フェートン号事件              戻る
                   ー長崎を震撼させた二日間ー
プロローグ
   今から丁度200年前の1808年(文化5年)の事である。 長崎では通常夏(旧暦の6月頃)に
オランダの交易船がジャワのバタビヤからやって来るが、今夏現れず既に8月になり今からは
もう来ないと長崎奉行始め市民も諦めていた。 当時オランダ船が一艘入港すると荷揚商品の
検査や取引で奉行所や長崎会所は勿論、警備の為に近隣の当番藩から大勢の兵士が渡来の夏から
帰帆する秋にかけ港周辺の陸や海に展開し、当に長崎の町全体が活性化し景気が良くなる。 
この年の警備は佐賀藩の当番だったがオランダ船も入港ない様子なので経費節減の為殆どの部隊が
佐賀に引上げ、長崎には静かな秋が訪れようとしていた。 
   一方当時のヨーロッパはナポレオンのフランスが近隣国を次々と席捲し、オランダは既に
フランスの属国となった為イギリスと敵対する事となり、アジアではバタビヤを中心に活動するオ
ランダ商船をイギリス軍艦(フェートン号、HMS Phaeton)が追っていた。  
1
異国船に出島のオランダ人拉致される
  文化5年8月15日朝、長崎湾の先端の野母監視所から異国船が渡来したという注進が奉行所に
届く。 諦めていたオランダ船が来たか、と早速恒例の旗合わせや臨検の役船が用意され、検使二名、
オランダ人書記二名、通訳二名外地役人など小船数艘で沖に向かい、港口の伊王島(長崎より
十キロ程)付近で夕方5時頃異国船と出会う。 船は間違いなくオランダ国旗を掲げているので、
役人達が臨検に本船に乗移るために近付いた。 すると先方から艀を一艘下ろし十数名が乗組み、
此方のオランダ人二名が乗る船に横付けし、オランダ語で本船に来る様に云うので間もなく検使
一同が本船に乗移る旨答えた。 その直後艀の全員が隠し持った剣を抜いて襲い掛かり、オランダ人
二名を捕らえ瞬時に本船に引揚げてしまった。 後に残された検使始め通詞、役人達は為すすべなく
長崎へ戻り奉行に事の顛末を報告する。 時の長崎奉行の松平図書頭は大切な預かり人を奪われ、
そのまま引き返して来るとは何事かと怒り、検使達に直ぐにオランダ人二名を取り返して来いと
命令する。 オランダ船到着と喜んでいた町全体は緊張に包まれる。 

史料   長崎町人の書状一部
      通詞名村多吉郎書簡
      
2
夜中に武装した艀三艘が港内探索
  拉致されたオランダ人二名は本船に引揚げられた後、船長と思われる者から胸に銃を突きつけられ、
オランダ船が二艘長崎に来ている筈だが何処に居るのか正直に答えよ、と脅迫される。 今年は来て
いない旨答えると間もなく確認の為、夜中に一艘に付き五十人程乗組み大砲等で武装した艀三艘が長崎の
町近く迄やって来て港内を探索して引揚げた。 この時出島のオランダ人達は異国人が自分達を捕捉に
来たと思い、商館長始め全員奉行所に避難したので、それを見た人々は早くも異国人達が上陸したかと
勘違いし、長崎の町は一晩中町の防衛に町役人や火消し等が走り回り大騒動で十六日の朝を迎える。

史料 オランダ書記達の拉致直後 名村多吉郎記録
    15日夜緊張する長崎の町 長崎からの書状
3    
人質一名送還とイギリス軍艦薪水・食料要求
  十六日朝高鉾島(長崎から6km程)付近に停泊する異国船から人質のオランダ人二名の内壱名、
ホウセマンが返される。 船はイギリスの軍艦で食料・薪水が乏しいのでこれを供与願いたい。 
そうすれば残り一名のオランダ人シキンムルも返し直ぐに出帆するが、若し今日中に供給が無ければ港内の
日本船は勿論、中国船迄焼払う旨をホウシュマンが書状と共に報告する。 余りに無礼な要求であり奉行は
食料、薪水は要求通り与え人質が戻り次第、イギリス船を焼打する方針で警備当番の佐賀藩に指示する。 

史料 イギリス船からの脅迫状和訳
    近隣諸藩の対応 大村藩の場合
4
食料到着と人質の解放
  十六日の夕方ホウセマン及び通詞達が付添い牛二頭、豚その他食料がイギリス船に届けられ、薪水は
翌朝に間違いなく供与すると通詞達が述べるに至り残り人質シキンムルも解放される。 食料到着にイギリス
船の船長は非常に喜び、奉行や商館長に宜しく伝えて呉れ、と云う事でオランダ人2名及び通詞達を晩餐に
招待する。

史料 オランダ人書記解放直後の様子
5
焼打の中止
  十六日の夜は焼打の予定で一部準備も進められた様であるが、頼みの佐賀藩の警備兵は既に引揚げた
後であり、在留人員は究めて少なく焼打など出来る状態ではない。 佐賀藩聞役は本藩から応援が来るまで
焼打猶予を奉行に願う。 一方オランダ商館長からは人質も戻った事だし焼打を仕掛て万一失敗した場合の
報復を恐れての中止願いが出され、結局夜半過ぎに中止になった様である。

史料 16日焼打計画の挫折 聞役の書状
    オランダ商館長の焼打中止願い
6
薪水供与と出帆
  十七日早朝、薪水ほか要求の品々を朝六時頃イギリス船に届けた所、船長は艀で検使や通詞の乗る船に
来て丁重に礼を云い艀で長崎港内を探索した非礼を詫びた由。 その後十時頃には急に帆を上げて出帆し、
夕方には野母の物見からも帆影は見えなくなった。

史料 17日朝の状況ー聞役二者の書状
    イギリス船長がホウセマンに語った内容 名村記録
7
奉行の切腹及び佐賀藩処分
  イギリス船が去った十七日の夜、松平図書頭は諸報告など済ませてから一人で内密の書類を書くと云う事
で部屋に入ったまま出て来ないので、近習が様子を見に云った所切腹、既に絶命していたという。 図書頭の
切腹の理由は、オランダ人が簡単に奪われ検使達が其の侭戻って来た事、佐賀藩警備人員の管理責任等五ヶ条
を揚げ、イギリス船に翻弄され自身の恥じはともかく、国家の恥を外国に晒し申し訳ないと云う事だった。 
幕府では図書頭の自殺は病死として公表し、佐賀藩の不手際は藩主の逼塞と云う処分を言渡している。 

史料 8月27日長崎発書簡ー奉行の切腹
    幕府佐賀藩処分

あとがき
  内閣文庫視聴草にはこの事件に関して、近隣藩主の幕府への報告書、長崎の町人や長崎駐在の各藩聞役の
書状、通詞の翻訳書類など多数収録されている。 当時現場近くに居た人々の書状ではあるが、筆者自身で
確認した事と風聞が混じっており読み合わせて見ると大筋が明らかになる。 これを読むと江戸時代後期の
平和に慣れ、鎖国と言う温室の中にいる日本と、国家同士が弱肉強食に凌ぎを削る戦乱の中にいるヨーロッパ
との違いがはっきり出ている。 中でも急速に力を付けているイギリスは現場レベルの一挙一動迄が狡猾且つ
俊敏と言う感じである。 事件当時の風聞では佐賀藩は長崎警備役から外され領地も減らされるのではないか、
と云われていた。 しかし幕府は藩主逼塞程度で終わらせ引続き佐賀藩に警備を強化させている。 佐賀も
それに答えて海防に力を入れ軍事技術を蓄積し、幕末には有数の開明藩となり日本の近代化のキャスティング
ボードを握る迄になる。 

史料 新奉行により商館長へ国際情勢質問

註1: 内閣文庫 「視聴草」 作者は幕臣の宮崎成身で昌平坂学問所内の沿革調所で林大学頭述斉の下で
官選事業の編集員を行っていた。 生没年不明であるが文政から安政の初め1825-1855年位が活動期と思われる。
176分冊が残されており多方面の記録を集めている。

註2:長崎港略図