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  薩州旧伝記 
      
旧伝集一
目次
1-01日新公、海蔵院で手習い
1-02徳田太兵衛 床の花を読む
1-03日新公、観音堂の建立
1-04義久公国分の茅葺門
1-05海蔵院、日新柱謂れ
1-06徳田太兵衛、息を通す
1-07東海寺の紅葉狩
1-08伊勢貞昌の天神和歌解釈
1-09秀頼公消息
1-10愛甲次右衛門と小者
1-11加世田の踊りと貴久公
1-12伊勢貞昌の無私大公
1-13綱貴公の弁当
1-14屋根葺の家篭り
1-15家久公細川三斎訪問
1-16池上源右衛門の鉄砲の腕
1-17弓の書
1-18示現流東郷重位の試合の噂
1-19国分の嫌われ者の士
1-20武士は精神
1-21東郷重位、鑓を止める
1-22上の諏訪勘定由緒
1-23諏訪杢右衛門、綱久公の死を悼む
1-24石原休右衛門の喧嘩
1-25讃山善助小者を切る
1-26義弘公と指宿清左衛門
1-27南林寺源昇院由緒
1-28新屋敷の御下屋敷
1-29島津下野の金山開発
1-30島津図書、光久公を諌める
1-31本田甚左衛門の儒学
1-32福昌寺大仙和尚の自害
1-33薬丸如水の示現流
1-34東郷九右衛門、盗賊を捕らえる
1-35鹿児島原良村古戦場跡
1-36畠山軍との戦い、甲突川由緒
1-37小野木縫殿助の子孫
1-38足利将軍から琉球拝領の書紛失
1-39後醍院喜兵衛の火事場指揮
1-40樺山五郎兵衛の長脇差
1-41大野休太夫先祖の赤い甲
1-42薬丸如水と本田半兵衛の示現流
1-43秀忠公船遊びに家久公御機嫌伺い
1-44入来院重時の討死
1-45加藤清正と家久公の賭け
1-46後醍院喜兵衛長刀で下人成敗
1-47後醍院喜兵衛具足を付け篭を捕らえる
1-48讃山善助の屋篭の捕らえ方
1-49後醍院喜兵衛、今弁慶を名乗る
1-50後醍院喜兵衛の高声
1-51木脇休作、朝鮮の海戦で海に落ちる
1-52上の諏訪で愛甲次右衛門屋篭りを探す
1-53木下大善大夫、薩摩で切腹
1-54久保七兵衛の刀の文字
1-55山田新助の高城籠城
1-56新橋由緒
1-57中馬大蔵と義弘公
1-58家久公、子を養子に出すに当り注意書
1-59頴娃主水の切腹

01日新公は幼少時代に手習のため伊作海蔵院で過した。 寺は外にも児童が
 多数居り騒々しく悪戯も多かった。 或時改蔵院の住職が長刀の鞘を払い、
 折檻として子供達を追いかけたので皆一斉に玄関口から外に逃げ出した。 
 日新公も玄関口へ走ったが履物が無く、ひとり玄関口にたたずんでいた。 
 住職はこれを見ると長刀を捨て、涙を流して抱きしめて、さても将来は立派な
 大将になられるだろうと云った由である。 幼少の頃から人より勝れていたとの
 事である。 日新公の幼名は菊之助だが、これは誕生日が菊月、即ち九月だった
 事から菊に因み名付けられたと云う。
 註1.日新(島津忠良1492-1568)は島津家の分家、伊作島津家の当主で
   島津家が戦国大名として生まれ変わる時の中興の祖。 薩摩統一の貴久父
 註2.海蔵院 忠良の父が横死の為、幼少の忠良は海蔵院に預けられ
    頼増和尚の厳しい教育を受けたという。

02ある時椛山安芸守宅へ中納言が訪問した時、床の間に梅の花の長い枝と
 椿の花の小枝が生けてあった。 徳田太兵衛がお供をしていたが、中納言が
 太兵衛に床の花について歌を詠めと云うと、太兵衛が直ぐに、
   鑓梅に 椿の小太刀 請とめて花の命を つきてこそ見る
 と詠んだ。 中納言はたいへんご機嫌だったとの事である。
 註1.中納言:島津家久(忠恒1576-1638)島津義弘三男、貴久孫で島津家
    18代当主、 初代薩摩藩主
 註2.樺山安芸守(善久1513-1595)島津家庶流、武将
 註3.徳田太兵衛(1584-1634)日当山地頭、身長3尺の小男だが知恵者で
    家久に仕える。

03伊作海蔵院の前に観音堂がある。 日新公が幼少の時、観音から墨筆を貰った
 夢を見たという。 それで後に日新公がこの観音堂を建立したと伝えられる。

04国分にある富隈城の門は茅葺であったが破損した。 伊集院の山田利安が
 龍伯公へ、御城の門が破損していますが修理の序に板葺にする方が
 良いでしょう、他国より使者が訪れた時、三ヶ国の太守が居住する城の門が
 茅葺では余りにも貧相に見えますと申上げた。 
 龍伯公はそれを聞くと、他国が使者を送る場合、必ず思慮分物のある者を派遣する
 筈であり我が国の地も数里は通るだろう。 その時三ヶ国の太守の城門は茅葺で
 貧相だが、国民の風俗家屋を見ると富栄えている。 太守の政治はきっと行き
 届いていると肝心の所に気づくであろう。 板葺きで見栄えよく しても民百姓が
 疲れていては国主の政治がよくないと見るだろう。 
 肝心の所に気を配り、余計な事に気遣いするものではない。 本の茅葺でよいとの
 事だった。
註1. 龍伯(島津義久1533-1611)薩摩の16代太守、薩、大隅、日向を統一した後、
  九州統一目指したが豊臣秀吉に敗れる(1587)
註2.三ヶ国の太守 薩摩、大隅、日向国を指す。但し日向については南西部。
註3.山田利安(?-1605) 武将、義久の股肱の臣、 越前守 

05海蔵院で日新公が幼少時代を過した時、余りの悪童ぶりに住職が折檻のため
 日新公を柱に縛りつけた。 その柱は日新柱として伝えられたが海蔵院が火事に
 遭い焼失した。 しかし寺が新たに普請され、今でも日新柱として伝えられている。

06ある時中納言が徳田太兵衛に、其方は小男だから、あの戸の節穴を行き通れる
 のではないかと言う。 太兵衛はつと近づいて節穴に息をホッと吐きかけ、息(行)
 通りましたと云ったとの事。

07ある人が四五人連れで江戸の東海寺の紅葉見物に出かけた。 途中で年の頃
 十六歳位の容貌麗しい女性がひとり、紅葉の枝を持て向うよりやって来た。
 そこで連れ仲間はあの女性を題にして歌を詠もうと云う事になったが直ぐには
 できない。  この中にいた茶坊主が出来ましたと云うので、どんな物か聞くと、  
   かくとても 色に出るは いかにせむ 人をしのぶの 寺の紅葉は と。
 その時例の女性も気付いて、歌を詠んで居られるようですが私の事を詠まれたの
 ではないですかと聞いた。 坊主は、その通りです、皆があなたを見て結構な
 女性が見事な紅葉を持って居られたので、失礼ながら取り合えず歌を詠みました
 と言う。 
 女性は、どんな歌か聞きたいと云う。  そこで坊主が歌を伝えると女性は、全く
 つれない人ですね、 ではこの紅葉を差上げましょうと、坊主に投げ渡すと後も見ず
 帰っていった。
 彼ら連れ達は全く不思議な縁で紅葉を手に入れ、もう東海寺へ行く必要もないと、
 近くの 茶屋へ入り、この紅葉を生けて酒を飲んで楽しみ愉快この上ないものだった。
 その後泰清院が此事を聞いて、例の連れ仲間を呼出し詳しく聞くとたいへん感心し、
 さぞ面白かっただろう、自分もその仲間で有りたかったと、紅葉を生けて酒を用意し
 その時の雰囲気で咄を楽しんだという。
註1.泰清院(島津綱久1632-1673) 島津光久二代藩主の世子だったが父より早世、
   三代薩摩藩主は綱久子の綱貴が継ぐ。
註2.女性が自分の事を詠んだと思ったのに紅葉が主役だったのでがっかりしたものか。

08北野天満宮の祭神菅原道真が詠んだ歌
    心だに 誠の道に かなひなば いのらずとても 神や守らん
 この歌を伊勢兵部貞昌が聞いて、いのらずとても神や守らんと
 という句を、どの様に解釈したのか兵部が詠んだ歌
    心だに 誠の道に かなひなば いのらずとても 守らずとても
註1.伊勢貞昌(1570-1641)島津家臣、武将、家老

09寛陽院が有馬温泉へ湯治に出かけた時、宮越六左衛門もお供した。 その時
 一人の老人が来て六左衛門に尋ねた。 私は故ある者ですが、秀頼公が薩摩へ
 下り在住されましたが何時頃死去されたでしょうかと、熱心に聞いてきた。 
 六左衛門は、秀頼公は大坂で自害されたと聞いております。 薩摩には来て
 居られませんと答えた。 
 六左衛門はこの老人に、 あなたはどの様な方で何処から来られたかと尋ねたが、
 老人は唯故ある者と言うだけで何者か分らなかったとの事。
註1.寛陽院 (島津光久 1616-1695)家久子、薩摩藩第二代藩主
註2.豊臣秀頼(秀吉子)大坂落城(1615年)の時自害したと云うのが通説だが、
   薩摩に下り生き延びたと云う説が残っていた。

10ある生意気な小者がある時若侍達と交わっているので、愛甲次右衛門が、
 あんな下人とは付き合えないと云うと、 この小者は次右衛門のひさつふしを
 抜打切り付けた。 次右衛門は全く其程度の器量かと云った由。

11加世田の日新寺で毎年六月廿三日に大勢の人の踊りがある理由は以下に拠る。
 貴久公が勝久公の養子となる事が解消され、貴久公は加世田の城に戻った。 
 その時日新公は貴久公を仕方の無い者とたいへん立腹して叱ったので、貴久公は
 意気消沈してしまった。 日新公もこれは叱り過ぎたと後悔し、養子解消は有りうる
 事だからと言い聞かせ慰めの為に加世田の人々に踊りを命じた。 
 これ以来貴久公の命日である六月廿三日に踊りをする風習が続いている。
註1.島津貴久(1514-1571)日新の子、13歳で島津宗家14代の勝久の養子となるが
  他の島津家(島津実久等)の反対で養子縁組が解消される。 
  その後島津家親戚同士の争いで 日新-貴久が実力で薩摩を統一して
  守護大名島津から戦国大名島津に脱皮する。 
註2.加世田 薩摩半島西南部、伊作島津家の拠点、現在は合併で南さつま市となる

12無私仁而大公
 伊勢兵部貞昌はこの句を遺云として子孫に遺したとの事である。 伊勢家では
 掛物にして今も有るそうである。
註1.大公無私 個人的な意見を差し挟まず公平な立場を貫く。厳正中立、公平無私

13大玄院が江戸から上洛する時の道中の事である。 その日は急いでおり駕籠廻り
 だけで早朝出発し、遠州塩見坂で駕籠を止め、茶や弁当を駕廻りの人々へ一人一人
 あるから皆貰うようにとあった。 ところが草履取りの係が私には下されないのですかと
 と云った。 それは困ったなと立ち上がり、士の分は用意されていたようだが、下々の
 ものの分は分らなかったと仰られた由。
註1.大玄院 薩摩藩第三代藩主 島津綱貴(1650-1704)光久孫、島津家20代当主

14塩屋の屋根葺きの丹谷庄左衛門が屋龍の時、捕らえに行った物頭長谷場十郎兵衛が
 死亡した。  その外足軽二名山内七右衛門と関田治郎右衛門が死亡した。
註1 屋籠り: 本書には時々出てくるが、家こもりと書いたある場合もあるが、家に篭って
 世間に背くような行為があるのか、逮捕の対象になったようである。 

15ある時細川三斎宅を中納言が訪れて色々武道の咄をした。 中納言が武道の心得が
 ある事を三斎は前から聞いてはいたが実にその通りだと感心した。 
 そこで中納言が帰るときに一句、
   かくあらば ちぎらし物を 中々に
 と問いかければ、中納言は
   またほそかわの 露の葉がくれ
 と答えたと言う。 三斎とは特別親しかったとの事である。
註1 細川三斎(忠興1563-1646) 細川幽斎の子、武将、肥後初代藩主、
   中納言は前出島津家久(忠恒)

16知覧の池神源左衛門と云う武士は鉄砲の名手で鳥を生きたまま射落とすとの事である。
 光久公が知覧へ鷹狩りに出かけた時、島津備前を通してこの源左衛門を召して鉄砲の
 腕を見せる様に所望した。 始めは辞退したが君命に逆らう事も出来ず撃ってお目に
 掛けた。
 こんどは殿の鷹が放れて戻らないので、源左衛門は生鳥を射るのであるから鷹を生かせ
 打落とす様にとの事である。 頻りに辞退したが、間違って撃ち殺してもよいからとの事で
 止む無く鷹の羽を撃って鳥が痛まない様に撃ち当てた。 光久公は特別の褒美として
 自身の鉄砲を源左衛門に与えた。
 今でも子孫は知覧でこの鉄砲を所持している由である。 この子孫も鉄砲は撃つが特別な
 名手ではないと言う。 源左衛門の羽の撃方には口伝があるとの事である。

17弓の書の歌に
  弓は射よ、射る程に仰はあらじもの 習はんこそは我とこそ知れ
  稽古弓大事にかけて不断射よ  晴れなる時も心変わらじ
  我手前かなわん人のくせとして 相弟子までもひむんおそかふ
  よふゆふもけいも手計り我もまた 稽古したりぞ身をくだき射よ
  上手ほど手もなり弓ぞ射る物を 下手より是を何と眺める

18東郷肥前守が江戸詰の時、剣道の試合があるらしいと聞き、弟子たちが願文を
 用意して大肥前の所へ来た。 試合があると聞きました、お負けになる事はないと
 思いますが万一畳などに躓き怪我など成されぬ様にと祈祷して来ましたと云って
 願文を肥前に渡した。 肥前は、皆さんの志しは忝い事です、相手を打ち倒しましょう。 
 私の事はご心配なくと云う咄だった。
註1.東郷重位(肥前守1561-1643) 薩摩の武将、剣豪、示現流の祖、嫡男も
  肥前守で示現流の名人だったので区別して、大肥前と呼ばれていたと思われる。

19国分に是枝甚吉と侍が居り大胆不敵の勇士だった。 国分中の諸傍輩にぶしつけな
 行いが段々増えたので、甚吉を殺して下さいと惟新公へ申上げた。 
 惟新公は、確かに彼は皆が云う通りぶしつけ者だが、敵の壁に対し何とも思わずに
 突っ込み穴を開けるので、この惟新に免じて我慢してくれとの事だった。
註1.惟新 島津義弘(1535-1619) 貴久次男、武将、大名 薩摩島津17代当主

20伊地知半左衛門が横升大雪に、芸は町人や百姓でも外から付ける事ができるが、
 武士は精神であると云った由。

21鎌田出雲守の所へ東郷肥前守が大勢の連れと共に碁打ちに訪れた。 人々が
 肥前守に鑓は止まるものでしょうかと尋ねた。 肥前守は、確かに示現流では止まると
 云いますが私には止める事は出来ないと思います。 そうは云っても示現流を悪く
 言わないで下さいと云う。
 そこで折角肥前守が碁を打って居るところへ国分から鑓の遣い手が来た。 皆が鑓を
 止めるところを是非見せて下さいと云って大肥前の膝元に棒を出した。 
 大肥前は廻りに少しも構わぬ様子で碁を打っていたが、鑓を持つ者が出て来ると
 棒を取りすっと立ち、突けと云う様子である。 髪の毛も逆様になっている様に見える。 
 鑓の遣い手は鑓を突出す事が出来ず、鑓を捨てひざ間づいて礼をして引き下がった。
 まもなく肥前守は帰ったが、後で皆が鑓の遣い手に何故鑓を突出す事が出来なかったか
 と尋ねた。 彼が言うには、突出せば頭が粉々に割られる様でした。 鑓を引く事は
 簡単ですが突出す事は一寸たりともできませんと。
註1.鎌田出雲守(政近1545-1605) 武将、島津氏家臣
註2.前述東郷重位は示現流の祖で、子重方、孫重利も皆肥前守を称して示現流
 の家元で剣豪で且藩の能吏だった。 元祖の重位を子孫と区別のため、大肥前と
 したものと思われる。

22上の諏訪は島津家五代太守貞久公の時、信州の諏訪下社を盗み取らせて薩摩に
 建立したと云う。 その後又信州の諏訪上社を盗み取らせようと云う事で、
 伊集院弾正少弼頼久の嫡子が五十人程の部隊で盗みに行ったが、この事を信州諏訪側
 が知り、待受けて居たので頼久の嫡子を始め五十人全員が討取られたとの事である。
 註1.島津貞久 鎌倉末から南北朝時代の武将、薩摩守護職。 
 註2.通常は勧請すると云うが、盗み取ると表現されているのは特別な意味があるか。
 
23諏訪杢右衛門は泰清院の遺骸に付添って江戸から薩摩に帰国する時に歌を詠む。
  去年の夏、君がはけ哉 道芝の あらん露散る 浮島が原
  いかにうき 契りなればや 三度まで 君にハ脇の わかれしぬらん
  君代と 高野の山に おくり捨て 帰るたもとよ かわきだにえず
  一周忌に詠んだ歌に
  めぐりあう 月日もはかな 二月や 花にわかれし 今日とおもえば
註1.前述泰清院(島津綱久)は島津光久の嫡男で薩摩藩第三代藩主となる予定だったが
  1673年42歳で早世、三代目は綱久嫡男綱貴が次ぐ

24石原休左衛門はある時大徳寺の門前の者と大喧嘩したが、その夜大徳寺脇の小路に
 この門前の者の首が打ち落とされていた。 この事から休左衛門が疑われたが、その夜
 休左衛門は糾明役の奉行である神戸五左衛門を訪れ咄をしているので、アリバイとなり
 疑いが晴れたと云う。 実は休左衛門が切殺したのだが相手が小者なので休左衛門の
 アリバイを認めた由。

25小者で特に勇気ある者がおり、士分の若侍達に対抗していた。 讃山善助が年頃になり
 若侍達が集っている辻に立寄ると、以前はあの様な生意気な奴は首を切り落とす事が時々
 有ったらしいと話をしていた。 その夜例の小者の首が打ち落とされていた。 後で聞くと
 善助の仕業との事である。
註1.士弐才(にせ)衆 薩摩の武士の子供で18-25歳位迄の独身の侍

26ある時 惟新公の前に指宿清左衛門が呼ばれ何か云われている様子でたいへん咳をして
 いた。 清左衛門が帰った後で側衆が、清左衛門殿は特別武功がある人だが、きつく
 せきをしており、軽い人だと言い合った。 惟新公はそれ聞くとたいへん立腹し、清左衛門は
 特に正直で上を重んじ武功が勝れた者である。 正直で上を重んずるから咳をしたのだ、
 それを軽いなどと言うのは物事を知らぬという事だ。 お前たちは上を重んずる正直の心
 が無いと見える、とんでもない事であると厳しく叱ったと言う。
註1 惟新(島津義弘)の1600年関ヶ原における敵中突破の退却は有名だが、義弘に随って
 鹿児島に帰国し表彰された武士達の中に指宿清左衛門の名も見える。
註2.せきとは咳でなく、急(せ)く=そわそわするか?

27南林寺の脇寺源昇殿は比志島紀伊守の寺だったが、 中納言が紀伊守の菩提の為として
 三拾石を与えたという。 紀州屋敷と云山の口迄今横山氏等の屋敷辺りを含む大屋敷が
 あった。 紀州穴宝と云い士めの衆等が奉公したと言う。
註1.士めの衆?
註2.比志島紀伊守(国貞?-1600)武将、 島津義久、義弘、家久の家老

28新屋敷の橋口源四郎の屋敷より下の方へ掛けて御下様屋敷と呼ばれていた。
註1.太守や藩主の馬の口輪などを取る中間の屋敷か

29島津下野は金山係の話を聞いて、藩財政から今までの倍の米や銭を金掘り職人に
 支払い財政を損じたが、他国から有能な職人が多数集り努力したので金が沢山取れた。
 ところが側衆が光久公に讒言して、下野守は金山関係者に米や銭を沢山与えて財政を
 悪化させた事この上ありませんと報告した。 そこで光久公は下野守に対して面会無用を
 言い渡した。
 その頃光久候の楽しみとして海釣りにでかけ、老人だったが北郷佐渡守が同船した。
 近くの漁師の船には魚が一匹も上らないが、光久公の船には小鯛等が沢山釣れた。
 その時佐渡守は、殿様の釣りは下野の金堀の考えと同じ事ですと申上げたところ、
 光久公は腹を立て、下野の金堀と同じ事とはどう云う事かと。 佐渡守は、下野は金堀
 には米銭を今迄の二倍与えましたので、他国から有能な職人が来て懸命に掘り金が沢山
 出て財政に寄与しました。 これは餌をまいたからです。 殿様の船は餌を多く蒔いたので
 魚が寄ってきました。 周辺の船は餌を大量に持たないので少なく蒔いているので魚が
 上らないのです。 従って金堀も魚釣りも同じ事ですと申上げたので光久公も納得した。 
 やがて下野守の面会も赦された。
註1.島津下野 家老の島津通久と思われる
註2.北郷佐渡守 同じく家老

30島津図書の下屋敷は吉野にあった。 ある時光久公が吉野に鷹狩りで出かけた時、
 この屋敷に立寄る事になった。 その時図書屋敷に入るのに本道以外の道があるかと
 尋ねられた。 別に畠の中道がありますと申上げると、どちらが近いかと聞かれたので、
 本道は3-4町(4-500m)遠回りになりますと答えた。 それでは駕籠さへ通れるなら
 別道を通ると云う事に決まった。
 そこで道の途中に見事な大根が植えつけられていると、光久公はそれを見て、図書への
 土産にしようと側衆に引き抜かせた。 図書は見張りを出しており駕籠が見えてくると
 迎えに出て、その大根は殿様が作らせたのかと側衆に尋ねた。 いや畠に作ってあった
 ものを御引かせになったのだと答えると、ではお買い上げになったのかと尋ねた。 
 いや、そうではないと云う。 そこで図書はそれはそれは、そんな事を成されては作り主は
 さぞ困るでしょうと云うので光久公は困った由。
註1:島津図書、薩摩藩家老の一人と思われる。 光久時代の家老には島津姓の
 家老三名程記録に残る
註2:吉野 現鹿児島市吉野町

31鹿児島で一番の儒者と云われる本田甚右衛門に本城源四郎が云うには、人がやりにくい
 と云う事をやるのは簡単ですと言う。 浄光明寺の坂をある山伏が上って来た時、その山伏
 の面を踏みました。 又西田橋の工事が続き未だに通行できず、前後に仕切りがあります。
 私はそれを押し破り通ったところ工事人が通して呉れません。 私は通らねばならぬ橋を
 通らぬ訳に行かぬから訴訟に持込むと云いました。 そしたら橋の中程で梯子を掛けて
 私を河原に下ろしましたと云う。 、甚右衛門は、人がやりにくいと云う事はそんな事では
 ない。 唐の聖人(孔子)と云う人の書物があり、その中で全てのやる事が予定通りには
 行かないと云う事であると云った由

32福昌寺の住職大仙和尚の自害は大龍寺の住職文之和尚との不和によるものである。
 文之はさいか宗で世に並びなき博学だったが法問は大仙に及ばなかった。 そのため
 度々問答で大仙に問詰められ恥をかいたので、何とか大仙に恥をかかせようと思っていた。
 ある時中納言へ文之が、桜の時分ですから福昌寺で詩歌の会を致されませんかと申上た
 ところ、よろしいと云う事になった。 そこで文之は福昌寺へ行き大仙に、こちらで中納言様が
 詩歌の会をなされるそうですと云った。 大仙は、禅学に詩歌の事は分りませんので、御出で
 になったら弟子共を集めて問答をして御目に掛けましょうと云った。 
 文之は帰ると中納言へ讒言して、福昌寺で詩歌の会を成される事を大仙へ伝えましたが、
 大仙は弟子を集めて問答を仕掛け、回答が無ければ殿様だろうが誰であれ、しゆろやうで
 打倒すと云って居りますと申上げた。
 中納言はこれを聞くと、大仙は不届な事を言う、とたいへん立腹し遠流を命じるとなった。
 大仙は、福昌寺の事は遠流となる理由はないと、寺役人の鎌田の宅で屏風を立て切腹した。
 その屏風に血の付いたものが今でも千本松の絵で福昌寺の客殿へ立ててあると言う。
 この大仙の死骸は桶に入れてあったが、伊集院雪窓院に居る大仙の弟子、実は市木港の
 潮音寺の居た弟子、が死骸を引出して肩に掛けて運び潮音寺に葬ったとの事。 
 大仙を担いで運ぶ時中納言の屋敷の下を通るが、只今大仙爰を通ると大声で叫び通ったと
 云う。 その後一生墓の掃除などして終わった由。
 尚明日御用があると連絡あった日の晩、大仙は鎌田の宅へ行き、その夜廿三夜の月が上る
 頃自害したと云う。
註1.福昌寺 曹洞宗の大寺で島津宗家の菩提寺だったが、明治の廃仏毀釈で取り壊された。
註2.しゅろよう: 別本 朱杖

33石原息安と八木次郎左衛門は薬丸如水の所で、示現流と云うものは無理を通すものでは
 ない、 打合って見ようと直に打合った。 次郎左衛門が息安の手を少し引きこすると、息安は
 蜻蛉に構えたので変わった打方をするものだと云った。
註1.薬丸如水(兼陳1607-1689)薩摩藩士、剣客 示現流祖の東郷重位の高弟
註2.とんぼ(蜻蛉)の構え 示現流の刀の構え方

34東郷九右衛門は京都に学問修得に来ていたが、民家の蔵に盗人が入り人々が集って如何
 したものかとひしめいている所に通りかかった。 九右衛門が何が起こったのですかと尋ねると
 この蔵の中に盗人が入っているのです、 迂闊に行けば何が起こるか分りませんと言う。
 九右衛門は、大した事ではない、そこをどきなさい、捕まえてあげましょうと云って簡単に戸を
 押し開けて中に入り、すぐに取り押さえて引渡した。 しかしそれを誉める者はなく、学者たる
 人がやる事ではない、怪我するかもしれないのに、その程度の人かと学者の名誉が却って
 下がったと云う。
 尚この時はまな板で取り押さえたらしいが、盗人は弓矢を持って籠もっていたという。

35鹿児島原良村の城は牛込の鼻よりも手前では一番高い山で、現在は田面崎屋敷上の
 山であり、曲輪の跡らしき物もある。 この城には畠山治部が住居し、その頃原良の戦いと
 云ったのこの場所である。
註1.畠山治部大輔直顕: 南北朝時代、室町幕府より日向国守護職として赴任したが
  大隅にも範囲が及び島津氏久と競合した。

36畠山治部が鹿児島野元・原で戦った時、治部側から多田七郎と名乗る武士が、島津側の
 山田弥九郎と一騎打ちを望んだので 弥九郎が出て勝負した。 七郎は鑓、弥九郎は長刀で
 ある。 弥九郎が七郎の甲を突き落としたが、勝負は続き引き分けとなった。 七郎の甲を
 突落された所に甲突八幡を立てたが今平の門松屋敷にある。 江月川等と書いた書があるが
 誤りであり、甲突川が正しい。 この野元・原の戦い後の茶臼の陣という跡がある。 
 鹿児島小路から窪んで見える所らしい。
註1.鹿児島市街地を流れる川に甲突川(こうづきがわ)がある

37小野木縫殿助は石田三成方の人で丹波福知山の城主だった。 関ヶ原合戦の後福知山が
 落城して浪々の身となり薩摩へ来た。 龍伯公を頼りにしていたが、間もなく公が死去された
 ので成すこともなかったが三原左衛門に招かれた。 しかし三原の家来に成るのも如何な
 ものかと苦慮していたが、仕方なく垂水相模守に頼んで住居した。 しかし爰でもさせる事も
 なく月日を送ったが、男子が出生した。 その男に2-3人の男女子が出来、その一人が
 山田次郎左衛門の母との事である。 と言う事は次郎左衛門の母は縫殿之助の孫となる。

38島津宗家九代忠国公時代に足利義教将軍の舎弟大学寺門跡大僧正義照の陰謀が
 露顕して日向に逃下ってきた。 そこでこの僧正を追討せよとの将軍の命があり、討って
 首を差上げた。
 この恩賞として忠国公は琉球国を拝領したが、その書状が失われた。 この書状を島津弾正が
 拝借して紛失したとの説があった。 一方弾正方からは記録所へ返上したとの記録もある由。
 その後家老の瀬戸山権兵衛が拝借して失ったが、同所で火事があり焼失したとの事である。
註1.別本では琉球との貿易独占権を足利将軍から拝領したとあり、それが事実と思われる。
 
39江戸で火事があった時薩摩の人々も多数出て消火に当たった。 この時後醍院喜兵衛宗重
 も参加していたが、皆が風下の家の上に登って大勢で消火に当たっているので、喜兵衛が
 各々方、そこは風下です、風の脇で消すのが良いと云った。 皆はあの仁は弱々しい事を
 云う、あの様子を見よと云って、火消しツボになれ、焼け死ね焼け死ねといいながら消した。
 結果各々の家や焼けたが誰も怪我が無かった。 喜兵衛は、あの火事などに大切な一命を
 捨てるのは如何なものと思っていたが、一人も怪我もなく私の一言で急度焼け死ぬ人が
 居ると思ったのに言葉違いだったと云った由。
註1.後醍院喜兵衛(宗重1551-1624)武将 相良家より島津家に移る。
   関ヶ原撤退時島津義弘の殿軍を務める。 

40樺山五郎兵衛が江戸大円寺の住職に挨拶に行った時、上から見ていた住職は、樺山家も
 代が下ると男が小さくなったものだと云った。
 五郎兵衛が長脇差を差しているのを見て、刀は大小の差物であるのに脇差が長いとたいへん
 叱った。 この住職は五郎兵衛の父方の大伯父だと云う事である。
註1.樺山家は古い島津家の庶流の家柄で薩摩の名門

41大野休太夫の先祖は肥前島原の切支丹一揆に立向かい、赤い甲をかぶって大いに働いた。
 これを人々はゆずの実の甲と云ったとの事。 今でもその甲が大野家に有るという。

42薬丸如水が本田半兵衛のところへ早朝訪れ、半兵衛殿の剣の手口を見たいと云う。 
 それではと半兵衛は髪を結い、のりの付いた帷子を着て特別に正装で庭の立ち木只一打ち
 した。
 内に入るのを見ると特に疲労の様子で、のりの効いた帷子に付けた様な汗をながし、
 実に切れた様な状態である。 半兵衛は示現流上りであり、棒で間一寸置いて打てば、
 はらりと軽く当たったものである。
註1.薬丸如水、本田半兵衛共に東郷重位の示現流の高弟と云われているが、咄の筋が
 良く分らない 

43秀忠公がある時隅田川へ舟遊びに出かけた時、諸大名が御機嫌伺いに小船で参上した。 
 その時御座船が大きいので側衆が大名達の手を取って引き上げたが皆右手を出して
 引上げられた。 中納言も参上したが、その時左手を出して引上げられたとの事。
註1.徳川秀忠(1579-1632)徳川二代将軍
註2.島津家久が右手を自由にしているのは刀(或いは脇差)を抜く手であり、いざと言う時の
   心掛けか。

44入来院又六重時は関ヶ原における九月十五日の合戦で戦死と云われているが、
 討死は退却時の廿三日頃で場所は鞍馬との事である。 又六は東軍の追手が来た時
 百姓村へ逃げ込み、馬屋の上にあった藁菰の中隠れた。 又又六の供の者達は
 屋敷口の石橋の下に隠れていた。 追手が橋の上を通過したと思い、頭を出した所を
 見つかり捕縛され糾明の際に馬屋を指差した。 このため又六も発見され、名を名乗れと
 云われたが、名乗る迄もないといって首を取られた。 今でも入来の申し伝えに主君を
 裏切った仲間達の子孫誰々と云って居る由。
   一説では重時の討死は百姓村へ逃入り、家の中の網代天井に上って居たが、
   あじろの隅間から長い台の鉄砲が見えて鑓で突かれたも云う。

45加藤主計頭清正と家久公が唐嶋に滞在中、鉄砲の賭けをした。
 薩摩が負ければ七島を清正に献上し、清正が負ければ愛用の片鎌手鑓を貰う
 と言う事で、薩摩方から伊勢兵部が的を射て星に射当てた。 清正方の射手も同じく
 星に射当てた。 再度兵部が射たが、相手から当たっていないと云ってきた、 前と
 同じ所に当たった筈故、それならばと掘って見ると玉が二つ重なっていた。 清正方
 も再度射たが当たらなかった。 そこで手鑓を取ろうとすると清正の鑓持ちが鑓を
 持って逃げ出した。 薩摩方が追付き刀で鑓の柄を切って取上げた。
 この鑓は薩摩にあったが以前火事で城が焼失した時に鑓も焼けてしまった。
 佐性寺の鍛冶職が焼直した物が今でもある由である。
 兵部は始め弐ツ玉で射て置き、後ははずれたものである。 この鑓は元来両鎌だったが
 折れて清正の片鎌の鑓として有名だったと言う。 鎌が特に切るものに引っ掛けて良く
 切れたので、家久公が熱心に所望したとの事である。
 註1.唐島: 秀吉の朝鮮侵攻の時日本の各部隊が名護屋(佐賀県唐津)に集結し、
    朝鮮に渡ったが唐島は巨済島との事と思われる。 
 註2.両鎌の鑓:いわゆる十字鑓とも呼ばれ、鑓の穂先の根元に鎌が付いている。 
 註3.薩摩側提案の七島とは不明。 別本では獅子島とある。
 
46ある時後醍院喜兵衛重宗は自身の下人に無礼な事があり長刀で成敗した。 
 人々は下人など切殺すのに長道具とは大げさだ、刀で十分なのにと云った。 
 喜兵衛は、確かにその通りですが私には考えあっての事です。 あの様な奴を切殺す
 のに特別な事はないが万一刀を使って失敗し、下人から大事な身を少しでも
 傷つけられては残念と思い長道具を使いました。
 下人など殺すのに恐れて飛道具や長道具を使う事は戦場では有りえない事です。
 私の考えはそのようなものですと云った由。

47ある時屋籠りがあった。 後醍院喜兵衛へ捕らえる様にと命ぜられた。
 喜兵衛主従は具足を着けて押入り捕らえた。 人々は鎧を着て捕らえるとは
 意気地ないやり方と云った。  喜兵衛は、そうではない、もっと難しい仕事で捨てる
 身を、あのような屋籠もりを捕らえるのに万一仕損じて怪我でもしては残念と思い
 こうしたのだと云った由。

48讃山善助はある時屋籠りを捕らえると云って、後向きにすざりながら中に入ってが、
 家こもりは既に死んでいたとの事。

49後醍院喜兵衛は関ヶ原の戦いの時、 薩摩の今弁慶と名乗り勝負を決した
 と言う。 それは木俣休作の事だと云う説もあるが、園田大与藤次が後醍院喜兵衛
 に付いて江戸へ行った時、喜兵衛が祖父の喜兵衛に名乗ったと聞いたので
 間違いはないだろう。 
 又前にその様な事が無かったかどうかを大与藤次が師の赤上勘左衛門へ
 話して、何の何左衛門と実名を名乗るか、薩摩の今弁慶と名乗るか何れが
 強みになるかと尋ねた。 勘左衛門が云うには、実名を名乗るよりは薩摩の
 今弁慶と名乗った方が強みになります。 今弁慶と名乗る程の者ならば人並の
 働きをする為に討死を覚悟しているものと見えるでしょうと言った由。

50惟新公が関ヶ原から撤退する時、敵味方陣場や城下で後醍院喜兵衛は、
 島津兵庫頭が只今通過すると大声で言った。 そこで惟新公を始、何れも宜しく
 ないと云った。 喜兵衛は、この様に云えば人々が必死となり強くなるからですと
 云ったと云う。 この事は薬丸壱岐が云ったと云う説もある。
 薬丸壱岐は伊賀上野の敵城下で、兵庫頭只今通過すると大声で言ったので
 皆は壱岐は厄介者だから後からくる様にとの事で、列には入らず後から付いて
 行った。 尚上野城からは敵兵が少し出て戦ったとも云う。
註1.伊賀上野城は東軍の藤堂高虎の居城

51木脇休作は朝鮮における軍船の戦いの時負傷して海に落ちた。 
 惟新公は小鷹丸船頭東左衛門に命じて櫓を下げて引上けさせたと言う。
 休作はその時二十弐歳の大男で黒の具足を着けていた。

52上の諏訪神社に屋籠りが居るとの事で、ある人二人で連れ立ち捕へに
 行ったが屋籠りが居ない。 ところが堂の床下で人音がするので、何者かと
 云えば、愛甲次右衛門です、屋籠が居ると言うので捕らえよう思い先程から
 全て探したが居りませんと云う。 火も燈さず暗い所からごそごそと出てきた。
 連れの二人は、頼もしい人だ、今後親友になりましょうと二人の若侍は約束した。
 次右衛門が十三歳の時の事である。 多賀の堂での事だと云う説もある。

53木下大膳大夫は石田三成の讒言により、薩摩坊津へ流罪になったが、
 秀吉公より討てとの命があり、加世田辻の堂で切腹した。 その時介錯人へ
 羽織を脱いで与えたと言う。 その首は肥前名護屋に在陣の秀吉に送られたが
 担当者の不手際で首を塩漬けにしなかった為夏の事であり腐り、使いの者は
 切腹させられた。
註1.木下吉隆(生年不詳-1598)豊臣家臣、秀吉の祐筆、豊臣秀次の失脚後
 一味とされ島津義弘に預けられた。 
 
54久保七兵衛は差刀のなかごに文字を刻んでいた。
  表に 念々有慈 鳴呼福﨑徳万公一世不乱
      有運天逢無退事
  裏に 生年十八歳久保与九郎 
      弐つなき 命も君が ためならば
      涼しく軽く すてよ武士(もののふ)
      薩州住藤原貞良
註1.久保七兵衛之盛(?-1647) 島津家臣武将、義弘、家久、光久に仕える
註2.刀のなかご 刀の柄に隠れる部分

55豊後の大友殿が日向に攻めてきた時、山田新助有信は高城に籠っていた。
 その時弥九郎有栄が誕生したとの知らせが来たので、跡継ぎが生まれたので
 縦令討死しても構わないと勇んだとの事である。
 その弥九郎は秀吉が九州に入った時、羽柴美濃守秀長に人質として出された人
 だとの事
註1.大友宗麟の日向侵攻は1578年、高城の戦い、耳川の戦いで薩摩側勝利
註2.秀吉の九州征伐は1586年、1587年 島津側敗北
註3.山田新助有信(1544-1609)武将、島津家臣

56上の新橋は中納言の代に出来たとの事、新橋の様な橋は家久公が中納言に
 昇格した時に出来たそうである。

57中馬大蔵は惟新公が特別に秘蔵した人であり、しばしば召しだされ、又自身でも
 伺侯した。 ある時惟新公が大蔵へ、何れの合戦の際に惟新が出ると味方が
 勝利する、良い所にでるからだと自慢した。 大蔵は、もっと敵の近くに出られれば
 味方の大勝となるでしょうが、敵から遠い所に出られたら我々が勝つのは難しく
 そんなに勝てないでしょう、余り良い場所に出られては居りませんと申上げた。
 兼々咄は競り合ったとの事。 大蔵は武功が人よりも勝れていたとの事。
註1.中馬重方(大蔵1566-1636)武将、島津家臣

58      覚
 一知行高壱万石に付、出陣の時は馬二十頭を出す事になっている。 従って
   其方は知行三万石であるから、家中全体から出す馬は六拾騎である。 
   諸士から出す馬は何頭と決めて飼って置く事。 
 一犬は十疋以上は飼わぬ事。  
 一大事な引き出物などが有る時、何事も気侭に指示したり、特に京都からの
   下され物などが過分になる事が無いようにすること。
 一衣装や諸細工物を欲しいままにしない事、 君子は道を憂い、貧を憂えずと
   云い、衣装やその外諸道具等に金をかけ下々を疲弊させる事は道に外れる。
 一鷹を多く置かない事
 一諸士はそのまま雇用し、北郷殿の前々からの決まりに違わぬ様にする事。
 一酒は禁止すべき事
 一万事を指置き、戦の時に諸人が疲れずに役に立つ様な覚悟が肝要である。
   北郷殿の跡を継ぐのは当家のために成る様にする事で、北郷家中が
   草臥れて行けば其方の不覚となるものである。
 一諸士下々に至る迄、罪科がある時は家老衆と良く内談して鹿児島へ報告する事。
  その上でどの様にも処理する事。 心にまかせ軽率にならぬ事
 一学問に心がける事。 家や国を治める為に学問は大切である。
 一百姓達を損耗しないように入念に治める事、百姓が疲弊すれば国の将来は
   暗いものとなる事は昔から今に至る迄明確である。 この事は論語にも
   用を養い人を愛す、人を使い民を以って時とする事とある。
 一一般に百姓や町人以下の者が帯びを解いた様に思い、この代がいつまでも続いて
   欲しいと仰いでこそ、家も繁栄して目出度いものである。  逆に下々が苦しむ
   様になっては天罰は逃れられない。 経文を読まなくても上記の心構えがあれば
   祈祷しなくとも自然に報われるものである。
 一祈念祈祷等底心尊く思い慇懃にしてこそ仏神の守も有るべきである。
  信心しているからと言い朝夕訳もなく戯言の様な祈念祈祷をすれば
  却ってよい事は無いだろう。
 一知行所も国も同じであるが、その主人の心持により人材の多少があると
  古文に云われている。 主人の心持が良ければ人が多く集り、心持が
  悪ければ人は去る。 特に武家は人材が豊富でなければ戦う事も出来ない。
 一身持を軽々しくしない様に分別を弁える事。 論語に君子は重々しく無ければ
  即ち威厳もなく、学問も身に付かない。 即ち主人の身持ちが軽ければ
  家内の者達も恐れない。 三人五人の使用人でさへ主人を恐れなければ
  何を言いつけても成就しない。 況や一郷一郡を治める為に主人は先ず
  自身の行動を完璧にしてこそ、下々もそれを見習い良い方向に行くものである。
  気侭に行動していては全ての事が成り立たない。 天下は天下の天下であり、
  一人の天下ではない。
 この各条を堅く守り北郷家を繁栄させ当家に忠節を尽くす覚悟が肝要である。
     寛永十一年(1634)十一月廿六日 家久
               北郷式部大輔殿
註1.鹿児島藩初代藩主(島津忠恒、薩摩島津家18代当主、家久と改名)が
   四男久直を島津家分家北郷家後継として養子に出した時久直に諭したもの
註2.北郷式部大輔(久直1617-1641)1634年に都城(北郷家領)に
   養子として入る

59頴娃主水佐は朝鮮国で中納言が難儀している場面を傍観し、殿も骨折って
 見ると良いと過言した。 中納言は腹を立て切腹を命じたが、武功ある勇士なので
 家老達が惜しみ内々でトカラ島番へ流罪とした。 
 その後暫くして中納言が松原山松原へ出かけたが、ここの正建寺の船手の方から
 見ると朝鮮国の泗川新城によく似ていた。 そこで中納言は頴娃主水の事を
 思い出し、何百万の敵へ向かう者は主水だったなと落涙した。 正建寺の方を見ると
 小川が前に流れており泗川新城によく似ている所の由。 新城は川を抱えて松山が
 あると言う。 この時、良い機会だと伊勢兵部から、頴娃主水は前に切腹を仰付られ
 ましたがたいへん武功に勝た者であり、御役に立つ事も有るかと存知、私共から
 トカラ島へ流して居り、既に数年になりますので復帰させて戴たく存じますと申上げた
 中納言はこれを聞くと、主水は大罪の者であるから切腹を申付けた。 今まで助けて
 置いたとは不届であるとたいへん立腹だった。 直ちに久保七兵衛、田中後藤兵衛
 尾上仁左衛門を検使として、早く渡海して切腹させるべしとの事で、三人が急いで
 渡海した。
 主水は釣りに出ていたが、十文字のござを敷いた船が来るのを見て、何かあるなと
 思い居宅へ帰っていた。 主水の居宅は鹿児島の方向に瀬戸道が一本ある岡の上で
 脇からは登り難く簡単には行かれぬ場所である。 この三人は到着したものの、主水は
 勝れた勇士であり、簡単には行く事が出来ず、岡の下で主水居所から見える所に
 宿をとり休んでいた。 主水は大だんびら一本でそろりそろりと三人の宿の庭を通り
 三人はつつき合って寝た振りをしていた。 
 三人が申し合せた事は、彼の居宅へ迂闊に行けば、一人も生きて帰れないだろう、
 口上で先ずは伝えようと言う事になった。
 貴殿は先年島流しを命ぜられたが、又切腹が仰附けられた。 我々三人検使として
 来たが、三人の内一人はお望み次第相手致すと口上した。 主水の返答は、たいへん
 恐れ入ります、ご口上は承りました。 検使方に対しては少しも遺恨はありませんので
 相手を望む事はしません。 もし上意打ちとなれば各位におめおめと討たれる積りは
 ありませんが、ご丁寧な口上を承ったので異心はありません。 居宅へお出で下されば
 切腹してお目に掛けましょうとの事である。 
 そこで三人は主水居宅へ訪問した。 尾上仁左衛門は主水の母方から紙包を一つ
 頼まれており、手紙と共に渡した。 主水は仁左衛門と兼ねてから親しくしていたので
 形見として主水秘蔵のからすゑの硯を与えた。 又主水母方への手紙を託した。
 その文には
   いつかは復帰できると思っていましたが、突然切腹を仰附けられました。
   何事も前世の報いと思ってください、かしく
    母上様
 主水年廿七で切腹した。 辞世に
  誰もかく 二度(ふたたび)さめぬ ひとねむり 
  一期ハ夢の 明ぼののそら
 この歌を主水母方に渡せば更に歎きが深まると思い、尾上仁左衛門方で預かった。 
 今も硯とこの歌が尾上甚五左衛門宅にあるとの事。 仁左衛門はその時中村三百石を
 領した。 

  旧伝集一終