落穂集巻十                                                 Home         
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                      目次
          保科中将殿之事
P1
問云
、保科肥後守殿と申たる御人の儀は  台徳院様の
御子様と有之においてハ御紛無御座
(おんまぎれござなく)候得共、御別腹故御台様の
御手前を御思召れ候を以て、親元に於て御穏便成る御誕生故
世上へも相知れ不申
(もうさず)候とも、又一説には御母儀肥後守殿を懐妊
あられ候を以、中将殿にハ信州高遠の城中において御出生とも
申触候、此両説たしかに相知れ不申候、其元にハ如何御聞及候哉
答云、保科中将殿と申たる御人の儀は 秀忠将軍様之
御息男様と申に相違御座なき事に候。 然共(しかれども)其元御申の通りに
御台様の思大かたならず御嫉妬ふかく御座候成ニ付、中将殿之
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御出生、御成長の次第ともに殊ノ外御穏便なる御様子と相聞候。
去に依て世上にて委細を存知たる者も稀成由
(まれなるよし)ニて候。
我等儀は子細有之能々
(よくよく)承り伝へ罷在事と候、先(さきの)中将殿
の御母儀常光院と申御人の義ハ、北条氏直の近侍に
神尾某と申者の儀有之、小田原没落の以後北条家の侍
共餘多御家へ被召出
(めしだされ)候ニ付、神尾も御奉公願之御帳面にハ付
候へ共召出されも無之、浪人にて罷在候が壱人の娘を持候を、
其頃井上主計
(かずえ)殿の御母儀を世上にてハ御乳母様と申
台徳院様の御乳を上ケ被申
(もうされ)たる人と申、主計頭殿の御母義の
事に候へば公儀にも御大切に被成
(なされ)世上の用ひも有之、常には
御城内に居住あられ候と也。 此御人の方へ神尾が娘を預置候を

P3
子細有之懐妊被致(かいにんいたされ)、月も重り候に付親元へ下り慶長十六
年五月平産之處に御男子様の御事故、御台様の御手前
を別ておそれ入、神尾一家の者共申合、随分と沙汰なしに
御養育申上候へハ次第に御成長なされ、御三才斗
(ばかり)に御なり候てハ
独あるきを被成ニ付、神田白銀町町屋の義に候へば近所辺
にては人々承り伝へ、天下の御若君様の御事に候へハ、冥加のため
抱き上見申度抔(など)とていろいろの御持遊びなどをひたと進
上仕るに付、夫を能事
(よきこと)に被成(なられ)ひごと門外へ御出に付、追付取
沙汰広く罷成、若も 御台様へ相聞へ候においてハ大かたの
義ハ有之間敷之間、兎角此町中にハ置参らせる義ハ成
間敷之間、神尾家の者共相談致、御三才の三月二日幸ひ
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主計殿方へ御姥の局宿下りあられ候義を聞合、御母儀には
主計殿奥向日頃案内之儀なれハ、御姥の局の御入候前へ直に
御供申されニ付、御姥の局とも殊之外成悦びにて主計殿を
御呼候へば早速参り、手を清め抱き上被申候、則御姥の局
と内談あられ其日登城の上被相伺、大炊頭殿と同
道にて御城よりも直に田安お比丘尼屋敷之内に居被
申候見性院殿かたへ御越候由。此人の義ハ穴山梅雪
の後室にて武田信玄の息女にて候を 権現様御代より
御念比
(おねんごろ)に被遊候、武州内大真木と申所にて知行六百石
被下置
(くだしおかれ)候也。 右見性院殿方へ両人衆を以御内意有之、翌日
三日主計頭
(かずえのかみ)殿宅より直に田安に御引移り、当分の
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義は武田幸松殿と申見性院殿の御養子分なり。
去に依て其年の五月節句祝などにも上にハ葵の御
紋、下には武田菱の紋を付候様にと見性院殿差図
あられ候と也。其頃御家へ被召出候甲州衆餘多是あり
何も見性院殿へ機嫌伺として被参中に、保科肥後
守正光と申たる人の義ハとりわけ見性院殿の儀を大切
に被致候を以、或時見性院殿、肥後守殿御申候ハ定て其元
にも御聞及びの儀も可有候、我等方に大切成御人を三ケ年
以来預り居申候事ニ候、御息男にて御成人ニ候得共尊も
賤も七歳より上之そだちハ大切の事にも候処に、我等方ハ
女共斗
(ばかり)の中ニ置まいらせてハ御育の程いかがと是のミ我等苦
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労に成まいり候ニ付、其元へ預ケ置まいらせて武士の道をも
御心付候様に被成給(
なされたまわ)り候へかしと也、 肥後守殿被申候は、成程安き
御事に候へ共大切成若子様の御事に候へば、其元様よりの御
頼と迠にてハ如何と有之候へハ、尤之儀に候間、其段に於ひてハ
我等能様に取計ひ可申との義にて、其後見性院殿の方へ
大炊頭殿、主計殿を招き給ひ、委細被申談候へハ、両人衆御申
候は、我等共の心得ばかりにてハ不罷成候間、折を以伺ひ可申と
の義にて被帰候が其後御前向も相済候哉、大炊頭殿宅江
肥後守殿を御呼被成、主計殿列座にて幸松殿御事は
其元へ御預被成候間、高遠へ御座をなし御成長あられ候様に
と被思召候旨被仰渡候ニ付、幸松殿七歳の御時御母子様共に
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御引越被成、尤肥後守殿にも一ヶ月の内五六度程宛の定りの御
見廻に被参候故、五度に一度も御母義へも対面あられ候ごとく在之
候と也。右之次第に候へば中将殿を懐妊之内再嫁あられ候
などとハ世間沙汰にて大き成虚伝に有之候。 同問云、幸松殿
公辺御勤と有之候ハいか様成御首尾を以之義に候哉。 答て云
其節の義は駿河大納言忠長卿御繁昌にて御入ニ付、何とぞ
幸松殿御広めを御取持被下度旨肥後守殿御願被申ニ付、然らハ
先御対面可申成との義に付、肥後守幸松殿を駿府へ御同道にて
被参候処に忠長卿御対顔之上御相伴して御饗応有之、其上
馬鷹時服、白銀等、御音物
(ごいんもつ)之上、葵の御紋付候御手に持たれ、此小
袖は  権現様の御召被遊候間御小袖に付、其方儀も追付
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目出度御紋等をも御免あられ候様にと祝候て遣候との仰にて
御手自幸松殿へ御渡し被成と也。 然共御名乗の義埒明兼
(らちあけかね)
處に寛永六年六月に至り、始て  御目見被仰付、同八年
十月七日、肥後守正光死去被致候處に六(
十か)月十二日に至り、保科
民部を始、家老役の者五人の者共酒井雅楽頭殿御宅え被召呼
(めしよばれ)
土井大炊頭殿御列座にて高遠の城地之義、幸松殿へ被下置候旨
被仰渡、同十八日幸松殿登城五人之家老共義も御目見被仰付候
同廿六日幸松殿元服あられ、同廿八日被為召、肥後守に被任
(にんぜられ)、御腰物
拝領被仰付候。先肥後守死去之後廿日計
(はつかばかり)之内にハ右之通被仰付候
と有之義は別義にあらず、幸松殿義七歳之御時保科正光へ
御預置、信州高遠に於ひて御成長あられ候を以、世上にては
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保科家へ養子に被下候様に相心得可有かと、思召を以、故肥後守
忌服を幸松殿へ御掛被成たる様にと有之ての御事に候よし
同問て云、幸松殿の事は先肥後守殿死去被致候節、忌服
(きぶく)
御請無之上ハ御実父  台徳院様御他界之節、御忌服を御請なく
てハ不相叶義に候処、増上寺御廟所御普請御手伝被仰付候内、其御普
請中御手伝被仰付候、同四月十七日之義ハ  権現様之御十七回
忌に御当り被成を以、御譜代大名と同前に肥後守殿にも参拝
之御暇御申上、日光へ御越之由。彼御山之義ハ殊ノ外成忌服御改
之場所にて有之候所、肥後守殿御拝礼と有之候段ハ一円相心得
がたきに候、其元にハ如何被及聞候哉。答云、肥後守殿御事は
台徳院様の御子様と在之においてハ御紛も無御座候へ共、未
(いまだ)
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御連枝之御広め被仰出も無御座候ニ付、御譜代大名衆並に
日光御宮拝参之御願申上候処に、早速御暇被仰出候ニ付、五月に
至り発足あられ候、日光今市の旅宿まで御越候處、江戸
表より宿次の飛脚到来、御老中方より奉書を以、其元
儀は重服(じゅうぶく)之義に候へば登山無用ニ仕、早々罷帰候様にと
有之候ニ付、北条采女と申家来を名代ニて御大刀献上有之候て
江戸へ帰宅あられ候と也。是より以後肥後守殿義を世上において
目を付かへ尊敬致、定て近内に御連枝之御沙汰之御広めなどをも可
被仰出哉、と取沙汰仕候処に其沙汰無御座、寛永十三年に至り
鳥居左京亮殿死去之後、羽州最上之城地上り申節拾七万
石之御加増にて都合弐拾万石に被遊所替被仰付候節、土井大炊頭
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殿を被為召候て、此度肥後守最上へ引移り候ニ付、俄大名之
義なれハ人に事をかき可申間、心を付遣候様にと有  上意ニ付
最上之城請取候節、大炊頭殿より侍、長柄之者以下数輩
加勢在之最上之城門所々番を勤居申内ニ、鳥居家浪人
仕たる侍、足軽等迠も肥後守殿召置給ひ、高遠より家中之者
も引越候以後、大炊頭殿家来共罷帰候節、諸番所に飾り置候
武具等之義においてハ其侭差置候様にと大炊頭堅く申付候
由にて頭役之者右之段申ニ付被留置、只今に至り水車之紋
付たる兵具会津城下に有之候と也。夫より六七年も過候て
加藤式部少輔殿身上果候砌、肥後守殿も御加増三万石并
(ならびに)南方
五万石余之所私領同前に仕置等申付候様に、との義にて御預
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之共都合弐十八万石之知行に被仰付
(おうせつけられ)会津へハ被遣(つかわされ)候得共、
御連枝の御広めとてハ不被仰出候ハ、駿河殿に粗御懲り被遊候ての
御事ぞと、其時代専ら下説に申触候と也、 或時堀田加賀守
殿肥後守殿に御申候は、此間私へ上意被遊候は保科家に
相伝りたる諸色之儀は最早肥後守方へ差置べき事も
不入事
(いらざること)に候間、保科弾正方へ遣し候へかしとの御事より、左様に
被成可然
(しかるべくなされ)と有之候へハ、肥後守御申候は、左様の上意にも候ハヽ
残りなく弾正方へ可遣候、乍去
(さりながら)権現様より先祖弾正左衛門に
被遣候御判物は手前に差置申度義に候と有之候へハ、加賀守
殿御聞候て、左様之物共に不残被遣
(のこらずつかわされ)て御尤に候との義に付、
保科家伝来之物共は取集、北条采女を以、弾正方へ御送
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り候得ば、弾正殿にも殊ノ外成悦にて使者に罷越候采女へも
腰物抔贈り候と也。此義世上へも相聞候を以、扨は近き内に
御広め抔をも可被仰出哉と沙汰仕由ニ候へ共、其義も無御座候
と也。 同問て曰、肥後守殿御事右之次第にも有之候て、縦
大猷院様御代にとて御広め延引被遊候共  厳有院様御代
と至り候ハヽ正しき御叔父様之御事にも有之候間、御一門
御広め等をも可被仰出義に御座候処に終に左様之御沙汰
も無御座候にハ何卒子細なども有之たる義に候哉。
答云、我等承り及び候ハ  大猷院様御事、慶安四年四
月廿日御他界被遊候少前、堀田加賀守殿を以、肥後守を御寝所へ
被為召て  肥後守殿御手を御握り被遊、大納言事を頼ぞと
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上意被遊候ニ付、御心安可被思召候旨、御請被申上候へば、御手を御放し
被遊候ニ付、肥後守殿にハ十方にくれ御入候處、加賀守殿御うし
ろよりしきりに手を御取候ニ付、 御前を退出あられ御表へ
被出候顔色を一座の衆中被見及候て、扨は御大切之御様躰
と各心付被申候処、夫より間もなく加賀守殿御出あられ、只今
御他界被遊候旨御広め有之候へハ、其侭肥後守殿にハ西御丸へ
登城あられ、夫より昼夜三日が間帰宅も無之様に
大納言様よりの  上意の由にて 相詰罷在候由、大義に被思召候
罷帰り休息致候様と有之間、松平和泉守御申渡に付、帰宅
あられ候と、添嶋武右衛門と申す大納戸役之者御呼有、先
年駿河大納言より被下(くだされ)候  権現様御召之御小袖を
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取出し持参仕候様にと有之ニ付、持参候へハ、頂戴あられ此御
小袖をハ細工人に申付、具足の下着に仕立させ可申候、切れの残り
中綿の餘りなどをは灰に致し、其方品川沖へ為持行(もちゆかせ)
海へ流し候様にと御申候也、 爰を以考候へハ、右之御遺言に
付、最早御連枝の御広め之儀も是迠と御覚悟あられ、其身
を臣の場に御差置、御奉公を専一との御事たるべきや、と家中
においても心有者共が申あひ候と也。 去に依て数十年が間天
下の大政、大勢に心身を労せられ、老年の以後病気を以、職
を被辞、御息家督を譲り給ふ、一首の古歌を自筆に
書調へ筑前守殿へ御渡しあられ候と也
 身は老ぬ、行すえ遠くつかへよと、子を思ふ道も君をこそ思へ
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右筑前守殿にハ早世あられ、当肥後守殿家督の以後
常憲院様御代に至りてハ、故中将殿義御出生以後七歳
迠之儀は御当地田安において御成長あられ、肥後守正光
死去之砌ハ  台徳院様の  上意を以幸松殿へ忌服を御掛不
被遊、  台徳院様御他界之節ハ 大猷院様の思召を以て御勤あら
れ候様にと被仰出候次第などに子細有之委く上聞に
相達し候を以御称号、御紋等をも被遊御免、御家門に被仰付候也


P2  井上主計頭(正就1577-1628)、秀忠近習、後老中(1617-1628)、遠州横須賀藩主5万石余
P4  穴山梅雪: (1541-1582)信玄の姉の子で信玄の娘を妻とする、武田一族だが勝頼と不仲
P4  見性院: (1554-1622) 信玄の娘、穴山家断絶するが家康に保護され、江戸城北の丸に住む
P5  保科肥後守: (正光1561-1631) 武田滅亡後家康に付く、初代高遠藩主、三万石
P10 重服(じゅうぶく): 両親への服喪
P10 鳥居左京亮: (忠政1566-1628)徳川譜代の臣、伏見城で討死の元忠の嫡子、1622最上氏改易により、岩城平(12万石)より奥州監視役として入部
P11 加藤式部少輔: (明成1592-1661)会津40万石を1631相続、暗愚なため1643改易
P12 保科弾正: 弾正忠正貞、保科正光の弟、1648大名となる(上総富津)
P13 厳有院: 四代将軍家綱(1641-1680、在職1651-1680)の法名
P15 保科筑前守: (正経1647-1681)正之四男、1669年会津藩家督相続(2代目
P15 当肥後守 保科肥後守(正容1669-1731)正之六男、1681兄正経より家督相続、1696松平姓、葵紋許可さる
P16 常憲院: 五代将軍綱吉(1646-1709、在職1680-1709)の法名、家綱の弟


55                          目次
        火事装束之事
今時出火抔有之候節、歴々方之義ハ不及申
(もうすにおよばず)、末々小身なる者
とても羽織頭巾に胸懸まで綺羅
(きら)を尽し有之候は
以前よりの事にて候哉。 答云、惣て火事装束と有之義
之初り候ハ酉の年大火事以後の義にて、其以前ハ沙汰も

無之事ニ候、子細は酉年大火事の節外の義ハ存申さず
浅野因幡守殿にも五万石領知あられ、大名の義に候へとも
今時諸家の足軽共へ着せ候様成茶色ふすべたる皮羽織
に紋の付たるを着用あられ、家中にても五百石、三百石程之
取候騎馬侍迄不残
(のこらず)柿染の木綿羽織に大紋を付て
着仕候。 いかがして持合候哉、知行取候侍共の中に只二三人
皮羽織を着致したる者あり候を覚申候。 右火事の日
井伊掃部頭殿を間近く見懸候処に是も因幡殿同前の
羽織にて、馬廻りに共致候侍共の義は皆々不残木綿
はおりを着用仕たる事ニ候。 其以後ハ足軽、中間風情の者
迠も茶色の皮羽織をきせ不申
(もうさず)候ては不成(ならざる)ごとく有之候。 以

上下見さかひ無之、侍分より上々の者の義ハ黒羽織を用ひ
申ごとく有之。 夫より今時之結構に成羅紗、羅背板羽織に
色々模様を致し、頭巾抔をも甲を見申如く間ひさし
吹返しを致し五枚三枚のしころをさげ、胸かけ様にもさまざま
の絵やらを仕ごとく罷成候ニ付、当時火事装束を一通
新に念入仕候と在之候得ば、着料の具足一領おこし立
申程の物入に有之候也。 其上武家がたの足軽、若党など
計(ばかり)にても無之、町人、出家に至る迠火事装束の支度仕り
候様成義ハ以前ハさらさら無之義に候と也

羅紗 ポルトガル語 羊毛の毛織物
羅背板 ポルトトガル語 ラセイタ 薄手の毛織物

56                         目次
      以前町方諸売買初之事
問云、御当地町方において諸売買物などの義は以前
より只今も同前の義に有之候哉。 答云、我等若き時分も

今とてもさして相替りたる義ハ無御座候、乍去
(さりながら)七十年以前
にハ御当地町中にて足袋香具や油元結店などと申儀ハ
一軒も見当り不申事
(もうさぬこと)ニて候。子細ハ大火事以前の義ハ大名
方を始め末々の男女に至迠、皆々皮足袋より外にハ用ひ
不申ごとく有之候處に、酉年大火事以後諸人共に皮羽
織、皮頭巾の支度を専一と仕候ニ付、鹿皮入用多く成を以
革足袋の直段高直
(ねだんこうじき)に成る以、末々の者ハ男女ともにみづから
木綿たびを用ひ申ごとく罷成候。 右革足袋の節は切
革屋にて調へ候ニ付、看板を出し申とは不及候處に
木綿足袋を用ひ候以後足袋店と申儀ハ始り候也。
扨又伽羅
(きゃら)の油の義七八十年以前迄ハ前髪立之児小姓

抔の義ハ格別、其外上下共に年若き男の髪に油など
をねり付候と有ハなまぬるき義に致候也。 其時代にハもミ上
の頬髭と申義はやり、尤侍の中にも有之候へとも其輩ハ
徒、若党、小者、仲間の類に餘多有之候ニ付、蝋燭の流れを
油にてときゆるめ、松やになどをくわへて伽羅の油を各付用
ひ申候。 其節も伽羅油入用と申候得とば薬種屋へ申遣し
調へ候事に有之たる事ニて候、 今時のごとくなる伽羅の油と
有は終に見懸不申候、 且叉今時もてはやし候文七元結と
申義も以前ハ無之義にて上下共に手前にてよりこき
をも致し用ひたる義にて有之候也。 扨又我等若き頃迠ハ
御当地の町方において犬と申ものハ稀に見当り不申

事に有之候。 武家・町方共に下々の給物
(たべもの)に犬に増(まさ)りたる
物ハ無之ごとく有之候ニ付、冬向に成り候へハ見合次第打殺し
賞玩
(しょうがん)仕るに付ての義と有之候也


よりこき: 紙を撚ってしごく。 紙紐にする

57                        目次
      朝鮮人参之事
問云、朝鮮人参の義ハ以前より只今の通りに才覚も調がたく
直段なども高直に有之たる事に候哉。 答云、我らなど
若年の節は人参入用とさえ有之候へハいかほど調へ申義
自由に在之、直段なとも人参壱両(十匁)ニ付銀十二三分程宛
致したる事ニ候。 其節人参を用ひ候義好ミ不申候
医師の薬をば人々気遣ひ候て給不申
(たべもうさぬ)ごとく有之、病家
において人参入たる薬を用ひ候と有を承り候てハ
扨も笑止なる事哉、と申て悔候由に有之候。 我等なども
たしかに覚居申候事にて候なり

58                         目次
      踊り児之事
問云、今時御当地之町中に於て女の子ともを集メおど
りをおしへ、又ハ小歌、じょうるり、三味線など申ものを
教へ、渡世に仕る類の輩
(やから)いかほども申かぎりもなく有之候、
以前よりの義に候哉、又は其以後初りたる事にて候哉。
答云、我等など若年の比迠の義ハ、踊子などと申ものハ、縦へ
いかほどの高給を以
(もって)召抱申度(めしかかえもうしたき)と有之候ても、御当地の
町中にハ壱人も無之、三味線と申者をば盲女より
外にハひき不申事の様に有之、たまさかにも目明の
女中などに三味線をならし覚へ候もの在之候へハ、世に
めづらしき事のやうに申触候。 去に依て其節大名衆

の奥方にハごぜと名付たる盲女を二三人抱置、御応など有
節にハ三味線ならし、小唄やうのごとくなるものもうたひ
座興をもよほし申ことに有之候、 当時の義ハ件
(くだん)のごぜと申
者などの儀の沙汰も不承
(うけたまわらず)、野も山も踊り子、三味線ひきのやう
に罷成候、元禄年中以来の義にても可有之
(これあるべく)候哉。 惣(すべ)て女の子
共を踊り子などに致し立候と有にハ、親々の造作も懸り申候
義に候へハ、五百石や千石斗の知行取候武士を目あてに仕る義
にては無之、せめてハ五七千石の知行高より万石以上の領主
扨ハ国主方へも奉公為致申度
(ほうこういたさせもうしたき)
師匠を撰び、物入もいとはずして稽古を致させ申事に候
尤これを召抱給ふ主人方にもあながち其踊り子を寵
(ちょうあい)あられ候と申斗(もうすばかり)にも無之候へ共、年若かたがたの義ハ心の

ゆるミと成、行義も乱れ、酒の一ツも聞しめし過さるゝ事
に有之、其よひまぎれにハ不養生なども繁くに罷成り
候を以、元来うすく生れ付給ふ人の義ハ申に不及、壮堅実
性に生れ付給ふ人たりとも婬酒の二つに長じ給ふに付て
はからぬ病気付、御短命にも無御座候てハ叶ひ不申候、爰以
女楽の発興致候をハ孔子なども悔ミ申されたるかにて候
我等など若年の比とハ大名方の奥方において、表より御入
と有鈴の音聞へ候ハ年寄の女中とも差図致、生れ付宜しき
若き女中共をは部屋々々へ追入、旦那殿の目通りへハ徘徊
致させ不申ごとく仕りたるとの義に在之候。 いつ比より初たる
たる事にも候哉、大名方の御息女御婚礼之節、供付にて罷

越候女中の内にて件の踊り子三味線ひきなどの類を
あつめて供させ、婚義相調ひ五三日も過候へハ年寄女中
共とりはやし、件のおとり子をはじめ座興を催し
候に付、年わかくおはします殿たちの義ハ是に増たるな
ぐさミハ無之と有心に成給ふから事おこりて奥這り斗
を好ミ給ふを見候てハ、御ふたり中も能
(よく)てと申、悦び逢候と有
は誠の女中分別と申ものにてしかるべからざる義とも可申哉
ケ様の事共ハ皆以
(みなもって)三四年斗以来の初り事にて我等など若
き比にハ承り及び不申事共に有之候と也


女楽の・・: 論語 斉人女楽を帰(おく)る、季桓子これを受く、三日朝(ちょう)せず、孔子行(さ)る。 魯国を恐れた斉国は女歌舞伎団をおくり、政治の実力者、季桓子が篭絡されるのを見て、孔子は魯国を去り諸国を放浪する。

59                         目次
       江戸大絵図之事
問云、今時江戸大絵図と申て世上にはやし候はいつ
(ころ)より出来(しゅったい)致たる事に候哉。 答云、右大絵図と申義、以前は
無之候故  厳有院様御代酉の年大火事以後、井伊
掃部頭殿、保科肥後守殿を初、其外の御老中方御打寄被成
(おうちよりなられ)
御当地大絵図と申物のなくてハ不叶事
(かなわざること)ニ候、と有之御相談
にて伊豆守殿の御懸りと成、北条安房守殿仕立差上候
様にと被仰付候処、安房守殿被申上候ハ、私義只今迠之御役
の事候へハ御用繁く一円手透も無之其上御城廻りを初、
武家屋敷、町方共に小路割、方角相違無之ごとくに仕立
申と有之候ハたやすく出来可申義にても無御座候、然る処
に私計役義に取交へ御絵図にも相懸り罷在候義ハ仕り
がたく候間、餘人へ被仰付被下候様に、と達て御断被申
(おことわりもうされ)候得とも
外へ可被仰付
(おうせつけられるべき)方も無之候間、下役人は幾人成共其元被申上

次第に可被仰付候間、右御絵図方の惣司として世話致候
様にと有之候ニ付、安房守殿御申上候は、然るにおいてハ私見
のかからう者に久嶋伝兵衛と申て只今門弟中へ指南致
させ私方に差置申候、当分浪人にて罷在候ハヽ御城内へ
立入候儀いかがに候へ共、不苦との思召も御座候ハバ此者に差図
仕り、私名代に差出し候様にてはいかが可有御座候哉、と被
伺候へハ伊豆守殿御聞あられ、尤にハ候へ共当分浪人者と在之
候へハ我等一存を以差図致しがたく候間、追て可申承
(もうすべくうけたまわる)と御申
候が其後伊豆守殿御申候ハ、此間御申聞候久嶋伝兵衛儀其
元由緒も有之、其上手前に被差置候と有之儀に候へバ(不苦
候へば)不苦候間、成程可差出候、鈴木修理儀手下之御技官

共を召れ罷出、其元の差図を請、相勤候様にと被仰付候間、其
段被相心得候様にと有之、小川町安房守殿居屋敷の焼跡
に御絵図小屋出来、修理、伝兵衛、其外御技官共罷出、最初
に御本丸之地坪へ打廻し、夫より西丸の地坪打候節之
働ハ  御殿に  公方様被為成を以、伝兵衛儀ハ差控三日程
之間ハ安房守殿自身御出、修理へ差図被致事済申候、惣て
外大手、平河御門より内へハ安房守殿直弟の者にても伝兵衛
より外にハ壱人も参り候義不罷成候、御城内之坪割相
済候以後、外之門弟共之義も弐三人程宛申合、伝兵衛
手伝として罷出候。 我等義ハ大原十郎右衛門と組合、三四度斗も
罷出候。 扨又右御絵図出来候節、御納戸へ納り不申内に

拝見致度と存る直弟之者共ハ御絵図小屋へ罷出候様にと
安房守殿御申候由、伝兵衛方より申伝へ候ニ付、何れも罷出候。
我等義は大原と同道致参候様処、清書之御絵図は箱に
入、床之上に有之、下絵図を何れも御覧仕り居申所ニ安房守
殿御出、大原と我等と両人へ御申候は、此下絵図に有御本丸
向之義ハ御堀を限り中を切抜候様にと御申付、両人にて
切ぬき候へハ、裏の方に所々紙にてかすがひを掛候様にと
の義に付、其通り致候段岩城伊予守殿御出、下絵図を披
見あられ、此中をは何ゆえ切ぬかせ候哉と御尋候へハ、ちと存
寄有之切ぬかせ候旨安房守殿返答あられ、我等なども
一円合点不参候処、安房守殿へ後に承り候へハ、右之御絵図

被差上
(さしあげられ)候へハ御老中方何も殊ノ外成る御誉にて有之候と也。其節
安房守殿にハ件
(くだん)の下絵図を取出され、是ハ下絵図にて御座候
清書之御絵図出来仕候上ハ焼失申付候筈に御座候へ共、一応之
相伺候ての義と存、取済持参仕候。私存候ハ御本丸、西丸
内の坪数さへ露顕不仕候へハ、其外向之義ハ不苦候儀にて
御座候へば、此下絵図之儀ハ板行被仰付候てハいかが可有御座
哉、然らば世間の重宝
(ちょうほう)にも可罷成と存候と被申上候へば
御老中方何れも御聞あられ、其元被申通り尤之事に候
間、左様に可被申付
(もうしつけらるべく)候、板行出来候て手前共へも一枚宛所望
之由御申ニ付、然ラハ板行致させ可申と被申上
(もうしあげられ)、安房守殿にハ
御老中方御覧の前にて絵図之中の切抜も有之所を取

放され、小刀を持細く切破り鼻紙に包、坊主衆に是を
焼捨させられ候へ、と有之に被渡候と也。 其後遠近道印と
申書物屋方へ渡り板行出来候節、安房守殿より差
図あられ御老中方を初、御役人方へ板行之絵図一枚宛
道印方より進上仕候。 其後世上へも広
(ひろがり)し由、 右酉の年大火事
以後御当地之儀夥敷
(おびただしく)広り候へ共、其所々へハ公儀よりの
御構も無之ニ付、道印方より人を廻し手前見分に仕、右之
絵図に書加
(かきくわえ)候を以、いさひ(委細)を不存(ぞんぜざる)ものともは始終道印が
自作の様に取さた仕候由と也


北条安房守氏長 (1609-1670) 後北条の一族、甲州流軍学の流れを汲む兵学者、旗本でオランダ築城法、攻城法、地図学なども学んでいた。 地図作製当時は幕府大目付を勤めている。 
岩城伊予守(重隆1628-1708)出羽亀田二万石、1656家督相続
遠近道印(おちこちどういん) 江戸時代地図作製では後期の伊能忠敬、前期の道印、と云われるほど有名であるが、本名、経歴など一切伝わっていない。 従って、北条氏長自身とか、弟子の福島(久島)伝兵衛とか富山藩の藤井半知説などがある。


60                     目次
       道灌山之事
問云、今時本郷駒込之末に道灌山と申明(触か)候有之候、是も
太田道灌斎江戸の城居住之節山庄なども有之候哉
其元にハ如何被聞及候哉、 答て云、我等なども左様に斗相心得
罷有候所に右江戸大絵図出来献上之前に至り、何れも
致拝見候処へ岩城伊予守殿にも御出、江戸御城之噂など
有之、伊予守殿久嶋伝兵衛に御尋候は、本郷の末に道
かん山と申て有之候、太田道灌屋敷の跡にても有之候哉
と尋給ひ候を以、側にて安房守殿御聞あられ、伊予守殿へ御申
被成候は、あの道かん山と申ハ関道灌と申たる者の居申
たる屋敷跡にて太田道灌とハ違ひ候と御申ニ付、其子細
を承度候得共、岩城殿と安房守殿と対談の義故無其儀
(そのぎなく)
打過、三十年斗以前我等用事有之、毎度彼辺へ罷越ニ付
在所之年寄たる者共に出合相尋候へ共、関道灌と申人の
名を承りたる義も無之由申候也


関道閑 江戸付近の土豪(鎌倉―室町時代か)、現在も日暮里付近の道灌山地名由来は太田道灌と関道閑の両説がそのまま残っている

61                                 目次
   松平伊豆守殿阿部豊後守殿江問職之事
問云、 大猷院様御他界之節御老中方之内にて阿部対馬守
殿、堀田加賀守殿御両人ハ御供あられ、松平伊豆守殿、阿部豊後守
殿只御両人にて御用達候義数年之事候由、其節早速御同
役掛など被仰付候にも何とぞ御様子有之たる儀に候哉
答云、此儀に付、我等など承り及びたる義有之候、或時に
井伊掃部頭殿、保科肥後守殿并
(ならびに)酒井讃岐守殿御列座にて
伊豆殿豊後殿へ掃部頭殿の被仰渡候ハ此間御三家方被
仰候は、当時御代替ニ付、別
(べっし)て御用繁き様子相聞候処に
右只両人にて相勤られ候と有ハ大儀に可有之候間、一両人も
同役中被仰付可然候、誰にても各両人の同役に被仰付て

可然と存る仁の名を書付、差上候様に有之候へハ両人共に
御申候は、御三家方にも私共両人にて相勤申段大義被思召
同役を御増可被下候由、御人之儀ニ御座候処、右同役御撰挙之
儀を両人存寄の仁を書付差出可申旨重々忝次第御座候
両人相談仕御三家への御請をハ追て可申上と有之。 其翌日に
至り掃部頭殿、肥後守殿、讃岐守殿御列座の処へ伊豆守殿
豊後守殿御申候は、昨日御三家方の思召と有之被仰聞候
趣、御心入之段忝
(かたじけなき)次第にハ御座候へとも、両人迚も先御代御厚
恩を蒙り候段ハ対馬守、加賀守に相替り申儀も無御座候。 右
両人之儀は御他界之節御供申上相果さへ仕り候。 私共両人
義ハか様に存命仕、畳の上の御奉公を申上候と有ハ、仕り能き

義有之候処に中ケ間すくなふ有之勤兼候、と有義に於てハ
私共口よりハ得申上間敷
(もうしあげえまじく)候。然れ共 御幼君の御時代不調
法之私共只両人にて大切成御用向を相達し候、と有之ニ付
外に同役をも被仰付可然との御三家思召ニも御座候ハヽ、其
段誰によらず吟味之上幾人成共可被仰付候、其面々を申合相
勤にて可有御座候、拙者共より同役御願と在之義ハ申上間敷と
有之候へハ、掃部頭殿殊ノ外感心あられ、肥後守殿にハ兎角
之義御申無之ひたすら落涕に及び被申候と也。讃岐守殿
には掃部頭、肥後守殿へむかわれ、両人衆あの通りの所存
と有之候は 御上之御為結構成御事にて候、御三家方
ニも御聞被成候ハヽ、嘸
(さぞ)御悦びに可有御座(ござあるべき)と御申 事済候と也
此沙汰実説に候哉、稲葉美濃守殿を以御老中役見習と有
之被仰付候は、遥
(はるか)に以後の儀に有之候と也


稲葉美濃守(正則1623-1696)、小田原藩主、老中拝命1658

62                          目次
        山縣三郎兵衛噂之事
問云、権現様の御事ハ御年若の比より数度戦場へ御望
被遊たるとハ承り伝へ候へ共、都
(すべ)ての御場数いかほど有之義
なども相知れ申たる御事に候哉。 答云、此義を我等承り及
申候ハ  権現様の御事ハ御年十七歳の御時御初陣に御立
被遊候、元和元年大坂夏御陣迠之間に多きかすくなきか
敵にも味方にも人死の有之ごとくなる軍に御逢被遊たる
義は都て四拾八度の由、以前より世上にて申触たると也。 其外
御陣支度にて御出馬被遊候と有之義は数限り相知
不申候と也。 右御場数の義に付、  権現様にハ右之方の

中指三本ハ御年寄らせられ候以後迠も直にハのび不申候ニて
御ゆびの節々こぶだちて御座候と也。 此義御年 若く御座被遊
候節、御合戦の場へ御のぞミ被遊、物まへに成、御味方の諸勢
を御下知被遊候節に至り候ては、御手に拝せられたる御再
拝(采配)にて御鞍の前輪を御たたき被遊候ニ付、御指の節々より
血の流れ出候をも御覚不被遊、御帰陣以後御薬など御付被
成、御なおり懸り候へば又候哉御陣之御座候て、例之ごとく
御打破り被遊候ごとく御座候ニ付ての御事に候と也。此事
に付ての御武勇の程相知れ候と也。 同問云、右四拾八度の
御場の中には定て大小の御合戦と申義も可有御座候
且又いかに御合戦御上手と有之たるも、御一世之間御勝合戦

(ばかり)を可被遊候様も無御座候御事に候、右之段承知仕度事
にて御座候。 答云、我等及承り候ハ  権現様御一世之間、大
合戦と申は江州姉川、遠州三方ケ原、三州長篠、又
尾州長久手、濃州関ケ原右五ケ所之御合戦の義を可申
にて候。 扨又御一世之間御難義なる目に御出合被遊たると申
奉るべき事ハ織田信長公へ御加勢として越前へ御出馬
の節、江州において浅井備前守逆意に付、信長公越前
金ケ崎表を俄に御引払の刻、羽柴筑前守へ殿
(しんがり)を申付
候間、御心を添られ被遣被下
(つかわされくだされ)候様にと御頼之処、朝倉が勢共
利に乗て急に追付候を以、流石之秀吉も引取兼
(ひきとりかね)もはや
討死と有覚悟を以、私に御構ひ不被遊、其元様には早々

御引取被成御尤と有使を秀吉方より両度迠被差越候得
(りょうどまでさしこされそうらえ)とも
それにも御貪着不被遊、御味方之御人数を以朝倉が勢を押
候様に、と御下知被遊候処に越前勢急に付したがひ、御家中
衆防ぎ兼られ候を御覧被遊、御自身御持筒をとらせられ
朝倉勢へ御打掛被遊候ニ付、御味方の諸勢何れも粉骨を
尽し終にハ越前勢を追崩し、秀吉を被召連御引取
被遊候と也。 次にハ武田家之山縣三郎兵衛嶋田の宿に罷在候由
御聞被遊候て、掛川の城より金谷の台へ御出馬被遊、収納米
之義ニ付、山縣方へ御使を被立候義有之、山縣如何様之所存候
馬上の者、歩行との合六七百斗の人数に旗一流差上ケ、大
井川を越理不尽に押かけ来り候と也。 権現様には

何之御心付も無御座、掛川より御出被遊ニ付、御供中迚も常
時の出立にて御供之義なれハ、山縣が武者備
(むしゃぞなえ)と御敵対可被
遊様
(てきたいあそばされよう)も無御座に付、早々掛川の城へ御馬を被為入候、御跡をしたひ
山縣が人数ハ袋井縄手迠来り、大銀杏の木の下に於て
追留之関を揚引取候と也。 此節の御退ハことの外けハしき
義に有之候と也。 同問て云、其節武田信玄と  権現様と
ハ織田信長の御取持を以、御和平之時節之義にも有之候処
信玄の家来山縣などが左様之仕形に及び候は先慮外の
至り不届之義なれハ、無御腹立被遊候間にて可有御座や
此段いかが被及聞候哉。 答云、右山縣が跡忽の働の段不届
者と有之、御腹立可被遊かと諸人積りの外  権現様

には掛川の城へ被為入、御側衆へ被仰候は、武田信玄ハ能人を餘
多持れ候との、中にも山縣などに増たる者とてハさのミ有
まじ、只ものにハあらずとの仰にて、殊の外御賞美被遊候也
三州長篠合戦の砌、山縣義ハ御当家の御先備において
鉄砲に当り討死仕たると有義を御聞被遊、殊ノ外に
御慎ミ被遊候と也、去に依て武田家滅亡の以後、甲斐衆を
数輩御家人へ被召抱候節も広瀬仁科を初め、山縣が同心
共の義は最初に被召出、井伊直政へ御預の節万千代義
を其方とも介抱し、山縣が武扁形儀不相替候様ニ 取
立可申旨、御直に被仰渡候と也、 御上洛之節袋井縄手を
御通りの時ハいつとても銀杏の木之下において御茶を被召
右金谷表の御供致し候面々儀ハ定りて御前へ被召出て
以前の事を被仰出、山縣が義を御噂被遊候也


山縣三郎兵衛: (昌景1529-1575)信玄の股肱の臣、勝頼の時代には四天王の一人だが勝頼とはそりが良くなかったという、山縣の隊の武具は赤備え(具足、旗指し物全て赤)で敵方に恐れられた
井伊直政: (1561-1602)幼名万千代、父は今川家臣、若くして家康に取り立てられ徳川四天王の筆頭、初代彦根藩主、山縣の部隊を引継、赤備えで勇名を馳せ井伊の赤鬼と言われる様になった
江州姉川: 1570(元亀元年)織田信長・徳川家康連合と朝倉・浅井連合の長浜付近における戦いで織田側勝利
遠州三方原: 1573(元亀三年)武田信玄と徳川家康の浜松付近における戦いで武田側勝利
三州長篠: 1575(天正三年)信長・家康連合と武田勝頼の奥三河長篠における戦いで信長・家康勝利
尾州長久手: 1584(天正12年)織田信雄・家康連合と羽柴秀吉の小牧における戦いで休戦・講和
濃州関原: 1600(慶長5年) 東軍(家康他)と西軍(毛利輝元・石田三成他) 関が原における戦いで東軍勝利

63                      目次
        御治世之事
問云、往古にも治りたる時代などと申ハ御家などのごとく治りたる
代をさして申たるものにて候哉、又ハ只今時之御代にも増りて
能治りたると申時代など之有之たる事ニ候哉、其元にハ如何
被聞及候哉。 答云、我等義文盲の事に候へハ異国の義においてハ
(かっ)て不存候、本朝之義と候ても、上古之義ハ不存候へ共、右大将
頼朝公初て天下の権を御取あられ候以後、鎌倉将軍家、其
後足利尊氏公より京都代々の公方家以来之儀ハ、仮名書
之本にても相記有之を以、有増
(あらまし)は見覚、相心得罷有候事々にて候。
右頼朝公、尊氏公、信長公、秀吉公抔何れも草業(創業)の大功を立

られ一たび天下の権をば取給ふといへとも草業の初めに成、
守成の後を兼ると有、大切の所へ心付給ふ事あらざるゆへに
繁栄を子孫へ伝え全く世をたもつことを得べからさるにて候。
其内京都将軍家の儀ハ元祖尊氏公より十三代と申てハ久
しき治世の様に相聞候得共、只今の御代などの様に天下一統
の世と申にてハ無之候、世代のつづきたると申迠の儀に有之候也。
権現様の御事ハ慶長五年庚子の年、始て天下を御手に入
させられ候以後、御代々相続き天下御一統之御静謐と申儀
既に百三十年に相及び申候ニ付、異国ハ知らず本朝に於て
ハ前代未聞の御治世と申べく候。 其故いかんとなれハ
権現様にハ右之四大将之所行を前者のいましめと被思召
(おぼしめされ)

天下御草業の始めより守成の後之御勘弁を専一と被遊候也。
関原御一戦の御勝利には御譜代、外様之諸大名方へハ夫々に
御加増を以、国替、所替等と被仰付候へ共、御自身には将軍宣
下之御祝義迠をも御延引被遊、折々御鷹野に被為成候より
外にハ万事被差置、公家、武家、寺社等の諸式并民国安
堵之御政務の義のミに御誠精を尽される此以後の御静謐ハ
限りも有べからず候也。 但し治世にハ定りの治世の煩(わずら)ひ
有り、其故いかんとなれハ天下の武士治世のたのミを致し
安楽の思ひに住し、帯紐を解く程を泰山のやすきに
置を以、自然之武備におこたり、武士道の本意を取失ふこと
と成行もの也、法は上より立とこそ古来より申伝へ候故、農

工商の三民の長たる武士と申て、士たるの道にたがふ如く有之に
おいてハ天下に相随
(あいしたが)ふ三民の輩とても其作法を相煩らすし
てハかなふべからず、是を治世の煩とハ申也。 仰ぎねがわくには
天下の貴賎上下をかぎらず驕奢の心を押へ、質素質朴を
宗と致し、無用の費をいとひ武備に怠りなく、武士道の正
義正法に相たがわざらむ事をと云ふのミ

立居にも杖を力の老の身は
     なお豊にと世をいのるなり
                  知足軒友山
             干時享保十二年孟春 八十九歳記之 判


落穂集巻十終