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落穂集巻1
        御当地御城始之事
一或人問曰
(とうていわく)、御当地御城の義ハいつの頃、如何なる人の縄張を以て築(きずき) 申されたる事にや
 答て曰、我等若年の節、故老人の物語り承
(うけたまわ)りたる義是有候、以前相州鎌倉両管
 領と申て本性(本姓)上杉なるが一方をバ山野内殿と申し、一方をハ扇ケ谷殿と申候、右
 扇ケ谷殿の家老ニ太田備中守資清と申者の子息左衛門大夫資長と申せし
 人、入道して道灌斎と改
(あらため)武道文道ニ達シ、就中(なかんづく)城取縄張ニ鍛錬の聞え有之(これあり)
 武州河越の城主なりし、鎌倉通用の為メ江戸表え一城ヲ取立べき所存
 ニて爰彼
(ここかしこ)ニ城地見立、始ニハ元吉祥寺の台を城ニ取立ント有て縄張などいたし
 初ける所、或夜霊夢
(れいむ)の告ニ仍(よっ)て只今御城ニ被成(なされ)候所え立越、葉付の竹を切(きら)
 二三本を城の形に差廻し、其後在所の者共を呼出、此竹より内の村名をハ
 何、と尋ね候得
(そうらえ)ハ百姓とも申候ハ千代田、宝田、祝言村と申三ケ村ニて候、と答へけれバ
 道灌斎聞て、国の名ハ武蔵也、郡の名ハ豊島、今城ニ取立べきと思ふ村ニハ
 
 三ケ村とも各々吉隋
(きちずい)の名也、此地ニ城を築に於てハ末々繁昌うたがひなしとの
 考を以て城ニ取立候よし。 去
(さる)ニ依て関東入国以前迄千代田が城と申触レ候
 由承り候

御当地 江戸をさす
元吉祥寺 現在の水道橋付近
縄張 建物の位置決め、地面とり
城取 築城
太田道灌 (1432-1486) 室町時代の武将、江戸城を長禄元年(1457年)に築く(鎌倉大日記)
関東入国 徳川家康が天正18年8月(1590年)に国替で、駿河から江戸に移った時を言う


2                       目次
   御城内八方正面御櫓之事
一問曰、當御城内ニ八方正面の御櫓ありと申と何
(いず)れの御櫓の事にて候や。答曰、
 唯今の富士見の御矢倉と申ハ八方正面ニ是有よし、我等若年の頃北条安
 房守殿小川町の屋敷ニ於て氏長雑談の折、八方正面の櫓
(やぐら)なとと申とハ
 太田道灌たとひ何程城取功者ニても、然
(わざ)と工(たく)ミて取るる者ならず、第一其地
 形ニ寄、次ニ縄張の模様ニ依て、諸国ニ城の餘多
(あまた)有シといへども、八方正面の矢
 倉と申ハ稀なるべし。 然るに當御城内ニ有こそ不思議と申べし、是以
(これをもって)御当家
 御繁昌の御吉隋ニ候、と皆申被成
(もうしなされ)候を福島傳兵衛、相良加兵衛、奈良十郎右衛門
 我等四人一座ニて承りたる事ニ候、福島義其後遠山傳兵衛と申セし頃ニて候
  
註 北条安房守氏長 (1609-1670) 後北条の一族、甲州流軍学の流れを汲む兵学者、旗本
   オランダ築城法、攻城法を伝聞し、将軍家光に奏上した



3                        目次 
   御當地御繁昌勝地之事
一問曰、御当地の義ハ四神相応の勝地ニ是有旨
(これあるむね)、世上ニ触レ候は弥(いよいよ)其通の事
  ニ候や。 答曰、北高南低く東西に流れ有を以て四神相応の地と古来より申
  傳候所、御当地ハ其旨に相叶ひ候上ハ四神相応の地と申し候、然
(しかれ)トモ天下をもしろしめす
  御方の御座所と申ニ至てハ、繁昌の勝地と申場所ならでハ召べからざるよし、其子細ハ
  公方将軍たる御方ノ御座所へと天下万民入込申義ニ候ハハ、其所え在郷の者計
(ものばかりニてハ
  事の用足不申
(ようたりもうさず)、海川の運送自由にして諸国の荷物等も潤沢に寄あつま
  らずしてハ相叶ざるに依て、慶長年中
  東照権現様天下御一統被遊
(あそばされ)候、相かわらす御当地を以(もって)御座城と被仰出(おうせだされ)たる
  御事の由、御当地の義ハ四神相応の地形ニ、繁昌の勝地を兼備たる場所
  からとも申べき哉
(や)ニ承(うけたまわ)り傳(つたえ)

註 四神相応
(しじんそうおう) 風水では北(玄武)には高い丘、又は山、 南(朱雀)は低い湖、または海、
   西(白虎)に大道、 東(青龍)には流れ(河川)がある地がよいとされている。 
   京都、大宰府などもこの形になっているという 

4                         目次 

    御城内鎮守之事
一問曰御城内の鎮守と申奉候ハ紅葉山ニ御立被遊
(あそばされ)たる東照権現様を
 指して奉申
(もうしたてまつる)由、然共(しかれども)天正年中御入国被遊候節、其以後迄御城内ニ鎮守の
 社と申義ハ無之
(これなく)候て事済たる義に候や、答曰、其義我等承候ハ天正十八年
 八月御入国被遊
(あそばされ)候節、榊原式部大輔殿義ハ御入国万端の御用承候て、
 其外青山藤蔵殿、伊奈熊蔵殿、板倉四郎右衛門殿、且夫迄御領地駿
 遠三甲信え御掛置被成
(かけおきなされ)たる役人衆中の義ハ、早々江戸表へ罷越べき旨を被
 仰出
(おうせだされ)候、其節当御城内ニハ先城主遠山左衛門が居宅其侭にて相残り候といへ共
 永く篭城の内に捨置たる由へ、悉
(ことごと)く破損ニ及ひ、其上板にて葺(ふき)たる屋根の上ニ篭
 城の節土ニて塗候故、其森雫
(もれしずく)ニて畳、敷物も腐果(くさりはて)候を悉ク御修覆
 被仰付
(おうせつけられ)、諸役人昼夜骨を折、漸ク御入国の間ニ合候由、 長崎彦兵衛迚(とて)
 州
(こうしゅう)御代官の手代を勤る老人、常々物語いたせしを毎度承たる事にて候。

 権現様小田原表より当御城え御移り被遊
(あそばされ)候節、榊原式部殿を召セられ
 当御城内に鎮守の社にて是有候や、是より北の方に当り御曲輪
(おくるわ)内に少(すくなく)も社、
 両社相見へ候と申し上る、則
(すなわち)御覧被遊(あそばさる)上意ニ付、式部殿御案内申上る彼所ニ至
 らセ給ひ御覧有ニ、小坂の上梅ノ木数多
(あまた)植廻す其内に両社を安置ス、道灌ハ歌
 人故天神の社を建立致
(いたす)、残る一社の額を御覧被遊(あそばされ)御拝礼の上、式部ニ
 扨
(さて)も不思議なる事の有物哉、当城ニ鎮守の社無之(これなき)ニ於てハ坂本の山王を勧
 請すべきと思ひつるに、是成
(これなる)は山王の社也と上意有、式部殿承り如何(いかにも)
 奇妙成義ニて候、偏
(ひとえ)ニ当御城長久、御家御繁昌の御吉隋(きちずい)ニて御座候と御請(おうけ)
 有ハ、いかにも其方申通なりとの上意ニて、殊の外御機嫌ニ相叶
(あいかない)たる御様子
 ニ相見上奉る由承
(よしうけたまわり)候。

 又問曰、右両社の義ハ其後如何(いかが)なりたる義ニ候や、当
 時御城内にハ相見へ不申
(もうさず)候。 答曰、惣(そう)じて江戸御普請の始と申ハ御本丸御手始の由ニ候、
 子細ハ開基の道灌と申、其後遠山丹波守同
(おなじ)左衛門と申何(いず)れも上杉家、北
 条家ニ於てハ小身の侍大将の居城ニ候得ハ、関八州の御守護職をも被遊
(あそばされ)
 権現様の御座城ニ罷成へき様ハ無御座
(ござなく)候ニ付、御入国以後万事を差置
 御本丸の御普請ニ御取掛り被遊
(あそばされ)、古来の義ハ御本丸と二之丸の間幅十間余
 にも相見へ申殻掘
(からぼり)なと有之(これある)を埋さセ玉(たま)ふよし。 右御普請の節北の御丸内に
 有之
(これある)山王の社をハ紅葉山え引移し候様被仰付(おうせつけられ)、宮抔(など)をも軽く新ニ御造営
 被遊
(あそばされる)、天神の社をハ何の御沙汰無之(これなき)故、御普請の邪魔なりとて、平川口御門外
 の堀ばたへ持出し差置候由、右両社の跡梅の木数多有之
(あまたこれあり)候を以て梅林坂と申
 触候となり、其後秀忠公の若君様方御誕生被遊
(あそばされ)候てハ紅葉山の山王え御
 参詣被遊
(あそばされ)、御機嫌能(きげんよく)御成長被遊候、以諸大名方、諸御旗本町人共迄も紅葉
 山え氏神詣致故段々と致繁昌
(はんじょういたし)、就中(なかんづく)秀忠公より社頭をも結構ニ御
 建立被仰付
(おうせつけられ)、只今以(ただいまもって)其社ハ上野ニ相残居候。

 又問曰、右平川口御堀ニ持出
 有之
(これある)候天神社の義ハ如何成行(いかがなりゆき)候と聞及候や。 答曰御入国の節迄の義ハ
 下町と申てハ一町無之
(これなく)、平川御門外ニ平川町と申て有之、夫より只今の麹町の方へ
 取続甲州海道と申て有之由、右の平川口の内ニ薬師堂の別当、天神の社を
 預り度と願
(ねがい)候て、薬師堂の片脇ニ移置申候所、其町屋の義も御用地(と)成、麹
 町辺の氏神ニ可致社迚
(いたすべきやしろとて)もなき故、則(すなわち)平川町より引候天神の氏神として詣で
 段々繁昌致、今程ハ平川町の天神と申て餘程の社成
(やしろとなり)、上野御門主の御支
 配ニて古来よりの薬師堂も社内に有之
(これあり)候。

 又問曰、紅葉山ニ秀忠公の御
 建立被仰付
(おうせつけられ)候山王の社、今程ハ東叡山寺内に有之候、何頃より如何様(いかよう)の子
 細に依
(よる)の義ニ候哉。  答曰、我等聞及候は家光公の御幼名を竹千代様と申
 奉り、駿河大納言忠長卿の御幼名を国松君と申奉ル。 御兄弟御同腹とハ
 乍申
(もうしながら)御次男国松君の御事ハ御台様殊の外成御愛子渡(ごあいしわたら)セ給故、御次男な
 から御嫡子ニも御立と成たる様と下々ニてハ取沙汰致、上つの衆中迄国松君
 御義を取分
(とりわけ)尊敬致候由。 御部屋の義も御本丸の内ニ向ひ合て是有、御近習
 衆ハ誰ニよら寄
(よら)す、御夜詰過
(およづめすぎ)ハ両君様え御伽(おとぎ)ニ伺公(しこう)致され候筈成ニ、国松
 君様の御部屋斗
(ばか)りへ被参(まいられ)候衆中而巳(のみ)多く、御台様よりの被仰付(おうせつけられ)ニて
 種々の御夜食抔
(など)参り候故、夫より竹千代様御方えハ左様の進せられ物も邂逅(たまさか)
 様ニて御徒然
(つれづれ)ニ御暮被遊(おくらしあそばされ)候。  

 永井日向守殿壱人ハ当番の節毎迚も竹千代
 様の御伽ニ伺公致され候故、春日の局殊の外悦び申されける、或夜永
(あるよなが)の時日向
 守殿御伽被参
(おとぎまいられ)候節、春日の局御側ニ被居(おられ)日向守殿え被申(もうされ)候ハ、最早(もはや)
 若君様の御弘メ抔
(など)無之(これなき)ハ如何致たる御事ニ候やと被申(もうされ)、竹千代様仰ニ其方が
 兄信濃守抔ハ定
(さだめ)て可存(ぞんずべく)間、尋て見(みよ)との御意故、畏り奉候、明朝罷越相尋
 見可申
(みもうすべく)候と御請(おうけ)申上られ、翌朝御城より直ニ舎兄、信濃守殿方え立越され
 
(いささか)御目ニ掛度(かかりたき)旨申されしに信濃守殿ニハ舎弟の御城泊明より直(ただちに)被参(まいられしを
 不審ニ被存
(ぞんぜられ)、早速立出(たちいで)何事ぞと尋られ候ハバ、日向守殿別義ニても是なし
 竹千代様より御意の趣有之参(おもむきこれありまいり)候と被申(もうされ)候、信濃守殿聞(きき)も敢(あえ)ず坐を立申され候
 故、日向守殿何故御意
(なにゆえぎょい)を述ざる内坐を立給ふぞと咎(とがめ)られける、信濃守殿
 気色を替、竹千代様の御意此形
(このなり)ニて承(うけたまわ)られハ恐有、其方も御城より直ニ相越
(あいこさ)れ候て
 先
(まず)支度にて致され候へ、と有て勝手へ立入其後衣服を改て立出、日向守殿を上
 坐の方え通し謹んで仰の旨承りて後、今日登城仕
(つかまつり)同役共相談の上追て御請(おうけ)
 可申上旨
(もうしあぐべくむね)御答有、其許
(そこもと)今晩方成共明朝なりとも被参(まいられ)候へ、と被申(もうされ)しかハ其
 日の夕方日向守殿再び立越され候所、朝の如ク日向守を上座え通し信濃守
 殿謹んで被申上
(もうしあげられ)候ハ、今日御用の御序有之(おついでこれあり)万民安堵の為に御座候間、
 若君様御弘メの被仰出
(おうせいだされ)然べく奉存(ぞんじたてまつり)候旨同役共一同言上仕候所、 公方様御案
 し被遊
(あそばされ)追って被仰出(おうせださる)べし、との上意ニ御座候旨御談(おはなし)ニ付、日向守殿御部屋え伺公被
 致
(いたされ)、其趣(おもむき)を言上ニ及バれける。 

 其以後間もなく春日の局被(不)見
(みられざる)との義ニ付御老中方より
 御留守居年寄衆迄相尋られしに、近き頃春日の局より頼ニ付女中三人箱根
 御関所の通り手形相調
(あいととの)へ遣し候との事故、 扨
(さて)ハ伊勢参宮ニても有や定(さだめ)
 竹千代様え御相違なく御弘メ被仰出
(おうせだされ)候様ニ、との立願ならんかと諸人推量ハ致セしが、
 其頃世上ニ於てハ春日殿の抜参
(ぬけまいり)と申触し由。 春日殿日を経て帰府被致(きふいたされ)しに
 駿府より御飛脚来り、近々大御所様御下被遊
(おくだりあそばされる)べき御知せなり、依て例の如く小田
 原迄御迎を御老中方を被仰付
(おうせつけられ)、御到着の日二至り候てハ  将軍様ニも品川
 御殿迄御迎のため被為成
(なしなされ)候時御対顔、 扨今晩ハ大奥へ被為入(はいりなされ)御膳等を召上
 られとの仰ニ付、早速御城えも被仰出
(おうせだされ)候故 御台様ニて毎(つね)も無之(これなき)御事成迚、殊
 の外御悦被成
(およろこびになられ御特談被遊(あそばされ)候所、夕御膳ニ至り大御奥え御通り被遊(あそばされ)、御台様え
 御対面相済
(あいすまし)、 将軍様御相伴ニて御膳被召上(めしあがられ)候所、両若君様方ニも御相
 伴ニて御膳部据申候節、 大御所様ニハ国松君の御側付の女中え御向被遊
(おむかいあそばされ)
 竹千代が相伴ト有ハ尤なり、国が相伴と有ハ無用の義也、連
(つれ)て立候へト仰有(おうせあり)て御座を
 追立玉
(おいたてたま)ヒ、 御台様え御向被遊(おむかいあそばされ)惣(そうじ)て天下の主と成べき物を兄弟なりとて同様ニ
 被致
(いたさる)ハ甚タ悪(あし)き事なり、国松息才ニて成人致セハ国郡の主共(とも)なり、竹千代が
 家来と成り奉公致の外無之
(ほかこれなし)、然(しから)ハ幼少より仕曲(しくせ)カ大事ニて候畢竟(ひっきょう)国が為なりと
 宣
(のたもう)て将軍様の御方を御覧被遊(あそばされ)、あの人稚立(おさなだち)ニ竹千代ハ少も替り不申(もうさず)候、夫故一
 入
(それゆえひとしお)我等の秘蔵なりと仰ける故 将軍様ニハ忝(かたじけな)キ御意の旨御挨拶被申上候へ共、
 御台様ニハ兎角
(とかく)の仰(おうせ)もなく御赤面被成(なられ)御当惑の御様子ニ被為見(みさせられる)、其後 大
 御所様ニハ上総東金辺え御泊掛の御放鷹
(ごほうよう)ニ被為成(なしなされ)候。  

 御跡ニて竹千代様の
 御様子以前とハ格別被替
(かわられ)、国松君の御部屋何(いず)れも伺公(しこう)と被申(もうされ)候義抔も相止(あいやみ)候となり
 右春日の局伊勢参宮下向の節、駿府の御城えも上り被申
(もうされ)候由ハ慎(まこと)ニ成事の由ニて
 去人
(さるひと)の咄を承る義ニ候得共、時代も隔て其上公辺向巨細(こさい)の義相知可申(あいしれもうすべく)候様無之(これなく)
 得共、虚実の段ニ於てハ難量
(はかりがたく)候、唯ケ様(ただかよう)の一説なども有之迄(これあるまで)の心得尤ニ候。 右の御
 様子ニ付、 家光公ハ偏
(ひとえ)ニ 権現様の御影を以(もって)天下の御譲(おゆずり)をも御請被遊(おうけあそばされ)
 思召ヲ以
(もって)(べっし)て 東照宮様を御信仰被遊(あそばされ)、天海僧正え被仰談(おうせだんぜられ)候、御本丸
 御庭の内ニ於て 前将軍様西之御丸より被為入
(いりなされ)候御目障(おめざわり)ニなり(もうさぬ)所に
 権現様の御宮を少ク御建立被遊
(あさばされ)、恒(つね)ニ御拝礼被遊(あそばされ)候由、其御社ハ今以(いまもって)紅葉山
 御宮後の方ニ相残り有之
(これある)由承り候得共如何(いかが)ニ候哉不存(ぞんぜず)候、去ニ依テ台徳院様
 御他界以後ハ十三ケ月の御服過
(おんふくすぎ)ニ至天海僧正え被仰談(あおうせだぜられ)、向後の義ハ
 東照宮様ヲ以
(もって)当御城の御鎮守と被遊(あそばされ)候旨被仰出(むねおうせだされ)、古来より紅葉山ニ有来(ありきたり)
 山王の社ハ上野の山内へ御移被遊(おうつしあそばされ)、其跡ニ唯今の御宮を御建立被仰付(おうせつけられ)
 御神体の義ハ、元和四年浅草寺内ニ御建立被遊
(あそばされ)候御宮の御神体を御遷
 宮可被遊旨被仰出
(ごせんぐうあそばされるべきむねおうせだされ)、則(すなわち)浅草寺観音別当観音院御供致候ヲ以只今ニ於て
 紅葉山御宮の義ハ諸事浅草寺より相勤候由。 
 
 又問曰元和年中下野国日光山
 御宮御建立有之
(これある)義ハ天下の諸人存セざる者迚ハ無之(これなく)、浅草寺内ニ
 東照宮様の御社御建立被遊
(あそばされ)たると申義ニ於てハ承り及ざる事ニ候、浅草寺ニてハ
 只今何
(いず)れの処を指(さし)て御宮の跡と申たる物ニて候や。 答曰権現様駿府の御
 城ニ於て御他界被遊
(あそばされ)候所、前方御跡(まえかたおんあと)の義板倉内膳正殿へ被仰置(おうせおかれ)候中ニ日光
 山御宮の義、江戸より相隔
(あいへだて)たる義にも有之(これあり)候得共、江戸表ニ於ても諸人参詣の為
 御宮を建被置
(たておかれ)、然(しから)ハ山を別ニ切開申ニ不及(およばず)、幸ヒ浅草寺観音堂の傍(かたわら)手軽く
 御建立可致旨被仰置
(いたすべきむねおうせおかれ)候ニ付、御他界以後日光山御宮御建立の義相窺(あいうかが)ハれ候節
 江戸御宮の義をも内膳正殿より被申候事済
(もうされそうろうことすまし)候ニ付、日光山の御宮御普請始り候節
 浅草寺山内御宮の御普請も始り、日光の御宮出来
(しゅったい)ハ元和四年四月十七日
 御遷坐の節ニ浅草寺内の御宮ニ於ても御遷坐の御規式有之
(おんきしきこれあり)、諸大名方御旗本
 衆各々参詣被有
(あられ)候由。 其御宮跡と申ハ今程観音堂ヘ参り候ヘハ左の方ニ淡嶋
 大明神の社有之
(これあり)候、辺(あたり)ハ部(すべ)て竹薮と辺(あたり)の木ハ皆以御宮跡の由申伝候、御宮所の
 義ハ惣廻り堀有之
(ほりこれあり)、御本社え参り候御門前ニ掛り候石の御橋ハ今以相残り有之(これあり)
 其内御宮付の護摩堂の義ハ御宮御類焼の節も焼残申候、今程ハ不動
 堂ニ相用有之
(あいもちいこれあり)候、心を付(つけ)(よく)見候得ハ所々御紋付抔(ごもんつきなど)相見へ候。

 又問曰其許御申聞
(そこもとおもうしきく)
 通ニ候へば 権現様御在世の節御差図なし被置
(おかれ)候御宮の義ニも有之(これあり)候へハ
 永々ニ共ニ浅草寺内ニこそ御座有ヘク候所、今程外御宮と申ハ上野の地の内ニ
 御建被遊
(あそばされ)候ニも子細有之(しさいこれある)事ニ候や。 答曰元和年中迄の観音堂の義ハ北条家より
 の建立ニて武州河越の城主大道寺駿河守是を以奉行
(もっておこないたてまつる)と棟札(むねふだ)ニも書付
 有之
(かきつけこれある)由、然ハ数年の事故悉(ことごと)ク破損ニ及ヒ諸堂ともニ傾キ苔むし候中ニ
 東照宮様の御社ハ近年の御普請故光リ輝キ候を以
(もって)、古来よりの観音堂の大
 破ハ別
(べっし)て目立見苦敷趣(めだちみぐるしきおもむき)公儀ニも相聞へ、或時千住辺御鷹野ニ被参(まいられ)候刻(とき)
 観音堂の近所を御通被遊
(おとおりあそばされ)、諸堂大破の様子を上覧被遊(じょうらんあそばされ)、其後観音堂御建
 立の義被仰出
(おうせだされ)、諸堂共御普請出来ニ及び其節別当観音院と内藤右近と
 心安キヲ以
(もって)、山門の近所東面の方ニ当り只今火除空地と成居候所借地致、右近殿より
 家作等被申付
(もうしつけられ)候所其家内より出火致、折節(おりふし)南風等烈敷(はげしく)(ただちに)山門より吹付、夫より
 段々焼広がり本堂を始メ諸堂残らす焼失致、剰
(あまつさえ) 権現様御宮辺迄
 御類焼被遊
(あそばされ)候由、右の次第ニ候ヘば別当より重(かさね)て御建立の義を願候義迄ニ相成
 
(あいなら)ざる故、御内々にて諸堂の義をハ差置以(もって)観音を安置仕候本堂斗(ばかり)ハ如何(いか)ニも軽ク
 御建立なし被下
(くだされ)候との願なれとも御取上も無之(これなき)処ニ、或時別当を御城え召(しょう)セられ
 阿部豊後守殿を以
(もって)被 仰渡(おうせわたらせ)候ハ元来浅草寺の義ハ 公儀より御建立地と
 申て無之
(これなく)候得共、思召有ニ付御建立被仰付(おうせつけられ)候所ニ自火も同前の門前より出火致
 諸堂悉焼失ニ及び剰
(あまつさ)え御宮迄も類焼ト有之段(これあるだん)不調法の至(いたり)と思召れ候。 然る上は
 御再興被仰出
(おうせいだされ)候義ニハ無之(これなく)候得共、又御建立被仰出候旨別当ハ申ニ不及(およばず)一山の僧侶
 共
(そうりょども)ニ至ル迄難有仕合(ありがたきしあわせ)ト奉存(そんじたてまつり)候、東照宮御神体の義ハ先達(せんだっ)紅葉山え被
 為入
(いれなされ)、今程ハ御拝殿迄の義候ヘば当分の御建立の義ハ御延引(ごえんいん)被遊(あそばされる)べき旨被
 仰渡
(おうせわたされ)候由。 其節御建立の諸宮只今観音堂也、我等十一二歳の時の義と承(うけたまわり)
 間、今年より七十六七年以前ニも相成可申
(あいなりもうすべく)候。 

 又問曰今程紅葉山御宮御供
(おそなえ)
 所の前ニ有之
(これあり)候石の御手水(おちょうず)鉢ニ浅野但馬守長晟と名の切付有之(きりつけこれあり)候、諸人不
 審ニ侍
(はべ)る事ニ候、惣(そう)して紅葉山御宮へ献上と有之(これある)の義ハ御三家様方の外ニハ無之(これなき)
 所ニ外様大名衆の中ニ但馬守殿壱人ニ限り御手水鉢献上と有之
(これある)義ハ何の子
 細有之
(しさいこれある)事ニ候や。 答曰右の但馬守殿御内室の事ハ 権現様の姫君
 にて始ハ蒲生秀行方え御縁付被遊
(ごえんつきあそばされ)候所、蒲生飛騨守死去の為浅野但馬守
 殿え御再縁被遊
(ごさいえんあそばされ)、紀州の御前様と称シ候。  東照宮御社浅草寺
 内え御建立有之
(これあり)候ニ付、御手水鉢を献上被成度(けんじょうなられたし)とハ有之(これあり)候へとも但馬守
 長晟と銘にハ彫付有之
(ほりつけこれあり)候得共、実ハ姫君様の御寄進故浅草寺の御宮跡
 焼残有之候ニ付、紅葉山え御曳せ候由。 去ニ依て元和四年

 彫付候由承り伝候



曲輪(くるわ) 城壁や堀、自然の崖や川などで仕切った城・館内の区画。
御入国    秀吉の命で家康は関東(伊豆、相模、武蔵、上野、上下総)に移封となる、天正十八年八月 1590年
榊原式部大輔  康政1548-1606 酒井忠次、本多忠勝、井伊直政と共に徳川四天王、徳川体制の基礎造りに貢献
青山藤蔵   播磨守忠成 1551-1613 家康側役人、江戸奉行、関東総奉行
伊奈熊蔵   忠次 1550-1610 家康旗本初代関東郡代、利根川改修に貢献
板倉四郎左衛門 伊賀守勝重  1545-1624 家康旗本 文官、江戸町奉行、京都所司代を勤める
遠山丹波守左衛門 綱景(?-1564)後北条家臣、江戸城代、国府台合戦(上杉と後北条の戦い)で討死
天海僧正     1536-1643 天台宗、1609年家康に見出され家康、秀忠、家光の三代に仕える
駿河大納言忠長 1606-1633  秀忠三男、駿河大納言、後改易、自殺
永井信濃守  尚政 1580-1660、秀忠近習、古河藩72,000石、後淀藩100,000石、 老中1622-1633 
永井日向守  直清 1590-1670、小姓、後 摂津高槻城主36,000石
板倉内膳正  重昌 1588-1638、板倉勝重三男、家康近習、後15,000石大名、島原の乱で討死。
(勝重長男は周防守重宗)
大道寺駿河守 政繁 1533-1590 北条家臣、鎌倉代官、川越城主、秀吉の小田原攻めで降伏、後切腹。 大道寺友山はこの政繁の曽孫になる。
阿部豊後守  忠秋 1602-1675 忍藩主、老中、寛永六人衆の一人
蒲生飛騨守秀行 1583ー1612 会津藩主60万石、家康の娘振姫と結婚、若くして病死
浅野但馬守長晟 1586-1632 和歌山藩主38万石、後広島42万石に移封 
下線部分:本底本では欠落しており、他写本より追加


                      目次 
       西御丸之事
一問曰只今西御丸と申し候ハ何頃
(いつごろ)よりの御取立ニ御座候や、答曰我等承り及候ハ
 関東御入国の節、只今西御丸の所ハ野山にて所々ニ田畑抔
(など)も有之(これあり)、春ハ桃、桜
 躑躅
(つつじ)の花も咲出、江戸中貴賎の遊山所ニ致、天地庵と申常念仏堂抔(ねんぶつどうなど)
 有之
(これある)由、遥後(はるかのち)ニ 権現様御隠居所と被遊(あそばされる)べしとの仰ニて外構の御堀石
 垣等も出来致
(しゅったいいたし)、其内ニ御屋形も建揃(たてそろい)、其後ハ御新城と申候由、去ニ依て御本
 丸とハ取放
(とりはなし)、紅葉山下通りを半蔵御門の方へ行抜(ゆきぬけ)往還ニテ有之(これあり)候故、御
 新城の御取立以後ハ紅葉山を諸人の慰
(なぐさ)ミ所と致セし由、兼(かね)てハ御新城を御
 隠居所にもと有之思召
(これありおぼしめし)の所、関ケ原御勝利以後天下御一統故駿府を御隠居
 所と被遊
(あそばされ)候ニ付、御新城の義も御曲輪の内と相成、紅葉山下と坂下と両所ニ締り
 の御門出来、御本丸と一構ニ仰付られ候を以
(もって)、山王の社へ参詣も成兼(なりかね)貴賎とも氏
 守詣ニ迷惑仕候段上聞ニ達し、半蔵御門の外え御堀端え山王権現の社ヲ
 新ニ御建立被仰付
(おうせつけられ)、別当ニ西教院神主ニハ日吉大膳を被仰付(おうせつけられ)、殊の外繁
 昌致候所、酉の年大火の節類焼に及候、以後只今の山王の宮地え御引移
 及候由。 
 
 又問曰其許御申聞の通ニ候ハハ西御丸御普請出来被申
(ごふしんできもうさ)ぬ以前の義ハ
 定
(さだめ)て只今西御丸下の御曲輪抔も無之(これなき)義の事ニ候、御入国遊ばされ候節西御
 丸下辺の様子ハ如何様の義ニ有之
(これあり)候哉(や)承り度(たく)候。 答曰関東御入国と申も程(ほどひさしき)
 久敷義ニて候へば、我等抔の年来
(としごろ)の者可存様(ぞんずべきようとてハ無之(これなく)候へども我等若年の 比(ころ)
 小木曽太兵衛と申者有之
(これあり)候、此者の義ハ 権現様浜松ニ御座被成(ござなされ)候刻(とき)、親以来
 御持筒
(おもちづつ)同心ニて、天正十八年小田原御陣の節其身(そのみ)拾八歳の時駿州より御供
 仕、直ニ御入国の御供致、関ケ原、大坂冬夏両度の御陣にも御供仕りたる者にて年
 寄候て倅を御奉公ニ出し、其身ハ隠居仕罷有
(つかまつりまかりあり)しを我等養父子細有りて目ヲ掛候
 ニ付、手前え呼寄
(よびよせ)養ひ置候故、我等幼年の節より右太兵衛物語いたし候を朝夕
 承たル事ニて、元来の御奉公を勤候者故立上りたる義をハ不存
(ぞんぜず)候へども、時代か
 ラ(柄)の軽事共
(かるきことども)知兼(しりかね)候義をバ、浅野因幡守殿抔も我等養父え御申付候、又ハ近
 習の者を以て直ニ尋玉
(たずねたま)ふ義なとも度々有之(たびたびこれあり)候、右太兵衛が語(かたり)候ハ御入国の節も
 只今外桜田御門の立候所にハ大成扉無之
(だいなるとびらこれなく)、木戸門立名ヲハ小田原御門と
 申、只今の八代洲河原岸
(やよすかし)の辺ニハ猟師共の家居有之(かきょこれあり)魚抔(さかななど)買求メ候
 節ハ右の猟師共方ニて整申
(ととのいもうし)たる事ニ候。 御入国之翌年あたりの事かと覚
 申
(おぼえもうし)候長雨以後、南の大風吹候節高汐上りて件(くだん)の猟師町え水付候故、猟
 師共船ニ妻子ヲ乗セ家財ヲ取積、只今馬場先御門内あたりの畑中ニ
 有之
(これある)大木共ニ船を繋(つな)キ食事抔調(などととの)へ罷在(まかりある)候を御城え御番ニ上り候とて見掛候由、
 其後御新城出来、次ニ西御丸下の御曲輪抔出来、外桜田御門建候節、 此御
 門の義向後
(こうご)ハ外桜田門と申へく候由、小田原御門と申義御停止(おちょうじ)の旨、頭中より
 急度
(きっと)申渡され候由、惣(そうじ)て両御丸下の義ハ地形高ニ有之(これあり)候所ニ西御丸の御
 堀抔も掘セられ候ニ付、大分の余り土有て猟師町近辺の葭原
(よしわら)ハ大方築上地の
 如くニ成、猟師町の義も程無く一続の町屋となり肴店、其外種々の売買
 物も有之
(これある)所の名ハ日比や町と申て殊の外繁昌致候所、其以後又御曲輪の内と
 成
(なり)候節、只今の日比谷町え引申候由を小木曽物語ニ候。 

 又問曰御入国の節
 夫迄
(それまで)の遠山が居城と申ハ如何様(いかよう)の模様ニ有之(これあり)たるかと小木曽ハ申候や。 答曰
 其義をも太兵衛常々物語致候ハ遠山の時代の城と申ハ石垣抔築候所ハ廻一ケ
 所も無之
(これなく)、皆芝土居ニて土手ニハ竹木茂り合有之(これあり)候由、御入国の節御本丸、二ノ丸、三之
 丸と申て有之
(これある)其間々ニハ余程の深殻堀有之(ふかからぼりこれあり))候早速御埋さセ、御本丸の内
 殊の外広がり中仕切の石垣抔出来候て、以前の御城の面影も無之(これなく)大ニ様子替り
 候ニ付、年若時分の御番ニ上り候以前の義も存出し相考へ見候、何れの所以前の御堀
 跡ニて有之
(これあり)候抔申(もうして)て合点不参(がてんまいらず)候、其節外構の大手御門と申候只今の百人番
 所の御門ニて候、其後ニハ只今の内桜田大手御門辺より三之丸平河口迄の間ニハ
 掻上土居
(かきあげどい)の様成(ようなる)惣構の形有之(これあり)、土手ニハ竹木生茂り四五ケ所斗(ばか)りも海端へ出入致
 軽キ木戸門有之
(これあり)、其内ニハ遠山が家中の侍共の居屋敷の由ニて餘程大キ成(なる)家も
 有之(これあり)候、尤(もっとも)小家も餘多有之(あまたこれあり)寺も二三ケ所有之(これあり)、篭城の節自焼致さず
 其侭ニて残り有之
(これあり)候ニ付、御入国の節殊の外御用相立(ごようあいたち)候由、右寺の義ハ間無(まもなく)
 外の所へ御引
(おひか)セニ成候節、御金抔被下置(おかねなどくだしおかれ)候由、其後右の場所は皆々御内曲輪ニ罷
 成
(まかりなり)、外大手の内桜田等の御門ニ連候ても其内ニハ御老中方諸役人衆抔の居屋
 敷有之
(いやしきこれあり)候ハ 大猷院(だいゆういん)様御代迄の義ニて有之(これあり)候由。 右外大手の御橋始て掛候
 年之八月ニ十五夜の清明ニ付、御老中方何連御申合ニて橋の上ニ毛氈
(もうせん)を敷、薄
 縁抔
(うすべりなど)を敷広、夜更迄酒宴有之(これあり)候所に御本丸より御側衆も上使にて何連(いずれ)
 橋の上ニて月見致候由上聞ニ達し、是ニ依テ御重の中
(おじゅうのうち)被下置(くだしおかれ)候との上意ニ
 有之
(これある)由、今時の耳ニ承り候て誠しからす候へども慥(たしか)なる義ニ有之(これある)由。


 註
 山王の社(現在の日枝神社) 始め江戸城外の現在の隼町国立劇場付近に作ったが明暦三年の火災で焼失、
 時の将軍家綱は直ちに赤坂の現在の地に再建
 酉の年大火  明暦三年酉(1657年)の大火、振袖火事


6                    目次
落穂集巻2

      御城内古来より家作事
 問曰、御入国の節御城内ニ有之
(これある)遠山時代の家作の義早速御毀被遊(おこぼちあそばされ)、御殿抔も新ニ
 被仰付
(おうせつけられ)たる義候や。 答曰、此義をハ土居大炊頭殿の家老共被申聞(もうしきかれ)たる由ニて、大野
 知石物語を承たる事ニて候。 御入国被遊
(あそばされ)候節先(さきの)城主遠山方城内家宅の義ハ
 不及申ニ
(もうすにおよばず)、三の丸外曲輪有之(これあり)候家々まで其侭ニ残有之(のこりこれあり)候故、当分御城内ニ於て屋
 敷ニ御事之欠申
(おんことのかきもうす)義とてハ無之(これなき)由、然ども御城内の家々こけら葺とてハ一ケ所も無之(これなく)、悉 (ことごとく)

 日光そぎ甲州そぎ抔
(など)ヲ以て葺致、御台所ハ萱葺(かやぶき)ニて、手広クハ有之(これあり)候得共
 殊之外(ことのほか)なる古来ニて、御玄関の上段ニハ船板の幅広キヲ二段ニ重ね、板敷ト
 申義も無之
(これなく)土間ニて有之(これあり)候ニ付、本多佐渡守殿是を余り見苦敷(みぐるしき)ニ候、他国より
 御使者抔も有之
(これあり)候てハ叶ひ不申(もうさず)、改(あらため)て御玄関廻りをハ御普請被仰付可然(あおうせつけられしかるべし)と申
 被上
(もうしあげられ)候得ハ、其方ハ言ざる立派伊達を申者かなと御笑ひ被遊(あそばされ)、御家作の義御構(おかまい)
 ひもなく御本丸と二の御丸との間ニ有之
(これあり)候堀を埋立候御普請を御急キ被遊(あそばされ)候由。
 
 又問曰、左様ニ御屋形の内狭ク候てハ定式
(じょうしき)の義其通ニて済可申(すましもうすべく)候得共、御家中惣出
 仕抔有之
(そうしゅっしなどこれある)節ハ如何有之(いかがこれあり)たるニ候や。 答曰、其後をも我等伝承たる義有之(これあり)候、
 御国替の節万事を差置かれ、御家中大身小身ニ限らず知行割の義を急ぎ候
 様ニと有之
(これあり)、惣奉行ニハ御老中の内ニて榊原式部大輔殿を被仰付(おうせつけられ)、其下ニハ
 青山藤蔵殿、伊奈熊蔵殿、其外御目付衆を差加へられ、夫迄(それまで)の御領分四ケ
 国ニ被掛置
(かけおかれ)候御代官衆、御勘定の諸役人皆々御当地え罷越(まかりこさ)れ、昼夜共々知行割の
 御用ニ御掛被遊
(おかえあそばされ)候節、御旗本ニ於て小身成面々ニハ江戸近ニて知行を割渡、少(すこし)も知行高を
 取者程道法(みちのり)遠き所ニて知行を割渡可申(もうすべし)、但し道中一ト泊より程遠所ニて知行所を
 
 割渡候ハ無用ト致候様ニと被仰出
(おうせだされ)候由、扨(さて)御家中大身衆へ北条家の節(の)城地被下(くだされ)候
 知行所の義ハ何連
(いずれ)も御自心の思召ヲ以(もって)拝領被仰付(はいりょうおうせつけられ)候由、右知行割相済候以後
 御家中衆え被仰渡
(おうせわたされ)候ハ今度被下置(くだしおかれ)候知行所ニ於て、何連も軽く陣屋を構へ其処へ
 直ニ妻子等をも引越、江戸御城御番の義知行所より通ひ勤ニ仕
(つかまつり)候様ニと被仰
 付候故、御家中大身小身共ニ拝領の知行所え直ニ妻子抔をも引越候故、手
 廻シ早く埒明
(らちあき)候也、小身の義ハ地行所の名主又ハ寺院抔を借、当分の居
 宅ニ致させ候衆中抔も数多有之
(あまたこれあり)由、又御近習の御奉公を被致(いたされ)候面々、諸番頭
 諸物頭
(ものがしら)、其外諸役人衆中の義ハ妻子ヲハ直ニ知行所え引移置キ、其身と人
 馬斗
(ばかり)を召連、江戸御城近辺ニ小屋場を受取、小屋掛を致され御奉公申被
 上事済
(もうしあげられことすみ)候。 
 
 又問曰、其許
(そこもと)御申の通ニてハ御旗本、諸番方衆中遠方の知行所より
 通ひ勤と有
(あり)てハ大義成事の様と被存(ぞんじられ)候、此段ハ如何(いかが)聞及ハれ候や。 答曰、其節
 御当地ニて、御城近所の町屋ニ御番衆の下宿定り申て如何程
(いかほど)も有之(これあり)、知行所の
 遠ニ依
(よっ)て其町屋ニ幾日も逗留被致(とうりゅういたされ)、我番他番と申義も無之(これなく)毎日出勤被致(いたされ)
 御番帳の面ニ名前ヲさへ致置
(いたしおき)候へば一ヶ月分二月分も勤相済(つとめあいすまし)候様被仰付(おうせつけられ)
 以斯被致
(かくもっていたされ)事済(ことすみ)候由。 其内ニ段々と御当地ニて居屋敷を拝領被仰付(おうせつけられ)、小屋掛
 抔被致
(などいたされ)、夫々ニ住居の通り通りニ家作等を調(ととのえ)られ候由。 右の如御本丸御玄関箱段の
 船板を久敷間
(ひさしきあいだ)為御取不被遊(おとらせあそばされず)、其外御殿向の御普請迚以ての外御手軽キ御
 様子ニ有之
(これあり)候ニ付、御家中衆拝領屋敷の家作抔身不相応ニ軽ク申付られ候
 ても見咎申
(みとがめもうす)ものも無之(これなき)由。 右ハ長崎物語を承たる事ニ候、去ルニ依テ御国替被遊(あそばされ)
 年の九月十月頃ニハ御家中大小之侍中引越も大形埒明
(おおかたらちあき)、駿府ヲ始(はじめ)四ケ国の
 御旧領ハ何方
(いずかた)え成共御引渡可被成(おひきわたしなられべき)旨、御使者を以(もって)大坂表より被差上(さしあげられ)候節、
 関白秀吉公浅野長政え御申候ニハ、三河、遠江、甲斐抔
(など)の義ハさも可有(あるべき)義なり、
 駿府の城迄同様ニ引払と有てハ更ニ合点不行
(がてんゆかず)、如何手廻(いかがてまわし)致されハなり、惣而(そうじて)
 家康公の御下知ハ凡人(不)被及事多有
(およばざることおおくあり)と大ニ感し被申(もうされ)候由 徳永如雲斎が覚書ニ
 有之
(これあり)

註 
 本多佐渡守正信(1538-1616)、家康の実務官僚、甲州経営で頭角を著す、秀忠にも信任される相模玉縄一万石
 浅野長政(1547-1611)、豊臣政権の五奉行の一人、関が原では秀忠に属す、長晟の父



7                        目次
       増上寺浅草寺之事
 問曰、江戸表ニおいて三縁山増上寺を以
(もって)御菩提所と、金龍山浅草寺を以(もって)御祈
 祷所と、被仰出
(おうせだされ)候ト有ハ御入国以後の義有候と申ハ其通の事ニ候や。 答曰、此義ニ付てハ
 色々説を申触
(もうしふら)し候と相聞候。 我等承及(うけたまわりおよび)候趣ハ 権現様御入国被遊(あそばされ)候頃ハ天正
 
 十八年八月上旬と申ニ相違無御座
(ござなく)候、然共北条家を御攻絶(おんせめたや)し、其跡を御拝
 領と申
(もうす)義ハ前方より相定たる事ニて有之(これあり)候や、 権現様小田原表え御
 着陣被遊
(あそばされ)候以後、江戸表ニ於て御祈願所ニも被遊(あそばされ)候様成(ようなる)天台宗の寺一ケ寺と、
 御菩提所ニも被成
(ならる)べき様成浄土宗の寺一ケ寺、見立候様との御吟味被仰出(おぎんみおうせだされ)
 節、浄土宗ニて可然
(しかるべき)寺と申てハ伝通院、増上寺二ケ寺のミニ候、其内伝通院の義ハ
 古跡ニハ有之(これあり)候得共、其場所ハ一向
(ひたすら)在郷ニて御座候、増上寺の義ハ前ハ海、後ハ
 山を抱へ殊之外成
(ことのほかなる)景地ニも有之(これあり)、其上江戸城えも程近ク候。  扨又外ニ可然(しかるべき)
 御祈祷所の義ハ浅草寺観音堂の外、天台宗の寺と申候ハ無之
(これなき)
 御聴ニ達シ、即
(すなわち)増上寺の住職と浅草寺観音堂住持、観音院を小田
 原御陣所え被召寄
(めしよせられ)、御目見被仰付(おめみえおうせつけられ)、両寺ながら境内乱妨禁制の
 御書付を被下
(くだされ)候刻(とき)、御祐筆の衆より右の書付を認メ被差上(さしあげられ)候得ば披
 見被遊
(ひけんあそばされ)、浅草寺え遣し候書付ハ卯月日と認メ候様被仰出(おうせだされ)候へば、御祐筆方御
 請ニ、惣してケ様成
(かようなる)御書付ニハ月の異名をハ書不申(かきもうさぬ)書法の旨被申上(もうしあげ)候処
 重て上意ニ増上寺義ハ菩提所の義なれハ四月日と認、浅草寺ハ祈祷
 
 所の義なれハ異名ニて不苦
(くるしからず)、侭ニ卯月日と認メ可申(もうすべき)旨被仰出(おうせいだれ)候由、久敷以前の義ニ
 候へば実、不実の段ハ不存
(ぞんぜず)候。 其節の観音の義ハ古跡と乍申候(もうしそうろうながら)形の如(ごとく)
 繁昌ニて、寺中坊数抔も古来より三十六坊とハ申伝候へ共、其内十坊斗(ばか)り清
 僧ニて、其余の坊中ハ皆山伏同前の妻帯肉食の坊主共有之
(これあり)候へば
 公儀の御祈祷ニハ不都合の由諸人申触し候へども、何の御構
(おかまい)も無御座(ござなく)候。
 其節ハ正、五、九月ニ相定
(あいさだめ)、御城中ニて大般若転読の御祈祷被仰付(おうせつけられ)、其
 外公儀の御祈祷ニ付観音堂ニて修行の節ハ清僧ども罷出
(まかりいで)相勤候様
 被仰出
(おうせだされ)候ニて、妻帯の坊主の義ハ自ラ寺中の徘徊も難致相成行(いたしがたくあいなりゆき)候故、或ハ
 我子を清僧ニ仕立、又ハ弟子を清僧ニ仕立て寺を譲り、我身我身ハ寺内ニ隠居
 所を構へて引篭
(ひきこも)りしが、程もなく浅草寺山内ハ自然清僧ニ相成申(あいなりもうし)候由
                                 

8                        目次
          神田明神之事
 問曰、御入国の節ハ神田大明神の社も御城内ニ有之
(これあり)たると申ハ如何聞及(いかがききおよ)バれ候や。
 答曰、右神社の義ハ御城内ニ有たると申ニて無之
(これなく)、只今の酒井讃岐守殿上
 屋敷の所古来より明神の社地ニて、御入国の節ハ地内ニ大木共生茂り其中ニ
 小宮居
(こみやい)有之(これあり)、毎年九月祭礼の節、件(くだん)の木立の中ニ幟を立ならべ在、町方
 より栗柿を始、種々の売買物を持出、人立多く賑ニ有之
(これある)由、小木曽抔物語
 ニて承り候。 其後遥過
(はるかすぎ)て彼辺も御曲構内となり候刻(とき)、明神の社の義も引申候。
 右之社地跡をハ土井大炊頭殿居屋敷に被下、神田御門矢倉等の儀も大炊頭殿被仰付候由、
 大炊頭殿代より御息遠江守殿代に至りても水車の紋付たる幕を張詰にいたし在之候を我等抔も覚申候
 其節ハ御門外の橋も大炊殿橋と申し触候由。 右の潰(つぶれ)ニ付、今以
(いまもって)神田祭礼の
 節ハ件
(くだん)の屋敷表門の前ニ神輿をおろし、屋敷主より馳走の鉢抔有之(はちなどこれあり)
 
 又問曰、右明神祭礼の節、神事の能興行被申
(もうされ)義ハ古来よりの様(さま)承り候、
 但近在より始たる事ニ候哉と。 答曰、神田祭礼と申ハ右ニも申通の趣ニ候へば古
 来より神事能抔有
(ある)へき様無之(これなく)候、京都ニて関白秀吉公の時代ニ暮松大
 夫と申たる者有之(これあり)、殊の外秀吉公の気ニ入て有之(これある)候所、子細有て上方の徘徊を
 相止
(あいやめ)御当地へ罷下(まかりくだ)り由、其節迄ハ名有(なある)猿楽共江戸下りを致(いたし)候ハ稀也。折節
 暮松大夫不慮ニ罷下
(まかりくだ)り候ニ付、武家町方ニ不寄(よらず)乱舞(らんぶ)に数寄(すき)たる輩ハ何
 れモ暮松大夫馳走致
(ちそういたし)、中にも大伝馬町ニ住居の五霊香と申町人乱舞(らんぶ)
 好ミ候を以て別して暮松を取持、年寄佐久間抔の子供迄も暮松が弟子ニ引
 付、我居宅の内ニ舞台を舗理(しつらえ)稽古能の興行を始、其後相談致
(そうだんいたし)
 松カ助力の為、神田の社地ニ於て神事能を始候節、町年寄共の働を以て江戸
 中より出銀を被致
(いたされ)、夫を取集(とりあつめ暮松方え遣(つかわ)し候故、心安ク渡世被致(いたされ)由。其後右の
 暮松ハ相果、子供幼少故興行も相止
(あいやみ)候所、関ケ原御一戦以後の義ハ四座の
 者共を始、御当地え罷下り候ニ付、神田神事能の義再興致
(さいこういたし)、観世大夫方え
 頼ミ可申
(もうすべく)と有之(これある)処、北条家繁昌の節、北条氏直能好ニて保生四郎左衛門と
 言者を能の師匠として被招
(まねかれ)候ニ付、保生大夫上方をハ病気故隠居仕る旨
 申立、小田原え下り氏直え扇の指南被致
(いたされ)由。 事起り小田原中悉(ことごとく)保生派と
 罷成
(まかりなり)候所天正十八年ニ至り北条家断絶故、氏直扶持人(ふちにん)の役者共を始町方ニて
 乱舞
(らんぶ)を好候者を迄、悉ク御当地え罷出(まかりいで)渡世仕居申候内、右の通暮松大夫罷下り
 神田能始り候ニ付、小田原崩れの役者共右能舞台ニ出て相勤候を保生大夫
 を贔屓致暮松カ跡代りニ取持候よし。 虚実の段ハ不存
(ぞんぜず)候得共、我等若年
 の節去
(さる)老人物語ニて承りたる事ニ候。 右暮松カ子孫ハ今程ハ右の神楽打(かぐらうち)の
 頭と成(なり)候由


下線部分: 対応底本から脱落しており、別写本から追加
猿楽: 室町時代は観世、金春の二派あったが観世から保生(宝生)が、金春から金剛が派生し江戸時代は四派と なる 
北条氏直: (1562-1591)小田原北条家五代目1580家督相続、1590の秀吉の小田原攻めで降伏、家康の娘婿  のため赦免、  病死、 幼名 新九郎、官職 左京大夫

9                      目次
        江戸町方普請之事
 問曰、関東御入国以後町方普請の義ハ何
(いず)れノ所より始て被仰付(おうせつけられ)候と聞被及(ききおよばれ)
 答曰、長崎、小木曽抔常々物語致候、只今の日本橋筋より三河岸
(さんがし)通りの竪堀(たてぼり)
 を掘割被仰付
(ほりわりあうせつけられ)候、始て夫より段々と竪堀横堀共ニ出来、其揚土をハ堀端ニ山の如ク
 積上有之
(つみあげこれある)を諸国より参り集候町人共願ひ出候得共、町家を割致被下(わりいたしくだされ)候故、勝手
 次第ニ右の揚土を引取、地形を築立、屋敷為取
(とりなし)、表通りにハ先葭垣抔致置(まずよしがきなどいたしおき)
 追々家作整ひ候上引移申候者有之
(これあり)候。 始程ハ町ハ願の者少ク候所、伊勢国の
 者共餘多
(あまた)来り、屋敷望仕候由沙汰有之(これあり)候が其如(そのごとく)町屋出来候以来、表ニ掛ル
 暖簾を見(
みれ)ハ、壱町の内半分ハ伊勢やと申書付相見(あいみえ)候由。 但東の方程
 地形も低ク御城内も隔
(へだて)候を以て繁昌致兼候趣上え相聞へ、遊女町を御免被
 仰出
(おゆるしおうせだされ)、荊(いばら)の場所を拝領被仰付(おうせつけられ)候故、四方ニ堀ヲ掘て地形を築立、家作を
 調へ遊女共を餘多集メ置申候故、昼の間ハ諸人参り候得共其道筋左右共及暮
(くれにおよび)
 得ハ人通も無之
(これなく)、渡世も成兼候ニハ葭原町より願ニハ女歌舞伎を御免被成下
 度
(おゆるしくだされたく)との義ニ付、願の通被仰付(おうせつけられ)候へば町中ニ舞台を掛、桟敷をかまえ踊芝居を始
 候故、其頃京大坂ニても無之見物事と申て貴賎ともに入込、殊の外ニ繁昌いたし
 
 細道の左右ニ有之葭
(これあるよし)をも切払ひ、江戸中より出店致茶屋抔も多立並(おおくたちならび)候。以後葭原
 町より願上候は今程ハ泊リ人も多ク有之
(これあり)渡世も仕安ク成候間、女歌舞伎を相止其芝
 居跡を町家と仕度旨ニ付、願の通被仰付
(おうせつけられ)候。 其後猿若彦作ト申候狂言師御願申
 上候ハ京都大坂抔も古来より有之
(これある)ハ葭原を切開、町屋取立若衆歌舞伎を始申
 度に付、是又願の通被仰付
(おうせつけられ)候故、只今の堺町を取立、踊子を集め狂言芝居を
 始候由。 我等幼少の節迄も右の彦作ハ余程の年寄ニて狂言抔も致候。 其弟子ニ猿
 若勘三郎と申者有之
(これあり)、其者の子孫今程も彼所ニ於て芝居興行致候なり。 以前の
 義ハ踊子共何
(いず)れも前髪立ニて候所、石谷将監殿町奉行の節何方へか振舞ニ行れ、
 其先ニ於て浪人児性
(こしょう)の由ニて罷出(まかりいで)酒の相手ニ成、殊の外利発成立廻りニ相見(あいみえ)
 ニ付、将監殿も相客衆へ御申候ハあの浪人児性ハ何者の倅ニ有之(これあり)候や、我等心安キ方ニて
 児小性を集られ候ニ付肝煎遣
(きもいりつかわ)すべしとの義ニ付、相客衆ひそかに被申(もうされ)候、あの者ハ
 堺町ニ罷在
(まかりあり)候歌舞伎子の義候へども、其許抔の口入あられ候義不可然(しからざるべし)と有、将監殿
 聞
(きか)れ帰宅被致(きたくいたされ候と、其侭与力同心を堺町へ被差越(さしこされ)、名主え被申付(もうしつけられ)今夜中ニ踊
 子共の義無残
(のこらず)前髪を剃落させ可申(もうすべく)候、但若衆歌舞伎有て御免(おゆるし)の事ニ候えども
 踊子の中ニて大夫分一人ハ前髪を立置候様との御申渡しニて、其夜中ニ悉
(ことごとく)只今
 その通りの野郎天窓
(やろうあたま)とハなし被申(もうされ)候由。 同役の神尾備前守殿へも翌日御城ニ
 於て将鑑右の段を御申達候となり


 石谷左近将監貞勝 北町奉行在任 慶安3年(1650)~万治2年(1659)
 神尾備前守元勝  南町奉行在任 寛永15年(1638)~万治4年(1661)
 女歌舞伎 遊女歌舞伎とも言われ風紀の上で1629年(寛永6年)禁止され若衆歌舞伎となる
 若衆歌舞伎 風紀上の理由で1652年(慶安五年)禁止となり、以後野郎歌舞伎となる

10                    目次
        小僧三ケ條之事
 問曰、 権現様御代小僧三ケ条と申義を諸役人方へ御雑談ニ御聞セ被遊
(あそばされ)候と申
 義を世上ニ於て申触
(ふら)し候をハ其許(そこもと)ニハ如何聞及ハ連候や。 答曰、 此小僧三ケ条と
 有之
(これある)義をハ世上ニ於て色々申伝候由、我等若年承及(うけたまわりおよび)候と、或時 権現様の
 御前え御用の義ニ付諸役人中罷出(まかりで)られ候節、其方共ハ小僧三ケ条と申事
 を聞たるやと御尋被遊
(おたずねおそばされ)候ニ、誰々も左様の義承りたる義無御座(ござなく)候、と申被上候得共
 然ハ申聞すべしとの上意ニて御雑談被遊
(あそばされ)候ハ、去ル田舎の寺へ在所の旦那百姓
 来
(きたり)、我等子共多ク持候へ共、壱人ハ御寺の弟子ニ致出家仕度との願ニ付、頭を剃、
 受戒抔被致
(いたされ)差置候所ニ、或時件(くだん)の小僧親元え逃帰しかハ師の坊主より呼ニ遣(つかわ)
 候ニ帰らず、其後両親とも来
(きたり)申ニハ我等倅の義最早(もはや)御寺え返シ申間敷(もうすまじく)候、其
 許様ハ御出家共と覚不申
(おぼえもうさず)候、未タ年も不参(まいらず)候小僧ニ御無躰成事御申越候とて
 
 腹立候故、師の坊曰、両親の願ニ任セ我等の弟子ニハ致せしが是非取戻されとの
 義ニ於て其方達の心次第なり、乍去
(さりながら)(それ)ハ如何様成る子細ぞと尋ぬれハ、親共
 聞て申けるハ、小僧義御寺より帰りて我々共え申聞
(もうしきかせ)候義三ケ条有之(これあり)。 第一ニハ朝夕
 味噌の摺様悪敷迚
(すりざまあしきとて)御呵(おしかり)の由、第二ハ御坊様の御頭の剃様悪敷迚御呵の
 由、次ニハ用事達候刻
(たっしそうろうとき)雪隠参候迚御呵の由。 是等の義ハ皆以(みなもって)御坊様の御
 無理と申者ニて候、年不参
(としまいらず)候小僧カ小腕ニて味噌を摺ニ於てハ能(よく)摺申さぬ
 筈の事ニて候、増てや御坊様の頭を小僧ニ御剃せ候ニ於てハ、是も能
(よく)ハ剃得(そりえ)
 たる筈ニ候、又用事を達候ニ雪隠へ不参(まいらず)候て何方(いずかた)え参たる者ニ候や、と威
 丈髙ニ成て罵り申ニ付、住持の僧申ハ小僧が口を誠と思ひ親々の身ニて左様ニ申
 さるるハ尤ながら全ク不被有
(あらず)。 惣(そうじ)て味噌ハ摺子木以(もって)摺申筈の事成ニ、小僧ハ杓
 子
(しゃくし)の甲を以て摺候故、当寺有程の杓子ハ悉ク摺割候、剰江(あまつさえ)我等客来の時入用の
 為おしこミ置たる杓子の甲迄も如斯
(かくのごとく)摺割候迚(とて)、皆々取出し是を見セ、 扨(さて)雪隠の
 事ハ程近き所ニ有之
(これある)常の雪隠へハ不行(ゆかず)、近頃代官の在回の節、当寺を宿として
 被泊
(とまられ)候節其時の為ニと有て、村中の世話を以客殿の脇ニ作り置たる雪隠斗(ばかり)通ひ候
 
 故無用と申事ニ候。 扨又我等頭を小僧ニ剃遣候ニてハ、何様其方達ハ被為存申
(ぞんじもうしなされ)候義
 有るべし。小僧ハ剃刀を能遣
(よくつかい)覚へ自分の頭をも自剃ニ致候。 又人々に被頼(たのまれ)候得共
 何者も頭をも能
(よく)剃遣し候故、我等の頭を剃セ候ヘハ能(わざ)と爰彼所(ここかしこ)を切りはつり如斯(かくのごとし)
 頭巾を取り見セ候へば、親共殊の外迷惑致候也。 惣じて諸々の役ニ掛り候者ハ
 ケ様の義軽き事迄をも聞置て心得致たる能
(よき)と 上意を申聞セたれしとなり

本写本では結論が不明確であるが、友山の岩淵物語にも同じ咄が載っており、それを下記引用する
「是を小僧三ケ条と云て軽キ事の様なれども、国持大名を初メ其下家老・用人・頭・奉行・目付・横目ノ役など勤る面々は此心づかひ肝要なり、 一方を聞て沙汰ニ及時ハ格別ノ相違ありたるが物なるぞと仰られけるとなり。」

11                       目次
         鳶澤町之事
 問曰、御入国の砌
(みぎり)ハ町方盗賊共餘多(あまた)入込、殊の外難義いたし候所ニ御仕置を以(もって)(くだん)
 盗賊共退散致候由、其通の義ニ有之
(これあり)候や。 答曰、其許(そこもと)御申の如く盗賊共諸方より
 入集り以之外
(もってのほか)物騒ニ有之(これある)旨 権現様御聞に達し、何卒盗賊の長本(ちょうほん)たる者一人
 召捕させ候様ニと奉行中へ被仰渡
(おうせわたされ)候所、其頃関東ニ名を得る賊の大将鳶澤と申者を
 絡め取、牢舎申付置候と申上られ候得バ、其盗人を召被出
(めしだされ)、其方御仕置ニ被
 仰付
(おうせつけられ)候得共一命をバ御助被成(おたすけなられ)候間、其方働ヲ以、他方の盗賊共御当地入込申ざる
 様ニ取斗可申
(とりはからいもうすべく)候と被仰付(おうせつけられ)候。 鳶澤承り命を御助被遊(おたすけあそばされ)候段、難有奉存(ありがたくぞんじたてまつり)候得共他方より入
 込候数多
(あまた)の盗賊共を我壱人之力を以防ぎ候と是有義ハ罷成(まかりなら)ざる義ニ候得ば、何方(いずかた
 
 於て成とも屋敷地を下し被置
(おかれ)候ハハ、私手下の者共を呼集め差置、其者共へ申付吟味
 致され候様ニ仕度候、併
しかしながら)私手下の者共も盗を相止候てハ渡世の仕方無御座(ござなく)候間、当
 地ニて武家屋敷、町家不限
(かぎらず)外の者共より古手買候義を御停止ニ被遊(あさばされ)候、私義を古 
 手買の元〆役ニ被遊下
(くだしあそばされ)、遊女町の近辺ニ於て一町四方の葭原を屋敷ニ被下置(くだしおかれ)
 なハ夫を切開き、其所ニ住居仕
(じゅうきょつかまつり)手下を諸方へ廻し、御下地の如く之を吟味仕るべしと
 申故、 願の通被仰付
(おうせつけられ)、屋敷地をも被下(くだされ)候故、右の葭原を切開き鳶澤町と号(なづけ)、町
 家を取立、手下の盗人共を古着買ニ仕立、方々え出し見知らぬ盗賊共御当地え入込候
 義も相ならざる様鎮
(しずま)り候由。 去(さる)ニ依(よっ)て我等若年頃迄ハ古着買と申ハ定(きまっ)て二人立、布
 ニて造りし長き袋を掛ケ、壱人が古着と呼ハ壱人ハ買と呼て町家の軒下を左右ニ分
(わかれ)
 歩、 其かたげ袋の口を二ツに裂、其はづれを麻縄ニて巻立
(まきたて)、其下ニ鳶澤が印
 形有り。 又盗人にも是無
(これなき)素人にも古着商売致さんと存(ぞんず)る者ハ鳶澤が手下を
 願ひ件の袋を請取
(うけとり)候由。 次第ニ御代静謐(せいひつ)ニ相成盗賊の沙汰も無之(これなき)ニ付古着
 買の義ハ相止、鳶澤町の義も富澤町と文字を書改、 葭原町の義も何之頃
(いつのころ)やら
 吉原町と相改候由承り候

12                         目次
          博奕御制禁之事        
 問曰、御入国の砌
(みぎり)御当地ニ於て、博奕流行(ばくえきはやり)候所ニ是又御仕置を以早速相止候と有
 義申触し候をハ如何聞及
(いかがききおよ)ハれ候や。 答曰、権現様浜松、駿府ニ被遊御座(ござなされ)候節も
 博奕ハ諸悪の根元なり、との上意ニて御城下の義ハ不申及
(もうすにおよばず)、四ケ国の御領内をも
 形の如く御法度ニ被仰出
(おうせだされ)候所ニ、関東え御入国被遊(あそばされ)候砌リ御当地の義ハ申不及、惣(そうじ)
 関八州共ニ北条家のゆるみたる仕置の跡ニて候得者、僧俗、男女の差別なく押はれて
 白痴を打候旨御聴ニ達、板倉四郎左衛門殿、其外御物頭衆番人被仰付
(おうせつけられ)、厳敷(きびしく)
 御法度ニ被仰出
(おうせいだされ)、其節ハ盗賊共も多く候所ニ其盗賊共をハ牢舎抔(ろうしゃなど)仰付候へ共
 博奕を打候者をハ暫
(しばらく)も御宥免(ごゆうめん)なく、召捕次第片端より御成敗被仰付(ごせいばいおうせつけられ)候、其
 節浅草辺ニ於て白痴を打居者を召捕へ、五人共々所の獄門ニ被掛
(かけられ)候を御鷹
 野ニ御出候節御覧被遊
(ごらんあそばされ)、御帰以後博奕吟味掛りの衆中を御城え召(めされ、御直ニ
 被仰渡
(おうせわたされ)候ハ、惣じて科人を仕置申付、其首を獄門ニ掛さらし置被有(おきあられる)ハ諸人見懲(みこらしめ)
 の為なれハ、五人一座の白痴打あれは何月幾日何方
(いずかた)ニ於如斯(かくのごとし)と有之(これある)義を札ニ
 書記
(かきしる)シ其所斗(ばかり)ニ限り不申(もうさず)、何方ニても人立多場所ニ出し晒さセ候様被仰付(おうせつけられ)候。
 
 以後拾人一坐の召捕へ候得ば拾ケ所へ遣
(つかわ)し、御仕置申付首を其所え掛置候ニ付
 僅二三年の間ニ博奕の沙汰混
(ひた)と相止ミ候由。 右博奕御仕置の義ハ浅野因幡守
 殿我等養父ニ御申ニ成、小木曽ニ相尋見申様ニとの義ニて、太兵衛ハ其通を口書ニ
 認メ差出候を以て別
(べっし)て能(よく)覚へ居申候。 其後ニ嶋田弾正殿町奉行の節も博奕打
 の義をハ厳敷
(きびしく)御申付の所博奕の訴人是有、同心共を被差越(さしこされ)六十人程召捕引来(ひききたり)
 中ニ年の頃五拾歳斗
(ばかり)と相見へ候坊主壱人有之候ニ付、弾正殿其坊主ニ向ハれて、其方
 頭を丸め候身ニて博奕を打候と有ハ猶更不届なり、元来医者か出家か何者ぞと
 御尋被遊
(あそばされ)候得ば件(くだん)の坊主申ハ、私義ハ医者ニても出家ニても無御座(ござなく)候、親ハ忍
 の城主、成田殿方ニ連歌の執筆役を相勤罷在
(まかりあり)たる者ニ候へ共、成田殿身上被果(はてられ)
 其後親も浪人ニて相果申候ニ付、私も流浪人と罷成
(まかりなり)、浪々の身渡世難成(とせいなりがたく)博奕打の
 仲間え入
(はいり)、油火をかき立、湯茶を持運び候を以て役義ニ致、食事を貰ひ給(たべ)候て世を送
 申候、去ニ依(よっ)て博奕と申者ハ如何様仕りて勝負相分申候や曽
(かっ)て以存不申(もってぞんじもうさず)と云、博奕
 仲間え承り候得ば坊主の申口ニ無相違
(そういなき)候故、弾正殿坊主ニ御申候ハ、其方連歌を
 致べき子が実正ならハ定(さだめ)て連歌を一句可致
(いたすべく)候得と有けれハ、坊主承り折も霜月の
 
 頃ありけれハ
     朝霜やまだ解
(とけ)やらぬ縄手道(なわてみち)
 弾正殿被聞
(きかれ)、此発句とて縄をハゆるすべし向後ハ博奕の坐ニ交る事止、
 是非給物無之
(これなき)ニ於てハ町年寄共の方へ廻り、何成共貰て給(たべ)候へと御申渡ニ付、其
 後ハあたまをはやし、あなたこなたと徘徊いたし心易渡世致セし由


 島田弾正守利 江戸町奉行 慶長18-寛永8(1613-1631)
 成田氏長(1542-1596)北条家臣、忍(埼玉県行田市)城主、秀吉の小田原攻めで降伏、以後蒲生氏郷に仕えるが病死

13                        目次
         石町時之鐘之事
 問曰、御入国の砌りハ御城内ニ鐘楼堂有て二六時中の鐘をつき申候由言伝へ候
 ハ其通りの義と聞及ハれ候や。 答曰、我等の承及びたる其通ニ候、右の鐘楼堂御座
 の間ニ程近く、昼夜共に御耳障(ニ)思召連候間、向後鐘を無用ニいたし太鼓ニ仕るべし
 乍去
(さるながら)唯今迠御城中の鐘を撞セ候様被仰付(おうせつけられ)、以(もって)只今石町の義ニても有之(これあり)候や、町 
 奉行衆の承ニて鐘撞堂を申被付
(もうしつけられ)出来いたし、右の鐘を釣らせ可申旨(もうすべきむね)相伺ハれ候
 得ば、城中ニハ撞鐘の入用も有之
(これある)義なれハ以前より鐘をハ其通差置、新ニ鋳(い)さセて
 釣候様ニと被仰付
(おうせつけられ)、古来よりの鐘ハ其侭ニて御城内(ニ)差置候由、我等抔若時分の時の
 鐘と申てハ石町斗
(ばか)りの様ニ覚へ候、酉の年の大火以後御当地の家の広大ニなり候を以
 所々ニて時の鐘を撞申事とハ罷成候由承り申候


御座の間  将軍が普段座っているところ
酉の年大火 明暦三年の大火

14                    目次
         弁慶掘之事
 問曰、只今西之御丸外の御堀を弁慶堀と申候ニハ何ぞ子細抔有之事
(これあること)ニ候や。
 答曰、此儀ハ我等若年の頃去老人物語ニて承り及候て、慶長五年ニ関ケ原御一
 戦御勝利以後上方衆の内ニて藤堂高虎、関東ニてハ伊達政宗両人頭取ニて、
 江戸御城下ニ有とも何
(いず)れも屋敷を拝領致され度(たき)との趣ニ有之(これあり)候所ニ、
 権現様御上意ニ、何れも大坂表ニ屋敷有之
(やしきこれある)義なれハ、江戸表江新屋敷を補理(しつらえ)
 の義ハ無用ニ被致可然旨
(いたされしかるべきむね)被仰出(おうせだされ)候得共、兎角(とかく)申受られ度との願ニ付、外桜田辺
 と只今の大名小路辺ニ於て東西の外様衆へ望ミ次第屋敷を被下
(くだされ)候、但加州中納
 言利長ニハ先達母儀芳春院江戸下向の節、秀忠公様より御城大
 手先ニ於て大屋敷被下
(くだされ)、其内結構成(けっこうなる)家作被仰付(おうせつけられ)差置候ニ付直ニ是を居屋
 敷ニ被致
(いたされ)候由、次ニ浅野左京太夫幸長の義ハ親父弾正長政外桜田霞ヶ関ト申
 名所の地を先達て居屋敷ニ申受被在
(あられ)候ニ付、直ニ夫を上屋敷ニ被致(いたされ)、老父弾正
 隠居所ニ仕度
(つかまつりたき)と有て外ニ添御屋敷を被申受(もうしうけられ)候由、其節大名小路辺の義ハ葭原
 
 ニて候得共、御城の揚土を引取候故地形も早速出来候由、外桜田辺の義殊の外
 地形ニ高下有之
(これあり)各々土取場ニ難義被致(いたされ)、夫迄の義ハ御新城の外構御堀端
 漸々
(ようよう)と十間余りも有之(これあり)候を屋敷拝領の諸大名より願ひヲ以て、只今の通御堀端も
 広がり底も深く相成、其揚土を方々え引取地形ニ相用候由、其節外桜田ニて
 屋敷拝領の衆中ハ加藤清正を始、黒田、鍋島、毛利、嶋津、伊達、上杉、浅野
 南部、伊東、亀井、金森、仙石、相馬、永谷、秋田、土方其外の衆中を御当番
 御代替り、御奉公始、東西諸大名打込の御城普請たる儀ニて、西東の武蔵坊と申心を取て弁
 慶堀と申義ハ下々、雑人共が申ならはしたる義ニて証立
(あかしだて)たる事ニハ無之(これなき)由、右ニ申
 浅野左京太夫殿願ニて拝領被致
(いたされ)候添屋敷ハ浅野因幡守殿被居(おられ)、或時
 屋敷の内ニ井戸普請の有之砌
(これあるみぎり)、地形二間斗(にけんばかり)底より葭の根多出候を人々不
 審を立候所、徳永玄兵衛と申家老承り、左京殿此屋敷拝領の節此辺ハ
 余程の谷間ニて候を掃部殿屋敷前の御城より土を取、つき立候物語り致セしと也


加賀中納言利長(1562-1612)、前田利家の長子、弟利常の正室は秀忠の娘、珠姫
浅野左京太夫幸長(1576-1613)浅野長政の長子、弟に長晟
浅野因幡守長治、 長晟の長子、幸長の甥
弁慶が修行した所が西塔という寺であり、西塔=西東とかけ弁慶堀という説

15                         目次
     吹上御門外石垣之事
 問曰、台徳院様御代西御丸吹上御門外土居を残らず石垣被仰付
(おうせつけられる)べしとの事
 ニて、伊豆浦より大分廻り御堀端に大石多く運び寄候所、右の普請俄
(にわかに)ニ止(やみ)ニ相成候ニ付と
 
 有義ハ如何聞及れ候や。 答曰、其頃大御所様御下向被遊
(あそばされ)候義有之(これあり)、只今の掃部殿
 屋敷前の御堀端ニ石の餘多
(あまた)寄集メ有之(これある)を御覧被遊(あそばされ)、御駕を卸し候様ニと上意ニて
 松原右衛門殿を被召
(めされ)、あの石ともハ何の入用有(あり)て此處え集メ寄候ぞ相尋見(あいたずねみよ)、と被
 仰付
(おうせつけら)しかハ早速聞合(ききあわさ)れ候所、此所の御堀端両方共ニ御石垣ニ罷成候間、右の御用石ニ
 て候との事故其侭言上有しかハ、か様成御普請の有之
(これあり)候共御存知被遊(あそばされ)ず御下
 向の上ハ、早々駿府え還御被遊
(あそば)さる間、御供中迄其段申渡候様ニ上意ニ付、右衛門殿
 御受ニ仮令
(たとえ)御逗留を不被遊(あそばされず)候共、先(まず)今日ハ西御丸え被為入(はいりなされる)候様御座有?旨被申
 上
(もうしあげられ)候得共御聴入も無、品川御殿迄還御被遊(かんぎょあそばされ)御茶召被上(めしあがる)べし、との上意故右衛門
 太夫殿より其趣
(おもむき)を急ギ注進被申上(もうしあげられる)、大御所様ニハ慶長五年以前三四年の間駿府
 より当御城え被為入
(はいりなされ)候ニ付、外桜田門通りを西御丸え被為入(はいりなされ)候ニ付御老中方え外
 桜田門迄御迎として御出仕被遊候所、御隠居被遊
(あそばされ)候以後の義ハ吹上御門え御廻
 被遊
(あそばされ)候て被為入(はいりなされ)候ニ付、御老中方ニハ半蔵御門え御出揃ひ有之(これある)所ニ右注進ニ付、本多佐
 渡守早駕ニて相被越
(あいこされ)、御駕近く参上被致(いたされ)候へハ是迄との上意ニ付、御側近く伺公被致(しこういたされ)
 只今承り候へハ是より直に還御被遊
(かんぎょあそば)さる旨被仰出(おうせだされ)候を驚入奉存候、何様の思召ヲ以ての御
 
 事ニ御座候や言上有ニ、此辺ケ様なる普請の有べしとの不思
(おもわず)して下りたるニ我等西御
 丸ニ逗留の中ハ普請の邪魔と思ふニ付、是より直ニ帰るべしと上意ニ付、佐渡守殿
 謹
(つつしん)で申上られけるハ、公方様ニも先程品川より還御被遊(あそばされ)直ニ西御丸ニ被為入(はいりなされ)候御待請
 御座候所ニ、是より直ニ還御の段御聴ニ達し候ニ於てハ、私義ハ如何様ニ被仰付
(おうせつけられる)へしとの謀難(はかりがた)
 候ニ付、私を御救被遊
(あそばされ)候と被思召(おぼしめされ)、西御丸え入御被成下ニ於てハ難有仕合奉存べしと被申上候
 得ば、其方ハ異事
(いなこと)を申者かな、我等是より帰たれハとて其方が迷惑可致(いたすべく)子細ハ有間敷(あるまじき)
 宣
(のたま)ふ、佐渡守殿重て被申上(もうしあげられ)候ハ左様ニてハ無御座(ござなく)候、元来此辺石垣御普請の義ハ
 公方様の御好ミ被遊
(あそばされ)候義ニてハ無之(これなき)候所、私え此度御普請御用被仰付(おうせつけられ)候故、達て御勧申
 上候ニ付、然
(しから)ハ其方致奉行積置候様と被仰付(おうせつけられ)たる義ニ候、右御普請の義ニ付是より
 還御被遊
(あそばされ)候ニ於てハ私義何程の御咎被仰付(おうせつけられ)ても不斗(はからず)奉存(ぞんじたてまつり)候、然ハ私義を御救被遊被下(あそばしくだされ)候と
 思召し西御丸え入為成
(おはいり)下され候様願上重て申上られ候ニ、松平右衛門太夫殿ニも種々
 御取合被申上
(もうしあげられ)候得ば御笑ひ被遊(あそばされ)、此辺を石垣と申義よもや将軍の物数奇ニてハ有
 間敷
(あるまじき)と思ひたるニ不違(たがわず)(さて)其方物数奇なるか、夫よりハ沙汰之限たる不物数奇と言
 物なり、其子細ハ将軍当城ニ居らるるハ東夷を押への為に是より奥の方え
 
 向て要害を構たる義ハ尤の義なり、帝都の方ハ見方の地なれハ其方向ひての要害
 と有ハ無益の義なり、我等是より帰りなハ其方迷惑ニ及ふとの義なれバ可立寄
(たちよるべし)との
 上意にて西御丸え被為入
(はいりなされ)候由。 其日の晩方ニ至り佐渡守殿御側え被出(でられ)、今昼も申
 上候通り此御丸外石垣の義ハ返す返すも私の不調法入恐
(おそれいり)奉存(ぞんじたてまつり)候、右石垣斗(ばかり)
 て無御座
(ござなく)、当御城ニハ御馬出と申義不相見申(あいみえもうさず)候間何方ニ於ても壱ケ所被仰付(おうせつけられ)
 様ニと達て御勧申上候ニ付、左様ニも仰付らるべきとの上意を以て其義を差図仕り、追て
 御聴ニ達し可申
(もうすべく)所存ニ御座候、 私重々不調法入恐(おそれいり)奉存(ぞんじたてまつり)候と被申上しに、左のみ御機
 嫌悪くも無之
(これなく)て被仰(おうせられ)候ハ、其方ハ当城ニ馬出シの義有之(これある)義をハ不存(ぞんぜず)やと御尋
 ニ候故、佐渡守殿暫思案被致
(いたされ)、当御城何方の虎口前ニ於ても御馬出と申義ハ存
 当
(ぞんじあた)り不申(もうさぬ)旨御請被申上(もうしあげられ)候得ば、御笑被遊(あそばされ)当城の馬出と云ハ大坂なり、差当て入用
 も無之
(これなき)ニ付秀頼ニ預置なり、惣(そうじ)て将軍の居城も堅固の縄張、掛矢の習
 ひ抔言ふハ不入
(いら)さる事也と上意有之(これある)由、然共(しかれども)慶長年中と申ても程遠き義
 殊の外ニハ皆以
(みなもって)公辺の御沙汰ニ候得共、虚実の段ニ於てハ不存(ぞんじざ)る事ニ候
 

松平右衛門太夫(正綱1576-1648)1596年より家康に近仕、駿府近習頭、1609勘定頭、相州玉縄2.2万石、家光時代の名老中、松平信綱の養父
馬出し 城の出入り口(虎口、こぐち)を出やすく、入り難くする施設

16                               目次
落穂集巻3
        御鷹野先江女中方御供之事
 問曰、権現様御在世の内、御鷹野先え女中方を御供ニ召連候と申ハ弥
(いよいよ)其通(とおり)
 事ニ候や。  答曰、此義も小木曽太兵衛抔常々物語り致し候、浜松、駿府抔ニ御座
 被遊
(ござあそばされ)候節、女中衆六七人程ツツハ定て御供被致(いたされ)候、其内乗物ニて御供被致(いたされ)候女中
 と申ハ壱両人ツツニて、其外何
(いず)れも乗掛馬ニあかね染の木綿蒲団を敷、市女
 笠
(いちめがさ)下ニ服面(ふくめん)を致て御供也。 是より依て此度女中方御供ニ付て定て御逗留の間も
 可有
(あるべし)と下々迄推量致由、関東御入国以後ハ猶更(なおさら)忍、川越、東金辺え被為成(なりなされ)
 幾日も御逗留被遊
(あそばされ)候ニ付、急ニ相伺せずしてハ不被叶(かなわざる)御用向抔も有之(これある)節は御老
 中方を始め、諸役人衆其先々へ伺公被致
(しこういたされ)候義も毎度有之(これある)由、左様ニ久々御逗留
 御鷹野の義ハ猶更女中方を数多
(あまた)御供中ニ召連候。 台徳院様ニも
 権現様御在世の中ハ折々御泊り懸
(がけ)の御鹿狩、御鷹野抔被為成(なしなされ)候得共其後相止(あいやみ)
 大猷院様御代ニも御鹿狩、御鷹野ニハ度々被為成
(なしなされ)候得共御泊抔と申ハ無之(これなく)、以て女
 中御供の可有
(あるべき)様も無之(これなく)候。 其後の義ハ 御三家様方ヲ始、仙台黄門殿、薩摩
 薫門
(くんもん)殿抔ニてハ、年寄女中表向ニも立出徘徊致候由。 我等若年の節、松平安芸
 守殿ニて御鷹野鶴拝領被致
(いたされ)、右段ニて振舞の節小松中納言殿ニも勝手ニ
 御入候て書院へ被出
(でられ)候節、年寄候女中弐人付添、内壱人ハ刀を以中納言の御廻り
 ニ出候を我等すぐに見請
(みうけ)候、ケ様の義ハ時代がらの義七十年以前ニて何方(いずかた)ニも承り申候


 小松中納言 前田利常(1593-1658)、加賀金沢藩主の別称、前田利家の四男
 松平安芸守 浅野長晟(1586-1632)、但馬守、家康娘婿、松平姓及び安芸守は嫡子光晟(1617-1693)安芸
 廣島第2代藩主の代からとなる
 仙台黄門  伊達正宗(1567-1636)、仙台藩主、中納言
 薩摩薫(勲)門 島津家久(1576-1638)、薩摩藩主、中納言

17                               目次
      天下一統以後将軍宣下御延引之事
問曰、織田信長公抔之義ハ全く手ニ入たる国と申ハ五ケ国も有か無かと申時分、早
速ニ天下取之様ニ被致
(いたされ)、大臣抔ニも任じ被申(もうされ)、其後豊臣秀吉公抔ハ公家ニ列し
関白職と成り、 禁中之御威光を笠と着られ天下取之勢を振られ候
得共、 権現様と織田信雄卿御両所之義ハ豊臣家之幕下と申わけ
にても無之
(これなく)、御家人の御会釈ニ及ハず、其内小田原之北条家、水戸之佐竹を始メ
奥州筋之諸大名之義ハ天正十八年迄上洛抔と申義も無之
(これなく)、我侭(わがまま)ニ在国候様子ニ相
見へ候、  権現様御事ハ慶長五年関ケ原御一戦ニ切勝給
(きりかちたまい)、逆徒之張本浮田、石田
小西、大谷等を始、乱世狂亡之族を不残
(のこらず)御退治被遊(あそばされ)、大身之毛利輝元、上杉景勝
其外佐竹、立花、丹羽を始、或ハ地形ヲ減し又ハ所替、或ハ領地を始召はなされ
秀頼抔も国取之平大名ニなし被置
(おかれ)候得共、日本国中之輩異議ニ及もの壱人ニて無之(これなき)
所ニ将軍宣下之御沙汰無く、御官位等之義も以前内府抔ニて三四年も御座

被遊
(ござあそばされ)候故、天下之諸人不審ニ存候由、如何之訳有ニや。 答曰、惣(そうじ)て自然之節
道理を用ひずして名聞を急ぐハ皆以
(みなもって)小人之如何ニて不宜(よろしからぬ)義と申伝へ候、
権現様之御噂を我等如キ之口より申上候ハ恐れ多き御事ながら左様なる所ハ外人
(ほかびと)
之不及(およ)ハされ候所ニて  権現様だけとさへ合点致候得ば別(べっし)て不審なる事も(無御座)候
由、子細ハ其内天下御一統之上於将軍宣下之御沙汰可有
(あるべく)所、一縁其御儀就無、
外様大名衆之内より存寄
(ぞんじより)を申上たる人も有、第一 禁裏向よりも御催促かまし
く御内勅之御沙汰有之
(これある)候由、左様之みぎりニても候や、金地院と藤堂髙虎両人
御前ニて御咄之折節ニ、最早将軍宣下之義を被仰出
(おうせだされ)たるべし御事ニ御座候
と下々ニてハ取沙汰仕候と被申上
(もうしあげられ)候得ば 権現様聞召(きこしめ)し、我等之将軍ニなるハ
遅からぬ事ニて天下之万民安堵抔を定メ大切之事なり、其上諸大名ニ是彼
(ここかしこ)
国替と有て事多き中ニ我等将軍宣下を急ニハ心無
(こころなき)ニ似り、との上意ニて天下御一
統以後中二年之間ハ何事も御沙汰無之
(これなく)、同くハ八年ニ至りて 将軍宣下之
御祝儀有之
(これある)由。 又問曰、権現様将軍宣下以後諸大名を始、日本国中之寺
社等にも御朱印被下置
(くだしおかれ)候や。 答曰、天下御一統以後御譜代、外様之諸大名方ニ国

替、所替被仰出
(おうせだされ)候は慶弔五年之暮より二三年之間皆以(みなもって) 権現様御代之内
思召ヲ以被仰付
(おうせつけられ)たる義ニ候得共 台徳院様御代ニ至(いたっ)て当御代始ニ
御朱印を被下(くだされ)候故、今時其勘弁も無之
(これなき)面々ニハ御朱印之年号ニ便り国替、所替、
御加増等之義ハ皆以
(みなもって) 台徳院様より被仰付(おうせつけられ)たる事之様子ニ斗(ばかり)相心得候へ共
一向左様之筋ニてハ無之(これなき)由承り申候


金地院 (祟伝1569-1633)臨済宗の僧、家康に招かれ幕政に参加、キリスト教の禁止、寺社行政の参画し、天海僧正と共に黒衣の宰相と言われた
藤堂高虎 (1556-1630)戦国武将で織田、豊臣、徳川と仕える、築城術に長け江戸城改築に功をなす、伊賀、伊勢22万石(1608)、大阪夏の陣以後32万石

18                                      目次
       伏見城ニ於て討死之息男達江跡式被仰付候事
問曰、関ケ原御一戦前、伏見之御城ニ於て討死被致
(いたされ)候鳥居彦右衛門殿、内藤弥次右衛門
殿、松平主殿、松平五右衛門殿、右四人の嫡子方ヘハ何
(いず)れも亡父達之知行高一
倍ツツ之御加増を以
(もって)跡目を立、所替等をも被仰付(おうせつけられ)候中ニ鳥居左京殿義常州
矢作木
(やはぎ)之城主四万石を被転(てんぜられ)、奥州岩城之城地拾万石被下(くだされ)、間も無く二万
石之御加増を以て拾弐万石ニ被成下
(なしくだされ)候、其上岩城え相越候て亡父彦右衛門為(ため)ニ一
寺を建立仕候、との上意ニて右京殿入部被致
(いたされ)、其侭壱寺を建立有、親
父之法名を取用ひ長源寺と号し其趣言上ニ被及
(およばれ)候得ハ、則(すなわち)知行百石之所永々御
寄附被遊
(あそばされ)候旨被仰渡(おうせわたされ)たりと世上ニて沙汰致候由、弥其通之義ニ候や。 答曰、其義ハ慶
長七年水戸之佐竹を出羽国秋田郡久保田え所替被仰付
(おうせつけられ)候節、岩城殿之領
地も上り其跡を鳥居左京殿え被下
(くだされ)候ハ  権現様御代之由、其後
台徳院様より御朱印を被下
(くだされ)候節も御文言之義ハ  権現様より御差図
ニて被遊
(あそばされ)候由、其文ニ曰

   奥州岩城郡岩ケ崎内堺村ニ於て鳥居左京亡父彦右衛門慰後
   世之為、壱寺を造立セしめ長源寺と号す。 寺領百石寄附領掌
   セしめ訖
(おわんぬ)、永之相違(ながのそうい)あるべからず者や
         慶長十四年正月十五日

問云、古代にも其時の将軍家より家臣の為に寺院抔建立あらせたる先例なども有之候哉。 
答云、我等の承及候は、明徳二年京都内野合戦の時、山名陸奥守氏清戦死の義を足利将軍家
鹿苑院殿甚感賞あられ、諸大将に山名が首を納め候様ニと有之ごとく、其上氏清追善の為にて有之、
北野の経蓮堂を建立あられて候由。 次ニ織田信長公若年にまします頃、御親父弾上殿より後見役に
付置かれたる侍に平手中務清秀と申もの信長公の行跡宜しからざる義を苦労致し、種々異見を
申候へ共一向承引無之、益
(ますます)不行跡の振舞を見かね、諌めの文書を数ケ条認め是を差出し
其身ハ自殺仕り相果候に付、信長公にも其の当分は目こぶの取候様ニ御思ひ候へ共、段々成長ニ付
物毎の勘弁も出来、兆を悔ミ給に付平手が忠死の程を寄特にも不便におもひ被申、濃州の内に寺を
建立被致、平手山清秀寺と号し、仏供養など寄付被致候と也。 
其外には権現様の鳥居元忠の為に長源寺御建立被仰付たる迠の様ニ相聞候。 右の次第ニて
岩城之長源寺に有之御朱印の義は殊に無類の御朱印のよし申伝へ候なり              


伏見城四武将: 鳥居彦右衛門(元忠1539-1600、下総矢作藩四万石)、松平主殿頭家忠(1555-1600、下総小見川壱万石)、松平五左衛門近正(1547-1600、上野三蔵五千石)、内藤家長(1546-1600、上総佐貫二万石)
鹿苑院: 足利義満
山名氏清: (1344-1392)南北朝時代の守護大名、 山名一族の力を警戒した義満は一族の抹殺を図り、最後に氏清も謀反荷担に追い込まれ幕府軍に破れる。 
平手清秀: 信長の守役で色々信長に諌めたが行いが
改まらないため切腹、後に信長が改心して清秀のために一寺を建立したと言う。 
問云: この底本(明治の写本)には是以降省略されていたが内閣文庫写本170-073より追加


19                                目次
          秋ニ至り収納之事
 問曰、毎年秋先ニ至り郷村より物成
(ものなり)を取納(とりおさめ)候を 権現様流と俗ニ申ならハし
 候義を聞及候や。 答曰、左様之義ハ承りたる義ハ無之
(これなく)差りながら右之御尋ニ付少々存
 たる義有之
(これあり)候、 大猷院様御代何頃之義ニて候や御老中方へ上意ニハ、其方領
 
 分え桃ノ木を多
(おおく)植さセたると聞しが其通かと御尋之節、御答申上られ候ハ何様
 上意之通ニて御座候、古河之城地を我拝領仕り候節ハ領分之在、町ともニ殊之外
(ことのほか)(たきぎ)
 事を欠キ申候て一同難義ト承り候ニ付、御当地之町方え申付小児共之仕業
(しわざ)ニ致し相
 応之代物を為取
(とらせ)桃之木之実をひろわせ候所、一夏之間ニ大分拾ひ集メ持寄候ニ付、俵ニ
 致し古河え差越
(さしこし)田畑之廻りハ申に不及(およばず)百姓共之居屋敷廻り迠植置セ申候所、二三年
 之間に成イ木仕
(つかまつり)、今程ハ殊之外用立申趣ハ承り候得共私義ハ終(つい)ニ見たる義ハ無御座(ござなく)候と
 申上られ候へば、其方共も四五十日程ツツ逗留ニて替る替る知行所へ罷越領内之様
 子をも見分不致
(いたさず)してハ不叶(かなわぬ)義なりとの上意、其後大炊頭殿三十日斗(ばかり)之御暇ニて古
 河え帰城逗留間領内見分あられ候。  以後家来ともを呼出、申被聞(もうしきかされ)候は、
 権現様御代毎年秋先ニ至り諸代官衆支配地え御暇を被下
(くだされ)候節ハ何れも御
 前え被為召
(めしなされ)、御直ニ上意を以て兼々(件々)を被仰聞(おうせきかされ)候通、郷村之百姓共をハ死様生様ニ
 と合点して収納申付様ニとの上意をハ毎年被仰出
(おうせいだされ)たる事ニ候、先年我等当
 地拝領之節、其方達も存の通り百姓共之家々ニ敷居宅とてハ一軒もなかり
 つるニ今度不慮之御暇被下置
(くだされおき)候故、此間領内所々を見廻候所何れの村ニも一
 
 廉
(ひとかど)之家作り致セし百姓数多相見(あまたあいみえ)不審ニ思わるるなり、若(もしや)生過(いかしすぎ)したるにハ是
 無
(これなき)や、郡奉行代官ともにも能々(よくよく)申付収納之義念入候様致べしと申被付(もうしつけら)れ由。
 若
(もし)ケ様之事を聞違(ききちがえ) 権現様之収納致形抔申触し候やと推量致(すいりょういたす)なり。
 惣(そうじ)て七十年余も以前之義は諸国共ニ秋先ニ至り候ても其村々名主たる者之
 家ニハ水牢木馬抔と申すものを支配いたし、百姓共の中ニて私欲をかまへ収納致
 兼
(いたしかね)候ものハ件(くだん)の水牢ニ被入(いれられ)木馬ニ乗せ責て収納為致(いたさせ)候所ニ近年ハ
 在辺之百姓共も正路ニ罷成律儀ニ収納致にや、彼水牢木馬等之沙汰を
 承候ハず


死様生様 百姓は生かさず殺さずの原典か
大炊頭殿 土井利勝(1573-1644)家康、秀忠、家光三代に仕える、下総古河16万石、大老

20                     目次    
         皆川老甫斎之事
問曰、以前ハ公儀御役人中抔も御用ノ義覚書ニ被致
(いたされ)脇指之下緒(したお)ニ結付被
(おかれ)候を老甫掛りと申触し候由、此義如何聞及ハられ候や。 答曰、右老甫と申ハ関東
御入国之頃小田原衆ニて皆川山城守と申たる人ニて候、 後ニハ松平上総介忠輝卿之
御付人ニ被仰付
(おうせつけられ)、信州飯山之城主ニて家老職たるニ仍(よっ)て常ニ上総介殿(へ)意見申
つるに、ある時何事やらん剛
(こわき)異見を申てさんざん機嫌を違(たが)ひすでに死罪申付し
 
との事なるが、御付人たるを以其段被相伺
(あいうかがい)候所、台徳院様上意ニ山城事は上
総介家人之義なれハ如何様共心次第ながら上総介幼少之節、山城方覚ニ以
大御所様之御前を申調へ源七郎康忠之跡目をなし、只今之上総介ニ致さる
もの也。 左様之旧功を忘れ死罪ニ申付候儀ハ僻事ならん、是非罪セんとならバ暇
抔申付格別との上意ニ付、改易申被付
(もうしつけられ)しかハ其身法躰(ほうたい)して老甫と名付候、
侍分之者共一両人召連京都え上り知積院
(ちしゃくいん)之内ニ閑居して、息男志摩守ハ
武州八王子辺ニ引込居ける時ニ、大坂御陣之節上総介殿大和口之惣大将を被
仰付
(おうせつけられ)上洛之刻(みぎり)、老甫ハ御陣所え罷越奏者ニ付て、私義重き御勘気之者
ニて御座候へ共此度大坂表へ御出陣之義ニも候得ば、存念之内御勘気御免
(おゆるし)ニ預り
申度念願故、恐を不省
(かえりみず)罷上り候と申付、此趣申達候得ハ則(すなわち)対面被致(いたされ)候間、早々
罷出候得との事故、老甫辱由
(かたじけなきよし)申して、墨染之衣も殊之外疲(つかれ)をとらへたる躰を被
(みられ)忠輝卿も頻ニ落涙あり、老甫を側近くまねきよセ昔今(じゃくこん)之物語り之節
老甫申は、此度大坂表ニ於て御奉公達の義をハ如何思召候や、乍憚
(はばかりながら)私存候ニハ此
度諸手ニすぐれたる御働をも不被遊
(あそばされず)候てハ相叶(あいかない)申間敷候と向けれハ忠輝公、我
 
等も兼て其心得ニ候所此度惣御先手井伊掃部頭、藤堂和泉守両人ニ被
仰付
(おうせつけられ)候上ハ如何可有(いかがあるべく)候やと御申付、老甫兼て右之両人え御先手被仰付(おうせつけられ)候段ハ上方ニ
於ても取沙汰仕候、御着陣ニ於てハ大坂表江御着陣ニ於此方之御備
(おそなえ)を惣軍之
先え御進なされ敵城近く御押詰、城中より突出候ハハ則一戦をとげられ、敵出不申
(てきいでもうさず)候ハハ
虎口際え指向、爰所を取かため何時なりとも一番ニ合戦をなさるべくとさへ思召候
得ば事済申候。 自余大名とハ違、井伊、藤堂も君と前後を争ひ申義罷成申間敷候、
乍併
(しかしながら)両家之者共異儀ニ御まかセ被成(なられ)候近頃過分成事なり。 然ハ其方暫く何方え
も立しのび罷在候へと御申ありて、玉虫對馬守、林半之丞、其外花井以下之家
老共を呼出され右之一件を御自身をもひより之如く申被出相談之所、玉虫、林が
口を揃、夫ハ以之外
(もってのほか)なる御不了簡ニて候、 此度井伊、藤堂之両家ヲ以て御先手ニ被
仰付
(おうせつけられ)候ハ天下より之御軍令ニて候、夫を御やぶり被成(なられ)(たとい)何様之御軍功被尽(つくされ)候とても
御奉公相立被申様
(もうされよう)無御座(ござなく)候、左様御働ハ御無用ニ候、今度大坂表ニて御奉公難被成(なられがたく)
如何程も御座有べしと申、外家老共両人之申旨一同致し達て御無用と申ニ付
其通評義相済。  其後老甫を御呼出有て上総介殿御申ニハ、手前ハ其方思
 
寄を以て思ひ皆え相談ニ及ニ玉虫、林等無用と申付
(もうすにつき)家老共其義同じ、其方
存念之通ニハ埒明兼
(らちあきかね)心外之事ニ候、其方義大坂表同道すべき間左様ニ心得候
へとの事也。 老甫請
(うけ)たまハり玉虫、林之存寄(ぞんじより)ハ兎も角も御先手をも仕候家老共之
存寄左様ニ有之
(これあり)候成程も無御座候、私義ハ右ニも申上候如く御供可仕(つかまつるべし)と存如何
支度して罷越候上て墨染衣の襟を押あけ黒糸威之具足を着込致たるを
御目ニ掛ケ、私義ハ今程知積院を罷出老足ニて是江罷越候故殊之外疲れ申候
間、暫
(しばらく)休足可仕(つかまつるべし)と罷出、夫より直ニ志摩守か旅宿え立寄門外え呼出し、我等願
之通り御勘気御免
(おゆるし)之上御目見被仰付(おめみえおうせつけられ)老後之大慶不過之(これにすぎず)、次ニ兼て存寄之
段をも申上たるニ、殿ニハ御心得ニて何れもへ御相談之所不届者共心を合セ達て御無
用と申て指留故
(さしとどむゆえ)事調へず、然ハ我等大坂え之御供ニ不及(およばず)只今罷帰る也、其方ハ
唯今より支度を整え今夜通ニ井伊之陣所え立越、直孝が備を借、一御奉公可申
(もうすべく)
手首尾ニても逢被申
(あいもうされ)、存命ニ於てハ重ねて逢ヒ申とて知積院へ帰宅なり。 然ルニ
只今世間流布之記録之内之皆川老甫が名を大坂表え供致たる家老共と一所と
書記したるハ相違也。 扨
(さて)上総介殿ニハ五月六日七日両日之合戦手首尾ニも御逢
 
無之、其外大御所様之思召ニも御叶ひ被成(なられ)ざる義も有之候、 御前宜からず
大御所様駿府ニて御無例之節御機嫌伺として御上り候得共終ニ御目見も不
被仰付
(おうせつけられず)候、御他界之節御遺言之由ニて終ニハ御身上御果被成(おはてられ)、方々と御預被
仰付
(おあずけおうせつけられ)候、又皆川志摩守儀ハ去御一戦大坂表働之段井伊掃部殿被申上候ニ付、召
出され名をも山城守と被成
(なられ)候て大御番頭ニ被仰付(おうせつけられ)候。又老甫ニも被召出(めしだされ)別ニ御扶
持方拝領被仰付
(おうせつけられ)候節老甫申上られ候ハ、此度倅山城守義存掛も無之御?合被
召出
(めしだされ)其上結構成御役を被仰付(おうせつけられ)候段重々難有奉存(ありがたくぞんじたてまつり)候、ケ様之私え迠御扶持拝
領被仰付
(はいりょうおうせつけられ)候義ハ冥加至極ニ候得共、御覧之如く年罷寄候ニて何之御用も相立不申(あいたちもうさず)
得ば御請
(おうけ)申上難く候得ば可然様(しかるべきよう)御断被仰被下(おうせつけられくださる)べしと有之、御老中方御申惣(そうじ)
隠居扶持抔と拝領有之
(これある)義ハ容易ならざる事ニ候処、其元ニ被下(くだされ)候ハ定て思召可有(あるべく)
有之候上ハ御断りニハ及申間敷との事故重々難有旨御請申て退出有り。 其以後御
用之義有之
(これある)由ニて被為召(めしなされ)、年寄候て大義ニハ被思召(おぼしめされ)候へ共、向後日々暮頃より西御
丸え上り竹千代様御前ニて何事ニ不寄
(よらず)是ハ御聞セ置御心得ニも被為成(なしなされ)候義と存
寄たる事共御退屈不被遊様
(あそばされぬよう)御雑談申上、御聴ニ被入(いれられ)候様検使人ハ林道春、
 
大橋龍慶両人を被仰付置
(おうせつけおかれ)候間、右両人え対し物語可致(いたすべし)との上意ニ付、夫より毎日暮
頃より老甫西御丸え登城之処、 始の程ハ御六ケ敷思召候御様子也、連々ニ御聴被
(おききあそばされ)候由、老甫ハ年寄物覚へうすき故、今宵御物語申上べきと有之(これある)義事ともを
心覚ニ書付是を脇指之下緒ニ付、御前え罷出候前ニ一覧候て被出
(でられ)候を人々見習、西
御丸付之面々ハ不及申
(もうすにおよばず)、後ニハ御本丸御役人中之義も思ひ思ひ御用抔有之(これある)節ハ覚
書と致、下緒ニ結付候を其頃老甫掛りと世上ニ申ならわし候由


皆川老甫 (1548-1627)広照、北条家臣、栃木市皆川城主、秀吉の小田原攻めで降伏後家康に仕え家康六男忠輝家老、忠 輝の教育方針廻り改易され出家、老甫と号す、後秀忠に赦免される
松平上総介忠輝 (1592-1683)家康六男、家康に疎まれ松平家へ養子後
越後高田城主75万石、其の後改易、信州諏訪に配流
玉虫対馬守定茂 武田家臣、武田滅亡後家康に仕え、忠輝の家老、 忠輝改易後追放
花井遠江守吉成 忠輝付家老、松代城代、息子主水正義雄も忠輝の側近
林道春 (羅山1583-1657)江戸初期の儒学者、林家の祖、幕府の制度、儀礼を整える、3代目から大学頭の称号を得る
大橋龍慶 (1581-1645)秀忠・家光に仕えた右筆

21                        目次    
          伝奏屋敷之事
 問曰、伝奏屋敷併御評定所之義ハ何頃ヨリ始リたる義ニ候や。 答曰、我等請たまハリ
 たるニハ慶長五年関ケ原御一戦前ニ公家衆の参向と申義無之
(これなく)、天下御一統之後ハ
 伝奏衆参向毎年之事故、公家衆御馳走屋鋪として新ニ御普請出来、伝
 奏屋敷とも申候由、夫迠ハ御老中之宅ニて或日寄合等是有候へ共幸ひ伝奏屋敷
 常々御用も無之明居
(これなくあきお)る義なれハ重畳之御寄合場所なりとて御老中方自
 分宅之寄合と申義相止申候、或日御賄之義ハ下奉行ニ被仰付
(おうせつけられ)候所ニ外之ものハ
 差支無之
(これなく)候得共御老中方始、其外歴々方々之所へ出給仕致候者ハ何人かよろし
 くからんと評義之所ニ、板倉四郎左衛門殿被申(もうされ)候ハ給仕之義ハ吉原町之役ニ掛
 幾人なりとも遊女共を為出可然
(ださせしかるべし)との事也、衆義之(しゅうぎこれ)ニ同じ吉原町之役掛り成候、
 伝奏屋鋪迠船ニ乗連行
(のせつれゆき)候節、船之上ニ蓆覆(むしろおおい)を致、幕、簾抔を掛候手始と
 致候、外々ニも屋形船と申者始り候、其後御評定所之儀ハ手負ニ疵付候者をも
 召連来り候得共場所をも穢
(けが)れ、其上毎年春ニ至り公家衆逗留之間は
 御評定も相止候義も如何と是有、別ニ御評定所御普請出来、町方賄も
 相止ミ御城よりの御賄と成り、給仕役の義ハ御坊主衆相詰られ候事と相成候由。

 又問曰、老 其時代之義諸事御手軽之事共とハ相聞候得共、御老中方迄
 始メ何れも御立会之御評定所え吉原ノ遊女風情之者共徘徊有之
(はいかいこれある)段ハ一縁
 承知いたし難キ事共ニ候、虚説抔ニてハ無之
(これなき)候や。 答曰、手前抔迠も寛永年
 中出生之者共ニ候得ば、時代も違候ニ付たしかに可存外無之
(ぞんずべきほかこれなき)候、乍差(さりながら)左様なる義可
 有
(あるべく)やと存候。 子細ハ文禄年中上方ニ於て大地震之年有之(これあり)、京都大仏之像なども
 振くずれ、聚楽之御館大破ニ及ひ御家人衆之内長押ニうたれて相果ら
 れ候衆なども是有候由、其節伏見、木幡、山城中築地之処ニ立たる奥向之館
 震ひ崩し、御仲居以下五百人斗
(ばかり)も相果候ニ付、年寄女中御前ニて今度之
 地震ニ女あまた相果候ニ付、俄ニ其代を召抱候得と有けれハ 秀吉卿聞
 たまひ、いかに下女風情之者ニても数多(あまた)之人を急ニ召寄候と有之(これある)義ハなり兼
 可申
(かねもうすべく)間、前田法印ニ申談(もうしだんじ)六条嶋原町之遊女共を呼寄召仕ひ、其内にか
 わり之下女共召抱候様こと御申候を近頃潤気なる御申分なりとて世上ニ称
 美致セしみきりなれハ、評定所之給仕人ハ吉原町之遊女共を被召呼
(めしよせられ)無相
 違(そういなきの)義と思われ、板倉四郎左衛門殿発言有之
(これある)に何れも文禄年中 秀吉公より
 御申付有之
(これある)義を兼て伝へ聞被居(ききおられ)候にや、此儀尤成とて内意致セしと見へたり     


 前田玄以(1539-1602)豊臣政権の五奉行の一人、丹波亀山五万石、京都奉行、関が原後も所領安堵、号は民部卿法印
 文禄の地震、文禄5年閏7月13日(1596、9、5)畿内大地震1万五千人以上死亡、伏見城天守閣、方広寺大仏殿崩壊
 板倉四郎左衛門(勝重1590-1624)、江戸町奉行1590-1601、京都所司代1601-1620
22                                    目次 
         江戸武家方、町屋敷、寺社等普請之事
 問曰、御当地侍屋敷、町方、寺社等之普請家作抔之儀は前より只今之通ニ
 有之
(これあり)候や。 答曰、七拾年以前酉年大火之節迄ハ御譜代之大名衆之居屋敷抔ニハ関
 東御入国砌
(みぎ)りの家作等も間々相残り、慶長五年以後より当地ニ於て居屋敷拝
 領被致
(いたされ)家作申付外様大名方之屋敷ハ大方其時代之普請之侭ニて有之(これある)事ニ候。
 井伊掃部頭殿上屋敷之儀は以前加藤肥後守清正之家作之由ニて、我等幼年之
 
 比
(ころ)に子細有、表向之義ハ残り無く見物いたし故慥に覚居候、玄関より始表向之
 義ハ悉く金張付之絵間有之
(えまこれあり)、表門ハ桁行十間程とも相見へ候矢倉門ニて大躰
 馬程之犀五疋彫物ニ致し候、皆金込ニて外向惣長屋打廻之丸瓦に金之
 桔梗之紋所を付、夜中ニ而も光り輝きて相見へ、其外ニも国持大名衆之屋敷大
 躰
(たいてい)二階門作りニ致し種々之彫物有之(これあり)候、惣(そうじ)て其節五万石程領地被致(りょうちいたされ)候大
 名之玄関向より書院抔ハ金張付絵之間ニ不有
(あらず)してハ不叶(かなわぬ)事之様ニ相聞、就
 中
(なかんずく)御三家方々ニハ御成御門ト唱へ唐破風作ニ致、惣金之種々之彫物抔有之(これあり)
 結構至極成事共ニ候、但半蔵御門内尾張殿御屋敷之義ハ自火ニて悉
(ことごと)
 焼失致、竹橋御門紀伊殿、水戸殿御屋敷御成御門之義ハ我等抔も
 能
(よく)覚居申候。 松平伊予守殿ニも御成被遊(おなりあそばされる)ベキ間御三家方同様御成御門
 補理可
(しつらえべく)申旨御内意ニ付、出来(しゅったい)候所仙人揃之彫物ニて新敷(あたらしき)故猶又光りかがやき
 場所柄も大手元之事ニ候へハ、人通りも多く見物人絶間無
(たえまなし)、其頃世上に於て日
 暮之御門と申候由、右御門抔有申候屋敷方も酉年大火ニ残り無く焼失致候、其以
 後とても御当地数度大火故、諸大名方之普請何連
(いずれ)もかろく相成候由、酉
 
 年迠之義ハ町方普請も丁寧ニ大伝馬町、佐久間町抔町人之表家を
 三階ニ造、二階三階ニハ黒塗ニて櫛形窓を明双
(あけならべ)候故殊之外目立申候、ケ様成る
 屋造抔も酉年に致焼失
(しょうしついたし)、町方之義ハ猶更度々火事ニ付町人之家作抔も段々
 ト軽く相成申候、且又神社仏閣等之義ハ以前ニ合セてハ宜敷
(よろしく)なりたる方も有之(これある)候由
 唯今深川八幡、牛之御前、金龍山、聖天穴八幡、赤坂小六宮抔も申社
(もうすやしろ)抔ハ
 かすか成候宮建ニて有之
(これあり)候処、今程ハ結構成ル宮居被罷成(みやいまかりなられ)候、七十年以来之事ニて我等
 見覚候ても柴庵
(しばいお)同前之小寺小院ニて候処、唯今一廉(ひとかど)之寺作りと罷成(まかりなり)たるも数
 多有之
(あまたこれあり)候。 又問曰、只今之番町辺之義ハ以前ニ相替義ハ無之(これなく)候や。答曰、我等若年
 之比
(ころ)見覚候番町辺ニ付、 表向に土垣をいたし長屋作ニ致候、白土抔にて有家とても
 稀にも無之
(これなく)、屋敷通りハ大方竹薮ニて其内萱葺(かやぶき)之居宅長屋抔作り小き門之
 立たる屋鋪斗
(やしきばかり)多候処、今程ハ竹籔抔之外囲を致たる屋鋪とてハ一軒も相見不申(あいみえもうさず)
 然
(しから)ハ右ニも出申大名方之家作ハ軽(かるく)なり小身なる衆中之家作手重(ておも)となり申候様子ニ
 相見
(あいみえ)

落穂集巻3終