
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 立せ玉ひ、 家康公の御側に付キ添放れ不申候を秀
 吉卿気の毒に思ひ玉ひ候にや、其所に至り被申と小
 袖の裳をかきまくり玉ひなから、昔より馬鹿のつれ小
 便と申候、大納言殿も是へと被申ニ付 家康公にハ秀吉
 卿の側近く御立寄被成候へハ御袂を取て引すへ被申
 自身も御側に並び居玉ひて城中の方を見やり御耳
 雑談被申ニ付信雄卿ハあなたこなたと徘徊致し居玉ふ
 内に秀吉卿御申候ハ小田原の城中家作等も唯今迄の
 通りにて明渡し候者其許にハ其侭居城に御用ひ有
 へき哉と申候へハ 家康公御聞被成以来の義ハ兎も角も
 先当分ハ小田原に在城仕る外ハ有間敷やと御挨拶被成
 候へハ、秀吉卿御申候ハ、夫ハ大き成御思案違にて候、爰元の
 
 義ハ境目にて大切成場所にも候へハ御家来の内にて慥な
 る者に預け置れ、其許にハ是より二十里計も隔り江戸と
 申所有之由、人の申を承り候ても絵図の面にて見及ひ候ても
 繁昌の勝地とも可申所にて候間、江戸を居城に相定可
 然候、今度此表の隙を明ケ奥州へ発向の節、我らも江戸表
 の様子を見分の上猶又御相談可申と御申候となり、此趣は
 右の次第に候へハ外人の承り可申様とてハ無之候へ共、其時
 代よりの取沙汰と罷成候、我等若年の比より承り及び候付
 書留申候、虚実の段ハ不存候
八、或時 家康公信雄卿を御同道にて秀吉卿の陣所へ御見
 廻被成御対談終て後、御両人御連レ立御退去の節、廊下の
 様なる所を御通り被成候、御跡より秀吉卿ハ十文字の
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 抜身の鎗をひらめかして 家康、家康と呼掛玉ふニ付御右
 の手に持せられたる御刀を左御手へ御持替有之、聊
 御仰天の御気色も無御座中座被成御座有候へハ、秀吉卿
 大笑を被致なから鎗の柄を持かへ石突の方を家康公
 の御手先へ被差出、此鎗ハ我ら秘蔵の持鎗に候へ共其許へ
 進候と御申ニ付、家康公にも深く御礼を致仰所へ、秀
 吉卿近習の侍件の鎗の鞘を持来りさし入、玄関へ持出
 御供中へ相渡候と也、右秀吉卿追掛被出候節、信雄卿にハ
 家康公御一人跡に置被申、足早に退出被致候ニ付秀吉卿を
 始御付々の諸侍共に見限り果悪敷取沙汰致し候と也
 右の御鎗の義ハ 家康公後々迄御秘蔵被遊御持鎗の内に
 被成置レ候由、実、不実の段ハ不存候へ共古き人の物語の趣を

 書留申候
九、秀吉卿の陣所へ下野国結城左衛門尉晴朝参陣して、両
 陣の労を問、且又旧猟已来申合候養子の儀弥御取はからひ
 給り度旨願候へハ秀吉卿被申候ハ、駿河大納言家康公の息男
 を以前より手前にもらひ置、羽柴少将秀康と名乗せ差置
 候、是より外に我等親族とてハ無之候、幸ひ当陣へも召
 倶し候間、此表の隙間明次第奥州へ発向の節、野州宇都
 宮在陣の内、其許へ可遣候、此秀康ヲ以養子と被致に於てハ
 家康にも如在有間敷候、我等義も猶以の事に候と被申聞
 候へハ、晴朝悦喜不斜して結城へ帰り被申候となり
十、奥州会津黒川の城主伊達政宗儀も家老片倉小十郎を
 召倶し一千計の勢を率し甲斐の国を経て相州へ
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 着陣し胴勢をハ三四里も跡に残し置、片倉一人と手廻り
 計にて箱根へ来り大谷刑部少輔を奏者に頼ミ小田原
 城攻の人数に相加り度と有義を申上、秀吉卿対面あられ
 給り度旨を乞願ふと云へ共、秀吉卿一圓承引無之、我ら
 政宗に対面して何の用事なし、早々罷帰候様にと申聞
 追返し候様にと被申出しか、其後如何思ひ玉へるにや、本陣へ
 罷出候様にと有之ニ付、政宗出仕候処に、諸大名何も列座の
 中へ政宗を呼出し、浅野長政を以て越後の上杉には
 味方に相加り数城を攻落し、水戸の佐竹事ハ一左右次
 第に出勢可致と有之、当陣に使者を付置既に武州
 忍の城責の節ハ人数をも差出候と有之義をハ定て承知
 無之事ハ有間敷処に只今迄の遅参と有ハ北条家の成

 行を見合せ罷有の延引沙汰を限り不届の至り也、第一
 会津、芦名の領知の義ハ奥州陣の節戦功を以右大将
 頼朝より芦名か先祖へあたへ置れ数代持伝へたる所領な
 る儀、故なくして私に切取押領致すの条、其罪軽からざるに
 依て、北条家同然に征伐を可被加の旨天気を蒙り罷向ふ
 義なれハ、我等の心行を以て宥免可致子細に非ず、早々
 帰国致し急度朝敵の色を立、我らの発向を相待可罷
 有旨申渡し、次に長政申候ハ右の通被仰出上ハ今日中に
 当所を退去被致尤と也、政宗ハ被仰渡の趣深く恐入奉存
 外ハ無御座と申て席を立退出仕候、其顔迄景気只者に
 非ずと諸人誉事に致し沙汰仕候由、偖政宗退去の跡にて
 是より直に伊達政宗追討とて会津表へ発向可有の旨
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 諸陣へ触渡有之候と也、右の趣ハ徳永金兵衛雑談の
 次第也、其節金兵衛ハ浅野長政近習を勤、小田原陣中に
 罷有候者の義なれハ実説にても可有之哉と存書留申候
 当時其時代の事を書記し候書物にハ、政宗義首尾克
 秀吉卿へ対面の上、押領の芦名領計を差上、本領米沢の義ハ
 無相違安堵被申付候て会津へ帰り候と有之候、然れハ金
 兵衛物語とハ少相違の様に被存候なり
十一、奥州会津発向の陣触被申出候節、 家康公へ秀吉卿御
 申候ハ、其許にハ差懸りたる御国替ニ付家中の上下共に定て
 取込と存候に依て奥州陣御軍役に於てハ用捨致し
 候間御出陣に不及候、御手前只今迄の御領知を早く不被
 明渡候てハ跡々移り替りの面々当収納の障りにも成り

 可申歟に候間、不及申義なから遅滞無之様に御沙汰あ
 られ御尤の由御申ニ付、 家康公にも被仰聞まても
 無く其心得にて罷有候と御挨拶被遊、夫より駿府に罷
 有、御勘定方の諸役人其外五ヶ国の諸代官手代以下に
 至るまて早々江戸表へ罷越し、青山藤蔵、伊奈熊蔵
 両人の差図を請、幾手幾組と定て関東御知行所を
 悉く見分致し、古来よりの城地の儀ハ不及申、在所在所
 取立人居にも可罷成かと存候所々の義ハ是を見立
 御家中にて唯今まて地方知行取来る面々へハ不残
 知行割を割付候義、油断致すへからさる旨被仰付、就中
 小身の輩程江戸御城下近辺にて割渡し可申旨被
 仰渡候間、諸役人取懸り昼夜共に知行割を急ぎ程なく
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 割定め候と也、俄の義に候故其節の知行割と申ハ大数
 一村切又ハ村続きにて一まとめに相渡り申候となり
十二、北条氏直にハ高野へ登山被致候ても秀吉卿より扶持
 方なとをも被申付、其上諸用の義ハ大阪表に 家康公
 の御屋敷と申て有之其御留守居、佐野肥後守方へさへ
 申達候へハ、相滞事も無之ニ付、何に不足と申義も無之候へ共
 関東より付参候末々の者共かさつを振舞、稍も致してハ
 法師原を相手に仕りて喧嘩口論なとを致し、第一ハ
 山下へ出候てハ魚類を持帰りて食仕候義 家康公にも
 是を第一に制禁可致旨被仰付候へ共、下々にて申付を
 不承候ニ付、孫九郎殊の外に迷惑致し、何とも高野山上の居

 住を御免有度旨、榊原式部太輔迄孫九郎方より頼遣
 し候へハ、康政尤と有之高野山奥山上人へ申談有之ニ付
 奥山の取扱を以て早速事調ひ、秀吉卿より高野の住居
 を免じ被申、天野と申在所へ下り其翌年に至り泉州堺の
 興応寺へ移り、其後大坂天満に於て織田信雄卿の住
 居致されし屋鋪を給り其上河内の佐山と申所にて
 一万石の采地を被申付候也、其節 家康公聚楽の御屋
 鋪へ孫九郎を被為召御直に被仰聞候ハ、氏直義早速高
 野の住居を赦免有、、殊に天満に於て大屋敷を被申付
 重畳の義也、然れ共一万石の采地と有ハ軽少の義なれハ
 台所入用の義ハ我ら方より取賄ひ、早々娘義を帰し
 遣し度と思ひ、其段浅野弾正を以て相尋候処に、秀吉卿
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 被申候ハ、氏直居屋鋪の義に於てハ不足も有間敷候へ共、一万
 石計の采地にてハ如何に候間近き内中国筋にて領国の
 心当候間、夫迄ハ相待候様にとの内意ニ付、当分延引の旨氏
 直へ計密に可被申聞由御意ニ付、孫九郎悦罷帰其段氏
 直へ申達し、今や今やと相待罷有内に翌年霜月氏直
 疱瘡を煩ひ被出、養生不相叶死去被致付、付の者共何れも
 力を落し候と也、 其節京都聚楽の亭に於て、岡江雪
 毎夜伽衆の列に加り罷有候処に、或夜江雪いつもの様にも
 無之打ちしほれ罷有躰に秀吉卿見給ひ、江雪ハ気分
 にても悪く候やと宣ひ候ニ付江雪承り、いや左様にも
 無御座候と申候へハ、秀吉卿重て御申候ハ気分もあしから
 さるに其方一円うかぬ顔に見ゆるハ何そ子細有やと

 問玉ふに付、江雪謹て申候ハ、大坂に於て氏直義元日
 より疱瘡を煩ひ出し、養生不相叶死去候由、手前より
 見廻として付置候家来罷帰て申聞候と申候へハ、秀吉卿
 にも驚き玉ひ、左様なれハ其方か不機嫌なるも尤の義也
 家康公の息女にハ嘸愁傷たるへきと申され、さて氏直に
 子の無キと有ハ必定かと宣ふに付、江雪承り一子も無御座
 氏直切にて北条の家ハ断絶に及ひ申段無是非次第に
 御座候と申候へハ、秀吉卿聞給ひて、氏直へ当分不相応なる
 大屋敷を遣し候にハ我等心入有之の義なるに、人の仕合
 の悪鋪時にハとこかとこ迄も悪敷もの也、去ながら北条の名
 跡の立程の義ハ成ましきに非ず、其段ハ苦労に仕るなと御
 申候か、其後北条美濃守義忌明次第罷上り候様にと有之
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 美濃守上京致し候へハ秀吉卿御申渡候ハ、叔父を以甥の
 跡目にとハ云付かたき義なれ共北条の本家相続の義を
 其方へ申付る也、佐山一万石の義も不相替領知たるへき
 旨被申付、氏規悦て大坂へ下り氏直に付随ひたる面々
 を呼出し、我等義不存寄本家相続の義を秀吉卿より
 御申付有之、然る上ハ何れも我等を氏直と思ひ不相替
 勤仕被致に於てハ満悦たるへき旨被申候へハ、孫九郎を
 始め何れも返答申けるハ、氏直公御死去の上ハ北条家ハ
 断絶と存、何れも別して歎き入罷有候処御家より
 相続と有之候へハ我等共本懐此上も無御座候、其許様
 の御事ハ大聖寺殿の御末子にて渡ラセ玉へハ御主人と
 仰ぎ不申してハ叶不申義に候間、今日よりハ氏直公も
 
 御同前に奉存外ハ無之候、併今度御相続被仰付候段関
 東へ相聞へ候ハ韮山にて被召仕候先御家来共追々罷上り
 御奉公相願ひ可申ハ必定に候、先それ迄ハ我々等相勤可
 罷有と申処に、案の如く韮山落の浪人共段々と罷上り
 人多に罷成候ニ付、氏直家来共の義ハ皆々氏規へ断を
 申て大坂を立去り上京致し、其比西郡姫君様にも上    *西郡局と家康の娘 督姫
 方へ御登り御座被成候ニ付、氏直の御悔ミ又ハ此度何も
 関東へ罷下り候に依て御暇乞旁、惣名代として聚楽の
 御屋敷へ孫九郎罷上り候ニ付、松田左馬之助義ハ児小姓立の
 者にて氏直の側近く罷有、常々宣ひ置れし事なと
 儀も姫君様の御聞に入れ申度との義にて両人打連
 罷上り候処に、御局を以て品々の御尋なとも有之、其
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 上にて被仰出候ハ、関東より氏直の供を致し高野山中
 を始め其外所々を付まとひ、辛労致したる者共の義
 なれハ何とて流浪不仕様に被成度との思召ニ候間、暫く
 上方に逗留致し罷有候様にとの仰ニ付何れも申合せ
 誓願寺の寺中に止宿致し罷有候内に、姫君様より御頼の
 通、孫九郎を始め不残御旗本へ被召出候なり
一今度会津発向ニ付秀吉卿に先達て小田原表より出勢
 有之諸大名宇都宮近辺へ着陣有とひとしく、政宗か領分へ
 物聞目付等を指遣し、見分被申付候処、一段と物静にして
 出勢籠城の支度ケ間敷事迚ハ少も無之候ニ付、諸陣共に不
 審を相立候と也、然る処に秀吉卿宇都宮の城へ下着候へハ
 政宗義家老の片倉小十郎只一人を召連、手廻り人少にて
 
 宇都宮へ来り、城下を隔てたる禅院に止宿致して大
 谷刑部少輔方へ片倉を使者として申送りけるハ、先日ハ
 始て得御名何角と御取持に預り候段過分の至りに候
 其節申候通、我等義公儀を軽しめ申と有にてハ無之
 候へ共、一向の田舎育ち故、事を弁へなく奥州辺の国風に
 任せ私に兵を動し候段今更恐入後悔仕る外ハ無之候
 去に依て芦名領の義ハ不及申、本領米沢の城地共に
 今度差上申候間、宜御沙汰あられ伊達の名跡相続の義に
 於てハ偏に其許の御取持に預り申度候、此段以参可得
 御意候へ共、道中より病気に依て不能其儀先片倉
 を以て申入候と也、小十郎義ハ右の口上を申終て後
 印府仕たる箱二ツを持出、一ツの箱の府を切、是ハ芦名
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 旧領の絵図目録帳面にて候とて大谷へ渡し、叉箱一ツ
 持出、是ハ政宗先祖より相伝候米沢領の絵図目録にて
 候と申、封を切んと致し候を見て、大谷是を押へ、其箱の
 儀ハ先印封の侭にて我ら預置可申と有之留置、政宗
 方へハ片倉を以て御申越の趣区一承り置候、彼是可
 申承候、病気保養油断あられ間敷旨返答に及候と也
 右の如く政宗降人と成て宇都宮へ参陣候との義、奥
 州筋所々へ聞へ渡り候ニ付、出羽奥州に有とあらゆる大
 小の武士共大きに驚き、我も我もと宇都宮へ出仕致し或ハ
 名代を以て音信音物を送り、秀吉卿の機嫌を相窺ふ
 如く罷成候ニ付、秀吉卿ハ前後宇都宮の城に逗留致され
 なから出羽奥州の両国を悉く手に入レ被申候と也、其後

 大谷方より秀吉卿対面有へきとの儀ニ候間、家老片倉を
 召連、明早天登城仕候へとの義ニ付、翌朝に至り政宗出仕の
 処に秀吉卿対面あり、其上岡江雪を相伴にて政宗片倉
 料理を給り茶なとも相済候、以後又秀吉卿の前へ政宗
 を呼出され候処へ、大谷件の箱を持出、政宗前に差置候時
 秀吉卿被申候ハ芦名旧領の地ハ是を被取上候、其方持来候
 本領米沢の義も今度差上候と云へ共、手前心得を以て帰シ
 あたへ候条、相替らず領知尤也、我ら義も追付帰路の事
 に候条、早々帰城可然とて首尾能暇を給り候ニ付、政宗
 件の箱を押戴き一礼を述罷帰候と也、其節大谷は
 片倉に向ひ、会津領の義ハいつ比明渡し可被成候やと
 尋候処に、片倉返答申けるハ黒川の居城を始め其外の
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 城々等の義も悉く明候て、城番の侍足軽等少々居
 残り候迄の義に候間、只明日にも可差上と申候と也、政宗
 義ハ不及申片倉とても只尋常の者にてハ無之由其比
 取沙汰仕候と也、偖秀吉卿にハ長岡越中守を城中へ招
 き、会津黒川の城を受取、在番共に相勤候様にと有之付
 越中守領掌申て座を立、浅野長政を呼立、我ら義
 黒川の城地を受取、彼地に可罷有旨御申渡候付、先御請
 をハ仕候へ共、各にも御存知の通、親幽斉義高年の者に
 候へハ、拙者儀会津に永々罷有候義迷惑仕候間、早々
 彼地の守護を被仰付候様に御座有度旨願置候て
 忠興ハ会津へ罷越候と也、其節迄ハ宇都宮より直に
 帰京可有との義に有之候処に俄に様子替り、秀吉卿

 被申出候ハ、京都出勢の砌奥州外ノ浜にて発向せしむ
 へき旨申弘め白川の関をも不越して帰路と有も如何也
 幸ひ会津黒川の城地見分なから相越さるへき有て
 宇都宮を出て会津へ赴き給へと道すから勢至堂
 黒喜峠なと申切所を越し、就中黒川の城近く成て背
 あふりと申大切所なと有之を以て、秀吉卿兼てハ
 黒川の城に五三日も逗留あらるへきとの義に有之候か、唯
 一夜黒川の城に居玉ひ、翌日ハ早帰路に赴き八月十五日
 白川の城へ帰着被致、今宵ハ明月にも有之間、当城中に
 於て月見の会を可被相催の間、諸大名中にも登城可有旨
 触渡さる、其日の晩方に至り蒲生飛騨守義夫まて伊勢
 の松坂に於て十二万石の領知にて候を四十二万石に成シ
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 て会津黒川の城主ニ被申付、奥州の内葛西大崎三十万
 石の所を木村伊勢守に給り候と也、其日の暮方に至り何
 れも出仕の刻、氏郷も同く登城あり、書院の柱にもたれ
 月を詠して被居候処へ山崎右京も日比氏郷と入魂に付
 側近く居寄て、今日は大身に御取立会津拝領の段御手
 柄共に候と有之候へハ氏郷聞もあへず、御申の如く大身にハ
 成候へ共最早此氏郷ハすたり申候、奥州の田舎者と成り候
 てハとの返答に付山崎を初め一座の面々氏郷の大器の程
 を推量致し候と也、秀吉卿宇都宮在陣中の義、此末に記す
一、 三河守秀康公を兼々の約諾に任せ結城左衛門晴朝の方へ
 養子として差越被申候、婚儀等も相調候以後、我らも結
 城へ可罷越間、 家康公にも御出合被成候様にとの儀ニ付

 御手廻り計にて野州小山まて御出被成、結城へ御越被成
 夫より宇都宮へも御見廻被遊、江戸へ御帰城被遊となり
二、 本多中務忠勝義面談申用事有之間被差越候様にと江
 戸へ被申越候ニ付、 家康公にも御不審に思召、忠勝其節ハ拝領
 の城地上総国小多喜に罷越被居候ニ付、江戸表へ参上に不及
 在所より直に宇都宮へ参候様にと被仰付候へ共、忠勝ハ
 江戸へ立帰り御城へ罷出御目見申上宇都宮へ参上候処に
 秀吉卿にハ忠勝を城中へ招き、甲を一領忠勝か前に差置て
 被申候ハ、此甲の義ハ佐藤忠信か甲の由にて奥州より到来候へ共
 当時此甲を蒙るへき勇士其方より外に思ひあたり無之に
 依て其方へ遣すとの義也、忠勝是を頂戴之上、私家の重宝
 と仕り子孫へ相伝へ可申候、誠以忝仕合に候と申て罷立直ニ
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 江戸表へ罷越し登城して只一人御前へ罷出暫く御用
 有之又小多喜へ罷帰候となり
三、 蒲生氏郷を以会津の守護に被申付義、秀吉卿 家康公へ *氏郷(1556−1595)
 御申候ハ、政宗押領の地会津を差上候に於てハ早速守護職を
 不申付してハ叶間敷候、会津ハ奥州の押への場所の義に候へハ
 其人柄の□も可有事に候、尤小身にてハ相勤り申間敷候
 誰をか可申付と思案致し一両人存寄の者も有之候間、両人
 の名を我等も書付可申候間、其許に思ひ寄玉ふ者の名をも
 両人御書付可有之入札に致し、其上相談にて相究め
 可申と有之 家康公の御書付をハ秀吉卿請取玉ひ
 秀吉卿の書付玉ふ入札をハ 家康公御請取被成、偖御披き
 候へハ 家康公の御書付にハ一の御案蒲生氏郷、二ニ
 
 堀左衛門と有之、秀吉卿の書付にハ一ニ左衛門、二ニ飛騨
 守と有之候ニ付、秀吉卿偖々是ハ不思儀成事ニ候、一二の替り
 こそ候へ共、人の替りハ無之候、能も御相談申たる事かな、偖
 其元にハ一の筆に氏郷と御書付候ハ如何成御思ひ付にて
 候やと被尋候ニ付、 家康公御聞被成、先其元様にハ左衛
 門を以て一の筆に御書付あられ候御心入を御申聞
 候様にと被仰候へハ秀吉卿御申候ハ、奥州者ハ何れも強情に
 有之ニ付、左衛門か如くなる者にて無之候てハ治り兼可申かと
 存て一番に左衛門とハ書付候、其元一の筆に氏郷と有之
 に付て御心入の程承り度と御申ニ付、 家康公被仰候ハ
 仰の如く奥州者ハ強情に有之処に左衛門如くなる者を
 御申付候に於てハ、俗に申茶碗と茶碗の出合の如くにも
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 可有之や、氏郷義ハ武道にも相達し文学の志も有之、其上
 歌道、茶の湯なとをも好ミ花奢なる者に候へハ強情の奥
 州者にハ能つり合にても可有之哉と存候て一の筆に書
 付候と被仰候へハ秀吉卿聞玉ひて、御心付の段至極御
 尤に存候間、氏郷に相究可申にて候と御申候となり、其後
 奥州向所々に一揆起り候節、氏郷の裁判残る所なしと
 有て、百万石の領知を玉ハり候刻、 家康公御上洛被成
 候へハ、其元の御見立を以て氏郷を会津に差置候ニ付、奥州
 筋の義に於てハ心安く候と御申候となり
四、 或夜秀吉卿、諸大名其外法印達伽衆抔を呼集め談話の
 刻、佐野天徳寺義是ハ元来下野国佐野の城主の子たる  *佐野房綱
 に依て武備にも疎からず文才なとも有之、佐野の城下

 天徳寺の住僧成しか、故有て佐野を立去京都黒谷に
 隠遁の身と成て罷有候を、秀吉卿聞及ひ被申、関東筋案
 内と有て召具し下り玉ひ伽衆の中に加へ置れ候となり
 此天徳寺勝れたる口利にて、いつにても種々の古き
 雑談仕るニ付、秀吉卿の心にも相叶候となり、然るに其夜
 天徳寺義、武田信玄、上杉謙信両将の噂を申出し、信
 玄にハ日本に於て古来より無之座備と申義を致し
 初められ、謙信にハ信州川中島に於て武田家と一戦
 の刻、車掛りと申義を被致大利を被得候抔と申て両将の
 義を悉く誉メ候を秀吉卿聞玉ひて、やあ天徳寺、其
 方か申信玄謙信の二坊主めらか存命にて居候ハ、我
 等今度帰京の刻、一人にハ長刀をかつかせ、一人にハ朱
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 □ を持せて馬の先へ立て、京入の供を致さすへきに
 二坊主共に早く相果候て仕合なり、何の座備、車掛り
 たワ事計をと宣ひなから座を立て入られ候となり
 天徳寺を始め着座の面々何れもあきれ果候由、今時の
 俗佐野天徳寺宗綱と申候ハ誤りなり、天徳寺事ハ
 佐野修理大夫宗綱と申たる者の弟坊主なり
一其頃秀吉卿ハ白川より直に帰路に赴き被申、武蔵の府
 中に於て江戸の城へ御立寄あられ候様にと有之義を
 家康公より被仰遣候へハ秀吉卿御申候ハ、江戸表の義ハ
 小田原より宇都宮へ罷下り候節立寄て得と一見致し
 たる義にも有之、其上此時節御取込の段も察入候間、最早
 立寄間鋪との義ニ付、 家康公にハ府中の御旅館へ御

 出向ひ被遊候へハ秀吉卿御申候ハ、先頃江戸表へも立寄候
 て見分致し候処に、兼て承り及びたるにたかハす随分
 宜敷場所からに相見へ申候、其元の御居城に被成候ハ後々ハ
 形の如く繁昌の地と可罷成と御申、偖手前義ハ奥州
 筋の仕置荒増に申付、寒空にも向ひ候ニ付帰路仕る事
 に候、奥州押へのために申付候蒲生、木村事俄大名の義に
 候へハ人数少にて如何と此段を気遣ひ申事に候、右両人
 の者共身上相応の人持と罷成候迄の義ハ、其許を後楯に
 致す様にと蒲生、木村にも能々申含候間、左様可有御心得
 旨頼置候と被申候となり
一小田原にて被仰付候御家中知行割の義、諸役人中精を
 出し候ニ付、段々と出来致し候条、八月初より御加増を以て
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 城地又ハ在所高拝領の衆も有之、小身衆の義も江戸
 府内より五里七里十里の内外相隔候処に於ても知行
 の高下次第に知行所相渡り申候、其知行所の内にて
 名主頭百姓の家を明させ、或ハ寺院なとを当分居所
 と相定め駿府に罷有候妻子足弱等の義を拝領の知
 行所へ直に引越候間、大身少身の面々共に居所に事欠
 候者一人も無之御城の御番等相勤候衆中の義も
 在所より出府致し在所の遠近に依て五日七日も
 在府致し置候へハ、一ヵ年に幾日の御番皆勤と有
 訳も相立候如く被仰付、一ヵ年の内に五度七度御当地へ
 罷出候へハ事済候となり

一後々ハ知行所の内にて屋敷を見立、在所に在合の竹木
 を以軽き普請の調へ陣屋と名付て居住致し、遥か
 後御当地に於て居屋敷を拝領して引越し候と
 なり、去に依て只今に至て御旗本衆の知行所にハ
 陣屋屋敷と申て有之由なり、其節御役掛りにて
 在江戸不致して不叶面々の義ハ御城近くにてハ少き
 屋敷を請取其内に小屋を掛け、独身にて罷有御奉公を
 被致候由、其上北条家の時代遠山か家来共の罷有たる
 家なと数多有之候ニ付、其家屋敷を被下居住致し
 たる面々も有之候と也、右の通の御下知に依て七月中
 旬に御国替の義相定り候処、其年の八月末九月初頃
 にハ駿・遠・三・甲・信五ヶ国に居住致したる御家中大小
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 の武士一人も不残引払候段、其比秀吉卿にも聞及び被申
 家康公被仰付様を殊の外感じ被申、浅野長政へ
 御噂を毎度宣ひ候由徳永金兵衛覚書に有之、其頃
 御家中一番の大身と申て井伊兵部少輔直政上州箕輪
 に於て十二万石被下候か箕輪の城地不宜と有之今の
 高崎へ御引被遊候由、其外にハ榊原式部太輔康政へ
 上州館林にて十万石、本多中務太輔忠勝へ上州国小
 多喜にて十万石被下、此三人の外にハ相州小田原にて
 大久保七郎右衛門忠世へ四万石、下総国矢作の城地四万
 石を鳥居衛門元忠へ被下候ニ付、右両人御家に於て
 二番目の大身也、偖其外の衆中の義ハ三万石より一万石
 迄被下置、其頃一万石以上の衆中を指て人数持衆と

 申候と也、今時の俗に井伊本多榊原と唱へ候と有之右
 関東御入国の節十万石以上の大身と成三人の内一人宛
 番に替り上洛致し、京都に於ても秀吉卿より居屋
 鋪を給り其屋鋪に家作と調へ、在京中ハ御奉行の
 面々を始め国取大名衆とも申入能興行の出合迄を被致
 候様に有之ニ付、誰か申ともなく井伊本多榊原を
 徳川家の三人衆なとゝ申触候と也、其比座列の次第ハ
 井伊榊原本多と有之候へ共、人々の唱へ安きに任せ、井伊
 本多榊原と申ならハし候と也、右知行所割被仰付候刻本多
 作左衛門重次にハ城地増等をも可被仰付候処に、小田
 原陣中に於て 家康公へ秀吉卿御申候ハ、御家の本多
 作左衛門義今度我ら下向申ニ付道中筋所々の道橋
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 等の義に掛り骨折候と聞及び申ニ付、吉田の城中に
 於て我等逢可申と有義を加藤遠江守を以て再三
 申聞候処に、気随を申て出不申、随分の我侭者と相
 聞へ候、惣して一用一捨の人を用て召仕候と有ハ軍業
 の時節の事に候、最早其許にハ大身にも御成の上に候へハ
 作左衛門か様なる片口者を御用と有るにハ及び申間鋪と
 宣ひ候ハ、畢竟先年岡崎の城中に於て秀吉卿の
 御母儀大政所を焼殺し可申とある義の遺恨相残り
 候かと有る御推量を以て、一旦秀吉卿の憤りを御
 止め可被遊とある思召にも有之候や、上総国小井戸の
 郷に於て三千石の地を被下、鷹野を致して楽ミ候様にと
 被仰、御鷹抔を被下知行所へ蟄居被仰付、終に知行

 所にて死去候と也、 然共作左衛門旧功之程を思召候にや、其
 子飛騨守成重、越前の丸岡に於て五万石の城地を
 被下、三河守忠直の家老に御付ケ被成候と也、其比江戸
 の城の義を取持候甲州浪人曽根、遠山、真田義も五
 千石宛知行可被下との御内意候処に、最初の御約束ハ
 一万石宛と申義に有之候処、五千石可被下と候てハ御請
 申上候義不罷成候と申ニ付、榊原康政種々異見被申
 候へ共承引不仕、終に御家を立去京都へ上り石田三成へ
 便り関東の首尾を申達し、此上ハ身上の望も無之候間
 秀吉卿の直参に罷成度旨願候ニ付、冶部少其段を相
 達候処に秀吉卿宣ひ候ハ、身上の望を相止我らへ奉公致
 し度と申に於てハ呼出し召仕ふへきの間、江戸表へ
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 罷下り井伊榊原本多三人の者共の中より書状を取
 来候様に可申渡、左様無之てハ呼出されかたきとの義ニ付
 浪人にて上方辺に罷有候処に氏郷へ加恩の地を給り
 候刻、秀吉卿よりの内意共申、叉ハ石田か肝煎とも申、蒲
 生家へ身上相済一万石宛にて会津へ罷下り、遠山ハ
 程なく相果、子なくして跡式断絶致し、曽根内匠
 氏郷へ仕へ会津城普請の刻惣奉行を相勤候ニ付
 会津の城にハ甲州掛りの縄張抔今に相残り候と也
 真田義ハ後御旗本へ被召出五千石拝領被仰付候と
 なり
一秀吉卿白川の城に逗留の節、蒲生飛騨守、木村伊勢守
 両人浅野長政、大谷吉隆、石田三成此三人へ申達し候ハ

 我々共義今度不存寄御取立に預り、其上奥州押への
 場所に被差置候と有ハ外聞、実義共に忝仕合にハ御座候
 へ共、両人共に只今迄小身の義に候へハ手前持合の人数
 計にてハ御奉公相勤り不申義に候ヘハ新タに人をも召抱
 不申候てハ不罷成候へ共、我々共今度拝領の知行所を
 捨置上方へ罷登り申義も不罷成、留守居に差置候
 家来共の才覚を以余多の人を吟味仕り召抱差下シ
 可申と有之候てハ人数も添兼可申候、其上奥州辺の
 者の義ハ当分召置かたき様子も有之ニ付、別して人に
 事欠迷惑仕事に候、御聞及びの通奥州筋ハ一揆所の
 義にも有之候へハ、殿下御帰路の御跡に万一の義も
 有之節、大躰の事にも有之候ハ両人申合せ如何様にも
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 相計ひ可申候へ共両人の力に及ひ不申様なる義も有之
 間敷に非ず候、左様の節被下置候知行高相応の御奉
 公難申上とあるハ人数不足故と有之義を各にも兼て
 御了簡あられ、左様の節の御取合せを頼入存る由
 申ニ付、三人共に尤と有て其趣を申達し候処に、秀吉卿
 宣ひけるハ、両人申処一段尤なり、身上相応事に人に
 事欠さる如くの仕様に於てハ我等の心得に有る也、乍
 去誰にても片田舎の住居をハ好さる義なれハ、身上望を
 致事も有へし、夫ハ両人の心得に可有義なり、人に事
 欠さる様にと有之義ハ我ら請合候間、気遣ひ仕間敷由
 可申聞、万一両人の力に不及様なる義も有之に於てハ早々
 江戸表へ申達し 家康公の差図を請候様にと能々

 申聞置候様にと御申候となり
一同年九月朔日秀吉卿帰京あられ候と其侭増田右衛門尉長盛
 に被申付、京・大津・大阪此三ヶ所に高札を立させ、其札を立候近
 所に蒲生、木村か家来共出張を致し罷有て奉公望と有之
 諸浪人をハ吟味を相遂け役人共方より添状を付て指下
 すも有之又ハ高札の文言を聞伝へて国々所々より直に
 会津、大崎へ罷下候も有之ニ付、諸方の浪人招かずして奥州へ
 相集り候と結解勘助物語なり、右高札の文言にハ
  今度蒲生飛騨守、木村伊勢守儀俄に大身に被仰付ニ付
  人ニ事欠申候間、奉公望の浪人の義ハ云に不及、縦令古主
  より構ひ有之者又ハ其身小身にて主人へ不足ある輩ハ
  右両人方へ罷越相対次第知行取可申候、若先主より
p153
  相障り候共、今度の義に付てハ殿下より御裁許可致有
  との義也、仍如件
 此節中村式部少家来に成合平左衛門と申者有之、此者ハ
 隠れ無キ覚への者にて秀吉卿より直感状等を給りたる者ニ
 候へ共、式部少如何被存候や、知行纔二百石くれ置れ候に付
 大きに不足仕り罷有候処に、今度山中城責の刻平左衛門義
 藪内匠と一所に早く城へも乗入候処に、新参者の渡辺勘兵
 衛只一人の手柄に成り候にも、成合義不足に存る折節、木村
 伊勢守葛西大崎の守護と成りしニ付、中村方を立退 *葛西氏、大崎氏領
 奥州へ下り候処に伊勢守日頃目を掛、其身の器量をも存 *宮城北部 岩手南部
 知の義なれハ悦喜不斜して早速召抱へ、其方へハ百双倍
 の立身を申付るぞと有て組付共に二万石之知行と
 成し、領分の内佐沼の城代に申付ると也、其比御当家に *宮城県登米市

 於ても永井善左衛門、三宿勘兵衛両人義御旗本を立去
 会津へ罷下り氏郷へ仕へ罷有候処に、氏郷死去の後藤三郎*(秀行1583−1612)
 代に至り少身と成て野州宇都宮へ所替の節浪人    *会津92万石→宇都宮18万石
 致し、其後上杉景勝へ在付罷有処に関ヶ原御一戦以後
 上杉家知行減少被仰付候刻、叉浪人致し罷有候を
 両人共に越前中納言秀康卿御呼出の処に、御息三河守殿
 の代に至り、永井ハ御旗本へ帰参仕り、三宿義ハ秀頼卿
 の家人と成り大坂の城へ籠り、五月七日越前の手大野
 主馬組にて討死仕候となり
一同年十月奥州に於て木村伊勢守義、其身ハ大崎に在 *木村吉清(?-1598)
 城し、葛西の城にハ嫡子弥市右衛門を差置候処に、向後ハ *清久(?-1615)
 父子一所に罷有て可然とある相談のため伊勢守は
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 葛西へ志し弥市右衛門ハ大崎へと志て罷越す途中に
 於て父子計らざるに行逢幸の儀と有て右の相談に
 及ぶ処に俄に一揆蜂起して、葛西大崎の通路を取切
 多勢を以て木村父子を取囲み候を、父子共に粉骨を
 尽し従者共に身命を惜まず防ぎ戦ふに依て、差向ふ
 一揆をハ漸々と追払候へ共、葛西大崎の海道を差巻き
 候ニ付、何方へも罷帰る事不罷成、成合平左衛門に預け置候
 佐沼の城の義ハ程も近く候ニ付、父子共に佐沼の城へ馳入候
 へは、一揆の勢押寄来りて城を取巻攻る事急也、是に依て
 氏郷方へ加勢の義を申達す処に、氏郷心得候と有り先は趣を
 家康公へ申上、国丸中務を以伊達政宗にも出勢可有旨申
 遣候へハ、相心得候との返答に依て氏郷三千の人数を率し

 出勢して政宗か陣所へ立寄、明朝ハ早天に打立佐沼表へ
 相働可申候、是より佐沼迄の間に一揆の城数如何程有之
 候哉と氏郷尋ニ付、政宗返答に申けるハ、佐沼迄の間に一
 揆の城と申てはハ清水と申城より外にハ無之候と也
 氏郷重て申候ハ、然るに於てハ先清水の城を攻落して
 夫より直に佐沼表へ相働き一揆の奴輩を打果し可申候
 我等義此辺土地不案内の事にも候へハ其元先陣あられ
 可然と有之候へハ政宗聞て、兼て我ら義も其心得にて罷
 有との返答ニ付、氏郷ハ陣所へ帰り政宗出勢に押続き出馬
 可然との支度の処に、其夜中に至り政宗使者を差越して
 申けるハ、明朝出勢の段御約諾申通り相心得罷有候処に昨
 宵より持病差発り平臥の躰に候へハ、明早天の出勢難
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 罷成候間、随分と保養を加へ少も扶に於てハ御跡より出勢
 可申となり、氏郷返答被申候ハ、折角御保養尤に候、手前義ハ弥
 出勢申にて可有之と也、然れ共政宗儀俄の病気と有段
 心得かたきに依て、俄に行軍の次第を替、先手たりし
 関忠次郎を以て跡備と成して政宗を押へ、蒲生弥左衛門
 を先勢として清水表へ押向ひ候処に、各生の城に籠り
 居たる一揆の勢突て出、氏郷の備へ討て掛り候を蒲生源
 右衛門、同忠右衛門其外の者共力戦して一揆勢を追立、逃
 行敵に押続きて城内へ攻入、二三の曲輪を乗取の旨
 相聞へけれハ氏郷も自身城際へ乗付、諸勢を下知して即
 時に本丸を乗鋪、楯籠る処の一揆共五百七十余人是を
 討取る、然る処に政宗も跡より出勢して氏郷か備の躰を


 見せしむる処に、跡備の関忠次郎ハ足軽長柄鎗等をも跡の
 方へくり替、偏に政宗か押へと相見ゆる如くの人数の立配り
 なれハ、偖ハ氏郷も用心油断無之とある義を政宗も合点
 致し候と也、氏郷ハ名生の城下に野陣を居へ罷有処へ
 政宗一万計の人数を引連来て、氏郷方へ使者を以て申
 送りけるハ、夜中にも申入候通、俄に持病差発り今朝の出
 勢延引の上名生の城攻の手首尾にも逢不申段、其元の思
 召第一ハ京都への聞への程旁以て迷惑仕候と也、氏郷聞て
 病気と有之上ハ不及是非候、其元にも御存知無之と相見へ
 清水の城より外一揆の城とてハ無之由、昨日御申聞の
 処に当城を始め其外古河松山、宮沢なとゝ申城々に一揆
 楯籠居申段相聞へ候、其内古河松山の一揆共ハ退散致し
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 候へ共、宮沢の城にハ一揆共楯籠罷有由に候間、其元の人数
 を以て是を攻落され候ハ京都への申分ケにも可罷成間
 早々発向あられ可然旨返答被申、名生の城中の掃除等
 も出来候ニ付て氏郷ハ城中へ引入、佐沼の城へ人数を遣し
 木村父子をも呼迎へ、猶又政宗方へ使を差越し、宮沢
 の一揆退治の義を氏郷より催促候と也、右名生の城落
 去の夜に入て政宗譜代の侍に須田伯耆と申者政宗へ
 対し不足の義有之を以て、伊達の家を立退蒲生源
 左衛門に便りて蒲生家へ奉公を望来りて、源左衛門に申
 けるハ、此間氏郷にハ佐沼表加勢の相談として政宗方へ来
 陣の刻討果し可申との支度に候へ共、京都への聞へを憚り
 其義を相止、所々の一揆共に諜し合氏郷の軍勢と一戦に

 及ハせ其跡より政宗勢を発して氏郷を討果し、一揆の
 為に討れ給ふと京都へ披露可致との相談を以て、俄に
 病気と称し出勢延引候へ共、氏郷にも其段御心付候と相見へ
 跡備等丈夫に御申付、名生の城をも早速乗取玉ふに依て
 政宗兼々の支度相違致し候旨委細に申達るニ付、此間
 政宗宮沢の城を責兼候義共に悉く相知レ候と也、其比
 浅野弾正長政ハ秀吉卿の命に依て甲斐、信濃両国
 の土地見分として帰路に赴き、駿河の府に至て奥州
 一揆の事を聞て、夫より取て帰し先江戸表に来り
 御城へ罷上りて 家康公の思召を相伺ふとき長政へ
 被仰聞候ハ、奥州一揆の趣、氏郷より注進有之重ての
 注進次第我等も出勢可致心懸にて、先手の義ハ結城
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 三河守秀康、榊原式部太輔を相添、其外諸勢共に支度を
 調へ只今にても氏郷よりの一左右次第に出勢可申と存る
 義也、貴殿義ハ先達て罷下られ可然旨御差図に依て
 長政義ハ罷下る、其後秀吉卿よりの使節として石田三
 成も罷下り、今度奥州一揆蜂起ニ付、殿下にも重ての注
 進次第出馬可有との義にて、先陣清須中納言秀次
 にハ近き内御当地へ着陣可有之間、御待合せ被遊可
 然と申候へハ  家康公御聞被遊、我等事奥州発向の心
 掛にて結城三河守、榊原等義ハ先達て出勢致したる
 義なれハ、秀次の着陣を相待迄もなく出馬せしむへき也
 貴殿にハ如何被致候やと御尋被成候へハ三成承り、私義ハ
 是より水戸へ相越、佐竹義宣へ出馬被致候様にとある

 義を申渡し直に奥州へ罷下り候、と申上罷帰る跡にて
 御陣触被仰付、天正十九年正月三日御出馬被遊、岩付の
 城中に御在陣被成、奥州よりの注進を御待被遊、政宗ハ
 家康公御下向可被成との趣を聞て身の難を遁れんか
 ため浅野長政か旅陣へ罷越し、身の誤りなき旨を陳し
 申けれハ弾正聞て、其元被申通野心無之候ハ家臣片倉に
 家老の内今一人も相添、氏郷方へ証人として御差越尤の由
 指図ニ付、其旨に随ひ、片倉共に家老両人名生の城へ遣す
 処に、氏郷是を携へ黒川の城へ帰陣致し、依之奥州筋
 一揆沙汰相止候ニ付、長政ハ二本松より江戸表へ使者を以
 て委細の義御注進申上、最早御出馬被遊に及び不申候
 との趣を岩付の城に於て御聞被成、御先手の衆中の
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 義も早々帰陣可被致旨御下知被成、正月十三日江戸へ
 御帰陣被遊候処に、翌十四日尾州中納言秀次、奥州
 発向として武蔵の府中へ着陣有之ニ付、 家康公
 府中へ御越被遊、手前義も岩付より帰り候間、自是帰
 陣あられ可然旨被仰談候となり
一同年閏正月三日 家康公関東御入国以後初ての御上
 洛として江戸表御首途被遊、同十五日御入洛被成候処、蒲生
 氏郷も会津拝領の御礼として上京ニ付、御在京中毎
 度御参会被遊候となり
  右御参会の節 家康公氏郷へ会津城普請の義を
  御尋被遊候ニ付、氏郷被申上候ハ、芦名時代より会津の
  城の義ハ皆以芝土居にて有之候を今度不残石

  垣に築直し申候、不肖の私を奥州の押へにと有
  之過分の加恩に罷預り候へハ、せめて居城を成
  とも見苦鋪からざる如く致立可申と存、諸国の城
  城の普請の様子をも承合候処に、毛利輝元の居城
  芸州広島の城普請の様子私心に相叶ひ候ニ付
  会津の城本丸、外郭共に広島の城に似寄候
  様に取立可申と存候、と被申上候へハ 家康公
  被聞召、惣して居城の大小と有ハ城主の身上
  相応の心得も可有之事に候、本丸を始め二三まての
  曲輪の義ハ堀、矢倉等の義も随分念を入、丈夫に
  致候義尤に候、其外の曲輪の義も一二の門扉形等の
  義ハ俄の普請に出来兼申ニ付、兼て普請をも致し
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  置ずしてハ不叶事に候、惣構へ塀なとの義ハ其
  心掛をさへ致置候へハ急用の節も出来申ものな
  れハ、常にハ土居石垣計にて差置たるか能候、長
  塀のかけ置と有ハ用にたゝぬ物にて候、芸州広島
  の如く外郭まて塀を掛ケまわされ候にハ及び
  申間敷候哉、松永弾正か工夫にて和州志貴の城
  に致し置たる多門矢倉と申ものハ二三の曲輪内
  なとにハ致し置て一段と調法なる物に候と有御物
  語ニ付、氏郷京都より帰られ其前方好ミ置れ候
  惣郭の城の義も相止ミ、三の丸にハ塀を掛、所々に
  多門櫓を立らるへきとの義に有之候内に、氏郷死
  去に付、城普請相止ミ只今に至り会津の城、三の丸

  にハ塀矢倉も無之候由、蒲生家に罷有候結解勘助
  浅野因幡守殿へ物語なり


落穂集巻之五終