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        坂本龍馬書簡 霧島登山記          戻る
○ 慶応二年十二月四日
おとめさんへさし上る
兼而申上妻龍女ハ、望月亀弥太か戦死の時のなんにもあい候
もの、又御国より出候もの、此家ニて大ニ世話ニなり候所、此家
も国家をうれへ候より家をほろひし候也、
老母一人龍女、いもと両人、男の子一人かつへかつへニて
とふもきのとくニて、龍女と十二歳ニなる妹と九ツニなる男子と
もらい候て、十二歳の妹、名きみへ、男子太一郎は摂州神戸
海軍所の勝安房ニ頼ミたり、龍女事ハ伏見寺田や家内おとせ
ニ頼ミ候、是ハ学問ある女尤人物也、
今年正月廿三日夜のなんにあいし時も此龍女かおれハこそ
龍馬の命ハたすかりたり、京のやしきニ引取て後ハ小松、西郷
なとにも申、私妻と為知候、此よし兄上ニも御申可被遣候、
御申上なれハ
 京師柳馬場三條下ル所(此所にすミしか国家のなんとともニ
            家ハほろひ、あとなくなりしなり)
  楢崎将作死後五年トナル 
  右妻存命
  私妻ハ則将作女也、今年廿六歳
  父母の付たる名、龍、私が又鞆トあらたむ
正月廿三日ののちナリ
京の屋鋪ニおる内、二月末ニもなれハ嵐山にあそふ人々、なく
さみにとて桜の花もて来り候、中ニも中路某の老母、神道学者
歌人也、ハ実おもしろき人也、和歌なとよくて出候、
此人共私しの咄しおもしろかり、妻をあいして度々遣をおこす、
此人ハ曾て中川宮の姦謀を怒り、これをさし殺さんとはかりし人
也、本禁中ニ奉行してなれハ、右よふの事ニハ尤遣所おおき
人ナリ、公卿方なと不知者なし

1866年龍馬より姉乙女宛書簡

望月:土佐勤皇志士、池田屋
で新撰組に襲われる
この家:楢崎家(妻の実家)  
老母、龍、妹2人、弟1


勝安房: 勝海舟

正月23日:寺田屋で幕吏に
襲撃される。小松:小松帯刀
私の妻と知らせ候


楢崎将作:京都の医師、
 尊王派支援し安政の大獄に
 連座、翌年開放後死去



慰みとして
中路延年:尊攘家、尾張藩士

妻を介して
中川宮:公武合体推進派
元禁裏に奉公していたので
知らぬ者なし
是より三月大坂ニ下り四日ニ蒸気船ニ両人共ニのり込ミ、長崎ニ
九日ニ来り、十日ニ鹿児島ニ至り、此時京留守居吉井幸助も
どふどふニて船中ものかたりもありしより、又温泉ニともにあそハん
とて吉井かさそいにて、又両りつれにて霧島山の方へ行道にて、
日当山の温泉ニ止マリ、又しほひたしと言温泉に行、
此所ハもお大隅の国ニて、和気清麻呂がいおりをむすひし所、
蔭見の滝、其滝の布ハ五十間も落て中程にハ少しもさわりなし、
実此世の外かとおもわれ候ほとのめつらしき所ナリ、此所に十日
計も止りあそひ谷川の流にてうおをつり、短筒をもちて鳥をうち
なと、まことにおもしろかりし、

是より又山深く入りて、きりしまの温泉に行く、

此所より又山上ニのほり、あまのさかほを見んとて、妻と両人つれ
ニてはるはるのぼりしニ、立花氏の西遊記ほとニハなけれとも、
どふも道ひどく、女の足ニハむつかしけれとも、とふとふ馬のせ
こへまてよちのほり、此所にひとやすみして、又はるはるとのほり
ついにいたたきにのほり、かの天のさかほこを見たり、其形ハ


吉井幸助も同道にて
吉井の誘いで二人連れで









橘南渓、西遊記
馬の背越え(御鉢めぐり)

天の逆矛

天逆鉾(2009.4撮影)
やれやれとこしをたたいてはるばるのほりしニ、かよふなるおもい
もよらぬ、けにおかしきかをつきにて天狗の面があり、大ニ二人り
が笑たり、
此サカホコハ少シうこかして見たれハ、よくうこくものから、
又あまりにニも両方へはなが高く候まま、両人が両方よりはな
おさへてエイヤと引ぬき候得ハわづか四五尺のものニて候間、
又々本の通りおさめたり、からかねにてこしらへたものなり

此所に来れハ実ニ高山なれハ、目のとどくたけハ見へ渡り、
おもしろかりけれとも何分四月でハまたさむく、風ハ吹ものから、
そろそろとくたりしなり、なる程きり島つつしが一面にはへて、実
つくり立し如くきれいなり、其山の大形ハ

げに可笑しき顔つき
少し動かしてみればよく動くので
又鼻が高いので二人で鼻を押さえて

引抜けば僅か4‐5尺のもの
唐金:青銅


実に作りたてた如く

右図(イ)山坂焼石ばかり
○  此穴ハ火山のあとなり、渡り三町計アリ、する鉢の如く
    下お見るニおそろしきよふなり 注:3町(丁)=330m
イ  此間ハ山坂焼石計、男子でものほりかねるほど、きじなく
   ことたとへなし、やけ土さらさら、すこしなきそふになる、
   五丁ものほれば、はきものがきれる
ロ  此間彼ノ馬のせこへなり、なるほと左右目のをよハぬほど
   下がかすんておる、あまりあぶなく手をひき行し
ハニ 此間ハ心やすく、すべりてもおちる所なし

霧島山より下り,
きり島の社にまいりしか、是ハ実大きなる杉の木あり、宮ももの
ふり極とふとかりし、其所ニて一宿、夫より霧島の温泉所ニ
至ルニ、吉井幸助もまちており、ともどもにかへり、四月十二日
ニ鹿児島ニかへりたり

馬の背越えから見る火口

夫より六月四日より桜島と言蒸気船ニて長州へ使を頼まれ
出船ス、此時妻ハ長崎へ月琴の稽古ニ行たいとて同船したり、
夫より長崎しるべの所に頼ミて私ハ長州ニ行けハ、はからす
別紙の通り軍をたのまれ一戦争するに、うんよく打勝、身も
つつがなかりし、其時ハ長州侯ニもお目ニかかり、色々御咄し
あり、らしやの西洋衣の地なと送られ、夫より国ニかへり其のよし
を申上て、二度長崎へ出たりし、時ハ八月十五日ナリ、

世の中の事ハ月と雲、実ニどふなるものやらしらす、おかしき
ものなり、うちにおりてみそよ、たききよ、年のくれハ米うけとりよ、
なとよりハ天下の世話ハ実ニおふさツパなるものニて、命さへ
すてれハおもしろき事なり、是から又春になれハ妻ハ鹿児島に
つれかへりて、又京師の戦はしまらんと思へハ、あの方へも事ニ
より出かけて見よふかとも思ひおります、私し其内ニも安心なる
事ハ、西郷吉之助の家内も吉之助も大ニ心のよい人なれハ、
此方へ妻なとハ頼めハ何もきつかいなし

此西郷と言人ハ七年の間島なかしニあふた人にて候、夫と言も
病のよふニ京の事かきになり、先年初めて「アメリカ」ヘルリか
江戸ニ来りし頃ハ、薩州先ン侯の内命ニて水戸ニ行、藤田
虎之助の方ニおり、其後又其殿様か死なれてより朝廷お
うれい候ものハ殺され、島なかしニあふ所に、其西郷ハ島流の
上ニ其地ニてろふニ入てありしよし、
近頃鹿児島にイキリスか来て戦かありてより、国中一同彼西郷
吉之助を恋しかり候て、とふとふ引出し、今ハ政をあつかり、国
の進退此人にあらされハ一日もならぬよふなりたり、人と言もの
ハ短気してめつたニ死ぬものでなし、又人おころすものてなし
と人々申あへり

又色々申上度事計なれども、いくらかいてもとてもつき不申、
まあ鳥渡した事さへ、此のよふ長くなりますわ、かしこかしこ
極月四日夜認                龍 馬
乙 様              
              (坂本弥太郎氏蔵)

狭野神社の杉(1599年植樹)
樹高61m余、根元周9m

病のように朝廷の事が気になり
アメリカのペリー艦隊が来た時
薩州先侯: 島津斉彬
朝廷を憂い候者:安政の大獄
により尊王派が弾圧された

島流しの上に牢に入り
薩英戦争

人を殺すものでなし

色々申上げたい事ばかりですが、いくら書いても書尽くせません
鳥渡:ちょっと
極月:12月
出典:坂本龍馬関係文書第一 大正15年日本史籍協会発行
    現在、上記書簡は寄贈され重要文化財に指定されている(京都国立博物館蔵)


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西遊記 天逆鉾、 橘南渓紀行記        戻る
西遊記 巻之五
 三六 天の逆鉾(鹿児島)
 むかしあめつちいまだひらけざりし時、冊諾二柱の御神、天の
浮橋の上より霧のうみを詠め下し給う。小島のごとくに見ゆるもの
あり。二柱の御神、
天のとぼこを以て是をさくりみ給うに国なり
ければ、則ち此ところに跡をたれ給う。是霧島山と名づくる由来に
して、其鉾を逆しまに下だし給いしが、今に至り其ままに此山の
絶頂にたちて有るを、天の逆鉾という。 誠に神代の旧物にして、
奇絶の品又外に是を比すべきものなし。 人々皆珍らしと尊びて、
拝せんことを希うといえども、此霧島山格別の高山にして、殊に火
もえ、風動き、其外種々の神変、不思議、怪異、珍奇多く、登るもの
不時に紛失する事等毎度の事ゆえに、薩州の人といえども恐れて
絶頂に至る者すくなし

予久敷この逆鉾の事聞居てゆかしく思い居つれば、鹿児島逗留の
時節、志を起こして登らんとす。然るに山中奇怪多しと聞けば、
召連れし僕などは凡庸の者なれば、もし恐れて紛失などせば
悪かるべしと思案して、旅宿へ集会の人の中にて選みしに、旅宿
の近きあたりに、年若き勇壮の男子ありて、「われこそ其山へ同道
すべし」といいしかば、則ち打つれて只二人、霜月八日というに
薩州鹿児しまを立ちて、日向国におもむく。 薩隅日三州は、厳寒
のときといえども雪霜を知らぬというほどの暖国なれば、かかる高山
へも霜月に登らるる事なり。 ことに此年は格別だんきの年にて,
此ごろようよう綿入壱つ着するくらいの事なりしかば、少し時節も
おくれしかど、思い立ちしなり

登山口の高千穂河原標高970m
から見た霧島山(御鉢、標高
1400m)
高千穂峰1573mはこの御鉢を
越えて更に登る
扨、海陸二日路をへて霧しま山に入り、数十丁のぼりて霧島の
宮居の前に着く。 二神垂跡の地なれば宮居今にいたり殊に
美々敷、此の近国にての大社なり。 伏拝みて黄昏に及びぬれは
傍の山下坊という坊に宿す。 この坊にて先達の案内者を宵の間
にやとい、明朝、夜の間より登山す。 雑樹生いしげり日かげだに
漏れざるほどの山をしかとしたる道すじも見えざるに、只案内者の
あとに従がいひたのぼりに登る。その間奇樹異草名もしらず、目
なれぬものはなはだ多し。 これは南方暖気の山なれば、生くさの
品類も多きなるべし。全体、草木、北国の山などとは格別に種類
多し。 
かくのごとき所を五十丁のぼりつくせば、それより上は樹木一本も
なし。 只芝のごとき草のみ生いたり。 其のところにいたれば四方
豁達とうちはれ、薩隅日の三州一望の中にいりて、衆山は波濤の
ごとく、大海は青畳をしくたるがごとし。 其中に桜じま山突然と秀
でて、盆石をおきたるがごとし。 絶頂より白き煙り四時に立のぼり
て香炉のごとし。景色無双、筆につくしがたし。
さて件の草ばらの山をのぼる事又五十丁、それより上は草もなく、
只栗ほどのやけ石斗りなり。ここに至って登りますます急峻なり。
扨このあたりよりうえ、段々のぼるにしたがい、天地の気しきやや
変じ、不時に下のほうより雨そそぎ来り、あるいは風よこさまに巻
来たる。又眺望のいとまなし。 それより二十丁ものぼりて馬の背
越というところにいたる。また御鉢めぐりともいう。 このところは
のぼらず、只平にゆくといえども、左右皆谷にて剣の刃の上をゆく
ごとく、足のふむところ僅かに馬のせなか程なれば馬の背ごえと
はいうなり。足をはこべば栗の如くなる焼いし左右のたにへなだれ
落つる。 其行ところの狭きをしるべ
し。 

高千穂河原より雑樹の茂る所
を過ぎて、草木のない焼石ばかりの所を登る。 勾配30度程か
扨左の方は万尋の谷にて、底は雲にて目及ばず。 右の谷は
ふかさ三四丁あるいは五六丁にて、谷にみちて猛火燃えあがる。
此馬の背越にかかりて後は、只何となく震動して、地軸只今くだけ
おれて此山微塵に成るように覚ゆ。 また腥きえもいわれぬ気ふき
来たり。あるいは墨のごとくなる雲うずまき来たり、同行のものさえも
一行にかくるる事もあり、あるいは前後左右に異形の雲煙あらわれ、
鬼神のごとく仏神のごとき事もあり。あるいは足下より虹たちのぼり、
たて横にたなびきて、織りなせるがごとくなる事もあり。 又、天地
ともに金色になる事もあり。 其外、奇怪ふしぎ中々いうも愚かなり。

静に是を考うるに、是皆谷一面の猛火によりて、又陰気もあつまり
来たり、火の上に雨そそぎ、雲霧覆うがゆえに、水火相激して震動
雷電し、又水火薫蒸によりて、種々の形みゆるなり。 又、硫黄
焔硝の気あるうえ、それに水そそぎたるゆえ、種々の匂いもいずる
事なり。 又、折々一陣の風ふき来る事あり。此ときは先達教えて
急にうつ臥に倒れふさしむ。腹這にならざれば、風の為に此身とら
れて、猛火のうちに舞い落つるなり。 折ふしは風の為に取らるる
ものあるゆえに、此山にては紛失する人多しというなり。予も殊に
此かぜを恐れて、少しの風にも急にうつぶしになり、地に取付きて
風にはなたれざるようにせり。 しばしにて又忽に風もやみ、天
はるる事もあるなり。須臾の変幻定まりある事なし。


此ところに取かかりしより、さしも勇気の若もの大いに恐れ足戦ぎて
立つ事あたわず。 われと先達と前後より介抱して、いろいろと
恥しめ励し、しばしが程は引行きしかど後には目見えず、顔色
変ぜしかば、いかんともしがたく、ほとんど難儀に及びしに、先達
いうよう、「きょうは山も格別にあらし。殊にかかる人引具し行かん
事いかにも叶うべからず。登山も是迄なり。これより下山すべし」と
いえば、力及はず、本意なくそれより下に向う。
左が谷、右が噴火口という事は
御鉢の縁をゆく現在の高千穂
河原からの登山コースであろう。

風が強いと現在でも危険と
云われている

尚当時は(1780年頃)は火山
活動が活発だったと思われる

記録では1769年、1771年に
御鉢噴火の由(高原町記録)








須臾:短時間の内



足戦(おのの)ぎて: 足がすくんで
扨、夫より僅かに十丁ばかり下れば、天気晴朗にして風おもむろ
に、四方の眺望始のごとし。 しばらく休息して焼飯など食し、
こころを鎮めしかば、若ものもけしき常のごとくにして、さきはいか
にしてかばかりかは恐ろしかりつるにやと、三人打わらう程なり。
われつらつらおもうにかかる事のありて妨にもなるべからんかとて、
凡庸の人を同道せざりしなり。 然るに今若ものが為に、予までも
絶頂をきわめずして、是より下山せん事、生涯のいこんなるべし
何とぞして一人なりとも登りたきものをとおもいめぐらして、先達に
「これより絶頂までは道程いかほど有る」と問うに、「馬の背越の
長さ八丁、それを過ぎて急にのぼるところ十丁ばかりもあらんや」
という。 「それなれば僅かの道なり。 紛れ道やある」と問うに、
「両方谷なれば紛るべき道なし」と答う。「さらばあまり残念なれば
予は独歩して絶頂に登るべし。此ところに若ものを守り居て、われ
が折り来るをまちくれよ。これより下は案内なくては一歩もすすめ
がたければ、かえすがえすも頼むなり」といいすてて、とどむるを
もきかで足をばかりにのぼりたりしに、件の馬の背ごえに至れば、
天地たちまち変じて初のごとし。 

馬の背越え(御鉢めぐり)
手前が高千穂峯方向
先達がおしえに任せ、折々はうつぶしになりて風をさけ、千辛万苦
して馬の背越八丁が間走りぬけたるに、先達がいいしごとく、それ
よりは真直に登る所あり。 此ところにいたれば、天地又常のごとく
にして奇怪なし。 只いきを限りに登る程に、ついに絶頂にいた
れり。 絶頂は尖りて僅かの地面に天の逆鉾あり。 是を見得し
ときのうれしさ何にかたとえん。
逆鉾の有様、全体は唐金のごとくにみえたれども、風霜にさらせる
ものなれば、青く錆てしかとしれがたし。長さ一丈余ばかり、ふとさ
大なる竹程にて、さかさまに地中にたち、其の石突の端の所に、
南面に鬼面のごときもの見ゆ。是も風霜にされたれば、鼻目しか
とは見えがたし。 土中に入りたる先の方は何程深く入りたるや、
しるべからず。 
只絶頂に此鉾一本のみにて、外に堂宇等のごときもの一つ
もなし。神代の旧物なりや、其程はしらずといえども、実に三百年
五百年位の近きものとは見えず、天下の奇品なり。 もし銘なども
有るやと、くわしく見しかども見えず。

しばらく此絶頂に俳諧するに、天気清明にして、四方目の及ぶ
限りみえ渡り、其心地よき事今に忘れがたし。 されどもかかる所
は久敷留まるべきにあらざれば、いそぎ下りたるに馬の背越に
いたれば又初のごとく、天地晦冥して怪異益はなはだし。 こと
ごとく筆に尽くすべきにあらず。 殊に山上の有さまは人間に漏ら
さざる山法なり。 恙なく馬の背越をこえてひた下りに下るに、遥か
の下の先達若ものかすかに見えて大いさ豆のごとし、嬉しくて
いそぐほどに、下だるとはなしにすべり落ちて、須臾の間に二人
の前に着きぬ。 恙なかりし事のみともに悦び、其夜くれ過ぐる頃、
宮居の傍の坊にかえりぬ。元来急峻なる山なれば、百五十丁の間
なれども、下りには甚だ速かにて、暫時に下だる事なり。

火口の背後が高千穂峯
馬の背越と云う御鉢火口の縁を
暫く歩き、それから峯に登る。
登山当日はこの御鉢に達する
迄と峯頂上付近は非常に強い
吹き上げる風があったが、幸い
に縁を行く時は風がなかった。


今度の登山暴虎馮河の勇なりしかども、もし馬の背より下り来た
らば、生涯のいこんなるべからんものを、よくも絶頂を極めたりぬ。
宮居より左右に分かれて、西のみね、東の峯という有り。登る所は
東の峯なり。東西只二峯のみなれば、登りかかりてより絶頂に至る
まで、只一筋に登る事なり。 他国の高山は多くは登る所もあり、
又下だる所もあるものなるに、此山のみ水筋にも従わず、只登りに
のぼるのみなり。 ふじ等の登に似たりというべし。山の高き事思い
やるべし。 かく二峯東西に対し聳えたるゆえに、昔より高千穂の
二上嶽という。 神書にいう所の山是なり。 
別に今世の人の高千穂の峯という山此国にあれども、甚だの小山
にして、神書にしるせる山にあらず。 高千穂の峯というは此霧島
山なる事、種々慥かなる証拠あり。 此山に登るものはおのずから
知るべし。 白石先生をはじめ、諸先哲、只今世に称する所の
高千穂を神代の旧跡といわれしは、身其地に遊ばざるゆえに
真跡をしらざるなり。 二神垂跡の義、天の逆鉾の義など皆
予ふかく考うる所有りて、一説あれどもこと長ければ別にしるして、
此書に略す。 

高千穂峯頂上(2009.4.26)
偶然地元役場のボランティアに
よる清掃日に重なる
西の峯も高さは東の峯におとらず、雲の間に聳えぬれども、神跡
にあらざるゆえに、世の人のぼる事なし。只、此山高く、しかも広く
大なる事無量なり。 麓のめぐり三十六里、山の中に大なる池
五六十もあり。 中にも大波の池、紫の池などは、めぐり三里も
ありて、湖水のごとしという。
此山にはうわばみ多く住みて、池の辺最も多く、樵者といえども
池の辺には行く事なし。 もし池近くを通る時には無言にて通る
となり。人語のひぎきを聞けば大蛇かならず出でて人をのむと
いう。 又野馬というものありて、形馬のごとく、髪長くして地に引き
おそろしき姿の獣なれども、人を害する事はなしと也。 わが山に
のぼりし時も、初めに案内のもの此事をいいて、もし見給うとも驚き
給うべからずといいし。予ももし見ば珍らしかるべしと思いしかども
折悪敷て出でざりき。
其のほか種々の毒蛇、悪獣、大蜘蛛、大蝦蟇等夥しと也。
是は南国ゆえ、かかる高山深谷なれども、雪封ずる事なく、常に
暖気なるうえに、格別に広くて、人跡かよわざる幽僻のところ多き
ゆえに、万物生じやすく、冬も蟄せずしてかかるものども多しと
見えたり。 北国にも、越中立山などは、高く広き事霧島におとら
ざれども、四時雪封じて生類は住む事なりがたきゆえ、毒蛇、
猛獣ある事なし。只鳥獣草木の種類の多きは、天下此霧島に
勝るところはあらじとぞ覚ゆ

又、山中に温泉の湧く所も数十ヶ所あり。硫黄のいずる谷もあり。
水精は馬の背越辺の谷底に、日かげにかがやきて遥かに鏡の
ごとく、或は月出のごとくみゆるもの所々に有り。其の大いなる事
思いやるべし。しかれども、絶険のところにて行がたく、殊には
其辺神変ふしぎ多き辺なれば、砂一粒といえども山神のいかりに
触るるとて、とる人なし。又黒尊とて、千丈の黒岩、谷そこよりはえ
ぬきたるあり。奇絶、言語に及ばず。其外いろいろの珍奇いい
つくすべからず。 此山中に一月も二月もありてみめぐらば、
面白き事限りあるべからず。されども中々仙骨を得ざれば叶い
がたき事也。
すべて天下の高山は、役の小角、釈の泰澄などの開山多きに、
此霧しまやまのみ仏者のいまだ手を付けざる所にして、只開山は
伊諾、伊冊の二神とやいうべき。 誠に珍敷き山なり。



南渓は全長一丈(3m)と云って
いるが当時上部の鉾刃は既に
無かった筈であり、龍馬の云う
4-5尺(150センチ弱)が正しい。


西の峯: 韓国岳(1700m)で
 霧島連山の最高峰
 現在はえびの高原(1200m)
 から登山でき、高千穂より楽
 に登れる

出典: 東西遊記2 平凡社 東洋文庫より
橘南渓: (1753-1805) 京都の医者、西遊記は1795年に発表、霧島登山は1782年
伊諾、伊冊: いざなぎ、いざなみ、 古事記、日本書紀に出現する最初の男女二神
役の小角: (えんのおづね)飛鳥―奈良時代の呪術者、修験道の開祖という
釈の泰澄: (682-767)奈良時代の修験道の僧


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       西遊雑記巻三   古河古松軒紀行記    戻る
霧島山は九州第一の深山にて幽谷険阻、かぎりを知れる人ハ稀
にて、山奥肥後の米良山に続き南ハ大隅に跨り、数千里に連りし
山地、高山と称しがたく只布地広大はかるべからず、当山躑躅の
木数多にして、花の頃ハ谷々、峯々猩々緋にて包ミしごとく、山
一面に赤く、朝日夕日にハ其光りに映して、ながめ何にたとへん
かたなし、春の頃を盛りとしけれど、残花となりても此山の躑躅ハ
夏までも咲谷有り、上方筋にて、きり島つつじと称せるつつじの
木ハ此山の名をつけしものにて、色赤しといへども土地のよしあし
によりてや、当山の躑躅のいろハ誠に緋のごとく、類ひすべきもの
にあらず、
東霧島村と西霧島村とハ曲り道とハ云ひながらも行程凡六里余、
西北ハすべて霧島山にて、谷々麓をめぐりて小村多く、地名・山
の称ハかはるといへども、惣名ハきりしまといふ、海内世人の思ふ
とハ案外にて、中華にもさして劣らざる広大成事にて、かヽる山も
有る事也、
猩々緋:深紅色の毛織物
  当時は長崎で輸入

扨て此山奥険阻の峯に、神代に建て給ひし天の逆鉾と称せる
数丈の鉾、巌石のうへに逆しまに建て、それに神代の文字にて
銘を彫りて有ると昔よりいふ事にて、誰一人其所に行て見しと
いふものさらになく、京都橘石見之助ト云人伊勢国久居人、故
有りて此地に下り、逆鉾の建て有る峯へ行て見しといふ九州の
紀行有り、
予是を一見せしに、人家をはなるヽ事十余里ばかり、谷に下り峯
を越へて行に硫黄の燃る谷も有り、煙爰かしこに立上りて道を埋ミ
行まどふ所も有り、刃のうへヲ伝ふやうな岩のうへヲ腹はいにして
行所も有りて、十死の地に入ルがごとし、案内とて供なひし一人
ハ、今一里ばかりこなたよりおそれ驚て気絶す、やうやう是を
介抱し其人ハ其地に待セ置て、石見之助一人険しき所を木の根
かつらに取つきて逆鉾の建し峯近く至りしに、夫よりハ登るへき
道なく、いかにも巌石のうへに数丈の鉾と覚しき物有り、銘などの
事ハさらに見へず、鉄なるや、銅なるやそれもわからず、其所より
是非なく元の道へ立かえり、彼友なる人とうち連レ、命からがら
麓の里へ下りしと記し有り、



橘石見之助: 南渓と号す
伊勢久居藩の人
西遊記を著す。
西遊記では南渓は頂上を
極めた事が記されている

予も一見の志し国を出し時よりのぞミにハ有りしが、と霧島町に
止宿し里山の家に行て、鉾の一事を聞しに、昔時より鉾の有る
事を人々云伝ふ事ながら、十余里も人家をはなれ、深山幽谷の
道もなき所を行事ゆへに、誰一人其道すじを知る者もなく、生て
かへらん、と思ふ人の行べき所にあらざれハ、此四五里の村里に
おいて、我ハ行て逆鉾を見しといふものハ聞伝へずとの事也、

予按に鉾何の為にたて置しと云理りもなく、天よりふりしの
国とこたちの命の立置セ給ひしの、といふ斗りの事也、
神代にもセよ、数丈の鉾を人もかよはぬ岩石の上に立べき道理
もなく、関羽の青龍刀の鉾よりも大ひなる鉾を、何人が用ひ、
何人が是を作らん、察する所似像石なるべし、造物者の作に
於ては、岩にても石にても似像のもの有る事也、 それに説を
加へて好事家の奇談となりて世に伝へしものならんか、猶智才
有る人の考へを待のみ


土人秘して語る事あり、他国よりややもしてハ霧しま山の鉾の事を
尋とひ来る人々多し、何と答んやうなし、是によって遠からぬ国の
守、銅を以数丈の鉾を鍛冶数人を集メて作らしめ、それに銘を
彫て此山奥、山人もかよひかたき険山の峯に建給ひし也、 是を
一覧あるにも、危ふき道も絶へし難所を七里ばかりもわけ入ら
ざれば一覧なりがたく、穴賢新に作り給ひしなどといふ事、我より
聞しと人に語り給ふな、と口とめして物語りき、此一事ハ追々
人も知る事と、土人の口とめながら爰にしるせるものなり
 
逆鉾を建て給ひしハ島津義久朝臣也、今世に
 いろいろの図を画きて欺くもの有、信ずべからず



里山:庄屋






予按に:私が思うに

国常立尊:イザナギ、イザナミ
に国を生むように両神に矛を
与えた天神。天より降臨した
神はアマテラスの孫のニニギ



土人:土地の人

遠からぬ国の守: 
薩摩、大隅の太守をさすか
薩摩侯の領分に入ル時にハ、関所において荷物を改メ、見せ金
と称して金子三分ばかり所持せざれハ関所に入れず、是ハ国に
入りて病死せるか疾病有る時に、国所のもの入りにならぬ用心と
見へたり、予此国の一見ハ一通りの旅人にてハ端々迄もめぐる事
ならぬやふに、兼々聞及ひし故に、仮に六十六部の修行者に身
をやつし関所にかかりし故に、さして番人のとがめもなかりし事也、
しかれども往来の証文を一見して左の通りのゆるし切手を渡し
村々において手形を庄屋・年寄に見セて、何月何日何村に
止宿セしといふ書付を取りて通行すべし、と云渡せし事也
   
   覚
           備中下道郡岡田村修行者
              古松軒壱人
一年五拾歳
一笈一ツ、内に本尊地蔵尊其他何々
   (以下略)
六十六部:大乗妙典(法華経)を六十六部書写して、これを持って全国六十六ヶ国を巡り、国ごとに、代表的な寺社一ヶ所に一部ずつ経典を奉納することを六十六部廻国供養といい、その者たちを六十六部と呼んだ。
注:
出典:国立公文書舘所蔵写本、「西遊雑記」巻3より
    同舘所蔵の別写本も数点あるが、島津義久云々の箇所は一写本(177-1140)のみで
    あり、他写本にはこの二行はない。 島津家を憚った為か?
古河古松軒:(1726-1807)岡山の人、薬屋を営むが五十歳を過ぎてから諸国をめぐる。 
    六拾九歳の時幕府の命令で武蔵の地理調査に従事する。 
    著作は東遊雑記、西遊雑記、他多数
島津義久: (1533-1611)島津家16代当主、在位1566-1602、薩摩・大隅を統一し、日向及び
       九州全体の制覇を目指すが秀吉に敗れ、以後島津家の領地は薩摩、大隅両国と
       日向国の一部となる。 


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               古事記 記述              戻る
是に天つ神諸の命以ちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、
二柱の神に、「是のタダヨヘル国を修め理(つく)り固め
成せ」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さし賜ひき。 故、
二柱の神、天の浮橋に立たして、其の沼矛を指し下ろして
書きたまへば、シホコロコヲロニ書き鳴して引き上げたまふ
時、その矛の末より垂り落つる塩、累なり積もりて島と成りき。
是れオノコロ島なり。
       (中略)
故爾に天津日子番能邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位を
離れ、天の八重タナ雲を押し分けて、イツノチカキチワキテ、
天の浮橋にウキジマリ、ソリタタシテ、筑紫の日向の高千穂
のクジフルタケに天降りまさしめき。
諸天神:国之常立神他

アマノヌボコ
書=攪




アマツヒコホノニニギノミコト

威風堂々と
古事記:日本古典文学体系、岩波書店より
成立:712年(和銅5年)大野安麻呂が献上
              神皇正統記 記述
 こヽに天祖国常立尊、伊弉諾・伊弉冊の二神に勅して
のたまはく、「豊葦原の千五百秋の瑞穂の地あり。汝往て
しらすべし。」とて、即天瓊矛をさづけ給。 此矛又は
天の逆矛とも天魔返ほこともいへり。 二神このほこを
さづかりて、天の浮橋の上にたたずみて、矛をさしおろして
かきさぐり給しかば、滄海のみありて、そのほこのさきより
したたりおつる潮こりて一の島となる。 これオノコロ島といふ。
      (中略)
 第三代、天津彦々火瓊々杵尊、天孫とも皇孫とも申。
皇祖天照太神・高皇産霊尊いつきめぐみましましき。 
葦原の中州の主として天降給はむとす。 (中略)
 「皇孫いづくにかいたりましますべき」と問しかば、「筑紫の
日向の高千穂の串触の峯にましますべし。 われは伊勢の
五十鈴の川上に至るべし。」と申。 
アマツミヤ・クニノトコタチノミコト
イザナギ、イザナミノミコト
アマノタマホコ、アマノサカホコ





アマツヒコヒコホニニギノミコト
アマテラオオミカミ、タカムスビノミコト

神皇正統記 岩波文庫より
成立:1339年頃(延元4・暦応2)北畠親房による

                                            

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元禄十丑年                        憲純法印
             霧島山仏花林寺錫杖院神徳院由緒帳       戻る 

日州霧島山襲之高千穂槵臅峯者、地神第三代
天津彦々火瓊々杵尊、為下界化度、天降霊峯也
矣、東麓狭野之地者、晨昔霧島神社鎮座之浄砌
神体者、人皇六十代醍醐天皇御宇、延喜五年
乙丑十二月廿六日宣下、於山城州愛宕郡如意
峯神祇斎場、奉安鎮三千一百三十二座、神体
同月廿八日奉渡、於神体六十余州令鎮座、日州
諸県郡一座霧島神社是也、云々此旨座主代々
面授口決相承也矣、
人皇六十二代村上天皇御宇、性空上人初来
干此山欲拝観本地尊容精修練行、干時六観音
威光赫如而現故、創梵閣、安置大悲像、営院宇
号、霧島山仏花林寺錫杖院、蓋是酬地是也、自
爾以来、当山両部習合神道也、人皇八十六代
四条院御宇、文暦元年甲午十二月廿八日、神火
震烈火坑、飛燄石雨、熱砂塵没神祠精藍已
及退転矣
日向国の霧島山襲の高千穂クシフル峰は、地神第三代
の天津彦々火瓊々杵尊が下界を開く為天降りした峰なり
東麓の狭野の地は、昔から霧島神社が鎮座した場所

人皇六十代醍醐天皇の時代に、延喜五年乙丑十二月
廿六日に宣下があり、山城国愛宕郡如意峰神祇斎場に
おいて、三千一百三十二座を鎮め奉り、神体を同月
廿八日用意した。 これを六十余国に鎮座させ、日向
諸県郡に一座配られたが霧島神社がその一つである
事を代々の座主が口伝えで伝えてきたと聞く

人皇六十二代村上天皇の時代に、性空上人が初めて
此山に来て修行をした。 其の時六観音の威光が顕れ
たので寺を作り大悲像を安置し、寺の名を霧島山仏
花林寺錫杖院とした。 以後当山は神仏習合となった。

人皇八十六代四条院の時代、文暦元年甲午十二月
廿八日噴火が激しく、火炎が飛び、石や熱砂で神社も
寺も消滅した。
   東霧島権現高原之麓鎮座事
一天文十二年癸卯邦君 貴久主有厳命干愛
 恵和尚、東霧島御神躰遷幸干高原之麓□
 仮構宝□□□比侍宝物六種侍余之云々、一剱
 二錫杖、三鐃鈸、四幡六流、五伝教大師御筆之
 法華経一部、六性空上人九条袈裟一衣合六種
 
 神領御寄付之来由
一天正年中宝物六種之内、伝教大師御筆之法華
 経一部性空上人九条袈裟一衣宥淳法師奉献
 太守義久主云々、繇是日州嵐田村之照崎寺并
 神領高百五十斛令寄付之、雖然彼地無程属干
 他領故、且慶長七年壬寅、付小林遊木□門、高
 五十二石六斗充祭奠之供矣
  東霧島権現高原の麓に鎮座の事
一天文十二年癸卯、領主の 島津貴久主の厳命が
 愛恵和尚に下り、東霧島の御神躰を高原の麓に
 移した。 仮作りの宝物殿に宝物六種を納める。 
 それらは一剱、 二錫杖、三鐃鈸、四幡六流、五伝教
 大師御筆の法華経 一部、六性空上人九条袈裟
 一衣、合せて六種
 
   神領御寄付の由来
一天正年中に宝物六種の内、伝教大師御筆の法華経
 一部、 性空上人九条袈裟一衣、宥淳法師より献上
 した。 太守義久主は是によって日向国嵐田村の
 照崎寺とその 神領高百五十石を寄付した。 
 しかし此の地が他領に なったため、 慶長七年
 壬寅に小林遊木□門、高 五十二石六斗を与えた

出典:鹿児島県立図書館蔵書
元禄10年: 1697年、 この由緒には逆鉾の事は出ていない
延喜5年: 905年全国の神社の中で官社として神名帳に登録、其数3,132座という。 
村上天皇在位: 946年ー967年 従って性空上人の霧島山開山は此の頃と思われる
文暦元年: 1235年 此の時の霧島山噴火は788年と並び特に大きかったようである(気象庁記録)
天文12年: 1543年 島津貴久は義久の先代の領主
天正年中:(1572-1591) 1571年木崎原の戦いで伊東氏を破り島津氏が南九州の覇権を握る
錫杖院、神徳院: それぞれ現在の霧島東神社、狭野神社の別当寺院だが、いずれも明治の
     廃仏毀釈で消滅した。 

錫杖院門跡(霧島東神社境内)

霧島東神社