pl01 文化五年八月廿七日長崎発書簡 奉行の切腹 戻る |
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八月廿七日長崎仕出シ宿次九月朔日之夜到着 |
八月廿七日長崎発、宿次飛脚で九月一日夜到着 書状の一部の写し 松平図書頭殿は当月十八日の朝迄に異国船出帆の 段取りも済み、帆影も見えなくなった報告も受けた。 諸事務も終わり江戸への至急飛脚便も立てた後内密 の書状を書くからと衣服を改め執務室に入られた。 暫く長い書状を書いて居られ、近習小姓も側詰所に 控えていたが、余り長いので襖を開けて見た。 図書頭がうつ伏せになって居られるので引起してみる と切腹、既に絶命されており、手の施し様もなかった。 しかし表向きは病死として関係先へ届けた上で公表 され、8月27日葬儀があった。 切腹された時の遺言文の大意は以下の通り伝え聞く 1.旗合時オランダ人2名が奪われ、そのまま検使が 帰って来た事、これは甚だ柔弱な処理であり 日本の恥である。 臆病な事であるが、これは その主人(図書頭自身)の常の教育が不十分 であった。 幕府の権威を失い申し訳なく恐縮 している事が壱つ 2. 8月15日の夜異国人が艀で港内に乗り入れた のは専ら陸の防備だけに気を取られ、海からこの様 に来るとは気づかず、本来は肥前の沖警備所で 防止めすべきだが、これを特に指図せず放置して いた事は油断の至りで有る事が壱つ 3. 15日は晴夜であり異国の艀三艘は肥前の沖両 警備所の前を通過するのを番兵は見ている筈で ある。 しかし駐在人数が少なく阻止する事が 出来ないと見過ごしている。 今年はオランダ船も来ないと考え内々に佐賀へ 警備兵を引揚げて、両警備所で四五拾人しか 居ないので艀の侵入を防げず、わざと見逃して いた事は明らかである。 警備所の人数は 定められおり、これは肥前の違反である。 しかし奉行は内々で監視人を付け、違反が あれば注意すべきである。 警備所が空だった事は肥前の違反というものの 奉行から注意もせず、重要な警備所を突破され 不注意の至りである事がひとつ 4. 異国人から法外な文書を差出すのは不届であり 焼打の準備を肥前・筑前へ命令したが、部隊 到着が無く、やむなくオランダ人商館長の種々の 願いに任せて薪水・煙草を与え、オランダ商館 からも牛弐匹・豚等送り、相手からの攻撃を取鎮め た。 即ち是も守備部隊不足のため和平に持込 まざるを得ず不手際の申し開きできない事壱つ 5. 大村上総介(大村藩)が四時間早く到着して いれば打合わせ、奉行所及び地役人、又 諌早播磨の部隊を集めて焼打が出来たで あろうに、肥前の部隊が間合ず、上総介も遅参 と云うほどではないが遅延、異国船が出帆した のは非常に残念である。 今後の長崎奉行 は部下の多いもっと大身の者を撰ばれたい と云う事が壱つ 以上五か条の不手際、不行届で今更ながら後悔して 居ります。 自身の恥はともかく、この場に至っては 日本の恥であり、これを外国に晒した事は申し訳 なく切腹してお詫びします、と云う趣旨との事 八月十八日 松平図書頭 高木作左衛門殿宛の様だと聞く *代官 以上の通りで今日大音寺に葬むられた、痛はしい事 で長崎中が惜しんでいます。 曲淵殿もお急ぎで 来月二日には御到着される筈です 第一の大失策は肥前藩と言われている。 重々の 不手際は云うまでもなく、吟味の上長崎警備役は取 上げられ、領地までも少々減らされるのではないか。 肥後藩細川殿が数年来警備役を願っておられるので 熊本に取られる上、沖の警備所駐在の番頭2名と 家老一人は切腹せざるを得ないのではと大評判です 肥前の聞役(長崎駐在員)関伝之丞は8月16日朝 から17日朝迄奉行所に17回も呼出され、奉行直々 に督促あり、対応の善悪によっては存命も難しいの ではとの評判です。 沖両警備所には5千人程宛は在陣と佐賀藩より届け られているのに漸く50人程しか詰めて居らず、大きな 手抜きとして御咎めも大きいだろう、との噂です 筑前(福岡藩)は今年は非番ですが準備が良く18日 小早及び関船・荷方120艘程到着したのは、せめて もの事です 肥後藩は長崎では特に関係はないものの、警備役を 望んでいるためか、用心の為と云う事で30艘程の 小早・関船を提供し、陸地からも早馬の使者で命令 あれば部隊を送る旨、奉行へ伺いをしています 既に17日異国船は出帆する時の事、奉行所火の見 脇の物見台から図書頭は異国船が帆を上げ去って 行くのを確認し飛び上がって残念がり、小身でこんな 重い役職を御請けしたのを今更後悔する、と歯を 噛み落涙して残念がられたそうです。 添付書類 ・異国人に奪われたオランダ人2名へ異国人が語った 内容の書付一通 ・オランダ人より穏便な取扱いを願出た書付一通 ・異国船から差出した横文字和訳一通 註 ・松平図書頭康英 1768.3.23-1808.10.6 41歳、2000石の幕臣、長崎奉行在職文化4- 文化5 ・曲渕和泉守景露 江戸在長崎奉行 ・沖両御番所: 肥前佐賀藩と筑前福岡藩が一年 交代で長崎警備に当った。 長崎港の入口を挟み 西泊と戸町に数千人規模の番所があった。 ・小早、関船: 日本の軍船、小早は40挺櫓以下 全長5-8間、 関船は40-60挺櫓、長10−15間 ・書状の送り主、宛先は原文にも無いが、長崎駐在の 九州の藩聞役と思われる。 書状が四日位で到着 しており、 各藩の対応を述べた個所で筑前藩に ついて ・・・せめてもの事云々とあり、筑前の聞役 の書状と推定する ・佐賀藩では不始末として、家老一人、聞役、番頭等 7名が切腹したという(通航一覧) |
pl02 イギリス船から送られた脅迫状和訳 戻る |
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エゲレス船主より差出候横文字之和解 昨日旗合として参候阿蘭陀人ほうせまん并しきんむる 両人を本船江無躰ニ連越候訳者、洋中食物及払底候 ニ付、今日右之食物御願之為メ右様斗らい申候、依之 ほうせまん壱人先為致上陸候間、何とぞ早々本船江 食物御差送可被下候、左候ハヽ今壱人残り居候し きんむるも食物相届候上、差返シ直ニ出帆可仕か、 若今日中食物類御差送無之ニおいてハ明朝ニ至り 日本船并唐船迄も焼払ヒ可申候 エゲレス船主 右之通和解仕差上申候以上 辰八月十六日 阿蘭陀 年番通詞 |
イギリス船長からの書状和訳 昨日旗合に出向いて来たオランダ人のホーセマンと シキンムルの両名を本船へ理不尽に連行した訳は 航海中食物が欠乏したので、今日その食物を御願 する為にした事です。 今からホーセマンを先ず 上陸させますから、本船に食物を御届け下さい。 さすれば残り一名シキンムルも食物が届いた所で 返し直ぐ出帆しますが、若し今日中に食物が送られ ない場合、明朝日本船並び唐船迄も焼払います イギリス船長 以上の通り和訳します 文化五年八月十六日 オランダ年番通詞 |
pl03 佐賀藩の不手際に対する幕府処理 戻る |
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封廻状 松平肥前守 名代鍋島甲斐守 当八月長崎江エゲレス船渡来いたし候節、湊内江 端船乗入、沖番所前往返いたし候處、其方家来 共不心付罷在候段、油断なる次第、一躰当 番人数手当も疎之様子相聞、不束之儀不調法 ニ 思召候、依之逼塞被 仰付之 右牧野備前守殿御宅ニおいて、御老中列座御同人被 仰渡之上、大目付井上美濃守、御目付榊原隼之助 相越ス 辰十一月十日 |
封廻状 松平肥前守 名代 鍋島甲斐守 今年八月長崎へイギリス船が渡来した際、港内へ 艀を乗り入れ、沖警備所前を往復通過していたが 其方の家来達はこれに気付かずに油断をしていた 事、 又警備所の人員も手薄であったと聞くが怠慢 不手際と見なされ、 このために逼塞を言渡される 以上牧野備前守の役宅で全老中列座の上備前守 より言渡された上、大目付井上美濃守、目付榊原 隼之助が訪問し伝える 文化五年十一月十日 註: 藩主逼塞は100日間。 長崎警備役は引続き佐賀と福岡藩が主力となり 幕末まで続けられる |
pl04 八月十五日オランダ人拉致の状況 町人書状一部 戻る |
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当十五日之朝紅毛船壱艘注進有之、市中者不及申 御奉行様ニも大悦ニ御座候処、折節向風ニ而入津延引 いたし候哉と存居候処、七ツ時分沖湊口迄参り、碇を おろし候、然る処旗合之例ニ候故、諸役船并紅毛人 弐人参り候処、矢張紅毛船之旗上候、交留巴出シ候 由申候、小船をおろし七八人乗ニ而、此方之紅毛人之 船ニ漕寄候処、紅毛人ニ無御座候故、此方紅毛人 乗船いたしかたく御座候處、早速此方之船江異敵 乗移り、釼を抜持紅毛人弐人召捕へ、彼敵船乗移り 候処、本船より小キ縄を付有之由ニ而、夫を引付候処 矢よりもはやく本船へ引上、諸役人を初御使者皆々 御うろたへ被成御帰被成候、右之趣御奉行様江申上 候処、殊之外御怒にて、此方之紅毛人を被捕やミやミ と御帰りと成候而ハ不相済様ニ而、夫々又々御使者 両人此節ハ一生懸命と御定メ、沖之御番所へ被駈込 委細御物語之上御加勢を御頼御座候処、纔小船六艘 人数壱艘江六人ツヽ差出可申趣ニ而御請御座候由 中々夫ニ而ハ力を落被居候處、其内紅毛人弐人之内 壱人江願出を為持、此方之番船江漕寄 |
当月15日朝オランダ船が一艘向かっている旨注進が あり、長崎市中は勿論、お奉行も大喜びだった。 向かい風で入港が長引くと思ったが午後四時頃には 港口に着き碇を卸す 旗合を通常通り行う為、諸役人と出島オランダ人2名 が迎えたところ、矢張りオランダ国旗を揚げており バタビアから来たと言う。 相手は艀を下ろし7-8人 乗り此方のオランダ人が乗っている船に漕ぎ寄せる。 しかしオランダ人でないので此方のオランダ人も乗船 に躊躇したところ、艀の異国人は此方の船に剣を 抜いて乗移り、オランダ人2名を捉え艀に連行する。 艀には縄がついており矢の様に早く本船に引寄せ 引揚げてしまった。 検使始め諸役人はうろたえて帰って報告したが、 お奉行は怒って取り返して来いと云う。 検使達は沖の番所へ駆け込み加勢を頼んだが、 小船6艘しかなく、人数も一艘6人づつしか出せない という。 これではどうにもならないと力を落としている と人質となったオランダ人一名が書状を持たされ 此方の番船に漕ぎ寄せてくる。 |
pl05 十五日夜の緊張する長崎の様子 18日長崎発書状の一部 戻る |
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一夜中端船壱艘ニ異国人四拾人斗ツヽ取乗り三艘ニ而 手分ケ致シ稲佐山之方一艘ニ而巡見、浦辺浜辺を 漕廻り紅毛船并紅毛人を尋さがし候姿ニ相見へ候ニ 付右を紅毛人月夜にて能々見取り、其身共を召捕候 ニ無疑と致決定、西御役所江駈込シ申候由 一右紅毛人御役所江駈込候儀、異国人最早上陸致し 候と見違、是又騒動可笑事ニ御座候 一大波戸其外海手之固メ、早速御触達有之暫時之 間ニ御備相調厳重之御手当ニ相成申候、左候而 肥前・筑前・大村江斗人数組早々被差出候様被 仰渡、外ニ類船無之故御国々より人数組被差出候 ニ不及旨、諸家之御付人江被仰渡候 一陸手海手共其外諸所江者高張提灯・篝火夥敷 弐里斗ケ間如昼御座候 一諸家御付人并地役人不残御奉行所門前ニ相控、 尺寸之明キ地無之、押合候程之事ニ而、何れも 陣羽織野袴又ハ火事装束、或者半てん打裂羽織 着用ニ而御座候 一十六日猶又厳重ニ御手当有之、大波戸之方石火矢 之外、砲術薬師寺久左衛門請持、稲佐山之方両所ヲ 一手薬師寺又三郎、一手者御代官之御舎弟ニ被仰渡 沖之両御番所江者石火矢数拾挺被相備 |
夜中に艀一艘に異国人40人程乗り、三艘で手分け して稲佐山方面とか浦々をオランダ船及びオランダ人 を探している様子に見えるので、出島のオランダ人達 は彼らを捉えに来たと信じて奉行所へ避難した由 オランダ人が奉行所に駆け込むのを見て、もう異国 人が上陸したと思い、大騒動となった 大波止、其ほか海側の防禦する様御触書が出て 直ぐに備えを固める。 肥前・筑前.大村の各藩には 部隊を送る様に指令が出たが、一艘だけであるから と他の藩は部隊を送る必用なしとの事だった。 陸も海ベも至る所に高張提灯、篝火で弐里程の間は 昼の様に明るかった 諸藩の聞役(駐在員)及び地役人は残らず奉行所の 門前に待機し、寸土の隙間も無い位である。 全員 陣羽織、野袴又は火事装束、半てん・ぶつ裂羽織 を着用している 翌16日は更に厳重な警備で大波止には大砲を据え 砲術家の薬師寺久左衛門が受持ち、稲佐山方面は 薬師寺又三郎と代官の弟が配置された。 沖の番所 (西泊、戸町)にも大砲が数十挺配備された。 |
pl06 焼打の為近隣諸藩召集 大村藩の対応報告書 戻る |
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口上覚 昨十六日申上候長崎表渡来之異国船其侭難差置、船 右同夜中焼捨候積りニ付、松平図書頭ニ者其場ニ出張 仕、長崎奉行所明キ候ニ付、私儀甲冑仕度罷越奉行所 相守候様、彼地差置候家来之者江、図書頭被相達候段 申越、今子ノ中刻承知仕候、依之急直支度領内時 津江渡船罷越候積ニ而、今暁寅刻出船仕候、此段 御届申上候以上 八月十七日 大村上総介 右者九月三日土井大炊頭殿江御届 |
昨16日に申上げましたが、長崎へ「渡来の異国船 を其の侭にして置けず、船は同夜中に焼き捨てる 予定との事で、松平図書頭は現場に出られるので 長崎奉行所が空になるので、私が甲冑ヲ着けて奉行 所を守る様に、と長崎駐在の私に家来に指示された 事今夜12時承知しました。 随って直ぐに支度をして 時津へ船で渡る積りで明方4時に出船します。 この事を御届します 8月17日大村上総介 上記9月3日土井大炊頭殿へ御届 註: 大村藩部隊は17日午後2時頃長崎に到着した が既に異国船は去った後である |
pl07 16日夜の焼打計画の挫折 無名氏1(聞役)書状の一部 戻る |
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一十六日夜者北風烈敷御座候ニ付、焼打十分之御 都合と申事ニ而、俄ニ其御手当ニ而御乗船之小早船 も大波戸江打廻り幕張相調、御手廻之人数者勿論、 市中御供之人数も追々相揃候様相聞候得共、聞役 中へ之何たる御沙汰も無御座候処、夜半過ニ相成 候而右取沙汰も相止、少し穏ニ相成無事ニ相済候ニ 付、十七日早天聞合候処、右焼打之儀ニ付而者御奉 行御一手ニ而相調候義ニ而者、曽而無御座候ニ付、 佐賀衆江俄に焼打之趣被相達候処、詰合の役々 御役所江罷出、御番所詰人数は少、佐賀表より人数 組差出候筈ニ而御座候得共、今夜只今迄壱人も到着 不致候得者、番手人数而已ニ而万一仕損等御座候 而も面目にも相掛り候儀故、佐賀表より惣人数出張 候迄、焼打御見合被下候様、無余儀願出有之候故 御延引ニ相成候事ニ而御座候 |
16日夜は北風が烈しく焼打には絶好の時であり 奉行が乗船する小早船も大波止に待機して、共廻り や町役人達の揃ったが、各藩の聞役達には何の説明 も無いまま、夜半になり準備が止まり静になった 翌17日の早朝奉行所に問合せたところ、始め焼打を 奉行所だけで実行する積りだったが、前例の無い事 と云う事で佐賀藩に急に振られた。 佐賀藩では駐在の役人達が奉行所に行き、駐留兵士 が少なく、佐賀からの応援到着を待っているが、今 現在一人も到着していない。 少ない手持ちで攻撃 して失敗したら面目に拘ると言って焼打見合わせを 御願したため、延期となった。 |
pl08 17日朝の出帆時の様子 無名氏1(聞役)書状一部 戻る |
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一右異国船江者佐賀より追々数多之番船被付置、検使 并役々通詞等迄も出張居候処、十七日朝異国人頭役 之もの検使乗船江差越、阿蘭陀人二人奪取候次第ハ 阿蘭陀国者久敷敵国ニ而御座候ニ付、此節日本江 通商之船を相捉度訳有之、交留巴表江差越候処疾 致出帆候由ニ付、 跡を追ひ候処一切洋中ニ而不 見当、最早長崎江至致入津候儀ニ候哉と存、日本へ 乗渡り、阿蘭陀人弐人相捕致吟味候處当年者未入津 不致旨申聞候得共、洋中ニ而も船を不見掛候へ者、 定而湊内江乗入居候を相隠シ候哉と相心得、端船を 以湊内ヲ見廻り候儀ニ御座候、右ニ付而者御当所之 御法度を不奉存候而、端船湊内江乗入候儀者誤入候 最早阿蘭陀人も差返シ船中食物等も御渡被下候ニ付 出帆仕度以後者日本江乗渡申間敷旨横文字差出 候由、右次第ニ付、焼打も御取止メニ相成、帰帆被 仰渡候得共、実者帰帆申渡の検使不差越内、異国船 者湊口より帆を上ケ致出帆候、誠ニ小船之出入より も容易驚入候出帆ニ而御座候 |
異国船には佐賀藩から番船をつけて置き、検使外 役人・通詞の船も張り付いていたが、17日朝異国人 の頭役が検使の乗る船に来て語る。 此度オランダ人 二名を拉致したのは、オランダ国は敵国であり 通商船を捕らえる目的でバタビアに行った。 ところがオランダ船は既に日本に向けバタビアを 出帆した由故後を追いかけたが洋上では見掛けす 既に長崎に入港しているに違いない、と考え日本 へ渡来した。 オランダ人2名を捉え吟味したら今年は未だ入港 ないと言う。 洋上で見掛けていないので必ず港内 に居るはずであり、それを隠していると思い艀で 港内を探索した。 これは日本の法を犯す事とは知らず艀を乗り入れた 事申し訳なかった。 既にオランダ人も返し食料も 戴いたので出帆したい。以後日本には立寄らないと 横文字文書を差出したという 随って焼打も取止め帰帆を言渡す予定であったが 実は帰帆許可の検使を待たずに、港口からいきなり 帆を揚げ出帆してしまった。 実に小船の出入りする 様な簡単さに吃驚する |
同上 無名氏2(聞役)書状一部 | |
一十七日卯上刻願出候品々、左之通通詞を以被差送 陸手ハ専ラ焼打之用意最中ニ而、追々諸手当相調候 処、異国船者何之怪敷事も無之、端船より近辺之浜 手等遊覧致、 本船者音曲ニ而相楽ミ居候由、其所へ 願出候品々持届候処、無程頭人罷出前後左右ニ 多人数相備端船迄罷出、厚ク礼躰申述候而、其躰 誠ニ慇然と相見江候由、無程諸品本船江積請候内 端船も帰り来、此方よりの船之義、引退壱町斗も相隔 候処、俄ニ帆を引上ケ折節風順宜ク、速ニ硫黄崎を 廻り抜大津ニ至り出申候 (此際巳ノ中刻頃) 同日夕方諸所遠見より見隠シ之 注進有之、誠ニ十分被欺諸人無念之拳を握り候へとも 可致様なく涸れ果候斗りニ御座候 薪 二艘 水 五艘 から芋 二百斤 葉煙草 五斤 梨子 一駕(数三十) |
17日朝5時頃薪水等の品々を以下の通り通詞 達に持ち行かせ、陸では焼打の準備をして おり段々準備も調ってきた。 しかし異国船 は全く異変の様子もなく、艀で近辺の浜辺を 遊覧し、本船では音楽を奏でている。 間もなく品物が船に届くと船長が大勢の護衛 を連れ艀で来て、厚く礼を云い、其様子は 非常に丁寧に見えたという。 品物を本船に積み込み、艀も戻って来て此方 の船が下がり100m程隔てたが、突然帆を揚げ 順風に乗り伊王島を廻り抜け外洋に去った由 時は朝十時頃で夕方には野母崎の監視所から も見えなくなったとの報告があった。 実に見事に欺かれ拳を握って無念がるが何 とも成らなかった 薪 二艘 水 五艘 から芋 二百斤 葉煙草 五斤 梨子 一駕(数三十) |