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これより写本を変更して底本とする 公文書館内閣文庫No.170-83)

34                              目次 
                
落穂集巻六  
        以前大名方家風の事
問て曰、前々の儀は御当地諸大名方の家風共に万端手軽き事に有之
たると申候ハ其通りの義に有之候哉。 答て曰、我等若年の頃迠ハ質疎成
様子共に有之たるかと覚申候、其節ハ定めて世上共に左様の義にて可有之
候得共外々の義を委細に可存様も無之候。 我等子細有之て慥
(たしか)に能(よく)存た

る義と可申候。 其時代に浅野因幡守殿と申候人ハ備後の国の内江曽・三次
と申両郡を領知あられ、唯五万石の身上にハ候得共、元来松平安芸之守
殿家分れの義を以、外々の五万石取に合せてハ万事の様子も実ハ
手重き方に有之候が、表門の番人をば弥之助と申て妻子を持、門の明ケ
たてハ不及申
(もうすにおよばず)、掃除等迠をも唯壱人にて相勤申如く有之候。 或時弥之助
番所に居合不申
(いあわせもうさぬ)刻に小出大和守殿御入来あられ候得共、弥之助が女房走出
門を開候得者、大和守殿にハ弥之助他行か、お内儀大儀と笑ひながら御
申候を我等子供の時、側にて能
(よく)承りたる事に候。 其後妻子持の番人
不可然
(しかるべからず)と有之、弥之助義ハ止メに成、足軽壱人と小人壱人ツツ召出相勤候
如く有之候処に、酉年の大火の節因幡守殿屋鋪も類焼致しその

後普請出来移転の節より門番足軽も三人ツツと相定り、若も振廻客
(ふるまいきゃく)
抔と有之候得ば徒壱人ツツ上番として召出相詰候如く罷成候也。同
問て曰、今時諸大名方の家々に於て昼夜共に上下を着し候輩を
ハ、常肩衣衆様と申てすべ(術)宜敷
(よろしき)様に有之候ハ已前よりの事にて
候哉。答て曰、我等若年之節より御老中方、若年寄衆、寺社奉
行衆方の家老、用人抔の義ハ昼夜共に常肩衣にて相勤申如く
有之候を覚申候。其外にハ国郡の守護たる大名方の家老、用人、重き役儀
の者たりとも常に上下を着し候と有之義ハ無之、肩衣をば持参して
面々の詰所に差置申如く仕事済申候処に、大火年少シ前の事にて
も有之候哉、右因幡守殿家老共を呼被申候ハ、近頃ハ我等身上格

合の衆中の玄関にも取次役の者共にハ肩衣を着せ被申候間、此方に
て左様に申付候様にとの儀ニ付、池田次郎左衛門、松村孫太夫と申侍両
人を以初めて常上下を着せ取次役に被申付候。 夫より已前の儀ハ
桑原甚太夫、山岡庄太夫と申小身の士、両人にて玄関の定番を相勤候
所に山岡儀ハ就中小身の不勝手者に有之候が手もミに仕紙衣着
物に黒き半襟を掛ケて是を着し、古き袴にて歴々方御出の
送り迎をも致し候をハ我等能覚居申事にて候。 今年よりハ七十五六
年斗り已前の事に候也


常肩衣  裏付き上下
浅野因幡守長治(1614―1675)備後三次五万石
小出大和守吉映(1587―1666)但馬出石6万石

                       目次 
          莨菪
(ろうとう)始りの事
問て曰、世上に於て貴賎上下共にもてはやし候たばこの義ハ上古にハ
無之物にて近来の流行物に有之候由。其元にハ如何被聞及
(いかがききおよばれ)候哉。 答て曰、
我等若年の頃或老人の物語仕候ハ、多葉粉
(たばこ)と申ものハ古来ハ無之候処に
天正年中切支丹宗門と申事の世に広がり候時節より、淡苞菰
(たばこ)も初
り候と也。 然れハ元来ハ南蛮国の産の草抔にても有之候哉、以前の
義ハ喜世留
(きせる)抔を張申候細工人も稀に候故か、直段(ねだん)等もむつかしく末々の
者ハ求申義も成兼候ニ付、竹の筒の跡先に節をこめ籠大小に穴を明ケ
先の方を火皿に用ひてたばこを詰、吸申如く有之候と也。 其元ハ西国
筋より流行出し、中国、五畿内にても我人もてはやし候得共、関東筋
にてハたばこを給
(た)べ候と有之義をば誰も不被存(ぞんぜざる)如く有之候所に、いつ
の程にか段々と流行出、喜世留
(きせる)を仕細工人抔も多く成候を以て、竹の

筒喜世留
(きせる)抔申物もすたり候と件(くだん)の老人の物語仕たる事に候。 然らハ多
葉粉
(たばこ)の流行初めと申ハさのミ久敷(ひさしき)事の様にハ不被存(ぞんじられず)候也。同問て曰
いつれの  御代の儀にも有之候哉、多葉粉
(たばこ)を作り候義を諸国共に
御法度に被 仰出御城内にて多葉粉を給
(たべ)候義かたく御制禁被
仰出候と申触候ハ其通りの義に有之候哉。 答て曰、我等抔の承及候た
ばこ御制禁の儀ハ
台徳院様御代の儀に有之候由。たばこを作り申間敷旨
(もうすまじきむね)諸国へ被 仰出候を
以て、向後御城内に於て諸人煙草を給候儀堅く御法度に被 仰出候
由、其砌
(みぎり)の義にも可有之候哉、御城にて御番衆の湯呑所え各被寄集(おのおのよりあつまられ)
多葉粉を呑罷居候処へ土井大炊頭殿御老中の節、不斗
(ふと)御越の義有

之、何れも仰天致し手毎にたばこ道具を取隠され候を大炊頭殿
見給ひ候ニ付、御番衆に其御襖
(ふすま)を建被申(たてもうされ)候様に被申(もうされ)、着座あられ唯
今何れもの御呑候を我等えも御振廻
(おふるまい)候様にと御申候得者、何れも迷
惑被致
(いたされ)、兎角の挨拶も無て赤面の躰にて罷有候所に再三所望ニ付、
無是非
(ぜひなく)袖の内、腰の中の瓢箪入几世留(きせる)を取出し被差出(さしだされ)候を、大炊頭
殿御取候て二三服御呑候て、不存寄
(ぞんじよらず)珍ら敷物を給(たべ)過分に候とて
座を御立候が又立帰り給ひ、今日の義ハ手前も同前の事に候
重てよりハ必御無用ニ候  御上に於て殊の外御嫌ひ被遊候事に候
と御申あられ候ニ付、其段内々の申送りと成、其已後湯呑所の
多葉粉
(たばこ)ハひしと相止ミ候也

36                         目次 
         肥後国守護職の事
問て曰、いつの頃の儀にて候哉  公方様の御機嫌大に損し其
日に限り御城内にて御用多候て、頓(やが)て七ツ前迠御詰候て退出あられたる
御老中を急に被為 召
(めしなされ)、何れも早乗物にて俄に登城有之候を以
て、末々にてハ大に肝を潰し候義の有之たると申候をば如何に被聞
及候哉。 答て曰、其儀を我等の承及候ハ
大猷院様御代の儀に有之候由、子細ハ其節加藤肥後守殿身上
(しんじょうはて)候已後、国主の被仰付も無御座候以、誰人が拝領可被致(いたさるべき)
有之江戸中の諸人聞耳を立、是のミを取沙汰仕候。 折角御城に
於て御用の義有之、其御席に肥後の国主の御撰ミの御沙汰御

座候由。 ケ様の御用の段の義にも有之候哉、いつ迚も御老中方にハ八ツ時をさへ
打候得者其侭御下りの所に、其日七ツ頃に至り何れも御下り候処に、御側衆
より御用の儀有之候間、唯今登城可有之旨申来り候ニ付、大炊頭殿に
ハ帰宅あられ上下を御取、留守中の用事抔聞て御入
候処へ被為
(めしなされ)候との儀ニ付、早々仕度を調へ屋鋪の門外迠出給ふ所へ御小
十人衆走来り、急御上り候様にとの事故、夫より早乗物にて登
城有之候。 外の御老中方ハ御上り候得共、井伊掃部頭殿少遅く候を
何れも御待合候内にも未
(いまだ)揃不申(そろいもうさず)候哉の旨御尋抔有之、其已後御老
中方各  御前江御出の処   公方様にも殊の外御不興
らしき御様子に御見へ被遊、何れもへ御向被遊、其方共を呼寄候儀

別事に非ず、最早我等天下の仕置はならず候、此段を何れもへ可申聞為
(もうしきかすべきため)
なりとまでの   上意ニ付驚入兎角の御請も無御座所に大炊
頭殿、夫ハ如何成思召を以ての  上意に御座候哉と被申上
(もうしあげられ)候得者
其時   上意被遊候ハ今日各中え申談たる肥後の国主の義
は近き内に可申渡義成を先達て其者の方へ告しらするにハ不及義成り、左様に
内談の事がもれ安くしてハ我等天下の仕置の可成
(なるべき)かと  上意有之けれハ
大炊頭殿被承、其義に於てハ恐悦の至り目出度御事に御座候と被申上候へ
ば、弥(いよいよ)御機嫌悪鋪被 為成、大炊頭殿江御向ひ被遊、其方ハ内談の外へ漏れ
安きと有を目出度と申候が夫ハ聞所也、其子細を申せと有之
上意にて、大炊頭殿被居候処へ御座を御詰寄被遊候を以、掃部頭殿を初め

御老中方何れも胸を冷され候処に、大炊頭殿少も騒がず被申上候ハ、是に罷
在候同役共何れも存候通り、何ぞ是ハ急に相触不申して叶不申
(かないもうさず)と有之
如く成御用向抔有之節、詰番の諸番頭、諸役人共へ申渡、随分急に
相触させ候ても、其日の内抔にハ末々迠触届候如くハ成兼
(なりかね)申儀に御座候。
肥後国守護職の儀ハ誰にて被仰付と有之儀を下々に於ては諸人
聞耳を立罷在候処に、私共儀ハいつとても八ツの御太鼓さへ鳴候得者罷下り
候を今日の儀ハ彼是御用も多く、頓(やが)て七ツ頃迠御城に罷在候ニ付、
(さて) 肥後国の国主相極り(あいきまり)候か、と推量仕存るに於てハ細川越中守より
外にハ無御座
(ござなき)と江戸中の取沙汰にハ及ひ候と存候。 然ば上御壱人の思召
と下万人の存寄と一同仕候儀ハ、恐悦至極の御事に候を以て目出度

御儀とハ申上候。 惣て私儀は毎日両人宛内々にて江戸中物聞を差出し申候処
に、私儀未だ御城に罷在帰宅不仕内、右両人の者共罷帰り壱人ハ芝札の辻
辺、壱人ハ牛込辺に於て細川越中守江肥後国拝領被仰付
(おうせつけられ)候哉、と有
之義を承り候由書付仕、用人共迠差出候と有之。 右両通の書付を被
差上
(さしあげられ)候得ば、則 上覧被遊、いささか御機嫌も御和らぎ被遊候刻、井
伊掃部頭殿、大炊申上候通りに私躰も奉存
(ぞんじたてまつり)候と御挨拶被申上候得ば、御
笑ひながら何れもを呼寄る事にてはなかりつるに早々罷帰り休足
仕候様にとの  上意ニ付各帰宅あられ事済候と也。 同問て曰、
肥後国主を被 仰付候に於てハあながち細川殿斗
(ばか)りに限りたる
儀にても有之間敷所に、越中守殿斗りを差詰の様に取沙汰仕た

るハ何卒子細も有之事に候哉。 答て曰、其儀と我等承伝候ハ越中守殿
其節迠ハ豊前国小倉の城主にて、御入候処に或年領分大旱して
百姓共当分の食物にも難儀致し、況や来作の夫食
(ふじき)等の手当ハ
少しも無之と有義を役人共相達候得ば、越中守殿殊の外苦労
に被存候得共、只大方の義にてハ事済不申
(ことすみむさず)に付、親父幽斎已来相
伝たる名物の茶入を近習の侍両人に為持
(もたせ)て京都え被差越、是
を質物に遣し金を借候分にてハ事足り申間敷、少し成共直段
(なるともねだん)
宜敷売払ひ申様にと有之、上方え持参致し候処に調度望
(ととのえたくのぞみ)
者共ハ餘多有之候得共、此茶入の義ハ天下の名物の義故、内々にて
ハ売買ハ如何と有之所司代え相伺候処に、板倉殿御申候ハ其肩

(かたつき)の由緒ハ共あれ、当分の持主の儀ハ越中守殿にて有之候処に金
子の入用に付て被売払
(うりはらわれ)候に就てハ別儀無之間、望の者ハ心次第に
可調
(ととのえべき)義可成(なるべし)。 但此茶入の義ハ我等名をば聞及経に見たる事
なし。 弥
(いよいよ)求代物等取遣り相済候に於てハ一覧可有との義
にて事済。 両人の侍共ハ金子を請取大坂表え持下り、米大豆麦稗
其外何によらず農人共の食物共可成類
(なるべきたぐい)の諸色を右の金子
限りに買調、船に積小倉の城下へ着岸候。 已後、其穀物を悉く
領分へ割与へ被申故、飢に及びたる農人共力を得作業に
取付候也。 此義を世上に於て大に取沙汰仕、向後共に国郡に主た
る人の能
(よき)手本に候抔申て、越中守殿を世間にて誉事ニ仕候

を以て、今度肥後の国主にハ細川殿より外にハ有間敷抔人々申触
候となり。

加藤肥後守忠広(1600-1653)清正嫡子1613肥後54万石継ぐ、1632改易、出羽へ配流、酒井忠勝預かり
細川越中守忠利(1586-1641)忠興三男、幽斎孫、小倉藩主、1632熊本藩主

37                 目次 
     御成先御目見の事
問て曰、以前の儀ハ   公方様御成の節御直参衆の儀は
御成先江参り掛られ次第に家来共をハ片付、其身の儀ハ
御目通りに蹲踞
(そんきょ)被居候ても不苦御法に有之候処に、其已後は停止(ちょうじ)に被
仰出候と有之候ハいつ頃よりの義に被聞及候哉。 答て曰、我等の承候ハ
権現様   台徳院様御当代の義は不及申
大猷院様御代始の頃迠も已前の通りに有之候処に、其以後
御成先の御目見之儀御停止ニ被 仰出候由。 其砌
(そのみぎり)の義にても有之候哉

上野江御成の刻、神田橋御門外町家通りに御旗本衆壱人蹲踞被
居候処に、牧野佐渡守殿若年寄の節、御駕籠の御左の方に御供あられ
候が、扨々当年の鴨は早く参り候と被申上候得者、御堀の方を御覧被
遊あれハ黒鴨也、真鴨にてはなしと有  上意を佐渡守殿被承、いや
真鴨にまがい無御座候と被申上候得者、真鴨と黒鴨とを見分ざると
有之  上意にて御笑被遊候ニ付、実にも  上意の通り能見申
(よくみもうし)
候得ば真鴨にては無御座候と被申上、何かと御咄しの内に御駕籠も参
過候と也。 扨上野江着御被遊、御本坊江被為入候已後、御右脇の方
に御供被申たる御側衆、佐渡守殿江被申候ハ、先程神田橋御門外に
於て先日御停止に被仰出候  御成先の御目見を被致たる仁有之。

御徒目付衆も見咎められ候と相見へ、其仁の傍へ立寄吟味被致候様子
に有之候間、定て名抔も聞届置可被申
(ききとどけおくべくもうされ)間、御呼あられ御尋可有之哉と
被申候得ば佐渡守殿被申候ハ、されハのことニ候手前義も神田橋
の御門外橋より見掛気の毒に存候処に、其節御堀の内に居申候
鴨の義ニ付手前と何も  上意被遊候内に御駕籠も参過候を
以て御目障りにも成不申、殊更当山え  御成候にも候得ば最
早其通りの事ニ候。 其仁の名も承にも及不申
(およびもうさず)候と佐渡守殿被申(もうされ)
済候と也。 小身成大御番衆にて有之候と也


牧野佐渡守(親成1600-1670)譜代関宿藩主、1640書院頭、1650京都所司代

38                    目次 
       東叡山寛永寺の事
問て曰、東叡山寛永寺御建立と申ハいつの頃、何れの
御代の儀と御聞及候哉。 答て曰、我等の承及候ハ元和九年
家光将軍様御代御建立の思召に有之、其翌年寛永元年より
御普請ハ始り、開山ハ日光山の別当天海大僧正、惣奉行ハ土井大炊
頭殿の由。 関東御入国の節江戸府内にハ天台宗門の寺院とてハ
外に無之(これなし)、 浅草寺の義ハ古跡の義たるを以て、御祈祷所に被
仰付候得共今度新に御祈願所にと有之、寛永寺を御建立の上にハ
向後御城内平日の御祈祷共に東叡山に於て御執行被仰付べく
との義に御座候と也。 仍之
(これによって)上野一山坊数の義も浅草寺に准じ三
十六坊に可被遊と有之候に、浅草寺の義ハ其節迠無縁地とハ申ながら
千年に余りたる古跡たるを以、山伏同然の妻帯坊主まじりに

三十六坊立来申候、 東叡山の義ハ新地の事に候得ば如何
(いかに)公儀よりの御建立
地ニ有之候ても、三十六坊の寺院旦那なしにて罷立申様ハ無之候ニ付、其節
の惣奉行土井大炊頭殿御申候ハ、東叡山義ハ天下安全の御祈祷の
為と有之、思召を以て公儀より今度御建立の義にと有之候得ば、御
当家の御恩沢を蒙り被申
(もうされ)たる国主、郡主方に於てハ誰にても天下安
全の御祈祷に御疎意可被申様
(そいもうさるべきよう)ハ無之旨御申と有之義を、世上にても聞
及び、是ハ大炊頭殿御申の通り尤に候、慶長五庚子年より以来
御連枝、御家門方を始め、御譜代大名衆の義ハ不申及、其外国郡の
主たる外様大名衆迚も     東照宮の御余光を以て
御当家御代々の御恩沢を蒙り、家門繁栄の義なれハ
益(ますます)天下

御安全の御祈祷に於テハ、各
(おのおの)致し上られ内の儀成と有之。 就中御三家
方、松平伊予守殿儀ハ格別と有之、上野の地内に於て最初に院地
の割渡し抔申付有て早速寺も建
権現様の御影をも御安置あられ、天下御安全の御祈祷并家運
長久の祈祷をも御修行有之候をば、尤と有之より事起り外々の
国主方にも一院宛建立にて寺領等をも寄付あられ候と也。其後
台徳院様御他界被遊、増上寺え被為入
(いりなされ)候ニ付、諸大名方にハ供奉
予参の時の為と有義を以て、各増上寺に於て宿坊と申義ハ初り
申候。其後迠も東叡山中の院々をば祈願所と斗り唱へ候所に慶
安年中    大猷院様御他界被遊、御尊骸の儀ハ日

光山江被為入候得共、御当地東叡山にも御仏殿御建立被仰付、諸大
名衆の参拝も有之、 御成等の節供奉予参の儀も始り候ニ付、幸
右の祈祷所を以て装束の着替所にと有之より事起りて、今程ハ其
院主を初、願主方の家々に於ても宿坊と斗
(ばか)り唱へ申如く有之、天下
御安全の御祈祷所之沙汰ハ脇へ成候如く有之候也。 同問て曰、東叡
山中の寺院に限り、天下御安全の御祈祷を執行仕筈と有之に
付てハ其子細抔も有之事に候哉。 答て曰、当時日本国中の寺院
本末大小を限らず、御当家御代々の  御尊牌、仏壇に立
置朝夕拝礼を勤、又ハ  御代御長久の御祈念を仕と有ハ是皆
国恩を報謝し奉るの儀也。 唯今増上寺内に於て諸大名方之宿

坊数十軒有之候得共   権現様の御尊像安置の寺
と申てハ無之候。上野一山三十六坊の中に御尊像の無御座寺と申てハ
壱軒も無之如く有之候。右申通りに寛永年中東叡山御初開の節
より天下御安全、御当家御武運長久の御祈願を以て御建立被遊候ニ付
ての義也。爰を以て考へ候得ば寛永寺の義ハ天下御安全の御祈祷
所の根元とも可申候也。

39                       目次 
        不忍池弁財天の事
問て曰、唯今の不忍の池中嶋の義ハ已前より有来りたる事に候哉。 
て曰
、右中嶋の義ハ我等承及候ハ東叡山開ケ候已後、天海僧正と水
谷伊勢守殿義ハ入魂
(じっこん)に有之候。或時僧正の方へ水谷振廻(振舞)に被参

候節、伊勢守殿被申候ハ当山の義ハ都の叡山に准じ候得ば、東叡山と名
付られ候所に不忍の池有之候ハ幸の義に候間、池の湖水に准じ候得ば
中嶋を築、竹生嶋を移し弁天堂を建立あられ候ては如何と也。僧
正聞給ひて夫をこそ我等も願候得共、池水殊の外深く中々築立
られ候事にてハ無之由
(これなきよし)諸人申ニ付、先其通りに致置候と也。 伊勢守殿
被申候ハたとへ何程の水底深きにも致せ、小嶋一ツ斗り築立候と有は
いと心易き事に候、幸ひ此度浅草川除の御普請被仰付
(おうせつけられ)、下館
より人夫を餘多
(あまた)呼寄置候間、右の御普請相済次第直に池中の嶋
普請可申付間、十日斗りの間人足共の罷在所と土取場を当山の
中にて御差図あられ候へ、と有之候得ば大僧正被申候ハ人足共の居所

の義ハ何程成共、寺中に於て可申付候。 惣て寺院方の山門先の場広
(ひろくなる)ハこのましからぬ事に候間、池の端より上手の山の土をば如何程成共入
用次第に御取らせ候様にと有之。其間に御普請も相済候ニ付、浅草
川より舟を持入十日斗りの間に小嶋を築立、弁天堂をも伊勢守殿
建立被致
(いたされ)候と也。 其節伊勢守殿御申候ハ、諸人参詣の為弁天繁昌
の為にて候得ば、陸続に可申付哉と有之候得者、大僧正聞給ひて陸
続きと有ハ不宜
(よろしからず)候、竹生嶋に准じ船にて往来致たるが能(よく)候と御
申候と也。 右ハ水谷殿家来太田休庵物語也。去に仍て遥かの後
迄も(船ニて)往来仕たる事に候也


水谷伊勢守勝隆(1597-1664)常陸国下館城主、五万石、後(1642)松山へ転封
不忍池中嶋 寛文の末(1670)木橋が掛かり陸続きとなる

40                            目次 
        板倉伊賀守殿の事
問て曰、板倉伊賀守殿、京都所司代役御断被申上
(おことわれもうしあげられ)候節、其方跡役を
可勤
(つとむべき)と存寄たる者有之候に於てハ、書付差上可申旨被仰出候所に、私
倅周防守外にハ私の跡役可相勤者無御座候旨、書付被差上候得ば
其通りに子息、周防守殿え不相替所司代役被仰付候也。 此義を世
間にて申触候ハ如何被及聞候哉。 答て曰、我等承り及候ハ伊賀守殿義
若き頃ハ板倉四郎左衛門と申、天正年中
権現様駿河に御在城被遊候節、彼地の町奉行職被仰付、関東え御
入国已後も御当地の町奉行被仰付候由。 然る処に慶長五年天下
御一統ニ付、京都諸色の儀をハ奥平美濃守殿え御預被遊候已
後、慶長七年    権現様御代四郎左衛門殿え京

都所司代職被仰付、夫より伊賀守殿と申候。大坂冬夏両度の御陣の
節も所々御忠節被申上、元和五年迠十八年が間御役被罷勤
(まかりつとめられ)、次第ニ
老衰ニ付御役義勤兼
(つとめかね)候由、    台徳院様御代御願被
申上候則
(すなわち)右の通りの  上意ニ付、子息の周防守殿義を被書上候得ば
其通りに被仰付を以て、其身ハ堀川の下屋鋪に隠居の躰にて居被
申候処が、元和九年に至り従四位下侍従ニ被任、寛永元年八十才
にて死去被仕候と也。 親父伊賀守殿見立の通り、子息周防守殿
義も三十五年が間、大切成所司代役儀無異儀被相勤、官位抔も
従四位少将に迠被仰付候由承及候也。同問て曰、伊賀守殿義御
子息周防守殿義、縦何程の器量有人にも致せ、諸司代役

と有ハ江戸表の御老中に相並結構成御役儀にも有之所に、親父の身と
して跡役に書出し被申と有ハ如何致したる物に候哉。 尋常の人の
不仕事
(つかまつらざること)に候、其元ハ如何被存候哉。 答て曰、惣して何に寄らず重き物
を荷ひ候に二ツに取分棒の跡先に掛て持候物の義ハ、急火の節抔
人込の中にてハ持兼候を以て打捨申外ハ無之候。 去に仍て是ハ捨る事
のならざると有之大切の物抔ハ、我身に引しめて背負申如く致
捨る事の罷ならざる如く仕、是非不叶時
(ぜひかなわざるとき))ハ其の荷物を背負死
に仕より外にハ無之
(これなし)。 其如く主人の御為と有之に於てハ我身に引
掛、背負申如く有之候を信の忠節の人とは可申にて候。 右伊賀
守殿義は         権現様の御神慮に被相叶
(あいかなわれ)

小身の人を大身に御取立被遊、大切の京都を御預置被遊程の人にて候を
以て、公儀の御為を其身に引掛御大切に被存候ニ付てハ  上の思召、御
老中方の御下墨、世人のおもわく抔有之所へハ毛頭程も貪着
(とんじゃく)
之、自分の存念一通りを無遠慮被申上
(えんりょなくもうしあげられ)たるの如くの様子に被存候。主人
の御為と我為とを両掛に致して荷ひ歩行申如く成者の分別
と、伊賀守殿抔の了簡とハ余程の違ひも無之てハ叶ひ申間敷也


41                       目次 
      以前御当地男女衣服の事
問て曰、御当地に於て貴賎の男女衣服等の儀ハ已前も唯今も相替義
ハ無之候哉。 答て曰、さのミ替りたる儀ハ無之候、但我等の承り伝へたる儀有之候
権現様の儀は不及申   台徳院様  大猷院様

御代迠も御旗本に於て其身御役をも被致
(いたされ)、御城内の部屋々に挟
箱にても包にても被差置候衆中の義ハ格別、其外平御番衆の義ハ
寒き時分小袖二ツ着用の節、下着に浅黄無垢嶋類の小袖抔を用ひ
被申儀ハ曽て不罷成如く有之候と也、 其子細ハ時宜に寄てハ上を下へ着
替不被申して不叶様子成儀も有間敷に非ず、 左様の刻無紋の小袖ハ
上下(の)下に相成不申との吟味の由也、 扨亦熨斗目の小袖抔ハ御直参の
中にても御目見格の衆中迠着用あられ候如く有之候を、諸大名方
の家中に於ても其身役柄次第に着用致し候ニ付、の熨斗目
(のしめ)の小袖
着用の者ハさのミ多くハ無之様に有之たる事と候。惣して貴賎上下
の衣類等ハ我等抔若き頃と引合考へ候得者、唯今ハ美麗
に成たる

様に被存候。 法中に於ても曹洞宗の儀ハ関東三ケ寺を初め、紙子の半
襟を掛すしてハ着用不仕成
(ちゃくようつかまらずなる)如く有之候が、いつとなく夫も相止。 就
中殊の外に様子替り候ハ上下共に女中の帯にて有之候。我等若き頃の女
中帯と申候ハ万の巻物類を三つ割に致し、絹羽二重の類ハ二ツ割と相
定りたる如く有之、就中高田様掛りと申候ハ右の三ツ割を又三分挟ニ
つけ、其端を結びおし込て差置申候如く有之候処に、四十年已前より
巻物類を二ツ割に指類ハ一巾を其侭にして用ひ、後方の結び
目抔をも夥敷
(おびただしく)大に不致(いたさず)してハ不叶如く罷成候と存候。且亦以
前の儀ハ下女の二三人も召連、若党挟箱抔も連候如く成、暦々
者の妻女と相見へ候女中迠も麻のかつきと申物をがぶり、紫の

染革足袋をはきて歩行申如く有之候処に、七十年斗り以来は右の
かつぎと申物をかぶりたる女中とてハ見掛不申。 軽き者の女房娘抔
も乗物に乗不申候てハ不叶如
(かなわざるごと)く罷成候、右女乗物の義ニ付我等老父
杉浦内蔵允殿と御心安く有之候が、或日の朝用事の有之早天に
見廻申候処に、玄関の上間に於て何事やらん杉浦殿高声を被致候
間、不審に存其間へ参り、是ハ早朝より何事を被仰
(おうせられ)候哉と申候得ば、内
蔵允殿御申候ハ、其許にも兼て被存候通り我等儀ハ朝起を致すに付
毎朝玄関より座鋪迠を見廻り候処に、使者の間の窓より覗き
見候得ば新しき女乗物有之ニ付、門番を呼尋候処に夜前我等家
来婚儀を整候て、其女の乗来り候乗物の由申候ニ付、其者を初め
家来共を呼出し祝儀を述聞せ申事ニ候。

権現様三河に御座被遊候節、我等祖父ハ知行五百石被下置御奉公申上候
節妻を呼迎候刻、譜代の家来に負木と申物を持せ遣し、女房に
ハかつぎをかぶらせ、件の負木に腰を掛させうしろに負せて呼迎候
由の事ニ候。 然るに我等抔の家来の身として女房を呼候にめつきの
星金物抔打たる乗物に乗せて呼遣候如くなるうつけたるが有
物にて候哉。 去に仍て件の乗物を妻の親本へ送り候共又ハ近所の
町家へ遣し払物に仕候共可致候。 我等の屋鋪内にハ置せ候事不相成
(あいならず)
若又乗物に乗らずしてハ、叶ひ不申の旨女房に於てハ親元江送返し
候共、又ハ夫婦連にて家方を出候共其段ハ勝手次第に致候へと申
事に候、 但し我等の申事を其元にハ無理と被存候哉と、御申付い
ろいろと挨拶致して機嫌を直し、夫より居間へ同道致し候得ば料
理抔出、用事を申談帰り申候と我等へ物語致し候也


落穂集巻六終

落穂集七巻
42                       目次
          乗輿御制禁の事
問て曰、乗輿の儀ハ已前も今時の如く御吟味強く有之たる事
に候哉。 答て曰、唯今迚もと申内に、我等抔の若き頃の義ハ輿の御制禁
別して厳敷有之たる様に覚申候。 子細を申に已前の義ハ御直勤
衆の義ハ格別、大名方の家来共五十有餘に罷成乗輿の御願を
致し候節大家小家に寄らず、其家に於て家老職を申付置候と
有之義を、主人方より御断被仰上候得ば乗物を御免被遊、其外にハ

たとへ高知行取、重き役職を勤候者たりとも竹輿ならでハ御免
無之ニ付、何れも竹輿を渋塗に仕て乗申如く有之。 町人職人等の
義も五十以上に罷成、又ハ法躰抔仕候者ハ御願を申上候得ば右の竹
輿を御免被遊
(おゆるしあそばされる)如く有之、今時の御免駕籠抔申者ハ無之候。 其節も四
座の猿楽共ハ御願を申上、老若を不限竹輿を御免被遊候得共、一同
黒く塗候て乗申義ハ、外々の竹輿に紛不申様にとの義有之候と也。
右竹輿の義ニ付、御代々公儀の御用を相勤候者に橋本甚三郎とやらん
申たる町人御願を申上法躰仕、橋本深入と改名仕候頃、御礼日の事ニ候
所渋紙の竹輿乗、下乗橋迠乗来候ニ付御徒目付中是を見咎、其方
ハ何者なれば竹輿にて是へハ参たるぞと尋候ニ付、私儀ハ御用を承候

橋本深入と申者の由申候得ば御徒目付衆聞かれ、縦
(たとい)御用途にもあれ下乗
迠竹輿に乗、御大法を背き候得ば通し候事はならず、吟味を不遂
(とげず)
してハ不叶
(かなわず)との義ニ付、深入大きに迷惑仕御堀端に蹲踞罷在候所、朽
木民部少輔殿登城あられ深入を御目懸、御徒目付衆えあの者儀ハ何
故此元に居候哉と尋有之候得ば、惣て町人類の者の義ハ何れも大手門外
にて下乗仕候処の義に御座候処に此辺迠竹輿に乗罷越候に付、差控罷在
候様にと申付候由被申立
(もうしたてられ)候をバ民部殿御聞あられ、あの者義ハ近き頃御願
申上法躰の身と成、竹輿に乗候得ばいずく迠も乗候事と心得、是
迠も乗付候と相見へ候。 近頃無調法成事共ニ候。乍去我等狂歌を一
首読候間、此歌にめんじて今日の義咎免
(とがゆるし)被致間敷(いたされまじき)哉、と被申候ニ付
御徒目付衆の義も民部殿御申の事に候得ば何か扨と被申候得ば民部
殿取あへず
   橋本でおりべきものが乗物で深入をして咎められけり
と御申候と也


御免駕籠 医者や町人が奉行の許可を得て乗る自家用駕籠
四座 能の四つの流派、観世、宝生、金春、金剛(巻二神田明神参照)
朽木民部少輔種綱 若年寄(在任1635-1649)
 

43                           目次
P1      嶋原切支丹御成敗の事
問て曰、先年肥前の国嶋原表の儀初めの程ハさのミの義にても無之
事の由にて候得共、段々重く罷成たる由承及候。 其節嶋原守護職
の方油断不調法の様に申触候義ハ其許にハ如何聞及れ候哉。
て曰
、右嶋原と申も程久敷義にて我等未生れざる以前の事に候得ば
存候得共、いかさま其元の御申の通り二葉にして摘切る事いたさざれ
P2
ば斧を用ゆるに至るとやらん申義にも候得ば、いまだ事微少成内に押
寄取ひしぎ候に於てハ、早速事之鎮り候義も可有之事
(これあるべきこと)にて候。 其節
嶋原の城主と申候ハ松倉長門守にて候が、在江戸年の義故留守の
事にて候也。 松倉殿に罷在候者の中に吉岡九左衛門、松田半太夫、木村
弥平次抔と申たる面々とハ我等若年の頃心安く出会仕ニ付、毎
度雑談を承り候処に其砌、地下の切支丹共の蜂起と申ハ至て火
急成事にて逆徒共申合嶋原の城を乗取、楯籠可申
(たてこもりもうすべく)と風聞の
通り寄来り、斧、まさかりを以て城門の扉抔を打破り申と有之候
得ば、城中より厳敷
(きびしく)防ぎ候を以て一揆共早速退散仕候と也。 其砌城
中に於ても地下の切支丹共を討果し申度旨何れも打寄相談致シ
P3
候得共、其節の義ハ肥前の国中悉く切支丹の如く沙汰仕候ニ付、城中に
罷在末々の奉公人の中にも切支丹一味の者共いか程や可有も難斗
(はかりがたく)、若
も左様の者共城外の一揆共と内通致し夜中に火抔付如何様の
悪事を仕出し可申
(もうすべく)哉と気遣ひ、侍分の者共ハ油断なく夜廻り昼
廻りを致し、城を堅固に守り候分別斗に掛り、城を放れ外へ人数
抔の出申が義にてハ無之候と也。 爰を以留守居共の油断と斗りも不被申
(もうされぬ)
事にて候。 其節鍋島殿の家老鍋島安芸とやらん申者、人数を召連
領分境迠押出し候得共私にハ他領江押入難きを以て、豊後御目付衆え
使者を以て相伺候得ば、御目付衆被申候ハ差図を申程ならハ自分も罷
出す候てハ相叶わず事ニ候、然れ共ケ様の時節警固の為共有之処に一
P4
伯殿を差置本役の勤を欠候と有をハ致し難きとの義にて埒明不申
(らちあけもうさず)、其
後長崎の政所えも相伺候処に、ケ用の節ハ此表の守り尚更大切の由にて
是も埒明不申ニ付、夫より京都諸司代え通達し江戸表え御伺と罷成、日数
を経候内に有馬原の要害抔も構へ、切支丹共多く相集り籠城の給
物等をも心侭に支度候ニ付、事六ケ敷ハ罷成候と也。其節板倉周防守殿
より時付の飛脚を以て江戸表江言上あられ候ニ付、御老中方何れも
被仰合朝五時御登城あられ、七ツを打御下の節下乗橋に於て土井
大炊頭殿、松平伊豆守殿江御申候ハ定メて各にハ明朝も早く登
城可有候。手前儀ハ明朝宿元にて相達不申してハ不叶御用向有
之候間、些遅刻の義も可有之候。先程申談候通り奉書等の義をも
P5
御申付あられ、各の御判形抔調置かれ手前罷出次第に判形致し早々奉
書相渡し候様に有之可然との義にて帰宅あられ、翌朝大炊頭守殿登
城有之候処、残る御老中方にハ先達て登城有、伊豆守殿昨晩御申聞
の通り奉書も出来候ニ付、何れも判形を致し置候と有之被差出候へバ
大炊頭守殿披見あられ、何とやらん思案顔に見へ給ふニ付、伊豆守殿
御申候ハ、何とぞ其元の思召等有之候得ば御申聞可有候。奉書の儀ハ調
直させ可申と有之候得ば、大炊頭守殿御申ハ文言等の義残る所もなく各
中の御判形も相済候上の事に候得共、ケ様の節の奉書の義ハ諸大名方の
手前に於て已後迠も相残し可申義にも候所に一揆蜂起と有之候てハ
いささか御仕置にも相障り申気味合も有之候様にて唯有躰に切支丹
P6
蜂起と有之候てハ如何可有之哉、と御申候得ば、伊豆守殿を始め御老中方
も誠に其元仰の通りに候、其段江ハ何れも心付不申と有之御書直さ
せ候と也。 同問て曰、其節在江戸の九州衆えは早速御暇を被下候由
申伝候ハ其通りの事に聞被及候哉。 答て曰、我等承り及候ハ右奉書を取
調候日の四ツ時頃九州大名衆の義ハ何れも御城え被為召
(めしなされ)、嶋原表の
儀を被仰合、各支度調次第被立候様にとの義にて御暇被下候由。 其節迠ハ
諸大名方勝手を摺切給
(すりきりたま)ふと有も少く候を以早々支度を調られ、各
取あへず発足あられ候中に用意成兼候衆一両人も有之、殊の外に迷惑
被致、世上にも其砌兎や角と取沙汰仕候也。 向後も遠国大名方の家々
に於てハ心得可有義哉。 右大名衆江御暇被仰出候同日、西国の九州衆の
P7
家来共被為召、件の奉書を相渡し候由也。 同問て曰、右切支丹御成敗
の義被仰付候砌の儀にも有之候哉、御当地酒井讃岐守殿宅に於て
堀田加賀守殿、内藤帯刀殿と何やらん口論に被及既に事に罷
成候様子成義に候処に、御亭主讃岐守殿、御取扱宜敷事済候義にて候由。
世上に取沙汰仕候儀は如何聞被及候哉。 答て曰、其義を我等承及候ハ右嶋
原表江被遣候板倉内膳正殿を始め、其外御目付衆より毎度の御注進の
趣、寄手方諸大名の家中に於て手負、討死の者多く落着はか取
不申との義ニ付、或日 公方様にハ酒井讃岐守殿を被為
召、嶋原表の儀を内藤帯刀抔ハ如何存候哉、古き者にも候得ば其
方対面致し、口振を聞て見候様にと   上意ニ付、讃岐守殿
P8
にハ御城より帯刀殿江手紙を以て少々承度儀抔も有之候間、今七ツ時より
入来あられ宵の内御語り候様にと御申置候と也。 其節堀田加賀守殿をも
被為召、今晩讃岐守方江帯刀参候ニ付、其方義行掛りの様に致し
被越て帯刀が物語を承り候様に由の  上意ニ付加賀守殿にも御越
あられ、夜に入候後迠雑談有之候処に何様の義にも有之候哉、加賀
守殿御申候義を帯刀殿聞れ候て、其許抔の様成若き衆中の合点
の参る義にてハ無之との被申様ニ付、加賀守殿御申候ハ其許にハ若き
者をば何にても無之様に御申候が大坂御陣の節ハ其許幾ツの年の
時に候哉、と有之より互に兎や角と申合され候処、帯刀殿にハ千万も入不
申とて脇差の柄に手を掛、加賀守殿の傍近被申に付、加賀守殿も脇
P9
差の柄に手を掛被申候時、讃岐守殿には帯刀殿を取押へ給ひながら
加賀守殿を見返り、其許にハ  上の御恩を忘却あられ候哉と
荒らかに被申候得、加賀守聞もあへず左様に候とて両手を突
給ひて、扨々御老人江対し無調法成義共申近頃迷惑仕候御堪忍
あられ給わり候様にと有之候得ば、帯刀殿にも其許左様に御申の

上ハ我等申分無之候との義にて事済候。 已後讃岐守殿児小姓を
呼、酒肴を持来り候へと有之、御取寄足迠にハ不及義に候得共亭
主の身と成、安堵の為にも有之候間、互の盃を御取替し有て給
わり候得と御申候得ば、加賀守殿御申にハ讃岐守殿の御差図に
ハ候得共、左様にハ仕間敷候、帯刀殿にハ御老躰と申其上手前不調
P10
法を申たる義にも有之候得ば、帯刀殿の盃を我等に給わり可申と有
之ニ付、帯刀殿も左様にハ仕間敷と御申候得ば、加賀守殿御聞
盃を取替申義ハ致間敷旨被申ニ付、讃岐守殿兎や角と挨拶
あられ、帯刀殿の盃を加賀守殿御飲にて事済し候。扨両人帰
宅あられて後讃岐守殿にハ用人共を呼給ひて、今晩客衆一座
の次第を向後演説致間鋪旨勝手に在合候侍共へハ不残連
判の神文を致させ候様にと被申付候也。然れ共其節御座
敷に於て喧嘩と有ニ付、侍分に無之末々の者迠も次の間へ罷越承り
候ニ付、左様の者共の口より申触候哉、其当座より讃岐守殿家中
の義ハ申に不及、江戸中の取沙汰と成、帯刀義ハ未夫程の年来に
P11
ても無之候が老耄(ろうもう)抔被致(いたされ)候か、唯今時の加賀守殿抔へ対し左様成仕
方に被及候と有ハ沙汰の限りたる義なり。嶋原表の義も事鎮り候に
於てハ能
(よき)仕合にて岩城を放され、遠国の果抔へ所替可被仰付(おうせつkらるべき)ハ眼
前に候としきりに風聞仕候と也。 然る処に翌年正月廿四日芝増上寺江
御参詣の節其朝に限り別て余寒烈敷
(よかんはげしき)候処、帯刀殿も供奉として
出勤致し居られ候を御輿の内より御覧被遊、帯刀と有
上意有之候得共其間遠く承り付も無之候処に、御側より高声に帯
刀召れ候と申伝へ候ニ付、則罷りでられ候得ば御輿近く被召、今朝
ハ別て寒さも強く候処に罷出候、早々罷帰り候て休息致シ
候様にと  上意にて又候御供中を御返し被遊、唯今  上意被成
P12
下候通り早々罷帰り休息仕候様にと重々の  上意の趣を同列の
衆中へも被申達、帯刀殿帰宅被致候也。 此段世上へも相聞へ候ニ付、
夫より岩城所替の取沙汰もひしと申止ミ候と也。 同問て曰、右切支
丹御成敗の節九州衆斗りを被仰付候との義に有之候ニ付、中
国衆の内にも彼の地え被罷越
(まかりこされ)たる方抔も有之、其上はるかに方
角違ひ成越前福井家中にも専陣支度を仕、ひしめき候と有
取沙汰を承り及候ハ如何聞被及候哉。 答て曰、我等の承り及び候ハ其
砌四国、中国衆の家中々に於ても万一嶋原表の義埒明兼候に
於てハ、追々被仰付の有間敷にても無之と、九州最寄の四国中
国衆の内にても其心掛を被致候衆中抔も有之候と也。中国衆の
P13
内にて備後福山の城主水野美作守殿壱人斗りハ被仰付にて彼地江
被遣候と也。 其節ハ老人水野日向守殿勝成と申たる人の義ハ関ケ
原、大坂両度の御陣にも武功の人にも有之候得ば、其頃ハ隠居被致
水野宗休と申、随分達者息才には居られ候得共、嶋原表の御用可
被仰付様に無之ニ付、子息美作守殿を可被遣旨被仰出候ニ付、老父
宗休も一所に被罷越、松平伊豆守殿、戸田左門殿抔ハ繁々参会有
之候と也。次に越前福井の城下に於て備中の陣奉度と有之にも
其子細有之事の由。右嶋原表の儀埒明兼候と有之風聞の節
松平伊予守殿願ひ被申上候ハ、今度嶋原表切支丹御成敗の義
未埒明兼候由聞へ候。ケ様成に事の延引候と有之ハ後代迠の
P14
聞へも如何に候得ば、私え被仰付
(おうせつけられ)可被下(くださるべく)御給らば早速差向ひ踏詰め申
にて御座可有と被申上候得ば、其段上聞に達し被仰出
(おうせだされ)候は被申上(もうしあげられ)
趣御満悦に被遊候得共、既に御動座抔をも可被遊が抔と有之様成
時節に至り、御名代と有之被差越
(これありさしこされる)べきハ格別、切支丹連を御成
敗と有之可被遣(は)、其方家柄とハ不被思召
(おぼしめされぬ)旨被仰出候と也。然れ共
右願可被申上との前方家中領分の侍共ヘハ内意抔をも被申
渡候を以て、人々其心支度をも仕候と也。 同問て曰、右嶋原表の儀落去
(らっきょ)
致し兼候ニ付、先達て板倉内膳正殿を被遣候得共尚更御老中方の内
にて壱人可被差越
(さしこさるべく)候哉、其上にも事詰り不申候に付てハ九州最寄の
四国、中国衆迠をも被遣候様成事も有間敷に非ず、左様の節に
P15
至りてハ御名代公に重き衆中を壱人被仰付
(おうせつけられ)候儀抔有之候ハ御筋
目と云、身躰格好と申保科肥後守殿より外にハ有之間敷由、御当地
の諸人差詰の如く取沙汰仕候所に、下沙汰の如く御老中松平伊豆守殿
御譜代衆より戸田左門殿を被仰付候を以て重てハ肥後守殿にて
可有之事
(これあるべきこと)抔と諸人申触候処に、俄に御暇を被遣(つかわされ)羽州最上え帰城
被仰付候義を其頃諸人不審を立候と有之義ハ如何に聞被及候
哉。 答て曰、其儀をも我等承り伝候ハ其頃御当地下々に於て取
沙汰仕候ハ、今度嶋原の城に取籠候切支丹共誅伐として九
州大名衆にて黒田、細川、嶋津の三家を始め、其外何れも出勢
あられ、殊更御当地よりハ遠国の義にも有之候得ば
P16
公儀御名代として御連枝方の中御壱人ハ可被遣
(つかわさるべく)候事に候得共せめてハ
御老中方の内壱人ハ御越可有之
(これあるべく)儀ニ候抔申触候由。 其如く内膳正殿
にて埒明不申ニ付、重て御老中方の内壱人可被仰付
(おうせつけらるべき)と有之砌、阿部豊
後守殿に極りたる事の様に申触候を以て、豊後守殿心底にも左様に
思われ候に哉、伊豆守殿え嶋原表の御用被仰付候日の晩方、御城下
りの節家老共豊後守殿前に於て、今日ハ伊豆守様にハ嶋原表
の御用被仰付候由に御座候と申候得ば、豊後守殿御聞候て、伊豆
守殿にハ武門の冥加に被叶
(かなわれ)、一段の事に候。夫ニ付、我等家中の者共
此豊後守ケ様成用に立ずをも其通りにて主に致すべきと存る者ハ格
別、御静謐の御代の儀なれハ、重て又今度の様成義にてハ有之
P17
間敷候。嶋原表の様子を見度と存者の義ハ望次第暇を可遣間、縦
譜代の筋目の者たり共少しも無遠慮
(えんりょなく)願ひ可出(いずべき)旨申渡候様にと
御申候と也。 扨又保科肥後守殿にも此已後、若も御名代など御入用と有に
於てハ差詰の様子世上専の取沙汰数日の事故、江戸屋鋪の義ハ申に
不及最上に於ても、家中一同に内支度ととのひ被仰付を相待申如く
有之候処に、或日の晩方、明四時御用の儀有之間、登城あられ候様に
との奉書ニ付、扨ハ世上沙汰の通り嶋原表の御用被仰付にて可有
之と何れも推量致し、勇ミ進ミ罷在候処に最上え御暇被
仰出候ニ付、定而肥後守殿にハ心外の所存にても可有之候哉と存候処
家中の者共の積りとハ大に違ひて機嫌も能、早々したくをとと
P18
のへ帰城あられ候と也。  此儀ハ    権現様御在世の節
台徳院様江被仰候ハ、奥州辺に於て何事そ有之節ハ上方筋えの心
遣ひを専一に被致、 又西国筋に何変の義も出来の節ハ奥州辺の儀
を肝要に心遣ひ被致旨   上意被遊たる有之ニ付、最上の城
地ハ古来より奥州押への場所に有之ニ付、御深遠成
上意を以て御暇被下置候ニ付、別て難有被存
(ありがたくぞんぜられ)候由也。 其節最上へ帰
城あられ家老共へ肥後守殿雑談被申聞候ハ、今度嶋原表に於
て切支丹擾乱の義ハ最初にハ至て軽き義に有之由也。 其節押掛
悉く討殺し埒を明ケ候ハハ手もなく事詰り可申義也を、兎や
角と手延に致し差置内に古城の要害抔をも構、同類共多く寄
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集り候義故、事六ケ敷ハ成たるとの義也。 畢竟九州の内に聢
(しか)
致したる御譜代大名のなき故の義也。 事の末微少成内に埒明ケ、万
一卒尓
(そつじ)の致し方と有之上より御咎抔有之候ハハ、夫迠の義是非に不及
領地を被召放、身上を御潰し被遊にて可有之との覚悟を極めずして
ハ不時の御奉公抔は成難き義也、と御申候と也。 然る処に羽州の内白
岩と申所の百姓共徒党致し、御代官衆に楯をつき手代共を打殺
し可申と有企の義を露顕に及び候得共、人数多き故御代官衆の手に
及び不申候を以て、最上え参られ其趣を被申達候ニ付、肥後守殿御聞
あられ、保科民部と申家老に委細を申含られ候ニ付、民部白岩え
罷越、件の百姓共を呼集吟味を相遂候に、先達て御代官衆より
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被申越候様に相違なく、百姓共の不届相極り候ニ付、民部百姓共に申聞候
ハ其方共申旨逸々尤の義也。 然れ共  公儀の御代官衆を相手に致し
ての義なれハ、江戸表よりの御裁許の程も如何可有之も難斗
(はかりがたし)、幸此節
肥後守殿帰城の義なれハ連判の者共斗り申合、成丈ケ穏便の躰
にて最上へ罷越て、目立不申如く二三人程宛爰かしこに旅宿致し
其内に人数も残らず揃候に於てハ連判の目安を認め、肥後守殿え直
訴致し尤也、必以て我等の内意と有之義に於てハ沙汰仕間敷旨申含
候ニ付、悪党共は大に悦び、民部帰り候已後、五三人連にて最上え罷越候
民部の差図の通り二人三人宛宿を罷在内に人数も不残揃候と有
儀も相知れ候ニ付、宿々へ押入悉く召捕、其段を申達候処に肥後
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守殿御聞あられ、右の百姓共を不残河原へ引出し磔罪に申付
候様にと有之候ニ付、家老奉行役の者共罷出、右の者共の儀尤重科
の者共にハ候得共、皆以て御領所の百姓共の義に候得者、当分ハ牢舎に
なし被置、一応江戸表え御伺の上にて御仕置被仰付可然
(おうせつけられしかるべし)由申上候得とも
肥後守殿いやいや左様の手延に致し置にハ不及
(およばぬ)義也。早々仕置申付候様
にと御申ニ付、其翌日朝広河原と申所に於て三十六人の者共悉く磔
罪に被申付候上に、白岩の仕置をも沙汰あられ事済候。 已後江戸
表え言上被致候と也。 其後御当地に於て諸人の取沙汰にハ、此度最上
に於て肥後守殿磔罪に御申付候科人共の儀ハ、元来御蔵入の
百姓共の儀にも有之候得ば、一応江戸表え罷越伺にて、其上の仕
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置にも可申付を三十人に余りたる磔罪を自分仕置と有ハ然るべからず。
当分の御咎ハ無之候共、参勤抔被致候上抔にてハ如何可被仰出も難斗
抔申触候処に、肥後守殿参勤あられ候上ハ例年の通り上使被成下
其日の晩方内田信濃守殿を上使として、向後   公儀御政務の
筋に於ても存寄旨
(ぞんじよるむね)有之に於てハ無遠慮可申上旨被仰出候ニ付、其
段世上に於ても沙汰有之、右磔罪の義も沙汰なしに罷成候と也。同
問て曰、右嶋原表の落着ニ付何れも御当地え帰られ候刻、石谷
十蔵殿義御城え被為召
(めしなされ)、御老中方御列座にて御呵(おしかり)
上意抔有之、暫く引籠り被居候様にとの義をば如何聞被及候
哉。答て曰、其義我等承及候は其許御申の通り、御城え被為召、嶋
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原表元日惣責の儀ニ付、御叱の上閉居仕可罷有旨、被仰渡候節
十蔵殿御老中方に被向、先以  上意の趣恐入奉畏候、扨是は
各様迠申上候、板倉内膳正殿義ハ武運に被相叶、重手を蒙り
当座に被相果
(あいはてられ)、私儀は浅手故疵も平癒仕候ニ付、存命にて御当地え
罷り下り、只今ケ様成   上意を承り候有ハ偏に武士の冥理に
尽果候と無是非
(ぜひなき)次第に奉存候旨、申延退出被致候。 其跡に御老中方
何れも御気付に候哉、堀田加賀守殿座を御立有、御目付衆江十蔵
を被呼候へとの義ニ付、中ノ口迠追掛其由被申候得ば、手前儀は御
勘気を蒙り退出仕る身にて、加賀守殿抔へ御目に掛り可申様
無之訳もなき事をといい捨退出被致しを、同役中追々出合
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左候得ば御勘気を蒙り給ふにも致せ、加賀守殿御呼に帰られ間
敷と有ハ其許に似合不申候、我等共に呼返し候様にと有之上、押て退
出あられ候ては手前抔申訳も無之候と同役衆口々に被申候ニ付、十蔵殿にハ
渋々立帰られ候処に、加賀守殿にハ側近く呼寄セ給ひ、何やらん暫く
被申聞候得ば、十蔵殿にハ両の手を突謹て承られ候て、夫より退出の刻
ハ已前の通りの顔色にても無之、同役中江の挨拶抔をも被致穏便に
退出被致候と也


P2松倉長門守勝家(1597-1638)肥前島原二代藩主、重税と過酷な取立で一揆(島原の乱)の原因を作った。事件後責任を取らされ斬首
P3鍋島安芸守背茂賢(1571-1645)肥前佐賀藩家老
P3豊後目付 越前北庄藩主松平忠直が改易(巻四制外の家参照)で豊後大分郡萩原に配流となった時、幕府より御使番クラスの旗本二名を監視役として付け、同時に九州地区大名の監視も兼ねた。
P3一伯殿 前述松平忠直が改易後一伯と名乗った。
P4有馬原の要害 戦国時代の有馬氏の故城、原城、1616年廃城
P4松平伊豆守信綱(1596-1662)家光、家綱時代の名老中、知恵伊豆、老中(1633)、忍3万石、後川越6万石
P7内藤帯刀忠興(1592-1674) 譜代大名、岩城平七万石
P7堀田加賀守正盛(1608-1651)1635老中、川越藩主3.5万石、後下総佐倉12万石、家光に殉死
P7酒井讃岐守忠勝(1587-1662)家光、家綱時代の老中(1624)、大老(1638)、若狭小浜11万石(1634)
P16阿部豊後守忠秋(1602-1675)1633若年寄、同年老中、家光、家綱二代の老中勤め人望があった
P22石谷十蔵貞清、上使、板倉内膳正の補佐役、目付


44                            目次
P1     慶長五年以後天下御一統の事
問て曰、其元にハ慶長五年関が原御一戦已後百三十年に及び兵乱と
申す義も無之、打続き御静謐の御代と御申あられ候得共、去慶長
十九年より元和年中迄両度におよび大坂御陣と有之、両
御所様ニも御動座被遊、日本国の諸大名共出陣あられ、城方の義ハ申に
不及、寄手衆の方にハ冬と夏両度へかけ候てハ戦死の人数も余多の義
にも有之候得ば、天下の騒動と申物にて候を兵乱に非ずとハ被申間敷
(もうされまじく)
此段心得難く候。 答て曰、其元御申の通り一応相聞たる儀に候得共左
様の道理ハ無之候。子細を申に縦
(たとい)何程無病息才にて長寿をたもち申
者も、其身一生の間に二度も三度も余程の大煩をば仕間敷物に
てハ無之候。 然れ共夫ハ長生の疵にハ成不申
(なりもうさず)如く、如何程も静謐の
御代と有之候ても天下の国端に於て不慮の騒動と申儀抔ハなく
て叶ひ不申候。然れ共騒動をさして兵乱とハ不被申
(もうされず)候。 去ル大坂両度
P2
の御陣の義ハ反逆の諸侯、御譜代の格合抔共可申事にて候。 子細ハ慶長
庚子兵乱の節、秀頼卿ハ幼年に有之候得共、母儀の淀殿にハ逆徒
方一味と有に於てハ紛れ無之候。 然る上ハ反逆の者御追討の砌、秀頼
の儀も身上御果し被成、何方に於ても五三万石斗りも下し置れ
平大名に被成置れ候ても其通りの事に有之候所に五拾万石余の国
持となし被置候。 親父秀吉の居給ひたる大坂の城に其侭被差置、大
臣職に被仰付、其上御孫婿に迠被遊と有之義ハ秀頼の身に致し
重畳至極
(ちょうじょうしごく)の仕合と申ものにて候。 其故いかんとなれハ秀頼の御親父
秀吉公の儀ハ尾張の国中村の土民の子にて候処に、織田信長公の平中
間に身上有付、其身利発成を以て信長公の心に叶ひ、程なく立
P3
身被致
(りっしんいたされ)丹波勘太郎、大鐘藤太郎、岩巻市松抔と申三人の中間頭共
と同役と也、夫より段々と信長公の取立に預り、羽柴筑前守に経上り
播州姫路の城主迠に成被申候刻、明智日向守逆心致し信長公
不慮に御果被成候砌、秀吉公にハ備中の陣場より直に走昇られ
都の山崎表に於て一戦を遂、逆臣の明智を討果し、其後柴田勝
家、滝川一益抔と相談し一反ハ信長公の御跡を相続取持の振合
を被致候得共、奥意にハ自立の望を含被居
(ふくみおられ)候を以て、左右に事寄せ
て主の子の織田三七信孝えも腹を切せ、信雄卿抔をも既に討
果すべきと有之候を、御親父信長公と御入魂
(ごじっこん)有之故を以て
権現様尾張小牧表え御自身御馬を被出、信雄卿を御救被遊を
P4
以て、信雄卿追討の義秀吉公心に任せ難く、一端ハ和睦を調へ置、天
正十八年北条家を攻亡し、其已後信雄卿の義も身上を果し
流罪申付、其跡の領知をハ我甥の近江中納言秀次へあたへ、信長公
嫡孫中納言秀信えも漸々と岐阜城地拾三万石を与へ、剰へ自分
の諱の字を授て秀信と名乗せ申如く成不義をば致し候有ハ皆世人の
知る所也。  権現様の御事は元来清和源氏の御嫡流と申、其上駿、遠、三
甲、 信を合て五ケ国の御守護にて御座被遊、秀吉公と再び御入魂の
節ハ浜松中納言殿、又ハ駿河大納言殿、江戸内府公抔申奉り秀
吉公とハ公家仲ケ間の御出合と申迠の義にて豊臣家の幕下旗
下と申訳にてハ無之候、勿論秀吉公の厚恩に預り被成たると申義と
ても無之候得ば 秀頼卿の事ハ如何様の御宛行になし被置ても其
P5
通りの義に候処、親父秀吉公と御心安く御座有たる筋目の程を被思召
結構成御あしらひになし置れ候処に、夫を忝
(かたじけなし)と有勘弁も無之、いわれ
ざる御不足立を被申、剰へ御当家え対し御敵対の逆意と有之候
は言語に絶たる無分別と申者にて候。 右ニも申通り親父秀吉抔の信
長公の厚恩に預られ候と有ハ挙て算へ難き事共に候所に、其厚
恩を忘却被致、信長公の子孫方へ情なく当り被申たる先証等も
有之候所に、左様の思ひ合もなく秀頼にも若気の無分別を被申候
共、家老の大野修理亮を初め木村、渡辺の輩心を合せ諌争致シ
て押へとどめ可申成
(もうすべきなる)を、物の道理を弁へたる家来共無之ニ付、結句
共々におごり合、秀頼卿の無分別を増長為致
(ぞうちょういたさせ)、あたら身上を
P6
滅亡に為及候と有ハ残念の至り無是非次第と可申候。 其節大坂城中え
取籠りたる浪人共の中にも毛利豊前守、長曽我部宮内少輔、真田
左衛門丞抔をハ去関ケ原一乱の節も逆徒方にて、御敵対の者共に有
之候を種々御詫言申上候ニ付、助命なし置れたる者共又秀頼え一味
致し、其外諸浪人共餘多寄り集り、既に籠城の由、板倉伊賀守殿
より言上被申上候ニ付、諸大名えも出勢可被致
(いたされるべき)旨被仰付, 両
御所様にも冬夏共に御動座被遊、大坂表の御仕置被仰付迠ケ様の義ハ
此已後共に有之間敷とハ被存候。子細ハ迚も秀頼の身上向に替る事
なき諸大名と申ハ餘多有之事に候。 其大名方の内に無分別の人
抔も有之か又ハ乱気人抔有之、  公儀を不恐して我侭を
P7
被致、江戸参勤を相止、居城に引籠るを召呼れ候共  上意に不応
益気隋を働かれ候に於てハ、其通りになし可被置様も無御座義な
れハ、諸大名方に被為仰付、御誅伐を御加へ被遊様成義抔も有之節
にハ、其時の様子に寄り御動座不被遊してハ(不)被相叶次第も御座有
間敷にあらず。万一左様の時の御入用の為と有之義にも御座候哉、当
時御旗下に於て武役の義も早速被仰付、其外御武具御兵
器等の破損御修復抔も油断なく被為仰付候如く有之儀
公儀の御武備に於てハ形の如く相整何一色事足り不申と有之
様成義ハ御座なき御様子に相聞へ候也。 千万に一ツも御動座抔相整
不申節ハ御旗本に先達て早速出勢あられ御奉公をも相励
P8
不申してハ不叶諸大名の儀ハ程以て其心掛を専一の義に候処、若も
御治世頼抔を被致、武備の心掛の薄き衆中抔有之早速の出勢
成兼候とか又ハ曲りなりに出勢被致候ても諸事手の合不申義の
事多く、見苦敷抔有之候てハ時の外聞を罷失候と斗りに
ても無之    権現様御時代軍忠を励されたる
先祖方の武功までをも汚され候道理にて候。まことに大切の義
と存候。 公儀に於ても天下泰平の御代と有之義ハ御勘弁の上
ながらも治世に乱をわすれずと有之旨を御守り被遊、且又右に
申秀頼の如く成無分別の大名の出来間敷ものにても無之と有
御堅慮旁を以て武備の筋に於てハ少しも御疎略不被遊
P9
と有御作法にても御座候哉と乍恐奉考候処也。上を学ぶ下とこそ申
にて候得ば  公儀の御武備に於て聊も御油断無御座と有処へ
目付と申義肝要の所なるべし。 同問て曰、其許にハ秀吉公在世の
時    権現様御壱人の事をバ旗本と申訳にても無之御
客あしらへに被致公卿仲ケ間の御出合の如く被致候と御申には何
とぞたしか成手掛り証拠抔も有之事に候哉。 外々の記録等
の中に於てハ見当り不申事共に候。 委細承度事共に候。 答て曰
其儀を我等抔の承伝へ候ハ尾州長久手御一戦のきざミ
権現様の御武略の程を秀吉公能々見届被申、大に我侭を
被致、其身天下一流の大望有と候へ共、只今迠通り
P10
権現様と矛盾にしてハ事行間敷と有勘弁を以て、先織田
信雄卿江降参を乞和談を調へ、則信雄卿の取扱にて
権現様共御和談被申、三河守秀康卿を以て養子と被致、其
後妹子朝日の前を浜松へ御入輿なし被申、御縁者に迠なられ
ても    権現様の御心解させられす候故、三度目に至て
ハ無是非母儀大政所を証人として、岡崎の城迠被差下候ニ付、
権現様にも此上ハと有思召を以て大坂え御上り被遊候所、秀吉公
大に悦喜被致、御到着の即日自身に御旅宿え御見舞被申、翌
日大坂城中に於て御餐応の節、御登城被成候得ば秀吉公
玄関の式台まで御迎に御出、御相伴にハ織田内府信雄卿被出御座
P11
敷の次の間に二腰の刀掛を支度被申付
権現様の御腰の物と信雄卿の刀を児小姓共右の御刀掛に掛ケ置候と也。
扨御餐応果て後、御茶の義ハ千宗易被出
(でられ)て秀吉公に代り調
(ととのえつかまつる)候様にと被申付、其後天守二重目の広座敷に御上り被成候節浅野
弾正義は御咄の御相手に上り候様にと、秀吉公差図被致、宗易義は
権現様御意にて相加へられ候と也。 扨大坂表の御馳走相済御帰国
の節、種々の御土産物被相贈、其許久々御上京被成間敷間、御立寄
御慰被遊候様にと有之、京都聚洛の屋形に於て御馳走人にハ大和
大納言秀長を被申付、向後に折々御上京の節の御為にとじゅ楽に於
て御屋鋪を進し被申、御普請等の義ハ藤堂与右衛門高虎を奉
P12
行に被申付候を以て、御屋鋪の図を調へ御目に掛被遊候得ば、御覧被遊
是ハ結構過たる事に候、此已後上洛の節ともに暫時旅宿迠の義に候
得ば手広に無之共事済候。作事の義も至て軽く被申付候様にとの
被仰渡ニ付、御帰国已後其段申達られ候処、秀吉公の差図にて殊の外
丁寧成御屋形造に有之候と也。其上御上洛の節御用足り候様にと
有之て近江国の内にて御知行進し被申、其外浜松より京都迠の御
道中筋所々に於ても御知行を進上被申、御用聞にハ勘定役の者
両人、御鷹野方の御用承り候様にと有之、福田喜兵衛を被申付
(もうしつけられ)候也。就
(なかんづく)母儀大政所を岡崎の城迠人質客躰に被差下(さしくだされ)候と有之義も
証拠の第一に候。能々勘弁尤ニ候。扨天正十八年に至り小田原の北条家
P13
を攻亡し、奥州陣と有之被発向の節、野州那須に於て織田信雄卿
の身上を押領し流罪の身となし、出羽奥州迠も手に入天下一統の
世となし、数年の大望成就と有之も偏
(ひとえ)
権現様の御助力故と不浅満足被致候を以て一入
(ひとしお)御為を大切に
被致官位抔の儀を執奏あられ開府に御昇進、已後の義ハ筋々御参
内被成、自身も同じく公家衆交りをも被遊候如く取持被遊たる
と有之に無相違候と也。 去に仍て秀頼卿の代と成、伏見より大坂の城え
引移られ候砌、只一度御見舞被遊候已後も打続御持病気の由被
仰、伏見に斗り御座被遊候が久々秀頼卿え御対面不被遊候処、大坂
へ御下向可被遊旨被仰出候節、前田徳善院を召呼れ被仰けるハ、当
P14
春已来大坂え御下向可被遊御心掛候得共、持病の寸白
(すばく)にて種々保養を加へ
られ候得共、聢と無之心ならず御延引に及び候。此間ハ少々御持病も快く
世上も涼しく成候ニ付、追々大坂も御下向可被成
(ごげこうなさるべく)御出懸ケに候。夫ニ付我等義
久々参内をも不致義に候間、大坂下向前参内相遂候様にとの義貴殿
罷上り伝奏衆え被申談給り候哉との仰ニ付、玄以法印も兎角の
事に不及上京して伝奏衆え其段申達候処に、何の相障る子細も
無之御参内の日限被仰出候ニ付、御参内被遊其後大坂え御下向被遊、城内
西丸に御座被遊候と也。 ケ様の義共に候故太閤秀吉公在世の節より
権現様御壱人の事をば自余の大名方とハ格別に御あいしらい
致し置れたる故を以ての義に有之候と也。

落穂集巻七終