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これ以降底本変更、公文書館内閣文庫(170-77)

落穂集巻八
45                                  目次 
        阿部豊後守殿御一字拝領之事
問て曰、台徳院様御代阿部豊後守殿御一字を被下、夫より
忠秋と御名乗あられ由。 其節御念比成
(おねんごろなる) 上意之趣を世上
においてハ色々取沙汰仕る事にハ候得共、聢
(しか)と致したる趣は
相知不申、其元にハ如何御聞被及候哉、 答曰、右豊後守殿若年より
の御役、其後御老中職に被仰付候と有之候は是皆
大猷院様御代に至り、寛永三年と同六年之儀と有之候と
也。 然れハ右御一字拝領と有之候ハ夫より前 台徳院様
御側近く被召仕候節之儀などにても可有之候哉
(これあるべくそうろうや)、と推量
申事に候。 惣して御一字拝領など申に至りてハ重き義

に有之候へ共、穏便のさたにハ不参事
(まいらぬこと)に候へハ其節表立たる
御礼と有之義は無之、勿論御一字拝領の広めとてハ目出度と
悦ひ申奉る者も無之候となり。 去に依て  公儀の御日記に
も自分の家譜にも右御一字の義ハ相見へ不申候と也、 但書状等
判物等名前を書候ハヽ、忠秋と調させ候様にと御申付候故、廿日
(ばかり)も過候て一門中招請之義有之候節、料理膳類等の次第
常々とハ大にかわりたる義に在之候を、若ハ右御一字拝領之祝儀
こころの振舞にても有之候哉と御家来中も推察仕候となり、
右之通りに候へハ御一字を被下置候節、御懇意の上意沙汰ハ皆以
虚説となしてハ不被存
(ぞんぜられず)候也、 右忠秋豊後守殿噂に付、ある時に
林道春、浅野因幡守殿へ雑談あられ候ハ、我等義昨日豊後守

殿へ罷越候処に憚入
(はばかりいり)も無之候ハヽ、宵の内語り候様にと御申に
付、はなし罷在細川頼之の噂有之、我等申候ハ京都将軍義
満之いまだ若年之節、八月十五夜月見に遊宴の刻、四職の
面々をはじめ諸大名の義ハ何も出仕候へ共、執事職の遅参
の内に時刻も移り候を以、 公方にも出御あられ既に酒宴も
初り候頃に至り頼之出座され候へハ、義満公大きに不興あられ
我等若年たるによって軽しめ、あなとり候て時刻かきり有
会席へ遅参候条無礼の至りなれハ着座に不及
(およばず)、早々帰宅致
急度閑居仕可罷在
(つかまつりまかりあるべき)旨御申に付、土岐、佐々木の輩をはじめ
何も執成
(とりなし)候へ共承引無之に付、無是非(ぜひなく)頼之ハ退出有之、暫く
蟄居候を四職の面々の願に依之漸々と赦免被致候と也、

其節の様子を見及び、夫より諸大名の義も大きに恐れうやまひ
被申、義満公の威光盛に罷成候由申伝候。 此義ハ其比
(そのころ)義満公若
年におはしますに付、四職の面々を始め其躰諸大名之義も
尊敬うすく有之候に付、義満公へ頼之内意を申含め態
(わざ)と遅参
に及び、諸大名之眼前に於て呵
(しかり)を受、面目を失ひ引込居て
義満公へ威勢を付被申(つけもうされ)たるに紛
(まぎ)れ無之と有儀も、我等申候へば
豊後守殿御申候は、其頼之の事古今稀成賢臣の様に取
さた致す人なり、縦(たとえ)義満へ内意を申含めたるにもいたせ、夫を再び
口外へ被出
(だされ)べきやうハ無之、頼之の口より不出(でざる)義を誰か可知(しるべく)様は無之、
其頼之の足元へも寄せ付ざる此豊後守抔も、其方被存
(ぞんじられ)通り
御幼君の御側近く御奉公申上にてハ、 左様之心つかひハいかほとも

なくては不成
(ならず)、ましてや賢臣の聞へ有頼之の事にも有之人に
こそすれ、 其方などの口より左様成義をあからさまに演説

有は散々の事也と宜
(のたま)ひ、大きなるとがめにあい迷惑致候。 実(まこ)とには
豊後守殿御申の通りにて候、 との物語を忍平右衛門と申す者、因幡守
殿近習の侍、其座に居合承り候由、我等へ仕候と也


細川頼之(1329-1392)室町幕府管領、義満を補佐する、南朝と和睦を行う
林道春(1583-1,657)儒学者、藤原惺窩の弟子、慶長五年家康に仕え、幕府文書作成、
   四代家綱まで仕える
四職 室町幕府の武家の家格、京都の軍事。刑事を司る侍所の長官で赤松、一色、京極、山名の四家。
    管領家の細川、斯波、畠山家と共に中央政治を司る。三管四職と云った

46                               目次 
       松平越中守殿御乗物拝領之事
問云、何れの御代の義に候哉、松平越中守殿にハ 公儀より御乗物
御拝領あられたる義有之、 夫より彼家代々乗物之棒を黒く
致、乗被申
(のりもうされ)候との事に候。 右御乗物を被下置候節、御懇意成
上意の趣を世上においてさまざまに申触候由。 其元にハいかが被聞及
(ききおよばれ)
候哉、 答云、此儀を我等承り及び候は 大猷院様御代日光へ
被為成還御之刻
(なりなしなされかんぎょのきざみ)、野州宇都宮においての義に有之候也

然共其節の  上意の趣と有之義に於てハ誰も存たる者とて
ハ有間敷クにて候、 子細ハ我々若年の節、浅野因幡守殿方へ
振舞有之、家来有之其座中に於て右越中守殿御乗物拝領之
雑談有之候節、因幡守殿客衆へ御申候ハ、手前義ハ越中守殿と
由緒も有之其上別て心安きニ付、或時御乗物拝領之節直
(ただちに)
語を可承
(うけたまあるべく)と存相尋候処に聢と咄不被聞(はなしきかされず)候に付、かさねて松平安
芸守殿方へ一家振舞之節、勝手座敷に越中守殿と我ら両
人罷在候に付、幸御乗物拝領之時の首尾を尋候ヘハ越中守殿御
申候ハ、其元にハいつそやも此義を御申候、惣して乗物の棒を黒ぬ
りに致し候と有儀ハ法中などの義ハ格別、武家方にては
決て不罷成義に候処に、我等の乗物の棒を黒く申付て乗

あるき候にハ定て不苦子細も在之候哉、と御推量にて事済可被
(ことすましもうされるべし)との返答に付、其後は尋も不致候。 然ば今時世上におひて
とやかくと風説致候ハ、皆以推量さたとより外にハ不被存と
因幡守殿各へ御申候と也。 右に申阿部豊後守殿いまだ微官少
禄の節御一字拝領、越中守殿へ黒ぬりの乗物御免など有之義
ハ外に類ひも無之儀に候ヘハ、其節之御懇意の次第を外へ演説
不被致
(いたされず)候と有ハ尤至極の義共可申成。 我等如きのいたらぬ者の
分別にも存る事に候。 其子細は世の常大躰の義ハ人にも語
聞程
(かたりきかすほど))仕る義も罷成ものにてハ、我身にあまり、分に過たる懇
意と申に至りてハ、主君の義などの義にも候ヘハ、猶以の義朋
友の交りに致し候ても人に広く申聞取さたに及び候て

ハ先の人の為にも成不申如くにて候。 人によりてハ主人より針の先
ほど懇意に預り候へ者棒ほどに取成吹聴仕るごとく有之候は
不可然
(しかるべからざる)義也。 其子細を申に功を賞するに其浅深、軽重を乱
るべからずと申ハ主持たる人の慎の一ツ也。 然ば身にも余り
て過分忝
(かたじかなし)と存るごとく成主君の御懇意などを、我が心の底
におさめて二たび口外へもらし不申ごとくの慎もなくてハ
叶ふべからずと也


松平越中守定綱(1592-1652)家康異母弟孫、始め秀忠に仕える、美濃大垣6万石(1933)、
    伊勢桑名11万石、室は浅野長政娘
浅野因幡守長治(1610-1672)長晟の長子、長政の孫、庶子のため浅野本家は継げず
    三次藩五万石の初代藩主

47                                  目次 
      松平伊予守殿越前本家え相続被仰付
問云、寛永年中松平三河守殿之義乱心に付、豊後国萩原へ流
罪被仰付、越前の本家断絶に及び候節、御舎弟伊予守殿え
本家相続之義被仰付候節、故中納言殿 権現様より被遣
(つかわされ)候知行
高之内御減少にて五拾万石被下置
(くだしおかれ)候を以、伊予守殿不足に被存

御成にて御請不被申上して退出被致候、と有儀を申伝へ取さた
仕候は其通りに候哉、 答云、時代隔りたる世上さたにハ相違成義
も有之筈之事に候へ共、就中只今其元御申聞のおもむき
ハ大に相違之事に候、 右本家相続の義を伊予守殿被仰付候
刻、松平出羽守殿、同大和守殿、同但馬守殿右三人の御舎弟達も
被罷出
(まかりでられ)、各分知を被下置候上にハ伊予守殿の身に対し何之
不足を可被存様
(ぞんぜられべくよう)も無之、其元御用として被為召(めしなされ)、伊予守殿方同道
にて登城あられ候へ共、何之被仰渡と申義も無之して帰宅候に付
てハ段々子細有事候、 我等の承り候趣を可申候、右伊予守殿と申たる
御人の義は故中納言殿秀康公の御次男にて虎松殿と申、十一歳
に御成候時 権現様の上意を以、駿府へ被召呼おかちとのと

申女中へ養子に被下、其年中江戸表へ下向之節
台徳院様へ御目見被仰付、采地として上総国姉ヶ崎と申所を
壱万石被下、本多佐渡守殿へ介抱被仰付  台徳院様の御側にて
成長被致、大坂冬御陣之節ハ若輩ながら御供被致、佐渡守殿
両備へ合宿被致、翌年夏御陣之節ハ誰によらず前髪有之
微少之面々をば御供に被召連間敷
(めしつれられまじき)と有雑談を聞給ひて、或
夜若輩の小姓に御申付  公儀の御伺ひも無之前髪を落
し男に御成候を以、付々の者大におどろき候へ共、可致様も無之に
付、有躰の趣を佐渡守殿へ相達候に付、其段  上聞に被達
(たっせられ)処に、
前髪有之者共をば今度の供につれ間敷、と有義ハ何者かは
虎松にハ云聞せたるにやとの上意にて御笑ひ被遊、其後被召呼

候に付、御前へ被召出候へ者御覧被遊、能
(よ)き男に成りたり能く
似合ひたるハと有仰にて一段と御機嫌能、則名をば伊予守に
被成、御諱の字を被下、御腰物をも拝領被仰付、夫より伊予守忠昌
と申、大坂表へも御供あられ五月七日御舎兄三河守殿の手先に
於て自身首一ツ討取御旗本へ被差上、大坂之御城追手口へも
三河守殿之家老本多伊豆と一手に被押詰、自身に旗を持一番
に城へ御入させ比類なき働之段、両 御所様にも御感悦被遊て
御帰陣以後、姉ヶ崎壱万石を被持常州下妻に於て三万石
被下、其後信州松代の城地拾弐万石被下、まもなく越後高田
城主に被仰付弐拾五万石被下置候と也。 然処に御舎兄、三河守殿乱行
故流罪被仰付、越前之本家断絶に及び候を以、伊予守殿

本家相続可被仰付との義にて被為召候に付、登城あられ
候処に御目見前御老中方何も御申候ハ、 三河守殿義ハ御大
法に任せられ遠流被仰付候へ共、故中納言殿義を被思召
(おぼしめされ)候て
今日其元へ御相続之義可被仰付
(おうせつけらるべし)、との義を以被為召候間、追付
御直に被仰出にて可有御座候、先以珍重之御事
(まずもってちんちょうのおんこと)共に御座候由を
御申候處に伊予守殿御申候は、故中納言家を御立被遊被下
(おたてあそばしくだされ)
と有之段に於ひてハ難有仕合
(ありがたきしあわせ)に奉存候、且三河守ハ乱心仕候を
以て御大法之通被仰付候へ共、仙千代と申乱心以前の世倅
(せがれ)有之
義に御座候。 私義ハ段々御取立に預り只今高田城地拝領
仕有之候へハ、此上の望とてハ無御座候。 故中納言義を被為思召被下
に於てハ、仙千代に相続被仰付被下置候様に奉願旨、御申候へば

御老中方御申候は、其元御申候段御尤至極に候へ共、参河守殿
義、其元御一所之事に候へ共尋常之乱心と申斗
(もうすばか)りにても無之
を以て、急度御仕置にも被仰付たる人の跡の義に候へハ 公儀の
御大法有之に付、左様にハ被仰付がたき事に候、中納言殿御家之
御相続と有之候者重き義にも候へば、早速御請被仰上
(おうけおうせあげられ)御尤候。
仙千代殿義ハ御上に御如在不被遊
(ごじょさいあそばされぬ)候御筋目の人に候へハ、以来ハ何
卒被仰付にて可有御座と有之候処に、伊予守殿重て御申候者
御大法を以、たとへ当分の被仰出
(おうせだされ)こそ無御座(ござなく)候共、仙千代義御捨置
被遊間敷
(あそばされまじき)と有之御内意成共承知不仕候てハ、私義本家相続
の御請を申上候とてハ仕りかたきとの義に付、 然るに於てハ今日之
義ハ御下りあられ御尤との義にて、伊予守殿退出に付世上に

おいてとやかくと尾ひれを付て取さた仕候と也。 然る処に間も
なく重て被為召、伊予守殿登城あられ候へハ御老中方御申
候は、此間其元にハ仙千代殿義を御申の段上聞に達し候処
に其元御申の旨尤に被思召候間、其段においてハ心易被存
(こころやすくぞんぜられ)
様にと可申聞
(もうしきかすべし)と上意之旨御申に付、伊予守殿にも難有奉存(ありがたくぞんじたてまつる)
と御申上の上、御前へ被召本家相続之義并
(ならびに)三人之御舎弟
被召出新知等被下置旨被仰渡となり。 同問て云、当時諸大名
之中に革の油単
(ゆたん)を掛候挟箱を持せられ候方々間に
相見へ候へ共、就中越前家之衆中之義ハ不残
(のこらず)革の油単
掛候挟箱御もたせ候、是何とて子細有之事候哉、其元にハいかが
被及聞ニや、 
答曰、我ら承り及候は、故中納言殿御事ハ不及申(もうすにおよばず)

御息参河守殿御代共に今時御三家御同前の挟箱にて有之
候由、 松平伊代守殿にハ姉ヶ崎壱万石拝領あられ候節よりも
越後高田之城主被仰付候を以て後迠も常躰之挟箱斗を
御持せ候処に、本家相続被仰出
(おうせだされ)候以後之義ハ諸事共に故中納言
殿、故三河守殿両人之通りと有之を以て、挟箱の覆なとも金の
葵の御紋を付られ、参勤之儀も先両人之通に可有之
(これあるべく)候處に
寛永二年  大猷院様より御三家御同前に上野国に於ひて
御鷹場拝領被仰付、是非ともに在府之間久しき様に
被仰付候迠、其節江戸逗留之内所々の御門、番所、又ハ途中に
於ひてハ人々御三家方と見違、歴々方にも下馬被致候衆
中など多く候に付、伊予守殿にハ是を難義と有之、夫より

挟箱之紋所之見へさる様にとありて、皮の油単を御掛させ
候となり、 しかれハ別に  公儀よりの御差図にても無之に付
何時にも火事、騒動、人込之時節に至り候てハ上の皮油
単をはづし申筈の義に候と也、 此油単の義に付我等若年
の節浅野因幡守殿、丹羽左京太夫殿へ振舞に被参、夜に
入帰宅の節、勝手座敷之内に詰番所と申て近所之
侍共詰居申所有之。 其前を被通候とて徒頭の者に被申候ハ
其方支配之徒の者梶川次郎左衛門義、我等方へ不参以前にハ
松平越前守殿に罷在候間と申ハ其通りか、と被申候へハ成ほと
御意之通に候と申候得ば、其義に於てハ次郎左衛門を呼に遣し
候へと有之、程なく次郎左衛門罷出候へハ、因幡守殿次郎左衛門に被尋候は

酉年大火之節、越前守殿にハ龍の口上屋敷より浅草辺へ立退被
申候節、挟箱に懸りたる油単を取らせ候と有ハ其通りかと
被申候ヘハ、 次郎左衛門承り越前守立退候節屋敷之内所々より焼上り
殊之外急火成義に在之候、 越前守ハ玄関の式台の上より
馬に被乗候とて供頭役の者を呼、皮挟箱の油単をハ何とて
取せ不申候哉、か様之時節にも油単を取まじきならハ覆の
金紋もいらぬもの也、 急ぎ取らせ候へと被申候へハ、あまり火急に御座
候に付、歩行仲間の者共寄り集り、引破り取捨候と申候ヘハ因幡守
殿御聞あられ桑原宜済と申儒者へ向われ、あの男が口上にて
埒明(らちあき)候たる由御申候と也、 右伊予守殿寛永六年  台徳院様御不
例有之在国之諸大名方御機嫌伺として参向之義無用

有之義、京都大坂などへ被仰遣候へ共、猶又参上之方も在之候て、差
留候様にとの儀にて、川崎表へハ伊奈半左衛門殿被相越
(あいこされ)候、品川御殿
迠ハ御目付衆両人被仰付、差出候と也。 時に伊予守殿にハ機嫌伺とし
て越前より一騎掛ケの様に下向あられ候所に、 川崎の宿に
おひて半左衛門殿手代共罷出申候は、当宿より江戸の方へ
御大名方御越の義ハ御停止
(ごちょうじ)に御座候、是より品川御殿に御入候
御目付中へ御使者を以て御機嫌御伺ひ可然
(しかるべし)と申候ニ付、川崎
浦より舟にて江戸浅草の屋敷参着有
(さんちゃくあり)。 其趣を御老中方迠
被相達候処、早速上聞に達して早々登城可被致旨
(いたさるべきむね)被仰出候に付、
則登城被致候へば御側近く被為召候間、諸人にかわり御機嫌伺と
して参上之段御満悦に被思召
(おぼしめされ)候間、御懇意之上意を被成下候と也。

依之右伊予守殿以来今に於て江戸参勤之節、舟奉行壱
人舟に足軽を廿人宛召連、供仕家法に有之と也。 同問て云
右伊予守殿幼少之時、駿府に於て  権現様上意を以養子に
被下、おかち殿と申たる御女中の義ハいかなる筋目の人にて、後にハいかが
成被申たる義にや。 答云、我々承り伝へ候ハ北条家の侍にて
遠山四郎左衛門と申たる者有之。 北条氏康の代に至りて丹波守に
なし武州江戸の城主に申付被置候と也。 右丹波守嫡子隼人
正戦死を遂、外に男子と申てハ無之女子斗
(ばかり)餘多有之、婦女を
ば同国稲附之城主太田新太郎康資妻とす。 康資に二人
の子有り、是を新太郎守政、姉をおかちと申候と也。 権現様
関東御入国被遊候以後右之おかちを被召出
(めしだされ)、御側近く被召仕候て

京都聚洛の御屋形に於て、おかち殿腹に御姫君御壱人御出
生被遊候処、五歳にて早世被遊、今程嵯峨清涼寺に
権現様の御姫君様と申奉り御影、御位牌等の御立御座候は
右おかち殿の腹の御姫君様の由也。 其後ハ御子も無御座に付、
或時 権現様おかち殿へ上意被遊候は、子も無之義なれハ養子
を致すべしなどと有て、其方養子抔と有之候て当城内にて
そだち申にて有へし、然れば外の者ハ成間敷間、我ら孫子
共の中にてとらせべきと有、 上意にて右伊予守殿義其節は
十一才になられ虎松殿と申時駿河へ被召呼て、おかち殿へ養子
に被下候由と也。 其節 権現様おかち殿へ上意被遊候ハ虎松義来
年ハ十二歳に成候間、江戸表へ差下し将軍の側にて成長

致させ候様にと有、仰
(おうせ)の折ふし御用ニ付江戸表より本多佐渡守殿
被為越
(こしなされ)候ニ付、おかち殿より御頼にて佐渡守殿同道にて虎松殿
江戸へ下着あられ候處に  台徳院様にも早速御目見被仰付、則
介抱之儀は直
(ただち)に、其方苦労に致遣し候様にと佐渡守殿へ被仰付(おうせつけられ)
一万石の采地などを被下置、節々御城へも被召呼、御側に被差置候也。
其後又駿府の御城内にて懐妊の女中方有之をおかち殿へ御預け
被下
(くだされ)、其方部屋にて平産致させ男子にても女子にても其方が
子に致してそだて候様にと有之  上意に付、右之女中を則おかち
殿部屋へ引取差置候処に、月もよし御男子御誕生被遊、御息才にて
御成長なされ後に水戸中納言頼房卿と申奉り候と也。 右おかち殿
権現様御他界以後、英勝院殿と申江戸表へ下向あられ田安之

御比丘尼屋敷の内に居住あられ候処に御本丸よりも御懇意被遊候、
其上水戸頼房卿には御実母同前之御もてなし、松平伊予守殿
にも一旦御養母と有之、筋目立られかたのごとく馳走あられ候を以
随分豊饒成暮しにて御入候となり寛永拾九年九月卒去にて
英勝寺に於て法事の節、仏参のため伊予守殿儀鎌倉へ御暇願
候処、御老中方にも其訳を聢と御存知無之、水戸殿御家へ内證
御問合有之候へハ委細相知候ニ付早速御暇被仰出、伊予守も英勝寺へ
参詣あられ候と也。 英勝院殿息才にて田安へ御入候節、水戸頼房卿と
松平伊予守殿御両人一所に御振舞の義毎度有之候処、水戸殿之
御方ハ御叔父と申、其上御家柄之義に有之候へハ、英勝院方に於て
御出会之節ハ頼房卿の御方より伊予守殿を御慇懃に御あいしらい、実の
御兄弟のごとくむつましき御出合有之。 我等いつとても定りて御相伴に
参り候付、よく見およびて候と有義を太田道顕老常に物語あられ
候となり


松平三河守、故中納言: 巻4制外の家参照
油単: ふろしき


48                       目次 
       新御番衆初の事
問云、御旗本に於て新番衆と申候ハ何れの御代、いつの比より始り
申たる義にて候哉。 答云、我ら承り及び候ハ  大猷院様御代寛永の
初め比の義にても候哉、御老中方へ被仰出候ハ大奥方年寄女中を初め
其外おもき役をも勤候女中共の弟甥など有之者の中にて
壱人宛呼出呉様
(よびだしくれ)にと有之願ひなとをハ不申哉(もうさずや)と御尋被
遊候に付、 上意之通其義をハ奥年寄ともを以相願申儀にても
御座候。 女中ながらも昼夜骨を打御奉公をも申上候者共の願ひな
る義に候へば被召出
(めしだされ)被遣(つかわされる)御尤之旨御老中方も御申上候故に、番入之

義はいかが存候哉、との上意に付、土井大炊頭殿被承
(うけたまわられ)、大御番などへも可被
仰付やと被申上候へば、女中共の義は大井川桑名の渡しなどを殊ノ外
難所の様に心得道中を致させ候義を迷惑に候、との義なれハ大御番之
組入をば除き遣候様にと  上意に付、御老中方何れも兎角の御請も
無之処に、重て両番之中へ入候て如何と有  上意に付、大炊頭殿被申
上候は両御番については何れも三河以来数度之御軍火をも仕候者共の
子孫、扨ハ御譜代大名之次男三男なとを御奉公に差上度旨相願
ひ候へハ、両御番の中へ被召出候義に候へハ御書院御衆□に番組と申ハ重き
義に候へば、如何可有御座
(いかがござあるべく)候哉と有之、同役中の方を見合せ申候へば
残ての御老中方にも、大炊頭申上候通に私共儀も存候と各申上
候と也。 其後被仰出候ハ、両御番入之義をいつれも無用と有るにおい

てハ新番と名付、別に呼出すにて可有之との 上意にて
夫より新御番衆と申義ハ初り候由。 其節御老中方より御宛行
之義 并
(ならびに)番頭、与頭等之義いかが可被仰付候哉(おうせつけられべくそうろうや)之旨御窺候へば
御宛行の義ハ両御番と大御番との中分にて弐百五拾俵被
下置、其かわりにハ馬を持候義を御免被遊、御番頭に布衣の
御小姓衆、与頭にハ平の御小姓を可被仰付との上意に有之候となり。
去るによって其砌ハ平の新番衆へも御夜食迠被下、御番所も
御庭ちかく、所々の御成先において両御番衆の釣り合にハ増り
て相見へ候となり。 同問云、右新御番衆の御宛行之義被仰出候節
両御番衆とハ五十俵すくなく被申置候に付てハ馬を持候義
御用捨被遊候との事等有之候由、、されハ其節の義ハ三百俵被

下置両御番衆と申はいつれも馬を持、供に被致
(いたされ)たる様子に相聞
候。 其節之義ハ当時に合せ申てハ米の直段も殊ノ外下直
(げじき)に有之
たるとの義に候処、いかが被致
(いたされ)候間左様に厩の明き申さすごとくにハ
被仕
(つかまつられ)候哉、 一円合点の不参事共(まいらぬことども)に候。 答云、其段の前方(まえかた)にも申
通り時代がらと申ものにて、さして不審なる事にても無之候。
子細を申に前方御旗本において三百俵など取り被申候小身
衆の様子を承り候に、衣服等之儀も番きる物と名付絹紬
(きぬつむぎ)
とを以て調へ二ツか三ツか所持致され、常々の義ハ布子もめんぬきを
着あられ、向備屋敷とり家居ともに構無之
(かまえこれなく)、何ぞさかな一種
ももとめられ候へハそれを汁に申付、近所あたりの心やすき相
番衆へハ人を通し飯をば食次に入て、膳椀をそへて面々の

宿より持寄に致して給あい被申ごとく有之、 其会合名付て
汁講と申し事済候と也。 左様に物毎を質朴に致して
無用無益の物入之義においてハ随分と是をいとひ、人馬にさへも
事をかかさすハと有之ごとくの意地あひを専らと有之候は、是皆
権現様御代参河以来之御家風の相残り候間、 と申ものにて候を
人々乱世の餘風とはかり相心得候と有るハ、大きなる了簡違ひと
存候。 子細ハ乱世の最中にも上杉管領憲政。今川氏真などの
ごとくなる家々も有之事に候。 畢竟乱世にかぎらず家々
の武道の盛衰次第と相見へ申候也


大御番 将軍直属の部隊、一年交代で大坂城、京都二条城、江戸城警護
両番 書院番と小姓組を合わせ両御番という。書院番は将軍の直接護衛、
   平時は江戸城内警護、小姓組はより将軍に近い所の警護を行う

49                        目次 
       播州赤穂城取立之事
問云、播州赤穂の義ハ古来より無城之地に有之候処に寛永年
中浅野内匠頭殿拝領之節、相願自力を以只今の城を取立
被申と有之候ハ、内匠頭殿義始めハ常州笠間に在城被致候処に
播州赤穂へ所替被仰付候節城地を被召上、無城の地へ被仰付候段迷
惑に被存、自分普請にて城を被築申度旨御願ひ被申度、と有
義を浅野一家之衆中へ内談被致候処、本家之松平安芸守殿を始
其外之一門中共に内匠頭殿の存寄之程尤にハ候へ共、此表左様之
御願被致候てハ何とやらん御上へも相障り申かにて候間、今少見合
被申可然
(いますこしみあわせもうされしかるべし)との義も相談、埒明不申に付、御譜代仲間と申候其上日
比入魂
(ひごろじっこん)にも有之候を以て、水野監物殿へ右御願之義を取次給り
候様にと内匠頭殿頼被申候へば、監物殿御申候は御頼の趣に□
に依てハ承知致候へ共、先御一家中などへも御内談あられ御尤
(ごもっとも)となり。
内匠頭殿被申候ハ被仰聞
(おうせきかされる)とても無之、一家の者共へも相談相懸

候處に当分之義ハ差控に可申旨何れも申に付、埒明不申
(らちあけもうさず)を以止事
を得ず其元へ御頼申義に候、 手前普請に仕度願ひ上候ても
御取上無御座においてハ覚悟を極め罷有事に候、 其段頼入存
候旨内匠頭殿無余儀被申
(よぎなくもうされ)候に付て、監物殿にも然る上ハと有之
御月番之御老中方へ被相越、其段御申達候処、程過て右之御月番
監物殿を被召呼
(めしよばれ)被仰渡候は、先日御申聞之内匠頭新城取立之
儀、同役中申談 上聞に達し候処、赤穂の地にハ城御用に無之候
ニ付被仰付間敷との義ニ付、其段内匠頭殿へ御申遣候様にと有之
候へば監物殿被承、然るに於ひてハ今晩にても明朝にても内匠頭
を同道仕参上可致候間、其節右之上意之趣を其元御直に被仰渡
御尤に候と有之候へば、惣して何事によらず取次衆を以被申聞候儀

をば又其取次の方へ返答申事に候間、御作法之通、其元より御申通シ
尤に候と也。 時に監物殿被申候は御仰渡之通りと有之上ハ兎角の
可申
(もうすべく)様も無御座候間、急(いそぎ)是より内匠方へ罷越只今仰渡候趣をば
可申聞候、 然るにおいてハ内匠儀ハ不及申
(もうすにおよばず)、拙者儀も各様(おのおのさま)へ懸御目
候ハ是を御暇と存候、是非なき次第に候と有之、既に退出被致候
を押留あられ、其元只今の御口上ハ承り不届事
(とどかぬこと)ニ候、委細を御申
聞候様にと有之候へハ監物殿被聞、其段ハ御勘弁にも可有之事に
候へハ、我等申迠も無之儀に候と有之候へ者、只今其元御申分に内
匠事ハ不及申、 手前義ともに是を暇乞と御申の段承り捨申は
可致
(いたすべき)様も無之候、其段を委細に御聞(おきかせ)候様にと有之候へば、監物殿
御申候は、か様之義ハ申迠も無之儀に候へ共御尋之上ハ申にて候、

只今迠内匠頭罷在
(まかりあり)候笠間の城地の義ハ、  権現様より浅野弾正大弼
長政へ茶之代に仕候様にとの上意を以て被下置
(くだしおかれ)、其子采女正より
当内匠迠三代相続領知仕たる城地被召放
(めしはなされ)別人に被下、内匠
をば無城之地へ被遣
(つかわされ)候ニ付、無是非仕合(ぜひなきしあわせ)に存自分普請に仕城を
取立在城仕度
(とりたてざいじょうつかまつりたき)と有御頼を申上候処、其段共に御取上も無御座候と有
之にてハ、内匠頭義は城主の器量の者に相当り不申者と御上の
思召にも有之候哉、と世上之取さたにも及び可申候ハ必定に御座候。
左様に候てハ其身の一分にも相立不申儀に候間、領地を差上男を
相止め申より外無之と有、奥意を相定ての今度之御願に及候。 私不了
簡故内匠頭所存之通尤と承届、ケ様之上にて内匠頭壱人に身
上を果させ、見物いたし罷在候てハ世上之申分も無之、第一は浅野

一家之面々存る前も有之候へば、其通りに仕候而ハ罷在りて候間
岡崎の城地を差上、内匠頭と手を引高野山へ罷登り候て男
を相止候外は無之と覚悟相極め候旨申上候へハ、委細承り届候、先
程申達候内匠殿方への口上之儀は先被差控尤
(まずさしひかえられもっとも)に候。 其内是より可申
承との義ニ付、監物殿御帰宅あられ候と也。 其後御老中方より浅野
内匠頭同道にて明四時御用之義有之候間、登城可有之と監物
との方へ奉書を以被仰聞
(おうせきかされ)候義に付、両人共に登城被致候へば御老中
方御列座にて被仰渡候は、今度拝領被仰付候播州赤穂之地に
おいて新城取立之儀聞召被届
(きこしめとどけられ)候ニ付、願之通被仰付候。 然共彼地
の城之儀さして公儀の御入用と有にハ無之ニ付、拝借等之儀にお
いて不被仰付候、手前普請之義に候へハ勝手次第速々に取立候様に

被思召候、 右新城築立相済迠之義ハ  公儀御普請、御手伝等之
義において御用捨可被成
(ごようしゃなられるべく)との被仰渡に有之候と、 依之右御礼として
内匠頭殿御老中方へ相廻候節、御月番之御老中方門前にて監
物殿、内匠頭殿へ御申候は、其元にハ御老中方不残
(のこらず)御廻りと存候、外之
御老中方へハ手前同道にハ及不申
(およびもうさず)候、其内以来御悦可申(およろこびもうすべし)と有之
候へば内匠殿御申候は、今度之義偏に其元の御情故忝次第
に候、追付御老中相仕廻以参、御礼可申入と有之候へハ、監物殿御申
候はかならずかならず以て手前方の御出にハ不及申
(およびもうさず)、御老中方を御
仕廻候ハヽ、直に小幡勘兵衛方へ御越、赤穂新城縄張等之儀御相
談御頼御尤に候、善ハ急ケと申事にて有之候、と御申候由、内匠頭殿
家来井口惣兵衛物語也


浅野内匠頭長直(1610-1672)初代赤穂藩主五万三千石、忠臣蔵浅野内匠の祖父。
浅野弾正長政(1576-1611))豊臣政権の奉行、関が原で東軍に属した嫡子幸長が浅野本家を
   継いだ時に隠居料(茶の代わり)として常陸国真壁5万石拝領した。三男長重(采女正)が相続
赤穂城築城 1649年開始翌年完成
水野監物 徳川譜代の臣、三河吉田4.5万石から1645年岡崎城主、五万五石となった水野忠善と思われる
小幡勘兵衛景憲(1572-1663)武田家譜代の家柄、武田滅亡後徳川に属す。
   甲州流軍学者で山鹿素行の師、甲陽軍鑑の作者説もある
    
50                                     目次 
       安藤右京殿え松平伊豆守殿入来之事
問云、安藤右京進殿寺社奉行の節、ある朝松平伊豆守殿御老中之時、不
時に御見廻候て直に書院へ御通り候を以て、右京進殿家来共大きに
周章候由を申触候をばいかが御聞及び候哉。 答云、其儀を我等承
及び候は其日の朝、右京殿には児小姓を御呼、松平出雲守殿
へ手紙を遣し、少々私宅にて申談度事有之
(もうしだんじたきことこれあり)候間、後刻登
城懸
(とじょうがけ)に御立寄待入候旨申候様にと被申遣(もうしつかわされ)、其使の者立帰りて
手紙の返事ハ無之、口上にて御紙面之趣相心得申候、後刻以参
可得御意
(ぎょいうべし)との義にて、同役之出雲守殿にハ来臨無之、松平伊豆守殿
御出、右京殿には未御宿
(いまだおやど)にか、と御申有之直に書院へ御廻り候を
以て、家来共大にうろたへ右京殿にも不審に被存、上下を漸々
と着合せ御出候と、是ハ不存寄御出に候と被申候へば、伊豆守殿にハ

時をとり違へ少はやく出候ニ付、是にて時を待合せ可申と存立寄
候との義に付、菓子の茶のと有る内に伊豆守殿にも小児姓を
御呼、是へ家老中へ逢申度
(あいもうしたき)と御申に付、加茂下内記と申家老
罷出候処、伊豆守殿御申候は、我等今朝是へ参りたるにハ子細有之
候、 其方たちへ頼入度
(たのみいれたき)事有之ての事に候、今朝右京殿より登城
之節立寄候様にとの御手紙に預り候、勿論上書にハ松平伊豆守
と有之候へ共、定て松平出雲守殿へ被差越候手紙の書違と存候
に付、委細相心得候旨口上にて返答申入候、 右京殿登城あられ
出雲守殿に御逢にて早速相知申義に候へ共、其申次を致し
たるもの、手紙を調へ候物書とも義も定て右京殿御しかり可有
(おしかりこれあるべく)候ハ必定に候、 松平出雲守殿、松平伊豆守とハ一字違ひに人は

左様成聞違へ、云違へなども事多き節はなくてハ不叶義
に候、 其段を可申
(もうすべき)ため斗に我等罷越したる事に候間、右之者共
を右京殿御叱りあられざる様に其方達を頼入候、 此上にも
若御しかりと有儀を聞候においてハ、其方達へ我ら申分有之
事候と御申に付内記謹て承り、御意之趣奉畏
(ぎょいのおもむきかしこまりたてまつり)候、右の者共
承り伝候ハヽ冥加に相叶ひ忝
(かたじけなき)次第に奉存にて可有御座(ござあるべく)候に、と
申候得ば、右京殿にも扨々忝義に存候由一礼に被及内
(およばれるうち)に四ツ時を
打候に付、伊豆守殿と同道にて登城被致
(いたされ)候となり


安藤右京進重長(1600-1657)幕臣高崎城主5.6万石、寺社奉行在任1635-1657
松平出雲守勝隆、幕臣上総佐貫藩1.5万石、寺社奉行在任1635-1659



落穂集巻九

51                            目次 
      岡本玄冶法印新知拝領事
問云、家光将軍様御不例
(ごふれい)以之外成御様躰御座有た
る、と申候ハいつ頃の義と其元には被聞及
(ききおよばれ)候哉。 答云、我等の承
及び候ハ寛永十年と同十四年両度御大切成御不例に御座成
由、其内二度めの御不例と申ハ至て重御様躰
(おもきごようてい)にて御医師衆
何れともに御療治御叶被遊間敷
(あそばれまじき)と有旨を被申上候ニ付、御三家
にも御気遣ひに思召候処に、前方
(まえかた)御不例の節も岡本玄冶
法印御薬にて御快然被遊候間、今度も玄冶御薬を可被召
上旨   上意之処、玄冶被申上には以前の御不例とハ御違被成
今度之は御大切なる御様躰にも御座候へハ、私御薬を差上候

儀は仕かたき旨御断被申上候処に、其方御薬を可被召上、
(めしあがられるべき)旨仰出
其上御様躰の義は、御医師衆一同大切の旨被申上には辞退
被致に不及旨、御三家方にも仰之由御老中方御申ニ付、玄冶
御薬を調合被差上候処、其御薬を被召上やいなや御快と有
上意の以後段々御順快被遊候ニ付、玄冶夫迠ハ五十人扶持被下
(ふちくだしおかれ)を新知千石拝領仰付候と也、 右御不例御大切と有之候砌(みぎり)
御城に於て井伊掃部頭殿には大目付衆を御呼有、今度御不例
ニ付御三家方、駿河大納言殿には御機嫌伺として毎日登城あら
れ候、当時御三家方と申ハ正敷
(まさしく)  公方様の御叔父様方にて
御入候得共、登城とあられ候節何も御あいしらい様子以前に
かわり奉る義も無之候様ニ相見へ候処に、此日に至り駿河殿

登城とさへ有之候へば、諸役人中我も我もと御目通りへ被罷出
(まかりでられる)様子
に相見候。 日頃左様に致し被付
(つけられ)たる衆中たりとも、此節は
御上の御不例に取紛れ不被罷出(まかりいでざる)候ともの事に候、 増てや日頃
左様無之衆の義ハ近頃見苦敷事に候、と苦々敷御申付(もうすにつけ)
其以後の義ハ日頃出付被申たる衆中も被罷出義ならざる
ごとく罷成候と也。 右は永井日向守殿雑談あられ候と也。 其まへ
御不例の時なるべし


 岡本玄冶(1587-1645)家光の侍医、京都、江戸に住み皇室からも信頼されていた。 
 玄冶店は岡本玄冶が拝領した江戸の土地に貸家を作り、この名前がついた。
 駿河殿 家光の弟で子供の頃家光を差置き次期将軍候補だった、寛永九年改易、
      巻一御城内鎮守参照

52                         目次       
        楠由井正雪が事
問云、以前由井正雪と申たる浪人ハ徒党企
(ととうくわだて)候故に訴人の者
有之露顕に及び、同類悉く御仕置に被仰付
(おうせつけられ)候と有之はいか様
之次第に候と被聞及候哉。 答て曰、其儀は  大猷院様之
御他界の年の義と覚申候。 我等幼年之時の儀に有之候

正雪事ハ同類の輩に委細の儀申合置て、其身ハ駿府へ
罷登り梅屋町とや申所に忍居在て、種々の悪意を相企
罷有内に御当地に於て訴人有之悉く相顕れ、駒井右京殿へ
被仰付駿河へ被遣
(つかわされ)、彼地の町奉行落合小平治と被相儀、正雪
儀は何とて生捕に致御当地へ被引下度と有之所に、正雪并
同類の輩共に不残旅宿へ取篭自殺致候て相果候となり。
其節御当地に於ひてハ丸橋忠弥と申浪人者被召捕へられ、
数日御詮議の上品川表に於て、同類不残磔罪に被仰付候。 右
科人共被引渡候節、我等なども井伊掃部頭殿屋敷前に於て
見物致候處に、丸橋ハ鼻馬にて其後に段々と相つづき妻子等
迠も被引渡候中に至て幼少なる児共の儀は切縄を結て

首に懸させ手にハ風車人形なとを持せ、 穢多共是を抱き
母親共の乗候馬の脇も附そひつつ参り候ごとく有之候。 其節迠ハ
外桜田御門外只今馬たまりに成候処に、上杉殿向屋鋪と
申て有之が、 其門前迠丸橋が馬の先のぼりハ参り届候へ共、跡の
紙のぼりハいまた麹町土橋辺に相見へ申程の義に有之候故
前代未聞の事也、と見物の諸人共に申候也。 同問て云、右正雪
と申たる者の義は名字をば楠と名乗、先祖楠判官正成より
伝来之由にて、門弟を集め軍学の指南をも致、其頃世上に
広く人にしられたる者の由に候、其人と成の次第ハいかが被聞
及候哉。 答曰、我等の承り及候は、楠正成の正統なとと申ふれし
ハ皆以作り事にて、元来ハ駿河国由井と申所の紺屋の世倅にて

有に紛れ無之候由。 幼年の比
(ころ)より同国清見寺へ遣し置、学文を致させ
後々ハ出家と可致
(いたすべし)と有、親々共ハ存知寄に有之上ハ、其身出家を
きらひ御当地へ罷下り是かしこと徘徊仕り、牛込辺に罷在
(まかりある)
内に段々子細有之宜成り、 浪人をたて罷在候処に下町辺に
楠正成が嫡流と申ふれ、一巻の書と名付候家伝の巻物など
所持仕りたる由を申ふれ候。 年寄たる孤独の浪人ものに有
之候を承出して正雪念比
(ねんごろ)に致し、朝夕の儀迠をも世話
に仕り遣し候處を以、弥入魂
(いよいよじっこん)に成、後々ハ父子の契約を致し
近所あたりの者共えも其広めを致罷在内に、件の老人
病気付相果候砌も忌服を受、仏事作善のいとなミ迠も
(ねんごろ)に仕、夫よりハ楠正雪と名乗、楠流の師と号して書物

等をも編立、門弟をよせ集、指南を致、世間広く徘徊致し
知人等沢山になり、其身のさし当利発に有之を以、才知なども
有之如く人々存附候へ共、畢竟
(ひっきょう)武士道も本意にたがひ、正儀
正法の本理を弁へざるが故に、大悪不道の企に及びおのれが身を
失ふのミに非ず餘多の人をもともなひて相果候由也。右悪党共の
御仕置相済候以後、御当地において
焔硝の差置所の御吟味有
駿州久野御番附として榊原越中守殿へあらたに与力同心御頭
の儀など被仰出候となり


榊原越中守 旗本三千石、代々久能山東照宮司を勤める、越中島に屋敷
を拝領しており、地名の語源となった

53                             目次
P1         酉の年大火之事
問云、御当地に於て大火事など申儀已前はまれに有之
たるとハ申ハ其通の事に候哉。 答曰、久敷以前桶町より出火
致、新橋迠町並に焼候義有之候由、関東御入国已後御当地
P2
初ての大火事故、其節在国あられ候諸大名方よりハ何れも御機嫌
を被相伺也。 是を楠町の火事と申候て我等など若年の比
(ころ)
夥事に申ふれ候、然所に明暦三年酉の年に至り御当
地始りての大火事にて武家屋敷、町屋敷共に悉く類
焼致候也。 同問て云、右の年の大火事と申も当年よりハ七十年余に
も過去
(すぎさり)候を以、慥(たしか)に覚へたると申人も稀事ニ候、委細承り度事ニ候
答云、右大火之節我等儀は十九歳の時の義に候へハ大躰は覚居申候
正月十八日十九日両日之大火に在之候、先十八日の朝飯後の比
(ころ)よりも
北風つよくして土埃を吹立、五六間も先の方ハ物の色も見へ不申
候ごとくに有之、其節本郷の末本明(妙)寺と申法花寺
(ほけでら)より出火いたし
御弓町、本郷湯島、はたご町、鎌倉河岸、浅草御門内町屋を悉
(ことごとく)
P3
く焼広がりたると申候へ共、外桜田之辺、我等など居申近所にてハ
誰も不存候ハ右申土ほこり故、焼先も見へ不申候處に下町辺
より逃来候もの共の申ニ付、初て存たる程なる事に候。 右之
火ハ霊岸嶋、佃嶋を限りに通り町を海端を焼通り、夜半
過に至り漸々焼鎮り申候處、然るに翌十九日にも前日の刻
限に北風強く、焼場の灰まじりに土埃を吹立候ニ付、諸人
気遣居申処に又候や小石川より出火致、大火に成候へ共土埃
故煙先相見不申、初のほどはしかと相知不申処に牛込御門
の内大屋敷不残類焼いたし、竹橋御門内御堀端に有之候
紀伊大納言殿、水戸中納言殿の大屋敷一度に焼上り候ニ付
其火御本丸へうつり金魚虎
(きんのしゃちほこ)の上りたる五重の御天守へ焼
P4
付、夫より段々と焼広り御本丸中の御屋敷不残
(のこらず)御焼失
にて、大手門先へ焼出、神田橋、常盤橋、呉服橋、数奇屋橋等の
御門、矢倉不残焼、八重洲河岸をかぎりに焼上り候処に、其日の
八ツ時迄又候六番町辺より出火致、半蔵御門外松平越後守殿屋
敷を始、山王の社、井伊掃部頭殿屋敷へ移り、霞ヶ関辺外桜
田近辺の大名屋敷不残焼、虎の御門より愛宕の下増上寺
門前より芝札之辻辺、海手を限りに焼候を江戸中にてハ西丸
和田倉、馬場先、外桜田御門之内斗残りたるごとく有之候なり。
其以後は御当地の火事度々有之、左様の節ハ風も吹
候へ共右酉の年大火之節ごとく成風と有之儀ハ我等終
(ついに)覚へ
無之候、子細は壱弐畳斗共
(いちにじょうばかりとも)相見候火之付たる屋根こけらを
P5
中に吹とばせ申如く有之候也。 同問云、右大火之節 御城さへ御
類焼ほとの義に候へハ公辺、又ハ外々に於てもさまざまのかわりたる
義なども可有之様に被存候事に候、何ぞ被聞及事ハ無之
候哉。 答云、御申のごとく大変の砌也義にも有之、広き御当地
の事に候へハ定而種々の変りたる儀も可有之候へ共、手前とて
も其節は若年の儀にも有之、其上取紛れ候節の義に候へハ
委細には可存様も無御座候、然共其砌
(そのみぎり)世上に先(まず)及び候事
などハ少々申述候なり。

十九日四時比になり小石川より出火、大に焼広がり田安御門内
の大名屋敷へ火移り候節、松平伊豆守殿にハ御留守居衆
御呼、此風並にてハ  御城の儀もいかが御心元なき事に候
P6
しかれハ  公方様にも御立退被遊候にて可有之候間、先女中方
の義ハ上下共に早々西丸の方へ立退せ候様に可然
(しかるべく)候、上ツ方の
女中の儀は表向の道筋不案内に可有之候間、道通りの畳
壱畳宛はね返し、夫を知
(しる)へに被出候様に御申付候へと有之。
其通りに御申付候を以、女中に候へ共道に迷惑被申儀も無之
何れも無事に立退被申候と也

公方様にも弥
(いよいよ)御立退可被遊との義に付、其前方御徒目付壱人
百人御番所へ御老中方の御差図にて候、此御番所へも定て火之
粉可参候間、組の同心衆へ下知あられ随分御防がセ候へとの義に
候と被申候処に、其日は横田次郎兵衛殿当番故、御番所之前
に居られける、是を聞れ件
(くだん)の御徒目付衆へ御立向へ、只今両
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日の大火只事に不非(あらざる)と存るを以、我等組の同心にハ御預之鉄砲
に火縄をかけさセあの如く御門を堅め罷在候ニ付、火の粉
などを払わせ申者とてハ無之候ニ付、左様には不罷成
(まかりならず)候と
被申候へハ、御徒目付衆被聞、松平伊豆守殿の御差図に候と被申
候へ横田殿被聞、御老中をもかたれ候人が左様成ばか成事を
御申有て能
(よき)ものにて候哉、伊豆守殿の事ハ扨置、たとえ
上意にも致セ此次郎兵衛に於てハ左様にハ不罷成、被申ニ付
御目付衆も不興の躰にて立帰、横田殿申分の通り
を有の侭にて被申達候へハ、側に阿部豊後守殿御居合候、御当番
ハ誰にて候哉らんと被申候ニ付、横田次郎兵衛当番と相見へ候右之
被申様に候と被申けれハ豊後守殿御聞あられ次郎兵衛ならハ
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左様に可有者との義にて御笑ひ候と也。 其後次郎兵衛殿にハ組
の与力衆被向各中の内に 御本丸御屋形内の案内を被存
(ぞんじられ)
たる衆ハ無之候哉と尋の節、誰ニも御玄関より奥向之
儀をば存不申
(ぞんじもうさず)候と有之候ヘハ、其申訳をば追て我等可致
候間、誰にても両人御本丸へ被相越、御座敷之内何れ方迄
も被参、御老中方を見掛次第に可被申候、次郎兵衛申候は
公方様にも追付西の丸へ被為成
(なりなされ)候との事ニ候、拙者儀大手
の御番にて有之候へ共、久世三四郎義組之者を被召連
(めしつれられ)、下
乗迠相詰候て居在候間、御門の義ハ三四郎へ相渡し、私義は
蓮池の御門え加番罷越
(かばんまかりこし)、御成先を堅メ候てハいかが可有御座(ござあるべき)
候哉、御窺
(おうかがい)候、旨被申達(むねもうしたっせられ)候へと、被申候ニ付、与力衆両人御本
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丸へ被罷越候處に、其節追付西の丸へ被為成候との儀にて御老中方
にも御玄関前に御入候故、右之趣伊豆守殿へ申上候処に、一段と能所へ
御心附候、成程左様に被致尤之由、被申候ニ付、横田殿事ハ御番を
三四郎殿へ御引渡、蓮池の御門え被相詰候処に間もなく御成之節
伊豆守殿御申上候ハ、次郎兵衛義ハ大手の御番にて罷在候へ共西丸へ
被為成候ニ付、御番所之儀は久世三四郎え相渡是へ相詰候、と御披露
あられ候へハ別
(べっし)て御詞(おことば)を懸させられ候と也

浅野因幡守殿其節の屋鋪ハ霞が関と申只今の松平安芸守
殿向屋敷にて有之候。 大火事の節玄関へ御出、家中の侍とも
儀も罷出相詰居申候処に於て、留守居役之者に御申付被成候は
只今の大火と云、其上御本丸御類焼の儀にも在之候へハ御機嫌
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を相伺ひ度義に候へ共、此節之事に候へハ外へ問合可申様も無之
いかが致たるものにて可有之候哉と、御申候へハ留守居役のもの申候は
御譜代の御大名方には定めて御機嫌を被伺にて御座有るべく候、
御外様衆中之儀ハ如何可有御座候哉と申に付、用人共儀も、御外様
御大名ニは
カ様の砌(みぎり)、結局御差控の方も可然哉と申候
へハ、因幡守殿御申候ハ何もしかと不存義も有べく、同じながら
外様と云内にも浅野家ハ御譜代も同前の説も有之義也
外様者の身にていわれざるさし出がましき儀を仕るか、と有之
後日に至り御とがめなど有之候て夫ハそれ迠の儀也、御本丸
御類焼についてハ  公方様にも何方へぞ御成不被遊
(おなりあそばされぬ)儀は御座
有間敷
(ござあるまじき)所に其御安座をも御伺不申と有義ハ無之筈の儀也
と御申有て立出候に式台の侍へ馬を引かせ乗出し候に付
其場に居合候侍共ハ不残供仕
(のこらずともつかまつり)候儀を馬上より見給(みたま)ひ、振袖の
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児姓共ハ皆々残り候へ、と御申ニ付、子供の義ハ残り候へ共其外の
侍大勢の供廻りにて外桜田御門へと馬を早乗られ候処に、先立の
歩行士壱り帰り、あれへ御見へ被成候ハ井伊掃部頭様にて候と申
ニ付、然ば供之者共皆々御堀端へ片付下座致候
(かたつきげざいたしそうら)へ、と御申付候
内に間近く成、 掃部頭殿にハ渋手拭の鉢巻にて供の侍十人斗
(ばかり)
を馬の側に御つれ候迠にて、因幡守殿へ御向ひ昨今ハ不軽
(かるからぬ)大火ニて
候、其元には何方へ御越候哉と有之候ニ付、因幡守殿にハ御本丸
御類焼と承り候ニ付、御機嫌相伺申度存
(あいうかがいもうしたくぞんじ)罷出候と返答被申候へば
掃部殿御聞候て、御尤至極成事
(ごもっともしごくなること)に候、御城内御殿向の義は
不残御類焼候へ共  公方様には一段と御機嫌能
(よく)、西丸へ被為
(はいりなされ)御安座の御事に候、 其元にハ桜田御門迠御越御尤ニ候、本御番は
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相馬長門守にて岡野権左を加番に被仰付、詰被居候間、権左迠
御機嫌被相伺可然候、権左組の与力、同心共土橋へ出張御郭内
えは人を通し不申筈
(もうさぬはず)に候間、掃部頭へ御断候と有儀を御申
供中をも御門外に残し置れ、手廻り斗にて御乗通御尤に候
と被申有、自分の屋敷の方へ御通り候ニ付、因幡守殿にハ外桜田
御門御番所へ被相越、権左衛門殿え御機嫌を被相伺帰宅あられ、玄関
に於て右之首尾合など被申聞
(もうしきかされ)、用人共と雑談いたし候處
表門の屋根の上に罷有候足軽共声を上、番町辺より出火の由
呼り候を因幡守殿聞付給ひ、此風並ニて番町辺より出火と有は
心元なき義也、能
(よく)見せ候様にと御申の処に間もなく松平越後様
の御屋敷へ火移り候と有之ニ付、扨は此辺もたまるましき間
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家中何も立退候様に、と因幡守殿自身世話をやき被申処に
又屋根の上より井伊掃部頭様の大台所焼上り候と呼り候ニ付、
是はとなり屋敷の義也と申て大に騒ぎ出、因幡守殿も御出退き
家中共に久保町の方へと退候処に、虎の御門舛形の内大に込あひ
侍分の者共も怪家を致、小人、中間にハ死人七八人ほど有て
因幡守殿にも落馬被致候へ共、別儀なく舛形の内を遁
(のが)
候と也

阿部豊後守殿用人に高松左京と申者其日桜田御門へ参り
岡野権左衛門殿へ申理
(もうしことわり)候ハ、若(もし)御城廻り出火と有之候ニ於ひてハ
麻布下屋敷に罷有候家来共皆々駆付候様に、と豊後守
兼て申付置候を以、家中の侍共追々罷越候たるハ当御門より内
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へハ御人留の由に候得共、私是に罷在人別相改通し可申候間、左様
御心得被下
(おこころえくだされ)候様にと申御門外土橋へ出詰、権左衛門殿与力中へ申談自
身人改を致悉
(ことごとく)通し、以後御番所へ罷越豊後守家来共には
大方罷越候ニ付、私義も上屋敷へ参候、此以後豊後守家来之由
御理
(おことわ)り申者有之候共壱人も御通し被下候に不及候由申断て
其身も上屋鋪へ罷越也

十九日晩方に至り西丸に於て保科肥後守殿、松平伊豆守殿へ
御申候は、今日之大火に御三家方を始め千代姫様、両典厩様方の
御安否の段ハいかが御聞候哉、と有之候へハ伊豆殿御申候は、左様之義
今日の御取込故、右之処へ参り居不申旨御申候へハ、肥後守重て御申
被成候は、  公方様にハ今直前当御丸へ被為成候間、御安座の御事
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に候、只今にても御前より御尋の義など有之候節各中には
如何可被仰上
(いかがおうせあげらるべく)候との義に候哉、早々御聞届被置候様にと有之候へば
伊豆守殿にも成程仰の通御尤に候、 との義にて夫より御徒
衆を両人宛所々へ被差越候由、其刻
(そのきざみ)一座の衆中肥後守殿
え御申候は、今日之火事にてハ其元築地の御屋敷も定て
御類焼たるべく候、御家内何も無恙
(つつがなく)御立退との御左右なとを
も御聞あられ候哉と被申候得ば、成程御推量の通定て手前
屋敷の儀も類焼と存事に候、乍去
(さりながら)只今其元にも御聞及
之通、御三家方、両典厩様方の御安否さへ相知れ不申時節の
義に候へハ、此肥後守など妻子共の義成次第の事に候と御申の
よしなり
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正月廿四日の儀は毎歳増上寺へ御成被遊候へ共、右大火ニ付御成ハ
相止て御名代として保科肥後守殿御越あられ、帰宅之節京橋
へ御廻り、去十八日十九日両度に焼死仕たる者共の死骸を一所に
持寄、山のごとく積置しを見分あられ、供の侍を御呼有浅草
橋御門外にても焼死の者の死骸を積置たるとの義なり
此所に有之死骸ともと交量致多少も有増
(あらまし)を見分致
帰候様に、と御申付帰宅あられ候處に、其者立帰り能く見
分仕候処に、京橋に有之死骸の三分一程も可有之哉と申
ニ付、其後登城あられ掃部頭殿を始め各老中方へ御申候は、
手前義増上寺へ御代参として参詣帰宅之節、京橋へ罷越今
度焼死の者共の義を見分致、浅草橋へハ家来を遣し候て
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見せ候所に京橋に有之候死骸の三分一程も有之、死骸数が
きりも無之候由ニて候  公方様御当地に御座被遊候を以、天下の
万民寄集り今度の大変に出合横死を相蒙
(あいこうむり)候、と有之ハ不便(ふびん)
義にも有之、其上数万人の中にハ如何様成士の可有之も難斗
(はかりがたき)
候処に、悉く外海へ流れ捨
(すた)り次第と有之ハ如何可有之候哉、願
くハ公儀より被仰付、所々有之死骸共を一所に持寄せ取納
候様にと致度事
(いたしたきこと)に候と御申候へハ、掃部頭殿其外御老中方
も一段御尤の儀と有之、則町奉行衆へ被仰、渡穢多弾左衛門
車善七が手下の者共の役掛りと成、其者共へ公儀よりも
船と宛行
(あてがい)を被下置候ニ付、五七日が間には所々方々に有之焼失
の者の死骸斗
(ばかり)にあらず牛馬犬猫の死骸迠も残りなく
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一所に持寄埋て置候。 以後寺社奉行中へ被仰付常念仏堂を
御建立被仰付唯今の無縁寺是成

右大火之節  御城を始め諸大名方之屋敷、寺社、町屋敷共
に一同に類焼致候を以、諸方之普請一度に始申にて可有之由を
考申もの有之、江戸中の材木屋共申合、焼残りたる材木を
かこひ置、 諸方より運送致来り材木などをも買置しめ売を
致候ニ付、諸材木の直段
(ねだん)殊之外高直(たかね)に成候故、御普請之儀は
三ヵ年の間御延引被遊、御入用之材木之儀ハ山入を被仰付候て
御作事始りても買木とてハ一本も被召上間敷と有之、 諸大
名方の家作も急に被申付
(もうしつけられる)に不及(およばず)勝手次第に被致候様にと
有之、松平伊豆守殿一ツ橋の屋敷普請も材木の儀は川越の
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知行所より杉丸太を切よせられ候、と有之儀を以聞伝へ、 諸大名
を始め小身衆になる迠悉く知行所の材木を取よせ被申ニ付、
江戸中の買木之直段殊之外下り、普請も心安く出来、以町
方の義ハ間もなく立揃ひ申たる事に候也。 其節井伊掃部頭
殿にハ瀬田谷地行所へ御申越の由雑木の丸太、竹、縄抔を
取寄せ屋敷の外廻りのかこひをば高サ六尺余り共相見へ候。
塀の雨覆を丸太のみに御申付、外廻り惣長屋の立揃ひ申迠は
右の囲ひニて被差置
(さしおかれ)候ニ付、是を手始と致し江戸中諸大名
方の屋敷の外がこひをも、手軽く不致してハ不叶如く有之候也
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右十九日御本丸御類焼之節御旗本、諸役人衆中并諸番
衆の中にハ其勤方の宜
(よろしき)も有之、又大に不出来なる方も有之
に付、向後の御尋にも有之候間、御吟味之上善悪の品を可被仰出か
と専ら申ふれ候ニ付、人に依候ハ殊之外気遣致被居
(きづかいいたしおられ)たる衆
も有之候と也。 右詮議の折節、保科肥後守殿御申候ハ向後
御尋と有之ハ尤之義に候へ共、我等儀ハ不教
(おしえず)して罪すると有
之道理の様に被存
(ぞんじられ)候、子細は天正年中  権現様ご入国
被遊候以後七拾年に及候へ共、 御当地にて今度のごとく成大火と
申儀は無之、去に依て大火の節は如何相勤候様にと有之
御定法なとは御疎略
(そりゃく)の様に被存候、然ば今度の儀にハ其通に
なし置れ、自今以後大火之節は御定法を以、宜敷被仰出候様
にと御座有事ニ候と御申ニ付、御詮議成しに事済候となり
尤公辺の義に候へば実、不実の段は不存、其砌右之通風説仕候と也


酉年の大火事 明暦三年(1657)死者10万余といわれる、「むさしあぶみ」1659版本に詳細記録ある
井伊掃部頭 (直孝1590-1659)井伊直政次男、幕命により兄直勝に代わり
         彦根藩井伊家三代目当主となる。 豪徳寺招き猫の話の殿様
保科肥後守 (正之1611-1673)二代将軍秀忠の四男、保科家へ養子、家光の遺言で
         幼君家綱を後見、会津松平家の藩祖
両典厩殿 将軍家綱の弟、松平左馬頭綱重(甲斐15万石)及び松平右馬頭綱吉(甲斐15万石)
下線部分、底本に欠落、他本より補足

落穂集巻九終