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落穂集巻4
             制外之家之事
問曰、当時御三家方之御事ニても有之
(これあり)候や、世上ニ於て制外之御家と申触候ハ
権現様御代よりの義ニテハ有之
(これあり)候や、又ハ其以後何(いず)れの御代ニ被仰出(おうせだされ)たる事ニ候や。
答曰、御代々之内に公儀より制外之家と仰出たる事ハ我等抔ハ終ニ承り及ひ
たる義も無之
(これなく)候、只世俗の申習ハしたる事と存候、子細ハ 台徳院様御代ニ越後
少将忠輝卿、 大猷院様御代ニハ駿河大納言忠長卿右御両人之御事と
正敷
(まさしく)御連枝方ニ御入候得ば 公儀之御法御違ひ被成(なられ)たる御非分有之(これあり)候故、或ハ御改
易又ハ御生害等被仰付
(おうせつけられ)候、去ルニ仍(よっ)て当時御三家方ハ御連枝之御家柄とハ乍申(もうしながら)
公儀之御大法を大切ニ御守り被成
(なられ)、少も制外かま敷義ハ相見へ不申(もうさず)候。 但シ慶長十五年
台徳院様御代越前少将忠輝(忠直か)卿之家中ニ於て、久世但馬とて壱万石を領地致
士と岡部自休と申町奉行役之者と争論に及ひ候。 其節三河守殿若気故理非
を聞あやまり片落ニ但馬を成敗被致
(せいばいいたされ)候ニ付、其跡家老中間(なかま)の出入と成、下にて
事済
(ことすま)ず公儀之御沙汰と成、家老共始公事掛り之者共を残らず御当地被召下(めしくだされ)
数日御詮議之上大躰御評議も済寄
(すみより)候節、御評定衆之中より去年堀越後守
家老御出入の節、堀丹後守殿駿府へ罷上り直訴申上候ニ付御取上と罷成、 御詮
議之上御裁許被仰出
(おうせいだされ)、越後守義若輩とハ乍申(もうしながら)家中の仕置も申付候事相成(あいなら)さる

者え大国の守護職を被仰付
(おうせつけられる)べき様は無之(これなき)候之義を以、越後之国を召放(めしはな)され
其身も御預ニ仰付候。 此度三河守家中出入之義ハ越後国同前ノ様ニ被
(ぞんぜられ)候、 一事両様之御沙汰ニハ参るやの旨被申上(もうしあげられしを 権現様被聞召(ここしめされ)、いやいや
越前之義ハ制外也、との御一言を以て評議も相済
(あいすむ)。 其後間も無く御裁許被仰付(おうせつけられ)
公事の本人岡部自休ハ不及申
(もうすにおよばず)、今村掃部、志水丹後、林伊賀三人之家老共
御預ニ相成
(あいなり)、本多伊豆、牧野主殿、竹島周防抔ハ申分相立(あいたち)、越前え御返し被成(なられ)
三河殿ニハ何之御咎もなし。 剰
(あまつさえ)此義ノ出入ニ付、越前ニハ家老職之者少く事欠キ
べきとの上意を以、 本多作左衛門嫡子を御取立、丸岡之城地五万石を被下
(くだされ)、飛騨守と
被成
(なられ)御付人ニ被仰付(おうせつけられ)候。 実ハ天下をも御譲り被遊(あそばれ)ずして叶わざる御方を越前一国之
守護となし置たる秀康公の御跡ニて有之
(これあり)候ハハ、惣(そうじ)てケ様之御用捨(ごようしゃ)ハ可有御座(ござあるべき)
御事と其みぎり世上にてハ取沙汰致由。 然共
(しかれども)三河守家ハ制外たるを以、如斯(かくのごとき)御用捨
被遊
(あそばされ)候抔と被仰渡(おうせわたされ)候義ハ無之(これなき)様ニ請たまわり候。 又問曰、秀康卿御在世之内列国
之諸大名方とハ事かわり、すこしハ制外か間敷御様子抔も有之
(これあり)候様と聞及候や如何。
答曰、我等伝へ承りたる事共之中ニハ自余之大名衆方之家々にてハ承り及候義四五ケ

条も有之
(これあり)候、 第一ハ慶長五年天下御一統之以後ハ御当地ニ於て諸大名衆之面々
何連も居屋敷を拝領被致
(いたされ)、家作等も有之(これある)中ニ 秀康卿の御事ハ屋敷
拝領之願と申義も無之
(これなし)。 慶長五年越前之国へ入部以後始て参府之節
到着之日ハ 台徳院様ニも品川迠御出向被遊
(おでむきあそばされ)、御同道ニて御城え被為入(はいりなされ)
節、 秀康卿之御乗物を式台に横付ニて御差図被遊
(あそばされ)、御逗留中の義ハ二
之丸ニ於て御馳走被仰付
(おうせつけられ)、 家来中之居所ニハ大手元、大久保相模守屋敷を
被明渡
(あけわたされ)候。 第二ニハ秀康卿御逗留中夕御膳ハ大躰御本丸ニ於て御相
伴被仰付
(おうせつけられ)候が、或日 秀康卿少し御不快之由ニて急ニ御下り所、御供中ハ毎
日之心得ニて二之御丸へ帰り候故急ニ呼寄られ候、其間御玄関ニ御立休らひ之所
御老中方追々被出(でられ)、当番之旗本衆御供被致
(いたされる)候様ニとの御差図ニて、両御番衆を
始メ小十人衆、御徒衆迠も公方様御成之節も同前ニ二之御丸江 秀康卿
御供被致
(いたされ)候。  第三ハ 秀康卿壱年木曽路御通歩ニて御当地え御下向之節
鉄砲百挺為御持
(おんもたせ)之処、其比(そのころ)鉄砲御制禁被仰出(おうせだされ)候故、横川之御関所ニ於て指を
さへて(差押さえ)不通
(とおさず)、其内中納言殿も御越ニ付、物頭役之面々其趣を申出候得ば

秀康卿御聞有、夫ハ定て外々之大名中之事ニて可有
(あるべし)、我等義通行之旨を番人共へ
得と申聞さセ候得、と御申ニ付其段御番所え相断処
(あいことわるところ)、番人の中より 中納言殿ハ
扨置
(さておき)、大納言殿ニてもあれ御制禁之鉄砲を通申さん事存不寄(ぞんじよらず)と申切る故
右之返答有之間々
(これあるまま)ニ申達しけれハ、秀康卿以之外(もってのほか)と被怒(いかられ)公儀より被仰出(おうせいで)たる
御法度を守り鉄砲押
(おさえ)候と有るハ尤之義(もっとものぎ)也、然共中納言扨置 大納言にも有
抔と雑言ニ及
(およぶ)ハ 公儀を重んずる番人とも覚(おぼえ)さる義也、我等を何物と心得て相成(あいなる)
雑言に及
(およぶ)ぞと沙汰之際(きわま)り不届至極の奴原(やつばら)と被申(もうされ)候故、供中我も我もと鎗、長刀
之鞘をはづし、ひしめきけれハ番人共悉
(ことごとく)く逃散候故鉄砲ハ不残(のこらず)越前え為持
被帰
(もたせかえられ)候。 御関所之番人共ハ夜通し江戸表へ罷越、右之次第を言上ニ及ふ所に
大御所様ニも其節江戸ニ御座被遊
(ござあそばされ)、此段を聞召され、関所之番人供早速逃散候
とは宜
(よき)分別也、 たとへハ不残(のこらず)打殺され候共中納言殿を解死人(下手人)ニハ被取間敷(とられまじき)、との
上意ニて御笑ひ被遊
(あそばされ)候由。 第四ニハ芦田右衛門、天方山城、永井善右衛門、御宿
勘兵衛抔と申者 権現様御旗本ニ御奉公申上しに、或ハ朋輩を打立退
又ハ其身小身ニて御取立なきを不足ニ立退、又聊(いささか)御恨ミとあるを以退身

せし輩を越前え呼寄、以前之姓名を其侭ニて家人と被致
(いたされ)候。  芦田、天方が
子孫ハ今以越前ニ奉仕する由、永井ハ三河守殿代ニ至(いたっ)て御旗本え帰参被
仰付
(おうせつけられ)、御宿ハ後大坂え入城して 秀頼公之家人と成り、右之姓名を名乗り
夏御陣之節討死をとげ候由。  第五ニハ列国之諸大名方ハ高位高座ニすす
み申さるると云は段々と昇進仰付られしと相見候処、越前家ハ元祖中納言
殿より三河守殿、伊予守殿と三代続キて三位ニ被任
(にんぜられ)、少将より直ニ宰相ニ被為任(にんじなされ)
候故越前ニ中将と申義ハ無之
(これなき)由、ケ様の事共を以(もって)考見候得ば越前家ハ
制外之様ニ存申候


松平忠直(1595-1650)秀康の長男、越前75万石(1607慶長十二—1623)
最後乱行の理由で大分に配流となる、1611従四位三河守、1615従三位越前守
松平秀康(1574-1607)家康二男(庶子)、秀吉の養子に出され、後結城家、
最後松平姓になり越前75万石拝領、二代将軍秀忠の兄
久世但馬 越前藩初代秀康以来の家老、内部抗争で成敗される。久世の領民が岡部の領民を暗殺し、岡部が久世に犯人引渡しを求めたが久世が犯人を匿い応じなかった。
慶長十七年の越前騒動と言われる家老達の争いに発展し、家康、秀忠の裁断が下る
堀越後守(忠俊1596-1622)堀秀治の嫡子越後藩45万石の遺領を11歳で引き継ぐも家臣団統率できず改易となり、岩城平藩主鳥居家預かりとなる
堀丹後守(直寄1577-1639)本家の堀秀治、忠俊に仕える、長岡藩主、後村上藩預かる
岡部伊予 1300石 役人衆、自休は出家名
今村掃部 25,000石 騒動後岩城鳥居家お預け
清水丹後 11000石、騒動後伊達家お預け
林伊賀 家康近習、秀康に附属9800石 騒動後真田家お預け、後赦免
本多伊豆守富正 叔父本多作左衛門に養育される、秀康近習、越前藩筆頭家臣、府中城主
牧野主殿 家康近習、秀康に附属、2400石
本多作左衛門(重次1529-1596)家康の祖父から三代に仕える譜代の臣、「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」の筆者
本多飛騨守(成重1572-1647)作左衛門嫡子、幼名仙千代、越前丸岡藩主四万石
芦田右衛門 武田家に仕え後徳川に仕えた芦田右衛門は天正十一年に討死、その二男が加藤四郎兵衛と言う名で蟄居中の所、秀康に抱えられたという説もある(福井市史)
天方山城守 家康の長男信康の近習、信康切腹時介錯したと云われている。 後高野山に蟄居中秀康に召出される、1500石
長井善右衛門 鉄砲頭1050石
御宿勘兵衛(みしゅく) 今川家に仕え、後徳川に仕えた武士、秀康が500石で抱えたが、禄高不満で豊臣方へ移り、大坂夏の陣で討死
松平伊予守(忠昌1595-1645)秀康二男、忠直改易後、越前北庄藩50万石を継承し
 越前福井藩と名を改める


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         土井大炊頭殿と伊丹順斎と出会之事
問曰、 権現様御事ハ御吝嗇
(ごりんしょく)なるに御方共申、又左様も無之(これなく)とも申触候ハ
如何聞及候哉。  答曰、権現様抔之御事を我等抔之口より沙汰仕ルハ恐入たる
事ニハ御座候へ共、人々疑惑を散し候為に愚慮之趣を申述候。 凡世界国
土の至宝と申てハ金銀米銭の四ツに当り候。 但是を用る善悪三段の差別

有、一ニハ金銀米銭の至宝たる事を能
(よく)勘弁いたすよし成共、無益な事に費(ついやす)
る事を厭ひ常に是を貯え、財宝を用ひずして叶わざる時ニ望ミてハ、毛頭おしむ
心なく是を取出して其用事を手支
(てづかい)無之(これなき)様ニ致候。貴きもいやしきも是を倹
約と申て称美
(しょうび)致す也。弐ツニハ金銀米銭ハ世上之至宝と申事を余り知過し
無之
(これなき)上ニも多たくわへ集て、是を握詰ニ致て手放ス事嫌ひ、実は財宝を
不用
(もちいず)してハ不叶(かなわず)と有節ニ至て、是を取り出て其用事を調る義も差置、おしむ
を吝嗇と言て、貴賎上下に不限
(かぎらず)宜敷(よろしき)からぬ事ニ候。 三ニハ金銀米銭を
湯水ニひとしくと無用無益之事ニも惜ム無気
(きなく)、遣果すを扨(さて)も大器量者なりと
虚者どもが誉
(ほめ)そやすを能事(よきこと)と心得候て、有次第勘弁も無く取出して蒔(まき)
ちらすハやくたいなし共無十方
(とほうなし)とも名付、吝嗇の人などにはおとりたる方共
可申
(もうすべき)にて候。 子細を申に吝嗇と申も宜しからざる事とは申しながら
我手許に物を持たくわへて居候得とも物入之時節ニ望ミ、了簡さへ致セハ取出して
用ニ立申事成まじくニ不有
(あらず)。 有丈之金銀を残らず取出し外へ蒔失ひ、貯など無之(これなく)
貧乏ニ成果て候得ハ跡へも先へも行兼
(ゆきかね)、埒明(らちあけ)ず貴賎上下共尤之所也、但倹約と
吝嗇トハ其形能
(よく)似たるを以、吝嗇者を倹約人ト見違、又能倹約を致者を

吝嗇人と沙汰致候事尤也、然共其要用之節ニ至て財ヲ用と不用
(もちいず)との差
別ニ依テ勘弁致ニ於てハ明白に相知れ可申義也、是ヲ以、権現様之御事ヲ相考へ
奉るにより倹約を御用ひ被遊
(あそばせ)たるに相違無之(そういこれなく)候、子細ハ台徳院様御勘定
方ニ於て 公儀御勝手方之義ニ付、御尋筋之義有、何れも打寄評議の上
一紙ニ認メ、伊丹順斎或日土井大炊頭殿へ持参有り対面之上、件
(くだん)之書付を持
出され候得ば、土井大炊頭殿御申ニハ、此書付披見申べきなれ共大躰如何様之
筋ニ候哉、申聞らるべしとの事故、順斎申され候ハ、唯今迠ハ御旗本衆大
身小身ニ不限
(かぎらず)、御蔵米ヲ以、物成等も被下置(くだしおかれ)、其外大扶持方、物頭之面々も
其如ニ候故、諸国之御代官所より御当地江廻米多運送之御失堕掛り、其上
御蔵内ニ積置候内欠米鼠喰候有之、多分之御費も相聞申候間、向後ハ三四百俵
取之面々ハ只今之通御蔵米ニ而被下置、五百俵以上之面々ハ知行所江遣し候
家来事欠キ不申候得ば、何れも地方知行ニ直ニ被遣、并ニ大扶持頂戴之衆中
も俵数之高を以チ知行ニ御直し被成候て、又地方ニ而巳下置候て御徳用多分
之義と御勘定ニ於て何れも相考被申候、其上御蔵米御渡方多ク御座候故三

四年つつも越米ニ相成候を以其米ハ悉く虫喰相成、ケ様成る俵ニ取当りたる末々
之者共ハ殊之外迷惑仕候、御廻米之高を減少被仰付候得者、御蔵ニ持数も
減シ御徳用之義ハ早々有之候、右之段書付ニ仕り御城ニ於て御用役様方御
揃被成候御列座へ差上可申間、同役共申為言候間、先御内意を相伺可申ため
参上仕候と有、大炊頭殿被聞、其儀ニ於てハ早々此書付見申迠も無之、只今
其許被申奉候趣ハ 権現様御繁昌にて被為入候節、先達而御沙汰有
之事ニ候、其節上意ニ、我等当城を居城と定る上ハ、東西南北之諸大名を始
天下万民当所え寄集るニ付、平常とても廿日、三十日入船是無キ節ハ諸式
値段も上り、諸人迷惑に及由申、異変之出来候てハ廻船の運送不自由ニも
罷成候節ハ江戸中之者共をバ何人が養育すべき、去ニ依りて我等手前ニ多分之
損毛是有義ハ兼て知透したれ共、蔵米を潤沢ニ貯置ハ天下を知る者之役目
と思ふが故也、然ルニ差当損益斗
(そんえきばかり)ニ目ヲ付、大変あらん節の心掛無ハ下勘定風
情之者共が了簡ハ左も可有義也、最早勘定頭共言セてハ一同にてケ様なる義を
我等ニ申聞事器量無き所也と以之外御気式厳く、其節御老中方え被

仰聞
(おうせきかされ)候ハ、惣て大名之道中致ニ雨具等を持たる中間共之悦ぶ如き仕置をハ
セぬ者也と 上意ニ付、其以後何れも打寄、雨具持之義ハ如何成思召ヲ以
上意なるかと不審を立種々相考候と、右廻米御徳用之筋之書立たるケ条
之中ニ、末々之御奉公人共虫喰之米ニ取当り候てハ何も迷惑仕と是有義を専一
ニ書載候を、上覧被遊候ニ付ての上意なからんかと、何れも推量致ニ似たりと
聞。 然ハ此度目論見も同様之義なれハ無用たるべしとて、書付を持ち参たる順斎
是を請取、唯今被仰聞義ニハ心付も無之不調法なる書付を指上迷惑
仕候、乍併
(しかしながら)ケ様之不調法なる義を申上候ニ付、結構成る御物語りを請たまハり向後
私共心得と罷成り候とて帰宅有由、大野知石物語請たまハり候、然ハ
権現様ニハ御倹約之筋ハ御持被遊候へ共、御吝嗇と申ニハ無之事とぞんじられ候



25                         目次

           御使役之事
問曰、以前之義ハ御旗本ニ於て御使番、御使役衆として二段ニ有之
(これあり)たると申
伝へ候ハ、弥
(いよいよ)其通ニ聞及候哉。 答曰、其義我等抔承り候ハ台徳院様御代、大坂
御出陣之節より始りたる事ニ候由。 子細ハ御譜代御旗本衆之由ニて、数度之御陣ニ

走廻り之御奉公抔をもなしたる面々を御撰之上を以て被仰付
(おうせつけられ)、小栗又市殿抔
義ハ御物頭ニて候得共、武功之仁故御使番役をも相兼、相勤候様ニ被仰付
(おうせつけられ)候由故ニ
先ハ老年之衆中斗
(ばかり)之様ニ有之、其上仲間嫌を被致(いたされ)候ニ付、同役少(すくなき)も有之(これあり)候ニ付ても
人数も御増被成
(おましなされ)候義も被遊(あそばされ)がたく有之(これあり)候由。仍(よっ)て其身共仲間人少ニて、当時寒気之節
老人抔ハ別
(べっし)て大義ニ思召候ニ付、諸番より御撰を以て仲間入被仰付(おうせつけられ)候ニ何(いずれ)も御使
番と言名目ニハ不有
(あらず)、御使役と被仰渡(おうせわたされ)、伍之字差物は御免無(おゆるしなく)、母衣差物ニ
被仰付
(おうせつけられ)候由。 大猷院様御代始之比(はじめのころ)迠も、右之古き御使番衆相残り被居(おられ)候へ
共、左様之衆中も段々罷失、引込
(ひきこも)ル抔被致(いたされ)候故、向後何れも御使番と号し伍字
差物も一同ニ御免
(おゆるし)之旨被仰渡(おうせわたされ)候。然ハ御使番、御使役と二段ニ有之(これある)かと申ハ
さのみ久敷
(ひさしき)義ニてハ有間敷(あるまじき)かと存しられ候。 又問曰、右伍字差物之義ハ御使
番衆斗
(ばかり)ニかきりたる事之様ニ相聞罷在候所、御道開奉行にても差物ハ伍之字
(もちい)義有之(これあり)候、と申ニも子細有由ニ候哉。 答曰、我等之承り思ひ候ハ御道開奉行と
申御役義之名目、小田原御陣之節迄ハ御家ニ無之候所、慶長五年関が原
御陣前、備先
(そなえさき)道橋見積り之役人無之(これなく)てハ如何との御評義ヲ以、御使番衆之内より庄田

(以後写本変更、公文書館内閣文庫No.210165)
小左衛門殿を以、御道奉行役に被仰付
(おうせつけられ)候所ニ、小左衛門殿被申上(もうしあげられ)候ハ
御奉公の道ハ何事も相勤候も同前之儀ニ候得ば奉畏
(かしこまりたてまつり)候、只
老人にハ病煩ひと申義もなくてハ叶不申
(かないもうさず)候処に、我壱人
役と有之
(これあり)候段、迷惑仕(めいわくつかまつり)候との儀ニ付、同役を可被仰付(おうせつけらるべき)との
御事候得共、 御陣前差懸り御入用の御使番衆を被仰付
(おうせつけられ)
儀も被遊
(あそばされ)かたしと有之(これあり)、大御番衆中の内より武功の仁を
撰ひ有て、小左衛門殿の相役に被仰付
(おうせつけられ)候を以て、右の仁も伍の字
の差物にて被相勤
(あいつとめられ)、御陣相済候以後、庄田殿にハ元の
御使番江帰役被致
(きやくいたされ)候得共、御道奉行と有ハ永々共になくて
ハ叶ひ申間敷
(もうすまじき)と有之(これある)儀ニて、又大御番衆の中より被仰付(おうせつけられ)
此仁
(このじん)ニも先役に順じて伍の字の指物也。大坂表両度の御
陣ニも被相勤
(あいつとめられ)候より以来、道奉行衆も伍の字の差物に
有之
(これあり)候也


26                         目次
       小十人衆之事
問て云、当時御旗本に於て小十人衆と申人々之儀ハ、皆以
由緒正敷旁
(ただしきかたがた)と申、知行の上、御f扶持方(おふちかた)等も被下置(くだしおかれ)候を以、差
料の具足一領宛ハ何
(いずれ)もたしなミ所持被致(しょじいたされ)候処に、若しも
御動座抔有之
(これあり)候節に至りてハ、公儀より相渡候御貸具足より
外ニは自分所持の具足抔を着用被致
(いたされ)候と有儀ハ不罷成(まかりならず)
是には何卒子細抔も有之事に候哉。 答て云、ケ様の儀ハ
公辺の事ニ候得ば、我等抔の委細を可存様
(ぞんずべきよう)も無之(これなき)

其元の尋る処ニ付て、手前の存寄一ト通りを申にて候。 小十人衆
と有之
(これあり)候ハ何れも騎馬役と申にても無之(これなく)
公儀御動座抔の有之
(これある)節ハ御馬廻りに歩行立ニて御供
被申上筈
(もうしあげられるはず)の御役柄の衆中ニて候。 然ハいか程も身かろく
かけ走りの罷成がごとくの出立ニて無之
(これなく)候ハハ、不罷成事(まかりならざること)
由也。 然るに自分たしなミの具足抔を着用被致
(いたされ)候てハ
達者業ハ成兼
(なりかね)可申(もうすべく)にて候。 小十人方の御借具足と申ハ
世俗に海老がら具足と申習ハし、至て手軽くおとし立た
る物にて候へバ、たとへ其身不達者にても、又ハ老人、病者
と有之
(これあり)ても行歩の邪魔に不罷成を(肝要と致し)、具足一同一色の威し
ニも有之候ハ御大切ニ罷成、御馬廻りの御事にも御座候付
専ら用向に懸りたる御事之由也


27                          目次    
      八王子千本鎗衆之事
問て云、今程八王子に千本鎗の頭衆、組共被差置
(さしおかれ)候儀ハ
何頃よりの事と御聞及候哉。 答て云、我等の承り伝候ハ三河
以来の長柄鎗衆と申候面々の衆ハ、関東御入国の節皆々
御小人衆の仲間へ御加へ被成
(なられ)、御陣、御上洛抔と有御座(ござある)
御長柄に限り候。 御中間衆の義、武州之内八王子に於て
新に召抱候様にと被仰付
(おうせつけられ)候也。 其節の義ハ日光火の御番
抔と申儀も無御座
(ござなく)候。 いつれとても隙(すき)ニ罷在候ニ付、野田を
切開き作業を専と致候を以、公儀より被下置候御宛行は
軽く候へ共、勝手につき、我も我もと御奉公願ひを仕候中に

八王子滝山の先城主ニ而北条陸奥守氏輝方ニ末々の奉
仕たる者共、又ハ其節甲州よりも餘多罷越
(まかりこし)、御小人ニ在付
其頭にも大方ハ信玄衆を以、被仰付
(おうせつけられ)候ニも思召有候ての
御事に候と也。 其節の儀ハ御長柄数も五百本ニて有之
(これあり)候処に
関ケ原御陣之頃より御鎗数も多く被仰付
(おうせつけられ)、 台徳院様
木曾通を関ケ原表へ御出馬の節御供を相勤候由。
権現様御代の儀ハ申ニ不及
(およばず)、大猷院様御代、其以後迄も
千本鎗之儀ハ御老中方の御支配ニ有之
(これあり)候由、去に依て御動
座之節、御長柄の差配り処、御用ひの訳共に諸方長柄
鎗の用ひ候とハ替りたる御様子抔も有之
(これあり)由候得共
公辺の儀に候得ば我等弐の聢
(しか)と可存様(ぞんずべきよう)は無之(これなく)候也
    

28                          目次
 
     三池伝太御腰之物之事
問て云、権現様駿府の御城内ニ於て御他界被遊
(あそばされ)候節
の御不例と申ハいか成御病症ニて被成御座
(ござなられ)候、其元ニは聞及ば
れ候哉。 答て云、我等若年之頃迠ハ御直参、陪臣の中に
権現様御時代の義をよく能覚
(よくおぼ)へ罷在(まかりある)面々、餘多有之(あまたこれあり)候ニ付
左様の衆中の書物語を度々承りたる事にて候。  御鷹
野に被為成
(なしなされ)候御先ニ而、御病気付被遊(あそばされ)候処ニ、御薬抔被召上(めしあがられ)
早速御快、還御被遊
(かんぎょあそばされ)候。 以後少(すこし)も御不食被遊(おたべあそばされず)候得共、さして
御様躰
(ごようたい)に御替被遊(おかわりあそばされ)候事も無御座(ござなく)候付、追付御快癒可被遊(ごかいゆあそばさるべく)
様と外々ニ而ハ奉存
(ぞんじたてまつり)候得共、御自身様ニは今度之御不例ニ於て

ハ、兎角御快癒被遊間敷
(あそばされまじき)とある上意ニ御座候と也。 去ルに
依て江戸表より御見廻
(おみまい)として、将軍様にても早々駿府へ
御成被遊
(おなりあそばされ)候処ニ、御到着之日より御対顔之節ハ御側衆をも
御払ひ被遊(あそばされ)御両所にて御閑談之儀度々有之
(これあり)候と也。 其
節将軍様ニハ、御隠居様附候て日頃御側近く被召仕
(めしつかえられ)候咄(はなし)
御相手ニも被遊
(あそばされ)候面々を被召寄(めしよせられ)、たとへ御前様ニハ御身後之
事のみを御意被遊
(ぎょいあそばされ)候共兎や角と申上、外之儀に御心の移ら
せられ候ことく御挨拶申上、少し成とも、御心のなぐさめせられ
候様にと申合、御伽を申上よと直ニ被伝渡
(つたえわたされ)候処、何れも承り
其段ハ 上意迠も無御座
(ござなく)、先頃より何れも申合 御鷹野

御乱舞の儀抔を御雑談申上見せ候処ニ、一向御貪着
(とんじゃく)不被遊(あそばされず)
却て御機嫌ニ相違し申
(もうし)候御様躰ニ御見へ被遊(あそばされ)候間、又候(またぞろ)申上段
を天海僧正御側ニて是を被承
(うけたまわれ)、異国、本朝共ニ僧俗ニ限ら
ず大悟明哲の人と申ハ、あらかしめ死を知て外事をなけ
うち、身後の事のミを申と有ハ定る事ニて候。
大御所様ニも今度之儀ハ、御不例の初より兎角御快癒
被遊間敷
(あそばされまじき)、との趣を私などへも度々の上意にて、御身後
之事のみを被伝聞
(つたえきかれ)候とて申上候得ば、将軍様ニも思召
御当りたる義抔も御座候哉。 其後ハ兎角の上意も無
御座
(ござなく)、ひたすら御落涙被遊候ニ付、天海を初、御前召合被申(もうされ)

其外面々ハ皆涕を流され候となり。 此儀ハ外にてハ不承
(うけたまわらぬ)
儀に候得共、八木但馬守殿、浅野因幡守殿江之物語の趣也。
(さて)ハ御他界の前日十六日之晩方、其頃御納戸衆ニにても有
(これあり)候哉、都築久太夫と申人を被召呼(めしよばれ)、此以前御指被遊(おさしあそばされ)
三池
の御腰物可有之間(これあるべくあいだ)、取出し持参候様ニ被仰付(おうせつけられ)
(すなわち)持参候処ニ、此刀を其方牢屋へ持参致し、料人共の
中にて本胴をためさせ持参り候様にと
上意ニ付き、畏候とて御前を立、御次の間迠罷出
(まかりいで)候処被
為召返
(めしかえしなされ)候ニ付、御前へ被出(でられ)候得ば、料人共の中ニ是ハ必死罪
と極
(きま)りたる者壱人も無之(これなく)ニおひてハためし候ニハ不及(およばず)の旨

被仰
(おうせられ)候となり。 然る処に幸ひ悪名のもの有之(これあり)ニ付、御た
めしの義相済
(あいすまし)、御前に持参致し、本胴快落し候由
被申上
(もうしあげられ)候へば、御枕元へ被差置(さしおかれ)候腰物と取かへ差置候様ニ
被仰付
(おうせつけられ)候と也。其節ハ御様躰も殊の外重く御座被為
(ござなしなされ)候折柄之義ニ御座候処ニ、悪名のもの無之(これなき)ニ於てハ御ため
しの義無用ニ仕候様ニとの 上意の段ハ曽子の末期
ニ至り、床をかつがれたると申にひとしき事にて、其おり
諸人取沙汰仕候と也。 同問て云、右三池の御腰物御ためし
被仰付
(おうせつけられ)、御入用思召し子細抔も相知申たる義ニ有之哉(これありや)
答て云、右之通の次第ニ有之
(これあり)候得ば、御ためし之程誰有

て被存様
(ぞんじられよう)も無之(これなく)候。 但我等若年之節、神道の奥秘
迠を相極候由老人有之
(これあり)候が、御他界の前三池典
汰の御腰物御ためし被仰付
(おうせつけられ)、御枕元ニ被差置(さしおかれ)
候と有義ニ付、佛家の教ニは無之事
(これなきこと)ニ候へとも、神道の
奥秘に至りて其道理有之事
(これあること)の由、物語候也。 然ハ
大御所様ニは御他界被遊
(あそばされ)、此世を御去被遊(おさりあそばされ)候哉いなや
御当家の守護神
東照大権現と御祀被遊候と奉崇
(あがめたてまつる)御事ニ候。 子細を申に
本朝上代の諸神達と申も在世の時分勝
(まさり)て善行
有し人々、則
(すなわち)神とあらわれあるを、世人も又其徳を敬

ひ尊ミ、神明と申上て崇敬仕りたる事に候由也。 其神達
の在世の時分の善行の程ハ伝記に書記
(かきしる)し有之(これあり)申ニ
候へハ才力ある面々ハ一読の上、合点も可有之事
(これあるべくこと)ニ候
東照宮様御在世の中、智、仁、勇の三徳に御叶ひ被遊
(あそばせ)たる
御善行の次第の義ハ、上代神々といハれ給ふ人達に増
(まさ)
ハ被遊
(あそばされ)候とも、少なりとも御おとり可被遊(あそばさるべき)様ハ無御座(ござなく)候。 然ば
上古にもたぐひまれなる御霊神と可申上
(もうしあぐべく)候。 古人の詞も其
鬼に非
(あ)らずして是を祭るハへつらへるなりと有之(これある)
ニ候。 去ル慶長五年関が原御一戦以後、御当家御譜
代衆之儀ハ不申及
(もうすにおよばず)、外様大名衆たりとも

権現様の御恩擇を蒙りたまわざる方々とてハ壱
人も有之間敷
(これあるまじく)候。 左様の衆中の身として
東照宮様、其鬼に非らずとハ被申間敷
(もうされまじき)事にて平日
武運長久息災延命の祈祷の義ハ不申及
(もうすにおよばず)、若しも
其身はじめ一家の中、大切の病人有之節
(これあるせつ)、立願等
の儀も先
(まず)、東照宮様へ立願を被申上(もうしあげられる)尤の事ニ候。 世俗
の諺ニも神もひき方と申ニて候得ば、信実の御願さへ被申

(もうしあげられる)におひてハ 権現様ニも御跡意ニハ可被思召(おぼしめさるべき)様も無御座(ござなく)
候へハ、別て御神力をも御かなへ不被遊
(はそばされず)候てハ不叶(かなわじ)。 然ハ其験(しるし)
も可有御座
(ござあるべき)処ニ間近き 東照宮様をハさしおき奉り

其鬼に非さる佛神達の立願と有之
(これあり)候而ハ、一国其
意を得がたき事共になり。  去ル御譜代大名の病家より
東照宮へ御立願被申上
(ごりつがんもうしあげられ)候処ニ、早速御感応のしるし御
座候義など、我等よく覚罷在
(おぼえまかりあり)候義ニ御座候也


八木但馬守(守直1603-1666)但馬の豪族の流れで江戸前期の旗本、秀忠近侍4000石、家光にも仕える
三池傳(典)太光世 平安時代後期、九州筑後の刀工。 秀吉が所持していたものを前田利家に与え、以後前田家 で今日まで伝えられているものもある(大伝太、国宝)
其鬼に非ずして・・・ 論語、為政第二 「子曰、非其鬼而祭之、諂也、見義不為無勇也」 自分の祖先でもない神を 祭るのは諂いであり、 人間としての義務を放置して行わないのは勇気が無いからである


落穂集巻4終


29                          目次      
落穂集巻5
        洪水之噂之事
問て云、近年之儀ハ諸国共に毎年の様に洪水致し、堤を
押切、田畑を損耗致させ候と有之
(これあり)候ハ、以前より此通の
儀に有之
(これあり)たる事に候哉。 答て云、以前とても年ニ寄て洪
水の仕りたる儀抔も有之
(これあり)候得共、近年之様にハ無之様(これなきよう)ニ覚
へ申候。 但堤、川際等之儀に於てハ荷積も念を入丈武(丈夫)に
仕ニ飢ハ無之候。 扨水出、洪水の儀を物の怪と存るとは宜し
からず候。 子細を申ニ、天下乱世の時代には洪水ト申儀も
繁きニは無之
(これなく)候。 たとへ水出など有之(これあり)候ても諸人共に

さのミ苦労ニは不存
(ぞんぜぬ)ごとく有之(これあり)たるにて候。 洪水之繁き
と有ハ、御治世の長く罷続申
(まかりつづきもうす)に付ての事に有之(これある)儀を
不審に存る、と有ハ筋なき義とも可申
(もうすべく)也。 同問て云、乱世ニは
洪水稀にして治世に限り洪水の繁きと有之段、更に
合点難致
(がてんいたしがたき)事共ニ候。 答て云、乱世相続候得ば爰にも彼ニても
大合戦、小廻合なども度々有之事
(これあること)ニ候。 其合戦の度毎多く
少きか、双方に討死の者なきと有る事ハ無之
(これなく)候。 たとへハ
一度の戦に討死の者千人共有之
(これあり)候得ば、其中に侍分の者
ハ百か百五十も在なしにて、残る八九百人の死亡と申ハ大方
ハ足軽、長柄、旗持等を初め、其外雑人、すはだ者斗
(ばかり)のごとき

ものにて候。 其子細を申に侍分の者の儀ハ、皆々相応に
具足甲を着し身の囲ひをも仕るに付て、たとへ弓、鉄砲
に当り、鎗、刀にて突かれても実ハ手疵も浅く、其上 
古来より申伝へるも勝ツ手前ハ人を討、負たる手前ハ人に
討たるると有之
(これある)如く、戦ひ負て敗軍仕る方に討死
ハ多きもの也。其敗軍者、剰
(あまつさえ)も侍ハ馬に乗り引退(ひきのき)
以、討死の者も少く有ハ定り事にて候。 扨其の多く討れ
候足柄、長柄、旗持等を初め、鎗持、馬の口付などの類
ひの者迄も悉く其交
(かわ)りを召抱不申(もうさず)候てハ、重ての
軍役勤り被申様無之
(もうされようこれなき)ニ付、早速召抱候にも治世のごとく

牢人の下々、と申ても稀に候を以、知行所江掛り百姓共
の中にて器量を撰びて召出し、相果
(あいはて)候者共の代り
と仕るごとく有之
(これあり)ニ付、連々と知行所の百姓すくなく成、作
手の無之
(これなき)田畑多く成ニ付、相残罷在(あいのこりまかりある)農人共の儀は
たとへ本田畑にてもあれ、地面宜しからざる場所をば
捨荒し、良畔に成たる能
(よき)田地斗(ばかり)を作り申て有之(これある
ニ付、程遠き野田、山畑抔をば捨置申ニ付、山畑は木立
と成、野田ハ一面の草野と罷成候を以、たとへ洪水致し候
ても暫くハ草木の枝葉に雨を受留候を以、河水へ落入候
所も実は透き道理に候。 治国には郷村の人も多く

成候ニ付、本田畑斗
(ばかり)を作り、皆ハ間にあひ兼候を以、山を切
開き候てハ山畑と仕、裾野之芝を開きてハ野田と仕る
ごとく有之
(これある)ニ付、少之雨(すくなきのあめ)にも山里の土砂流れ出て河水
え落入申ニ付、連々と川底埋りて水浅く川幅広く
流れ候を以、堤、川際所の破損も繁々に有之候と也。
是ニ付今年より七十七八年も以前の儀にても可有之
(これあるべき)
我等儀子細有之端場楤泉寺に暫く罷在たる儀
有之、門前百姓の隠居の由にて九十才になり候由の
老人、昼夜共に楤泉寺の茶の間へ来り罷在候が、其老人
物語に仕候ハ、手前など子供の節ハ浅草川のはば(幅)唯今

通りには無之
(これなく)、干汐の節ハ殊外(ことのほか)にあさくせまく流れ                                    
るゆへ、川向の子供、此方の児共と川端に立向ひ、石つぶ
てを打合申たる事ニて候がいつとなく、唯今の川はば
に成候由雑談仕りたるを承り候。 但此儀関東斗
(ばかり)にても
無之
(これなく)、我等若き頃摂州高槻の近所、伴田と申所へ罷越
百姓の家に休ミ居申候処、淀川を登せ候船、間近く見へ候
が中に乗居申男女の人数迠も相見へ候ニ付、其家の隠居
ら敷老人の居申し候ニ向ひ、以前よりあの通りに有之
(これあり)候哉と
相尋候得ば、其老人物語仕候ニハ、我等儀ハ当年八十六才
に罷成候、身共抔若き頃にはあのごとくなる高瀬舟の

帆中斗
(ばかり)相見へ、中々船などのみえ申ことにてハ無之(これなく)候が
いつとなくあの通りに船間近見へ申ごとく罷成候。 其節ハ
此所の堤などを押切申ごとく成水の出候時ハ、たまさか
なる事の様に有之
(これあり)候が、只今にてハ切々の水入ニて迷惑
仕る由、件の老人の物語を我等承りたる事ニ候なり。  同く
問て云、洪水の儀に於てハ承り届候、右洪水之儀ニ付乱世
には武家方我、人共に召仕之者に事欠
(ことかき)候を以、知行所
より百姓を呼寄家人ニ仕りと有之
(これあり)候得ば、郷村には人少
ニ成申道理に候。 左様に農人少に成候ては収納米等も
減少致すより外之儀ハ有間敷候、然るに恐らくハ地頭の

武士の身上取続様
(とりつづきよう)ニも成兼可申(なりかねもうすべき)にて候、此段心得かたく
候。 答て云、其元には治世の武士、乱世の武士の様子も
一所に心得たるニ付て左様の不審も出来申にて候。 治世
に武士と申ハ大身、小身共に身のかざり外聞を本といたし
家居等をも美麗に仕り候ニ付てハ、似合の家財など
をも取調へ、其身を初め妻子等に至る迠見なりを
宜敷致し度と有る、栄雅成分別より事起りて物入の
儀も多く、知行所より取納めたる物斗
(ものばかり)にてハ中々
事足り不申
(もうさず)ニ付てハ、借金、買掛抔をも仕るにて候。 乱世
の武士の儀ハ治世の武士とハ大に違ひ、第一家作等の

儀も小屋懸
(こやがけ)同前に致し、屋根なども当分雨さへもり不申(もうさず)
候と有之
(これある)ごとく仕り、下敷にはねこもへり取などを用い
申仕合ニ候得ば、客を招き、振舞等を仕る儀も無之
(これなき)ニ付
諸道具の宝器と有心掛も無之
(これなく)、其身の衣類を初
妻子の輩迠、或ハ布子襦袢の外ニは着し不申
(もうさず)如く有之(これあり)。
其身軍陣に在りてハ塩のかき立汁をすすり候、黒米を
其侭食にたきたる斗
(ばかり)を給(たべ)ならひ候を以、世間無異安穏
なる時の朝夕とても、料理数寄食
(りょうりすきたべ)好ミを仕る義も無之(これなく)、具足
下ニも成可申
(なりもうすべき)かと有、乗馬の一疋も繋ぎ、尤らしき若党鎗
かつぎの壱人もほしきと有所存の外には、何望ミも無之
(これなく)

無益成物入とあらバ一切不仕
(いっさいつかまつらず)を以て、たとへ知行所より収納
物減少候ても、さのミ難儀ニ不存
(ぞんぜず)ニて有之(これあり)候と也。 我等若き
頃武家の下々にハ杵のあたりたると申ごとく成、下白のも
つそう飯にぬかミそ汁を添えて給させ申ごとく有之
(これあり)候ハ
有申
(ありもうす)戦場に於て、黒飯米を塩汁にて給させ候仕
らせ故の義也。 今時ハ武家の下人共と有之
(これあり)候ても米をも
白くつき、糀の入たる味噌汁ニて給させ不申
(もうさず)してハ不叶(かなわぬ)
ごとく有之
(これあり)候ニ付、ややとも致し候てハ米が悪きハ汁が味なき
などねだりことを申如く在之
(これある)


30                            目次
        以前町方風呂屋之事
問て云、大猷院様御代迠ハ 権現様  台徳院様
御当代のごとく、御奉行衆、諸役人方をも御前に被
召出
(めしだされ)、御用之所ニ於てハ御直ニ被仰付(おうせつけられ)たる儀抔も御座候
よし、申伝へも有之
(これあり)候をは其元ニは如何被聞及(いかがききおよばれ)候哉。 答云
我等抔も其趣に承り及ひ居申事ニ候、就夫
(それのついて)
大猷院様御代或時、其節の町奉行米津勘兵衛殿を
御前へ被為召
(めしなされ)、昨夜麹町通りに於て牛込組の徒(かち)の者
共と其辺に罷在
(まかりある)牢人者と喧嘩に及び候と有儀、其通り
かと 上意之節、勘兵衛殿被申上
(もうしあげられ)候ハ、私共儀ハいまだ
左様の事をは承り不申
(もうさず)候、定て町方にての儀ニも御座
有間敷候と御請被申上
(おうけもうしあげられ)候得ば、重て 上意被遊(じょういあそばされ)候は

(たしか)麹町ニての事之由なるに、其方支配所の儀をも不
(うけたまわらず)候哉、と御不審の所に、勘兵衛殿被申上(もうしあげられ)は 上意にも
御座候得ば定て喧嘩の有たると申に、相違は有間敷候へ共
双方共に早速其場を引分けるとか、又ハ町内のもの共
出合候て無事を調へ埒明
(らちあけ)して、所役害にさへ罷成不申(まかりなりもうさず)
得ば、取上ニは及び不申上
(もうしあげず)候。 兼て定め置候故、役所ヘハ訴へ
出不申
(いでもうさず)候哉と被申上(もうしあげられ)候へば、右喧嘩の次第を委細に承り届
候様ニと 上意ニ付、御城より退出被致
(たいしゅついたされ)候と其侭吟味を
被致
(いたされ)、翌日登城被仕(つかまつられ)候へば、又候(またぞろ) 御前へ被召出(めしいだされ)御尋ニ
付、 昨晩、所之者共を召呼吟味仕候所、成程実正ニ御座候。

場所之儀も昨日上意之通、麹町風呂屋前ニて之儀ニ御座候
一方は拾人斗
(じゅうにんばかり)(ひと)つれと相見へ、一方ハ唯壱人ニて双方共に刀
を抜合申躰に有之
(これあり)候が、喧嘩の場所がら宜しからずと存
候哉、大勢連の方の者立退候処に町内の者共出合、壱人
之方をも取押へ無事に事治り候を以、取上ニ不及旨
(およばぬむね)
町人共申候。  壱人の方の儀ハ 上意之通軽き牢舎の
よしにて、宿元も相知候ニ付、当分宿預ニ申付置候。 右大連
の方ハ牛込組の御徒
(おかち)の者にても無御座(ござなく)、推量沙汰
迠之儀ニ有之
(これあり)候由被申上(もうしあげられ)候得ば、上意被遊(じょういあそばされ)候は大勢連
之方徒士
(かち)仲間の者共ニ極り候ハハ云に不及(およばず)、若又外々の者

成儀、徒の者共の様に取沙汰致す事も有まじきに非らず
いづれの通にも吟味遂べき間、其方支配下の牢人者の
義見落など不仕様
(つかまつらぬよう)に申付差置候得、と 上意之節
勘兵衛殿被申上
(もうしあげられ)候は、御詮義被仰付(おうせつけ)候ハバ早速相知れ
被申
(もうされ)候得共、大連の方若(もし)も御徒の者共に於ては
御吟味之上、双方共に相当の御仕置に可被仰付
(おうせつけらるべき)事に
御座候。 左様にてハ御当地中の御沙汰と成、十人斗
(ばかり)
御徒の者唯壱人の牢人者ニ切まくられ遁退
(にげひき)候と有之(これある)
ニてハ、御旗本の名折と申者ニ御座候得ば、もはや御穿鑿
(ごせんさく)
被 仰付
(おうせつけらる)には申間敷儀と左様奉存(ぞんじたてまつり)候と被申上(もうしあげられ)候得ば、

以の外御機嫌に不悪
(わるからぬ)御様躰ニ御見へ被遊(あそばされ)候ニ付、勘兵衛殿恐入
て退出被致
(いたされ)、其翌日より病気と有之(これあり)引込被居(ひきこみおられ)候となり。
然ル処に或日の朝、御側医師衆病気見廻のよしにて入
来ニ付、過分と有之
(これあり)対面被致(たいめんいたされ)候処に、手前義は昨夜泊り
御番ニて相詰候処、上意被遊
(あそばされ)候は米津勘兵衛義ハ病気
ニて引込居候由、常ハ随分息才者成が如何致候哉見廻て
様子を見遣し候様にとの被仰付
(おうせつけられ)、唯今御城より帰懸(かえりがけ)
ニ立寄候との儀ニ付、勘兵衛殿涙を流され、夫ハ不存寄
(ぞんじよらず)
難有仕合
(ありがたきしあわせ)ニ候、この間少し気分悪敷引込罷在候、大方快(こころよく)
成候ニ付、近き間出勤仕と被申
(もうされ)候得ば、脈など見られ在

(これあり) 上意にて有之(これあり)候得ば今日からも出仕あられて然と有
儀ニ付、其翌日登城被致
(いたされ)候処、又御前へ被為召(めしなされ)早速
病気快一段の儀に思召候由 上意ニ付、難有仕合奉存候
旨被申上
(もうしあげられ)、御前を罷立候得ば、先日宿預に致置候牢人
は差赦し候哉と上意被遊
(あそばされ)候と也。 ケ様の儀ヲ以、相考ニハ
勘兵衛殿にかぎらず、外の御役人方の儀も折々ハ御前へ
被召出
(めしだされ)御直ニ御用抔をも被仰付(おうせつけられ)候にやと被存(ぞんじられ)候にぞ
同問て云、右町方ニ有之
(これあり)たる風呂屋と申ハいか成様子に
有之
(これあり)候や。 答て曰、我等若年之是迄ハ右之風呂屋、御当地
所々に有之
(これあり)候を以、慥覚申(たしかおぼえもうし)候。 風呂の儀ハ朝よりたき立晩ハ

七つを打候へハ仕上申候定
(さだめ)の中、風呂へ入者共の垢をかき申候
湯女
(ゆな)共も七つ切に仕舞、夫よりハ身支度を調へ、暮時分
に至り候得ば風呂の上り場に用ひたる据子
の間を座敷
ニ拵
(こしら)へ金屏風など引廻し、火をもともし件(くだん)の湯女
共衣服を改め、三味線をならし、小歌様のものを謡ひ
客を集候を仕るごとく有之
(これあり)候也。 右の風呂屋、木挽町辺
ニも一二軒有之
(これあり)候故、石野八郎兵衛殿組下の御徒士衆
小栗田又兵衛とやら申人、件の風呂屋前におひて喧嘩
を仕出し手疵抔負被申
(てきずなどおいもうされ)候を以、御詮儀と成、場所から
宜しからざるニ付、御仕置に被仰付
(おうせつけられ)たる義など有之(これあり)

其以後間もなく御停止
(ごちょうじ)に被仰出(おうせいだされ)、江戸町の風呂屋
ことごとくつぶれ、増上寺門前に只壱軒御免
(おゆるし)候得共、湯女
は御制禁に有之
(これあり)候也


米津勘兵衛田政 江戸初代南町奉行(在任1604-1624)、徳川譜代の臣、家康の小姓、秀忠近習、御使蕃、板倉勝重の下で奉行職研鑚をへて南町奉行

31                          目次
         飢饉之噂之事
問て云、当御代に成いつ頃のことに候哉、江戸町中の米
直段
(ねだん)、俄に高直ニ成候を以、剰(あまつさえ)乞食も多く出来、飢死の者
も有之
(これあり)たると申伝へ候飢饉沙汰の儀ハいかが被聞及(ききおよばれ)候哉
答て云、我等の承及候ハ大猷院様御代、御当地の米問
屋仲間の者と仲買の町人共と心を合
(あわせ)、夥敷(おびただしく)米の買置
を致し其上諸方より入船を押へ候を以、町中の米の直段
(にわか)に上り候ニ付、御吟味を強く被仰付(おうせつけられ)候へバ悉く相知(あいしれ)、問屋

中買共餘多御仕置ニ遭
(あい)候節、浅草御蔵手代中も右の
町人共と同意致たる者も有之
(これあり)、是又御仕置ニ被
仰付
(おうせつけられ)、夫より米穀の直段も下り、世間もゆるやかに相成候と也
右のごとく成飢饉と申ハ皆以、悪党共の仕業にて天
災の飢饉と申物ニてハ無之
(これなく)候と也。 同く問て云、天災之
飢饉と有之
(これあり)候ハ、いか成事をさして申たる物ニて候哉。 答て
、天災の飢饉と有之
(これある)儀を古来より申伝えたる由にて
我等の承及候は、日本六拾六ケ国ニは大中小の国々有之候を
押ならし何拾万石ツツの国六拾六ケ国と致し、其十分一の国
数の高程皆損
(かいそん)致したると相見へ候へば、年の翌年には

春中より麦作の出来候迄の間之四ケ月程ハ必飢饉仕る物の
由也。 然共左様成凶年と有之儀ハ古今共に稀成事
に候也。 殊更御当代のごとく天下御一統の御時代に於てハ
たとへ天災の飢饉年と有之候ても、公儀の御威光を以
御救ひ可被遊
(あそばさるべき)と有之に於てハ、上の思召次第と申物ニて候
就夫
(それにつき)、天正年中の事抔ニても有之哉、五畿内大きな不作
仕、米穀の直段高直
(ねだんこうじき)ニ成候を以、軽々の者共ハ飢に及び
(あまつさえ)乞食餘多(あまた)出来候得共、米穀払底之節故、人の救ひ
施しなども無之
(これなき)ニ付、道路に伏、たをれて相果(あいはて)候者限りも
無之
(これなき)と有之(これある)候儀を、豊臣秀吉公聞給ひて、殊之外ニ苦労

に被致
(いたされ)、俄に加茂川、桂川等の堤普請を被申付、土砂を
持運び候程の輩には鳥目を与へ被申
(もうされ)候を以、飢饉の
難儀遁
(のが)れ候と也。 右秀吉公の儀ハかたのごとく成才智
の人に候ても、天下一統の時には無之
(これなく)ニ付、諸国の米穀
運送の下知仕置ニ於てハ力及不申
(いからおよびもうさず)故に無是非(ぜひなく)、手前
の物入ニて飢饉をすくひ被申
(もうされ)候と也。 御当代之儀北国
筋を始、出羽奥州の米穀たり共、海路の滞りなく
諸国へ運送致し自由のたること有之
(これある)儀ハ、偏(ひとえ)
東照大権現様の御神体を以、天下御一統の御大功を
御立置被遊
(おたておきあそばされ)候を以の御事也。 去に依て慶長五年

庚子の年以来頗る百三拾年に及候得共、大飢饉の無之
(これなき)
と有ハ廻米運送の自由成を以の儀也。 爰
(ここ)を以考候へハ
いかなる天地の災難と有之候ても、人の一和と申物ニは
懸合不申
(かけあいもうさず)が道理ニても有之(これあり)候て哉と存る事ニ候也。 同問て
、諸国ニ於て当作の出来不出来に依て未来の飢饉
を考へ知ると有之
(これある)候儀、尤左様可有之(さようあるべき)事ニ候得共、日本国と
申も広大成事ニ候得ば、委細には知兼可申
(しりかねもうすべき)哉と被存(ぞんじられ)
答て曰、其儀ハ慶長年中  権現様御代と成被
仰出
(おうせだされ)候ハ、向後の儀御領拝領に限らず、或ハ旱損、風損又ハ
水出抔して田畑損毛、米穀等減少の次第を委細に

云上可仕旨
(ごんじょうつかまつるべきむね)被仰出(おうせだされ)候を以、唯今に至り国主殿之方(ほう)、又は
御代官衆中より書付ヲ以、公儀の御勘定所へ御訴へ被申上
(もうしあげられ)
候御作法ニ候得ば、明細に相知る事ニ候を以、公儀より其節
御手当を被遊
(あそばされる)ニ付、万一古来より申伝へ候如く成天災の
飢饉年抔廻り来り候ても、万民其災難に遭
(あい)て死亡仕
るごとく成儀とてハ決して有之
(これある)まじき様に被存(ぞんじられ)候と
なり



32                          目次
       武士勝手噂之事
問て云、当時の儀ハ諸大名方を始、其外諸御旗本衆
又ハ家中を限らず、十人が九人迠ハ勝手をすり切、手前の
宜敷
(よろしき)武士、と申てハ稀成(まれなる)ごとく有之(これあり)候ハ、以前より如此成

(このごとくなること)ニ哉。 答て曰、惣(そうじ)て乱世ニは大身小身によらず武家に
身上のならぬと申者無之
(もうすものこれなく)、町人、百姓、出家抔申類ひの
輩には悉く貧窮仕
(ひんきゅうつかまつ)る物の由也。 其子細を申に、乱世に
ハたとへ小身たり共武士とさえ有之
(これあり)候得ば、其の身の分上
相応にハ人の用ひ勢ひも在由候。 増て哉
(ましてや)国郡の
主共備り給ふ人々の儀は、頗
(すこぶ)る権威盛にましますを以
国民共の尊敬も治国とハ格別に有之
(これある)事ニ候。  拝領内之
町人百姓の儀も乱世には、他国掛の売買とてハ決して
不罷成候、 其家中の諸奉公人とても軍立陣用意斗
(ばかり)
を宗と致し、我、人共に栄耀ケ間敷
(えいようがましき)義ハ好ミ不申(もうざず)ニ付

自ら其所売買とても無之
(これなき)ニ付、金銀多く持たく
思ひたる者共とて置所を気遣もうすきかと有、分別
を以て御用次第と申て、我も人も差出し候ごとく在之
(これある)ニ付
国郡の守護たる人々の手前へ領分中の金銀は悉
く寄集
(よりあつま)り申物の由也。 左様成時節の儀ハ家中諸士
之儀も我、人共に先
(まず)今日の儀ハ自命恙(じめいつつが)なしと云共、唯明日
にも戦場に於て討死を可遂
(とぐべき)も難斗(はかりがたき)、と世間をはか
なく存るを以、来年の暮に至り無相違返済可致
(そういなくへんさいいたすべく)
など有之
(これある)如く成証文を調へ、判形(はんぎょう)などを致して人の
物を借り候と有ハ油断の至り、大きなる恥辱と存るを

以、自ら身上相応の暮しを仕り、其上に用金の少しも
腰をはなたぬごとくにハ仕るにて候。 治世の武士の儀ハ
貴きも賎きも太平の御代と有を頼ミに致し、心に
もゆるミ栄雅のすすミも出来候沙汰、身上不相応成
暮しを仕るに付てハ、主人より給る恩給斗
(おんきゅうばかり)にてハ事
足不申
(ことたりもうさず)故に、人の物をかり調へて事の間を合せ、 其金銀
には利足を添て返済致すごとく有之
(これある)を以、跡引と
罷成、 段々と借金もかさね、後ニ跡へも先へも不参様
(まいらずよう)(なり)
大すり切には罷成事
(まかりなること)ニ候。 左様の勝手向となり下り候にて
ハ借物等の返済も不罷成
(まかりなず)候ニ付、口入加判を致したる者ニハ

難儀をかけ、人に損を致させ、夫を何共不存
(なんともぞんぜず)と有ハ武士
の本意に非らず。 爰を以、世俗の諺にも貧すれは
鈍するとハ申候間、 此趣を能々(よくよく)分別致して、何程静謐
泰平の御代たりと云共、武士と生れたりし者共之儀
上下を限らず、戦場常在と有之
(これある)四文字を常に頭に
さしはさミて身の栄雅を好まず、貨疎貨朴を
宗と致し、おほくも少くも主人より給る所の恩給を以
渡世可仕
(とせいつかまつるべく)とさへ覚悟を極め候におひてハ、さのミ手前
をすり切可申
(もうすべき)様無之(これなく)候。  然に於てハ武士の本意を
失ひ申ごとくの仕合
(しあわせ)と可罷成様(まかりなるべきよう)も無之(これなく)候。就中(なかんずく)近年に

至り大身小身の武士の勝手をすり切候と有之
(これある)ニ付
子細有事に候。 其故いかんとなれば.元禄年中米直
(こめねだん)高直(たかね)ニ成候を以、其以前百石の知行米を払ひ金子
百両仕候手前へハ、金子の弐百両も其餘も取込候様成義
二三年が間も打続有之
(うちつづきこれあり)候を、何れも如此(このごとく)なる直段にて
可有之
(これあるべき)との了簡(りょうけん)に違ひしより、事起りて以前より在来家(ありきたるいえ)
をも作り広ケ、家内の人をも置増し、其外以前無之
(これなき)
事共を仕初め、分限不相応の暮を致し候処に、おもひ
の外に米の直段等も下り候ニ付、金子高も減し候を以、
勝手向大きに違ひ候得共、成暮之儀ハまたケ様にも

有まじき抔とたのミを仕り居申処に、弥
(いよいよ)米も下直に
成候より以後の儀ハ跡引と罷成、夫借金などもかさミ
候て大すり切とハ成申たるに紛れは無之
(これなく)候と也。 惣じて
我若年の頃まで大名方の中にハ不勝手成
(かってならず)と申てハ
無之(これなく)、たとへ勝手の成不申
(なりもうさず)をも随分と世上に取沙汰
の無之様
(これなきよう)ニと家来共相働き、夫ニ付てハ家中侍共迠も
勝手すり切と有ハ恥辱の様ニ相心得とやかくと致
すふりあひ(振合)を仕るごとく有之
(これあり)たる事に候也


33                        目次
       留守居役之事
問て云、今時諸大名の家々に於て留守居役と申て
在之
(これあり)候が何(いつ)の頃より始りたる儀と被聞及(ききおよばれ)候哉。 答て云

我等の承及びしハ  台徳院様御代、薩摩中納
言殿被申上
(もうしあげられ)候ハ私の領地大隈、薩摩の儀ハ遠国故、御
当地の儀の相聞候と有ハ、時により餘多
(あまた)数日を懸り候ニ付
差当りたる御奉公向の間にハ合不申
(あいもうさず)候。 就夫(それにつき)私在国
の内ハ家老共の中壱人づつ、留守居として御当地に
差置、万一何変の急用等も有之
(これあり)候節ハ、右御留守居の者
罷出
(まかりいで)、私名代として御用等をも被仰付(おうせつけられ)次第に相勤候様
ニ仕度と有之
(これあり)候段、則(すなわち)上聞に達し、御満悦被遊(ごまんえつあそばされ)候由にて
願申被上
(ねがいもうしあげられ)候通、被仰付(おうせつけられ)候処に然るにおひてハ、右留守
居役の者の儀、御城内之御様子も及見罷在候様に

仕度と有之
(これある)ニ付、則(すなわち)御目見等をも被仰付(おうせつけられ)候由。 去に依て
唯今に於て留守居家老の御目見と有之
(これあり)候ハ薩州の
家に限りたる儀ニ有之
(これあり)候と也。 然共平常国元土産を献
上致し、或ハ御目書、奉書等御渡の節義ハ、留守居
家老共の罷上
(まかりあがり)候ニは及び不申(もうさず)候間、 誰にても外(ほか)の侍共
を差出し候様にと有之
(これあり)候。 初の程ハ家中の侍共の中より
順番に相勤候処ニ、餘多の侍共の中に勝
(まさ)れたる不公儀
者抔も有之
(これある)ニ付、後々には其人を定めて差出す
それを名付て御城役共申、又ハ聞番役などととなへ、初
小身成大名方ニてハ其者共を留守居役共申候と也

同く問て云、其頃御城役、聞役などと申たる面々の勤方
又ハ仲カ間寄合抔
(なかまよりあいなど)申儀、其節も唯今の通りに有之(これあり)
たる事に候哉。 答て云、留守居役人の組合、寄合等之義
成程其節より有来ル事ニは候得共、少はかわりたる
様子も有之
(これあり)候。 子細ハ其時代の留守居共の組合と申ハ
其屋敷宛ニおひて、主人と主人の間柄むつましく
常に出会等も有之
(これある)衆中の家来共申合て組合を定
め候。 大方ハ其仲ケ間七八十人斗
(ばかり)より多き組合と申ては
無之
(これなく)候。 其子細ハ其家に於て聞役をも相勤候者之儀ハ
上屋敷長屋住居之義ニ候得ば、座敷抔申ても手せまく

候ニ付、人数多くハ罷成不申
(まかりなりもうさず)、右寄合之節の振舞(ふるまい)等の
義も互ニ申合、 一汁三菜の内、汁ハ精進ニ仕り、三菜の内
一菜ハ必精進物に致候ハ、互ニ主人の用事ニて寄合申
儀ニ候得ば、たとへ手前不叶
(てまいかなわず)精進日と有之(これあり)候ても、寄合を
(かか)せ候と有之(これある)に於てハ、不仕(つかまつらぬ)ごとくの申合せに付ての儀也
扨、主人ニよるハ右之寄合日に至り、上ハ料理ニても罷成候とて
なる魚鳥の類一種、其外ハ茶、酒抔を給り、料理人
茶坊主抔ハ、入用次第召呼て仕候様成義共に、何
(いず)れも
留守居仲ケ間の申合に有之
(これあり)候由也。 去ニ依て、廻状等之
儀も右組合仲間の外には決して廻し不申
(もうさず)、主人への

聞に達し心得ニも可罷成
(まかりなるべき)と在之(これある)儀ハ格別、其外虚実
もしれざる世間沙汰の無益成事をハ、廻状に書のせ申
間敷旨の申合等有之
(もうしあわせこれあり)候也。 ケ様の儀ハ尤軽き事なる
も時代も隔て候儀故、能々
(よくよく)覚へずして何事を申哉らん、
との御疑も有へき間、 我等若年の時の義ながら慥
(たしか)ニ能(よく)
存知たる義を申ニて候。  其家々へ被尋
(たずねられ)候ハハ能知可申(よくしりもうすべく)
其節桜田辺に於て留守居の組合八人有之候ハ、丹羽
左京太夫殿の留守居植木次郎右衛門、内藤豊前守殿
同鈴木与左衛門、小出大和守殿同篠山又右衛門、金森長門守殿
同水野嘉右衛門、松平周防守殿同南弥五兵衛、仙石越前守殿

同井上市郎兵衛、浅野内匠頭殿同井口与三兵衛、浅野
因幡守殿同徳山四郎左衛門 以上八人の組合ニ有之
(これあり)候也
(さて)、其節の留守居の勤め方と申ニ付て、我等の覚候ハ或夜
中、余程強き風の吹たる義有之
(これあり)。 其翌朝ニ至り金森殿
留守居水野嘉右衛門方より組合仲間へ廻状出し候は
昨夜中の風ニて此方の屋敷、虎の御門の方へ向候表門
の扉、三四拾間悉く吹倒し候ニ付、長門守留守の中
其上表通りの儀ニも有之
(これあり)候得ば、今日中ニ掛直し申度(もうしたき)
間、 御手大工弐人ニても三人ニても人足之儀ハ如何程成とも
被差納
(さしおさめられ)(たまわ)り候様ニとの儀ニて、七ケ処の屋敷屋敷より大工

人足共に罷越、其日の晩方には悉く屏をかけ、色
迠も塗仕申たる儀有之
(これあり)。 次ニは其頃留守居仲間
兼ての申合に、極月の儀ハ互に用事多くも有之
(これあり)候間
定式の寄合之儀ハ仕間敷
(しまじき)との事ニ候処、季冬の廿三四日
の頃、松平周防守殿留守居、南弥五兵衛方より廻状を致し
急ぎ面談不申
(めんだんもうさず)候てハ叶ひ不申(もうさぬ)用事有之(これあり)候間、来ル廿五日
被寄合給
(よりあわれたまわ)り度(たき)との儀ニ付、何事哉らんと何れも急ぎ打寄
候処に弥五兵衛申出候ハ、各御出給り度と申入候儀、別儀に
あらず、旦那在所石州浜田より当暮
(とうくれ)爰元入用之銀子を
大坂に差登
(さしおぼら)せ候処、かハせの金子請負の町人方ニ相違之

儀在之
(これある)由ニて、少も相渡し不申(もうさず)ニ付、当家中之者共に年を
とらセ可申
(もうすべく)様も無之(これなき)とて、其筋之役人共大に難儀仕る
事ニ候。 更に付ては旦那用事共に差支
(さしつかえ)難儀ニ及び候間
何卒可成
(なるべく)義ニ候ハバ、金子五六百両ほど才覚(さいかく)あられ給(たまわ)り度と
の儀ニ付、仲ケ間之者共申候は、我等共儀左様之事とハ
不存寄
(ぞんじよらず)、何様の儀ニても有之(これあり)候哉と乱れ致て参たる
ニ付、夫程の儀ハいかにも可成事
(なるべきこと)ニ候とて、料理迠候て何れも罷
(まかりたち)、金森殿御留守居、水野嘉右衛門方へ打寄、出金之割合を
(き)め、翌朝ニ至り金子六百両之支度を調へ弥五兵衛方へ
もたせ遣し候処ニ、大晦日の暮前に至り、只今のかハセ金相

渡申候時分柄故、返済仕候由ニて、弥五兵衛方より役人を
相添持たせ遣
(つかわし)候を、我等子細有之(これあり)(よく)覚へ居申事ニ候。 
ケ様の儀を以、相考候得ば、其時の留守居仲ケ間は今時之留守居仲ケ間之
勤方は違ひ有之事と存候也



薩摩中納言 薩摩守島津忠恒(1576-1638)、家久と改名
丹羽左京太夫光重(1622-1701) 二本松、十万石
金森長門守頼直(1621-1665) 飛騨高山 三万七千石
松平周防守康重(1568-1640) 嫡子康映の時代か? 石見 五万石
仙石越前守政俊 父忠政(1578-1628)信州上田 六万石
小出大和守吉英(1587-1666) 但馬出石 五万石
浅野因幡守長治(1614-1675) 備後三次 五万石
浅野内匠守長直(1610-1672) 播州赤穂 五万三千五百石
内藤豊前守信照 1627年陸奥棚倉 五万石


落穂集巻5終