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          落穂集巻之八
一家康公伏見御城入被遊候てハ、向島に御座被成候節とは
 格別に御威光も増り候かと有之ハ、其比 細川忠興へ豊
 後杵築五万石、堀尾吉晴へ越前の府中五万石、羽柴右近
 大夫忠政へ信州に於て二万五千石の加恩を被下候へ共、大
 老衆、四奉行の面々より兎角の義を申事も不罷成如く罷
 成候と也、尤諸願ひ公事出入等の打捨り有之事共をも
 段々と御取上有之御裁許被仰出候中にも、宇治の茶師仲
 ケ間茶料の願の義なとハ数年埒明不申処、 家康公御聞届
 被成、願の通りに被仰付、九鬼大隅守と稲葉蔵人公事相の
 義も御裁許有之、大隅守負ケ公事に成候ニ付、嘉隆心外な
 からも其節ハ兎角を申出る義も不罷成、其遺恨に依て翌
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 年関ヶ原一戦の節、石田手へハ一味致し候となり、其比加藤
 清正、黒田長政、浅野幸長を始め、七人一同に訴訟被申候ハ
 我々共朝鮮表に於て、異国人共と一戦に及び軍忠を
 相励候処に、彼地へ被遣候御目付七人の内、福原、垣見、熊谷
 大田、早川五人の輩申合、御注進状の趣麁略たるに依て
 先公よりの御賞美等も無之段不審に存じ、帰朝の以
 後彼是と承り合候処に、先公御病気付れ候以後、朝鮮征
 伐一まきの義に於てハ外の奉行中ハ構ひなく、石田一人の
 取計と有之に付て、我々存分の趣三成取次を以公義へ達し
 御吟味の上五人の者共非分と有之に於てハ相当の御仕置
 にも被仰付被下度旨、再三に及び三成方へ申遣し候へ共
 曽て許容不致、剰へ不礼の返答に及び候ニ付、其通りには

 致し置かたき旨打寄相談仕ると有義を三成聞及び、大坂
 を逃出当地へ罷上り、内府卿の御介抱を以て佐和山に
 蟄居仕り罷有候由ニ候へハ、 三成義ハ相手に不罷成候ニ付、止事を
 えず直訴に及び候との義也、依之 家康公御取上ケの筋に
 罷成、殊の外御苦労に被思召、四奉行の面々へも御内談有
 之候と也、右出入の義ニ付、朝鮮国蔚山の城を大明の大軍を
 以て攻撃候節、城主浅野幸長ハ不及申、加勢の加藤清正
 黒田長政両人莫大の働有之候義を、福原を始め五人の目
 付中心を合せ疎略なる注進状の文言故、同役毛利民部、竹
 中伊豆両人同心無之、ケ様の書面に候てハ我々義ハ加判不罷成
 候間、我々共両人方よりハ各状を以可申上と申ニ付て、垣見
 熊谷、吉田、早川四人と右の両人と口論と成り、既に事に可及と
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 有之刻、福原種々取扱ひ注進状の文言を所々書改め候へ共
 猶も両人ハ得心無之候へ共、惣じて注進状の義ハ七人相談の上
 多分に付て事を決すへき旨、神文の前書にも御書のせ候上ハ
 連判可然旨福原達て申ニ付、無是非両人も加判致し候と有風
 説なとをも 家康公御聞被遊、七人の面々へ付添渡海仕り
 たる直参の輩、其外寄合所の下役人等に至る迄四奉行列
 座の中へ呼出し穿鑿有之処に、右口論の節ハ勝手に合詰罷り
 有候面々共に其座へ罷出、委細承り候と有て何れもの申口世
 上の取沙汰に相違無之ニ付、奉行中其口書を取て 内府へ
 被差出候と也、 其比 家康公にハ藤堂佐渡守を御呼被遊、其
 元にハ毛利民部少輔と心安きとあるハ如何様の由緒に候ぞと
 御尋被遊ニ付高虎被申上候ハ、私の年若き節秀吉卿播州姫

 路の城に御入候砌、同国三木の城責の刻、民部深手を負候ニ付
 手疵養生の内介抱致し遣候を過分有之、只今に至る迄私
 義を民部如在不仕候旨被申上候へハ、然るに於てハ其元民部方へ
 被相越、朝鮮陣中諸大名働の甲乙の段、民部雑談の趣を
 能々聞届、我等へ演説あられ候様にとの仰ニ付、高虎毛利か
 宅へ罷越閑談の節、右の趣を被申述候へハ、民部聞て高虎へ
 申候ハ、此間七人の大名中と我々仲ケ間五人の者共との出入の
 義ハ公義沙汰に及び、近き内に 内府卿御裁許あらるへき
 趣に候、然るに於てハ某抔も右の評席へ被召呼義も可有之間
 左様相心得候様にとの知らせの方も有之ニ付、其覚悟にて罷
 有事に候、然ハ手前義も公事人の義にも有之処に、日比入魂の
 其元にてもあれ、口上を以て申と有ハ 内府卿の御下墨の
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 程も如何に存る処也、不調法の我々を先公の御見立を以て大切
 の役義にも被仰付たると存、朝鮮へ着岸の日より帰帆迄の間
 の義を悉く書留め置候日記を貴殿へ進し可申間、披見あられ
 内府へ演説可被致ハ格別、口上にてハ一言も申間敷と有て日記を
 取出し高虎へ被相渡候を則持参の処に、 家康公御悦被成、民
 部義を高虎へ御賞美被遊候と也、其後弥御吟味有之双方
 対決の日限相極り、故太閤の時代御前公事と申て度々有之
 たる規式の如くとある仰ニ付、奉行諸役人列座の前へ七人の目付
 中ハ左右に相分れ罷有候内、一方両人の内竹中ハ病気ニ付、出座
 無之、毛利民部一人罷出、一方ハ福原を始め五人出座也、干時徳善
 院五人の面々に向ひ、朝鮮陣中に蔚山表に於て浅野幸長、加
 藤清正、黒田長政の輩戦功の義、各中よりの注進状の趣キ

 疎略たるに依て先公の御賞美無之段心外の旨、右三人を始め
 七人一列にて強訴有之ニ付て、今日其旨を相糺さるへきとの
 義也、是ニ付右注進状の趣、毛利、竹中心底に不相叶を以て
 加判被致間敷との義ニ付、仲ケ間中口論に被及候旨専ら世上に
 申触候ハ如何様の子細に候やと尋有之処に、五人の面々早速の
 返答無之、其時民部少輔玄意へ向て申候ハ、右御注進状の義ニ付
 我々共両人、五人の面々へ対し争論に及び候と有ハ世上取
 沙汰の通り候相違無之候へ共、福原右馬助了簡を以少々文
 言を書改め候ニ付、私共義も判形を仕り差上候上ハ只今に至り
 兎角を可申上様も無御座候間、七人一同の御沙汰に成し置れ
 可被下旨申述候、干時浅野長政五人の方へ向ひ、朝鮮国へ渡
 海の前先公より各中へ被仰付候神文の前書にも七人相談
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 を以て吟味を相遂、評義一決の上に於て言上に可及と有之義ハ
 肝要の御条目にも有之処に、御注進状の文言両人の心に不相
 叶、加判致間敷と有之ニ付ての争論の旨 内府卿御不審
 不少、我々共義も其通りの事に候、此段申開かれ候へと有之処、福
 原を始め五人の面々一言の答へにも不及閉口ニ付、 家康公にハ
 御座を御立被遊、評席相終て後、浅野長政宅へ奉行中大
 坂目付役の面々立合の席へ五人の面々を呼出し、奉行中被
 申渡けるハ、朝鮮の義海路遥に隔たりたる義にも有之ニ付、渡
 海被致たる諸大名軍忠戦功の浅深を委細御聞被成度とある
 先公の思召を以て各中を以て其役義に被仰付候上ハ、実正
 明白の義を可存処に依怙贔屓の沙汰に被及候段、不届の至り
 其罪科不軽の上ハ先公の御代にも有之候ハ急度御仕置にも

 可被仰付候へ共、当時御幼君の御代にも有之ニ付一等軽くとある
 内府卿の御心入を以、各領知被召放、御改易被仰付との義にて
 事済候と也、此公事御裁許以後 家康公の御威光日比に倍し
 諸人弥尊敬仕候由
  右出入の義を其時代の事を相記し候書物等に異説多く相
  見へ候、公事御裁許の刻、福原一人ハ豊後府内の城地被召上
  改易被仰付、相残る四人の義ハ領知に御構なく逼塞被
  仰付候と有之候、我等承り伝へ候ハ五人一同に改易被仰付候
  福原、垣見、熊谷三人ハ佐和山へ罷越し候、其内福原ハ
  石田近き縁者たるを以て佐和山の城中に罷有、垣見と
  熊谷義ハ三成介抱致して佐和山の近辺に隠し置、翌年
  の秋、 家康公会津御発向の御留守に至り、三成大坂へ罷上り奉
  行中と相計り四人共に秀頼卿へ帰参致させ、福原をハ濃
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  州大垣の城代に申付、垣見と熊谷にハ同所備中曲輪を預ケ
  候と也、 右の公事落着の刻太田飛騨ハ筑紫へ下り居申処に *太田一吉
  秀頼卿より帰参被申付候とある奉行中よりの奉書到来ニ付、
  旧領なるに依て豊後臼杵の城に楯篭候処に、中川修理大夫  *中川秀成(東軍)
  御味方するに依て、同国岡の城より勢を出し、太田正信を    *太田一吉(政信)
  攻囲ミ候となり、此節垣見家純か居城富木の城、熊谷直陳か
  安岐の城に両人か家来共楯籠候を、黒田如水軒中津の城
  より馳向ひ、両城共に攻落し被申候義を以て、偖ハ垣見
  太田、熊谷なとハ当分の逼塞迄にて所領の義ハ相違なかりし
  との心付にて、福原一人計領知を被召放とハ書記し候かと
  推量仕候事に候、五人の輩逼塞と被仰出候に於てハ、大坂の近
  辺なとにこそ閑居可致義なるに、三人ハ佐和山へ罷越、太田ハ

  九州へ下り申如くにハ無之筈の義也、五人の中にて早川主馬
  事ハ改易に罷成刻、奥州辺へ罷越候とある取沙汰ハ有之候
  へ共、如何罷成候や翌年の七月四人の面々秀頼卿へ我等
  若年の刻、水野如心と申たる老人有之、此者ハ加藤清正に
  仕へ、関ヶ原一戦の節ハ肥後国に罷有候と也、此如心物語仕候ハ
  関ヶ原御一戦の義、初の程ハ十に一ツも関東方の御勝利に可
  罷成と有趣にハ西国筋にてハ風聞不仕ニ付、清正にもひたす
  ら籠城の支度迄有之候処に、御味方の諸勢を以て濃州
  岐府の城を攻落され候との趣、黒田如水より告知らせ被申候ニ付
  主計頭を始め家中の侍共大きに安堵致し、夫より後ハ籠城の
  用意を相止め、他国発向の心懸ケニ罷成候と也、然ハ垣見、熊谷か家来
  共義も主人帰参の一左右も有之、其上石田方勝利に有へきとの
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  風説なとをも承り伝へ候ニ於てハ、悦ひ勇ミて破れ城を取立籠
  城の色を相立申間敷物にても無之候かと存る処也
一家康公伏見の城へ御移り被成候節、毛利輝元を始め三
 大老の面々御悦として大坂より御見廻被申候に、其返礼として
 御下向の御沙汰も無之、左なく候ても秀頼卿、淀殿なとへも
 御対顔のため、折々ハ大坂へも御下り可被成義にも候処に、如何
 様なる思召に候やなとゝ申て、諸人不審仕候段浅野長政被
 聞及、何とそ御下向被遊様に被致度との心入を以て、伏見
 在番の節本多佐渡守迄寄々是を被申候へ共、御下向の沙
 汰無之ニ付、長政大坂へ帰りて後、片桐市正も大坂より罷上り
 御見廻申上、御雑談の折節久々秀頼卿、淀殿への御対顔も無
 御座候付、末々にてハ何かと取沙汰にも及び申由に候、諸人安堵

 のためも有之候間、近き内に御下向被遊御尤に奉存候、弥御下
 向有てハ先年の通り、私方に御止宿被遊被下度旨被申上
 候へハ、家康公御聞被成、其方被申通り我等義も大坂下
 向の心掛有之ニ付、数度に及び供の人数の沙汰にまて及候へ共
 当春中より持病の寸白差出、気分相勝れさるを以て延引   *寸白(すばく)サナダ虫
 の事に候、此節ハ暑気も強く候間、今少先へ寄り、世上も涼しく
 成候ハ必ず可罷下間、其節ハ不相替貴殿の宅に止宿可致と
 迄の仰にて、いつ比とある義をも不被仰出候ニ付、片桐も大坂へ
 罷帰候となり
一四月十八日故太閤秀吉卿の廟社へ豊国大明神と社号を
 勅許有之ニ付、翌十九日遷宮の規式有之、秀頼卿より福島左衛門
 太夫、北の政所よりハ青木紀伊守を名代として社参なり、此日
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 家康公にも豊国へ御参詣被遊、明神へ御奉納の義ハ不及申
 末々の社家社僧等に至る迄悉く御施物被成、夫より直に照
 高院へ御寄り被成、天台宗の論義を御聴聞被成、伏見へ
 御帰城被成候となり
  右豊国社号の義、秀吉卿在世の時より新八万宮と有之社号を
  深々の願に候へとも何とぞ相障子細抔も有之哉
  勅許無御座候との一説なとも有之
一其比家康公にハ伏見在番の奉行の外に一人御用の義有之旨被
 仰出、増田右衛門尉大坂より罷登候ニ付、奉行中両人を御呼被成
 朝鮮征伐之義ニ付彼国へ相渡り永々在陣、戦功有之面々の義
 故太閤御在世にも候ハ夫々の御賞美等も無之てハ不叶義候へ共
 今程秀頼卿御幼年の義にも有之ニ付、其義無之候、責て休息のため
 
 在国帰城被致候様にと存る事に候、我等ケ様に申旨老中方へも
 物語あられ、各へ御暇の義を被申渡尤に候、其内朝鮮両陣
 を被相労たる面々の義ハ来秋中迄休息被致候様に可被申渡候
 是ニ付輝元、秀家両卿にも朝鮮在陣中久々名護屋に被相詰
 夫より只今迄大坂に被相詰大義千万の義とハ察し入候へ共、外
 々の諸大名の如く我等差図と有之段ハ遠慮に候間、奉行中
 相談の上手前存寄の通りを演説あられ尤に候、且又各中五人
 の内も一人宛帰城有て休息あられ候様にと被仰渡候尾ニ付、増田
 大坂へ帰て大老中へ申達る処、輝元、秀家被申候ハ、当時御幼君
 の事にも有之候へハ、御成長あられ候迄ハ御当地に相詰申外ハ
 有之間敷と相心得罷有処に 内府卿各中へ右の通りの内意の
 上ハ我々共義も御暇被下置度との義ニ付、其趣を伏見へ注進
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 有之処に、然るに於てハ故太閤御在世の旧例に任せ、大老中を
 始め、国々郡主たる面々へ秀頼卿より御暇給ハるニ付、拝領物等の
 義も宜く取計ひ、沙汰可被致旨大坂奉行中へ被仰越候と也
 然る処に上杉景勝奉行中へ被申候ハ、我等義故太閤の御代
 会津を拝領の刻、入部の御暇被下候へ共、在国の間もなく御当地へ
 罷越候ニ付、領地巡見に不仕、其上 内府卿にも御存知の通り一揆
 所の義にも候へハ、願くハ帰城致し領分の仕置等をも申付候様に
 仕度と也、同く加州利長にも亡父大納言跡式拝領仕後、入部をも
 不仕義に候へハ、同名能登守共に御暇下し置き度との願ニ付
 奉行中打寄、右両卿の願の段 内府卿へ相達候に於てハ御不興
 あらるへきハ必定たりと云へ共、去なから其通にも致置かたきとの義
 にて、伏見へ被申達候処に、 家康公ハ聊の御咎めも無之両人被相願候

 趣尤に候間、勝手次第発足被致、来三月に至り所の雪なとも消へ
 払候以後参勤可被致旨を以て、秀頼卿より御暇の義被仰出
 可然旨、奉行中へ御差図被遊候と也、其節老中三人の義も
 帰城有之、奉行中にハ長束大蔵帰城の筈に候へ共、 内府卿
 大坂へ御下向可有之との取沙汰ニ付て、御待請のため逗留の由なり
 八月初の比 家康公にハ徳善院玄意を被為召、久々御参内不
 被成候間、其方伝奏中と相談あられ可然様に取計ひ可有之
 旨被仰渡候ニ付、玄意法印上京して其段申達るニ付
 叡聞に達し候処ニ、来ル十四日参内あらるへき旨
 勅宣ニ付、 家康公御参内被遊、禁中より直に高台院の御座
 ます上立売の館へ被為入、其日の晩景に及び伏見へ御帰城
 被成、翌十五日八幡へ御神拝のため御越可被成との義に有之
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 候処に、八月十六日の義御祭礼日たるに依て、諸人参詣の妨ケ
 にも可罷成やとの思召を以て御延引被遊、十六日御参詣相
 済、其後大坂奉行中一人御呼登せ有之被仰渡候ハ、我等義
 疾にも大坂へ下り、秀頼卿御成長の程を見参らせ、淀殿へも
 御目に掛り度と存る処に病気故心に任せず、頃日に至りてハ気
 分も快成候へハ、来ル九月初比に至り重陽の祝義を相兼下向
 可申候間、其旨を各中被相心得尤に候、兼てハ市正方に止宿可致旨
 市正へも及約諾候へ共、亭主の心遣ひも如何に候間、石田治部少居
 屋敷、当分明て可有之間、逗留中ハ彼宅に止宿可申候間、左様被
 相心得候様にとの仰ニ付、奉行中大坂に帰り石田屋敷の修理被
 頼掃除等取急ぎ被申付候と也、かくて家康公にハ九月七日
 御船に被為召淀川を御下り被成、其日の申刻に至り御着岸

 被遊、直に御旅館へ御入被成候処、其節在大坂の大名小名何れも
 御見廻被申ニ付、御門前に馬乗物の立所も無之候と也、夜に入けれハ
 増田長盛、長束正家両人御見舞被申、良久敷密談の義有之
 両人帰宅の後、井伊直政、榊原康政、本多忠勝三人に本多佐渡守を
 御加へ有之御側近く召呼れ、右の両人来て御知らセ申候ハ、加州
 利長より浅野長政に内談有之、明後九日本丸へ我等相越候に
 於てハ、土方勘兵衛、大野修理両人に申付殺害致さすへきとの義也
 各いかゝ被存候やとある御意の下より佐渡守被申上候ハ、両人の奉
 行中御前へ対し跡かたもなき事を可被申上様も無御座候、左様の
 義にも有之候ハ先御病気分に被遊、重陽の御出仕をハ御無用に
 被成、伏見より御人数を被召下可然と也、直政、康政、忠勝三人の義ハ
 御作病を被成御出不被成候と有之も如何の義に候へハ、其御心掛を
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 さへ被遊候に於てハ御別状有間敷旨各被申上候へハ、其義ハ兎も角も
 佐渡守申通り、伏見の御人数の義可被召下との仰にて、伊那
 図書を被為召、結城秀康公の御方へ委細の御口上を被仰含
 候ニ付、図書義早速支度を調へ其夜中に大坂を馳出し、翌午ノ
 刻以前に伏見へ着、秀康公の御屋形へ参じ御口上の趣を申
 達候処に、秀康公にも御驚き被成、早々本丸へ御出有て御
 留守に被居候諸番頭、諸物頭中を不残御呼有之、今度大坂
 表に於て俄に御入用の義有之旨伊那図書を以て被仰越候
 間、各早速支度を調へ大坂へ可被相越、当城御留守の義ハ一円
 我等人数を以可相勤間、諸番所等をも明置、片時も早く打
 立可申旨御申付候と也、 偖大坂に於て 家康公ハ八日の晩方
 増田右衛門方へ御見廻被成候処に長束大蔵も御跡より被参暫ク

 御閑談の以後御帰り被遊、翌九日の朝辰刻至り本丸へ御出被成候節
 本多正信ハ御留守に被差置、井伊、本多、榊原の三人の外に御譜代
 大名四人、御使番衆五人以上十二人御供致候ニ付、桜の門の番人共
 御供衆多く候間、残られ候様に被申候へ共、とかくの返答にも不及
 家康公式台へ御上りの節、御供衆何れも袴のくゝりを解キ御供
 にて罷上られ候節、増田、長束両人御迎に出御挨拶申上、夫より両人
 共に御先立を致す処に、浅野弾正ハいかゝと御尋被成候へハ、夜中
 より俄に煩出し今朝其元様御上りに候へとも、罷出申躰に無御座
 迷惑仕る旨私とも方まて申越候となり、偖千畳鋪の廊下へ
 御懸り被遊節、井伊直政跡を見返り御使番衆へ向ひ、各夫
 にと有之ニ付、五人の面々ハ相残り七人の衆中ハ猶も御供被致候
 を秀頼卿の目付中、是に被相残候へと有之時、酒井備後守
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 彼仁へ立向ひ、今日の義 内府用心不被致して不相叶仔細
 有之により、我々共付添罷越候と苦々鋪被申候へハ、其跡ハとかく
 の詞も無之候と也、右七人の中にも井伊、本多、榊原三人の衆ハ秀
 頼卿へ御対顔の御座敷と障子一重こなたに控へ居られ、やゝ
 しハらく御挨拶事終りて後、御立被成千畳鋪の廊下の
 前を直に右の方へ御出、大台所へと仰ニ付、右衛門、大蔵御先ニ
 立御案内申上る処に、酒井備後守を御呼被成、此大台所に有之
 二間四面の大行燈ハ外ニ無之物也、供の者共に見せよとの仰ニ付
 備後守承られ、中の口へ出て御供中を同道して被参候へハ
 各に御見せ被遊、夫より直に内玄関へ御出被遊、御供中を被召
 連御旅館へ御帰り被遊候となり、然る処に伏見に罷有御家人ハ
 秀康公の御下知に依て我一ニ我一ニと馳下り候ニ付、石田か大屋

 敷に居余り、石田木工頭か屋敷の内に迄入込罷有と也、依之大坂*正澄(1556-1600)三成兄
 中の貴賎大きに肝を潰し、是ハそも何事ぞと申合て騒動          
 仕ると也、 家康公兼て翌十日伏見へ御帰城可被遊旨被仰
 出候へ共十一日迄御逗留被遊、十二日の朝大坂を御立被遊候処、伏見より
 参つとひ被申たる衆中不残御供被致ニ付、四千余りの御人
 数にて御登り被遊候と也、其比 家康公増田右衛門、長束大蔵
 両人へ被仰談候ハ、加州利長義浅野長政と相謀り、土方、大野に
 申付、我等を殺害可為致との陰謀の段ハ、各の心添に依て我等
 其当難ハ相逢れ候、然る上ハ悉く吟味を相遂、其旨趣をも聞届ケ候様
 に不致してハ不相叶義ニ候へ共、左様有之候てハ、世上も事さわかし
 く成り公義の御為如何と存るニ付、先今度の義ハ其通りと存る
 事に候、然れとも土方大野両人の義迄をも何事なく差置候てハ
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 向後のためも如何に候へハ、急度致したる御仕置にも申付度義
 候へとも、各にも被存通り彼等両人の心より出たる事にもあらず
 其上公義へ対して逆意有と申にても無之候へハ、両人共に遠
 国大名の方へ御預ケなとにも可然やとの仰ニ付、両奉行にも
 近頃寛仁なる思召共に御座候と御挨拶申上、其後土方ハ佐竹
 義宣、大野ハ結城晴朝両家へ預と成、大野ハ十月二日、土方ハ
 同月三日に大坂を立て配所へ趣き候となり、干時浅野長政
 増田・長束へ申けるハ、我ら義ハ各にも被存候通り、先公御代より
 世倅左京大夫に陣代等為相勤候様にとの仰ニ付、朝鮮国へも
 両度に及び相渡り御奉公申上候ニ付、手前義ハ疾にも隠居逼
 塞の身共罷成り引籠り罷有度所存に候へとも、只今迄ハ左様
 の願を可申出時節も無之、一日一日と相努来り候へ共、頃日に至り

 候てハ殊の外老衰致し、物覚等もうすく罷成候ニ付、重き御役義
 なとの相勤り申仕合ニ無御座候間、 内府卿の御手前の義ハ各
 中宜く御取成シあられ、世倅左京大夫へ家督被仰付、我ら
 義ハ国隠居御免あられ候様に願存る旨ニ付、両人より其趣を
 被申達処、 家康公被仰候ハ、奉行職と有之義をハ先公より重き
 義ニ成シ置れ候を我ら一存を以て差免し候と有義ハ致し難く
 候、但老養のためと有ハ格別の事に候間、当分甲州へ被罷越ハ心
 次第との仰ニ付、長政義も十月五日大坂を発足して甲府に逼
 塞の躰にて閑居候となり
  其頃浅野家に浅野出羽と申たる者有之、此出羽事ハ武功の者
  にも有之、其上才智なとも有之ニ付、幸長の心に叶ひ、伽にも罷
  出候ニ付、長政帰国被致候旨、先達て大坂より申来候砌、右の出羽
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  幸長へ申候ハ、今度長政公御帰国の義ハ 内府公と御不和に成レ
  候ニ付ての義を専ら取沙汰仕候、如何様の義にも有之候や無
  御心元次第に候と申候へハ幸長宣ひ候ハ、 内府卿の御事ハ
  不及申、我等親の事に候へ共長政公とても皆むしなの寄合に
  候へハ、其方なとか了簡の及ぶ義にてハ無之、謂れざる事を
  気遣ひ不致共差置候へと幸長にハ御申候へ共、家中一統に無
  心元御様子やと申候処に、長政帰国後五七日も過て、江戸
  中納言殿より御使者有之との義にて甲府の町中を俄に
  掃除致し、松木と申町人の家を止宿に申付、父子共に御使者
  馳走の義に世話をやかる、 内府公、秀忠公御父子様よりの
  御使者として大久保治部太輔被罷越候、御馬、鷹、其外綿
  小袖、ほそ頭巾、しかまきやうの物に至る迄品々御取揃へ被下

  置候ニ付、偖ハ 内府公の御前向に於てハ御別状も無御座と相
  見へ候と申て家中何れも悦ひ候と也、其後長政より家老
  浅野孫左衛門を以御礼被申上候となり
  右の趣ハ其時代の記録等にハ相見へ不申候へ共、我ら若き頃芸
  州広島に罷有候節、永原兵右衛門と申老人有之、我等親
  十方院方へ浅野出羽夜咄に来り雑談候を直に聞候と有て
  右の兵右衛門我等へ物語の趣を以て記し候也
一其比 家康公増田、長束両奉行へ被仰候ハ、此節大老の面々
 も在国被致、各同役中五人の内も石田治部ハ佐和山へ逼塞あり
 浅野弾正も老衰の断を以て帰国致され、玄意法印事ハ禁
 裏方御用之義ニ付上京かちの事に候、然れハ各只両人なりて仲ケ
 間無之ニ付、大蔵方にも御暇拝領被致なから水口へ帰城
p241
 被致かたき様子に相見へ候、此節大坂表余り無人にも有之候へハ
 我等義大坂西の丸へ引移り罷有て御政事等承り候ことく
 有之候へハ如何可有之候や、両人尤と被存に於てハ大老方へ
 其趣可被申達か又ハ当春向島より当御城へ移候節、大坂西の
 丸へ成共我ら心次第にと大老中も各へ被申候との義候上ハ今更
 被相達迄にも及ぶ間敷かと被仰けれハ、両人の御返答にハ、仰の
 如く当春此御城へ御移り候刻、秀家・景勝両人共に大坂
 西の丸へ御移り候共其段ハ 内府卿の御心次第と有之義を
 我らへ御申の義にも有之候へハ、今度大老方への御相談にハ
 及び申間敷と両人申に依て、早速大坂西の丸へ御移り
 被成候となり、其節伏見の御城にハ結城秀康公を被差置
 御家中の義ハ三十日宛の交代と被仰付、大坂に於てハ

 石田治部少、同主頭両人之屋敷を下宿ニ被仰付、石田か下
 屋敷と申て天満に大屋敷有之候、其内に小屋掛出来候て
 軽々の御家来共ハ天満より西の丸の御番等も相勤候となり
  右ハ小木曽太兵衛物語仕候趣也、右大坂西丸御移従の義
  に付、今時世上流布の記録の中にハ九月九日 秀頼卿へ
  御対顔被遊、夫より直に西の丸へ御移り被遊候旨を書記
  し、其節増田、長束申合せ 内府卿の御機嫌宜しき
  様にと有之、西の丸にも本丸の如く大広間を造作申付
  其上五重の天守をも御馳走のため新に造り立候なとゝ
  書記し有之候、何れを実説と可申候哉
一其比京都に於て日蓮宗の僧徒仲ケ間に於て不受不施の
 争論有之、伏見の御城へも双方共に罷上り強訴に及び
p242
 候へ共、其節大坂奉行仲ケ間人少に有之ニ付、伏見へ御呼
 登せ被成候義を御いとひニ付、御裁許御延引之処ニ西の丸へ
 御移被遊候ニ付、双方の公事人共大坂へ被召下、段々御穿鑿
 被遊、其後双方共に西の丸へ被召出御裁許被仰出候ハ、大仏供
 養の節、一宗の内にて相別れ出座不仕、施物等受納不仕義に於
 てハ宗門の法義たるの旨是を申上ハ其通の義也、秀吉卿薨
 去の節本寺本山の住職として納経拝礼の義をも不相努
 剰へ配分の御施物等を受納不仕候とあるハ、国恩を知らず
 公義を軽しむるの罪科不少、左様の輩を日本の地に差置る
 へきに非ずとの仰にて、悉く遠島被仰付候となり
一其比大坂の義ハ不及申、京伏見に於ても土方大野両人御預ケ
 の次第、并浅野長政甲府へ逼塞の義を、彼是と取沙汰に
 
 及びたるか、後にハ大きに申募り此事の起りと申ハ加賀中
 納言利長反逆の企を以て、浅野長政へ内談して大野
 土方へ申付、先ツ内府卿を殺害致させ可申と有之謀計の
 段、露顕に及び候ニ付て委細の御穿鑿も可有之義に候へ共
 左様に有之候てハ御幼君の御時代、世上の騒動に及び、公義
 の御為不可然と有 内府卿の思召を以、死罪に相究りたる
 土方と大野をも御預ケニ被仰出、浅野長政義ハ重陽に
 御登城の刻病気故に御出合不申上と有て、何の御構ひと
 てハ無之候へ共、 内府卿の御手前を憚りて身を退き甲州へ
 蟄居仕る如く有之候ニ付、 今ハ利長一人の身の上に迫り候を
 以て、無是非反逆の企に及び、年内其心掛にて支度を調へ
 来春にも罷成候に於てハ其色を可相立とある所存の由、頻りに
p243
 申触候ニ付、遠国迄も相聞へ、其節諸大名の義ハ大形在国在邑
 の義なれハ、聞合せの早打早飛脚等伏見大坂の屋敷へ参り
 重り候ニ付て、弥物さハかしく罷成候と也、其比しも増田長束
 御用の義ニ付、西の丸へ参上の節 家康公両人に御向ひ被遊
 各中にハ北国筋の義ニ付何ぞ聞及ひ被申たる義ハ無之やと
 御尋に付両人共に、仰の如く加州利長義を末々に於てハ何角
 と取沙汰仕る由に候へ共、例の浮説にえも可有之やと存知罷
 有事に候と被申候へハ 家康公御聞被成、各中察の通り虚
 説たるへきとハ我等も存る事候、余人ハとも角も利長なと逆
 意せらるへき子細に非ず、然れ共世間風説頻りの事にも
 候へハ、虚実の段能々聞糺され候様にと被仰渡、其後程
 有之又両奉行を被為召、先日も申談る通り、利長反逆の企

 有之旨今に於て申触候と也、此取沙汰とあるも久々の義なれハ
 北国筋に於ても隠れハ有間敷なれハ、利長定て聞れざる
 義ハあるまじ、然るに於てハ存し掛なき無実の浮説に合
 迷惑仕るの旨各中をも頼入、追々の申合なとをも不被致してハ
 不叶処に、只今に至り左様の趣も無之とあるハ、世上風聞の通り
 に逆意の企有之条疑ひなき処なり、各中にハ如何被存候
 哉と被仰けれハ増田、長束承り、御尤も至極なる仰の旨御挨拶
 なり、其時 家康公被仰ハ利長義ハ各中被存通り先比
 我等心入を以て諸事穏便の沙汰に及び、土方、大野か輩も
 死罪を宥め置候上ハ其憚りも可有之処に、却て反逆の企と
 あるハ重々の罪科不軽の間、急度軍勢を差向られ御誅伐
 の外ハ無之事に候、然るに於てハ御名代として我等出馬可申
p244
 候間、各中も軍勢催促の旨を可被存、去なから朝鮮在陣の諸大
 名の義ハ今度出勢に不及旨、我等差図の由是亦被脚触尤の由
 被仰渡、井伊直政、榊原康政へ北国御発向の義を被仰渡候ニ
 付、是より加賀陣とある義をハ世上に申触候と也、其比丹羽
 宰相長重在大坂なりしか、西の丸へ御見廻被申井伊・榊原両人
 を呼出して被申候ハ、近々加州金沢表へ御勢を差向られ候に付て
 内府卿にも御代官として御出馬あらるへきとの風聞ニ候、就夫某
 義ハ各中にも御存知の通り、小松在城の義に候へハ利長と領分境
 にも有之上ハ、我等先陣の義に於てハ申迄も無之義に候へ共、猶又
 念の為各中迄物語申入置候と也、井伊榊原両人ともに委細承
 知仕候、然るに於てハ只今 内府へ可申聞候於間、暫く御控へあられ
 候様にと申て、其段被申上候へハ、則御逢可被成との仰にて

 長重へ御対顔被遊、両人迄達られ候趣具に致承知、御幼君へ
 対せられ御忠義の至り感入存る事に候、今度金沢表先
 陣の義に於てハ古今弓矢の定法たるの上ハ、異論不可有之旨
 被仰、御菓子、御酒等を以て御馳走被遊、御盃事の上長先
 の御脇差を被下けれハ、長重是を頂戴有之大きに悦喜被
 致帰宅致され候、以後大坂中押出して加賀陣と申触候ニ付
 其比在大坂の諸大名の衆中の中にて加賀家へ入魂の方々よりハ
 利長の方へ内通の衆中も有之候と也、就中 細川忠興の
 義は縁者と申入魂にも有之ニ付、使者を差越反逆の趣実
 事に於てハ無是非次第に候、若又虚説たるに於てハ申開き
 可被致との義にも有之候ハ、一刻も早く被及其義可然旨
 被申達候ニ付、利長ハ舎弟能登守利政其外家老共を呼集め
p245
 相談の上にて、家老横山山城守長知を使者として、今度其 (1568-1646)
 御地に於て手前義種々の雑説に及び候段伝へ承り驚入
 存候、皆以て虚説に候条御疑心被成被下間敷候、委細ハ使者
 口上に申上候との趣を自筆に認め被渡候ニ付、山城守大坂へ
 持参致し、 羽柴与一郎方へ罷越し、井伊直政を奏者に頼ミ *細川忠興
 其段申上候処に、早速御目見可被仰付旨被仰出、西の丸へ罷
 上り候へハ、 家康公にハ御上段に御座被成、井伊榊原両御
 家老中を始め、其外の衆中御座の左右に着座被致候中へ被
 召出候ニ付、山城守罷出懐中より利長の書札を差出し差上候へハ
 井伊直政受取て御前へ持参被申候へ共、御手にも取セ給ハさるに
 依て御前に差置、直政ハ本座へ立帰り被申候時、山城守に御向ひ
 被遊、其方義ハ何故罷登たるやと仰出されけれハ山城守謹て申

 上候ハ、主人利長義太閤様の御好恩を忘却仕、亡父大納言
 遺言を背き、御用君へ対し奉り別心有之に於てハ、天下
 の悪名たるへく候、たとへ利長狂病に犯され反逆等の企に及
 ひ候共、家老共諌言の加へ押へ留め可申義ハ勿論の義に候
 恐れながら此ところを能々御高察被遊、御疑を散せられ
 被下置候に於てハ、利長義ハ不及申我々弐迄忝次第に奉存
 候と申上る処に 家康公以の外なる御気色にて被仰候ハ
 利長義陰謀の企あるに付て、当春老母芳春院を父大
 納言遺言の由申立、金沢へ下し其後輝元、秀家の両卿義ハ
 朝鮮在陣の労を以て御暇被下候砌、入部不致してハ不叶旨
 にて兄弟共に御暇を申請て帰国に及び、其上今般反逆の
 巷説とあるも良久敷事なるを、漸只今に至り其申分ケ有之も
P246
 其意を得かたき事共也、 右の次第を以て考る時ハ世上の風説と
 符号致し、利長反逆とあるハ疑ひ無之処也、 然る上ハ余人を
 使者として被為差上に於てハ早速可追返事なれ共、其方参り
 たるとの義ニ付、登城仕れとハ申たる事也、早々罷帰候様にと仰
 有けれハ山城守謹て申上候ハ、段々言上仕候ても聞し召分させ
 られず候上ハ是非に及び不申、利長方より差上候書状の義をハ
 御披見被遊被下度旨直政方へ向ひ申上けれハ、右の書状を御
 取上ケ被遊処へ、直政参て上封しを取差上候へハ御披見被遊
 是ハ書状計也、誓紙ハと御尋の時山城守承り、去年大
 閣様御他界の節、末々迄逆心無之様の御為と有て、各神文
 を以て御誓約の成し置れ候上ハ、今更誓にハ及び申間敷候
 若し右の誓約を御疑ひ被遊に於てハ、此以後百千枚の誓紙を

 差上候共、反古同前の御事と奉存候、恐れ多き義に候へ共利長
 平生の人と成を以て心底の実不実の段ハ御覧届けられ被
 下置候様にと願ひ奉存旨申上候へハ、とかくの仰も無御座少し
 御機嫌も直らせられ候御容躰にて、然らハ母義芳春院へ
 家老の内を相添被差出候様に可被致かと仰有けれハ、山城守
 承り、芳春院事ハ利長、利政兄弟の相計ひに可有之事にて
 私躰の卒爾の御請に及びかたく候と申上候へハ、其方申ところ
 尤也、然るに於てハ早々加州へ罷帰、利長へ其段申達候様にとの
 仰にて、山城守ハ御前を退出仕り其日大坂を罷立候と也、右山城
 守御前に於ての仕なし言上の次第、大名の家に於て家老
 職をも相勤候面々の能キ手本たるへしと其砌御家中にても取
 沙汰仕候と也、偖山城守ハ金沢へ罷帰り 家康公仰の趣を
p247
 申達しけれハ利長にハ舎弟利政を始め家老の面々を被呼集
 内談有之処、能登守利政にハ不同心の口ふりに候へ共、家老の面々
 一統に 内府卿の御差図を御違背あられ候てハ如何の旨申に
 付て、利長其旨に随ひ、母義芳春院に家老を差添へ追付
 其御地へ差登セ候ニ付、加賀陣の取沙汰ハ相止ミ候と也。其後
 家康公、増田・長束両奉行へ被仰候ハ、利長今度母義芳春院に
 家老の子共を副へて被差上候と有ハ、我等と和睦のしるし也、然れ
 は当地に可差置様無之間、武州江戸に差置候様に可致也、各
 如何被存候やと仰有けれハ、両人共に申けるハ、如仰今度の証人
 の義ハ何方に可被差置も御心次第の義とハ申なから、故太

 閤様御代より 公義へ対しての証人とあるハ格別、私の証人の
 取かハしと有之義ハ先例は無御座義ニ御座候へハ、輝元、秀家
 なとへも一応御相談の上の義にも可被成哉と也、 家康公
 御聞被成、各被申処も一理なきに非ず、去なから此以後とても
 公義へ対し逆心有之輩の義ハ先比 内府をなき者に致
 して後と有心得なくてハ不可叶、然る於てハ速に領地を
 割り或ハ人質を取かためて世の乱逆を鎮る如く致すへく候
 左様の節、証人と有ハ大切の義に候処、御当地の様成る繁花の
 地に差置候とあるハ宜しからす候ニ付、我らの領分へ差下し
 警固等厳く申付ん為にも候へハ、今度利長より差出す証人を
 其手初めと存るに依ての義也と被仰けれハ、右衛門尉重て
 申けるハ、仰御尤にハ御座候へ共、利長・利政如何可被存やとなり
p248
 同じく長束申候ハ、長盛申上候通、母義東行の義兄弟の息男
 得心無之、御用捨被成被下度旨申出ハ必定に御座候、然れ
 はとて其意に任せ置れ候てハ御威光も相立不申義に候と有て
 押て被差下候に於てハ、又候や天下の騒動と罷成、必竟上の
 御為にも罷成申間敷かにて候と申上る迄ハ無御座候へ共、幾
 重にも御賢察あられ候へかしと也、 干時 家康公長束へ
 御向ひ被成、左様に根ふとはれものにさわるごとく思ひて天
 下の政道か行ハるゝものにて候や、元来利長義ハ各中にも被
 存通りの訳にも有之上ハ、母義芳春院を関東へ差下し候に
 付て我らへ対し不足の存寄も有之に於てハ、其ハ其時の事に
 候間、押て差下し可申義に候へ共、各中左様もうす義にも有之間
 我ら方より利長方へ書状を遣し、其返答の趣に依て我らの

 了簡有之義也と苦々敷被仰出候ニ付、其後両人義もとかくを申上るに
 及ハず退出被致候と也、 其後 家康公にハ利長への御書を御認め
 被成、加州の留守居を被召呼大切の御用を被仰越の間、早々
 相達可申旨被仰渡、御書を御渡被成候ニ付、則使者を以て金沢へ
 相達し候へハ、利長御書を披見被致、舎弟利政其外家老共をも
 召出し相談有之処に、能登守利政大きに不興被致、ケ様の次第に
 可罷成と有之義を兼て心付候に於てハ、最前芳春院殿を大
 坂へ帰し登せ参らする様にと有之刻、思案も無て不叶申義に
 候処に残念千万の事に候、芳春院殿を東行なし参らせ候と
 あるハ当家末代迄恥辱、就中輝元、秀家、景勝なとの下墨に
 預り可申段も心外の事に候へハ、能々了簡あられ御返答可然候
 此利政に於てハ一向其意を得不申候と也、其時利長、利政へ被申候ハ
p249
 惣して一行一言の是非を宗と致とあるハ少身武士の事にて候
 既に国郡の主にも備りたるものゝ身の上に於てハ、代の盛衰
 家の興亡を考へ計るを以て肝要とハ致す事に候、と有て其後
 家老共に向ひ、芳春院殿の御事、我ら心得を以て 内府卿の
 願に任せ東行なし参らすへき旨返答に及び候間、各其旨を
 可存由被申渡て後、とも角も思召次第にと御返答被申越候ニ付
 加州留守居役の者共西の丸へ罷上り、芳春院義御差図次第
 江戸表へ差下し候様にと中納言方より私共方へ被申越候、いつ
 比差立候て可然候や、と相伺候処に 家康公御聞被遊、此節ハ
 寒気も強く候へハ、来春に至り世上も暖に成候以後の義に可
 仕候、只今迄ゆるやかなる住居を被致さる人の義なれハと思ふに
 付て、不自由ならさる如く家作等の義をも申付候間、普請も

 出来候との義申来りたる上にて御差図可被遊旨被仰出
 翌年の五月九日に芳春院伏見を出、六月三日に江戸着被
 致候と也
  右の趣世上流布の旧記にも有増相見候へ共、少実の違有之候
  我ら書留候ハ、大野知石物語の趣に候、若ハ土井大飯頭殿
  なとの雑談有れたる筋の語り伝へにても有之候ハ実説に
  候へきやと存る処也、 右の外此一義に付知石物語にて承り
  たる義なとも有之候へ共、事永く罷成其上無益の義と 
  存るに付書留め不申候
一同年十二月初比 家康公にハ増田右衛門尉を御呼被成、我ら
 義ハ其方なとにも被聞及候通り、若年の節より鷹野を好
 み候へ共、近年ハ国元をはなれ居申事に候へハ、けふ頃日ハ鷹の
p250
 居へ様をも忘れたる如く有之候、其元被存通り此間ハ世上
 物静にも有之義なれハ、鷹野のため近辺へ出度候へ共、手前に
 故鷹の居へきも無之候へハ、可然様に其元相被相計給るへきや
 と仰有けれハ長盛承り、御尤至極の思召に候、御鷹野の
 義に於てハ御心安く可被思召候、可然様に取計ひ可申候、、願くハ
 私義も御供申度候へ共、長束義水口へ帰城致し候ニ付、玄意
 私両人迄の義に候へハ、御留守を可仕候、先公の御代毎度御鷹
 野へ御供致たる面々被罷出候様に可仕と申て、鷹方の支
 配人佐々淡路守、堀田若狭守へ其趣を申渡しけれハ、太閤
 在世の刻鷹野に被出候時の如く支度を調へ、御伽衆の織田
 有楽、細川幽斎、有馬法印、金森法院、青木法院、山岡道阿弥
 岡江雪、前波半入、此外御家人にハ井伊直政、榊原康政、酒井

 忠重、同忠利なとハ御輿の御跡に引下りて御供也、其日ハ摂州
 茨木へ御越被遊御一宿也、其所の支配川尻肥前守宗久御膳
 を上られ、翌六日西の丸へ御帰城被成、佐々、堀田両人方へ御使
 者を以て、時服、黄金を被遣、其外の鷹匠なとへハ関東絹、銀
 子を被下、犬曳。餌さしの類に至る迄白銀、鳥目等を潤沢に拝
 領被仰付候と也、ケ様の義にて下々、軽々の者に至る迄
 内府様と申と浅からず尊敬仕り、大坂中弥物静に上下
 安楽の思ひをなし候内に年も暮て、明れハ慶長五年正月
 元日の早朝、 家康公にハ本丸へ御出被成、秀頼卿、御母義淀殿江
 歳首の賀儀を被仰述、西の丸へ御帰り被成候処に、其節在大
 坂の大小名共に本丸へ出仕の帰り掛に各太刀折紙を以て御
 礼に被参、其外秀頼卿旗本の諸番頭、諸役人に至る迄不残
p251
 参上ニ付、元朝より五ケ日迄の義ハ西の丸の玄関前殊の外成
 人込ニ有之候と也、 同月中比過に至り、在大坂の諸大名其外
 諸番頭、諸役人等迄御餐応可有との御事にて、四座の猿
 楽を被召寄、能興行被仰付候ニ付、西の丸別してにきわひ
 故太閤の威勢に御劣り被成義も無之如く有之候と也
一其比備前中納言秀家と家老の浮田左京、戸川肥後、岡
 越前、花房志摩四人の輩と主従の出入有之、其子細ハ右四
 家老に差続き、長船越中と申たる家老有之候か病気致
 し、其子又左衛門義家督を続き罷有候処に、岡越前か父豊
 前と申者、朝鮮国に於て煩出し病気重く成候刻、秀家
 自身見廻被申候処、其節病躰甚だ重く相見へ候ニ付、何事に
 よらず申置度義なとも有之に於てハ可申置旨、秀家被申聞

 候へハ豊前守承り、外に存残す義も無御座候内に長船越中か
 世倅又左衛門と申者ハ親越中にハ生れ劣り、其人となり奸
 寧にして重き職役なと可被仰付者に非ず、其御心得
 肝要の旨遺言致して相果候処に、秀家豊前か遺言を不用
 して件の又左衛門を紀伊守になし家老職に申付、其上右紀伊
 守か進めに依て、中村次郎兵衛と申歩行の者を取立近習に召
 仕、夫より段々立身致させに二千石にまて遣し、万事万端の義を
 紀伊守、次郎兵衛両人の取計ひに被申付を以て、右四人の家老
 共兼て不快を抱き罷有に付、紀伊守と其間から宜しからず
 然る処に紀伊守ハ急病を請頓死同前に相果候を、四人の家
 老共、紀伊守か出頭を妬み毒薬をあたへて殺し候よし、件の
 次郎兵衛、秀家へさゝやき候を以て、四人の家老共所行不届の
p252
 至りと有て秀家心底にハ見限り被居候へ共、右四人の者共
 義ハ親父直家以来の家老にて、浮田家の四天王と世上に
 取沙汰仕る程の武功の者共と申、其上宇喜田左京なとハ近き
 親類の中たるを以て、其通りに致し置れ候と也、然る処に右
 の次郎兵衛義、己か相親き傍輩共と打寄、長船紀伊守如く
 なる人ハ不慮の死を被致、何の役にも立さる家老衆計の寄り
 集りにて国政を取行れ候ニ付、邪曲なる御仕置の多く是非
 なき次第に成行候なと申由、四人の家老共聞及び昨今迄
 歩行侍にて罷有し中村か口より左様の過言を申とあるは
 不届沙汰を限りたる義なれハ、上へ相達る迄もなく誅戮を
 加ゆへき旨、家老中各相談の旨中村方へ相聞へ候ニ付、次郎兵衛
 方の者共一党致し、御主人の仰は格別、家老中なとの了

 簡を以て私に誅戮とある義に於てハ存も寄らずと申より事
 起りて、家老方、中村方と家中二に相分れ大きなる出入と
 罷成り、大谷刑部少輔義ハ日比秀家と入魂たるに依て、此義を
 悔み、榊原康政へ参会の節、浮田家出入の義を申出し
 内府公常々我らなとへ被仰聞候にも、当時御幼君の御時代に候へハ
 弥以て世上静謐なる様に被思召候との義にも有之処、今度浮田
 家騒動の様子なと御聞候に於てハ、定て御気の毒にも可被思召
 存る事に候、 就中其元と我ら申合せ彼家の出入の義を取持内々
 にて事を相済候様に致し度事に候となり、康政聞て御尤至
 極なる御心付共に候、去なから其元より御頼と申迄にてハ如何に候
 浮田殿よりの御頼とあるハ格別の事にも候、今度の出入内々にて
 事済不申、万一公義の御裁許と罷成候てハ、蒲生家の先証
p253
 なとも有之義に候へハ、浮田殿御身上にも相触障り可申かにて申
 迄ハ無之候へ共、御精を出され御尤と康政申ニ付、大谷ハ秀家へ
 罷越、其趣を演説致しけれハ秀家大きに当惑被致、此上ハ何
 とて榊原と相談あられ内々にて事済候様に頼入存る旨被
 申ニ付、夫より大谷と榊原と打寄て内談致し、種々取扱ひ
 候へ共、事済不申処に交替の時節に至り、榊原代りとして平岩
 主計頭罷上り被申候ても、康政ハ帰城に不及、宇喜田の家の世話
 に掛り逗留有之処に、或夜御前伺公の面々何れも被参候座
 中に於て 家康公被仰候ハ、榊原式部義ハ帰城の暇をも
 遣し候処に未タ此表に逗留致し、大谷と申合せ浮田家の
 騒動に掛り居候へ共、 其埒も明さる由なり、榊原事ハ何れも存る
 如く、我等家中に於て高知をもあたへ置義なれハ、他の大名の

 家の世話をやき、馳走に預り不申とも事済へき義なるを
 と有之 御意の旨各是を承る中にハ康政と入魂の面々も
 有之ニ付、翌朝御番帰りの節立寄、夜前ケ様の仰の旨
 演説被申、衆中二三輩にも及び候ニ付康政大きに迷惑致され
 俄に支度を調へ、其日の晩方に至り大坂を発足の刻、大谷方へ
 断りの置状を被致候ニ付、大谷方より手をまハして其次第を
 聞合候処に右の通り穏便ならさる御意の趣なれハ委細に相
 知せ候ニ付、大谷心外の至りと存、増田右衛門尉方へ罷越、始終の
 義を雑談致し、徳川家に於て榊原なと申者ハ重職の者にも
 有之処に 内府卿諸人の聞前に於て悪シさまの噂に及玉ふ
 とあるハ、偏に我らへ対せられたる義と存る上ハ、今日より以後
 宇喜田の出入に於てハ貪着仕らさる心底に候と也、右衛門尉
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 返答に申候ハ、夫ハ其元の仰とも覚へ不申候、榊原事ハ
 内府卿の家人の事に候へハ 内府卿の心次第たるへく候、其許の
 義ハ格別の義にも候へハ、何とて内々にて事済候様に御取扱ヒ
 尤に候、秀家卿のためと申計にも無之、第一ハ公義の
 御為にも有之候なとゝ申なためて大谷を帰し候と也、偖
 浮田家の四家老共ハ榊原俄に下向被致候義ハ扱ひの手
 筋ハ切たるぞと心得、各居宅に引籠り、中村次郎兵衛を拝領
 致度旨願ひを相立候ニ付、秀家より中村方へ内意を被申、其
 方義当家を立去り候に於てハ当分事も鎮り可申やと有之
 旨再三に及ハれ候へ共、中村同心不仕、御意に任せ立退き候てハ
 家老共の威勢に恐れ逃失候なとゝ有之沙汰に可預ハ、口惜き
 次第に候へハ切腹可仕と申候へ共、左様有之候てハ其跡の治り如

 何と有之押へ置、秀家に明石掃部を招き、其方中村に異
 見を加へ一旦立退き候様にハ成間敷やと相談ニ付、掃部申候ハ
 私義ハ四人の者共と一統と申にてハ無之候へ共、岡越前守と由緒
 有之ニ付遠慮にハ存候へ共、此度出入内々にて事済不申候てハ
 御為にも如何と存る間、今度中村方へ罷越、存念の趣可申聞
 候之間、先達て中村方へ内通有之度義に候と申ニ付、秀家側近
 の者を以て次郎兵衛方へ内意被申聞、其夜深更に及び掃部ハ
 中村か宅へ罷越、種々異見に及候へ共是非切腹可仕と申切て
 同心不仕、時に掃部申候ハ、其元の義ハ少身より段々の御取立に
 預り御厚恩の人にも有之上ハ、忠義を第一とある心掛ケの
 外ハ有之間敷と兼て存たるとハ違ひ、不忠不義の人にて候
 かなと掃部に謂れて中村以の外不興致し、其許もハ我らを
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 不忠不義の者と御申候にハ定て子細可有之候、御申聞なく
 てハ叶ふ間敷と也、時に掃部申候ハ、今度の出入内々にて事
 済不申、公義沙汰と罷成候上に於てハ秀家卿の御為如
 何可有之哉と有之処へハ心付無之候やと申時、次郎兵衛申候ハ
 されハの事にて候、今度家老中四人一同して我等一人を
 目掛ケとや角と被申義に候へハ、手前切腹して相果候上に於てハ
 外に申分も有之間敷候、然れハ事も鎮り秀家卿の御為にも
 可罷成や、と存るを以て切腹可仕とハ申事に候、然るを不忠
 不義の者とある其元の御申分ハ一円心得ず候と也、掃部
 重て申候ハ、今度の出入の義、家老中四人と其元一人とかけむ
 かひの事にても無之、御家中近習外様の諸士数十人申合せ、
 其元と一味同心と有之より事起りて、ケ様の騒動とハ罷成

 たる事に候、然る処に其元一人に腹を切らせ、右方入被致し
 面々、其通りと有之堪忍も可罷成道理無之ニ付、其元切腹
 の跡に於て四人の面々を打果し候とか、又各申合せ御家を
 立退き家老中四人の非義に申立、公義へ訴へ被申か、此両
 条の外にハ有へからす、然れハ其元の切腹とあるハ御主人の御
 為にも障り、知者傍輩の難義とも不罷成してハ不叶候、是
 を以て其元を不忠不義の人とハ我らハ申事に候、此上にも
 猶又陸とも有之候ハ被申候へと明石ハ面色を替へて申ニ付、次
 郎兵衛一言の返答にも不及、此上ハとも角も其元の御計ひに
 任せ置候と申ニ付、事落着致し、其後風雨烈しき夜陰に
 まぎれ、蓑笠着たる人足十人計の中に次郎兵衛を取囲ミ
 屋敷を出し事済候と也、其後秀家より前田玄以法印
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 増田長盛両奉行の方へ被申候ハ、当家の家老共不届の義
 有之候へ共、四人共に公義御存の者の義に候へハ、自分仕置に申
 付候義憚り存候間、何分にも被仰付度との願ひニ付、
 家康公へ其趣を奉行中被申上候へハ、西の丸へ四人共に差出し
 候様にと秀家へ被仰渡、当日に至り四人なから罷出候
 へ共、何の御吟味もなく浮田左京、戸川肥後両人ハ前田徳善
 院へ御預ケ、岡越前、花房志摩両人をハ増田右衛門尉へ
 御預ケの旨被仰渡、其日西の丸より直に郡山と亀山へ
 罷越となり
  右宇喜田家の騒動の義、書々に相記し有之候へ共、右の説ハ
  大坂冬の籠城の刻、大野修理方へ明石掃部夜振廻に罷
  越候節、修理へ物語仕候を直に承候とて、米村権右衛門、浅野
  因幡守殿へ咄申候旨、因幡守殿覚書に留め置れ候趣也、偖榊原
  康政にハ右の首尾合にて下向被致候上ハ江戸屋敷か又ハ館
  林なとに蟄居の仕合にて居可被申と諸人積りの外、江戸表へ
  帰着被致候と直に登城あられ候処に 秀忠公御前へ被召
  出、大坂表上方筋の義なと御尋被遊、則御相伴にて御料理
  迄被下置、夫より打続き方々へ振舞等に被参、手前に於ても
  客対有て、以前の様子に相替義少も無之段、大坂表へも相聞候
  付、各不審の思ひを成し候と也、次に大谷吉隆事ハ其始め奉
  行職の時分より 家康公へ御心易有之候ニ付、病気故職役
  御免以後ハ手透故猶更繁々に御出入をも被致候ニ付、去春
  家康公と大坂四大老五奉行中との出入の節も、大谷ハ昼夜を
  限らず御屋敷に相詰罷有て、御方入被致候ニ付、右の出入
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  相済候以後ハ猶以て御心安く御勝手向へも罷通り、毎度
  御相伴等をも被仰付候へ共、石田治部少輔と入魂の子細
  有之段、先達て浅野長政御知せ被申上、其上病気も次第に
  重く罷成り、面躰なとも日を追て見苦敷成行候ニ付、旁以て
  御心の内にハ御疎ましくも被思召候やと御側廻りの衆中ハ
  各被存如く有之候と也、然る処に右浮田家出入事の後ハ
  大谷方より身を引、折節参上致し候ても以前の如くにハ
  無之、次第に御疎々敷罷成候由也、 偖又御預ケニ被仰付候
  四人の家老の内、浮田左京と戸川肥後義ハ 家康公
  会津へ御発向の節、徳善院へ内談して備前より家来を
  呼登せ召連レ候て御跡より江戸表へ罷下り候とある義を
  岡、花房も聞伝へて、両人共に罷下り度所存にハ候へ共、其節ハ

  内府方、石田方と相分れ色めきたる折からの義に候へは
  増田方へ相談も不罷成候故、密に郡山を立退き関東へ
  罷下り、濃州表へ相働候御先手衆と一所に関ヶ原表に
  於て御奉公申上候を以て、四人共に御旗本へ被召出候
  となり、其節浮田秀家御敵の随一たるを以て、左
  京ハ性名を替へ、板崎出羽と相改候となり

落穂集巻之八終


          天保四癸巳年二月十七日写之
                   中村直道