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             旧伝集二
2-01福昌寺大仙自殺その後
2-02大慈寺龍雲和尚の事
2-03西国人甲州で軍事を学ぶ
2-04秀吉薩摩攻めで各地反乱
2-05切支丹一揆鎮圧で抜掛け
2-06島津彰久、朝鮮で病死
2-076筑前岩屋城の戦い
2-08朝鮮人参は希少
2-09薩摩の力は君臣一体から
2-10伊勢貞昌の印判
2-11龍伯公の歯
2-12本田親兼の没落
2-13物頭の足軽の使い方
2-14是枝次郎左衛門虫の知らせ
2-15島津章久の横死
2-16島津忠将の戦死
2-17島津歳久の自害
2-18龍伯公の山田越前追悼
2-19龍伯公、小庵主に一首
2-20細川幽斎、国分で一句
2-21龍伯公、国分小浜で雨乞一首
2-22龍伯公、国分小村で雨乞一首
2-23龍伯公、虫食い松に連歌発句
2-24龍伯公国分高予山で三首
2-25家久公国分気辺で一首
2-26家久公国分なげきの森で一首
2-27東郷伊予守石碑
2-28島津家祖への頼朝書簡
2-29是枝次吉のけなげな妻
2-30薩摩は頼もしい
2-31御番は一刻も席を外せず
2-32矢野主膳の馬術
2-33江戸城の祝い
2-34愛甲次右衛門の殉死
2-35矢野主膳荒馬を乗潰す
2-36長谷場与兵衛の最後
2-37家久公歌会巻物
2-38光久公家老同士の一触即発
2-39三原左衛門佐の寺入
2-40相良土佐の弓術
2-41忠久公の中間数
2-42淵脇姓由緒
2-43家久公中間の機転
2-44歳久自害の理由
2-45伊東家将の末裔
2-46家久公歌
2-47日新公歌
2-48家久公歌
2-49大名抱相撲自慢
2-50横山休右衛門の断絶
2-51萩原上之原由緒
2-52龍伯公、久保を追悼
2-53近衛公、久保を追悼
2-54義弘公領内地頭
2-55義久公御使衆

01福昌寺大仙和尚の自殺の事は一巻に記したので理由は略す。 大仙の自殺は
 寛永十三年(1636)二月廿三日で、文之和尚の病死は翌年(1637)二月廿三日
 中納言家久公が寛永十五年(1638)二月廿三日に病死したと言う。 
 どちらも二月廿三日の病死であるため、大仙の祟りだと言い伝えられている。
 大仙は寺役人の鎌田四郎左衛門宅へ行き自殺したが、それは今の鎌田家だとの事。
 屏風を立て自殺したが切腹の二畳敷きの所は踏み込む訳にも行かず、筵を敷いて
 囲いをしてあるとの事である。 この屏風については福昌寺の客殿に立ててあり、
 千本松の絵で血が付いていた由。 その後福昌寺が焼亡の時屏風も焼けたと云う。

02志布志大慈寺の四十五代龍雲和尚は博学で三ヶ国で並びなき人と云われていた。
 薩摩が九州を北進した時、龍雲を陣僧として伴ったと言う。 龍雲は兵士百五十人程
 連れて参加した。 大慈寺は広い所で伊東家や肝付家の浪人多数が寺に寄宿しており、
 その人々が百五十人程で、寺役人の市木半左衛門がこの部隊を指揮していた。
 薩摩に服従し一旦味方になっていた九州の諸将が、秀吉公が筑紫へ下向して来ると
 力を得て敵側に回った。 そのため薩摩は非常に苦戦となり退却せざるを得なくなった。
 其時龍雲は甲冑をつけて退却したが、敵が、きたない返せと云って追って来るので、
 市木大日寺と取って返して合戦した。 龍雲は無事薩摩に戻れたが、大日寺はそこで
 戦死した。 大日寺も博学の人で北進に参加したとの事である。
 其後朝鮮での戦いにも龍雲は参加した。 泗川の大合戦で狐が死んだので引導を
 龍雲が渡したという。  琉球の戦いにも龍雲は参加している。
 其後寺院の取高は少しづつ召上げられたが、大慈寺は前述の様な貢献があったので
 取高を減らされる事はなかった。 其後龍雲は豊州と清水監物の訴訟に巻込まれ
 薩摩を出て京都妙心寺に陣代として住職している時病死した。
 
 龍雲は新納氏の出身であり大慈寺四十四代さい善和尚の弟子となり、その後甲州の
 恵林寺で二十年余り学んだ人である。 恵林寺が織田信長に焼かれた時、快川和尚の
 手形で囲みを出て薩摩に帰って来たと言う。 囲を出るとき楼上より飛び下りて足に怪我
 を負い、漸くの事で薩摩に帰り大慈寺を引き継いだ。
 学力があり、多才で大慈寺の中興の和尚と云われていた。 伊勢兵部貞昌の学問の
 師匠との事である。 
 甲州恵林寺は田の中にあり、四方を見渡せる広地で景色が良い所で折々に信玄公が
 出陣の陣立準備をした事を龍雲は見ている。 これを伊勢兵部貞昌へ咄をしたところ、 
 貞昌が惟新公へ話し、 何の合戦かでその備立を使ったら良い結果だった言う。
註1.泗川の狐 泗川城で島津軍7千人が10万以上の明軍に攻められた時、突然狐が二匹
 明軍に向かって駆け出し、これを見た島津軍は力を得て明の大軍を破ったという。 
 その時狐は一匹戦死と言う。 元来島津家は初代忠久以来狐が守り神だった。
註2.新納氏 島津家初期(鎌倉時代)の庶家の出、名門で各地の地頭や家老を勤める。
註3.伊勢兵部貞昌 義弘、家久時代の家老、有職故実の大家として有名
註4.恵林寺 武田家菩提寺 1582年織田側の寺焼討ちの時、快川和尚は
 「心頭滅却すれば火も又涼し」といって静かに焼死んだという故事がある
註5.伊東・肝付浪人: 島津家の薩摩、大隅、日向統一の過程で、大隅では肝付家、
  日向では伊東家が最後まで抵抗したが敗れて家臣が浪人となったもの。

03甲州武田家では西国の人を十年調練と云った由。 これは西国の人は凡そ十年程の
 軍事調練をしなければ習得ができないとの事。 西国の人を百人程武田家で訓練した
 という。
註1.西国 一般に九州各国(筑前筑後・肥前肥後・豊後豊前・日向薩摩大隅)を指す。
 武田軍は特に騎馬集団による攻撃が有名。

04秀吉公が薩摩へ侵攻した時、薩摩に服していた九州の諸将は力を得て皆敵方に
 なった。  中でも肥前島原城主の有馬左衛門佐は巧妙に働いて薩摩方を苦しめ、
 秀吉公から褒美を得たと云う。

05肥前島原一揆の時、藤井才助と萩原半三郎の両人は抜掛けをした為、南林寺に
 一日一夜の寺入りを命ぜられたとの事。
註1.抜掛け、抜駆け: 戦いの場で功を得ようと命令が無いのに先駆けする事で
 戦国時代でも処罰の対象となった。 結果が良くても罪だったようである。

06島津守右衛門彰久は朝鮮国で病死したので家老の町田某は遺体に付添い
 帰国した。 彰久代わりに同家老の川上六郎兵衛忠実が陣代したと言う。
 彰久は初名は又四郎、病死は文禄三年(1594)七月五日で廿九歳だった。
註1.島津彰久(1567-1595)島津氏家臣、垂水島津家の祖
註2.陣代  主君に代わり老臣などが指揮をとる

07筑前岩屋の城主高橋主膳兵衛濫種入道紹運を攻殺した時、新納武蔵守忠元は
 石で腰を打たれたので輿に乗って指揮したという。 城は堅固で味方が多数戦死し
 死亡者の多くは甲冑なしの者で、中で三百人は甲が無かったという。
 この頃秀吉公が出陣すると云う事で、それ迄味方していた九州の諸将が力を得て
 敵に回り味方の勢いが次第に衰えてきた。 そのために城は堅固でも遮二無二
 落とし、その勢いで撤退する計画で無理に攻めたとの事である。
註1.高橋紹運(1548-1586) 大友家武将、北九州の軍権を大友氏より委任
註2.新納武蔵守(忠元1526-1611)島津貴久、義久に仕えた武将であり和歌にも
  秀で、文章も残る。 この時代の薩摩一番の武将と云われている。
   
08朝鮮に在陣の時、人参が城に出たとの事で十人程で終日熱心に探したが漸く一本
 見つけたという。 朝鮮人でさえ見つけるのは難しいとの事であり、現地でも希少な
 ものである。

09朝鮮在陣の時、綿入れ二つ着る人は無かったと言う。 綿入れ二つ着ていると
 殿様が見て、男がそんなに厚着をしてとの意見があり、誰も着なくなったとの事。
 元々寒国だが、特に寒いと兵営に大囲炉裏を長く作って火をたき、皆が両方から
 足を差し出してあぶって寝た。 殿様をはじめ皆同様で、普段の主君の礼からは
 有りえない事だった。
 加藤主計頭清正が是を聞いて、薩摩は普段は主従の礼が我々と同じ様にあるが、
 事に当っては寒暑を主従共に憂い、辛労を下々と共にするので武力が強いと
 誉めたと言う。

10伊勢兵部貞昌の印判を或者が似せて作った。 しかし貞昌の判には針が埋めて
 あり、紙に押すと判の墨の付かない所に針跡があるという。 月の前半15日の
 間は上の方に、後半15日間は下の方に針跡が付く。 このため問題なく偽判が
 発見され糾明した由。 又印判屋へ貞昌の判を押した紙を見せて、此判と同じ
 判を彫ってくれと云っても同じ様には彫らないもので少し小さく彫る。 又この判を
 紙に押して、この判と同じに彫ってくれと云うと少し大きく彫る。 したがって貞昌の
 判と同じ程度に見えるとの事。

11龍伯公の歯が全て抜け落ちたので、これを指宿主税介に持たせ国分の龍昌寺
 に納めた。 今でも残っていると言う。

12本田左京大夫親兼が没落する時清水本城の居間の柱に親兼の一首
   立馴し 真木の柱も 忘るなよ 廻りあふべき 時し有やと
 是を見て樺山安芸守善久は
   流れ出て 帰る世もなき 水くさの あとはかなくも たのみ置かな
 と書付け矢文で親兼に射返した。
註1.本田家は島津家創業当時からの大隅の豪族で島津宗家と協力関係に
 あったが、日新とその子貴久(島津15代太守)が島津宗家の座を得て薩摩を
 統一する過程で没落。 これは天文17年(1548)の戦と思われ本田親兼は
 日向庄内へ退去したという。
 
13黒田嘉兵衛、是枝次郎左衛門は何れも物頭である。 屋籠を捕らえる時嘉兵衛は
 足軽を先に進ませるが、次郎左衛門は自分が先に進むという。 その場合足軽達は、
 嘉兵衛殿は後からですから我々はやり易いが、次郎左衛門殿は先に行かれるので
 やり難く、万一怪我でもされると我々が困ります、とつぶやいた由。

14塩屋の屋根葺職丹谷正左衛門が屋篭の時、取手の物頭には長谷場十郎兵衛、
 川上左京及び是枝次郎左衛門が任命された。 次郎左衛門は毎朝写経をする
 人で、其朝も早く手水を使った。 その時脇差が抜けて手を傷つけて血が止まらなく
 なり、その日は出勤しなかったと子孫が伝えている。
註1.一巻にもこの屋籠もりの咄が載っており、長谷部十郎兵衛はこの時命を
 落としたという。 是枝へは虫の知らせか。

15島津大和久章は尾張徳川家へ使者として派遣されたが、失策をしたので直に
 高野山へ登り帰らなかった。 其後召還に応じて帰国はしたが、謀反の兆しが
 見えるので山の寺へ寺預りを仰付られたが、新庄の家臣百人程引き連れて行った。
 其頃鎌田源助もその山の寺に寺預けになっており、毎日久章と過していた。
 或時遥か彼方に留っている烏が居るので源助が、あの烏に当りますかと聞くと、
 久章は、目に見える程の物であれば当るものであると云って、床の間の二挺立てて
 ある鉄砲を取り射た所、烏の頭は打割られた。
 久章は余程用心している見え、鉄砲を打った後直ぐに又弾を込めて床に立掛けた。
 火縄には一日中火をつけている。 久章は鉄砲の名人とのこと 
 
 ところで山の寺から谷山の清泉寺の方に移りませんかと打診すると、久章は、そこは
 自由にはならないだろうと云う。 いやそうではありません、山寺は山中の田舎ですが
 清泉寺は景色の良い海辺で楽しみありますと云う事で清泉寺へ移った。
 久章を討伐しようとしても人数も多く、用心しているので簡単には討つ事ができない。
 精進日には油断しているだろうという事で精進日に討手を派遣した。
 その日は精進日だから討手は来ないだろう思い、家来を焼物取などに送り出し、
 少人数で寺に残っていた。 物頭の三原伝左衛門を討手の隊長として派遣し、
 久章への面会を申し入れた。 久章は寺の客殿脇へ出てきた。 そこを伝左衛門が
 弓で射ると矢は太ももに当った。 次の矢が眉間の真中に当り射殺したという。

 その時久章は士が飛道具で無作法をなすかと怒りで髪の毛も逆さまに立つ様子
 だった。 力もある大男であり、伝左衛門が矢で打ったのも久章は勇に勝れた
 人で矢で射るしかなかったとの事。 いずれにしても始めは寄り付く事もできない
 状態で矢がももに当ってから寄付いて討取ったと云う。 
 又弓の矢は眉間には当らなかったと言う説もある。 久章の墓を改葬した時、
 眉間にかりまたの跡があり、目の玉が飛び出したものを毛氈に包んであった由。
 伝左衛門はその時弓の名人と云われた人と言う。
註1島津大和守久章(1615-1645)島津家久の娘婿、義兄は二代藩主光久、
  新城島津家祖。

16永禄四年(1559)七月十二日四十二歳
  心翁大安大居士  右馬頭忠将 廻の戦いで戦死、忠将と共に戦死した人々
               以下に示す。
      忠将は其時国分に在城しており御供して戦死した人々
       金幸律師           野田中納言
       孝幡良忠居師        町田加賀守
       義翁常忠禅定門       町田軍四郎
         他46名略
註1.島津忠将(1520-1561)島津貴久弟。 垂水家祖、子以久は後初代佐土原藩主
註2.日新-貴久の薩摩大隅統一過程で、廻城を廻り、肝月兼続と戦う

17左衛門督歳久の自害で殉死した人々
  権律師盛俊              長 松 院
  静庵永文居士            西牟田隠岐
  桂庵守久居士            長倉 兵部
  宝山善弥上座            三原 源六
       他13名略
 歳久の辞世         
   晴蓑めが 玉のありかを 人問ハ いざ白雲のうへと こたへよ 
 御供の人々辞世
   古歌ながら 思い出すままま
   つゐに行 道とは兼て 聞しかど 昨日今日とは 思はざりけり
                           成合城之介
   極楽は涼しき道と聞しかと あつき此の世にいたくこそあれ
                           木脇民部
   うちむすぶ そのことばかり 思へただ かへらぬむかし しらん行すゑ
                           読人しれず
   世の中は 風に木の葉の 散ごとく となりかくなり となりかくなり
註1.島津歳久(1537-1592) 義久、義弘弟 秀吉と元々そりが合わなかったが
  秀吉が名護屋在陣中に梅北一揆がおこり、そのメンバーに歳久家臣が多く
  含まれていたことから兄義久の追討を受けて自害した
註2 辞世 晴蓑(せいさ)は歳久の法名、玉は魂
註3.辞世 ついに行く・・・は平安時代の在原業平の辞世と云われている

18義久公は山田越前守有信入道利安が死去した時、棺を国分の城門迄廻させ
 焼香した。 そして、利安さらば自分も頓て追付くよと言葉があり、その上歌を
 手向けたと云う。 利安は国分龍昌寺の側の向花(むけ)という所の花向川の
 端で荼毘に付された。
 この利安慶哲居士は山田越前と云う猛将で名誉の負傷度々あり、忠節この上ない
 者で内外問わず働いてもらった。 私がこの3-4年体調を崩して回復しない事を
 歎き、代わりになりますと云っていたが実に夏の初めより病床に臥していたが
 六月十四日に亡くなったと聞く、不憫の余り一首を詠み手向けるものである。
     はちす葉に おきこぼしたる 露の玉の
       おわりや君が ためにすてけん  
     慶長十五年(1610)六月廿九夏    法印龍伯
 
 これについて新納忠元の歌は次の通り
      うらやまし きへぬる玉の おわりまて
        いともかしこき 君の言の葉  
 前述義久公の焼香は大龍寺屋敷の門まで廻させと云う説もあるが、国分城門
 前の筈である。  龍伯公は慶長十年に国分新城へ移り、同十六年二月廿一日
 新城にて逝去された。

19清水弟子丸村の中に小さな庵があり、中もたいへん小さな庵だったが、今では
 この様に大きくなっている。 その謂れは龍伯公が国分に住居した時、どこかへ
 出かけられた帰りにこの小庵の前でふと駕籠を止めた。 寺主が庭で秋菊を
 植え直しているのを見て、
    片岡を かよひて寺に 住む人は 浮世の外や しら菊の花
 と詠み、自筆の短冊を寺主に与えた。 今でも寺の宝物として残って居る由。
 そして寺は菊水山片丘寺と寺号を改めた。

20細川幽斎が九州検地の時、国分向花の内なげきの森を見て
   山風を なけきの杜の 落葉哉
註1 細川幽斎(1534-1610)は秀吉が名護屋に在陣中に起きた薩摩の
 梅北一揆処理の為、秀吉が薩摩に派遣した。

21国分小浜早瀬大明神の神前にて 龍伯公の雨乞歌
   五月雨は 雲たてつねに ふれうへて 田向の□ うるふ計に

22国分小村大己貴命の神前にて 龍伯公の雨乞歌  *オオムナチ
   輝(て)るとても ことわりなりや 日の本に ふらずばいかで 天が下とは

23国分宮内狩の馬場の松に虫が付いて枯そうに見えるので法楽の連歌に
 南無八幡大菩薩と句の上に置いて百韻の発句
                  龍伯公
 (な)  夏や猶 玉松が枝の 深みとり
註1.法楽連歌 神仏に奉納する連歌 法楽和歌もある
註2.百韻 百句を連ねて一巻とする

24国分川路村高予山の神前にて 龍伯公  
   梓弓春やとなりに咲そめて山口しるく にほふ梅か枝
   奥山に 跡置てます 神恒も 心やなびく やまと言の葉
   松に小松 立添ふ隙に 影見へて いくかも高き 神の御社

25国分気色(けしき)の森にても      家久公の歌
   春深き 気色の森に 立馴て 秋まて蝉の こへをきかまし

26同所なげきの森にても     家久公
   いにしへを 忍ばさらめや 今とても 道もなげきの 森の言の葉

27東郷伊予守義則の石碑に
 先生の姓は源、諱は義則、又東郷伊予守と称す、又玉川とも云い
 備前中納言秀家公の臣である。 その人となりは文武全てに長じ、
 弓を射れば百発百中で其学ぶ所は木村寿徳院の日置弾正翁の射法で
 ある故に日置流と号す。 秀家公の運が衰え嘗て薩摩に来た時、東郷先生
 は秀家公に従う。 先生の才能は非常である事を太守家久公に告げて、臣と
 して使う事を請い、公も又これを認め千石を与え弓の師として朝夕過す。
 慶長二十年三月廿五日病死す、法名俊山獄良英居士、ああ時移り星霜
 は碑を旧くし殆ど砕けて文字は消え、視る者を悲しませ、聞く者を歎かす
 今できる事は黙して像を立て、碑に略記し不朽のものとする事である。
  正徳四年三月日
註1西藩野史では本郷伊予守とする

28頼朝公の直筆で忠久公が賜った、あすはこふのと書出してあるかな文は
 島津本家の大切な宝物であり革で包まれている。 
 記録奉行の河野六兵衛は折々三郎兵衛宅へ茶のみに訪れるが、ある時
 頼朝公の判物で革包があるというが見せて欲しい。 それを云うなら引裂いて
 火にくべそうな人だから、一人の計らいではできない。 この事を上に報告し
 同役六人、麻の上下で三郎兵衛宅へ行き、事情を言えば、三郎兵衛は、是は
 苦々しい事を承ったと云って渡したと云う事である。 今はこのかな文の奥に
 林大学が次書して、万々世迄別条ない事疑いない。
註1.島津家初代忠久は頼朝の御家人で、日向、薩摩、大隅にまたがる島津庄
 と云う荘園管理の為下向したと云われている。

29是枝大膳坊の二男是枝次吉がある時どこかへ出かけた。 途中で腹を立てた
 牛が向かってきたので次吉は道の脇に避けると牛はそのまま通過した。 跡から
 遊山と見える年頃四十歳位の女性が十六歳程の娘を連れて下女下人を連れて
 歩いていた。 牛が来るとその十六歳程の娘が牛を取り脇へ押やり、何事も無い
 様子で通過した。 次吉はこれを見て、さても堂々とした行動だが誰の娘だろうと
 思い、跡を付けて見ると福崎新兵衛の屋敷に入った。 そこで次吉は取次の
 者に新兵衛殿に少し御目に掛りたいと申入れた。
 
 障子越しに次吉は、突然の事ですが、今十六歳程の女性が連立って此方へ
 入られましたが、どちらの方でしょうかと尋ねた。 新兵衛は、それは私の妻と
 娘で、ある所に出かけて今帰った所ですと云う。 次吉は途中の事を説明し、
 けなげな振舞に驚いています、たいへん云い難い事ですが私は未だ妻がなく、
 此方の娘さんを私に下されば私の妻としますと申入れた。
 新兵衛の返事は、たいへん思い掛けない事を承りました、 貴方に娘を進上する
 については、既に娘の事は約束した所がありますのでお断りしますとの事である。
 次吉は重ねて、それはごもっともな事です、しかし私も申し込んだ以上、そのまま
 引下る訳には行きませんのでお相手下さいと中々聞き入れない。 
 そこで新兵衛もそこ迄云われるなら先方へ断りを入れて進ぜましょうと云って
 先方へ断り次吉に呉れたので呼び寄せた。 次吉はその時廿歳だったという。

 それから二年程過ぎたが、夫婦の関係が良くない様子なので双方の親達が
 相談して、次吉の両親から嫁に夫婦の関係が良くない様子で先々難しいと
 思うので実家へ帰る様に言い聞かせた。 嫁の返事は、さてさてその様に
 お考えですか、 次吉殿が私を捨て外から妻を迎えるのであればそれも
 あるでしょうが、 私を理由があって貰い、ご両親への奉公をするために来た
 のですから、その様な理由では帰る訳には行きませんと言い切り、手に負えず
 そのままにしていた。

 それから三四年の間があり、次吉は加治木に住居する伯父の是枝存力坊の
 所へ滞留していた時、 加治木網掛川の橋で若侍達が多数集って何か話を
 していた。 その時、惟新様御通と云い人々は座ったり、折敷をしたりした。
 次吉が折敷しないので仲間の者が、惟新様のお通りだから折敷しなさいと
 云ったが、自分は主人を二人持たないと言い折敷せず無礼だった。
 惟新公は是にたいへん立腹して存力坊へ通知し、国分より加治木へ滞留などに
 来る事は無用の事だと叱った。 更に龍伯公へも咄が行き、龍伯公からも
 大膳坊へこの事が伝えられた。 このため大膳坊の思いは、自分は御側に常に
 勤めさせて戴きありがたい事なのに、外の人からこの様な事を言われる以上厳しく
 処分すると、切腹させよとのお叱りはなかったが兼々不届の事もあるので放置
 しがたく切腹するよう申付けた。
 
 これで次吉は切腹する事になったが、その時妻が介錯させて欲しいと言い出した。
 周囲の人々は女性がこの様な事をするのは如何かと留めたが、実際に切腹の
 時に進み出て是迄の事もあるので介錯は私にと望み介錯した。 けなげな女性
 だから何が起こるか周囲は堅く気を配っていた。 直後はたいへん歎いていたが
 月日が立ち歎きも薄くなった様で、六十日程して周囲も油断した時に国分大川へ
 身投げして死んだという。 そこで次吉と一所に正真寺に葬られたと云う事だが、
 文之和尚が居た正真寺ではない。 次吉の切腹は廿五歳の時との事で子無く
 子孫はない。

 次吉を甚吉と云う説もあるが、これは次吉である。 この次吉は人の所へ行き
 大切にしている植木などを、是が何になるかと切ったり折ったり引き抜いたりして
 欲しがる。 いやと云っても是非と言い持帰る。 其ほか言語道断の行い等が
 あったとの事。
註1 折敷 主君の通過を迎える時、片膝を折り片膝をたてる礼

30光久公が桜田御屋敷に滞在の時、世間が騒がしいので何事かと人を出して様子
 を見ると、諸大名・旗本衆が具足を着た者、武具を持ち馬に乗った者がお城の方へ
 引続いて通過して行く。 光久公も出ようとしたが、家老の伊勢貞昌が、まず様子を
 見ましょう、出られる時分は私から申上げますというので見合わせた。 暫くしても
 騒動は止まないので、光久公が又出ようとすると貞昌が、時分は私から申上げます
 から今少しお待ち下さいと頻りに云うので又々見合わせた。
 すると段々お城の方へ行った人々が帰って来た。 何事もないのに諸国の人々は
 慌てて出たのに此方は出なかった。 外々より薩摩は頼もしいと話題になった由。

 
31朝鮮在陣の時、種子島左近将監が家久公に、種子島より良い鉄砲を取寄ましたが
 御覧になりませんかと云った。 御覧になると云う事で、次の間に詰めている人々に、
 どこそこに私の鉄砲があるが、御覧に入れるので持参する様に云った。
 其時詰めていた大山三次郎は、私共は御番を勤めておりますので、ご自分で持参
 願いますと云う。 左近将監自ら持参してお目に掛けた由。

32矢野主膳は並ぶものなき馬術の名人で、惟新公や家久公の馬術指南を勤め、
 朝鮮や関ヶ原にも御供した人である。 その時二十歳程だったと言う。
 或時 惟新公は矢野を背に乗せて自身が馬になった気持ちで稽古をした。 
 又ある時家久公に馬術指南をした時、公が馬に乗っている形を見て、猿が馬に
 乗っている様ですと云った。 家久公はこれを聞き、不届きな言い方だと立腹して
 殺そうとした所、惟新公が矢野を惜しんで庇い長崎へ行かせた。 
 それから暫くして呼び戻した所、切支丹宗門になっていたので、桜島黒崎で
 火あぶりの刑に処したという。

33江戸城において祝い事があり、徳川家一門、諸大名、旗本衆がお祝いに登城した。
 お祝いが済む前に島津下野守久元は表玄関の御番衆が詰めている所で火鉢の前
 で胡坐をかいて手をあぶりながら御番衆と咄をしていた。 間もなくお祝いも済んだと
 見え、歴々方が帰って来て皆から、下野殿今日は良い日でと挨拶があったので、
 膝を直し挨拶すると、それには及ばないからと云って通過ぎて行った由。

34久保七兵衛の所にある書付に
  幼少より今日に至るまて御意を得た事七生迄の冥加と存じます。
  中納言に御供して切腹します。 思い出して戴けば跡の噂は草の陰で。
      入相の 鐘もかぎりの 有と聞く 猶世にとこそ 思はさりけり
   形見形見
      虚白了無居士      愛甲次右衛門
                     生歳 二十八

    久保平内左衛門様
註1寛永15年(1638)中納言家久が63歳で病死した時八人が殉死したと記録あるが、
 愛甲次右衛門はそのひとり

35矢野主膳は並ぶものなき馬術の達人である事から、ある時都城の北郷氏が
 試して見たいと思い、特に癖が悪くて人が乗れない馬を出して矢野に所望した。
 矢野が乗ると傍からは悪い馬とも見えず、暫く乗っていると馬は泡を噴いて両膝を
 折ったという。 それから二日程過ぎて馬は死んだ由で背骨が折れていたとの事。
註1 北郷家 島津家の鎌倉時代の分家で日向都城の領主。 島津家久の三男が
 養子として入り、その後都城島津家となる。

36長谷場与兵衛は東郷重位の弟子で示現流の達人として知られていた。 
 庄内の安永で敵味方入乱れて戦った時、この与兵衛の太刀先には寄付く者が
 なかった。 そこで敵は鉄砲で与兵衛を撃とうとしたところ、与兵衛は走掛って
 鉄砲の口を切り返す刀で敵の首を切り落とした。 しかし傍から撃った鉄砲で胴を
 打ち抜かれ、弱ったところを敵が群がり鑓を揃えて突きかかった。 鑓の穂先を
 次々に切り落としたが再度鉄砲に撃たれ終に討取られた。 
 庄内周辺の野々美谷、志和地、山田等の古老の伝にもその通りだと云う。
註1慶長四(1599)の伊集院忠真が起したの庄内の乱の時の戦いと思われる。

37谷山の慈眼寺において家久公が歌会を催し、御供の人々も歌を詠んだ。 
 その時の公自筆の本が慈眼寺にあった。 伊勢兵部貞顕が慈眼寺八代住持の
 泰伝和尚から借用していたが、延宝八年(1680)正月十二日この本が兵部宅で
 焼失してしまった。
 これにより当代より四代前の住持である白岸和尚の時に添書を進上しようと
 云う事で宮里勘右衛門が写しておいた本があるので、これを写して書翰を添えて
 兵部貞栄の代に寄進したものを今でも巻物にしてあると言う。
註1.伊勢貞昌-貞豊-貞昭(家久十三男)-貞顕-貞栄

38佐土原の世継がないので、三原左衛門佐の甥である町田出羽を佐土原へ
 送り込もうと左衛門佐は企み、光久公へ申上げたところ島津弾正が納得するなら
 良いとの意見だった。 しかし弾正と左衛門は兼々不和だったので、相談せずに
 弾正も同意であると云って島津下野等他の家老の連印の書付を求めた。 
 この事を弾正が喜入摂津や島津下野から聞いて、弾正は、佐土原御世継の事は
 私が納得していると左衛門殿が申上げたとの事だが、私は納得しておらず相談も
 受けて居ないと云う。 そこで喜入摂津や島津下野からも私共から連印の書類は
 差上げないと云った。 去廿八日出席の時、私共は連印しない事を言いました。
 それで報告された書類は廿八日後の日付故、左衛門が判を盗取った謀書に
 間違いないと山田昌巌等が連名で報告した。

 そこで弾正は大いに腹を立、謀書に書載せられてこのまま放置はできないと
 思い、光久公へ申上げても、左衛門は今並ぶものなき筆頭家老で特に威勢も
 強いので直ぐに決着が付くとは思えない。 そこで私領の日置東郷の人数を集め、
 今夜二時に三原宅へ切込む準備を進めた。 
 鎌田善内は弾正久予の騎馬与力だが弾正の役人が善内へ、今夜二時日置東郷の
 人数を揃えて三原殿宅へ切込むので人数を添えられたいとの事。 善内は弾正へ、
 三原宅へ切込むと聞きましたがと云うと、弾正はこの事は知られたくない事で多分
 役人から聞いたのだろうと云う。 善内は留まる様に説得したが弾正は聞き入れない。
 善内は直ぐにご用人の相良権兵衛宅へその夜八時過ぎに訪問したが、今晩は夜も
 更けたので用があれば明朝お出で下さいと云う。 そこで鎌田左京宅へ行くと、
 左京は髪はばらばらで左の手に脇差を持って出てきた。 早速この事は話すと、
 急用故、直ぐに連立って行き急いで島津図書へ細かく報告した。 それは一大事と
 一時も早く殿様へ報告しなければと直ぐに三人連立ち急いで登城した。 
 
 早速居間に参上して事の次第を報告した。
 光久公もどうせよと即答は難しいが一時も引き延ばせば重大事となる、直ぐに
 弾正に留まらせねばと、財政預りの新納大蔵を呼び出した。 大蔵に、其方は
 早速弾正宅へ行き、左衛門は考へがあり、寺入を命ずるので恨みによる討入りは
 思い留まれ、軽々しい行動のない様にと伝えよ。 それから直ぐに左衛門宅へ
 行き、このままでは済まないので寺入りが命ぜられた、其方は親類の間だから
 よくよく左衛門に伝えよと事だった。
 直に大蔵は弾正宅へ行き、殿様の趣旨を伝えたところ弾正は思い留まった。 
 それから左衛門宅へ行き寺入りが命ぜられた事を言い聞かせた。 左衛門は
 大蔵に、今夜二時に弾正が切込と聞いたので無様な目に逢うまいと思い
 覚悟していたと云い、表のふすまを開けると家来共皆々待機し、百人計りは
 鉄砲に火縄を付け、其外弓矢や武具を揃えて待ち構えていたという。
 
 これ以後左衛門は家老職を失い、指宿の源忠寺へ寺預りとなった。 鎌田氏が
 適切に動き大事に至らなかったと人々は云った由。 善内は鎌田休蔵老の祖父
 との事。 鎌田左京は鎌田後藤兵衛の親父である。 相良兵衛親父は相良土佐
 である。 又善内は四位治部と云い、 この治部は酒好きでいつも呑んでおり、
 いつも呑む事を治部になったと云った由。
註1.西南野史では寛永17年条に「国老三原左衛門重饒故あって免ず」
 とだけ記述がある。

39三原左衛門佐が寺預りの時、甑島長島の間に南蛮船が渡来したとの情報が
 有った。 左衛門は鹿児島へ、牢人の身でも出陣する例もあるので若しお許し
 あれば爰から四十人程率いて協力できます、人数が必要な場合はお知らせ
 下さいと和田讃岐、新納大蔵、黒葛原(つづら)周左衛門の三人へ書状を
 送った。 今でも黒葛原家にこの書状があるという。 
 左衛門は非常に勝れた器量の人だが、奢りが高く、馬鹿な事を一々云うと評
 された。
 世の中には忠孝の二つの道があるが、この二ツがなければ世は末である。

40相良土佐は東郷長左衛門の弓の弟子であり、伝家の免許状を請けた程の
 人であり弓の達人である。 土佐はある時弓場に射手がいるか見てくる様に
 下人に言いつけた。 下人が戻り、射手はあり的に矢が当れば立たない
 大物器との事ですと報告した。 土佐は湯漬を食べ、鼻脂を付けて置いた
 鳥の舌根の矢を二つ弓に添えて弓場へ行く。 家来共へ今日の的掛は誰かと
 尋ねると、島津弾正殿ですと云う。 土佐は別矢で星の真中に当て射割った。
 ところが厚さ一寸程ある木の的なので、土佐が云うには、さて言語道断のやり方
 である、これは弓勢を見ようとするやり方に見える。 この壱寸程の厚さの木の的
 がじんどふに立つものか。 特に稽古では弱弓を射るものである。 皆一人一人
 つぶろを出しなさい、 この鳥の舌の矢で皆のつぶろを射割るべしと云って
 たいへん叱った。  
註1 じんどふ、つぶろ  不明

41忠久公が鎌倉より当国へ下向した時、中間は十七名で下ったと由。
註1.島津家初代、頼朝から島津庄(摂関家荘園)の管理人(地頭、守護)を
 命ぜられた。 忠久については種々説あり、頼朝の落胤説、近衛家の家臣など

42国分の淵脇権兵衛と云う人は淵脇一甚坊と云って山に入った後、直に甲斐国
 に行き採用され、宇山無辺介と改名して奉公した。 甲斐が崩壊した後無辺介は
 徳川家康に採用されたが、暇を告げ当国へ来た。 子孫はなく、無辺介墓は踊に
 あると言う。 無辺介の本筋は清水と踊の間に淵脇の苗字がある。 そこには
 甲斐で拝領した太刀謂文があるとの事。

43家久公の中間橋口某は朝鮮で公の馬の口を取っていた時橋があった。それを
 渡るのに、先ずお待ち下さいと云い、同役の中間に口を渡して橋を踏んで見た
 ところ橋げたが落ちたので脇道を通った。 そこでこの中間へ褒美の感状が
 与えられたが、今でも子孫がそれを保管しているとの事。

44左衛門督歳久の自害は、秀吉公は問題にしていなかったが、伊集院幸侃が悪く
 取り成したので、放置できなくなり自害に至った。
註1.梅北一揆の責任を取らされ、兄義久の追討を受けたと言うのが通説。
註2.伊集院幸侃 島津家の筆頭家老で秀吉の島津征伐の時、島津家の方針を
 早期に降参に導き、秀吉から高く評価された。 薩摩を救ったと云う評価と裏切った
 と云う評価があり、秀吉死後京都伏見城で家久に手討にされる。

45伊東義祐の将伊東右衛門(義祐之一族)が討死した時、その妻は娘を一人つれて
 祁答院へ来て男子を出産した。 それからこの子を頼まねばならないと云い旅したが
 加治木たつもんしの坂で娘は疲労で死んだ。 頼まれた所でこの男子は抱えられ、
 伊東伝左衛門と云い、死後はしやう山寺に葬られた。 その子孫が伊東茂兵衛
 であると云う。
註1.島津家と長年南九州の覇権を争った日向の伊東義祐は島津義久義弘に敗れ
  豊後へ逃亡する。 伊東右衛門は木崎原の戦いで戦死している。

46伊作海蔵院にて      家久公歌
  おくふかく 砌ふりぬる 杉むらに つもれる雪ハ 花にまされる *砌=所

47日新公歌
  戯波幾久に就ても緒を絶し古都の葉に毎に寄はかりけり
  表留身ぞ恥志□紅の花は□の色と□久仁毛

48法花万都大乗院      家久公歌
  あめのした 静なる代に とく法や 神も仏も めぐみありなん

49光久候が松平相模守を訪問した時、石右衛門と云う大力の小者を同行した。
 と言うのは相模守は大の相撲好きで、日本一と云われる相撲取を召抱えている。
 両大名の前でこの石右衛門へ相撲を取らせたところ、例の日本一を石右衛門は
 簡単に倒した。  相模守ば非常に悔しがり怪我をしたと云い機嫌がわるく、
 その日は出仕日だったが出なかったと云う。 光久公は非常に御機嫌でこの咄
 を諸大名に度々した。 ところが松平隠岐守がこれを聞き、大名がその様な自慢を
 されるのは良くないと云ったので以後この咄はしなくなった。
註1.松平相模守 因幡鳥取藩主池田光仲か、隠岐守 伊予松山藩久松家

50桜島に居た横山休右衛門は関ヶ原御合戦に御供をして、惟新公より褒美
 五拾石の朱印を頂いた。 その時五十石の十の字に点を打ち千の字にした。 
 このため家は潰され断絶となった。

51鹿児島下萩原の天神は萩原氏、上の山の観音は上之山氏が建立した。 
 その頃ばこの両氏はたいへんな歴々だったという。 其子孫は今桜島に居住し
 萩原上之山と称している由。

52又一郎久保の死去
 一唯恕参は武道を嗜み、武士の猛き心を専らとして、前関白秀吉公の異国退治
 の命令に従い、 軍陣の休みない中で唐と朝鮮の境である唐島と言う所で、
 文禄二年九月七日の夜世を去った事を知らされた。 心惑い憂いは更に深く
 其頃一首を手向けたいと思ったが、悲しみのあまり、いよいよ寄せくる老いの波に
 沈み、歌の本末もゆれて正しくないので、人目を忍び六字の宝号を始めに置き
 六首を連ねて成仏を祈るものなり。
                     龍伯

 南 なく虫の 声は霜をも 待やらで あやなくなるゝ 草の原哉  
 無 むらさきの 雲に隠れし 月影は 西にやはるゝ 行衛なからん
 阿 雨はたゝ 空にしられぬ 習ひあれや 憂折々の 袖にかゝりて
 弥 見し夢の 名残はかなき ねさめ哉 枕に鐘の 声計(はかり)して   
 陀 たつねても いらましものを 山寺に 説おく法の ふかき心を
 仏 筆をみぎに 弓を左に もて遊ぶ 人の心や 名に残らまし 
      潤(うるう)九月廿三日
註1.島津久保(1573-1593)島津義弘(惟新)の二男、義久(龍伯)の養子(娘婿)。
  朝鮮の巨済島(唐島)で陣中病死。 本来16代太守義久の後継者として
  期待されていたようで龍伯の悲しみが伝わる。 
  一唯恕参は久保の戒名。又一郎は別名

53一唯恕参の追善として龍伯老人の詠んだ弥陀の宝号の詠歌に感じ、
  泪の双袂を絞って一首を連ねる。 
   跡とへる こと葉の玉の ひかりにも ながき行衛の 道ハまよハし 
註1.後に近衛龍山(前久 1536-1612)の追善の歌と言う(西藩野史)

54義弘公の領内地頭
     在所飯野       有川雅楽介
     加久藤        南郷若狭守
     吉田 
     万関田        白坂美濃守
     小林          五代右京亮
     栗野          上井次郎左衛門
     馬越          川上三河守
                  伊東右衛門佐
     吉松地頭代      山口大蔵
                  曽木越中守
     須木          米良駿河守
                  村尾右衛門兵衛
註1.飯野が在所とあり、小林、須木もあるので1576-1587の義弘領と推定

55義久公時代の御使衆地頭付
     阿多          吉田美作守
     志布志         鎌田刑部左衛門
     加世田         本田因幡守
     川内山田       伊地知備前守
     曽於郡         税所新助
     市来          比志島宮内少輔
     姶良          伊地知伯耆守
     大崎          新納右衛門佐
 これら御使衆は今は御用人と称しているとの事
   

 旧伝集二終