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                     霧島山天逆鉾考 その2

  江戸後期の宮崎成身が視聴草で取り上げた霧島山の天逆矛を以前紹介したが、その後更に他の文献等調べ、且登山もして現物を見てきたので続編を紹介したい。 
  逆鉾に関する過去の文献では、一番近い物で坂本龍馬が妻「おりょう」と鹿児島への新婚旅行の際に霧島登山し逆鉾を見て、これらの事を龍馬の姉に宛てた手紙がある。 又それより80年程前、橘南渓という伊勢出身の医者が各地を旅行し見聞記を著しているが、その中に霧島山登山及び逆鉾記がある。 龍馬も南渓の書を読んだ上で登山した事が手紙から推量できる。

左写真は霧島山、手前は御池

  又、南渓と同時代に備中国(岡山)の薬屋兼医師で、古河古松軒と云う人が旅行見聞記を著しているが、
彼も霧島山周辺を訪れている。 登山はしていないが逆鉾について情報を地元で収集し、南渓の登山記を
引用しながら、西遊雑記の中で独自の見解を述べている。

  先ず南渓の書では、神話に出てくる天孫降臨の高千穂とはこの霧島に相違ないと主張しており、当時
既に日向の北部の高千穂との間で神話解釈の論争があった事が覗われる。 ただ記紀や、それを判り易く
した神皇正統記でも天逆鉾が登場するのは、ニニギノミコトの天孫降臨神話ではなく、イザナギ・イザナミの
国生み神話の方である。 ところが南渓は何故か天孫降臨を天逆鉾に結びつけている。 これは当時巷で
言われていたのか、それとも南渓の論理の飛躍か不明だが、現在もこの組合せで伝説として伝えられている。 

  いずれにせよ神話と工芸品を結びつける事自体が意味のない事で、その点龍馬などはさすがに合理
主義者と思われ、逆鉾に何のありがたみも持っていない。 又古松軒もこの点を冷静に考え、仮令神代の
ものにせよ誰が何の為に作ったのかと疑問を持ち、土地の人の内緒話として薩摩藩主島津義久が鍛冶屋に
作らせたと聞出している。 現在より200年以上前の南渓や古松軒の時代より更に200年程前の事である。 
只藩主が何の為に、と云う事迄は古松軒も言及していない。 又霧島山で修行した性空上人の流れをくむ
修験者が、神皇正統記に触発されて悪戯半分で山上に置いたに違いない、と云う説もある。 

  江戸時代でも既に分からなくなっている事を今明らかにする事など無理であるが、もし仮に島津義久説を
取ったとしても既に400年以上風雨、噴火に晒され、且盗難にも遭わず山上に鎮座している事になり、夫だけ
でも十分価値があるものと考える。 地元高原町の記録では出典不明だが1592年の噴火で刃が破損したと
なっている。
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  尚本論から離れるが、南渓や龍馬が登った高千穂登山のコースは、馬の背越えの記述から見て、現在の
高千穂河原からの登山コースと推定される。 尤も楽なコースとは言われているが、970mの高千穂河原から
峯頂上迄更に600m登る事になり、登り1.5-2.5時間、下り1-1.5時間となっている。 登山当日は天候にも
恵まれ、同行した地元のK氏にアドバイス受けながら、登り1.5時間、下り1時間で往復することができた。 
当日噴火口では僅かの水蒸気を見たが、南渓の登山時はかなり活発な火山活動が有った事が文から推定
できる。 夫だけに南渓は艱難辛苦の上、登頂し逆鉾を見たので感激一入だったようである。 龍馬の時は
火山活動はなかったようであるが、同伴した「おりょう」がもし着物ならたいへんだったろうと思われる。

詳細へ  
     1. 坂本龍馬書簡
       
     2. 西遊記 橘南渓
        
     3.西遊雑記 古河古松軒
        
     4.古事記、神皇正統記 関連部分

     5. 錫杖院、神徳院由緒(元禄十年)

右写真は何度も噴火して堆積したと思われる霧島山山腹の火山灰層