紅葉の三渓園を散策 | ||
横浜の南、本牧地区に三渓園と云う日本庭園があり 最寄駅はJR根岸よりバスで10分程、5万3千坪の広 大な園内には17の建物が配置されている。 夫々 歴史ある建物が多数移築されており、その内10が国 の重要文化財に指定されている。 又これ等の建物と庭園が調和しており、季節毎に 風情ある景色を楽しめる。 今回は紅葉の季節に古文書仲間と散策したが、 仲間のひとりがボランティアでここのガイドをやって いるので色々詳しい話も聞く事が出来た (20091204) |
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初代原善三郎(1827-1899)は埼玉の出身で 1859年横浜が開港になると同時に生糸貿易 により財をなした。 1868年(明治元年)には 横浜の本牧地区に後に三渓園となる土地を 購入している。 二代目原富太郎(1868ー1913)は岐阜の 出身で早稲田大学を卒業、1892年に善三郎 の孫娘と結婚し原家に入籍する。 1899年に 原商店を引継ぎ、個人商店を会社組織にする など事業を発展させる。 彼は実業家であると 同時に芸術の理解者で岡倉天心とも親しく、 横山大観始め多くの画家のスポンサーでもあり 号を三渓と云い三渓園を造る。 |
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鶴翔閣 原三渓は1902年に横浜野毛山から自宅をここに 移して庭園の整備を行い、1909年には原家の 居宅として鶴翔閣が完成する。 建坪約300坪と 云われ、多くの画家が出入りしたと言う 1906年(明治39)には外苑部分が一般に公開 され、1958年(昭和33)には原家のプライベート エリアだった内苑も公開された。 この鶴翔閣も 現在は有料の貸出施設として、結婚式や各種 パーティーに利用されている。 |
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臨春閣(重文) 徳川家康の第十男で紀州徳川家初代となった 頼宣が和歌山紀ノ川沿いに1649年(慶安2)に 建てた夏の別荘であり、紀州から出て八代将軍 となった吉宗は幼児この御殿で育った由。 この建物は京都の桂離宮と共に数奇屋風書院 造りの双璧と云われる程の物との事。 紀州家 から大坂の商人の手に渡り、1917年(大正6)に 三渓園に移築された。 建物の由緒も去ることながら、三渓園の日本庭園 に良くマッチしており、この部屋の縁から中秋の 名月を眺めると丁度三重塔と重なると言う。 |
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裏庭の紅葉風景 これも庭園の造り方の一つか、建物の表側から 部屋を通して裏庭の紅葉が見えるようになって おり、中々風情がある。 部屋の壁や襖などには多くの狩野派の絵が 残っている。 但し風化を避ける為、これらの 建物内に残る絵はレプリカと云う事で、本物の 襖絵は園内記念館の展示室に保管されており、 順番に館内で展示されている。 |
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瓢箪文手水鉢 豊臣秀吉が愛用したという手水鉢(ちょうずばち) で周囲に瓢箪の文様がある。 秀吉から藤堂 高虎に与えられ、高虎の居城であった伊賀上野 城にあった物の由。 三渓園では臨春閣の脇に 設えている。 園内の彼方此方に由緒ある石の加工品が置い てあり、奈良東大寺の柱の礎石とか石棺、石灯 籠など。 明治の廃仏毀釈令で奈良や京都の古刹も経営 難で由緒あるものが流出したものを三渓が 集めたものと思われる。 |
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月華殿(重文) 徳川家康が京都伏見城に居た頃に城内に建て られたもので、関が原の戦いで勝利した東軍 リーダーであり、将軍となる家康に伺候する 大名・武将達の控の間として使われた物の由。 写真左側に12.5畳、右側に15畳の大部屋があり 奥に小部屋が幾つかある。 1603年(慶長8)築 と云う事であるから丁度家康が将軍宣下を受け た時にあたり、既に400年以上経た建物である。 |
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聴秋閣(重文) 1623年(元和9)徳川家光が将軍宣下を受けに 上洛した際、京都二条城内に佐久間将監に 命じて作らせた。 将監は桃山時代から江戸 初期の著名な茶人で秀吉の小姓から後、徳川 三代に仕えた旗本。 其後この建物は家光から乳母の春日局に賜り 以後春日局実家である稲葉侯の江戸屋敷に 移設され、三渓園には1922年(大正11)に移設 一階は八畳間及び、八畳の一角が斜めにカット された変形の部屋で、二階は二畳。 |
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春草蘆(重文) 織田信長の13歳下の弟である織田長益(号: 有楽斎)の建てたと云われる三畳の茶室である。 有楽斎は茶を千利休に学び、有楽流の祖となる 関が原では東軍に組し、大坂夏の陣では豊臣 家を離れる。 その後家康に大和三万石を安堵 され、江戸屋敷が現在の有楽町付近にあり、 有楽町名の由来となったと云う。 この茶室は 始めは月華殿に付属していたが、茶の趣味が あった原三渓の茶室に現在は付属している。 園内には此他金毛窟(三渓作)、蓮花院 (三渓作)林洞庵(寄贈)等の茶室があり、茶会 等に貸し出されている。 |
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旧天瑞寺寿塔覆堂(重文) 豊臣秀吉が母の病気平癒を祈願して、京都 大徳寺内に天瑞寺を建立した。 その効験が あったか病気が平癒したので、今度は母の長寿 を祝為1592年(文禄元)に石造の寿塔を建てた と云う。 この堂はその寿塔を覆っていた堂であり、 1902年(明治35)に三渓園に移築された。 寿塔そのものは今も大徳寺内竜翔寺にある由 |
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旧燈明寺三重塔 京都相楽郡加茂町にあった燈明寺のもので 1914年(大正3)に三渓園に移設された。 園のほぼ中央の小高い丘の上にあり、園内どこ からも見えシンボルタワーである。 丘に登って 近くで見るより園内から遠景を眺める方が 絵になる。 この塔自体は大変古いもので室町時代1457年 (康生3)の建築で関東地方では最古の塔の由。 又燈明寺自体も大変古い寺院で735年(天平7) に聖武天皇の勅願によって建立と云われている |
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旧燈明寺本堂(重文) 燈明寺は京都相楽郡加茂町に存在したが現在 は廃寺となっている。 この本堂は三重塔と 同じく室町時代初期に建築されたものだが、 1947年(昭和22)の台風で倒壊した。 その材料が保管してあったものを1987年 (昭和62)に三渓園に移築した由。 |
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合掌造、旧矢の原家(重文) 合掌造で有名な白河郷で飛騨三長者の一人と 云われた庄屋、矢の原佐助の家として宝暦 年間(1751-1764)に建てられたもの。 戦後御母衣(みほろ)ダムの底に沈む事になった ので、矢の原家から三渓園に寄贈され1960年 (昭和35)に移築された。 一階部分は中央 から二つに分かれ、左半分は書院造りで畳 敷き、右半分は板の間で農家の形式となって いる。 天領の庄屋の家であるため、時々幕府 の役人が出張して書院部分に滞在したという。 |
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250余年の黒光り 2階への急な階段を上ると上は展示を兼ねて農具、機織器、当時の各種生活用具や調度品が置かれている。 又一階の囲炉裏では実際に薪を燃やしているため、少々煙い。 それにしてもクレーン等ない昔、大きな柱を組み合わせ良く造ったものだ感心するばかりである。 |
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昔の金持ちは気持ちがおおらか 生糸商売で莫大な財をなして、その財を惜しげも なく趣味に投じて、それを自分ひとりの楽しみだけ でなく皆が楽しめる様にしている。 お蔭で何も しなければそのまま朽ち果てたかも知れない歴史 上の遺物を現在に生きる我々が見聞し、想いを 往時にはせる事が出来る。 文化とは此の様な ものと思う。 人は色々だが現代の金持ちの中には、一国を 代表する様な立場にも拘わらず贈与の税金さえ 払う事を厭い、不明瞭な事をしている人もいる。 |
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