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            薩州旧伝記 
             
旧伝集一

一日新公御幼少之時分、御手習として伊作海蔵院に被遊御座候
 外ニも寺児余多ニ而、殊之外御あまり被遊候にて付て、改蔵院 
 住持長刀のさやをはつし、せつかんとして追掛られ候得者
 皆々玄関口の様ニ外ニ逃出候、 日新公御事も玄関口の
 やうに御逃被遊候得共、御草履無之付、玄関口にひとり御立
 居被遊候、住持見奉長刀を捨、涙を流しいだき奉り、扨々
 後にハ能御大将に御成可被遊と被申ハ、御幼少之時分より
 人に勝れ被遊候由也、 日新公御幼少之御名ハ菊月に     *菊月=長月、九月
 御誕生被遊候故 菊之助様と為申由
一或時椛山安芸守殿宅江 中納言様御成被遊候、庭に梅
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 の花ながき枝と、椿の花の小枝生有之候折節、徳田太兵衛も
 御供いたし御前江被罷居候 中納言様太兵衛江床の花に
 歌をよめと被仰付候、則太兵衛よまれ候ハ
  鑓梅に椿の小太刀請とめて、花の命をつきてこそ見る
 と読被申候得者、別而御機嫌宜為有之由候
一伊作海蔵院の前に観音堂有之候、日新公御幼少之時
 観音より墨筆を御もらひ被遊候と夢を御見被遊候と也
 夫より 日新公御建立被遊候と申伝候
一国分富の隈の城御門かやぶきニ而有之候処、致破損候ニ付、山田
 利安、伊集院抱召、 龍伯様江被申上候ハ御城御門破損仕候間 *義久、日新孫
 此節修補の序に小板ふきに仕可申候、他国より使者様参り

 申候に三ヶ国の太守の被成御座候御城門にかやぶきニ而は
 余り廉相と存可申由被申上候 龍伯様被聞召上、他国ゟ
 使者を遣候て必心有者を遣べく候、尤当国の地を数里通り
 可参候、しからバ三ヶ国の太守の城門ハ茅葺ニて廉相なれ
 とも、国民の風家を見候得者富栄たり、太守の仁政定而
 厚く可有之と肝要の所ニこそと気を付可申、小板ふき結構ニ
 いたし候とも民百姓労れてハ心有者ハ国主の仕置不宜と
 見可申候間、肝要の所に気を付可申、いらざる事に気を
 付申間敷候、本の茅葺ニ而くるしかるまじとの由被仰候と也
一伊作海蔵院江 日新公御幼少之時被遊御座候節、余り
 御あまり被遊候ニ付、住持よりせつかんとして 日新公を柱に
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 しばり付為被申由候、其柱日新柱と申伝為有之由候得ども
 先年海蔵院火事ニ逢、焼失いたし候、然ども其跡ニ本之通普
 請有之、爾今日新柱と申伝候柱有之由也
一或時 中納言様、徳田太兵衛江、其方ハ小男ニ而候、あの戸の*忠恒(家久)義弘子
 ふしほけよりいき通ハ成間敷哉と被仰付候、太兵衛つと立寄て
 ふしほけへ息をほつとしかけ、いき通申候と被申上候也
一或人四五人列にて於江戸、東海寺の紅葉見物ニ参候、中道ニ而
 年の比十六計と見え候容顔うるわしき女中壱人、紅葉の枝 
 を持て向より参候、右列之衆彼女中を題にして歌を可読
 由申候得者、早速に不出し、其中ニ茶湯坊主有之しが早く
 読けると申候、いかにといへば
  
   かくとても 色に出るは いかにせむ 人をしのぶの
   寺の紅葉は
 と申候、然バ右の女中参り掛り右の事をほの聞て歌を
 読被成候と見え申候、打付ながら私を御読ハ不被成哉と申候、其時
 坊主申候ハ成程さ様ニて候、何れも御手前を見候而結構の女中
 見事成紅葉御持被成候ニ付、御無礼ながら取あへず歌を
 読申候と云ひけれバ、女中其歌ハいかに、承度申,坊主右之歌
 を申候得ば、扨も扨もつれない御人ニ而候、左候ハバ紅葉進上可申候
 とて、右の坊主江投掛て右の女中跡をも不見して罷帰候
 右之衆扨も扨も不思儀の事ニ而紅葉をとてばかい取、最早
 東海寺へ行ニも及ぶまじとて、かたわらの茶屋へ入、右の紅葉を
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 いけ、酒杯のミ興せしと也、其面白き事言語を絶しける
 とぞ、然るに 泰清院様此事を被聞召上、右之衆を御前江 *島津綱久 光久子
 被召出、委細被聞召、別而御感心ニ而嘸面白可為有之、我か様
 ニも其時の御列ニ御成可被遊候而、其時之様躰ニ而酒を可被下ル
 被仰付、紅葉をいけ酒を被下ニ而、其時の興を移し御咄為
 被申上由候
一北野の神詠之歌に        *天神、菅原道真の歌
    心だに 誠の道に かなひなば いのらずとても
    神や守らん
 右之歌を伊勢兵部貞昌被聞候而、いのらずとても神や *島津家重臣 筆頭家老
 守らんと有候句を如何思われけん、兵部どの被詠候歌に
 
   心だに 誠の道に かなひなば いのらずとても
   守らずとても
一寛陽院様有馬江御湯治に御越被遊候時、宮越六左衛門も御供ニ而 *島津光久 家久子
 候処老人参候而六左衛門江相尋申候、私ニは故有者ニ而御座候、秀頼公薩摩江
 被成御下御座罷居申候、何比御死去被成候哉と無拠懇望ニ相尋申候
 六左衛門被申候は 秀頼公於大坂御生害為被成と承及候、薩摩ニハ
 御下り無之由返答ニ而候と也、六左衛門右之老人江、御方ハいか成御人、いつれニ
 御座候哉と相尋被申候得共、只故有者ニ而御座候と計為申由ニ而、何たる者
 とも不相知由候
一或すゝどき小者或弐衆江交り居候付、愛甲次右衛門殿あの様成下人共と *鋭い、機敏
 交り候ものかと被申候得ば、右之小者次右衛門ひさつふしを抜打ニ
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 あふなひ切割候得者、次右衛門殿扨々其様成器量の者ニ而候かと為申由候
一加世田日新寺江毎年六月廿三日衆中踊有之候訳ハ
 貴久公 勝久公之御養子御違変ニ而加世田之様ニ御差越被遊候、然ニ
 日新公ゟ貴久公を比興至極と殊之外御腹立御叱り候処
 貴久公必至御迷惑被遊、殊之外御様子悪敷御座候、日新公も
 御叱り余り強過たると御後悔被遊、御違変ハ左も可有之間廻喰
 夫より 貴久公御心慰ニて有之、加世田江踊を被仰付候、依之今に
 六月廿三日貴久候御忌日ニ踊申候由と也
一無私仁而大公
 伊勢兵部貞昌右之句を為遺云、子孫ニ被遺候由、兵部殿所ニ掛物ニ
 いたし今に有之由候
一大玄院様御上洛之時、御道中ニ而其日ハ早々御立御急被遊、御駕籠廻り *綱貴
 計ニ而遠州塩見坂も御駕を被立,御茶弁当より御つ粽めしを御
 出被遊、御駕廻り之衆江一々に被下候間、皆々被下候得と御意被遊処ニ
 御草履取、私ニハ不被下由申立候得者、それニ而ハ成申間敷と被仰
 最早別食無之候付、我様被召上候て、坂之上にすくと御立御意
 被遊候者、士の分ハいつれも下知に相付候が、下々之者迄下知ニ相付候処ニ
 無覚束と被仰候となり
一塩屋の屋ねふき丹谷庄左衛門屋龍之時、物頭長谷場十郎兵衛殿被相
 果候、其外足軽両人山内七右衛門、関田治郎右衛門相果候也
一或時細川三斎之宅江 中納言様御出被遊、武道之御咄等色々被遊候
 武道之御心掛有之由兼而三斎被聞及しが、実ニ其通りに有之け *細川忠興
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 ると感心之余り、御帰被遊候時一句
   かくあらば ちぎらし物を 中々に
 と申掛られければ   中納言様             *島津家久
   またほそかわの 露の葉がくれ
 と御答被遊候と也、三斎とハ別而御念比申計なく御座被遊候由
一知覧衆中池神源左衛門と云ハ鉄砲之上手ニ而生鳥を射て取人の
 由候、 寛陽院様知覧におひて御鷹野被遊候節、島津備前殿
 を以、右源左衛門を被召出、鉄砲御望被遊候、折角辞退申上候得共、君
 命難背故、射申候而御目に掛申候、然に御鷹放れとられざるゆへ
 源左衛門生鳥を射し由、生ながら仕候様ニと被仰候、是又しきりニ辞
 退申上候得共、射殺候ても不苦候間仕候様ニと有之候付、無是非畏り右之

 鷹をどの羽を射て差上可申由ニ而羽ねを射、鳥の痛ざる様ニ射当て
 差上たる由候、 寛陽院様別而御褒美被遊、御持筒の御鉄砲を
 被下候、今に所持いたし子孫知覧に有之由候、此子孫今ニも鉄砲射候得共
 さまで無之由候、右源左衛門羽ねを射申ニハ口伝有之由と也
一弓之書の歌に
  弓は射よ、いるほどび仰はあらじもの
  習はんこそハ我とこそしれ
  稽古弓大事にかけて不断射よ
  はれなる時も心かわらじ
  我手前かなわん人のくせとして
  相弟子までもひすんおそかふ
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  よふゆふもけいも手計り我もまた
  稽古したりぞ身をくだき射よ
  上手ほどてもなり弓ぞいる物を
  下手より是を何とながめる
一東郷肥前殿江戸詰之刻、立会有之由相聞得候と弟子中何れも  *重位 示現流祖
 より願文を調被申候て大肥前殿江参り、江戸に立会有之由承り
 申候ニ付、御負ハ御座有間敷存申候得とも、万一たゝミなどにも御つま
 づき御けが無之様ニと祈祷仕候由ニ而、右願文を大肥前殿江被迁候得者
 扨々何れも之御志忝存候、肥前ニ而候間打たおし可申候、我事ならバ討ニ
 不及、かいさでく見せ候ハヽ成間敷と被咄候と也
一国分ニ是枝甚吉と申士有之大胆不敵の勇士ニ而、国分中之諸傍輩

 殊之外慮外之働段々有之候、依之御殺可被遊由申上候処
 惟新様御意被遊候ハ成程各ゟ申通り之慮外有之候得共、彼者ハ敵
 の中江責入事何とも不思、一虎口ほがす者ニ而候間、惟新ニ対し
 堪忍仕候得と御意被遊候と也
一伊地知半左衛門殿江横升大雪被申候ハ芸ハ町人百姓下々ニても外ゟ付
 者ニ而候間、成者ニ而候、然とも武士といふ者ハ心根により候と被申候と也
一鎌田出雲殿所江東郷大肥前殿江余多列立候而碁打ニ被参候処ニ、人々
 肥前殿江被尋候ハ、鑓ハ留り申者ニ而御座候哉らん、肥前殿成程示現流ニ而ハ
 留り申すものニ而候得とも、私ニハ留メ申を難成候、左様候とて示現流を悪敷ハ
 被仰間敷由候、然ニ肥前殿碁を折角打被申候処ニ国分より鑓の上手
 参り候、御留被成候而見せ可被成由皆々望にて、最早棒を肥前殿ひざ
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 本に被出候、其時鑓を持候もの出来候、肥前殿ハ脇ニ少もかまわん風情ニ而
 碁を打被罷居候而、右の棒おつ取すつと立、突と被申候様子、髪の毛
 も逆様ニ為有之由候、右の鑓突、鑓つき出す事もならず候而、鑓を
 捨ひざまづき、礼をいたし引込申たる由候、夫より直ニ肥前殿ハ被罷
 帰候由也、扨鑓突に皆々何とて突出す事不成候哉と被尋候へハ、突
 出申候ハヽ頭みぢんに割可申様ニ有之、鑓を引取申儀ハ安ク候得共、突
 出す事ハ壱寸も成不申と為申由候
一上の諏訪ハ御当家五代太守貞久公之御時、信州下の諏訪を御盗
 とらせ、御当国江御建立為被遊由候、其後又信州上之諏訪を御盗と
 らせ可被遊由ニ而、伊集院弾正少弼頼久の嫡子五拾人計之人数ニ而盗とり遣候
 然処ニ此事早諏訪江聞え候ニ付、彼方ゟ待受、頼久の嫡子を始五十人計
 
 之者壱人も不残皆々討取たる由候
一諏訪杢右衛門殿 泰清院様御遺躰ニ奉付帰国の節、歌ニ
  去年の夏、君がはけ哉 道芝の あらん露散る 浮島が原
  いかにうき 契りなればや 三度まで 君にハ脇の わかれしぬらん
  君代と 高野の山に おくり捨て 帰ルたもとよ かわきたにえず
 一周忌によめる歌に
  めぐりあふ 月日もはかな 二月や 花にわかれし 今日とおもへハ
一石原休左衛門殿或時大徳寺門前者と殊之外出合被申候が其夜大徳寺
 脇の小路ニ右門前者の首打落し有之候、依之休左衛門殿江御不審
 相掛候得共、其夜ハ糺明奉行の神戸五左衛門殿所江被参相咄被申
 候ニ付、五左衛門殿証拠ニなり、相のがれられ候、実ハ休左衛門殿切殺
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 され候得共、ゑすき人ニ而五左衛門殿所江参り証拠を被取候由也
一小者に別而勇気者有之、士弐才衆江きへきくて被居、讃山善助殿
 年生の参候比、弐才衆集り被居候辻江立寄被申候ハ、前廉ハあの様成
 不届者ハ首杯打切有之事度々為有之由咄にて候が、其夜右之
 小者の首打落為有之由候、後に承候得ハ善助殿しわざの由候也
一或時 惟新様御前江指宿清左衛門殿を被召出、何か御志有之候に別而
 せき為被申様子にて候、清左衛門殿被罷立跡ニて御側衆被申候ハ、清左衛門殿ハ
 別而武功有之と申人にて候が、きつふせき為被申とうすく被申候 *きつくせき、赤面
 惟新様被聞召上、はたと御腹立被遊、清左衛門は別手正直にして
 上を重んじ武功勝れたるものニ而候、正直にして上を重んずるに
 付てせき申候、夫をうすく申なす事物をしらんものにて候、其方
 
 などハ上を重んずる正直の心なきと見え候、さりとてハ言語道断
 の至りと大きに御しかり被遊候也
一南林寺脇寺源昇殿ハ比志島紀伊守殿寺にて有之候処ニ
 中納言様紀州ぼだいのためとて、三拾石御付為被遊由候、紀州屋敷
 といふて山之口迄今横山氏杯被居候屋敷あたりを引廻し、大屋敷
 有之候、紀州穴宝と申に士めの衆など奉公為被申由候
一新屋敷橋口源四郎殿屋敷より下方江掛、御下様屋敷為有之由候
一島津下野殿金山方被為聞、兼而被下候御城より一倍米銭を金
 堀ども江被為取候ニ付、勝手をそんじ、他国より能掘もの多参り精
 を出し堀申候ニ付、金別而沢山出申候、然に御側之衆 寛陽院様江
 讒言被申上候ハ、下野金山方承り米銭等沢山ニ取くれ申候、御不勝手
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 の至と被申上候ニ付、對下野殿江、御目通遠慮被仰付候、其砌
 寛陽院様御慰として前の海江つりに御出被遊候に、北郷佐渡殿
 老人ニ而候が被召列、御船江被罷居候、然者脇の海士の船江者魚壱疋も
 あがり不申候由、御船ニ者小鯛杯多御つり被遊候、其時佐渡殿被
 申上候ハ、殿様の御つり被遊ハ下野が金堀の心も同じ事にて
 御座候と被申上候得ハ、はたと御立腹被遊、下野が金堀と同じ心と
 申ハいかにと御意候、佐渡被申上候ハ、下野が金堀ハ米銭を一倍
 あたへ申候ニ付、金堀ども勝手を存、他国よりよく掘も余多参り
 精を出掘申候ニ付、金多出御勝手にて御座候、然者ゑばをまき申にて *餌
 御座候、殿様の御船ニもゑばを多く御まき被遊候ニ付、魚上り
 申候、脇々の船にハゑばを多持不申、少々まき申候ニ付魚あがり不申候

 しかれバ同じ心と存申候由被申上候得者、尤の儀を被申上候と
 御意、頓而下野殿御目通遠慮御免為被仰付由候  *やがて
一島津図書殿下屋敷吉野に有之候、或時 寛陽院様吉野江
 御鷹野ニ御差出被遊候処、右屋敷江御成可被遊由、図書殿ゟ
 被申上御成被遊候、其時御意候ハ図書屋敷江可入候、本道より外ニ
 道有之候かと御尋被遊候、外ニも野のくる畠の中道御座候と申
 上候得者、どの方が近きかと御意候、本道ハ三四町遠御座候由被申上候 
 得者、駕さへ通候ハヽ外道御通り可被遊由ニ而、外道御通り被遊候、然ニ
 道すがら畠に見事なる大根植付有之候得者、此大根手ニこやし  *こやし?
 可申候、図書に土産に可被遊由御意にて候、御側之衆皆々こや
 し被参候、図書殿見□を出し置、御駕の衆見え候と図書殿
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 御むかひに被出候而、右之大根を被見候て御側之衆江、あの大こんハ御
 作らせ被遊候かとたづね被申候得者、いや畠に作り有之候を御引せ
 被遊候由被申候、しからバ御買被遊候かと被尋候、いやさふでハ無
 之由被申候、そこにて図書殿被申候ハ、扨も扨も左様被遊候而ハ作主
 迷惑可仕と被申候得者、 寛陽院様被聞召、御こまり為被遊由候
一鹿児島壱番の義者と申本田甚右衛門殿江本城源四郎殿被申候ハ
 人の仕にくきと申事安き事にて候、浄光明寺の坂を或山伏上り
 来り候処を、其山伏の面を捨てふミ申候、又西田橋普請相続いまだ人を
 通し不申、跡先江しきり有之候所を拙者押破り通り申候処ニ、普請扱者
 見咎め差通さず候、拙者申候ハ通り掛候橋を不通してハ成間敷由
 申候て公事に成、夫より皆々もらひに成橋の真中に橋子を掛

 拙者を中より河原へおろし申候と申候得者、甚右衛門殿被申候ハ
 人の仕にくきと申事ハ左様成事ニてハ無之候、唐の聖人と申人
 の書物が有之候、其書物之様ニ諸事仕事が成不申候と為被申と也
一福昌寺の住持大仙和尚自害の事ハ大龍寺の住持文之和尚と不
 和によつて也、文之ハさいか宗ニて世に双なき転学なれとも法問は
 大仙に不及によつて、大仙より度々つめとかし恥辱をあたへ候て
 一度大仙江恥をあたゑんと思われけるが、或時 中納言様江文之
 被申上候ハ、桜の時分ニ御座候間、於福昌寺詩歌の御会被遊間敷
 哉候由被申上候得者、可被遊旨御意候事ニ付、文之福昌寺へ参り、大仙江
 被申候ハ、於爰元ニ 中納言様詩歌の御会被遊筈之由被申候
 大仙被申候ハ、禅学に詩歌の儀ハ存不申候間、御出候ハヽ弟子共を
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 集、問答をいたし掛御目可申由被申候、文之罷帰り
 中納言様江讒言被申上候ハ、於福昌寺詩歌可被遊由大仙へ申候へバ
 大仙申候ハ御出被遊候ハヽ、弟子を集め問答を申掛、御ひらき無之候ハヽ
 殿様も誰にてもあれ、しゆろやうにて打倒し可申と申候由
 被申上候、 中納言様被聞召上、大仙不届之儀を申候とて別て
 御腹立被遊、大仙江遠流被仰付候処ニ、福昌寺の儀ハ遠流仕候儀無
 之と申、寺役人鎌田が宅に於て屏風を立、切腹いたし候由也、其屏
 風血付、今に千本松の絵にて福昌寺客殿江立有之由候、右大仙
 死骸桶に入有之候を、伊集院雪窓院ニ居候大仙弟子と有之候得共
 実は市来湊の潮音寺ニ居候由ニて、伊集院雪窓院ニ居候大仙之
 弟子、右死骸を引出し肩に掛持越、潮音寺ニほうむり為申
 
 由候、引掛御屋形のしたを通りけるが、只今大仙爰を通と高声に
 よばわつて罷通けると也、夫より雪窓院にほうむり、一世の中
 墓の掃除して終りけると也、大仙江明日御用之由候処ニ、鎌田が宅江行、其晩
 廿三夜の月上り候時自害いたしける也
一石原息安、八木次郎左衛門殿、薬丸如水所にて示現流といふものは
 意趣ハ無之者ニて候、打合て見可申由ニて則被打合候、次郎左衛門殿より
 息安手に少し引こすり被申候得者息安とんほうに持、其様子お
 かしき打をするものがおけと為被申由候
一東郷九右衛門殿京都に学問稽古に参り被居候内、民家の蔵の
 内に盗人入、人々集り如何せんとひしめき候処ニ九右衛門行掛り
 被申候ニ付、何様之事候哉と被尋候へハ、此蔵の中に盗人入居申候て廉
 忽に参り候ハヽ、行つまり何様之事か仕候半と申候、九右衛門殿何程の
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 事が可有之、そこのき候へ、捕て可遣由ニてぞうさもなく戸を押
 明中に入、ひたと取被渡候と也、然に誉る者ハ無之、学者たる人の
 余り廉相の仕方、けがでも可有之儀候、あの躰の身持にてハと
 学者の誉れうすく成たるよし候
   此時まな板を以押へ取被申候由、盗人ハ弓と矢持こもり居候由也
一鹿児島原良村の城と申候ハ牛込の鼻より手前壱番に高き山ニて
 当時田面崎御屋敷上之山也、今に牛込之方ゟ見申候得者、曲輪之跡
 相知れ有之候、此城にハ畠山治部罷居候、其時分原良の陣と申ハ
 このところなり
一畠山治部鹿児島野元原へ陣取被申候、其時治部方ゟ多田の七郎と
 名乗、島津の陣の山田弥九郎殿に見参申さんと望懸候処へ、弥九郎

 出て勝負被致候、七郎ハ鑓、弥九郎ハ長刀と申伝候、弥九郎、七郎が
 甲をつき落され候処ニどふ勢互ニ相続き相引に罷成候、七郎が甲を
 突落され候処ニ甲突八幡を立に、今平の門松屋敷に有之候、江月
 川有之などと書申ハ非也、甲突川にて候と也、右の野元・原陣の
 跡、茶臼が陣とて今に跡有之候、鹿児島小路よりくぼミ見え候
 所のよし候也
一小野木縫殿助ハ石田三成の方人丹波福知山の城主にて候処ニ
 関ヶ原合戦の後、福知山落城いたし、浪々の身と成さつま国へ
 参り龍伯様を御頼ミ申上られ候処、幾程なく御死去被遊候ニ付
 為方なく被居候処ニ三原左衛門殿より被招候得共、彼家来ニ成候を
 如何と色々せられ候得共、仕付方なく垂水相模守殿江相頼ミ
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 彼方江罷居候得共、彼所にてさせる事なく月日をおくられ候が
 男子出生有之候、其男に弐三人の男女子有之候、当山田次郎左衛門殿
 母のよし候、右の子孫ハ阿久根と下方の水主に成居候由也、然者
 次郎左衛門母ハ縫殿之助孫之由候
一御当家九世 忠国公御代ニ義教将軍の御舎弟大学寺門跡
 大僧正義照陰謀露顕にて日州江被為下候、然処ニかの僧正を可
 奉討之由将軍の命に依て、奉討御首将軍に被差上候得バ、この
 恩賞として、忠国公琉球国拝領被遊候、其御判物相失候也、此御
 判物を島津弾正殿拝借にて、弾正殿方ニて相失候と申説有之候
 得共、弾正方ゟハ御記録所江返上之由留帳ニ有之由候、其後御家老□
 □□瀬戸山権兵衛殿拝借にて相失候、彼所ニて田尻火事に焼失
 
 と申事ニ候
一於江戸ニ火事有之候処、此方衆余多罷出られ候、其時後醍院喜兵衛
 重宗も参り罷被続候が、此方衆風下の家の上に登り余多にて被消
 候得ハ喜兵衛殿被申候ハ、各そこハ風下にて候、風脇にて御消可然由
 被申候得ハ、あの上とうか手弱き事のいふ、あれがさまを見よといふ
 て火消つぼになれ焼死ね焼死ねといふて消被申候、然に各の家焼
 申候得共、いづれも怪我無之候ニ付、喜兵衛殿被申候ハ、あの火事などに
 大事の一命を被捨候をいかゝと存候処ニ、壱人もけが無之候、士の一言申
 出てからハ定て焼死なれ候半と存候ニ大き成言葉違ニ為被申由候
一樺山五郎兵衛殿、江戸大円寺の住持江見廻にて候節、下を通り被来候を
 住持見被申候て、樺山家ニて末に成、男小きと被申候、五郎兵衛殿
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 長脇差被差居候を見て、刀か何か大小差物にて候得者、脇差が長きと
 殊之外しかりにて候、右住持ハ五郎兵衛殿父方大伯父にて候よし也
一大野休太夫殿先祖肥前有馬切支丹一揆に被罷立、赤き甲をかぶり
 てつよく被働候、依之人々ゆずのミたと人々申たる由候、今に其
 甲大野氏ニ有之候
一薬丸如水本田半兵衛殿所江早朝被参候て、半兵衛殿手遣の打
 口を見度由望被申候、然者半兵衛殿髪を結、のりのたかきかた
 ひらを着、別而正しき様子ニて庭の立木を只一打うち被申候
 内に被入候を見被申候得者、別而大儀成様子ニてのり高き衣□に
 つけ候様ニ汗いなかし、実に切れきり為被申由候、半兵衛殿ハ
 示現流上りにて棒にて間ハ寸置被打候得者、はらりつと軽ク

 当り為申由候、別而之手きくのよし候
一秀忠公或時隅田川江御慰に御出、御船にて御座被遊候ニ付,諸
 大名衆御機嫌伺として、何れも小船にて御船江参上にて候、其時御
 大キ故、御側之衆御船より手を取候て引上られ候なり、其時
 皆々右之手を出し引上られ候、然るに 中納言様ニも御機嫌伺ニ
 参上被遊候、其時左の御手を御出し御上り被遊候よし候
一入来院又六重時ハ関ヶ原十五日の合戦に戦死と申候得共、討死ハ御
 退口之砌廿二三日之比が、場所ハ鞍馬と申候、又六殿江追手相掛申候付
 百姓村江逃入被申、馬屋の上にわらこも有之候中に隠れ居候、又
 六殿供のものどもハ屋敷口の石橋の下ニ隠れて居候、追手石橋の
 上を通過候と存、下より頭を出し候得者、追手見付搦取糾明いたし
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 候得ハ、馬屋を指さし候、依之又六殿を見出し、いづれの者か名乗候へと
 申候得とも名乗までハなしと被申候得ハ、首を取候由也、入来の申伝今に
 返忠のもの諸傍輩見捨置子孫かれかれにて罷居候由也
  一説ニ重時討死ハ百姓村江逃入、家の内あじろ天井ニ上り居被申候処ニあじ
  ろすき間ゟながひ台の鉄砲見え、鑓ニてつき候得バ突し為申由候
一加藤主計清正と 中納言様唐嶋ニおひて鉄砲ニてかけを被遊候
 此方御負被遊候得者七島を清正江可被遣由申、清正被負候ハヽ彼方の
 手鑓かたかまの鑓を御取可被遊由ニて、此方ゟ射手ハ伊勢兵部殿  *片鎌
 かくを被射候得者星の中に当り申候、清正の方ゟ射候得者是も同じく
 星の中に当り為申由候、又の時兵部殿又星を被射候と也、彼方ゟ矢先
 しかれざるのよし申候ニ付、兵部殿矢先ハさきのあたり同前と被申候
 ゆへ、さらバとて掘見候得者玉弐ツ重り有之候と也、彼方ゟ又射候へ共

 不中に付て、手槍御取可被成之処ニ、彼方鑓持、鑓を取逃申候を此方之
 衆追付、刀にて鑓の柄を切折取被申候、此方ニ有之候処ニ先年御城
 焼失之刻、右鑓焼候ニ付、佐性□鍛冶焼直し今に有之候由也、兵部殿
 其時始弐ツ玉にて射直、後ハすはれしにて有之候也、右の鑓ハ両 *両鎌
 かまにて候処ニ、折候て清正の片鑓の鑓と名高く為申由候、かま別て 
 切ものに掛引候得ハ、能引切レ申たるに付、 中納言様御執心ニて
 御望為被遊由候
一或時後醍院喜兵衛重宗、我下人慮外有之長刀を以切殺シ被申候、人
 申けるハ、下人など切殺被成候に長道具ニてハ手よわく候、刀にてこそ
 可被成ものをと申候、喜兵衛殿被申候ハ其儀尤之事ニ候、然共手前
 にハ存寄有之候、あの下人つれを切殺にハ何の口能も有之間敷
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 なれとも、刀ニていたし候てハ万一少の手など負候ハヽ、下人つれから
 大事の身を少シニても疵を被付候儀ひけと存、如此長道具ニて致候
 下人杯を殺におちおそれて飛道具、長道具ニていたす事にては 
 戦場ニは得心申間敷候、手前の存寄ハ如此と被申候と也
一或時屋籠有之、後醍院喜兵衛殿江被仰付候、喜兵衛主従具足を
 着、詰入て被取候、人々鎧を着てハ手よわき仕方と申候、喜兵衛殿
 被申候ハ、左様ニてハ無之候、くつきやうの御難題の刻捨る身をあの屋
 籠つれを取に、万一仕損じ怪我杯いたしてハ如何と存、如此致候と也
一讃良善助殿或時屋籠有之可捕とて、後をむけ内にしざり被入候
 と也、然ともその家こもり死有之候と也
一後醍院喜兵衛殿関ヶ原御陣の刻、薩摩の今弁慶と名乗、勝負を
 
 決せられ候と也、夫ハ木脇休作殿と申事候得共、園田大与藤次殿
 後醍院喜兵衛殿江相付、江戸江被参候刻、喜兵衛殿より祖父喜兵衛殿
 名乗為被申由咄ニ被為聞たる由、然者別条ハ有之間敷候
 又前に左様成儀有之候哉如何、扨此事を大与藤次殿、師の
 赤上勘左衛門殿江大弓藤頭殿ゟ咄被申候て、何の何左衛門と実名を
 名乗、又薩摩の今弁慶と名乗、何れがよきつよみにて
 御座候哉と被向候得ハ、勘左衛門被申候ハ、実名を名乗よりは
 薩摩の今弁慶と被名乗候をつよみにて候、今弁慶と
 名乗程の者ならハ人並の働をいたすべき已に討死と究め
 被働たると相見え候被申候由也
一惟新公関ヶ原御落足の時、敵味方陣場城下にて後醍院
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 喜兵衛殿 島津兵庫頭只今罷通ると高声に被申候と也
 然に 惟新様を始、何れも不可然申様と有之候、喜兵衛殿被
 申候ハ、左様申候ハヽ人々必死ニ罷成強み付可申候と存申候由被申
 候とや、此事薬丸壱岐殿と申説有之候、薬丸壱岐殿伊賀上野
 敵下にて 兵庫頭只今罷通ると高声に被申候得者、皆々
 壱岐ハ役害者にて候とて跡より可参由にて御列不被成候、跡より
 為被参由候、別ニ左様成儀為有之由候哉、如何上野城にてハ敵人
 少し打出戦ひしとや
一木脇休作殿朝鮮番船破の時、手負海に落入られ罷居候処ニ
 惟新様御下知にて、小鷹丸船頭東左衛門をさげ、引上候と也
 休作殿ハ其時二十弐歳大男にて黒具足着せられしと也
一上の諏訪に屋籠有之或人弐人列立被参候て可捕と被仕候得共
 屋籠居不申候、然るに堂のゆかの下江人音いたし候ニ付、何者ニて
 候哉と被申候得バ、愛甲次右衛門ニ御座候、屋籠居申候由承可捕
 と存、先ゟ参り惣別さがし申候得共、居不申候と被申候、火をも
 とぼさず、くらき所よりごそごそとして被出候と也、右の両人
 扨ハすこやかの人にて候、向後知音に成可申由にて、弐人の
 弐才衆申合され候と也、次右衛門殿十三歳の時にて候と也、たがの
 堂にての事と申説も有之候
一木下大膳大夫ハ石田三成の讒言にて薩摩坊津江流在ニて候へ共
 秀吉公より討て可差上由候ニ付、加世田辻の堂にて切腹にて候
 其時かひしゃく人羽織ぬぎくれられ候と也、其首肥前名護
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 屋江被差上候処ニ、宰領の使者不案内にて、首に塩をいたさず
 夏の事ニてくされ候ニて、御使の人に此方ゟ切腹被仰付候と也
一久保七兵衛殿差刀のなかこに刻み付有之候
  表に 念々有慈 鳴呼福﨑徳万公一世不乱
     有運天逢無退事
  裏に 生年十八歳久保与九郎 
     弐ツなき命も君がためならば
     すゝしくかろく すてよ武士
     薩州住藤原貞良
一豊後の大友殿日州に責きたられ候時、山田新助有信高城に
 籠り被申候、其時弥九郎有栄誕生の由、新助殿江申来候得者 *1578
 
 世継出生なれハ、たとへ討死しても不苦候と勇まれしと也
 弥九郎殿ハ秀吉九州入の時、羽柴美濃守江人質に出し  *豊臣秀長
 人のよし候
一上の新橋ハ 中納言御代ニ出来為申由候、新橋の様成橋ハ
 中納言の位に御上り被遊候而一橋出来申のよし候、不□ハ難
 成由候
一中馬大蔵殿ハ 惟新様別而御秘蔵の人にて、折々御前江被召
 出、自分ニも罷出御咄被申上候、或時 惟新様大蔵殿江御咄
 被遊候ハ、いづれの合戦の何かしこに惟新出候ニ付、味方勝利及候
 能場所江出候と御自慢の御意候、大蔵殿被申上候ハ、まだ敵近ク
 御出被遊候ハヽ味方大勝ニ及び可申候得共、敵遠く御出被遊候て
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 我々共十分の勝難成、さまでの御勝にて無之候、余り能場所江
 御出ニてハ無御座候と被申上候よしと也、急之御咄せり合為被遊由候
 大蔵殿ハ武功人に勝れたる人のよし候
一   覚
 一知行の高壱万石ニ付出陣の時ハ馬弐拾宛の賦ニ候、然者其方ハ 
  知行応三万石に候得ハ惣別家中ゟ出し候馬数六拾騎ニて候間
  諸士ゟ出し候馬如何程と被相定可被飼置候、代替可有無用候
 一飼犬十疋より上ハ停止たるべき事、孟子庖有肥肉、厩有
  肥馬、民有飢食野有餓芋此率戦而食人也と候也
 一大事の出物有之儀ニ候間、何事も心の儘に用物被申付、就中
  従京都下物なと過分ニ有之を可有停止事

 一衣装諸細工方有度侭に有之間敷候、君子ハ憂道而不憂
  貧ヲと候間、衣装其外諸道具等を専ニ候て、下々の疲候を道
  の外ニ候事
 一鷹多く被置間敷事
 一諸士被召仕様、北郷殿前々ゟ之次第無相違、始有之事
 一酒停止たるべき事
 一万事を指置れ、自然弓箭の時諸人つかれず候て用ニ立候様ニ
  追々覚悟肝要ニ候、北郷殿跡を被継候ハ当家のために成候
  様ニとの儀候処、むざと北郷家中くたびれ行候ハヽ、其方不覚ニ
  可被成事
 一諸士下々ニ至迄自然罪科可有之時ハ家老衆能々内談候て
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  鹿児島江被申候、其上を以如何様ニも可被相済候、心にまかせられ
  廉相に有之間敷事
 一学文を専可被心掛候、家国を治事学文ニ為過有間敷事
 一百姓とも被召仕様稠無之様ニ可被入念候、百姓つかれ候へハ其国
   其所なきがごとく成候事、従上古今に至て眼前ニ候、是故に
   論語ニも節用ヲ而愛ス人を使民以時と候事
 一惣別百姓町人以下帯ひほをときたる様ニ存、当代幾久
  仰候てこそ家も繁栄にて可目出度候、自然左様の儀
  相留、下々くるしみ候様ニ成候ハヽ、天罸のがれまじく候間、私の
  不及看経右の心持さへ正候ハヽ、縦祈念等無之候共、自然ニ可有
  冥賀候事

 一祈念祈祷等底心尊く思ひ、慇懃に有之てこそ仏神の守
  も可有之候、信心有之とて朝夕わけもなくざれことの様祈念
  祈祷も候ハヽ却て奇特有之間敷事
 一知行も国も同前にて候得共、其主人の心持により人の多少
  有之由古文ニ相聞候、其主人心持よく候得ハ人多出来候、心持
  悪敷候得者、人退候、就中武家ハ人多無之候てハ弓箭不被成
  事に候事
 一身持軽々敷無之様ニ可有分別候、論語に君子不重則不威
  学則不堅と候、見及候ニも如此文章主人身持軽々敷候得者
  内之者とも不恐候、五人三人召仕人さへ内之者恐候半てハ、何
  事を申付儀も不調候、況一郷一郡の為主人ハ、先我行儀を
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  慥ニ候てこそ下々も其躰を見習、可然道ニ可入候、気侭ニ分別
  候てハ諸事相調間敷候、天下ハ天下の天下也、非一人の天
  下と有之事
 一右条々堅被相守、北郷家繁栄候て当家の可被曳忠節
 覚悟可為肝要者也
    寛永十一年十一月廿六日 家久
               北郷式部大輔殿
一頴娃主水佐殿事、朝鮮国にて 中納言様御難儀之場所
 立見いたし、 殿も骨を折見候がよしと過言いたされ候
 ニ付、 中納言様御腹立被遊候、切腹被仰付候得共、武功人に
 勝れ候勇士なれバ御家老衆惜しませられ、とから番江被遣

 置候、其後間有之 中納言様松原山松原へ御出被遊候、然処ニ
 中納言様正建寺船手の方御覧被遊、御意候ハ朝鮮国の
 泗川の新塞に能似たる所ニて候、是に付ても頴娃主水が
 事を思ひ出候、何百万の敵江も向ふものハ主水ニて候と御落
 涙被遊候、正建寺の方を見候てハ小川前に流れ候て泗川
 新塞によく似たる所の由候、新塞城ハ川をかゝへ松山有
 之候所にて候由也、右之御意の刻、能間にて候と存伊勢兵部殿
 より被申上候ハ、頴娃主水事先年切腹被仰付候得共、余り
 武功勝たる者ニて御用ニも相立有御座候ニ付、我ら共より 
 とから島江遠流申付置申候、最早数年ニ罷成申候が被召置 
 被下度奉存候と被申上候得者 中納言様被聞召上、主水
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 事ハ大科の者にて候、依之切腹申付候ハ今迄助置事不届の
 いたし方と別而御腹立被遊、則久保七兵衛、田中後藤兵衛
 尾上仁左衛門検使として、早く罷渡り切腹可為致と被仰付候
 依之右三人急ニ渡海いたされ候、主水殿ハつりニ被出居候が
 十文字の小ざし敷たる船参候を見て、何か事可有と
 思ひ、居宅へ帰り居被申候、主水殿居宿ハ鹿児島向にて
 瀬戸道一筋有之岡ニて、脇ゟ中々難登場所ニてそまつニ
 ゆかれん所也、右三人着いたし、主水殿勝れたる勇士
 殊に右躰の場所故粗忽に難行、岡の下主水殿居所ゟ
 見ゆる所に宿を取休ミ居被申候、主水殿ハ風さくらひ
 大だら壱本にてそろりそろりと右三人宿被致居候庭を   *大だんびら
 通り被申候、つくじり合そらね入したるふりして、いきを引事
 ならず被居候となり、ケ様ニ感のつよき男にて為有之ゆゑ両三人
 之衆被申合候ハ、彼の宅江粗忽に行なば、壱人も生てハ帰るまじ
 口上にて先可申遣とて被申遣候ハ、貴所事先年遠流被仰付
 置候得とも、又々切腹被仰付候、我々三人検使として差越候、三人之内
 壱人御望次第御相手に罷成可申候と也、主水殿返答ニ近頃痛
 入候、御口上承候、御検使に対し少も恨申儀無之候、相手を望事
 にて無御座候、然共上意打杯ニ被仰付候ハヽ、各江おめおめと被討覚
 悟にては無之候得共、御慇懃に承候上ハ少も異心無之候間、居宿
 御出可被成候、切腹いたし可懸御目由返事被申候、依之三人の
 衆見廻被申候と也、尾上仁左衛門殿江主水殿母方ゟ紙包壱ツ
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 たのまれ、主水殿江書物被遣候、仁左衛門殿事ハ主水殿兼々心
 安き人にて、形見として主水殿秘蔵のからすゑの硯を被遣候
 且又仁左衛門殿江頼ミ、主水殿母方へ文被遣候、其文に
  比日にハ可被召置哉も存之外、不慮に切腹と被仰出
  何事も前世のむくひと思召被下候得、かしく
    母上様
 主水殿年廿七にて切腹被致候、辞世に
  誰もかく 二度(ふたたび)さめぬ ひとねむり 一期ハ夢の
  明ぼののそら
 此歌宿元江遣し候ハヽ、いとなげきのまさるべしと尾上仁左衛門
 方江被置候、今に硯此歌尾上甚五左衛門殿宅へ有之候由、仁左衛門殿

 其時中村三百石被領候と也 

  旧伝集一終