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   落穂集巻之九
一慶長五春の比より京大坂に於て、会津中納言景勝反逆の
 企有之の旨専ら風説仕ると云へ共、遠国の義なれハ又例の
 虚説たるへきなと申処に、江戸表にての取沙汰も申来り、其
 上会津近辺の国主郡主たる人々の屋敷屋敷ニ於てハ専ら
 其趣を申触候ニ付、偖ハ実説たるへきやと申処に、越後の守護
 堀久太郎家老の堀監物罷上り、委細を申上るに付て
 内府卿ハ増田右衛門尉、大谷刑部両人を被召寄、各にも
 定て聞可被申候、上杉景勝陰謀の企有之旨専ら取沙汰
 仕る由也、誠らしふも無之事なから世上の風説穏便ならさる
 上ハ打捨差置も如何なれハ、各中より上方筋の取沙汰を知ら
 せのため旁人を被差下、様子を被聞届尤の由被仰に付、増田長
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 盛家来河村長門と申者を使者として、両人方より連書を
 持せ差下候処に、景勝返答被申候ハ、当春早々上洛可仕所ニ病
 気故こころならず遅延に及び候、当地ハ未だ余寒も強く気分も
 しかと無之候間、今少保養致し快気次第罷登り可申旨
 さりけなき返答也、然れ共打続き種々の取沙汰有之ニ付
 内府卿より伊那図書を以て思召の趣を被仰遣候処、景勝図書への返
 答の趣きハ少々逆意ケましき口上も有之候と也、其比京都相
 国寺に豊光寺充長老と申出家ハ景勝家老直江山城守と
 入魂の由ニ付、 内府公御内意を以て兼続方へ書状差越す
 其文言にハ
 態以飛札申達候、然者景勝卿御上洛遅滞ニ付而内府卿
 御不審之義不少候、上方雑説穏便ニ無之候ニ而、伊那図書

 河村長門被差下候、此段者使者口上ニ可申遣候得共、多
 年申通候上ハ、愚僧笑止ニ存、如此候、香指原ニ新城を
 取立、越後津川口道端を造候段、何篇ニも不可然候、中納
 言殿御分別相違候共、貴殿異見油断と存候、内府卿御不審
 無拠かと存候
一景勝御別心無之候ハ霊社之起請文を以て御申開き被成旨
 内府卿御内存之事
一景勝律義成御心入ハ太閤様以来内府卿御存之事ニ候へ者
 被仰分之品さへ相立候ハ異義不可有之事
一近国堀監物一々申上候間、御陳謝堅く無之ハ御十分相立申間
 敷候、何篇も御心中に可有之事
一去冬北国肥前守利長異儀之処、内府卿順□成思召ニ而無別儀
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 御心侭ニ静謐仕候、是皆前車之戒ニ而候、其段兼て御覚悟可為
 尤哉之事
一京都ニ而増右、大刑少万事内府卿へ被申合候間、御申分候ハ
 御申越可有之候、榊式太へも被仰遣可然事
一千万も不入中納言殿御上洛遅々ニ付、如此ニ候間一刻も早く
 御上洛候様貴殿可被相計事
一上方ニ而専ら取沙汰之事ハ会津ニ而武具取集候而、道橋被□
 候との事ニ而候、内府卿一入中納言殿上洛を御待被成候事ハ又
 高麗へ御使者被遣候間、若降参不仕候ハ来年か来々年か
 御人数可被遣候、其御内談可被成との由ニ候間、御入洛近々可
 然候、其上ニ而無疎意被仰分候様ニ少も早く御上洛尤候事
一愚僧貴殿と数ヵ年無等閑申通候へ者何事も笑止ニ存如此ニ候、其

 地之存亡、上杉家興廃の界ニ候条、被巡思案之外他事
 有間敷候、万端使者口上申含候、頓首
   卯月朔日            豊光寺  義充
   直江山城守殿
        御宿所

 右の書状会津へ参着の節、直江方より豊光寺へ返礼の文言
 関ヶ原記等にも書記し有之ニ付略之、則豊光寺より直江
 か返書を差上候処 内府卿御披見被遊、思の外御機嫌を被損
 候となり、其後景勝家来藤田能登と申者上杉家を立去江戸へ
 罷越、景勝所行の段委細に 秀忠公へ申上、直に大坂へも罷登り
 言上仕候ニ付、上杉反逆慥に相知申ニ付、会津表へ御発向可被遊旨
 被仰出候と也、其比前田玄意法印ハ在京たりしか、大坂へ下り
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 増田右衛門尉と相議し会津へ御下向の義を申留め見候へ共
 内府公御合点不被遊ニ付、在府の長束大蔵を始め中村式部
 生駒雅楽なと申合せ、各存寄の一通りを五ケ条に相認連判
 を以て関東御下向の義を御延引被遊可然奉存旨の書付を
 五月七日に差上候へ共、一向御聞届不被遊して被仰渡候ハ、先公
 の御代にも島津、北条か輩、召に応せす上洛不仕を以て征伐
 あられたる先証も有之義なれハ、とかくに於て御出馬可被遊
 との義に相極り、会津表御発向御備定有之、先仙道口へハ
 佐竹義宣、伊達、信夫口へハ伊達政宗、米沢口へハ最上出羽守義光
 越後津川口へハ加賀中納言利長、越後の堀久太郎秀治、同国
 村上周防守頼明、溝口伯耆守秀勝なと加賀勢に先達て罷□ル
 へき旨被仰渡、偖白川口へハ 内府公秀忠公父子御発向

 可被成の旨、那須七人衆相馬、蒲生藤三郎以下の人々御先手
 として此口へ相向ひ、各御下知を守りて一同に可攻入旨被
 仰渡、大坂西の丸御留守にハ佐野肥後守を被差置、六月十
 五日本丸へ被為入、秀頼卿并御母堂へ御暇乞被遊、翌十六日
 大坂を御進発被遊則増田長盛、玄意法印を始め其外秀頼
 卿の近臣等御見送りとして大手迄罷出候と也、其晩方伏見へ
 御着被遊、御本丸の御留守居にハ鳥居彦右衛門元忠、松の丸にハ
 内藤弥次右衛門家長、三の丸ハ松平主殿頭家忠、松平五左衛門
 近正可被相守旨被仰付、中一日御逗留にて十八日伏見を御出
 馬被遊となり
  此末御道中又ハ野州小山御在陣中の義、其後上方の凶徒
  御追討の御手遣ひ、或ハ濃州岐阜城攻の様子并九月十五日
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  関ヶ原表御一戦の次第なと関ヶ原記又ハ松平隼人正殿書
  記被致たる家忠記等に相見へ候へハ悉く略之、右の書
  記の外に相見へ不申義又ハ旧記の表聊か違有之義のミを
  心得のため書記なり
一会津御発向と被仰出候刻、石田三成方より末木権太夫と申者を
 以て、今度上杉景勝為御退治御進発被遊旨及承候、私義も何
 とそ人並に罷向ひ申度とある義を願候処に、尤にハ思召候へ共
 其方にハ当分逼塞の義にも有之候へハ被差控、子息隼人正に人
 数少々相副へ被差下尤の由御返答被遊ニ付、石田家中の者共ハ会
 津陣と披瀝仕り陣支度仕候と也、以前加州利長反逆の風説
 有之節ハ 内府公より三成方へ柴田左近を御使に被遣たる義
 有之、御用の趣ハ相知れ不申候へ共、三成殊の外悦喜致し、御使

 柴田を馳走致し重き道具なとをも柴田に出し候と也、今度の
 義ハ如何被思召候や、内府公より何とも不致仰越候処に三成方
 より右の如く上へハ会津陣と申事を寄セ、軍用の支度等無遠慮
 可仕謀計のよし其後取沙汰候由なり
一伏見の御城へ被為入候十六日の夜、鳥居彦右衛門御本丸に勤番あ
 られ候御供中へ馳走としてほたもち并ニ煎茶を支度被申付、夜に
 入候て其身不行歩故御座敷の内をも杖にすかり御台所の方へ
 通られ候とて御供中の中より是ハ御城代の御振舞とも覚へ不申物にて候
 とあるを彦右衛門聞れ候て、ほた餅きらひの衆ハまいる事御無用
 との挨拶有て通られ候と也、能々沢山に御申付たると相見へ
 明る朝大半切の打ちに残りて有之候牡丹餅を手々に取候て
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 懐中致して其日馬の上にて喰候と有之義を其節年若に
 て御供仕りたる坊主衆残り居て物語仕候、今時にて候ハ御供中
 へハ殊の外なる馳走にて可有之処に、時代からとて手軽き事
 共にて有之候と桜井宗伝浅野因幡守殿へ物語被致候と也
一右十七日の夜に入、鳥居元忠被申上義有之御前へ被出御用相済候
 以後、今度当城の御留守居人数少にて一入苦労可致旨仰有
 けれハ元忠被申上候ハ、乍恐私の義ハ左様にハ存不申候、今度会
 津御発向の義ハ御大切の義にも有之候へハ一騎一人も御人数多く
 被召連可然奉存候、然ハ弥次右衛門、主殿義も御供に被召連、当城
 の義ハ私御本丸の御留守を相勤、五左衛門なと外曲輪のしまり
 をさへ申付候ハ事済可申様に奉存旨被申上候へハ重て御意被遊
 けるハ、今度四人の面々を以留守居と有之さへ人少にて如何と

 思ふに其方ハ人多きと申ハ何を以て左様に申候ぞと御尋
 有けれハ、彦右衛門申上られけるハ、今度会津表へ御発向被遊候
 御留守に於て、只今の通世上無事にさへ有之候へハ、私、五左衛門
 両人にて御留守の御用ハ相足り可申候、若又御下向の御跡に於て
 世の変も出来、当城を敵方より攻囲ミ申と有之に至り候てハ
 近国に後詰加勢を受可申御味方とても無御座候へハ、たとへ只
 今の御人数の上に五倍七倍の御人数を残し置れ候ても御城
 を堅固に相守り申儀の可罷成義にてハ無御座候、然レハ御入用
 の御人数を当城に被相残候と有ハ無益の様に私弐ハ奉存と
 被申上けれハ、其以後ハとかくの仰も無御座、以前駿府宮ケ崎に
 御座被遊候節、御前にハ御十一歳に被為成、彦右衛門ハ十三歳にて *1539年生まれ
 始て岡崎より御奉公に被参候節の義なと被仰出、御雑談の
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 内に夜もふけ候ニ付、彦右衛門被申上候ハ、明日ハ定て早く御立可
 被遊候、短夜にも御座候間もはや御寝成被遊可然と申上
 立さまに先程も申上候通、会津御発向の御留守中上方筋別
 義も無御座候ハ又々御目見可申上候、万一の義も有之候ハ最早
 是か今生の御暇乞にて候と申上て御前を被立候節、長座故立
 兼られ候を御覧被遊、御児小姓衆を被為召彦右衛門か手を引ケ
 と被仰付候となり、其節御納戸役の衆御前へ被出候へハ、御袖にて
 御泪を御拭ひ被遊御座被成候ニ付、暫く差控へ其後被罷出候と也
 此義ハ土井大炊頭殿常々雑談あられ候由にて、大野知石我らへ
 物語の趣きを書留申也、此義を以て考へ候へハ、今時世間流布の
 記録にハ、伏見の御城に於て御留守居四人の面々を被為召、今度 
 関東御下向の御跡に於て石田か輩逆心仕り当城を攻申

 にて可有之と被思召ニ付、其方共を御留守に被差置候旨被
 仰渡候抔と相記し候ハ合点不参候、子細ハ上方逆徒蜂起
 の段ハ会津御発向と有て江戸御出馬の日、越谷とも申
 岩槻御泊りの夜共申、御供中誰一人存知たる者も無之内に
 御聞被成候へ共、小山の御本陣に於て、伏見御留守居中より
 の御注進の御聴被成候迄ハ御聞不被遊御容躰にて御座被
 成候と也、其上伏見御留守居衆四人の衆中の義ハ皆々若輩
 の比より所々の御合戦場へ御供被致、身命を忠義の道に
 なけうち戦功を励したる人々の義に候へハ、御留守ニ被差置候と
 さへ被仰渡候へハ、外に何を可被仰付義共不奉存候ニ付、右知石
 物語に相随候也
一右伏見を御発駕被遊たる昼時比大津へ御着被遊、京極宰相 *京極高次1563−1609
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 高次の方へ御入被遊昼御膳を被召上、其後奥方へ御通り被成
 高次の内室へ御対顔被遊候由、是ハ 秀忠公の御前の御姉子  *浅井長政娘
 なるに依て以前にも御逢被遊候と也、高次の妹松の丸殿の義  *秀吉側室
 伏見城中にてハ終に御逢不被成候処、此節ハ当城に御入候故
 始て御逢被遊、其後表へ御出被成、高次の家人黒田伊予、佐々
 加賀、多賀越中、瀧野図書、山田三右衛門、同大炊、赤尾伊豆、安養
 寺聞斎、今井掃部、岡村新兵衛なと申日比御存知の者共
 被召出、御懇の御意被成下、其外にも頭立たる者共へハ御逢可被
 遊との仰に付、高次人指を被致、聞斎召連罷出、其姓名を披
 露申上候中に、浅見藤兵衛とある名を御聞被遊あれハ、彼ノ志津 *賎ケ岳の戦い
 ケ嶽にてハなく候やと御意ニ付、高次被承、仰の如く以前柴田方
 に罷有候者にて御座候と被申上候へハ、あの者の義ハ兼て我らも

 聞及ひたる者に候、惣して其元にハ人数寄故能キ家来共多く  *人好き故
 持れ候、去に依て当家の義ハ別て頼母しく存るそと有御
 意の段を京極家大小の侍共承伝へ、何れも難有奉存、其後
 籠城の刻も一入勇気を励し候由中西伊賀守常に物語にて候
 と中西与助我らへ申聞候なり
一其日大津にて御隙とらせられ候ニ付、日暮に及び石部へ御着
 被遊の処に長束大蔵父子参上致し、明朝ハ水口の城にて朝御
 膳被召上候様に御入被遊被下度旨願ひ候へハ、成程御越可被成旨
 被仰けるか、如何の思召に候や、其夜中に石部を御発駕被成、水
 口の城中へハ大塚平右衛門を御使にて被仰遣候ハ、夜前御
 約束の通り今朝御立寄可被遊と思召候処に路次を御急キ
 不被成して不叶御用の義出来故、御断り被仰遣候との御
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 口上ニ付、長束義其日の御旅館土山迄御跡を慕ひ来り、御
 残多奉存ニ付御暇乞旁是迄参上の段申上候へハ、遠々の所被
 参の段御満悦の旨被仰、来国光の御腰物を被下御帰し被成
 となり
一江戸表へ御着城被遊候御跡より御味方の諸大名方段々参陣
 被致候ニ付、二之御丸に於て急度致たる御馳走被仰付、其上にて
 会津御発向ニ付ての御軍令十五ヶ条各へ被仰渡候と也
一内府公にハ弥白川口より会津へ御攻入可被遊との義ニ付
 秀忠公にハ先達て御出馬被遊野州宇都宮の城に御陣座被
 成、御旗本一の御先備ハ結城三河守秀康公に御吉例と被思召
 由にて榊原式部太輔康政を被差添の旨被仰渡ニ付、康政にハ
 御味方の諸勢に先達て野州那須表へ勢を出し、那須七

 人衆と相議して上杉家の老臣安田上総介か楯籠たる白川
 の城を最初に可攻落との義也、秀康公にハ水谷左京、山川
 民部、多賀谷左近なとを初め惣人数の義ハ榊原と一同に那
 須表へ被差越、手廻り計にて結城に留り玉ひて
 内府公小山へ御着陣なされ次第に出馬あらるべきとの義にて
 御待合せ候と也
一佐竹修理大夫義宣にハ、仙道口より会津へ発向可被致旨兼
 て被仰遣候処に、上方逆徒蜂起の取沙汰以後ハ今度当家
 出勢の義ハ相止め候間、陣支度仕るに不及旨家中一同に相触れ一
 向穏便の躰の由、江戸表へ相聞へ候ニ付、島田治兵衛を御使者に
 て弥出勢可有之旨御催促被遊候処に、義宣御返答被申候ハ
 兼てハ会津発向の心掛にて内支度を調へ御下向を相待罷
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 有候処に上方筋騒動の聞へ有之候、御存知の通大坂表に妻子
 等をも差置候手前義に候へハ、今少事の子細を承合申にて
 可有之候、勿論其元へ御敵対と申義に於てハたとひ輝元
 秀家より何様に被申越候共、同心可仕所存にハ無之候、其段に
 於てハ御気遣被成間敷候との口上に少も違ハず、家中侍
 共の持たる能キ馬共をも売払候、との沙汰を治兵衛慥に承り
 届ケ罷帰申上候と也、 然れ共 秀忠公の御方へ被仰遣結城勢の
 中にて、水谷左京上州衆にて皆川山城守両人の事ハ水戸
 口の押へたるへき旨被仰付候ニ依て、両人共に鍋掛に在陣候となり
一其比佐竹義宣、結城晴朝より被申上候ハ、先年御預ケニ被仰付候
 土方勘兵衛、大野修理義御免あられ、今度会津表へ出勢仕候様
 被成被遣被下度旨願ひニ付、両人共に早速御免被成候と也、土方義
 
 ハ不存、修理義ハ侍分の者八十人計も有之候へ共、小者中間に
 事を欠、迷惑仕候ニ付、浅野弾正殿方へ修理方より申遣候へハ
 武蔵府中村の者の由にて十人計早速被差越、結城晴朝より
 鞍置馬一疋、馬具品々相添送り給り、三河守秀康公よりハ
 結構なる具足一領其外武具等被掛御着候ニ付、配流以前の
 身上向にさして相替る義も無之如く罷成とある義を米村
 権右衛門物語なり
一七月廿一日 内府公にハ江城を御出馬被遊、其日越谷に御止宿
 被成、廿二日岩槻、廿三日古河へ御着の晩方に至りてハ上方筋の
 取沙汰を我も人も仕る如く有之候へ共、御前向に於てハ御沙汰も
 無之、廿四日小山へ御着陣被遊候処 秀忠公より御待請の
 ため宇都宮より本多佐渡守を被遣、 秀康公にハ結城より
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 小山へ御出御本陣に於て御待請被成候と也、其日池鯉鮒
 の駅舎に於て堀尾帯刀、水野和泉、加賀野井弥八郎三人
 の喧嘩の様子も広く沙汰有之処に、其日の暮方に至り伏
 見の御城代鳥居彦右衛門方より飛脚を差上られ候、其躰 
 小者中間の様子に有之、状箱なとも持参不仕して御本陣へ
 来り本多上野介殿へ御目に掛り度と申候ニ付、御歩行目付衆
 被立合、其方義ハ鳥居殿にて如何様の奉公を仕る者に候や書
 状等をも持参不致上野介殿へ直に申口上使と有ハ心得かたき
 義なり、大概如何様なる用事ニ付罷越候やと被尋けれは飛脚
 の考申候ハ、拙者姓名をハ上野殿御存知可有とハ存候へ共、御尋の
 上ハ名乗申候、我ら義ハ浜嶋無手右衛門と申彦右衛門方にてハ
 一騎役をも相勤申者にて候へ共、ちと様子有之如此の躰たらく

 にて罷下候、彦右衛門申付候御用向の義ハ各中なとへ申義にてハ
 無之と申ニ付、其趣上野殿へ相達候へハ無手右衛門を閑所へ
 呼寄暫く対面有之、其後ハ白淵通りを御前へ被為召、本多
 佐渡守、上野介父子計御側に被差置、無手右衛門口上を直に
 御聞被遊、品々御尋の義なとも有之、御用相済候以後無手
 右衛門ハ彦右衛門居城矢作へ罷越候と也、夜に入四時比に至り
 内藤弥次衛門方より被差上候飛脚使者も参着致し、是亦
 上野介逢被申御前へ御披露有之御用相済候て総州佐  *上総佐貫(現富津市)
 貫の城へ罷通り候と也
一右伏見御留守居両人よりの御注進に依て、上方逆徒蜂起の
 義分明に相知レ候ニ付、其夜中本多上野介を宇都宮へ夜通しの
 御使に被遣、御用の趣当分ハ相知レ不申候処、後日に沙汰有之
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 候ハ上方騒動と有之ニ付、 秀忠公の御事ハ不及申御先手へ
 出勢被致候面々御用有之可被召寄ハ格別、御機嫌伺として
 小山へ参陣の義堅く御停止に可致仰付旨被仰遣候となり
 結城秀康公の御事ハ今昼の間小山の御本陣に御詰被成候へ共
 翌廿五日那須表へ御出馬あられ候ニ付、御暇被仰上結城へ
 御帰被成候を本多佐渡守へ被仰付、急に被為召候ニ付、夜中
 小山へ御越被成候処に、伏見より御注進の次第御物語被遊
 会津御発向の義をハ被差置、先上方へ御馬を可被出哉、又ハ
 持掛りたる義にも候へハ上杉を御打果しの以後上方へ御発向
 可被成か右両条の内其元にハ如何被存候やとの御尋ニ付、秀康
 公被仰上候ハ、思召の程ハ不存候へ共、私存候ハ片時も早く上方へ
 御進発被遊御尤奉存候、但上杉一揆(騎か)とハ乍申手剛き敵

 の義に候へハ、慥なる押へを被差置御尤の由御申上候へハ御
 前の思召も其通り也、早々結城へ帰り御休息あられ明朝ハ
 早々御参陣あられ候様にとの仰ニ付、結城へ御帰り有
 翌朝那須表へ御出勢の儀ハ御延引候となり
一本多上野介宇都宮への御使者に被差越候節、供廻り二十人
 計召連被申内、往還共に馬の側を放れず達者を仕候もの歩
 行士の中にて一人、鑓持一人、馬の口取一人、只三人より外に無之
 廿四日の夜に入て小山を出宇都宮に於ても暫く御用の義
 有之、夫より取て返し廿五日の早朝に小山に帰られ
 秀忠公よりの御返答の趣を被申上候へハ路次を急ぎ候と相見へ
 早く罷帰候有之御感被成と也、右達者に供廻りたる三人の内
 歩行士にハ新知百石遣し侍に取立、鑓持と口取ヲハ従士に
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 被申付候と也、其節上野介被乗候馬ハ芦野鹿毛と申候を
 秀忠公御聞及び被遊、御所望被成ニ付被差上候と也、右五十幡
 谷泉物語なり
一廿五日今度会津御発向ニ付、 内府公へ随ひ被申関東へ下向被致
 たる諸大名方の義、小山の御陣所へ御呼集め被成、井伊兵部少
 本多中務両人を以て御使として昨晩方、城州伏見の城に残
 し被置たる御留守居両人より御注進被申上趣きを一々被仰聞
 各中の義ハ大坂に妻子方を被差置たる義なれハ定て無心元
 可被存の間、勝手次第当陣を御引払有之御上り可有之候
 此方領分御通りの節、旅宿、人馬等の義少も手支無之様に可
 申付の間、御気遣有之間敷候、此以後上方衆と一所に御成り候
 とても毛頭遺恨に不存の間、左様に御心得可有之旨、 内府

 被申候と両人被申述候、干時各列座の中より福島左衛門太夫
 政則進ミ出被申候ハ、内府公仰の通り我等共妻子の義ハ大坂に
 差置候へ共、ケ様の時節に望み妻子なとの事貪着可仕様ハ無
 之候、余人の義ハ如何も候へ、此政則に於てハ身命を擲ち
 内府卿の御味方可仕にて候と申放されけれハ、黒田長政、浅野幸長
 細川忠興、加藤嘉明、池田輝政此五人の義ハ不及申、其外一座の
 衆中一同に御味方可仕旨被申候に付、井伊、本多両人共に各中へ
 向ひ各様仰の通りを申聞候に於てハ 内府大慶に可被
 存候、私共義も乍憚御頼母敷各様の御口上を承り、忝次第
 存候と申て罷立チ、其趣を両人被申上候へハ、程なく表へ御出被遊
 何もへ御対顔被成御一礼被仰述、岡江雪を御呼被成最早
 時分に有之間、先各へ料理をとある仰にて御座を御立被
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 成、其後有馬法印、徳永法印、山岡道阿弥此三人を御座前へ
 被召呼、御使に御頼被遊、列座の大名衆の方へ被仰出候ハ、各の義
 大坂表に被差置たる妻子方の義にも貪着なく一筋に当家へ
 一味あらるへきとの義不浅厚志と存る事に候、就夫会津表の
 義弥御仕置あられ、其以後上方へ発向を遂られ可然被存候
 や又ハ景勝退治の義をハ暫く相止、先上方の凶徒追討の
 義を差急かれ宜しかるへく候や、今日各参会の義にも有之候
 へハ御評義あられ何分にも各中の相談の旨に御随ひ可被成との
 義也、依之三法印座中へ出られ候節ハ兵部、中務義も差添
 罷出られ候様にと被仰付候へとなり、右の衆中出座有之
 内府公御意の段被申述候ハ左衛門太夫政則を始め六人衆の義ハ
 不及申、其外の衆中共に一同に被申候ハ、会津表の義をハ其

 通に被成被置、片時も早々上方へ御出馬被成御尤とある被
 申様ニ付、上方へ御出勢可被成に相定り候と也、岡江雪御座
 鋪取持にて御料理出、御酒出候節、政則被申候ハ、今日の義ハ格
 別の義にも候間、各中にも精を被出御酒を可被参候、手前も一ツ
 給可申とて大盃にて呑始められ候ニ付、余程の酒に罷成、中
 にも政則ハ数盃被給候ニ付、能機嫌になられ黒田長政の膝を
 たゝきて被申候ハ、兼ても申通り石田と小西両人か首を切者
 にて一盃給可申候追付の事にて候とある大口なとを被申御酒の
 埒明不申候、 内府公にハ又表へ御出可被成とて膳のとれ候を御
 待被成御座候ニ付、有馬法印と徳永寿昌申合漸々と銚子を
 入レ膳を取セられ候へハ追付 内府公御出、上方近き所の知行
 致さるゝ面々ハ勝手次第当所を引払、片時も早く帰城あら
p272
 れ尤に候、手前父子も早々跡より出馬可致候、兵部、中務両人
 義ハ各一所に先達て罷登候様に可申付候、清須と吉田の両城
 の義ハ敵躰へ近き義に候へハ、左衛門太夫殿と池田三左衛門殿
 先陣被致候様にとの義をも被仰候となり
  右の次第関ヶ原記等にも記し相見へ候へ共、少々相違有之候、我等
  爰に書留候ハ、小山に於て徳永法印其日の列座にて御
  本陣より帰られ、徳永掃部、稲葉外記と申両家老を被
  呼出被申聞たる趣きを河村所右衛門と申者直に承り候て
  覚書に致置候趣なり
一右在陣の諸大名中との被仰談相済て以後、結城秀康公を
 被為召、本多佐渡守一人御側に被差置被仰候ハ、弥会津御発
 向の義をハ暫く被相止、近き内に上方へ御進発可被遊筈に

 御極め被成候、夫ニ付上杉押へとして可被差置候ハ、其元より外
 ニハ無之候間、左様相心得られ候様にと被仰出けれハ、秀康公佐
 渡守方へ御向ひ被成、是は不存寄仰を蒙り迷惑仕候、今度
 上方に於ての御一戦と申ハ御大切の義にも有之候へハ、御味方被申
 諸大名衆と申合せ、御先手に於て軍忠をも励み可申覚悟に
 罷有候処、上杉家の押へとして御留守に可被差置との仰に於てハ
 たとへ御機嫌を相背き候共、何ケ度も御断申上覚悟に御座候
 御免被成下候様にと御申上候へハ 内府公仰候於ハ、惣して今度
 の如くなる大切の合戦に思ひ立て他国発向と有之時ハ留
 守居の将を撰ひて残し置とあるハ弓矢の古法也、其上今度
 我等へ一味有之諸大名方よりハ此以後証人なとをも可被出なれハ
 其人質を請取候てハ、江戸、小田原の両城の内に差置外ハ有間敷
p273
 然れハ諸人安堵のため慥なる留守居に非ずしてハ不叶と思ふに
 付て其方へハ申付るそと仰有けれハ秀康公重て御申上候ハ、
 諸人安堵のため慥なる御留守居可被差置との思召に候ハ幸ひ
 松平下野守罷有候事に候へハ彼者を被差置、私義をハ上方へ御供
 仕る様に被成下度と有之候へハ 内府公聊御機嫌を損じられ
 諸人安堵のため計の義ならハ其方申如く下野守にても事
 済へく候へ共、 我等出勢の跡にて何変の義の有間敷にも非ず
 且又上杉景勝義、我等の留守を見合せ大軍を率し働き
 出る様なる義も有之刻、若輩の下野守にて可事済と被存候 *松平忠吉(家康五男、20歳))
 や、夜前其方にハ佐渡守聞如く今度上方の退治として上り
 候共、会津の上杉ハ手剛き相手なれハ慥なる押へを差置尤と被
 申候か、其手剛き景勝か押へを嫌ハれ候やと被仰けれハ秀康公

 御こまり被成、今度上方の御一戦の手筈に逢不申候段ハ残
 念に存候へ共、唯今の仰の上ハ兎角の義を可申上様も無御座候間
 仰の趣奉畏候、偖私ケ様に御請申上候からハ、御跡の義に於てハ
 御心安く可被思召候、白川の関より此方へ景勝なとにつら出しを
 も致させ申儀にてハ無御座候と被申上候を、佐渡守承り秀康
 公の御側へはいより、御膝をたゝき偖も偖も殿ハ能も御申被成
 たりと申て泪を流しなき被申候へハ、 内府公にも御涙くま
 せ給ひて御納戸衆を被召呼、御具足一領御取寄せ被遊
 御前に被差置、秀康公に被仰候ハ、此具足ハ我等若き時より
 度々の陣場へ着し候へ共、一度も敵に押付を見せたる事も
 なく、秘蔵の具足なれとも今度大切の留守を申付るに依て其
 方へ譲り遣すと有て秀康公へ被遣候となり
p274
  右の次第旧記等にもあらまし記し置候へ共委細に無之、我等
  爰に書記し候ハ、本多佐渡守殿、土井大炊頭殿へ直物語の由ニ而
  度々大炊頭殿、守田与左衛門・大野仁兵衛なとへ御雑談あられ
  候由にて大野知石物語を承書留候なり
一小山御在陣の節、加賀中納言利長以使札被申上候ハ、手前義会
 津表へ出勢可致覚悟に有之候処に、安芸中納言、備前中納言
 其外大坂奉行の面々より種々被申越旨有之候へ共、同心不仕処に
 弥其旨に募り、各反逆の企に及び、上方筋騒動ニ付、会津出
 勢の義をハ暫く相止メ申候、小松の丹羽大聖寺の山口義ハ逆徒
 一味の由相聞へ候間、弥承糺し、幸ひ近所の義にも有之候へハ
 同姓能登守相共に彼両城へ取掛り早速乗崩し、夫より越
 前に攻入可申覚悟に候間、貴方にも其御心得を以て近々

 上方へ御馬を出され御尤の旨被申越ニ付、被聞如く此方にも
 上方筋逆徒の段相聞へ候ニ付、景勝退治の義をハ暫く差
 置、今度関東へ参陣被致さる面々と申合せ、近々上方へ発
 向可致候間、弥其表の義ハ何分にも頼入存候、幸ひ土方勘兵衛
 当陣に在合れ候ニ付、頼入差越候間万端被仰合御尤に候との
 御返答にて、右の使者を同道にて勘兵衛ハ小山を立て加州へ
 被相越候と也
 右土方義ハ利長、利政にハ従弟と云、利長の家老太田但馬と申
 者の兄の由聞召届られ候ニ付、委細の義を仰含られ加州へ被
 差越となり
一其比伊達政宗、最上義光、越後衆にてハ堀久太郎、村上周防、溝口
 伯耆右の面々の方へ今度上方の逆徒退治として令出馬ニ付
p275
 会津表発向の義ハ暫く延引候間、各中も其心得を被致、此以後
 景勝か所行を見合られ候義肝要の旨被仰遣候となり
一小山に於て上方騒動の聞へ有之砌、山内対馬守御本陣へ
 参上致され、本多上野介を以被申上候ハ、今度大坂表に差置候妻方より
 付置候侍を下人に仕立、私方へ使に差越候書状をハ切さき
 候を一二付ヶを仕り笠の緒にひねり、路次の新関所等にて改ニ
 出合候ても書状の義ハ紛失不仕如く申付差下し候処に、案の如く
 関所に於て委細の改めに逢候へ共、菅笠にハ番人共の心付も
 無之ニ付、無別義到着仕候ニ付、右笠の緒を持参仕差上候と被申候へハ
 上野介件の笠の緒を持出其段被申上候へハ、則対馬守を被為召
 笠の緒を御手に持せられなから仰有けるハ、其上内室ハ女性
 の身にてハ近比奇特千万なる志と被思召候、此笠の緒の書中

 をも内見不仕其侭にて被差上候段別して御満悦被成候、御披見
 被成たるも同前の義に思召候ニ付、則返し被成と有て、対馬守へ
 御渡被遊候と也、是より先キ御本陣に於て上方御発向の御評
 義有之刻、対馬守被申上候ハ、今度上方に於ての御一戦の義ハ
 形の如くなる大合戦にて可有御座と相考候へハ、侍、足軽の一
 騎一人も人多に召連申度候間、私の居城掛川の義をハ指上ケ
 可申の間、御家人衆の中を一人番手に被仰付可被下候、然るに
 於てハ、城番に差置候家来迄も不残召連出勢仕度旨願被申候
 へハ、尤至極なる被申様と有て、対馬守願の通被仰付候を以て
 其外今度御道筋に有之城々義ハ掛川同前の様子に罷成
 御譜代大名の小身衆へ居城を明渡し御当家よりの在番
 城の如くに罷成候ニ付、駿河、遠江、三河、美濃、尾張迄御手に入
p276
 たるも同前也、右両条の御奉公を御感悦被遊、天下御一統の
 後、遠州掛川六万石領知被致候を土佐一国の守護に被
 仰付候となり
  右対馬守土佐国拝領の後、入部被致暫く在国にて上り
  被申刻、二条の御城に於て御月見の節 内府公土佐の
  国物成納り方の様子御尋被遊候砌なと被申出候とき、本多
  佐渡守双ひ被居候於か、対馬守尻をつき被申候ニ付心付被申、廿
  万石内外も可有御座やと被存候と被申上候へハ、いかにも左
  様にて有へし、先年長曽我部方へ太閤を招請致し
  たる義有之、其節の家作の様子其外万事の仕形ともに
  十万石取の振廻しとハ見へず廿万石より上の身上むきと
  ならてハ思ハれざるの旨、諸人取沙汰致したる事也、去に

  依て今度美作の国も明て有之と云へ共、土佐の義ハ作州
  よりハ増るへきかと思ひて其方へハ遣したる成とある
  仰に付、若十万石内外も可有御座かなと被申上候ハ散々の
  首尾にて可有をと存るに至り、本多佐渡守子息上
  野介へ内証にて雑談の由五十幡谷泉物語を書留申
  候なり
一信州上田の城主真田安房守義 内府公の御旗本に相加り会 *真田昌幸
 津表へ可相働と有之、子息伊豆守相共に野州佐野へ着陣   *長男真田信之
 して、安房守ハ天明に陣取、伊豆守ハ同所犬伏に着陣の
 所に石田治部少輔方より飛札を以て申越候ハ、今度秀
 頼公の御味方被致に於てハ信州一国の守護職の義ニ於てハ
 相違不可有旨委細申送りけれハ、息男伊豆守を呼寄相談
p277
 の処に、伊豆守一向同心無之、達て異見を加へ諌め留けれハ、安房
 守不興不大形して申けるハ、我等年寄立身栄達の望と
 てハ毛頭程も無之義也、第一にハ海野の家の再興のためを
 思ひ、次に其方並に左衛門佐なとを世にあらしめんか為計 *次男真田幸村
 存立たる義なるを、其方を内府の家来本多と縁者たるを
 以て、当家の興記親の令をもかへり見ずして内府のためを
 第一と致すと有ハ不届沙汰を限りたる義也、と有之立腹
 しきりなれハ、伊豆守仰の如く私義ハ近年 内府の懇意
 に付、一旦ハ存寄をも申述候へ共、是非上方御一味とある思召
 に於てハ、御心に随ひ申外ハ無之義に候との返答ニ付て安房
 守悦喜不浅、其方同心の上ハ弥相談を相遂ケ、秀頼卿へ一
 忠節に罷成如くの働の致し方もなくてハ不可叶の間、其勘

 弁被致尤と也、伊豆守ハ成程相心得候と申て座を立、勝
 手へ出直に馬に打乗て犬伏の陣所へ帰りける跡にて
 安房守家来を呼、伊豆守ハと尋けれハ先程勝手へ御立候て
 其侭犬伏へ御帰有と申に付、安房守大きに驚き次男
 左衛門佐並に家老共を呼集め、暫く相談致しけるか俄に
 支度を調へ、夜中に佐野を引払て上田の城へ引返し
 候と也、 其節伊豆守義ハ犬伏の陣所へ帰り家人共を召寄セ *犬伏 栃木県佐野市付近
 我等義ハ房州公の前を致し損したる義有之、万一討手 *房州公 真田安房守昌幸
 なとを被差越義も可有之間、各其心得を致し天明に人  *天明 佐野市付近、地名
 を付置、人数押向ふと有之に於てハ早々当陣を引払ひ
 逃退申心得肝要の旨家中へ申渡す処に、安房守、左衛門佐
 と相共に俄に陣を払引退被申候との注進有之ニ付、伊
p278
 豆守ハ其侭犬伏に罷有て小山へ使者を差越、本多中務方へ
 書状を以て、親安房守方へ石田方より差越候書状の趣、上
 方筋逆徒蜂起の段実正の旨注進被申候へハ 内府公不
 大形御感悦被遊、則伊豆守殿へ御書被成下候となり
 右の趣、旧記等にも有増ハ書記し相見へ候へ共、具さならず
 其上安房守、伊豆守父子共に宇都宮辺に陣取罷有処へ石
 田方より飛脚到来と有之候得共、左様にてハ無之由に候
 我等書留候趣ハ稲垣与左衛門と申老人、真田左衛門佐方ニ
 罷有、大坂の城へも籠り夏陣の刻、少々手負候へ共存命に
 て罷有其者の物語仕候趣也
一内府公江戸表へ御帰城可被遊と御座ある処に 秀忠公榊
 原式部太輔を被召連、宇都宮より小山へ御越被成、良久

 御閑談被遊、其夜ハ結城に御止宿被成、翌朝宇都宮へ御帰
 城被遊、宇都宮外構の御普請の義被仰出置、蒲生家の家
 老共被召呼、今度御父子様共に上方へ御発向被遊ニ付、御留守
 中の義ハ一円に結城秀康公へ御任せ被置候間。何時も秀康
 公此辺御村廻りの節ハ当城の本丸を御逗留あられ候様に
 可仕旨被仰渡ニ付、其節秀康公の御威勢 秀忠公も御同然
 の様に有之候と也、此義ハ旧記等にハ相見へ不申候へ共、其節蒲
 生家に罷有候結解勘介、浅野因幡守殿へ物語仕候を承り書留申候
一其比 秀忠公宇都宮を御出馬被成候御跡に於て、結城より
 秀康公宇都宮へ御出馬有て御逗留の内、芦野、太田原辺へ
 御廻り被成候と也、其節上杉景勝義も領分順見のため会津を
 出、白川の城に逗留の旨宇都宮へ相聞へけれハ、秀康公より白
p279
 川へ使者を被差越候、其御口上にハ此間其表へ御出勢の旨に候
 定て御聞及びも可有候、 内府父子義ハ上方の逆徒等誅伐
 のため出勢ニ付、手前義留守を預り相残り罷有ニ付、形の如く
 従然に罷暮し候処、其元白川辺迄御出勢の由相聞候幸ひの義ニも
 有之候間、此方へ御勢を被差出間敷候や、然るに於てハ手前義も当
 城より出馬致し、野州の野間に於て一戦を相遂申にて可有  *宇都宮と白河の略中間地
 之と也、景勝返答被申候ハ、今度 内府御父子上方へ出馬あられ
 候ニ付、其元御留守に残られ御従然に御暮しの旨致承知候
 手前義も諸方の寄手共勢を引入候ニ付、余程相手なしに
 罷成、手透にも有之候へハ、たとへ其元より不被仰越候共、出勢仕
 度所存に候へ共、亡父謙信以来人の留守をねらひ候て取懸候
 如くの義ハ決て不仕筈の家法に定め置候ニ付、我ら心に任せ

 難く残念の事に候と有口上の由也
  此趣ハ旧記等の中にても終に見当り不申、越前家に
  於ての申伝へも無之由ニ候へ共、敵方の上杉家に於て専ら沙
  汰仕候事にて候と有義を、景勝の方に罷有し石坂与五
  郎と申者彼家を浪人致し、散々の躰に落ふれ石坂与斎と
  名乗、紙子一重の仕合と成て罷有候て、畠山下総守殿肝
  煎を以て、浅野因幡守殿三百石給り浪人分にて抱へ
  置れけるか、以後暇を取阿部豊後守殿へ六百石にて罷出候
  右の与斎、因幡守殿へ物語仕候事共を書留候覚書の中に
  秀康公の御口上、景勝御返答被申候次第共書記し有之候を
  以て爰に書のせ候なり
一内府公にハ八月五日小山の御陣所を御引払可被遊旨被仰渡候
p280
 処に其砌洪水にて栗橋の船橋切レ流し候を掛直し可申旨
 代官衆より被相伺候節被仰候ハ、栗橋船橋の義ハ会津表発
 向に付、跡軍の往来のためと思召御掛させ被成候へ共、上方御進
 発の上ハ御入用も無之間、掛直すに及ハすとの御意にて、乙女
 川岸より御船に被為召、西葛西へ御着岸被成、江戸御城へ
 被為入と也、秀忠公の御供にて中仙道へ被掛衆中の義ハ
 宇都宮近辺に其侭在陣被致候と也
一右の通り江戸へ御帰城被遊候と其侭近日上方へ御進発可
 被遊間、御供の面々ハ其支度を仕り罷有候様にとの被仰渡
 に付、何れも用意を相調へ御出馬を相待候処に九月朔日迄
 御延引被遊となり
  此義ニ付我ら若年の節、米村権右衛門江戸詰の番に当り相

  詰罷有候間、養父方へ夜咄ニ参、小木曽太兵衛を呼出し相尋候ハ
  先年関ヶ原御陣の砌、我等事ハ主人修理共を致して小
  山より罷登り尾州清須之城下の寺を借宿陣致し罷
  有内、関東より御先へ被登候諸大名衆其外の諸軍勢共に
  内府様の御着陣を今や今やニと相待候へ共、江戸御出馬の御日
  限も相知れ不申、 内府様にハ毎度御鷹野に御出被成又
  御城内にて御能なと被仰付寛々と被遊たるご様子の由
  相聞へ候ニ付、諸人退屈仕り種々に評判仕りたる事に候、其節
  御当地の様子ハいかやうに有之たるぞ物語仕候様にと有之
  候へハ、小木曽米村へ申候ハ、小山より江戸へ被為入候と其侭に
  も御出馬可被遊様に我人存罷有候処ニ、御陣触以後廿日
  余りも御出馬ハ相延申候、然共其内に一度も御鷹野なとに
p281
  御出被遊たる事も無御座候、それハ皆清須辺にての雑説と申 
  物にて御座候、私共の頭より被申付候ハ何時によらず急に
  御出馬可被遊も相知れ不申候間、御城番にあたり候節ハ
  御番所より直に御供申上候支度にて罷上り候様にと堅く
  申付故、御城泊番に当り候節ハ御供の支度を以草鞋、路
  銭なとをも腰に付候て罷出申如く有之、猶其上にも二日
  置、三日置頭の宅へ呼付、御供心掛油断不仕候様にと有
  之義を被申聞如く御座候、頭中何もの申合せと相聞申
  候、御城にても御玄関前扉重門の内にハ御鑓立の柵木
  出来候て、虎の皮の御長柄鑓をかさり並べ、御書院の御
  床の上にハ御馬印も立ならべ有之、只今にも御陣立可被
  遊かと被存如くの御様子に有之候か、其如く九月朔日の御出馬

  と有之被仰渡ハ八月廿七八日比の様に覚申候、侍中の義ハ
  不及申、我等弐の様成軽々の者迄御出馬の御日限被仰出
  候へハ、殊の外悦ひ勇ミて御供仕候由、小木曽米村へ物語
  仕候を側にて承り候なり
一右御出馬前増上寺方丈存応和尚登城被致御咄の節被申上候ハ
 今度上方に於ての御一戦の義ハ下々にてハ殊の外成る御大事の
 様に取沙汰仕候、勿論御勝利にてハ可有御座候へ共、事の大義に
 望候てハ仏神の加護を祈り申と有ル古今共に和朝の習ひにて
 も有之候間、御領分の内の霊仏霊社に於て御祈祷なとをも
 執行仕如く被仰付御尤に存候と被申候へハ 内府公御聞被遊
 一段尤の事候、手前領内の寺社の中にてハ何れの寺社へ申付可然候
 半と御尋に付、存応申上候ハ、先鎌倉若宮八幡なとへ被仰付
p282
 候ても宜く可有御座やと被申候ヘハ、内府公被仰候ハ、八幡宮の
 義ハ我等若年の比より朝夕念願申事に候へハ今度に限り
 祈祷を申付るにハ不及候、幸ひ武社の義にも候へハ神にてハ鹿島
 大神宮、仏にてハ我等の祈祷所にも有之間、浅草の観音にて
 祈祷可申付と仰有て、鹿島大宮司、浅草寺別当観音院両
 人へ御祈祷可仕旨被仰渡候付、右大将頼朝平家追討の節
 両所に於て祈祷被申付、旧例の式法を以て御祈祷執行仕
 候となり
  右鹿島、浅草寺両所に於ての御祈祷の義、九月朔日御出陣
  の御跡にて十七日満し候ニ付、大宮司浅草寺申合名代の
  使者使僧を以十七日の御祈祷相添候御札守を差上候付  
  両所の使者道中を急ぎ、同十四日の晩方岡山の御陣所

  近きあたり迄参着致し、御本陣へ持参可仕と有て支
  度仕候処に大垣の城より人数を出し中村、有馬の両手
  との一戦有之ニ付、明朝可罷上と申合せ居申処に、明十五日の
  義ハ早朝よりの御合戦ニ付、差控罷有、其日の晩方藤川の
  御陣所へ参上仕御札守を差上候へハ御悦喜被遊、両人義早々
  罷帰此表ハ合戦御勝利の段を申達、最早恐敵退散の御祈祷
  をハ相止メ、偏に天下安全の御祈祷を可仕旨被仰出候也
一越前敦賀の城主大谷刑部少輔吉継、会津発向として勢を揃へ
 敦賀を打立木の本に着陣して石田光成方へ飛札を差越し、此
 間も度々如申入候今度会津表へ子息隼人正を名代として被
 差向候様にと 内府卿よりハ御申の由ニ候へ共、父子同道にて被
 相越尤ニ候、我等同道申上ハ 内府卿の御手前の義ハ何分にも
p283
 可申調候と也、三成ハ兼て家来柏原彦右衛門と申者を使者に申
 付、途中へ出し置候ニ付、大谷か宿陣木の本へ罷越、今度会津
 御発向として御出勢有に於てハ佐和山の城へ御立寄あられ
 可給候、面談致し度義有之候と也、大谷ハ病身tるに依り紙
 帳を釣らせ其内に有て柏原を呼寄、手前義佐和山の城へ
 立寄候様に被申越段ハ心得かたき義也、会津表発向の外に用
 事可有子細無之、其方ハ外の者とハ違ひたり大形ハ心付も可
 有之けれハ申聞候へ、畢竟主人三成ためなりと有けれハ柏原申
 候ハ、いやさ私共へも不申聞候へハ可存様も無御座候へ共、いか様にも
 会津発向の用事迄にても無之外に御相談申度とある存念
 も有之哉、是非御立寄あられ候様に仕度との義を以て私を
 差出し候と申ニ付、然る上ハと有之大谷佐和山の城へ相越候へハ

 石田ハ大きに悦ひ大谷を閑所へ誘ひ今度存立の趣を一々申
 けれハ大谷聞て申けるハ、是ハ以の外なる不了簡にて候、江戸の
 内府なとを大躰の人と被存候や、其段ハ我等の申迄もなく其
 元にも渕底存の事に候、子細ハ故太閤常々我ら共へ被仰聞にも
 家康の義ハ智勇共に具りたる人なりを以、我等のよき相談相
 手と思ひて馳走致す義也、何□の合点のゆく事にてなしと
 有之義を毎度仰有つる義也、然るに其 内府を相手に被致
 弓矢に被及候とあるハ沙汰の限りと可申無益の義を被相止、我等
 と同道被致会津表へ発向の外ハ不可有旨制止を加へれハ
 三成重て申けるハ、貴殿の異見に随ひ存留り度候へ共、最早差
 様にハ不罷成、子細ハ上杉景勝家老の直江山城守と堅く申合
 候を以て当春より主人景勝を進めて旗を揚させ候ニ付
p284
 内府父子を始め諸軍勢景勝退治と有て会津発向の処に、兼て
 の申合せを違へ、景勝一人を謀反人の沙汰に合せ見殺し候てハ
 武道の本意も相立不申義なれハ、合戦の勝負に於てハとも角も
 只今に至り存じ留り候とある義ハ決して不罷成事に候、其元
 御同心無之段ハ不及是非義なれハ関東へ参陣あられ尤と也、干時
 大谷申けるハ、御自分に一大事を語らせ夫を聞捨に致して我等計
 関東へ下るへき様も無之、其上兼々申合たる一言も有之義なれハ
 手前の身命に於てハ貴方へ参らする外無之、夫に付ても上杉家
 来の直江なとへさへ被申談義を今日迄も我らへ内談不被致段
 満足にハ不存候へ共、今更其義を申にハ及び不申、ケ様の大義を
 被存立候に於てハ其元へ申入度義両条有之候と也、三成聞て夫を
 こそ願ひ存る義なれハ、たとひ如何様の義たり共被申聞給り候

 様にと有之ニ付、大谷申けるハ、惣して其元にハ諸人へ対し被申て
 の時宜作法共に殊の外へいくハいに候とて諸大名を始め末々の *へいくわい=傲慢
 者迄も日比悪敷取沙汰を仕る由也、 江戸の 内府抔ハ家柄と云
 官位と云其上当時日本に並びなき大身に被有之候へ共、諸大名
 方の義ハ不及申、少身軽々の者に被逢候ても慇懃に被致、夫々に
 言葉を掛ケあひそうしく有之に付て、諸人の存し付も格別に
 相見へ候、諸人の上に立て事を取と有に付てハ下の思ひ付かひ
 なくてハ不罷成事に候、其元も前抔義ハ一向の少身者にて有之候を
 故太閤の御取立を以て大身にへあかり候と有ハ、諸人罷存たる義
 なれハ、公義の御威光を以て人々上へ□ハ尊敬致す如く有
 之候ても底意に於てハ左様無之候間、此段を能々分別致され
 今度の義も毛利輝元、浮田秀家両人を上にたて、其下に
p285
 付て事を取計られ候如く心得不被申候てハ事行ましく候間
 左様に合点被致尤の事に候、外一ヶ条申入度事有之候へ共、是ハ如
 何に心安き間柄と有ても申にくき義なれハ申兼候と也。三成
 聞て申けるハ、尋常人の申にくきと有義を云聞せられ候てこぞ
 知音の甲斐も有之義なれハ少も隔意なく被申聞給り候へと  *知音(ちいん)=親友
 願ひに任せ大谷申けるハ、先程も申通り武家に於て第一と仕る
 と有ハ智勇の二ツに止りたる事に候、其元の義智恵才覚の段に
 於てハ双ふ人も無之如く有之候へ共、勇気の一ツハ不足有之かの
 様に被存候、差当り其証拠を可申候、今度の大義に於てハ輝元
 秀家を始め其外一味の諸大名と申ても皆々仮合の事にて
 其根元ハ貴殿一人の存立より事起りたる義なれハ、人より先に
 身命を擲ち可被申とある覚悟を不被定してハ不叶義也

 然るに於てハ他人の力をかられ候迄も無之、一万に及ぶ人数をも
 被持候こそ幸ひの義なれハ、水口の長束抔に示し合され
 内府関東へ下向あられ候節、石部に旅宿被致候夜中押掛ケ焼
 討に被致候に於てハ疑ひもなく勝利を可被得処に、左様なる
 大切の場所を手延に被致 内府を無恙関東へ下され候とあるハ
 虎を千里の野辺へ放つも同前の義にて大き成油断と申もの
 にて候、此以後ともに四ツ沓を打たる如くに計心得られ、あふなけ *四つ沓 四本柱の礎石
 もなき勝計を好まれ候と有ハ宜しからぬ事にて候と、大谷か異見
 に出合、三成大きに赤面致しなから過分不浅旨申述候と也、夫より
 大谷ハ関東下向の義を相止メ大坂へ罷登候由也
 右の段ハ旧記等にハ相見へ不申候へ共、大谷親類早水拙斎物
 語を以て書乗せ候なり
p286
一内府公大坂を御立あられ関東へ御下被成、御味方の諸大名衆
 も御後より追々出勢被致候、以後三成ハ長束大蔵と申合両人
 共に大坂へ罷越候処、兼て申合せたる逆徒の面々、毛利輝元、浮田
 秀家、筑前中納言、島津兵庫、同中務、小西摂津守、立花飛騨
 長曽我部宮内少輔、鍋島信濃、毛利豊前、安国寺なとを初と
 して、其外少身の面々共に国元在所に於て、何れも会津発向
 との陣触にて勢を催し、時節を考へて大坂へ寄集り反逆
 の色を立候と也、其比逆徒の諸将輝元宅に於て参会可致を
 何れも備前中納言の屋形へ寄合を付ケ、万事の相談を遂候を
 以て、今度の惣大将ハ備前中納言一人の様に申触候処、或日の
 寄合の席に於て、西の丸の御留守居佐野肥後方へ使者を立
 其御殿公義御入用の義有之間、早々明ケ退可被申旨、急ニ催促

 致すニ付、肥後守も口惜き次第とハ存けれ共、其身西の丸に計
 罷有て世間の様子をも不存候ニ付、無是非預りの女中共を召連
 出城致して後段々の次第を聞届、ケ様の義たるに於てハ奉行中
 よりの使者の者を討果し、御殿に火を掛ケ切腹可仕ものをと
 後悔致しても返らぬ義なれハ、無是非女中を片付の埒を明、其
 後伏見の城を攻るの由を聞て、責ての申分ケのためと有て伏
 見へ罷上り候となり
一其比逆徒方の諸将、輝元の宅に於て評義の節三成申けるハ、数 
 万の諸軍勢ケ様に大坂に集り居て空く日を送り申と有ハ
 無益の至りなれハ、当地にハ輝元に増田右衛門尉相添て残られ
 候ハ事済へき義也、 輝元の御息男宰相殿を主将として吉川
 以下の家来中を勢州表へ被差向、 内府方の城々を攻抜キ夫
p287
 より直に美濃尾張の間へ出勢あられ尤に候、我ら義ハ浮田
 中納言殿と申合せ直に美濃尾張の国中働き出、 内府と
 一味たる面々の居城を攻取て人数を籠置キ、 内府上方へ被出
 候ハ宜き場所に待請て一戦を遂へし、若又出勢不被致に
 於てハ道中筋に有之 内府方の城々をハ片端より攻崩
 して段々と江戸表迄攻入如く可致にて候と手に取たる如く
 申けれハ、輝元、秀家を始め何れも尤と一同せしと也、三成重て
 申けるハ、右発向の諸軍勢通りかけの義にも有之候へハ城州伏
 見の御城を攻囲ミ今度 内府の留守居として被差置、鳥居
 以下の者共を悉く攻殺して御城を取返す如く致度事に候
 其義も其寄手の人数に相加り申度候へ共、手前居城の佐和山の
 義ハ敵地へ界たる所の義にも候へハ、諸事の申付のために候間

 帰城可仕候、我ら名代として高野越中、大山伯耆両人も二千
 余の人数を相添残し置候間、 何方へ成共差向可給候と申置
 三成事佐和山へ罷帰候節、 大津の城主京極宰相高次の方へ
 案内を申入て立寄候刻、小雨ふりけれハ羅紗の合羽を着して
 蓑笠をかふり大手の門外に家来共を暫く残し置、上田
 源蔵と申剛力の侍只一人を召連、城内へ入候へハ、高次ハ三の丸の
 客屋へ出向ひ本丸へ可申入候へ共、此節の義に候へハ路次御急きと
 察し候ニ付是へ罷出候と也、三成日比にかハり慇懃の躰にて高次へ
 向ひ、秀頼様御治世の御時節到来仕り、其元にハ嘸御大慶可被
 成と察入存事に候、先日比ハ関東御一味の様に雑説を申出し
 候に付、御家人筋目の私義に候へハ殊の外気の毒に存罷有候
 所ニ早速御証人等被差出之旨諸事御首尾宜しく、拙者
p288
 一人の様に悦存候、此以後弥御忠節を被尽儀肝要の御事に候
 公辺の義に於て某に御任せ置るへく候なとゝ申候と也、高次ハ
 先頃大坂表へ不参の節、三成一人不興致し、諸人見こりの
 為にも有之候へハ、早々人数を差向ケ高次に腹切せ可然と申
 候へとも、大谷刑部少是を制止致し候とある義を先達て
 聞及び被居候に付、偖々不届の奴かれとハ被存候へ共、何気
 なき躰にもてなされ候と也、 此節京極家譜代の侍に安養
 寺三郎右衛門入道聞斎と申たる者、家老の黒田伊予を閑
 所へ携ひて申けるハ、今度の逆徒の張本石田義今日当城
 中へ参るとあるハ偏に天のあたへと申ものにて候間、三成を
 生捕て城門を差塞ぎ、関東御一味の色を御立可被遊ハ只今
 にて候と言葉を尽して申けれ共黒田合点不仕候ニ付、聞斎可仕

 様も無之、其外の加藤山田三左衛門、多賀越中、赤尾伊豆なとを
 呼たて相談仕る内に三成ハ高次との対談事済て罷帰候ニ付
 安養寺か武略空しく成候と也、右の黒田伊予義ハ京極家の
 長臣に候へ共、高次若狭の国を拝領以後、京極の家を出て筑
 紫へ下り病死致候と也
一其比大坂西の丸に於て逆徒の諸将寄集、伏見の城を攻抜
 へしと有相談の節、増田長盛申けるハ、伏見の御城の儀ハ故太閤
 御隠居所と有之を以て日本国中の人夫を寄セ集め普請等の
 義も丈夫に被仰付、兵糧・矢玉・兵具等に至る迄事欠る事もなく
 其上留守居四人の義も城代の鳥居を始め、何れも 内府の若き
 時分より仕ひ立られたる武辺誉れの者共と云、第一ハ近きあたりに
 内府味方の城とあるも無之義なれハ、侍ハ云に及ハず下々雑人に
p289
 至る迄逃れ去るへき道なけれハ、各必死の覚悟を極めて相防くに
 於てハ容易に落城可仕とハ不被存義也、就夫我らの存る旨あり
 幸ひ城代鳥居事ハ多年の知人の義にも有之候へハ、使者を差
 越シ異見を加へ、城を明渡す如く相謀り見可申やと有之候へハ
 一座の面々尤可然との挨拶ニ付、長盛家人山川半平と申者に
 委細を申含め伏見へ差越候処、彦右衛門ハ山川を本丸へ呼入レ対
 面に及ぶ、干時半平罷出、主人右衛門尉密かに申遣し候趣ハ今度
 輝元・秀家・景勝三老中と 内府卿御矛楯の義ニ付、筑前中納
 言秀秋を始め、島津・鍋島・小西なと申大名衆其外九国中国の
 諸大名ハ悉く三老中と申合せ、大軍を催し近日関東発向
 の刻、最初に其表へ押寄せ御城を請取可申との内評義有之候
 右衛門尉義ハ以前より 内府卿御懇交の義にも有之、其上

 秀頼公御幼年の御時節旁以てケ様の騒動とあるハ不可然義とハ
 存候へ共、長盛一存の及ぶ処に非ず心外の至りに存事ニ候、夫ニ付
 某を以て申進候、元来伏見の御城の義故太閤御隠居所と
 有之御築立の義に候へ共、秀頼公大坂御座城と有之を以て
 内府卿御預りの様に罷成、今度会津御発向に付て各
 中を以て当分の御留守居と有之義にも候へハ、元来
 内府卿御持の城と申にても無之候へハ、公義へ被明渡候とても
 御留守居中の御越度には成申間敷かにて候、其上世上如此の
 次第に罷成候へハ各中 内府卿への御忠節尽され所ハ此末
 いか程も可有之様に被存候間、御了簡あられ何事なく御明渡シ
 可然候、此段御同心に於てハ拙者を始め其外手前家老分の
 者共の世倅を五七人も申付、勢州表渡海あられ候場所迄証人
p290
 心に見送らせ可申旨能々可申達旨長盛申付候と也、干時彦右衛門
 半平へ向ひ則返答可仕にて候とて被申候ハ、先以思召寄被
 仰越候御口上の趣承知仕、御心入の段忝次第奉存候、被仰聞
 如く当城の義公義の御城と有之義に於てハ、我ら弐の者も
 兼て承知仕罷有事に候、然れ共先以 内府関東へ下向の節
 当城の義、留守中堅固に可相守旨を以て預け置たる義に候
 へハ只今にも 内府方より明渡候様にと可被申越ハ格別、大坂方
 よりの内意を以て明渡候とある義ハ決して不罷成候間、御
 勝手次第に軍勢を被差向御尤に候、城中小勢にハ候へ共、随分と相
 防き見可申にて可有之候、偖右衛門尉殿よりの御口上にハ
 内府義を今以て御如在に不被思召、我等義も以前より御存知故
 の御内意と有之段ハ一円得其意不申候、子細ハ実に 内府ため

 を被思召義も候ハ、縦令我等共当城を明退き可申旨申入候共、同
 しくハ当城を枕と仕り可然なとゝ有之御内意なとをも可
 被仰聞義に候処、早々明渡し立退き候様にとの御内意の段ハ  
 内府ためを被思召とある御口上にハ相違仕、右衛門尉殿にハ御
 似合不被成義と、此彦右衛門ハ存候と有之義を能々御申達可
 候との返答也、半平義罷帰り右の返答の趣を右衛門尉へ申
 達候刻、中村家に罷有候渡辺勘兵衛、其比は印斎と名乗居申
 候を右衛門尉方より一万俵宛の合力以て浪人分にて相
 抱へ、和州郡山の城を預ケ置けるか用事有之大坂へ下り其座に
 有合せ候ニ付、長盛、印斎へ向ひ只今半平か申聞候鳥居彦右衛門
 口上を被聞候やと有之候へハ印斎承り、先程より是にて承り
 余りに感心仕前後に及び候と申候へハ、されハの事にて候、鳥居
p291
 なとか様なる侍を失ひ可申とあるハ近比惜き事にて候と有て
 長盛も頻りに落涙致し候と也、 右の趣ハ印斎義関原御陣
 以後郡山の城明渡しの節の裁判宜しかりし旨、藤堂高
 虎聞及び、知行一万石にて召抱へ家老並の会釈に致し
 置れ、大坂両度の御合戦の刻も先手役を被申付候処に、子細有て
 彼家を出、椎庵と改大津に居住の節、江戸表へも罷下り候付
 堀丹後守殿内証にて過分の合力なと被致、家来同前に出入
 致し候か、右の次第を丹後守殿にて椎庵物語仕候を直に承り
 たる由にて中西与助物語を以て書留候
 右の趣旧記の中にも記し置候へ共、石田治部方よりの使者と有之
 て使者の名ハ相見へ不申、其上右の使者を留置、外の主人衆を
 本丸へ呼寄セ評義を遂、四人相談の上にて返答の趣に書記し

 相見へ候へ共、ケ様の時のため城代の義にも有之候候からハ、其身の一
 存を以て手切レの返答に被及候段尤と存候ニ付、旁以て椎庵
 物語の趣を取用候也
一其比伏見の寄手にハ備前中納言秀家、筑前中納言秀秋、五奉
 行の中にてハ長束大蔵太輔是等を主将として、近日大坂表
 を出勢致すの由相聞へけれハ、四人の御留守居中相談して西の
 丸に被居候若狭の少将勝俊の方へ使を立、今度当城へ寄手として
 御舎弟秀秋被相向候於とある義ニ付、其元の当城中に御入候を城兵
                                       *木下勝俊(1569−1649)
 共何れも得心不仕候間、早々西の丸を被明退候様にとの口上に任せ
 勝俊ハ西の丸を明退、京都へ登り北の政所の亭を守護被致候となり
一右彦右衛門方より右衛門尉方へ手切レの返答を被致候以後、今生の
 暇乞と有て御留守居四人の方へ廻り振舞を被致、其座に於て
p292
 籠城の相談なとをも被致候と也、或日内藤弥次身衛門宅にて寄合の
 節、大坂西の丸の御留守居たりし佐野肥後守来て、各籠城に
 付て大坂より軍勢を差登せ候と有義を承り、手前義も籠城
 の心掛にて罷越候と也、御留守居中四人の内にて弥次右衛門
 被申候ハ、其元にハ大坂西の丸の御留守居として被残置上ハ兎も角
 も彼地に於て被致方も可有之処に、当城へ来られ手前共と一
 所に籠城可被致とあるハ一円承り届けざる義也、爰元に於て
 たとへ如何程の武功を尽され候と有ても役所相違の働きの義
 なれハ上の思召にも相叶ふへからずと也、干時肥後守申けるハ
 大坂奉行中より西の丸を明渡し可申旨申来候節、其使の者
 の首をはね、御殿に火をかけ切腹を相遂可申かとも存候へ共、大
 勢の女中の義を存る計にて西の丸を明渡し、惣女中の義ハ

 其通りに致し、御側近く被召仕候女中方を夫々に片付、埒を
 明候ニ付、責てハ当城に籠り各と一所に何分にも可罷成と存罷
 越候、大坂西の丸をハ彼地の奉行共に追出され当城にてハ各中
 より追出されたると有之御咎に逢候て難義と有ハ存命の
 上の事にて候、御預ケ置被成たる西の丸を追出され何の面目を
 以て再び 内府公の御目見を可仕とも不存候へハ、敵寄来と
 申といなや討死とある覚悟を相究め罷越候、との肥後守申
 分ニ付、御留守居中四人共に感心有て、然るに於てハ幸ひ名
 護屋丸無人にも有之候へハ、惣しまりのため其元被相籠可然
 との義に相定り候と也
  右肥後守と申ハ元来御当家の御家人と申にても無之処に一とせ
p293
  京都聚楽に於て秀吉卿より 内府公へ御屋敷を進し
  被申、其以後度々御上洛被遊候刻、表立たる御用向の義ハ
  藤堂与右衛門江被承候様にと秀吉卿被申渡、細々の御用
  承りのため平勘定役人の中より佐野肥後、岩間兵庫
  両人を被申付、 内府公御上洛被遊御在京の節ハ御勝手に
  相詰、御用を相達し候ニ付、其以後ハ御在国の節共に上方
  筋御用の義ハ右両人の方へ如被仰付有之、其以後江州の
  内にて御馬の飼料と有て、秀吉卿より知行を進せ被申
  候節、関東より御代官衆を被為差登に及ハす佐野、岩間
  両人に右の御知行所の義を御預被遊候節より、知行二百石
  つゝ被下候ニ付、夫よりいつとなく御家人の如く罷成、其内肥
  後守ハ思召に叶、立身被仰付候由、右江州御代官を相勤候内

  近所の義故、国友村へ罷越し、大筒を打習ひ候ニ付、伏見
  城責の刻も石火矢を下知して打出させ、自身も打候とて
  人の玉薬をつき置たるを不存二重込を致して火を指し
  候故、其筒さけ候て肥後守大怪我を致し相果候と也
  右の次第ハ国友八左衛門と申者、年若き節肥後守目をかけ
  大坂西の丸以来、伏見籠城の砌も付添有たる者故、能覚へ
  居候て、我等の兄半午へ常に物語仕候を聞候と有て、寺沢
  角右衛門物語を以て書留候也


落穂集巻之九終

   天宝四癸巳年春三月十二日写之
                   中村万喜直道