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      薩摩風土記
    上巻
 鹿児島と申候は西に山をかたとり、東
 南は海なり、北は日本の地つゝきなり
 御屋形は山のまへ、前とほりハ大身の
 武家方なり、図のごとし、上町六町やかた
 の北にあり、武家やしきを中にして
 南を下町といふ拾弐町あり、町より武家
 多し、此外山西を西田町あり、西目道中
 の入り口なり、あら田町、高らい丁、をきか村
P8
 そんたいしきのふとふ、谷山かんをん  *不動、谷山観音
 田の浦風景宜しきなり、天王の社、金
 比羅、天神宮の社、聖王宮、殿様御
 かり屋あり、此近辺みな桜あり、山々
 さくらさき、まへは石かんまへさくらの磯
 浜なり、春は芸子を引つれ花見群
 をなすなり
一正月初咄し酒もりあり、二月廿五日天神
 祭り、初市にて下町大門口ひないち有り
 
 三日より廿三日迄、三月ひなのだいびらきと
 て酒さかなを持ちいそへ出花見をするなり
 四日を定りとするなり、四月八日初のぼり
 とて男子あれは此月より五月まて
 たてるなり、五月田植躍り、棒をどり先
 に図あり、六月舟あそび、祇園祭り、朔日
 十日金ひら様、廿三日大中公様御祭群衆也、武
 家町よりきりこ灯ろう上るなり、七月盆
P9
 十五日十六日はかまつり、石とふへ家毎に
 とうろふ、五ツ七ツまた富貴の家にて
 は十弐拾もとぼす也、皆きりこ定紋付
 いろいろの造り白きれはり、きれいなり
 はかへ詰め酒もりをなすなり、まことに
 をしもきられぬ人なり、市のごとし
 八月うし神祭、九月かうらい町あら田
 ほうせい十九日廿二日、十月内まつり、十一月
 三日より廿三日まて上町武家屋しき

 町にて市あり、古道具、刀、脇さし、着る
 いなり、外に此三日午の時いなり様にてや
 ふさめあり、あめにねぎみそをしよく
 するなり、十二月年忘れをいほふ酒盛、
 餅つきなり
 正月雑煮 くるまえび、もやし、大こん、な、もち
P10 
 向付は塩引のさしみ
 七月十四日朝さこにといふをいわふなり
 年越には暮六ツ過に戸をたてし
 家ことに家根のまとゟ銭をまく

    祭礼之記
 六月天王御こし壱ケ年に此十五日木社へ
 御かへりなり、常は町々まハりまはりて
 ますなり、此時家毎にやひの酒とて
 江戸の濁り酒のやうなる神にまつる
 祭礼は山ほこ、京の山ほこに似たるもの
 なり、十五日たちまちとてあたらしき
 衣類上下にて浜へ出て月を海の水
 にうつし詠す、十五才の男女ともなり
 舟遊ひあまた出る
 廿三日大中公御祭礼鹿児しま中町家
 事にてんがくあんどん下図ごとくいでて町々   
 の入口木戸ニ向より此方屋根までの大あん

P11
 どんかける、画師をたのミいろいろの絵を
 かかせるなり、此日昼はのろを夜は花
 火上がる、人くんじゅする也、まへあさ塩か
 へとて海の塩をくミ神へ備えへるなり
 家内のうちにふたふうふも三婦夫も
 一ツに居なり、塩かへ図のごとし
 ほうそうおどり六十の老女にても十
 七八の女のすかたにこしらへ、おとりのものハ
 五幣を持ち拾人程、あとハ三味せん、たいこ
 つゝみ、かねなり、亦はやり病あれハ、女子
 打より三味せん、太鼓にて夜中はやく
 あるくなり、是をときといふ
 ほうそう歌
 かう台町のとんかめ女ほうそも
 かるいあれハよい、これはよいかるいぞ
 〱〱くとはやすなり
 六月には明神祭り、ふんとし引てはだか
 身にかんむりにてすもふをとるなり
P12
 いまた古の風俗のこり、女のすかたたけ
 みしかき衣類、すそ木綿祭もよふ
 紋付ふり袖、尤下着はちりめん紅板〆の
 るひなり、木綿上着を礼とするなり、常に
 女あらい髪を好むなり、毎月仏の当る
 は墓そうじに行く、その時家内より
 手桶ほうき、花いろいろ持てめし仕ひの
 男女にかきらず承るなり
 此国の酒、みりんのごとくあまし、せうちう
 上方のせうちうと違て至て飲よし
 酒のせつ畳のへりへさらにしたむ家
 中酒ひたし也
 夏のなりもの一ツさい長しなすひ、とう
 からし、とうくわ、きうり図のごとく 
 亀ノ玉子をこのむ、鶴の玉子ほどあり、亀
 壱度に三百六拾生なり、月夜に海より
 浜へあかり砂をほりうみ、砂をかけ海へかへる
 亀の大さ畳弐でう敷程なり、至て油
P13
 こきものなり、少しまるし
 町を朝の犬をとりてあるくなり、右の犬
 を馬の先へたて、弓のけいこにはしら
 せるなり、能てつほうを好む処なり
 大福昌寺四月十一日開山忌なり、本堂の
 まへにて田植おとりあり、六月中よりりう
 きう舟をまつなり、南風にて入り来る
 なり、夏の者は琉球より塩漬のぶた
 を下す至て好物なり、風味よろしきとの
 事なり、うなきも近年喰ひならふ也、すつ
 ほんは喰ぬ人多し、かく魚がおほし
 とりもせうひせぬなり、かも一羽二百文
 くらゐ
 町は東向にして中は屋しき町
 前後に町家なり、御城の後山ハみな
 武士なり、町は三分、武家七分ニ候
 公儀様御法度の札は琉球屋敷の前
 あり、御制法きひしく江戸に違ふ事
P14
 無御座候、 人の生質律儀なりとも、飲食
 大酒を好ミ、女はねたみのつよい国なり
 これ日本の端にてかたくよれる国
 ゆへへんくつの処なり
 武士方ハ江戸に少しもかわらす、鎌
 倉の風あり、武士は鉄砲を好む所なり
 琉人は大和の殿様といふ、日本一の要害
 の地にして入口の番所みな難所
 なり、壱人立にてよふよふに通り候、旅人は
 多く東より入るなり
 往来手形を番書にてあらため、送り状
 を付也、右の送状往来町役所へ上て御帳
 ニ役人会所にてあらため、当あら
 ため問屋にとふりうするなり、あし *逗留 悪し
 事なれは役人付て国境まておくり
 出し、尤死罪以上はあたるつみの旅人ハ
 国境迄送り出し、其所にて此辺のに
 さいともをうせいよりためしものにする  *二才、大勢
P15
  図
エラブ鰻之図      
琉球人衣裳 ミはは一はいにておくミなし
        着る時両脇にしはをよせてきる
 盂蘭盆燈篭之図
 形あまたありといへとも略之家々の紋を附る
 鼠 香気あしく口嘴なかし、唐舟につきて渡るといふ
 猫 さつま 三毛猫なり、ふちなし
P16
  (図 鹿児島城)  時ノ鐘  下馬札 馬屋
 御屋形の内池に名水有
 此水町方水道へかかる松杉
 やくすきと同じ、雨天の
 節は雲たちのぼる
P17
(図 町)
  谷山 車いき町
  西田町 入口大門 西田橋
   かうらい町  かうらいはし
   武家 あらた町
P18
  (図)
 朝鮮の戦に打勝記憶のせつの祭の図
  大たいこのかね也
  鳥毛のさしもの
  中太鼓のさし渡し弐三尺
  中たいこのかね
P19
  (図)棒おとりの図

一ほうそふはやる時、女図のすかたになり米を
 もらいて、ほうそう前の小児にあたへるなり
 町内の家々ほうそうせぬ母あね打より
 紅衣類を着し三味せん太鼓にておとり
 ありく
 
琉球人上官を親方といふ、つむりかんざし
 上官は金、中官は銀、下官ハしんちうなり
 屋久、えらぶ、大島、とく、いあふ、きかい、りう人に
 同しよふなれとも、其人ふつのひん大きに異  *鬢?
P20
 なり
 さつま風ニて今ニも下武家衆にのこり
 ひんをつめ、衣類のたけみしかく、ゆきも
 みしかくひしをはり、かしのつえに金の
 わをはめ通行する也、此よふなるあしき
 風体国御法度也
 琉球商船は願へは他国ゟ来り、住宅ものハ島へ
 も参事国法度也、訴えハてきりなり、外国の
 人ハ琉球人とはなしする事も法度也
 りう人はかんないに居なり、外島の唐人は
町とんやあり
 琉人、町にて芸子遊ひ御法度なり、唐物
 琉物御法度なり、又ぬけ荷物天下様厳
 敷御はつ度也
 琉人もの言ハ唐人に逢へハもろこしの言葉
 日本人にはなせは日本の言ば、薩摩ことバ
 よりハ能わかる也、大和言葉にてかの国ニて
 習ふといふ也、至て人物はやわらかなり
P21
 琉人薩摩の人をさして口大和といふ
 京坂、江戸おく大和といふ
 琉球にてハ日本の金銀取りやりあれとも
 外の島にてはしろものゝ取りかへなり *代物
 さとう五斤に米壱升のかうえきなり   *交易
 琉球船午未の風にて日本へ来る、亥子の
 風にて彼地にくたる
 
種島様御国は鹿児島ゟ海上六七拾里なり、国
 だんき、松、杉よろし、米も又よし、人物さつまと *暖気
 替り中国の風ぞく、人のものいひも備前の国
 のものごしに似たり、凡四五万石程あり
 御家門方いつれも御紋くつわさうりんどう
 きり也
   加治木殿、今泉殿、たる水殿、しげ留殿
   宮古城殿、種ケ島殿、日あふき殿   *日置
 此外御一門方あまたあり、余は御家老方、江戸
 おふたいの人々也
一芝居は江戸の芝居よりハ大きく、松本武十郎
P22
 まへり候て座頭役者にて、外は大坂の役者と
 大阪竹細工もまへり大当りなり、そばハ至て
 よし、さるに入れて出す、したじあまし、江
 戸ものハくいにくし、元結ハ松を入ていたつ
 てよし、彼国のさハぎハ六丁之しょんかぶし
 琉球歌あり、めくらの多い国なり、米をそま
 つにする事土砂のごとし、芸子遊びには
 かしざしきをかうなり、ふるまいもかし座敷
 なり、料理の仕出しハ外にあり、さしき代ち
 いさき所五六百文、大座敷壱貫弐百文より
 金弐百疋ほと也、下町の内に新納や丁といふ
 処あり、此所に昔よりはかしごといふ女あり
 ひと夜六百文也
 芝居札せん六十文、場十六文、土間代四匁うつり
 七八匁、二階さしき壱貫弐百文、風呂屋せん
 八文、朝六時より初り大風呂なり、むしふろ
 なり
 朝鮮の戦に打勝、帰国のせつ近郷廿四ケ村
P23
 の百姓歓の祭りなり、右の太鼓はしゅん通りに *順
 村々へあたる也、此外に上町下町より子共躍り
 芝居付祭りニ出ル、吉原のにはかの如し引
 道具也
  文政四巳年番組
   小山田村
   荒田村、西田村
   郡之村
   中村
   木のひい村
   犬足村
   皆房村
   上伊敷村
   下田村
   小野村
   原良村
 弐拾四ケ村の内かく年にあたる
   永吉村
   谷山村
   桜島
P24
一棒踊うたにま合のかけ声あり、いろいろの法習
 のある事也
一衣立流、心義流いろいろのいやいより出ルといふ
 おどりなり、あふないもの□なり
一近郷の若人寄合またハ鹿児島町に勤ル御奉
 公人より合て右より棒踊り可申候事をお
 とるる也、むかしよりならいのある事也
一島津真岳寺社はむかししまづ義久殿、金吾殿
 大阪秀吉と合戦の時、此金吾殿兄殿をかん
 けんしいろいろすゝめ、秀吉と合戦をする事
 をとめしかハ、家中の人々金吾殿は
 わきばら、ことに二男の事と下ケすみし、其時
 合せんに打まけ大坂にしたかひしかバ金吾殿
 の進めをもちいずかつせんに成り、降参せし事
 をいきどをり、此処へ引こし腹かき切り、此方一人
 大阪へ随かハず、此御方の霊魂をまつれるれい
P25
 げんあらたなり、秀吉公へ鉄砲をうちかけ
 火花をちらし合戦をせしハこの金吾殿
 壱人なりといふ
   (図)
   薩摩人
  疱瘡のはやるとき女この姿にて
   米をもらふて歩行する図
P26
   松山地蔵堂之図
   増上寺僧正開基の石の名門前にあり *銘、門前
   新ほや町
   とり肴やかし屋敷の図
   南林寺へつづく
   薩摩古へ女之図
   今は大坂ふうをまねる也
         帯壱方ハ丸くけなり
   武家方ハ御当風をまねる也
P27
   図  
    琉球人  下官
         親方
   琉球之紀
一琉球国発向の時、大将は西田町のかハ山也、樺山権左衛門殿
 平田太郎左衛門殿、伊集院長左衛門、蒲地
 備中守、野木源左衛門、山鹿越左衛門殿外御
 家人武士弐百五拾四人、数合弐千三百余
 人、慶長十四己酉閏二月、大島打わたり
 琉球へ攻上り、国王、太守、ねいじんを生
 捕り、鹿児島へめしつれきつと
 吟味におよび、江戸表へつれ、公方様
P28
 御目見するなり
一琉球の事は嘉吉元年三月十五日、将軍
 義教御舎弟大覚寺大僧正尊応上人
 むほんに付、事あらわれ日向に向ふ下り給ふ、京
 都より奉討候様に島津へ度々被仰付
 にて止るを得ず、樺山美濃守大将にて
 うち奉り候、其時の御褒賞に琉球を
 永々に薩摩に下さるとあり、慶長りう
 球征伐す、彼地に侫人ありて、まちまち
 いろいろあり此方にて立腹して攻入
 候事にて、薩摩に随ふ事いたつて
 いにしへの事なり、江戸参きんはこの
 時にはじまるよし、琉球の先祖は
 為朝の孫といふ、江戸表にも御客の
 取り扱ひなり、からにても外国より至り
 て重き取り扱に候ときき候
 薩人あきなひに至り、そりに子か出来候と
 この方へつれ帰り申候、是を島子といふ、商
P29
 このぞりかあきのふ也、何程の品代にても
 帳には付不申、むな勘定にて違ふ事
 なし、惣躰琉球は女子の商売する所也
 からと日本と打合の所にて諸方の商船
 来ると見ゆる
 琉球の木綿大木なり、はしこをかけ  *梯子
 実を取る、日本よりもわた、木綿、きぬ、あさ
 縮緬、羽二重、緞子、紙るい、京あふき、松前
 こんふ、此品あまた行、こんふは大船にて
 幾そふも下るなり、此外諸道具あふく
 下す、彼地にてもまた外国へうると見へる
 なり
 琉球産物
   朱ぬり之器類  島つむぎ  さとふ
   泡もり酒    上布    はせふ布
   木綿こんかすり
   大島さとふ   島つむぎ 何れの島にてもさとふ多し
   えらぶ嶋    うなぎ   さとふ 
P30
 えらぶうなぎ日本の青大せうへひに似た
 り、長さ四五尺醤油酒にていり付るなり、あ
 ぶらこくて喰れず、琉球王より唐へ献上
 の第一はこのえらぶうなぎと云、せいこんの薬
 腎薬といふ、えらふの沖うみの底に居る
 琉球三味線の皮は此の皮を用るなり、大き
 なるもの壱丈弐尺もあり
 唐より渡れるひやうちやくといふ物を
 とぼす鉄ほうの如くはやり病のはやる時
 はかと口にてとぼす、図あり
 盆祭り七月十五日墓所へとふろう燈す、昼の
 如し、暮の浅草の市に似たり、人声蚊の
 なく如し、墓所は壱所にて三四丁も
 続くなり、往来の端松原の中、磯浜に
 いたる、此日町々へにわかをどりいろいろの
 物まねをしてはやしていづる、三味
 せん、太鼓いろいろのおどけものあるく、見せへ出
 て酒盛りし見物する也
P31
 琉球の長歌は唐音にてわからず、鹿児
 島ニてうたふは船歌なり
  其歌
 たびの出たちかんのんどう、千手かんのん
 ふしおかミ、小金さくとてたちわかれ
 おやに兄弟つれてわかるゝたひころも *旅衣
 そでとそでのつれなみた
 袖にふるつゆおしはらへ、おおと松原あゆミいく
 いけは八すんそうせんし
 いかりまきあげ屋ほまつらせくむまや、しち
 どにやう〱と
 ふねのともつなとくとくと舟子いさん
 でまほ引は、風やまともに午未  *真帆
 西に見しはやくえらぶ、けむり立のが
 いほう島、おかへもん、ふじにみまがうさくらじま
 きくのさかつきめぐらすか、山川みなとはかり
 くむ人の心かうあさましや
 大和新ばしからかねぎほし、なみにうつして *唐金擬宝珠
P32
 さくらしま
 やかておいとまくださるゝ、ししやのめんめん
 ミなそろへ、べんさいてんふしおかみ
 よしやと立なミおしそろい、ミちの島々
 見渡せば、しちどとなりもなさやすし
 はやし
     せんぞろ
        しそろに
          そろりとせい
 
  はやり歌
 やまとんてうがとちならバ、ばらすなよ
 あれはしんくたりでもたもなよ
       へややれやれ
 いしつのたちてうのおんちよんが
 もしや四十になるまでとしやかまへのせらて
 わらへんてうで へややれへややれ
 とうだるもだかあんどんかんとん
          うすむいうすむいうすむい
P33 松のこえたに月夜からすが *松の小枝
    ねんねかまくらて月をなかめる
         はいややれ はいややれ はいややれ
一三月田の浦にて花のせつはりう人二十
 人程車座にならび、酒もりをすおどり也、江戸
 の辻めのごとく人あつまり、見物する也

 三月田のうらにて花見の
 せつおどりの図
P34
   図
  種ケ島殿      
      琉球館
  御公儀様御高札
   りうかんやしきの前に有り
        柳のばば
              そうめんそばきりの見せ
       新橋は石橋にて唐かねのぎぼうし
         しんばしとほり居てあり *彫
P35
   図
   トンダフラ之事
   鳥や魚やにとんたふらの
 かんばんあり
   猪、ぶた、鹿はすくなし
   よほとの客にてなけれハ
   いださず

一水道の高枡有り、岩にて造り墓のやうなり
 所々にあり、此水御城よりなかる、町中の呑水
 とする、水くミうりありく
一石燈ろう有り、下を人のくぐり参るやう造らせ
 置なり、いずれの宮社のまへにも能ある也
一大仲公社松原山南林寺本堂のみなミに有り
 島津孝久公源頼朝公御孫なり、大仲公 *貴久
 ふとん石、社前に有り
一忠久公御母花尾大権現なり、鹿児島の西
P36
 三里なり、九月御祭礼大社なり、八月廿護日国
 分寺正八幡宮御祭礼、九月十九日きりしま御
 祭礼(西社、東社)ふもとに湯治場あり、湯の滝
 三十二あり
一霧島山いさなミの命いさなきの命両御神立給ふ天のさか
 ほこあり、高さ八尺程出ル四角也、から四寸ほど
 あり、ゆるぐなり、青さびにて唐かねのやう也
 うてば鳴るかねのをと也、山上へふもとより
 二里ほど登る、大難所なり、硫黄谷あり、年中
 火燃る、馬の背こへ、風あれハ上られず、まハりの
 小石参けいの持あがりてつむ、又山上に木なし
一鵜戸山大権現堂うかやふきあわせすの命
 の内裏のあと、此神まて此處にたいり有り
 といふ、岩穴の中へ宮を造り込もの也、御普請
 の時は此いわ上るといふ也、れいけんあらた也
一山川に花瀬といふ處あり、海さしの石に
 牡丹のやうなる花咲といふ、船にのりて見に
P37
 行なり、そばへ寄ればしほむといふ、行て見れ
 ば花にあらず、かきのやうなる貝なり、水中
 にひらき、日をうけ赤うす、紅金銀の色あり
 てうつくし、大さ六七寸もあり御海門嶽き
 てす御花といふ、外にけつしてなし
一薩摩に有りし時、江戸木挽町宗五郎夫
 婦むすめ小松といふ十一才もうもく連、国々
 をありくにおふ、此小児能く三味せんをひく
 一流にて三味せんと横にねかし、両撥にて
 ひく、ねしめいわんかたなし、外にすま琴と
 いふものをひく、糸は壱しにして何にても
 ひく、此殊行平中納言すまに在りし時
 ひき初しこと也、今ハ京都にもたへてひく
 ものなし、ふしきに女児ひき初る琴なり
 長崎に在りし時清人いまた唐四百余州
 に詩ふするか此ことを望して持来ル
 清人之詩
  三尺鳳枝繭好将新製処新聞書
  夜月誰相議寂々高山一水流
            庚辰桂月
          紺碧峰先生嘱劉悟厚

一とんたぶの事有り肴やにとんたぶの看板
 あり、琉球朱塗りの台に仕切いくつもあり
 夫にいろいろの取り肴を並らべ酒の肴に
 出す、これをとんたぶといふ、中にはさし身も
 盛るなり、此国のもの何を煮てもあまし
 猪、ふた、鹿はすくなし、余程の客にてな
 けれハいだし不申候、町中をにない買るに
 あるく、是も少し山奉行のふるまいの
 時は村々ゟ猪豚おひたゝしくしんもの
P39
 に持きたりてかけ並る也
一薩摩言
 唐からしを こせう とうしんを じば
 さつま芋を からいも はしを 手元
 とびんを ちょろ 徳利を びん
 へちまを 糸うり 十六さゝけを 黒まめ
 ひつを よま  紙を かむ
 直段いくらを どしも あらき事を けんない
 じよふだんを はらぐれ いつわりを たんか
 ちっとを 一ツとき  しばしを一こく
 やろうを わつこ  かし屋を くや
 猿 よも  公義を 御もつ
 いとしい事を むぞ  ちいさい事を ほそい
 大を ふとい    こんれいを 御せんけ
 産をする事を 御はんじよふ

一 湯治場
  南東 伊作 伊なく、いふすき、ちうの水
  水のはな すな湯
P40
  西北 あんらく いからき ひわく
  霧島 ゑの湯、いあふ
  桜島  
   黒かミ ふる里
   拾三ケ所なり
 島々へは鹿児島より代官付之、唐船蘭船
 琉船の御しまりあり
 いあふかしま 流人の記   *硫黄島
 松山通り小池に石橋懸り往来也、此地むかしハ
 渚にて舟場俊寛舟つなき松池のふちに
 有り、此地より島へ流れたまふ、前
 の国図の内山川よりミへし、硫黄ケ島へなか
 されしなり、今に島内に古跡のこり、いま
 薩州の流人も此島へおくる、されと国近き
 島にて便利能き所なり、琉球迄の島を通り
P41
 の島といふ、大小の島数しれず
 山川金山の記
 薩州第一の御ゑきなり、金の位よりまた
 箔によし、さほ金になし江戸後藤へ下し
 通用の小判小粒になる、されとも座にて
 外金をさすなり、右ニ而此国新金多し *外金混ぜる
 
ヒヤウチャク之図

P42
  図 ゾリ

          琉球人町人女房

一なんしゅいん馬場通り東照大権現公社あり
 門に随身あり、あおいの御紋黒ぬりこく
 さいしき結構なり、毎月十七日参詣ゆるす
 
一谷山の町はつれに木下角といふ処あり
 赤松の大木の下に五輪の塔あり、両面に公家
 束帯の像有り、苔むして誰の石碑と
 いふをしらず、大坂の人々此辺に住し、浪
 人姿にて世を送ると見へ、かなり俗にいゝ
 伝には秀頼たいてうにて町中をあは     *帯刀
P43
 れあるくとゆふ、殿より仰渡されはこの
 御人に一切無礼のなきやうにとの御触にて
 人々其なまよいを見かへてにげるといふ、これ
 大坂秀頼公なるへしといふ、今に谷山よ
いくらいにはかなわぬといふ武家にもよら
 ぬやうににげかくれする也、逢ハ途中にても
 無心を云ひかけこまるといふ事なり、
 上町の地蔵堂は秀頼公乳母の子女、老母
 と跡をしたひ、とむらひ堂を立、朝夕回向を
 仕たる地蔵ともいふなり、上町右地蔵堂の
 裏に池の権現といふ石墓あり、八ケ年跡に
 系図と人のほねをほり出す、是も大坂人
 の品者といふ、又下町の上かま問屋に木むら
 権兵衛といふ人あり、是木村長門守跡系譜
 有りといふ、下町納屋通り上に山口氏の八百屋
 あり、真田の末といふ紋六文銭を付有り、同
 新仲町にかつさやあり、秀頼の書ありと   *上総屋
 いふ、後藤真田の跡武家こう大侍あり、紋所も
P44
 其侭、されとも、いつれを是非とゆふをしられず
 人ききてもわからぬ、是ハはるか末に召
 出し扶持遣さるものと見へたり
   伊集院のつぼ屋の記
 朝鮮人なり、むかし朝鮮の戦はて、此土焼
 物工五人召連、この所において御用やき
 ものをさせ候、この所より平沢御領分にわか
 れあり、殿様江戸御道中御本陣此つぼ
 屋年寄やく相勤申候、この日焼もの御覧
 なり、この村町家数五家程あり、名主庵の
 とおり一字苗字名は二字なり、頭は
 琉人の通りなり、殿様御着のせつは此つぼ
 人まいかくをいたし御目にかける事なり
 いろいろおかしきまへありといふ
 此つぼ人鹿児島にとびん、つぼ、ちょか、
 すり鉢、いろいろの鉢焼ものを馬に付出すに
 馬引は唐人のあたま、日本のきものにて
 をかしき形ちなり
P45
  沈香の事
 大島に沈香の大木あり、文政三辰の春、百
 姓深山に入りて木をおろす、日も既に
 くれしかは、木の葉をあつめて火に
 たく、其にほひかうだいなりしかは、夜
 明ケて其あつめし木を見るに見なれぬ
 木なり、是により殿様へ御訴へ申候
 処、さつまよりけんしを遣し御吟味の
 ところ、沈香に相違なし、段々ふかく山に
 わけ入り尋ねしに何と申候事しれず追々
 に注進のより役掛り御人よりきく
  朝鮮大人参
 近年薩州にて朝鮮の人参を植て御取
 なされしにふたの人参あり、手足ありて
 人の如し
 人参は植しより五ヶ年目に取る、葉は五
 まいづつ出る、大根の葉に似たるものなり
 屋根をかけ日にあてず、夜露とるなり
P46
 けしからずたんせいなるもの也
 又昔山川に五尺程の右木流れ来り、浜
 のものとも何心なく取りあげ火にたくに匂
 あり、則鹿児島にうつたへしに、役人を遣し
 候、吟味ありしにきやうの名香なり、今は
 御上にありといふ、いづれ此うみ近くにあるや
      

    中巻
   御家門方
 高壱万五百五拾四石九斗九升四夕三才
 一加治木  島津兵庫殿
 高弐万五千三百石
 一都之城  島津鉄熊殿
   凡拾万石余上ル東門番所御国役
   年中国御詰折々鹿児島へ交代也
 高壱万七千四百五拾五石五夕
 一垂水   島津備中殿
 高壱万五百五拾三石
 一今和泉  島津因幡殿
 高壱万三千九百六拾弐石
 一重留   島津肥前殿
 高壱万五千三百弐十四石
 宮之城   島津図書殿
 高壱万三千七百五石
 種ケ島   島津龍之助殿
 高七千六百六拾九石
 一日置殿  島津山城殿
 以上御親類衆御役無之大名衆
 御家門持切方
 高四千七百六拾弐石
 一喜入    肝付弾正殿
 高五千四百石
 一知覧    島津 杢殿
   以上御役なし御家門衆
  島津家御家老衆ニ而頭取
一川上殿  一吉岡殿  一樺山殿
 一新納殿  一二階堂殿 一丸津木殿
 一伊集院殿 一赤松殿  一吉田殿
 一市田殿  一町田殿  一伊衆院殿
 一宮ノ原殿 一鎌田殿  一島津登殿
 一末川殿  一島津矢柄殿一山岡殿
P6
 一島津十兵衛殿 一高橋殿 一本郷殿
   以上此衆ハ御大名上方と申候
 外高取御家人武士  壱万九千人余
 士惣人数      五万七千人余
  以上高三拾三万三千弐百四拾七石弐斗七升六合
  外城衆
   高十一万千四百五十五石壱斗壱升三合
 合薩隅日、道之嶋、琉球合
  八拾七万千八百四拾五石壱斗三合四夕
 
 高三千七百四十五石
 一鹿籠   吉入主馬殿
 高四千三百五拾壱石 
 一永吉   島津主殿
 高四千四百九拾三石
 一吉利   小橋帯刀殿
 高弐千四百八十石
 一平佐   北郷小膳殿
 高三千弐百七拾弐石
 一入来   入来院石見殿
P7
 高千六百五十石
 一雀田   樺山左京殿
 高千二百二十八石
 一佐司   島津左仲殿
 高四千弐百十四石
 一新城     島津内蔵殿
 高五千百二十五石
 一巻岡     島津大学殿
 高千六百九十二石
 一市成     島津右膳殿
 
  外城衆中高十一万千四百五十一石三合八夕
  神社仏閣方壱万五千弐百拾石
   山海川島々合凡三百万程なり、尤島ハ宜
   敷処ははかれず、何程とすほどは
   知れず、尤商船の利分は外に候、唐物は
   高数しれず
   
   系図宝物あらましを記留す
 一門覚上人頼朝に被参せし時雨のはた丈
  九尺幅四尺五寸上より尺目に黒子持筋
P8
  五寸ばかりニ而、地白つむきのよふなり
 一同八幡大社の御はた上に子持筋あり
 一頼朝公緋おとしの御鎧
 一忠久公御鎧代々御具足、義久公関ヶ原御難 
  の鎧疵鑵あり
 一火龍の御かぶと、刀、太刀
 一頼朝公御筆
 一足利家代々御朱印
 一秀吉公御筆
 一東照宮御筆
 一秀吉公拝領之鑵子、同珊瑚樹の蓋置、芦屋の茶わん
 一湯成院の色紙
 一定家の御製、頼朝、文覚の御筆、朝鮮王の筆
 一朝鮮国大石火矢、鎧、日鈍子の旗、幕、朝セんより
  持ち帰る也
   名きんの記
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  古筆、唐もの道具数しれず
  また金もの類
 一趙子帛の屏風、掛軸
 一けいしよきの屏風  一雪舟の筆
 一秦の始皇の筆
 一馬ようの筆 一古法眼の筆
 一呉道子の筆 一妙かんさいの筆
 一徽宗皇帝の筆
 一兆典司之羅漢
 一探幽、尚信、安信等の類ハ無数
   薩州の名筆
 秋月ト云者あり、雪舟の弟子也、古ケンチウ
 探元等あり、御家人也

  奇妙成按摩の事
一鹿児島俊寛橋瀬戸口と云処ニ御家人に肝付源之進
 ト云者あり、此妻女に按摩をとり、眼の病、小児の虫
 何れの疾病にても按摩を採りて療す、治せずと云事なし
 又積痰の病なぞは見る内に治す也、殊に眼病は経験神妙也
一上町武家布山平八と云人ノ小児三才バカリなるが、
 生まれながらせむしにして、骨筋なえたりしを二ヶ月程療治
 セしに全く治して独り寝起し、足踏み立つるやうになり、
 言語七分明になりたり
一高麗町に吉田龍助と云人、原とは医生にてありしが、子息
 十歳にて骨無しの如く起臥なり難し、是も三ヶ月程療治
 し行歩自在也
一下大黒町谷村八十右衛門息十歳になり、しつのぼせにて
 盲す、是も療治して眼明也
一上町武家の息女風しつにてあし曲り兼タルヲ按摩して治す
 此外ちかくしき虫にてかたわになりたる者幾人と云事無く
 治す事神妙也
P12
   琉球官位の記
 図
 大王          王子親王方
  一寸五分 九龍惣金也  惣金雲龍五爪
 大臣三位二位大納言    四位五位諸大夫
  一寸二分 金       龍金地銀
 武家官位のよきハ惣金也   武士平
  八分 花金         花金水仙花なり
  
 町人 由緒あれハ花金、多くハ銀なり
 平人 しんちう 水仙花

  名鍛冶之記
 𠮷山に三条小鍛冶宗近の古地あり、今に
 右井戸また鍛冶くそほり出す事あり
 先年本阿弥重右衛門殿此国に来る時ほり
 出し持て帰りし事といふ
 又右の処に浪平行安の古地あり、是は
 今に跡あり、鍛冶を行とする安国といふ、尤
 きれもの也
 又元平是も業もの也、行安の弟子といふ、同所
P13
 なり、丸太の鉄斎、上野長左衛門のほり 
 小田正房のほり、これら中興細工
 人なり、是等をはじめ、柄巻、さやし、刀とぎ
 いろいろの名人あまたあり、よろしき刀の
 身ともあまたあり

  薩摩の大焼け
 文政四年巳正月廿日暮六時過、下町の新なや
 南角、北風に東まじりにて下町中町家
 のこらず焼はらい、朝六ツ時火しづまり申候
 尤も怪我人もなきやうすにて二日屋形より
 施行にかゆ、にぎりめしのよふなるもの下
 さる也、火出し主は重房と申候あふらやに 
 あぶら紙に火もへつき、急に火のぼり屋根へ
 ぬけ、急火にてかけ付候、此とき荒き問屋ニて
 半町わきへ間もあり候へとも、うろたへまわり 
 蔵へ荷もつを入申候ものハ蔵に火入りて丸
 焼に成り申候、くらの火翌日しづめ
 申候へハ、焼残りの着類からみ出申候、あら
P14
 き問屋中のけいこのこらず上町行屋
 もたからべ問屋へ付にそうようにてくら
 し申候、六日より幸行橋西角油や、池田
 彦七なと申候ハこのたび類焼に付、池田
 二軒重野〆三軒、上より ましとんや被仰
 付候、右の宅へ引うつりきちん手雑用
 にて居り申候、尤日々銀四拾匁ツヽの
 御うんせう壱ケ年間御さし免るし
 御座候、外材、竹、縄、むしろのるい一さい
 直上候ものはきびしく御咎め被成に付
 おだやかなり

  阿久根の塩田の
  同所ほはしら神の記
一田の中に塩はき出る所あり、廻りは米
 田中弐反程塩出る也、武士この塩
 にてたき塩あきのふ、常のしほなり
 此辺に田の中に所々にあり、このへん
 海の中に真水湧き出る処
P14
一獅小島の先天草木戸の瀬戸入口にあり
 舟の用水とする

  鵜戸山の図
 うとさん大権現は
 うかや葺あえせずの命
 内裏のあとのよしにて
 岩あなの中に見やをつ
 くりし物也
 御ふしんの時岩
 おのつから上るといふ
 れいけんあらたなり
P16
 図
 山川花瀬
   牡丹のやうなる
   はな貝のやうなるもの也
P17
   図
 東照宮        御勘定  
 南泉院           聖堂
 なんしゅ院
 
 なんしゅ院馬場通の□
 東照宮御門随身葵の
 御紋黒ぬり極さいしき
 なり、毎月十七日参詣を
 ゆるす

 谷山の町はずれに木下角いふ処有
 赤松の大木下に五輪の塔あり、前面
 束帯の像あり、大坂人の塚なりといふ
P18
 すま琴  図
   糸まき
   ばち
  琴の図 長三尺六寸


  天草の事
一すへてなかれ三拾余里東北なる内に
 瀬戸三日あり、ほん戸の渡し柳の渡し
 三角の渡りといふ、此内に柳の瀬戸にふた
 またといふ所にあなの権現といふあり、三丁
 程の山に八かう目の穴あり、拾町ゆきて
 石尊躰有り、此処に石の乳二つあり
 乳のたるごとし、ちちのなきもの立願ニて
 出る事妙なり
P18
 又この下に穴あり、先年此穴に山伏といぬ
 いりて、こころミに山伏はいでず、犬計り肥
 前の島原うんぜん嶽に出るといふ
 此瀬戸先に小島あり、これをだんかう島
 といふ、むかし天草一揆のものよりあつまり
 一揆巧たくみし処といふ

    島原の出先物の角浜
一此処にがんせき板を立たるごときの石山あり
 高さも三四丁もあり、此の八こう目に弐間四方程
 の穴あり、尤あさく内に石像の観音あり
 道なく石の合よりはいり、かつらに取り付
 てやうやう上るたれも参詣はなし、いつより
 あるといふ事も知る人なし

   薩州泉口等の事            *出水
一此処の風俗また薩州の内いへと一風あり、殿様
 かう代の時、此処の郷士弐百人ほと同じ頭に *交代
 同じ着類大小同じ色にていちれつに礼
 する処、頭首尾そろへ事異風なり、この
 事上聞にたつし、江戸にて召し出し
 預り申候、しかれハ当時薩州よふほふ
 御改の節も此れいありて今も其すかた
 むかしにかわらずと也

  長崎由来の記
一抑肥前彼杵郡、往昔は深江浦と申候処
 なり、文治頃頼朝公より長崎小太郎と
 云者にこの深江浦たまわり、鎌倉より
 下り山をひらき、谷を掘て耕作をなし
 漁夫のミなり、しかるに天文の頃右之小太郎
 孫甚左衛門と申候家来あまた扶持し
 美徳寺山の頂上に城を構へ、其武厳重
 なり、近国よりたびたび合戦するといへ共
 一度も不覚を取らず、日毎に其威盛ん
 なり、さするの尚天正のころには南蛮黒
 船渡海して商売に事よせ切支丹を
 ひろめ、まことに所地繁昌なり、甚左衛門も
 度々も進められ候へとも一向承引せず、却て
P20
 不届のやつばらなり、いちいち討取るとて
 軍勢をてしむけべしとて騒動す、然る
 ところ、町方ゟ山田甚吉といふものを頭と
 して軍勢すくつて五百余人ときを作り
 大手の門を打破りかけ入らんとせし処を、城
 中ゟ厳しく鉄砲打出し打て出、きびしく
 相戦ひ、其頃諏訪山に玉円坊といふ
 山伏、甚左衛門と心を合せ前後より町方
 勢をさしはさんでせめ、暫時の間に五十
 余人討死する也、其後甚左衛門町方へ
 をしよせ合戦におよぶ、甚左衛門の侍
 大将に鬼神十蔵、金塊坊といふ大力の
 勇士二人町方勢の内に佐賀侍高木
 甚内といふものに討とられこの手より
 敗北におよび負軍となり、城にこもり
 これより町方も甚左衛門も城厳重に
 してただぶんなんはかりを守り過申候  *無難

   肥前竜造寺隆信幕下深堀茂宅
   と町方合戦の事
P23
一天正六年寅三月茂宅手勢七百余人ニ而
 打寄、町方勢四百余人とかけ合と度々
 戦へとも其度も敗北とす、茂宅勢もせめ
 あぐみ船軍になりしかば、ふすた船といふ
 ものつくり、これに石火矢しかけ打
 出す、茂宅勢大に敗軍して其後は
 更に押し寄せず、されとも世の乱れし事な
 れば近国より長崎を手に入れんと窺
 ふものあまたなり、是によりて町方入口堀ほり
 くいをかまへ鉄砲石火矢厳重にかまへ
 相まつなり

   長崎へ初て南蛮船来る事
一天文の頃初而為商売之大隅、種ケしま
 平戸、五島、次に長崎へ来る、此地三四里も
 障事にて三国無双の湊なり、何程の
 嵐にても一切あてる事なし、是によりて
 毎年此処へ来る、大村殿より家来友永
P23
 対馬といふもの遣し、宜しき湊に取り立る
 拾九ヶ年の後天正十三年御公領と成り
 四年の間は鍋島飛騨守御預ケ置、文禄
 元年に御奉行寺沢志摩守御着、
 しかる処、天正十五年秀吉公西国島津
 大友御征伐有、御帰陣のせつ筑前の箱崎
 に御着、この時伴天連の僧御礼として
 途中にて罷出ル、右の処邪宗門のもの
 御供侍の内に両人有るよし上聞に
 達し、さっそく召捕箱崎八幡の辺ニて
 磔にかかり、伴天連のものとも品々異国へ
 追ひかへし、吉利支丹寺十一ケ寺破却
 厳しく御制禁を出し、御法度なり
 御定目は余り長しゆへ爰に略す
  秀吉公御定目写し
   定
一当所御公領被仰付候上は非分之義有之間
 敷事
P24
一公様之御公物納所申上候而横役不可有之事
一当所之儀ハ右両人ニ被仰付候間、為代官
 鍋島飛騨守願置候間、何も可成再応事
一黒船の義は前々の如くたるへき間、地下人
 ニて馳走当所江可相付事
一自然下として不謂義申懸候者有之候ハゝ
 一切承引致間敷事
 右之者相背事有之においてハ急度両人
 方へ可申越候間、堅く可申付もの也、仍如件
   天正十六年五月十八日
         戸田民部少輔勝隆
         浅野弾正少弼長政

  秀吉公御朱印

  長崎江黒船如前々之相着可致商売并
  当津地子之事口成御免除畢、猶
  弾正少弼、民部少輔可申なり
     天正十六年五月十六日
           長崎惣中
 
 有馬修理大夫長崎の沖にて南蛮船
  焼打の事
 慶長の頃島原の領主有馬修理太夫唐作之
 舟仕立、伽羅を調に広南へ渡海させ候処、なん
 蛮人居処天川に吹付られ逗留の時、南蛮人と
 口論におよび、多勢なれハみなさんせられ
 船も金も皆奪はれ候事残念に思処
 慶長十三年天川より南蛮人余多長崎へ
 商買渡す、右之処有馬殿これ究竟の事と思ひ
 江戸へうつたへ、夫より軍船にて船軍におよぶ
 ところ、石火矢にて相まハす、よつて寄り付やうも
 なき処、小舟にふなやぐらをかけ、小人数にて船に
 うつり手に当るを幸ひに切ちらし候へバ船底へ
 にげ込えん硝に火移りまことに百雷の
 如し、暫時のうちに船も南蛮人皆焼死けり
 有馬殿数年のおもひをはらし給ふ
P26
  町人浜田弥兵衛高砂渡海を得てかへる事
一寛永の頃高砂を阿蘭陀おうりよふして *横領
 住居す、しかるに寛永十四年末次平蔵  *四年
 といふもの船を同高砂に渡し、小舟を福州
 糸を求行処、阿蘭陀ども金銀を奪い取候
 言訳の為二人紅毛人を連れ来り申候、然ル処十五 *五年
 年辰春弥兵衛倅新蔵、弥兵衛弟小左衛門
 と申候は右のもの三人外に三十人程人かたらい
 舟に乗り、百姓の姿になり高砂に渡海し
 候のところ、船より上り申さず、我々はいこん
 のさしはさむものにあらず、のうさくをひらき
 われらも徳を得たきと申候へは、吟味のうへ
 上陸のところのうぐより外ハなく、紅毛人も  *農具  
 安心致し候処、半年程過訴訟かほにてかひ
 たんの前に出候処、この節ハ一向心を寛し
 居候ところをとつておさへ、高手小手にいま
 しめ浜へ出候処、余多の紅毛劔をぬきうつ
P27
 てかかる所を、小左衛門、新蔵此外のものども
 皆ぬきつれ、一同にうつて掛り、暫時に
 十四五人切りたをし候処、皆遁、石火矢をかけ
 取りすき候処に、弥兵衛大音声に申けるハ
 石火矢をはなし候ハヽかびたんをさしころす
 べしと申候へばそうなくはなし不申候
 の処、かびたんに申候て其罪を免候所
 幾重にもあやまり候へども右拾人日本へ
 連れねばならぬと申候、 左候へはかびたんの
 子息外に紅毛人役三人とかひたんとかへ申候
 黒船に乗り目出度く日本へ帰国致し候
めしうど
一阿蘭陀かひたんコンフウトヲルの子拾歳、其
 外家臣拾人とらへ来り大村へ遣し牢舎
 翌年子は病死す、外のものハ御帰し被成候なり

  南蛮船御停止之事 其後切支丹
  御制禁、南蛮、紅毛、えきりす種子いこくへ
P28
  御帰し御停止の事
一元亀元年より寛政十五年まて南蛮  *寛永
 とも解く十四年長崎へわたり、邪宗門を相
 ひろめ申候処、慶長十八年癸丑為御検使
 大久保相模守邪宗門御あらため、翌十九寅年
 御上使として山口駿河守殿、御奉行には長谷
 川左兵衛殿御下着、切支丹伴天連一どうに
 御せん儀、諸国の伴天連を合、日本をおいはら
 い、拾壱ケ寺焼払滅却ニ候、此時に御大名に高山
 右近、内藤飛騨守弐人御座候処、蛮花邪宗
 のものともといつせふ、南蛮流罪なり、尤
 親子三人なり、其後寛永三寅年、水野
 河内守御着御改、其後竹中采女殿御着
 邪宗門の余党京大さかより七拾余人
 合二百程名村八左衛門をさそそへ、天川へ流罪
 寛永十三年ニハ御奉行榊原飛騨守殿高
 橋三郎右衛門殿御下着、異国人の種子御吟味
 被成、天川へ御かへし、其外いきりす、おらん
P29
 だ弐百八十七人天川へ渡す
 此時大村ゟ警護の侍侍六十八人供廻り四百拾八人、
 足軽三百余人、惣人数八百人

 寛永十三子年被仰出候御条目左之通ニ候
一異国へ日本の船遣し候義堅停止之事
一日本人、異国へ不可遣、若忍候而渡候もの
 於有之者、其者之罪科、其船并船主共
 留置可言上事
一異国に渡り住居日本人渡来致候ハヽ
 死罪に可申付事
一切支丹之宗旨有之段、両人申遣可遂
 穿鑿事
一切支丹訴人褒賞の事
一伴天連の訴人にハ品に寄弐百枚、或三百枚
 其外此以前之如く相計可被申付事
一異国船入津致候ハヽ江戸表へ言上有之
 候ハヽ番船之義如以前、大村へ可申越候事
一伴天連之宗旨広候南蛮人其外悪名之
P30
 有之時者如以前、大村の牢へ可入置候事
一伴天連之義、船中之改迄入念可申付事
一南蛮人之子孫、日本に置ざる様堅可申付
 事、若も違背残置族於有之者死罪
 一類之者ハ科之軽重に可申付事
一南蛮人長崎ニ而産候子并母右ニ子とも内
 養子仕候族之父子等悉可為死罪、身
 命をたすけ南蛮へ遣之間、自然彼
 者之内重て日本へ来ルか、又者書通ニ而も
 致候者有之候ハヽ、本人は勿論死罪、親類之
 以下之致し候者於有之は随軽重可申付
 事
一諸品一所に買取候儀停止之事
一武士の面々、長崎出異国船荷物唐人の
 前ゟ直に買取候事停止之事
一異国船荷物之書上、江戸表へ注進之うへ
 売買可申付事
一異国船に積来候白糸直段を立候而不残
P31
 五ケ所之外書付之処へ割符可遣事
一糸之外諸色之儀、糸之直段極候て相対
 したひ売買可仕候、唐船は小舟之事に
 候間、見計可申付事
  并荷物之代銀直立候迄可為廿日
  限候事
一異国船戻候義九月廿日限着遅来船ハ着
 候而ゟ五十日限之事
  并唐船は見計□□ふねより
  少し跡ゟ出船可申付事
一異国船売残之荷物預置候義停止之事
一異国ニ付五ヶ所惣代之者長崎参着之儀
 可為長月五日限、夫ゟ遅く参候者ハ割符
 をはずして申事
一平戸へ着候船、長崎にて直段立候儀停止 
 之事
 以上
P32
       寛永十三年五月十九日  加賀守(阿部)
                   豊後守(阿部
                   伊豆守(松平)
                   讃岐守(酒井
                   大炊頭(土居)

                 榊原 飛騨守 殿
                 高橋三郎左衛門殿

  (図)
     桜島の女子毎朝鹿児島へ
     果物を売り行図
P33 (図)
 桜島ノ図

  島原天草一揆之事
一寛永十四丑年十月、島原の天草益田
 四郎といふもの邪宗旨の張本人、徒党を
 あつめ一揆を天草に起し候、其ころハ
 天草ハ寺沢兵庫の領地、居城は唐津に
 あり、名代として三宅藤兵衛、富岡の城を
 まもる、かの一揆きうにしていろいろ手だてを
 なし防といへとも、日々悪党ともまし叶ず
 して落城におよぶ、此時寺沢よりす
P34
 くひの勢来り一揆と船軍あり、一揆は
 島原の城に籠り長崎へ渡り候と申候
 ニ付、口々相かため、手くばり厳重なり
 よく二月九州大名に御下知、二月板倉殿
 御上使、よく正月元日討死し給ひ
 これによってかさねて松平伊豆守
 との、戸田左衛門殿、松平甚三郎殿御下着
 二月落城、松平伊豆守殿原の城攻
 より御帰陣、長崎へ御渡り御旅宿は
 末次平蔵宅、町年寄之者計召、島
 原一揆長崎さしこす趣申遣候ところ
 昼夜相堅大儀の御言葉、そのほか竹
 木、板、鉄砲、玉薬、細引、大工、鍛冶の類
 御用相たっし
    銀百拾壱貫六百目
一唐人通詞に頴川官兵衛と云者申上候、火
 つ木石火と申すものにて城根ほり、その穴に
 鉄玉をいこミ候へ者、大山もくづれ申候と申上
P35
 候、さつそく仕かけ、つかいみ申さんと穴ほり
 候へとも、敵方すいれうして、むかへ穴を
 ほり水をさし候間、やくにたたず候、その
 鉄砲玉今に浜にあり
  木石火矢長五間筒口渡三尺 薬百斤入ル今にあふはと湊にあり
  鉄玉目方 千拾斤 さし渡し一尺八寸廻り五尺八寸
一平戸へ着候阿蘭陀船めしよせ、石火矢
 をうたせ候へどもさかりて届き不申候
一かの浜田弥兵衛召寄、石火矢を打せ候に
 其術勝れしかハ、細川家へ弟新蔵召
 かかへと相成申候
一榊原飛騨守殿江戸へ召閉門、城の壱番のり
 なれと法やぶり候

 生国肥前宇部郡江懸村百姓甚兵衛子
 一島原一揆張本人益田四郎首
 一四郎娘首
 一四郎舅大矢野小左衛門首
 一大矢野監物首
 以上
 長崎出島大門前に獄門に懸しむ

一原の城せめ相はたらき長崎石火矢手だ
 れなり、御褒賞して銀左の通り
  一銀百枚    浜田新蔵
  一同五十枚   六永十左衛門
  一同三十枚   島屋市左衛門
  一同三十枚   薬師寺久左衛門
  一同五十枚   石火矢手伝之者共江
 以上
一秀吉公、権現様、台徳院様迄ハ異国へ
 日本より御免にて商船ニ乗り、尤御免蒙り
 ての上にて参り候、大猷院様御代、榊原
 飛騨守御在勤の堅く御停止なり
P37
 日本異国渡る船数〆九艘なり
一長崎    末次 平蔵  弐艘
       船本弥兵衛  壱艘
       荒木惣右衛門 壱艘
       糸屋弥右衛門 壱艘
一京都    茶屋四郎治郎 壱艘
       角之蔵    壱艘
       伏見屋    壱艘
一堺     伊予屋    壱艘
 
一南京   三百四十里   一南京之南蘇州 二百五十里
一浙江   三百五十里   一浙江之内寧波 三百里
一浙江之内吉州三百廿里   一浙江之内温州 三百三十里
一舟山   二百五十里   一普陀山    二百五十里
一福建之内福州 五百里  一福建之内泉州 五百七十里
一福建之内沙堤 四百三十里一広東    八百十里
一広東之内潮州 八百里  一広東之内高州 千里
一交址之内広南 千四百里 一東亭六百三十里一名高砂台湾
P38
一東京 千六百里     一東浦塞  千八百里
一占城 千七百里     一太泥   二千二百里
一六昆 二千四百里    一暹羅   二千四百里
一咬留巴 三千三百里   一莫臥爾  三千八百里 
一南蛮
一イキリス
一阿蘭陀

  (図)
  上 真岳寺  下 千地地蔵堂
P39
   (図)玉龍山福昌寺
  右上 松月亭 寺     右下 禅宗 下馬札 馬立
     本堂           龍門池
  左上 経鏡石 経堂 釈迦堂 左下 廻廊 力士 竜門橋

   島津代々墓
   竹姫君様御墓
   江戸御霊屋の通り
P40
  (図)      
  上 あた道         下 大中公社     
   松原山南林寺
   本堂、大中公社
P41
  (図)
  上 神仏に石灯篭前にあつて 下 一躰石沢山の国なり
   参詣の人くぐりて行、     御屋形内よりいづる
   所々に有           水道、町にかかる樋
                  枡共に石にて作るなり

      下巻
P4  図
 上           下
 長崎ニテ祭ノ時鉾也   オランダヤシキ風見之図
 縫者金糸
 思々之形有り
P5  長崎港図  
  諏訪宮 唐寺  奉行所  
 月見峠、浜町、丸山、唐人屋敷
  石火矢台、千人番所   石火矢台
P6  唐人、オランダ人風俗
P7 オランダ人テーブル

  邪宗門御停止之後、蛮国伴天連共渡海
  致し候、依之死罪となる
一寛永十七年辰五月十七日南蛮邪宗門之  *1640年
 者ども渡海して訴せしむの処、馬場三郎
 右衛門殿早速江戸言上す、御上使として加賀爪
 民部少輔殿八月六日被成御下着候、言上之趣、先達
 手きびしく申渡し、本国へ帰し候処、その
 趣を守らず又候致渡海候段、不届至極ニ付
 南蛮七十余人の内六十人死罪、のこる拾三人
P8
 本国へ追かへし、此趣をしらしめん為急度
 申きかせ御返し被成候

 黒船弐艘渡海の事并九州大名長崎出陣の事
一正保四丁亥年六月廿三日、黒船弐艘硫黄ケ  *1647年
 島の沖に着、馬場三郎右衛門殿通詞遣し候処
 南蛮人之余の義にあらず、商売の頼にて
 参り候、しかれども邪宗の僧は一切連参不
 申候、何分御免願参候と、先年天川よりの
 訴船御焼捨候処、此度は王の代替りにて我
 々は使者のものに候、書簡差出候、江戸表へ
 言上仕候処、御上使として七月廿三日井立筑
 後守殿、山崎権八郎殿御下着、段々御吟味の処
 船石火矢玉薬武具の類可相渡候、日本の
 法にて事相分り候迄は御取り上被申渡候へとも
 我々は王よりの使者、只成るならざるの
 返事承るまでに御座候とて、一切渡し不
 申、兎角用心の躰なり、依之九州大名国
P9 
 留主ハ軍勢引つれ、長崎町方山々海
 辺に陣取、誠に美々敷事なり、家の旗
 さしもの、幕打まハし、夜は大篝、てう
 ちん、たいまつ白昼のごとし
 一南蛮使者 ゴンザアルホウチンケイテソウサ
       トワルトデフスタアホブレイ
       ゴワ国太守幕下国守親類といふ
一御上使之趣、先年堅申付候処重而渡海之段
 其科軽からず、されども此度は御慈悲ヲ以
 御免し被成候間、重て急度参らざるやう
 申付八月六日帰帆せしむ
一黒船弐艘使者弐人人数四百六人余長サ弐拾六ニ七間、同弐拾四間ニ六間
   壱艘に石火矢弐拾挺ツヽ

   諸大名勢揃并陣所
一筑前 松平筑前守 人数一万千七百三拾人船数百三十艘  陣取 西泊戸町
一肥後 細川越中守 同壱万千三百壱人 同同同      同 外木鉢
P10
一肥前 鍋島飛騨守 人数壱満千三百五十人船百廿五艘   同 深堀高向
一柳川 立花左近将監 同三千八百七十人 同九十艘    同 □焼島
一小倉 小笠原信濃守 同千六百七十人 同六十五艘 
一唐津 寺沢兵庫頭  同三千五百人同九十艘    同内木鉢
一伊予今治松平美濃守 同千二百人同八十艘     町
一伊予松山松平隠岐守 同六千三百人同九十三艘    同
一大村 大村丹後守  同二千六百人同三十艘     同
一   高力摂津守  同二千人  戸町
  〆
  人数合五万五千五百二十八人
   船数九百六十九艘

  御老中ゟ御奉書之写
一筆ニ啓達候、黒船長崎着津去月廿八日之暁
 彼地被相越候段、高力摂津守、日根野織部、馬場
P11
 三郎右衛門注進及 上聞候、然者従彼地為使者
 渡海之由、無異義入船旁以不及行死罪、其上
 最前長崎奉行中迄相達候間、遂相談弥可被
 得、其意事不閑成よふにいたし可有之旨被
 仰出候、可得其意候、恐惶謹言
   七月十二日    阿部対馬守
            阿部豊後守
            松平伊豆守
       松平筑前守殿

一南蛮人渡海御停止厳重にして、平戸に
 有之阿蘭陀人を長崎ニうつし、異国
 船御免の外入る事をゆるさず、急度
 相守るべしとて、寛永十三辛巳年
 松平左衛門佐仰越うけ、湊口西泊戸町
 番所立、石火矢かまへ厳重なり
 千人番所
 一西泊戸町番所惣構弐百廿壱間四尺五寸
  石火矢弐拾挺、玉重壱貫八百目弐壱百目迄
P12
 一戸町番所 石火矢拾七挺
 松平筑前守月番人数千人
  番頭壱人 鉄砲大頭壱人 馬廻り壱人
  中老壱人 大組壱人  鉄砲頭四人
  船三拾壱艘 早舟十二艘

 又明暦乙未然松浦肥前守承り築之
  七ヶ所石火矢石台
 壱番 オオタブ 弐番 女神島 三番 □神島
 四番 江崎   五番 高鉾  六番 長者
 七番 陸尾
   番船被 仰付候、半ケ年かわり
 細川越中守、高力摂津守、山崎甲斐守殿なり
   付
 一早船四拾艘 早船壱艘

  阿蘭陀初而日本へ渡海の事
一慶長六七年堺の浦に着、同えきれす人
 なり、早速江戸表へ言上の処、右の船、江戸
P13
 表へ廻り候様に被仰付、依之江戸へ参る途
 中相州浦にて難風にあい、からだ計りに
 江戸へ参り候処、ヤンヨウス壱人江戸へのこし
 置、あとハ堺へ御戻しニ成る処ニ同十三年
 阿蘭陀船平戸着仕候、是は先の船参り
 候ていつこう戻らず候間、むかへの船ニ而候
 右の処御免ありてこれより後ハ平
 戸へ参り商売仕候ヤウニ被仰付候おらんだえけれす
 
   権現様御朱印のうつし
  朱印  阿蘭陀日本へ渡海之時何之浦ト雖
      為着岸不可有相違候、向後此旨無
      異義可致往来聊疎意有間敷也
        慶長十四年七月廿五日
           ちやろすくるうんへいけ
                    被下
  朱印  ゑけれす
           同
P14
  台徳院様御朱印
 阿蘭陀商船到本邦渡海之節
 縦遭風浪の難、雖令着岸日本国
 程執地、聊以不可有相違者なり
   元和元年八月十六日
     はんれいかほかわら

 御奉書のうつし
  急度申入候、阿蘭陀船出平戸如
  前々かひたん次第致商売候様に
  可被成候、不及申候得とも、伴天連之
  法不弘様堅可被仰付候、恐々謹言
   八月廿三日    土井大炊介
            安藤対馬守
            板倉伊予守
            本多上野介
        松平肥前守殿
            人々御中
 右之御朱印御奉書阿蘭陀出島屋敷に
P15
 残るかびたん所持致し申候也、後ゑけれ
 すは商利分あわずとて御免をねがい
 参らず、阿蘭陀自今に渡海いたし商売
 仕り候
 おらん陀持渡り候内金銀の小判小寄持渡も
 彼国の品にしてミな 公義へ御買上なり
 紅毛人の前ニて金吟味役人たかねにて
 打おこし改る事なり
 小判大さ日本の大判のごとし、あつさ弐三分
 あり、中にあんあれバはさミきり阿蘭陀へ渡
 すなり、外へ出事厳敷御法度なり
 銀は大銭のごとし、又拾文銭のごとし、これも
 如此に御吟味なり、むかしより此銀銭者しちう
 にとりちり今に持参り候ものままあり

   御神事の事
一元森崎権現長崎地主神、寛永二年諏訪
 明神、住吉明神合祭あり、むかしハ松森天
 神にありしを、今諏訪山に引、諏訪ハ
P16
 丸山に有りしを合祭なり、十二ケ年まてハ
 祭礼有り、神輿の渡りなし、しかるに寛永
 十二年御奉行神尾内記殿、榊原飛騨守殿
 御在勤之時被仰付、みこし弐つ出来し九月
 七日に初而渡しそめる、しかる処森崎明
 神あとにのこりましまし、正保三癸巳年
 御奉行久松備後守殿、元森崎明神ハ
 地主神なれハ神三社に致し可渡様に
 是より三社一同に此時御渡し、時御奉行も
 祭礼一日前に御着燎奉行立会にて祭
 礼見物也
    祭礼日
一九月九日祭ハ此神輿三躰大はと御旅所
 へ御渡り十一日本社へ御かへり
  九日十一日両日笠ほこおどり たんしり
                子供共ねりもの手踊り
 毎年十三町隔年半にて出る、丸山町
 より合てハ役祭りニ候
P17
 毎年壱番丸山町ゟ祭礼渡らねば渡す事
 ならず、是宮本ゆへなり、傾城やより新
 造弐人振袖にて手に扇子を持、つつみ、大
 鼓ニてうたひ、これにあわせまいをまふなり
  丸山町
    のうまい      より合町も同じ
     外三人おどり芝居引物
 一あとハ番の町よりかさほこ
 一三人ぶたいおどり
 一たんしりはやかた
 一引物いろいろ
 一子とも手をどりあまた
 一町人上下のけいこ
 長崎南海あり、東北西ぐるり山なり、山の上ハ
 寺なり、中は町屋也、橋数六十余大小の内
 石橋をふし、さし渡し拾弐丁の所なり、町
 中石多し、めくりハ一寸とゝなりにても石だん
 ありてあるく事ふじゆう也、又手中には
P18
 とりをうりあるくなり、毛引水に付目方を
 ふやし、ぬかをのどへコミうる也、あしハなし
 魚は至て安し、しび、かつほ多し、青物るい
 わるし高直なり、所は至てへんひなり
 町の名主をおとなといふ、旅人改方とうぞ
 く方唐人かゝりミな役也、盗賊なとハこの
 方よりあらためある也、 公義役同心ハ大浦
 の道に屋敷あり、是を南組と申すなり
 六ケ敷取りものは此手にて取るなり、町
 年寄古来より家四けん也、勘定改つとむ也
 外に此下役拾人有り、これハ会所吟味やく
 なり、外に大通詞、小通詞皆役人なり、其
 外地面持は皆役をつとむる也
P19
 図
 人家門口ニ張有       こしき島の図
               東西にながし
 此図本之侭
P20
  図  琉人床飾  同上
     同右    酒器    居巣之図

 ゑきりす船渡海の事
一正保の後丑五月上旬着、尤日本御証文の
 うつし、かの国ニ而日本文字を習写し
 来ると見へる、さつそく江戸表へ御届
 申上候、おらんだ人遣し踏絵之板にて
 南蛮人あらため候処、壱人もこれなく候
 ゆへ湊へ入れ、火法どうく武具を預り
 いかりをおろさせ申候、江戸表のそう
 相伝候
P21
   人数八十四人□ゑきれすかびたん
           せいもんてるほうト申候
 一船長十九間横□間四尺五寸
    深サ三間、とうの高サ四間余
 一石火矢 薬三拾五桶   一口薬桶壱勺
 一石火矢玉 六百八十余  一なまり小玉弐桶
 一鉄小玉  壱籠     一釘玉 壱桶
 一小石玉  八桶     一鉄砲四拾七丁
 一火縄なし鉄砲二十三丁  
 一劔 三百三十九越腰   一鎗十四本
 一手ほこ 十二本
   右の品々船より預り三田甚左衛門蔵に
   入る
  外に御進物に差上候積の品
 一鉄砲壱丁 筒弐つ有り、長サ五尺三寸
 一同 四丁  いろいろ六ケ敷からくりてつほう也
 一同 八丁  “
 一いか□  五つ
 右の武具てつほう、帰帆の時湊にて相渡
 薬は沖にて相渡すなり
        おらんだ通詞
            加福吉左衛門印
            本木 広太夫印
            桜井新右衛門印
            名村八左衛門印
            中島清右衛門印

  積来り候品
 一羅紗 二十八丸   一羅せいた 三十八丸
 一かへちよろ 壱丸  一ふとん 六丸
 一はれい 八丸    一さんご樹 壱箱
 一あんそくかう 四拾弐丸
 一かなきん 十丸   一もめん 四十丸
 一さらさ  十丸   一木綿嶋 廿壱丸
 一かるのふ 十丸   一薬物 八箱
 一砂糖□ 壱桶   一ろう 拾ほと
P23
 一はるしや皮 弐丸
 一花の水 拾箱   一水銀  二十六箱
 一しくしや 八桶  一びいどろ鏡  弐箱
 一すぐ   七百斤 一縮緬・りんす・さあや 八百反
 一みいら  一□  一金から皮  二箱
 一ちんた酒 一箱  一とけい 三つ
 一びいとろ盃 二おけ
 一火矢  一丁   一びいどろ道具  二箱
 一にほい玉  二箱 一火石矢  二丁
 一えけれす国絵 壱まい  すおふ 小せふ
   右はえけれすへ御尋ニ付申上候、おらんだ
 一宗門 ゑけれす   れはるめんて    同衆
     おらんだ共  けれふるめいか
           右宗旨の名に御座候
 一仏の名  がつと ゑけれす ごつと おらんだ
         右同仏ニ御座候
 右ハえけれすおらんたの仏は天性を祭り候
 かたち無之候、よつて□□はなし申候、宗門
P24
 となへるもなく候、よつて宗門をひろめ候
 事も無御座候
 右御尋に付、以書付申上候、かびたん判五人の
 通詞判ニて申上候うつし
一南蛮切支丹は悪仏五人御座候、又色々の仏名も御座有申候
 此仏を毎年正月長崎にて人にふませ申候
 至て重き事に御座候から金板にいろいろの
 死罪科人のよふなるものをほり付有之候
 右のものをあのかたにて仏と申候、南蛮の事
 も有之候得とも略す
 左の御尋の趣如斯ニ候

 ゑけれす人口書の写
一異国筋相易申候儀御座候ハヽ可申上候由と被
 仰付候、今程南蛮人日本へおもむき申儀様子
 嘗て無御座候由承申候、其上先年之様ニ方
 々へ商売船遣申候手立も無御座候之由承候
一ふらんす国より船数十七艘仕立まちはあると
 申候処へ指越し申候由、私ともははんたんに罷居
 申候時に、さうた国ニ居申候ゑけれすより
 尋被申遣候処、商売船とも軍船とも相知
 不申右之外相易儀も無御座候
一東寧の儀ハたつねに御座候、これもいつれへも
 商売船を出し不申候、先年おらんたと東寧
 と軍いたし、とうねいの方へ阿蘭陀人
 とりこと成り申候、右のおらんたかびたんより
 私船へ頼ミ、日本かびたんへ書状をはあつけら
 れ申候、あるになきくうしニ候へば何とて日本
 を頼ミ引取通しくれ候様たのミ状なり
 此状も御公義へねかひ阿蘭陀かびたんへ相渡
          やんふろむる
          けいずばるたで れいとろ
          やんふろむる
          あらきさんとろ
          へんでれき ふるひす
          あんとらにか ばんへんか
P26
          かつとうりいな
          このねりや ふるひす
         さうもんはるんてい  
         まりや はんらめいな
         そさあんな
       通詞方
         加福吉左衛門印
         富永 一兵衛印
         提林新右衛門印
         中島隆左衛門印
    東寧に罷在候阿蘭陀人日本罷
    在候カビタンニ差越申候書状の和解
    申上候写
 右書状の和解
一ゑけれす人東寧へ参り、夫ゟ日本へ参り
 候之由承り候ニ付、書状を以申入候、我々義数
 年東寧こくせんや方にとらわれ罷
P27
 在てぞんめい致しそうらへとも、万事難義仕
 候間、何とそ時節相待候へともかいなく
 今になからへ申候、本国へ罷帰候様其元
 可然様日本 公儀様御訴訟申上
          阿蘭陀人
           よはんぶろめる
   東寧ニ居候おらんた女房 けいはするため
       人家   男子よわんふろめる
            娘あらきさんとろしからべんふるく
    同       はるへいし            
           女房あんとうにかはんべんかう        
            娘 おてれんか
            同 こつぬり
            同 へれミいな
            さるもんはなるてせん
            女 まりやはんかあまい
            同 しゆさな
P28
    ゑけれす旗印御尋の事
 へんとう書
一あたらしき旗印立申候事ハ高砂に着仕候
 時、唐船のものども日本にては古き旗はた
 ハ立候事相なり不申候、これによってかの地
 にてあたらしく染かへ参り申候
一ゑけれすにては赤白筋のはた立申候
 又惣赤も立申候、十文字の印はゑけ
 れす詞にはかろすと申候     *クロス

  図
   墓と灯籠
P29
  図 霧島山之図

 天のさかほこ
  高さ八尺ほと、かく四寸ほどなり
  青さびにてうてバ金のおとする也
  ゆるゆるなり

一南蛮人は惣地赤く白青三色仕立十文字
 角違に引申候、只今に立申候ゑけれすか
 はた印また十文字ハなんはんの十文字違
 申候
 一 十文字 なんはん詞には くるうす
       おらんだ詞には くるひす
一阿蘭陀はた印ハ赤白紺三色ニ仕立申候
 右之通御座候
       おらんたかひたん
        まるていぬすせいさる
P30
   文化ころいきりす船来る
一阿蘭陀にいしゅあつて、かひたんをとりこに
 せらる、よふよふ取り事とし舟出る、石火矢
 問に合ず軍立違、奉行せつふく、鍋島へい門
 家老せつ腹、奇妙なる革舟に乗り長崎を
 あれまわり、らんぼうなそいたす

  寛政頃をろしや船来ル
一おろしや船是は商の願に来ルなり

  おらんだかひたん申上候
一長崎より女島まてハ日本の御地のよし承知
 奉り候、女島よりあなたハ首尾によりゑけれ
 す人に意趣を遂申候
   
阿蘭陀人入津の記
一文政五年午六月、上旬まつ沖島に懸置候
 遠くに慥に見へ候へは、早船ちうしんいよいよ
 たしかに候へは石火矢にて船弐艘なれば
 弐つはなち申候、右の石火矢大浦の山にて
 右の如くに放ち申候、其日石火矢を御奉行
P31
 屋敷の浦山まてはなち申候、またあやし
 きふねに候へば、見そのせつのろしを上ケ申候
 前のごとく段々請次九州中へ次申候、右の節
 九州諸大名相詰申候、右の節用意に御屋敷
 役人を詰させ置申候、常阿蘭陀入船のせつ
 は、さして用意もこれなし、されども黒田鍋島
 両家月番之節、早々早おい大騒動に御座候
 直に戸町かうたい玉薬まて旗のほり、さし  *交代
 物相立申候て役人手勢引連相詰申候、誠に
 早き事ニ候、頭役のもの鎧陣羽織はち巻
 陣笠にてしよふきに掛り、石火矢場台奉  *床几
 行腹巻にて、役人足軽人数引相詰申
 阿蘭陀入津沖入口石火矢六ツ、戸町大番所
 前六ツ、高島にて六ツ、それより出島まへにて
 放ち申候、右から石火矢ニて候へとも、けんぶつ
 舟、引舟ヲを以申候、先年石火矢けむり先
 にて船壱そう打しづめ申候、せんとう打
 弐人打ころし申候、右ハ怪我にて候、おらんだ
P32
 よりそれぞれにあてがいを遣申候

    かびたん座敷部屋の記
一玄関ちゃんぬり六青ぬり図のごとしにうへ
 すまいなり、広間中の間戸障子きやま
 ん障子板、くしほねハ緑青白ぬり、うるし
 なし、あふらぬり、ミつたの油なり、かべ天上赤
 紅たから紙、ぎやまんとうろう□か玉はんのかく
 あまた掛ケ、さいすこし掛、はんた四尺弐間程
 まごとにびろふどのしとね、きよくろく
 は床のかハりねとこなり、上段へかさるなり
 其わきに高き台にぎやまんとくり色
 々のうつわ酒もり道具、つくり花鳥の類
 をかざるなり
一医師は長崎かいりよういしにちかいなし
 間道具も日本にて有あふ道ぐにちがいなし
一食物は丸たきほうてうにて切ル、かぎにか
 け食しする、あふら、さとうハさしてのむ也
P33
 めしハかの国の米、日本のむきよりかたし
 右を少しツヽしょくする也、惣しておらんだ
 からともに座敷にねとこひかさるなり、お
 らんたは図の通り、清国は日本の戸棚の
 ごとし、其上にりんずどんすのふとん弐三枚
 しいて角にもたたミてかさり置なり、とこの
 間はこれなり、又清人屋敷の中は町の
 如し、八百屋、とうふや、かしや、酒屋、
 諸職人のミせ有り

   高島の社
一湊入口の高島にから島大明神にゆう神
 あり、これ稲荷の社なり、此社参り金五拾両
 入用の節はそれたけのがんを懸けるに、其
 月の内に五拾両手に入なれども、何月何日
 迄の証文納る、其日限まちがへず大きに
 わさわいにあふといふ、たれあつて願かける
 ものをきかず、むかしより言伝へなり

   松平図書頭様御在勤
P34
一文化五辰年八月十五日辰刻、野母の遠見
 より白帆壱艘見出し注進仕ニ付、旗合
 御身届御検使として熊谷与十郎、花井
 常蔵殿、通詞吉雄六治郎、猪俣金次郎
 植村作七郎、阿蘭陀人筆者ほうせまんト
 しきんむり、おらんたはた合せんかくの通り
 仕候処、かの本船より小舟あまたこぎ出し
 右之旗合阿蘭陀人とうとう先方船へのせ
 漕出し申候、尤いつれも船に鉄砲、石火矢、劔
 をもち切らし申候、右ニ付大変ニ相成おら
 んたかひたんはへんてれきどうふ
 御朱印を持護し、立山御屋しきへ立
 のき申候、段々ひやう義御座候間、いろいろに *評議
 両人取返しの御手当、黒船御引留之御仕
 度有之候へとも、一切問ニ合不申す、是非なく右
 たきぎ、牛、菜、ぶたとうをくり右両人ようよう
 とり返し申候
  御尋
 最初相尋候処、支那仕出しと申候、又弁
 柄も申候、船長サ凡三拾間程ニ相見江申候
 石火矢は一方弐拾挺余も御座候
 旗は一切立不申候、人数はいづれ弐百人も
 御座候、言葉ハえけれす言葉に御座候
 船の造り至て丈夫ニ御座候、大小鉄砲火矢
 抜身やり、けん等かざり、右火矢両脇へ弐人ツヽ
 附添、それとみれば打出し申候手くハりニ御座候
 船主は至て若年ものに御座候

  終