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薩隅日の各城の由緒(都城島津邸文書) 現代文訳及び註
(前頁欠)
 清水姫木城主税所氏、肥後国求麻城主   *P1
 相良氏ヲ相謀、曽於郡へ引入致御敵候付 
 氏久公咲隈江三年御在城被成、姫木之城
 御治罸被成候、右城地ハ正八幡宮上之山ニ而
 御座候
(前頁欠)
 清水姫木の城主税所氏は肥後国求麻(現人吉市)城主である相良氏に計り、曽於郡へ軍勢を引入れたので、6代守護の氏久公は咲隈に3年間在城して、姫木城を攻めた。 この城地は正八幡の山の上にある。

註 姫木城: 現霧島市国分、 咲隈: 現霧島市隼人町
  鹿児島郡鹿児島
一清水城 或本城               
 元久公大姶良ニ而御誕生、其後志布志内城ニ  
 被成御座 氏久公御逝去以後、至徳年 
 間清水城江 元久公被成御移、 久豊公  *P2
 忠国公・忠昌公・忠治公・忠隆公・貴久公   
 至御若年之時暫被成御座候、右城地ハ当大
 奥寺上之山ニ而御座候
     清水城或は本城  現鹿児島市清水町
  7代大隅国守護の元久公は大姶良(現鹿屋市大姶良)で誕生したが、其後志布志城に居住し6代太守氏久公の逝去後、至徳年間〔1384-87)に清水城へ移った。 其後久豊公(8代)忠国公(9代)公忠昌(11代)忠治公(12代)忠隆公(13代)及び貴久公(15代)の若い時の居城となった。 此城地は今の大奥寺の上の山にある。
  諸県郡穆佐                 
一高城
 右城地八代太守久豊公御次男ニ而被成御
 座候内、日州之為押、高城御座城ニ而九代
 太守忠国公御誕生之地ニ而御座候
    高城   現宮崎市高岡町
  この城域は氏久の二男で後に8代太守となる久豊公が日向国の押さえの為在城した。 高城で後の9代太守忠国公が生れた。

註:時代により多少異なるが、鎌倉時代から室町時代にかけて島津家が薩摩国、大隅国、日向国(諸県郡)の守護職(すごしき)を称した。
  日置郡
一伊集院                   
 右城地大永七年 貴久公清水城御退     
 去ニ而田布施江被成御座、天文十四年      
 貴久公守護職被遊御座候而、暫此城地ニ被成
 御座候
    伊集院  現日置市伊集院
  
1527年15代守護職となる貴久公が清水城から撤退して田布施城に移り、1545年守護職を引き継いだ後も暫くこの伊集院に滞在した。

註: 島津(伊作家)の貴久は14代太守〔勝久)の養子となり、島津本家(奥州家)を引き継ぐ事になっていたが、一族の薩州家島津実久の反対で清水城から撤退を余儀なくされた。
  鹿児島
一本御内
 貴久公天文十九年伊集院城より本御内へ  *P3
 御移、夫ゟ 龍伯公・家久公御両公被成御座候
    鹿児島本城(清水城) 現鹿児島市清水町
 
15代太守貴久公は1550年に伊集院から本城へ移り、義久公(16代当主)及び家久公(18代、初代藩主)も在城した。

註: 家久公: 義久(龍伯)の弟も家久だが、ここでは忠恒(後家久改名)と思われる。
 
   諸県郡
一飯野城
 右城地永禄七年 維新公、伊東家為押
 御移、加久藤江者御簾中被成御座候、加久藤者
 家久公御誕生之地ニ而御座候
    飯野城   現えびの市原田
 
1564年、この城に義弘公が日向の伊東家の押さえの為に移り、西隣の加久藤城に妻子を住まわせた。 加久藤は18代当主となる家久公(初め忠恒、後家久に改名)誕生の地である。

註: 忠恒〔後の島津家久、初代薩摩藩主)は義弘の子。
  姶良郡帖佐                 
一岩剣城
 天文廿三年 貴久公、渋谷氏之與党被     
 成御治伐、右城地江 義弘公三年被成御座候
    岩剣城   現姶良市平松
 
1554年に貴久公が渋谷氏の一族を征伐した時、この城に義弘公が3年在城した。

註: 渋谷党は 相模の渋谷氏を祖とし鎌倉時代初期薩摩に移住した一族で大隅の薩摩よりに領地を持つ豪族。 鶴田・入来院・祁答院・東郷・高城の各氏
  桑原郡
一栗野城                   
 右城地 義弘公天正十七年飯野ゟ御移     
 此城より朝鮮国江被成御出陣候
    栗野城   現姶良郡涌水町
  
この城地は1589年に義弘公が飯野より移り、爰から朝鮮国へ出陣した。

註: 文禄・慶長の役:秀吉の朝鮮国侵攻(1592-1598)
  姶良郡
一帖佐
 文禄四年 義弘公朝鮮国ゟ御帰朝、此冬    
 栗野ゟ御屋敷構ニ而帖佐ニ被成御移、慶  *P4
 長二年再朝鮮国江帖佐ゟ御渡楫、其後御
 帰朝之節、同所平松江暫被成御座候
    帖佐    姶良市鍋倉
  1
595年義弘公が朝鮮より帰国、この冬栗野よりこの屋敷構の帖佐に移った。 1597年には再び朝鮮国へこの帖佐より渡航。 帰朝時暫く同所平松に滞在した。

註:九州全土を制覇しかけた島津家は1587年秀吉の九州征伐で敗れ、当主義久には薩摩一国、弟義弘には大隅一国、義弘の子久保に日向国諸県郡が与えられた。
  曽於郡国分之内浜市           
一富隈
 文禄四年 龍伯公鹿児島本御内を        
 家久公江被譲進、御屋敷構ニ而富隈江被成御移候
    富隈   現霧島市隼人町
 
1594年 龍伯公(義久)は鹿児島の本城を家久公(18代当主となる忠恒)に譲り、屋敷構えの富隈へ移った。

註:中世の山城に対して平地の城(平城)を屋敷構と称したと思われる
  鹿児島上之山
一当御城
 慶長七年 家久公、山下江御屋敷構ニ而本   
 御内ゟ被成御移候
    当御城(鶴丸城)  現鹿児島市内城山下
 
1602年家久公(忠恒)が城山下に屋敷構えで清水城より移る。

註: 関が原(1600)後家久が城山下に1601年から築城1604完成
  曽於郡国分
一新城
 右城地慶長十年山下ニ御屋敷構ニ而 龍伯公  
 富隈より被成御移候
    新城    現霧島市国分
  
この城は1605年に屋敷構えで新築、龍伯公(義久)が富隈から移ってきた。

註: 国分新城、国分御屋形
  姶良郡
一加治木                 
 慶長十二年之冬 義弘公帖佐平松ゟ        
 御屋敷構ニて加治木江被成御移候       *P5
    加治木   現姶良市加治木町  
  
1607年義弘公が帖佐平松から屋敷構えで加治木に移った

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  阿多郡
一伊作城                  
 右城地代々伊作家之城地ニ而 日新公
 龍伯公此城ニ而御降誕ニ而御座候 
    伊作城   現日置市吹上
  この城は代々伊作島津家の城であり日新公(島津忠良)、龍伯公〔義久)はこの城で生れた。

註: 島津忠良は貴久の父、義久・義弘の祖父。 守護大名島津家を戦国大名として再生した島津家中興の祖と言われる。
  阿多郡                           
一田布施城                  
 阿多・田布施・高橋者 忠国公之長庶子    
 相模守友久之領地ニ而御座候、友久之嫡子相
 模守運久入道一瓢後嗣無之、伊作叉四郎
 善久之嫡男ニ相模守忠良 日新公養子に 
 被成御成、伊作・阿多・田布施・高橋此四ケ所 全
 御領地ニ罷成、田布施城者 貴久公御      
 誕生之地ニて御座候
    田布施城    現南さつま市金峰町
  阿多・田布施・高橋は忠国公の長庶子である相模守友久の領地だった。 友久の嫡子である相模守運久入道には跡継ぎが無かったので、伊作叉四郎善久の嫡男である相模守忠良(後の日新公)が養子に入った。 そこで伊作・阿多・田布施・高橋の四ケ所全てが日新公の領地となった。 田布施城は貴久公の誕生の地である

註: 忠国:第九代太守
日新斎(島津忠良)の出自、 伊作島津家と相模島津家双方継ぐ。
  川辺郡                  
一加世田城
 右城地ハ薩州家代々領之、天文七年     
 島津実久之従軍 日新公ニ相背、加世田城ニ *P6
 楯籠候ニ付被成御治伐、夫ゟ御領地ニ罷成
 日新公右城地之脇江御屋敷ニ而被成御移候
 右之通 御元祖以来御居城所々御移御座候
 且又 日新公御居城迄も書加候
    御代々御戦場御由緒之治
    加世田城   現さつま市加世田
 
この城地は薩州家島津の代々の領地だったが、1538年島津実久の一味が日新公に背き、加世田城に立て籠もったので征伐された。それ以後日新公の領地になったので、この城の脇に屋敷を作り移った。

註: 島津忠良は嫡子貴久を島津本家(奥州家)の勝久(第14代)の養子とすべく工作したが、薩州家の島津実久と本家相続争いとなった。 結果的に忠良が勝利し貴久が第15代となる。
  隅州肝月郡百引之内平房          
一加瀬田城
 〇建武三年宮方肝月八郎兼重・同彦太郎   
  兼隆以下與党人楯籠候処、五月六日五代
  太守貞久公御大将ニて被遊御発向、御合戦
  御軍労有之候
    加瀬田城  現鹿屋市輝北町
 
1336年宮方(後醍醐天皇)に付いた肝付八郎兼重・同彦太郎兼隆以下の一族が立てこもる加世田城を、武家側(足利尊氏)につく5代太守の貞久公が攻めて合戦があった。

註:鎌倉幕府滅亡し親政による建武の中興後、足利尊氏の幕府と北朝樹立は南北朝の対立となり、全国的に宮方、幕府方と別れ騒乱となる。 薩摩・大隅では島津家はほぼ幕府方、肝付家、渋谷党など宮方、日向伊東家は宮方だった。
   薩州薩摩郡平佐之内天辰          
一碇山城
 〇太守貞久公御在城かと相見得申候歴応二年 
  六月廿二日、薩摩国南方之御敵并渋谷之
  人々押寄、散々及合戦候、御敵已城壁責候 *P7
  節、新田八幡山ゟ鍋之音二三度寄手凶徒
  之内ニ笛音入、其時神慮令然候哉、守護方之
  軍勢乗勝、致合戦候間、凶徒等打負引退候由
  文書之内歴然ニ相見え申候
 〇師久公当城ニ被遊御在城候処、文和四年十月 
  廿二日、凶徒和泉庄名主等并牛屎左近将監  
  在国司入道以下、以多勢寄来一日一夜御合
  戦有之、師久公三ヶ所被負御手候
    碇山城    現薩摩川内市天辰
 
〇太守貞久公が在城したと思われる1339年6月22日に薩摩南方の敵と渋谷一党が攻め寄せ戦いとなった。 敵が城壁に迫ると新田八幡山の方から物音がして、寄手がひるむ隙に守護方が優勢となり、敵は退散したとの記録がある。
 
 〇六代薩摩国守護の師久公が当城に滞在中、1355年10月
22日、和泉庄の名主や牛屎左近将監らが多勢攻寄せ合戦があり、師久公は三ヶ所疵を負った。


第5代太守貞久は6代大隅国守護職を4男氏久(奥州家)、6代薩摩国守護職を3男師久(総州家)に引き継いだ。 南北朝の統一がなされた次代以後、島津家内の争いの元となる。
  薩州日置郡                
一伊集院
一宇治城伊集院本城を一宇治城と申候哉と考申候、
 究而相知れ申候
 〇貞久公御代歴応三年八月一宇治城御退治   
  被遊候、右之後伊集院者伊集院家代々伝領
  仕候処、伊集院大隅守煕久陰謀致露顕候
  宝徳三年二月廿四日、九代之 太守忠国公 *P8
  被遊御退治、煕久他邦江致出奔候
 〇天文五年三州擾乱之節、伊集院城主町    
  田中務少輔久用と島津八郎左衛門尉実久ニ候而
  不随 忠良ニ
日新様御事候故、三月七日 忠良公一
  万余騎之兵を被率、伊集院之城を御襲
  取被遊候
    伊集院、一宇治城  現日置市伊集院町
  伊集院本城を一宇治城と云ったと思われる
 〇貞久公の時代1340年に一宇治城を攻め落とした。 以後この城は代々伊集院家の物として伝えられた。 ところが伊集院大隅守煕久の謀叛が明らかになり、1451年2月24日、9代太守忠国公が攻め、煕久は他国へ逃れた。

 〇1536年薩摩、大隅、日向に起きた騒乱で、伊集院城主の町田中務少輔久用は島津八郎左衛門尉実久に与し、日新公(忠良)に従わないので忠良は同3月7日一万余騎を率いて伊集院城を攻め取った。

註: 三州擾乱: 島津本家(総州家)の家督をめぐる島津忠良(伊作家)と実久(薩州家)の争いで、薩・隅・日三国の地頭達が忠良派と実久派に分かれた。
  薩州日置郡
一市来城                   
 〇当城市来氏代々居城ニ而候、 貞久公御代歴  
  応三年八月被遊御退治候、寛正三年市   
  来筑前守久家代ニ相背候故、十代之
  太守立久公被成御責、市来家没落仕候
  左候而同年龍雲寺被遊御建候
 〇天文八年島津実久之族守之候付、同六月    
  十七日貴久公御大将ニて即日平城御陥候而 
*P9
  御陣営ニ被遊候、本城堅固ニ相守、於大日寺口
  湯田口毎ニ合戦有之、味方究竟之衆遂戦死候 
  城中之兵終ニ者勇気撓、力衰候而乞和、島津
  越前守・新納常陸介以下致退去、九月朔日
  於本城ニ御勝土吐気被執行候     
    市来城    現日置市市来町
 
〇この城は代々市来氏の居城であり、貞久公の時代1340年に攻めた。 その後1462年に市来筑前守久家の代に守護に背いたので10代太守の立久公が攻め市来家は没落した。 そのような訳で同年龍雲寺を立久が建立した。

 〇1539年には島津実久の一族がこの城を守っていたが、同年6月17日貴久公が大将として出陣し、支城である平城を即日攻落し、そこを陣営とした。 市来本城は守りが固く、大日寺口、湯田口で合戦があり、味方の屈強の者が戦死した、 しかし城中の兵士も終には力尽き、和を乞い島津越前守や新納常陸介は退去した。 9月1日同本城を占拠して勝どきを挙げた。

註:島津伊作家(忠良・貴久父子)と島津薩州家(実久)の宗家の座をめぐる争い。

  同所
一平城
 〇伊集院助三郎忠国以下之凶徒為御退治、歴
  応四年八月十五日 貞久公平城江被遊御発向候   
    平城      市来城に同じ  
 
〇1341年8月15日、伊集院助三郎忠国以下の反徒(宮方か)を攻める為、貞久公がこの城に軍勢を送った。

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  薩州鹿児島郡鹿児島
一東福寺城
 〇貞久公御代、歴応三年八月凶徒肝月八郎兼
   重・中村弾正忠秀純等楯籠候故、至翌年四
   月廿六日被遊御責落候
    東福寺城  現鹿児島市内
 
〇貞久公の時代1340年に肝付八郎兼重・中村弾正忠秀純等〔宮方か?)が立てこもったので翌1341年に攻落した。
  同所
一尾頸小城(
浜崎の城共申、当時多賀社有之所ニて候*P10
 〇歴応
四年四月廿八日東福寺城同前ニ被成御攻落候 
    尾頸小城  現鹿児島市内
 
浜崎の城とも言い、現在〔江戸時代)は多賀社がある場所である
 〇1341年4月28日、東福寺城と同時に攻落した
  同所
一催馬楽城
 〇貞久公御代、矢上左衛門五郎高純楯籠、致御敵候
  故歴応
四年四月一日ゟ同十六日いたり被遊御攻落候
 〇同御代康永二年九月十日より相囲催馬楽   
  城、同十一月七日之夜迄被陥之候
    催馬楽城  現鹿児島市内
 
〇貞久公の時代に矢上左衛門五郎高純が立てこもり、敵対したので、1342年4月1日から同16日にかけて攻落した。

 〇同じく1343年9月10日より11月7日夜にかけて、催馬楽城を取囲み攻落した。

  同所
一鹿児島本城 清水之城共申候
 〇歴応三年八月凶徒楯籠候故 貞久公被成御 
  発向候
 〇清水之城者七代太守 元久公御代より御居城
  ニ而候処、応永廿年十二月凶徒為御退治 久豊公
  当城ゟ菱刈表江御発向、吉田迄被遊御越候時
  伊集院頼久伺其隙、城中之下部ニ内通之者
  在之、同七日竊に頼久之兵ヲ城中ニ引入候故、□□   *P11
  粉骨相戦候得共纔之人数ニ而不相叶、城被攻落候
  かために灰燼と罷成候 久豊公於吉田、右之旨
  被聞召付、即刻被成御打立、吉田若狭守・蒲生
  美濃守手勢引率致御供、鹿児島被遊御帰候
  得共、頼久者最早原良ニ陣取罷在、鹿児島ニ相
  残留候兵者東福寺之古城ニ走集、為罷□□
  左候而同十三日原良・小野ニ御発向被成□□
  四郎カ之坂之敵ニ対、各争雌雄致奮戦候、味方
  乗勝小野・原良ニ逼、頼久已力褐、及自殺候
  処、吉田若狭守・蒲生美濃守 久豊公ニ舂訴候而
  頼久之命被成御助候
 〇天文四年島津実久之徒党、鹿児島江乱入
  致放火候故、 勝久公清水城被成御没落候故
  実久暫鹿児島江致押領候事
    鹿児島本城(清水城とも) 現鹿児島市内
 〇1340年8月、反徒が立てこもったので貞久公が出陣した。

 〇清水城には7代太守の元久公から居城となった。 8代太守久豊公が1413年12月反徒を退治するためこの城から菱刈へ出陣し、吉田迄来たところ、伊集院頼久が城中に入れていた内通者の手引きで、同7日兵を城中に引き入れた。 城兵は必死に戦ったが多勢に無勢で城は灰燼となった。
  久豊公は吉田でこの事を聞き、即刻吉田若狭守と蒲生美濃守の手勢も率いて鹿児島に戻ったが、頼久は早くも原良に陣を構えている。 守護側は鹿児島に残っている兵を東福寺の古城に集め、同13日原良・小野に向けて出陣、途中四郎坂の敵に対し各々雌雄を争い奮戦し、勝に乗じて小野・原良に迫った。 頼久は力尽き自決しようとしたが、吉田若狭守や蒲生美濃守が久豊公にとりなし、頼久は助けられた。

 〇1535年島津実久の一味が鹿児島に乱入し放火に及んだので14代太守の勝久公は清水城を退去したので、実久が暫く鹿児島を占拠した。


1.7代守護元久の後継として、伊集院頼久の息子(熙久、元久の甥)を立てるべく元久と取極めていたと言われる。 しかし元久の弟久豊が元久の死後強引に守護となった事から、頼久と久豊の争いとなった。
2.14代守護勝久は島津忠良の息子貴久を養子としたが、それに反対する島津実久〔薩州家)に追われた。

  同所                          *P12
一野本
一原良
 〇畠山治部太輔直顕
或国長右両所江陣取候故六代之
  太守氏久公御対陣被遊候、直顕之軍中多田七 
  郎と名乗候て島津殿山田弥九郎江致見参
  度由申候付、弥九郎進ゟ稍(やや)相戦候処、両陣
  之軍士両人を双方江引取候
    野本・原良    現鹿児島市内
 〇畠山治部太輔直顕(或は国長)はこの両所に布陣したので、6代太守の氏久公も対陣した。 直顕の軍中より多田七郎と名乗る武士が島津殿の山田弥九郎と一騎打ちをしたいと言うので、弥九郎が進み出て暫く戦ったが、両陣営の者達が二人を双方に引き戻した。


畠山直顕: 室町幕府より日向国守護職として赴任したが大隅にも範囲が及び、島津氏久と競合した。
  薩州谿山郡                 
一谷山城
 〇貞久公為凶徒御退治、歴応五年八月五日当  
  城江御発向被遊御合戦候
 〇谷山氏致伝領候処 元久公御代守護意趣   
  相背候故被加誅伐、谷山百八拾町、喜入四十
  町、指宿四拾町守護領ニ罷成候
 〇応永廿四年伊集院弾正少弼頼久□□□  *P13
  山崎へ在城相背候故、八代之 太守久豊公以大軍
  被成御責候付、防禦不相叶、乞降下城仕、伊
  集院ニ致退去候
 〇島津薩摩守用久籠谷山城、敵対ニ付、十代
  太守立久公御責被成、用久難儀火急ニ候所
  新納近江守忠臣ゟ被申上和睦相調候
    谷山城    現鹿児島市谷山
 〇貞久公が反徒退治の為1342年8月5日この城を攻撃した。

 〇谷山氏が代々伝領してきたが、守護元久公の意趣に反した為征伐され、谷山180町、喜入40町、指宿40町が守護領になった。

 〇1417年伊集院弾正少頼久が背いたので8代太守久豊公は大軍で攻めたので防ぎきれず降伏し、伊集院に退去した。

 〇島津薩摩守用久が谷山城に篭り敵対したので、10代太守立久公が攻めた。 用久は苦境に陥ったが新納近江守忠臣の取成しで和睦が調った。

註: 島津薩摩守用久: 8代太守久豊の子、島津薩州家祖、
薩州家5代目の実久が伊作島津家(忠良)と島津本家の座をめぐり争う。
  薩州出水郡出水                
一知色城
 〇貞久公御代文和三年六月 師久公知色城を
  御責落被成候、此時 師久公被蒙御疵候
    知色城    現出水市
 
〇貞久公の時代、1354年6月に師久公は知色城を攻落したが、その時負傷した。

註: 師久:六代(相州家)薩摩守護、六代・七代は薩摩・大隅で並立
  同所
一尾崎城
 〇凶徒和泉知色彦三郎入道行覚楯篭候
  故、文和三年六月十二日 師久公尾崎城御  
  責落被成、味方軍勢被入宮候処、牛屎左近将
  監高元并肥後葦北之凶徒等、和泉之御敵江
  相加り 師久公御陣江押寄致合戦候
     *P14
    尾崎城    現出水市
 
〇反徒和泉知色彦三郎入道行覚が立てこもったので1354年6月12日、師久公は尾崎城を攻落した。 味方軍勢が城に入ったところ牛屎左近将監高元、肥後葦北の反徒などが、敵の和泉入道等に加勢して師久公の陣へ押寄せて合戦となった。

註: 幕府〔北朝)を支持する島津家と宮方(南朝)を支持する国人衆(豪族、地頭)との戦い。
  薩州薩摩郡      
一櫛木之城
 〇貞久公御代三條之侍従并市来太郎左衛門尉
  鮫島彦次郎入道・知覧四郎・左当彦次郎□□□
  九月二日 師久公被成御発向、五ヶ月御合戦ニ而
  御敵追退被成候               
    櫛木之城  現いちき串木野市
 
〇貞久公の時代に三條の侍従、市来太郎左衛門尉、鮫島彦次郎入道、知覧四郎、左当彦次郎等を征伐の為9月2日師久公出陣し、五ヶ月の戦闘の後敵を退けた。

註: 南朝側の豪族と島津家の戦い
  薩州薩摩郡隈之城                     
一宮里城                   
 〇貞和元年三月三日於当城 師久公御合戦在之候 
    宮里城    現薩摩川内市宮里町 
 〇1345年3月3日、この城で師久公が合戦を行った。
  薩州薩摩郡高江      
一峯城
 〇師久公峯城を築、軍勢を篭令守之、然処入来
  院弾正少弼重門、率大軍囲責候事甚候、重
  門城壁ニ攻登候處を城内ゟ大石ヲ投、重門之
  甲之鉢を打砕、立
(タチドコロニ)大将ヲ打亡申候、
  此時味方ニ究竟之城主数十人遂戦死候
    峯城     現薩摩川内市高江町
 
〇師久公はこの城を築き、軍勢を置き護らせた。 そこへ入来院弾正少弼重門が大軍を率いて激しく攻めた。 重門が城壁に攻め登ろうとする所に城内より大石を投げたところ重門の甲を打ち砕き大将が即死した。 此時味方にも屈強の者十数人が戦死した。

註: 宮方、武家方〔幕府)の戦い

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  隅州大隅郡垂水海潟村            *P15
一崎山城
 〇肥後庄太郎種顕・同弟庄次郎種久事、畠山修
理亮直顕に致同意、文和四年四月五日、兇徒
と当城ニ引入候而、不被移時刻 氏久公被成御
発向御責罷成候 
     崎山城     現垂水市海潟
 〇肥後庄太郎種顕と同弟庄次郎種久は畠山修理亮直顕と同盟し、1355年4月5日敵を当城に引き入れたので時を移さず氏久公が出陣し攻落した。

註:畠山直顕は足利幕府から日向の守護に任じられたが大隅守護の島津氏久としばしば境界で競合した。 
  薩州出水郡山門院和泉
一木牟礼城
 〇忠久公より 貞久公迄御居城ニ而候、 貞久公
  御代文和四年四月廿六日之夜、薩摩之国之凶徒 
  牛屎左近将監高元・市来新左衛門尉氏家
  東郷蔵人道義・肥後葦北庄之宮方旁
  和泉庄下司諸太郎兵衛尉政保以下ニ引
  合当城ニ忍入候故、御合戦及難儀候 
 〇師久公之嫡孫播磨守守久在山門院□□□
  久豊公御子叉三郎 貴久公を大将ニ被成 
  軍勢出被遂被成御退治、守久防禦力尽、肥*P16
  後州ニ出奔有之、 山門院 久豊公御手ニ入候
    木牟礼城     現出水市高野尾町
 
〇この城は初代守護忠久公より 5代貞久公迄の居城である。 貞久公の時代、1355年4月26日の夜、薩摩の国の反徒牛屎左近将監高元、市来新左衛門尉氏家、東郷蔵人道義肥後葦北庄之宮方旁、和泉庄下司諸太郎兵衛尉政保等に率いられた軍勢が当城を攻撃したので、島津側は苦戦を強いられた。

 〇師久公の孫である播磨守守久が山門院に立てこもったので、久豊公の子叉三郎(貴久、後の第9代忠国公)を大将にして軍勢を向け退治した。 守久は防ぎ切れず肥後国を出奔した。 依って山門院(現出水市)は久豊公の手に入った。


1.貞久の時代は武家方(北朝)と宮方(南朝)争い
2.久豊の時代は島津家内部(奥州家と総州家)の争いの余波か
  隅州肝付郡
一大姶良内城                 
 〇凶徒肝月八郎兼重之弟、肝月五郎九郎内
  城ニ致居住候処、同所浜田・横山・完目・大姶良四
  ケ村之長 氏久公ニ内通仕候儀、五郎九郎承付
  横山之城ヲ責候、浜田氏者遂戦死候、完目
  氏ハ漸遁出候間、路辺之林間隠居、五郎九郎
  勝軍ニ而致油断罷帰り候処を完目某、五郎
  九郎を馬より下に切落打取候
 〇氏久公大姶良城御陥被成、次ニ同所末次之城を 
  御責落被成候、此時当所市場ニて御合戦在
  之候、右市場者当時士小路之上東二三町余り
  畠ニ而御座候、古来町屋之儀を市場と唱申候、
  左候而氏久公大姶良城被遊御在城候
    *P17
    大姶良内城    現鹿屋市大姶良
 〇反徒肝月八郎兼重の弟、肝月五郎九郎は大姶良の内城に居住していたが、同所浜田、横山、完目、大姶良四ケ村の長が6代大隅守護の氏久公に内通している事を五郎九郎が気付き、横山の城を攻めた。 浜田氏は戦死し、完目氏は逃げて途中の林に隠れていた。 そこへ五郎九郎が勝ち戦で油断して帰るので、完目某が馬上の五郎九郎を切落とし打取った。

 〇氏久公は大姶良城を落とした後、同所末次城を攻落した。 この時同所の市場で戦闘があった。 この市場は現在(江戸時代)の士小路の上東に220-330メートル程の畑の中である。 昔の町屋の事を市場と云った。 斯くして氏久公は大姶良城に滞在した。

註: 大隅の豪族肝付家は南朝方に付き、北朝側の島津家と対立していた。
  同所
一末次城
 〇氏久公当城御責取被成、山田加賀守忠経を被
  召置候
    末次城     現鹿屋市
 
〇氏久公はこの城を攻め取り、山田加賀守忠経を城主とした。
  同所
一西俣城
 〇氏久公右同時御責取被遊、本田信濃守重親ニ
  被召置候
    西俣城     現鹿屋市西俣
 
〇氏久公はこの城も同時期攻め取り、本田信濃守重親を城主とした。
  隅州曽於郡末吉         
一国合原
 〇延文四年十月五日 氏久公志布志ゟ末吉南之郷江 
  御発向之時、凶徒相良氏・北原氏於当所御合
  戦有之、御難儀ニ而御一族佐多左馬助忠亘
  同彦四郎兄弟戦死ニて候
 〇天文之比北郷家、肝月家於此所致合戦候
    国合原    現曽於市末吉
 
〇1359年10月5日、氏久公は志布志より末吉・南郷へ出陣し、当地で反徒相良氏及び北原氏と合戦した。 苦戦であり一族の佐多左馬助忠亘、同彦四郎兄弟が戦死した。
 〇天文の頃(1532-1555)、北郷家と肝付家がここで合戦をした。

註: 相良家:南肥後(人吉)の地頭、 北原氏:肝付家の一族で真幸院(諸県西部)の豪族、 北郷家:島津家の分家で都城付近の地頭
  同所岩川
一手取城
 〇岩川氏住職ニて 氏久公御責落被成候
     手取城     現曽於市大隅町
 
〇岩川氏が城主だったが氏久公が攻落した。
  日州諸県郡志布志                 *P18
一遭原城                
 〇求仁卿氏居城ニて候、 氏久公御責落被成候
     遭原城     現志布志市有明町
 
〇求仁卿氏の居城だったが氏久公が攻落した。
  隅州姶良郡帖佐                 
一萩峯城
 〇畠山治部太輔直顕之執事、野本藤次彦安
  篭之候を 氏久公之軍囲責候処、溝辺城ニて
  氏久公之執事本田信濃守重親籠居、畠山
  之軍責之、両城共ニ及難儀候故、両方互ニ和談
  を以両城之囲を解候
     萩峯城     現姶良市
 
〇畠山治部太輔直顕の執事である野本藤次彦安が立てこもり、氏久公が城を包囲して攻めていた。 一方溝部城では氏久公の執事である本田信濃守重親が畠山軍に攻められ、両城とも苦戦しているので、双方が和談に持込み互いに囲みを解いた。
  同所
一溝辺城                     
 〇氏久公御代本田重親守之候趣前件相見え候  
     溝辺城     現霧島市溝辺
 
〇氏久公の時代に本田重親がこの城を守っていた事は前述の通りである
  同所加治木             
一土器園
 〇畠山治部太輔構要害守之候処、氏久公勇敢之
  兵を以、夜中ニ御責落被遊、土器園と申処当時
  無之候、黒川嵩之事と相考申候、爾今要害之跡
  在之候                        *P19
 〇天文廿三年加治木之城主肝月越前守兼演入道
  以安、蒲生・渋谷ニ結党、致敵対候節
  貴久公之御家老、伊集院大和守忠朗・同掃部 
  助忠倉父子、黒川崎ニ陣取申、忠倉火矢を以
  敵陣屋放火候故、凶徒利を失ひ菱刈両家
  を頼、守護方江致降参候
     土器園     現姶良市加治木町
 
〇畠山治部太輔が要害を構えて守っていたところ、氏久公の勇敢な兵が夜中に攻落した。 土器園と云う場所は現在(江戸時代)は無くなっているが、黒川嵩の事と考えられる。 今でも要害の跡がある。
 〇1554(1549)年加治木城主の肝月越前守兼演入道以安が蒲生・渋谷と結び島津家に敵対した時、貴久公の家老、伊集院大和守忠朗・同掃部助忠倉父子は黒川崎に布陣した。 忠倉が火矢で敵陣屋に放火したので、反徒達は利を失い菱刈家を頼んで守護方に降参した。  

註: 天文23年(1554)は岩剣城の戦いで、この時兼演は守護方であるので、上記は天文18(1549)年の黒川崎の戦いと推定される。 
  

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  日州諸県郡
一都城                     
 〇都城者北郷家居城ニ而候、求麻相良氏、薩・隅  
  日三州之歴々六拾三人同意ニ而都城を責候時
  氏久公御後攻之ため、志布志より御出馬ニて
  同所天ケ峯ニ被遊御陣、其ゟ末吉・平長谷に
  被移御陣、応安二年三月一日同二日於都 
  城ニ蓑原大合戦有之候、都城よりも打出候
  北郷讃岐守義久之弟、弥次郎基忠・七郎  *P20
  忠宣兄弟遂戦死、其外 氏久公之軍中
  本田信濃守重親・肥後兄弟、常狩某、北原
  彦七郎、完目藤蔵致戦死、敵方相良氏―
  頼・伊東六郎左衛門・池尻五郎・薩州一揆
  之張本渋谷右馬助を打取被成、大軍を
  討退被遊候
 〇天正拾五年殿下秀吉公、被為入御当国候節
  御家老伊集院右衛門太夫忠棟入道幸侃 
  以野心之志内応仕、早速御和談取成し、其後 
  隅州肝月郡之御朱印を幸侃江拝領仕候
  依之幸侃弥振権威、其上石田治部少輔光
  成江取入、文禄四年北郷氏を薩州伊佐郡
  宮之城ニ移、幸侃事庄内都城ニ罷移、

  *P21
  
郷・南郷・中郷・三股院・財部郷・末吉郷以下八万石を
  領、威勢弥強り、野心之色自然ニ相見え候ニ付、
  忠恒公幸侃を御討可被遊と数年被思召候
  得共、光成ニ取入、秀吉公ニも御存之者ニ御座候
  得ハ、御賢慮之上時節を御見合被成候処、幸
  侃悪行日々ニ相積 御家為難然止被思召
  慶長四年三月九日、於伏見御屋形御茶亭 
  家久公御手討ニ被遊候、依之幸侃嫡子伊集院 
  源次郎忠真都之城ニ楯籠、
恒吉・山田・野々美
  谷・志和地・安永・高城・山之口・梶山・財部・梅北・末吉

  十二之塞を構、 家久公ニ奉背候故、 龍伯
  様、新納武蔵入道拙斉・山田越前入道裡安
  此両人ニ被仰付、都之城を御押、伏見ニ御注進
  被遊候故 忠恒公早々御帰国被成、庄内江御
  出陣被遊候、六月廿三日恒吉山田両城御攻、山
 *P22

  田城落去、八月廿日恒吉城御陥被成候、九月十日
  於都之城御合戦有之、野々美谷・安永之両
  城より人数を出候而雌雄を争ひ、大ニ会戦有
  之、同月廿九日 家久公山田城ニ御入被成、急度
  源次郎忠真を可被成御攻殺と、被思召候得共
  龍伯公被思召上、子細有之御止被成候、十
  月二日 家久公森田御陣被成、志和地之城を
  御囲、糧道を御絶候処、安永之凶徒、山田城ニ
  向挑戦、伏兵を設候、此時味方入伏ニ戦死之者
  百人及候、翌慶長五年二月五日志和地之凶徒
  下城仕、同月廿九日
高城・山之口・勝岡・梶山・野々美谷
  安永
六ヶ所之城兵、城を捨逃去候、依之源次郎
  忠真滅亡之近キと存、且叉従 家康公
  山口勘兵衛直友を以、忠真和談可仕候旨□□
 *P23

  奉応其意ヲ、都城・財部・梅北・末吉四城ヲ奉
  献候故、三月十四日 龍伯公・家久公御入被遊候
  翌十五日御帰陣ニ而御座候
      都城      現都城市
 
〇都城は島津家分家である北郷家の居城である。 人吉の相良氏が薩摩、大隅、日向三国の豪族達63人と共同して都城を攻めた時、氏久公は救援のた志布志より出陣し、天が峰に布陣した。 そこから末吉、平長谷に移動して1369年3月1日都城の蓑原に於いて大合戦があった。 都城からも出撃し北郷讃岐守義久の弟弥次郎基忠・七郎忠宣兄弟が戦死した。 その他氏久公の軍中からも本田信濃守重親、肥後兄弟、常狩某、北原彦七郎、完目藤蔵が戦死した。 敵方の相良前頼、伊東六郎左衛門、池尻五郎、薩摩の反徒の指導者である渋谷右馬助等を討取り、守護方が大軍を退けた。
註:南朝側の相良氏が南朝にくみする豪族達を誘い、北朝側の島津家一族に戦いを仕掛けたもの。
  
  〇1586年太閤秀吉の軍が侵攻してきた時、家老の伊集院右衛門太夫忠棟入道幸侃は野心の志があり、秀吉の使者として島津家との和談を取り持った。 島津家と和議が整うと幸侃は大隅国肝月郡の朱印を秀吉より拝領した。 以後幸侃は威勢を揮い、更に石田光成に取入り、1595年には北郷氏を薩摩伊佐郡宮の城に移し、自身が都城に移り北郷、南郷、三股院、財部郷、末吉郷の八万石を領する事になる。 幸侃の威勢は益々上り島津本家に対する野心も見えるので、忠恒公(家久、18代)は幸侃を討取ろうと数年考えていた。 しかし光成に取入り秀吉公にもよく知られている者なので頃合を見ていたが、幸侃の悪行は益々募るので御家の為に已むを得ないと、1599年3月9日伏見の屋敷の茶室で手討ちにした。 
  この結果、幸侃の嫡子である伊集院源次郎忠真は都城に立篭もり、恒吉・山田・野々美谷・志和地・安永・高城・山之口・梶山・財部・梅北・末吉に12の要塞を構えて家久公に反旗を翻した。 義久公は新納武蔵入道と山田越前入道の両人に指示して都城を押さえ伏見へ注進したので、忠恒公は早々に帰国し庄内へ出陣した。 同年6月23日は恒吉、山田両城を攻め山田は落城し、8月20日には恒吉も落城した。 
 9月10日には都城で大合戦があり、野々美谷・安永の両城からも軍勢を出し勝敗を争った。 
 同月29日家久公は山田城に入り、必ず源次郎忠真を攻め殺そうと考えた。 しかし龍伯公(義久)は何か理由ありこれを制止した。 
 10月2日家久公は森田に布陣して志和地城を囲み糧道を断つたところ、安永の反徒が山田城を攻撃し伏兵を置いた。 この時味方がこの伏兵に掛かり戦死した者は百人に及んだ。 
 翌1600年2月5日、志和地の反徒が城を捨て、同月29日には高城、山之口、勝岡、梶山、野々美谷、安永の6ヶ所の城兵は城を捨て逃げ去った。 これによって源次郎忠真の滅亡は近いと思われたが、家康公(徳川)が山口勘兵衛に仲裁を指示し、忠真が和議をする事を勧め、意思を示すために都城、財部、梅北、末吉の4城を献上した。 
 同3月14日龍伯公と家久公はこの条件を受け入れ、翌15日陣を引払った。


1.伊集院忠棟: 伊集院家は鎌倉時代以来島津家からの分家の一つ(外に新納家、北郷家、樺山家等)であり、忠棟は義久時代の筆頭家老。 秀吉の島津攻略に対し早くから和議を勧め、島津家を乗っ取ろうとしたという説と、島津家を滅亡から救ったという両説がある。
2.忠真の起した乱は「庄内の乱」として記録されている
3. 北郷家は庄内の乱で忠節を認められ、都城に復帰する。 江戸時代初期、島津本家からの養子を迎え、都城島津氏となる。
4.山口勘兵衛:山口直友通称勘兵衛、丹波出身で家康の旗本、 庄内の乱の調停もしたが、関が原後の島津家と家康の調停役も努める。
  同所
一梶山
 〇高城之城主和田土佐守・梶山之城主高木長門守
  御味方故、明徳五年則応永元年之春、凶徒御退治
  力を和田・高木ニ合、 元久公庄内御出張
  於梶山御合戦在之二月十七日、味方北郷叉治郎
  忠道讃岐守義久之四男遂戦死、同三月七日
  土佐守之軍敗候て、及難儀ニ北郷藤次郎義久
  三男・伊知地叉七郎戦死仕候
 〇右之後梶山之城主高木長門守是家
  太守忠国公へ相背候故、長門守・同左衛門尉殖
  家父子被遊御誅伐候
              *P24
    梶山      現都城市
 〇高城の城主和田土佐守・梶山の城主高木長門守は味方故、1394年の春、7代元久公は反徒鎮圧の為庄内に出陣して和田、高木と共に梶山において合戦を行った。 2月17日味方の北郷又治郎忠道の四男が戦死し、同3月7日には和田の軍が敗れ苦戦、北郷藤次郎三男、伊知地叉七郎が戦死した。

諸県郡における求麻(人吉)の相良氏と島津家との抗争か
  
 〇その後梶山の城主高木長門守是家は9代太守忠国公に背いたので長門守及び同左衛門尉殖家の父子は誅伐された。
  同所
一野々美谷
 〇元久公御代応永元年七月、以謀野々美谷  
  城を陥候而相良氏之勇士数輩致斬撲候
  元久公岩川ゟ当城ニ被成御越、野々美谷を以
  樺山美濃守音久ニ給候
    野々美谷    現都城市野々美谷町  
 
〇元久公時代、1384年7月御代応永元年七月、謀略により野々美谷城を陥落させ、相良氏の勇士数人切り殺した。 元久公は岩川より当城に入り、野々美谷は樺山美濃守音久に与えた。

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  隅州曽於郡
一姫木城
 〇曽於郡之領主税所氏、求麻之相良氏を曽
  於郡招入、敵対仕候付、 氏久公正宮之上咲隈
  を御営ニ被成、姫木城を御責落被遊、本田氏
  親父子ニ姫木城警衛被仰付候
 〇求麻和泉山北
(東郷・高城・入来・祁答院を山北と唱申候
  之軍勢税所氏之
  軍ニ相加、姫木城ニ寄来、於石原口合戦有之
  碇山左衛門尉久安、揮大太刀、顕武勇候、大力之
  余り鉾岩角を切崩候故、後代迄も其所を金  *P25
  吾石と唱為申由候
 〇九代之太守忠国公御代、於石原口御合戦有之候
 〇本田之支族、本田叉五郎姫木城を相守居候処
  貴久公旗下ニ可降旨御内通仕、天文十七   
  年九月五日之夜、守護方之兵を招入候間
  姫木城ニ篭居候北原氏兵と致闘戦候處
  北原之軍兵一途ニ死を相究、一塁を守居候処、生
  別府城主樺山安芸守善久来而和談申調、北
  原狩野介以下三拾四人踊境迄送遣、味方之軍
  勢を城門江被入候
    姫木城     現霧島市国分
 
〇曽於郡の領主税所氏は求麻(人吉)の相良氏を曽於郡に招入、敵対したので氏久公は神社の上の咲隈を陣営として姫木城を攻落した。 城は本田氏親父子に管理を任された。
 〇求麻(現人吉)・和泉・山北
東郷・高城・入来・祁答院を山北と云った。現薩摩川内市と姶良市の真中辺)の軍勢が税所氏に加わり姫木城へ押寄せた。 石原口における合戦時、碇山左衛門尉久安は大刀を振るい奮戦したが、大力の余り岩をも切り崩し、後々までもその場所を金吾石と云った。(1377年)
 〇九代之太守忠国公の時代に石原口で合戦があった。
 〇本田の支族、本田叉五郎が姫木城を守っていたが、貴久公の旗下に入るべく内通し、1548年9月5日の夜、守護方の兵を城に招き入れた。 姫木城に籠もっている北原氏の兵と戦闘になり、北原の兵は決死の覚悟で守っており、生別府城主樺山安芸守善久の仲裁で和議成立した。 北原狩野介以下34人を踊境迄送り、味方の軍勢を城に入れた。


1.相良氏:肥後南部の豪族で球磨郡、葦北郡に勢力を持つ。 鎌倉時代初期多良木荘、人吉荘の地頭として関東から下向して豪族化、戦国大名から近世大名として残り、2万石の人吉藩主となる。
2.生別府城:別名長浜城 現霧島市隼人町 
  隅州曽於郡
一清水城              
 〇氏久公姫木城を御責落被成候以後、清水城御
  陥被遊候                   *P26
 〇右之後本田氏代々之居城ニて御座候、天文年
  間本田紀伊守薫親代ニ領内姫木城守護
  方ニ罷成候故、清水城威勢相衰、網裏之魚
  のごとく罷成候處ニ 日新公正八幡御参
  詣之節、北原(郷)讃岐守忠相ニ御相談被成、薫
  親之嫡子左京太夫親兼ニ清水七拾五町給
  之被召出候處、不改前非、返而不経幾程、心ヲ北
  原・祁答院・加治木ニ合、企陰謀候付、天文七年
  十月四日 日新公清水城被責、同九日薫親
  父子清水を落、庄内退去仕候
    清水城      現霧島市国分
 
〇6代大隅守護の氏久公は姫木城を攻落した後、清水城も落とした。
 〇その後は本田氏代々の居城だった。 天文年間(1532-1555)本田紀伊守薫親の代に領内の姫木城が守護方になったので、清水城の威勢は衰えて網の中の魚のようになった。 その頃日新公が正八幡参詣時、北郷讃岐守忠相と相談し、薫親の嫡子左京太夫親兼に清水七拾五町を与え協力を得ようとしたが、以前の非を認めず逆に北原、祁答院、加治木に同調して陰謀を企てたので、1538年10月4日、日新公は清水城を攻め、薫親父子は敗れて日向の庄内に退去した。

註:
本田家は鎌倉時代以来、島津本家の重臣であり、伊作島津家(日斎)が薩州島津家(実久)と本家を争う多数派工作に薫親が乗らなかったのか?。

  同所
一湯之峯
 〇氏久公御代、清水城御責落被成候後、於湯之峯
  御合戦有之、税所氏之嫡子御打取被成候、湯之峯
  と申ハ同所姫木城之北之方ニ在之候
    湯之峯     現霧島市国分
 
〇氏久公の時代に清水城を攻落した後、湯之峯で合戦があり、税所氏の嫡子を討取った。 湯之峯とは姫木城の北の方にある。

註: 税所氏は平安末期ー鎌倉時代から大隅曽於郡(現霧島市国分)付近の豪族で、税の徴収を司る税所(役所名)が氏名になったと云われている。
  薩州伊佐郡                    *P27
一鶴田                
 〇鶴田氏領之候處ニ、一家之渋谷党を相離  
  氏久公御味方申上候付、鶴田ニ御出張被遊候處
  菱刈・牛屎両院之凶徒寄来、及御難儀に
  山之此方迄御開陣之節、敵軍乗勝競掛
  候時、大返ニて被得御勝利候、是を 氏久公   
  山引合戦と唱申候
 〇上総介伊久入道久哲、渋谷家一味ニて鶴田氏を
  被攻、依之 元久公鶴田を被救、三千五百騎之  
  兵を率、鶴田之古城、鴨果・神崎山諸所に  
  御陣被取、数日御合戦有之候
    鶴田     現薩摩川内市鶴田町
 
〇鶴田氏が領していたが、同氏が同族の渋谷党をを離れて氏久公に味方するというので、氏久公が鶴田に出向いたところ、菱刈・牛屎両院の反徒が攻めてきて苦戦となった。 山を背に陣を構え、敵が勝ちに乗じて攻めて来た時逆襲して勝利を得た。 これを氏久公の山引合戦という。
 〇上総介伊久入道久哲と渋谷家一味は鶴田氏を攻めたので、元久公は鶴田を救うため3,500騎の兵を率いて鶴田の古城である鴨果・神崎山諸所に布陣し数日合戦があった。


1.渋谷党 相模の渋谷氏を祖とする鶴田・入来院・祁答院・東郷・高城氏
。 
2.氏久
:奥州家島津六代大隅守護、伊久:総州家島津七代薩摩守護、 元久:奥州家島津七代大隅守護、 奥州家と総州家の主導権争いの開始。
  薩州川辺郡
一川辺                   
 〇師久公之御嫡子上総介、伊久居城ニ而伊久之嫡子
  播磨守守久父子不快ニ而及闘争ニ、被寄来候処
   *P28
  七代之 太守元久公御異見被仰入、守久陣を   
  被開候、其後伊久ゟ御家門重代之小十文字之
  御太刀 忠久公之御鎧 元久公へ被譲進、川
  辺両城
(内城 杉尾城) 之間ニて受取渡有之候
 〇守久之嫡子上総介久世、川辺在城ニ而八代之
  太守久豊公御代御和談ニ有之、 久豊公
  川辺江被遊御見舞、其後久世鹿児島江来領候処
  久豊公ゟ人数被差向、久世切腹被成候、依之
  嫡子大太郎(
後左衛門尉久林)川辺籠城之節、家臣酒
  匂紀伊守、松尾城乍相守久豊公ニ内通致、応永 
  二十四年九月、守護方之軍勢を松尾城へ招入申候
  雖然内城堅固ニ相守、諸方之後攻を招候故、伊
  集院弾正少弼頼久以下救来懸而松尾城難
  儀罷成候、依之 久豊公被率大軍、御進発被
   *P29
  遊、散々ニ御合戦有之終ニ者和談ニ罷成候、此時之
  久豊公之軍戦死多有之候
    川辺      現南九州市川辺町
 
〇6代薩摩守護師久公の嫡子である上総介伊久の居城である。伊久とその嫡子播磨守守久が不和となり、守久が押寄せてきた ので、七代大隅守護の元久公が意見して、守久は攻撃を止めた 。 その後伊久より重代の家宝である小十文字の太刀と忠久公 の鎧 を元久公へ譲られ、川辺の両城(内城と杉尾城)の間で授受した
註: 島津家6代で大隅守護(奥州家)と薩摩守護(総州家)をわけたが総州家の内紛に乗じて奥州家が薩摩守護を取った事になる。

  〇守久の嫡子上総介久世は川辺に在城していた。 八代の
太守久豊公の時代に和談の為、久豊公が川辺城を訪ねた。 その後、久世が鹿児島に招待され訪問したところ、久豊公から軍勢を向けられ、久世は切腹した。 これによって久世の嫡子大太郎(後の左衛門尉久林)は川辺城に立て篭もった時、家臣酒匂紀伊守、松尾城乍相守が久豊公に内通し1417年9月守護方の軍勢を松尾城へ招き入れた。 しかし内城は堅固に守っており、さらに反久豊派の伊集院弾正少弼頼久他豪族が川辺救援に集まり、松尾城は苦戦に陥った。 これによって久豊公は大軍を発し、大いに合戦を行った後和談になった。 この時久豊公の軍に多くの戦死者がでた。

註:奥州家の久豊は総州家を抹殺する動きにでたものと思われる。 反久豊の豪族も伊集院頼久初め多かった事が伺われる。
 

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  日州諸県郡加久藤         
    一徳満城
 〇真幸院之領主、北原周防守事、求麻之領主相
  良氏と結党、守護方ニ致敵対候處、相良之弟
  相良祐頼、於徳満城、周防守と致口論、刺違
  共ニ相果候、依之両家水炭と罷成、周防守之嫡
  子左馬頭久兼、改前非 元久公江奉訴候故
  多勢被差遣、相良家之人数を追出、真幸
  一院全北原氏踏鎮申候
 〇総州家之嫡孫上総介久世之嫡子左衛門尉
  久林親父久世、於鹿児島ニ切腹之後、川辺籠
  城ニ而候得共、終ニ不相叶、肥後国出奔有之
  其後当城ニ居住候處、忠国公ゟ打手  
  被差向切腹ニて御座候、徳満之近辺馬関田 *P30
  之内平之阿弥陀ハ久林之像と申伝候
     徳満城     現えびの市東川北
 
〇真幸院の領主である北原周防守は求麻の領主相良氏と結び、7代守護元久に敵対していた。 ところが相良の弟である相良祐頼と徳満城において口論となり、刺し違えて双方死亡した。 このために両家は犬猿の仲となり、周防守の嫡子である左馬頭久兼は過去を詫び、元久公に援助を求めた。 元久公は大勢の人を送り相良家の人々を真幸院から追い出し、同院全体を北原氏の下に鎮定した。
註:真幸院の範囲は現えびの・小林両市及び高原を含む
 〇総州家の嫡孫上総介久世の嫡子左衛門尉久林は親父久世が鹿児島で切腹した後、川辺城に籠城したが、終に維持できず肥後国へ出奔した。 その後当城に居住していたが、9代忠国公よ追っ手を向けられたので切腹した。 徳満城と近くの馬関田の平にある阿弥陀は久林の像と伝えられる。
註: 総州家は6代薩摩守護師久(上総介)に始り、弟の6代大隅守護氏久(陸奥守)と並立したが、子伊久の時代に氏久の子7代元久に地位を奪われ、伊久の子久世は元久弟8代久豊に切腹させられ、久世の子久林は久豊の子9代忠国に切腹させられ奥州家が総州家を完全に亡ぼしている
  薩州薩摩郡
一樋脇  或清色城とも申候    
 〇応永二年十二月 元久公被対渋谷家へ高牧ニ 
  御陣被成、同三年正月十一日樋脇を被責落申候
  同所前田を陥、十九日市比野を被追落候、同四
  年渋谷家為御退治、 元久公五千余騎
  之兵を被率、 上総介伊久入道久哲共ニ清
  色城野顕ニ 被遊御陣、本田信濃守忠親満
  手野ニ陣シ、播磨守守久・伊作大隅守義久
  黒瀬と木場の原ニ被陣取、新納越前守実
  久森昌寺之峯ニ陣を添へ、一線をも不通
  囲攻絡故、城中刀尽矢渇強絶、且兵糧尽候
  故、乞降候而没落仕候
 〇応永十八年渋谷氏清色城ニ篭、相背候故、*P31
  元久公被成御進発、勝之尾ノ陣営□□□
  御病気差発候故、軍衆を被召置、鹿児島へ御 
  帰被成、其年被遊御逝去候
    樋脇(清色城とも云)現薩摩川内市樋脇町
 
〇1395年12月、元久公は渋谷家に対応する為高牧に布陣した。 翌年96年正月11日樋脇を攻落した。 同所の前田を落とし、19日には市比野を落とした。 更に翌年97年には渋谷家を退治するため、元久公は五千騎の兵を率い、上総介伊久入道久哲と共に清色城野顕に布陣した。 本田信濃守忠親は満手野に、播磨守守久と伊作大隅守義久はそれぞれ黒瀬と木場の原に布陣、新納越前守実久は森昌寺の峯に陣を構え、完全に包囲して攻めたので、城中は刀尽き矢折れ強者絶え、その上兵糧が尽きたので降参した。
註: 渋谷一族は南朝側に立ち、島津家一族は北朝側に立ったこの時は島津家の内紛も見られず、一致協力している。

 〇1411年渋谷氏が清色城に籠もり背いたので元久公は出陣したが、途中陣中で病気を発した。 軍を残して鹿児島に帰り、その年逝去した。
  日州諸県郡
一志布志
 〇元久公御家老本田信濃守忠親 元久公を奉
  恨出奔之以後、伊久入道久哲之三男叉三郎
  久照
(始めハ元久公の御養子ニて候得共御返免被成候)を
  大将と称、日州櫛間より志
  布志責入、向川原と下宝満寺之間、新納越
  後守重久(
志布志之領主) 犬馬場発出シ合戦有之候
    志布志       現鹿児島県志布志市  
 
〇元久公の家老本田信濃守忠親は元久公を恨んで出奔した後、伊久入道久哲の三男叉三郎久照(始め元久公の養子だったが解消)を大将として日向の櫛間〔現宮崎県串間市)より志布志へ攻め込み、向川原の下と宝満寺の間で犬馬場を出た新納越後守重久(志布志領主)と合戦があった。

註:志布志は江戸時代迄日向国諸県郡に属していたが、1871年廃藩置県で鹿児島県に入る。
 
   薩州阿多郡
一田布施                         
 〇二階堂氏領之候処、応永十二年之冬     
  元久公田布施を御責被成故、阿多・別府両家
  二階堂氏を救来候得共不相叶、二階堂某乞
  降致下城、市来家を頼市来へ致退去候、是ゟ*P32
  田布施 元久公罷成御領申候
    田布施       現南さつま市 
 
〇二階堂氏の所領だったが1405年の冬元久公が攻めたので、阿多・別府両家が二階堂氏を救援にきたが救援できず、二階堂某は降参し市来家を頼り城を退去した。 以後田布施は元久公の領となる.

註:二階堂氏は鎌倉幕府の事務官僚で全国に所領があり、そのひとつが阿多郡の二階堂氏で鎌倉時代後期に移ったという。
  薩州薩摩郡
一平佐城                
 〇上総介伊久之二男島津山城守忠朝、此城ニ居住
  成仇候故、応永十四年五月四日 元久公被   
  遊御発向、御責落被成候
 〇天正十五年夏殿下 秀吉公、肥後国佐     
  敷江着陣被成、日州之先手羽柴美濃守
  秀長、新納之院於高城勝利有之、日州ゟ
  義久公鹿児島へ御帰、義弘公も飯野に
  御帰城被成故、 秀吉公佐敷ゟ御船ニて
  島津叉太郎忠辰領地出水ニ被為入、則
  忠辰降参故、四月廿五日御船ニて薩州
  御台
(センダイ)ニ御着、忠辰格護之高城・水引
  下城仕候、且叉高江城・隅城も御着至降参仕*p33
  出水より此間不及一戦泰平寺ニ着陣
  被成候候、平佐一城ハ桂神祇忠昉相守、防戦
  有之候、同廿八日小西摂津守・脇坂中務少輔
  九鬼大隅守稠敷被攻、城中より人数を
  出シ互に討死仕候、此時入来院氏援兵
  を被入城中ニ、各抽軍功候、其後
  義久公御下知
相従事、致下城於泰平寺御目見仕候
  節、秀吉公宝刀を忠昉ニ拝領被仰付、義久公御事五
  月六日鹿児島
より伊集院御着被成於雪窓院御剃髪
  被遊、同八日泰平寺御入 御目見被成、備前包平三
  條宗近御腰物二振御拝領、此時薩摩一国御安
  堵之台書被遊御給候、同月十八日秀吉公被為入平
  佐之城ニ、其後至山崎宮之城九尾之険路を越、□□
  御一宿、至爰義弘公・叉市郎久保公御目見、 *P34
  大隅 一国并真幸院一郡御両公御給被成候、
  左候而秀吉公曽木天
  堂ケ尾ニ御着陣候、新納武蔵守忠元大口城を守、秀
  吉公を可奉討之偏憤罷在候付、 義久公ゟ忠元江被
  仰聞候
、御降参之上忠元事下城可仕旨再三被
  仰聞候、従御下知、忠元天堂ケ尾之御本陣ニ罷出
  御目見仕、長刀一腰・道服一領拝領仕候、其夜 秀
  吉公天堂ケ尾を御立被成、肥後之国江御通路被成
  忠元羽月園田江罷出、御手自軍扇一柄を被下、平泉
  上場御通道ニて肥後之国へ御入被成候
    平佐城      現薩摩川内市平佐町
 
〇上総介伊久の二男島津山城守忠朝がこの城に居住してが謀叛の疑いがあり、1407年5月4日元久公が軍勢を向け攻落した。

 〇1587年秀吉公が肥後の佐敷に着陣し、日向方面の先手である手羽柴美濃守秀長が高城の新納院で勝利した。 日向国より義久公は鹿児島へ戻り、義久公も飯野に帰城したので、秀吉公は佐敷より船で島津叉太郎忠辰の領地である出水に入った。 直ぐに忠辰が降伏したので4月25日船で薩摩の川内へ到着した。 忠辰が守る高城、水引も城を開け、叉高江、隈之城も秀吉軍が到着すると降参したので、出水よりこの間一戦もなく秀吉公は泰平寺に着陣した。 平佐一城だけは城主桂神祇忠昉がこれを守り抵抗したので、 同28日小西摂津守・脇坂中務少輔・九鬼大隅守が激しく攻め、城中より討って出て互いに討死があった。 この時入来院氏の援兵が城に入り各々奮戦した。 その後義久公からの説得があり、城を下りて泰平寺で秀吉公に面会した。 その節秀吉公は忠昉に宝刀を下賜した。
  義久公については5月6日鹿児島より伊集院に到着し、雪窓院にて剃髪の上、同8日泰平寺に入り秀吉公に面会、備前包平・三條宗近の名刀二振を拝領した。 この時薩摩一国を安堵する証書を給わった。
  同月18日秀吉公は平佐の城に入り、その後山崎・宮之城・九尾之険路を越、曽木に一泊した。 ここで義弘公及び叉一郎久保(義弘嫡男)に面会し、大隅国及び日向真幸院を夫々に与えた。
  それから秀吉公は曽木天堂ケ尾に本陣をおいた。 大口城主の新納武蔵守忠元は城を守り秀吉公に対峙していたが、義久公から忠元へ降参して下城するように再三命令があった。 忠元も命令に従い天堂ケ尾の本陣出て面会した時長刀一腰と道服一領を拝領した。 その夜秀吉公は天堂ケ尾を出発し肥後国へ向う途中、忠元が羽月園田で送った、秀吉公は自ら軍扇を忠元に与えた。 秀吉公は平泉上場(現伊佐市大口平出水)を通過して肥後国へ入った。


天堂ケ尾: 伊佐市大口針持と曽木の中間の丘陵。
大口城: 元々菱刈氏の城だったが、貴久の時代に島津家のものとなり、新納忠元が地頭、城主を務めていた。

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  薩州日置郡郡山之内厚地    
一平等寺
 〇久豊公、伊集院弾正少弼頼久為御退治、上総介
  久世・島津山城守忠朝・市来備後守家親ニ被談合
  久豊公平等寺ニ御陣被成、三将之出張を御下知
  被成候処                     *P35
  頼久精兵一千計を率平等寺之御陣ニ向挑戦候三将
  前約致相違候故、御合戦及難儀、漸御引取被遊候
     平等寺      現鹿児島市花屋町
 
〇久豊公、伊集院弾正少弼頼久を退治するために上総介久世・島津山城守忠朝・市来備後守家親の同意を得た。 久豊公は平等寺に布陣し三将の参陣を命令した。 頼久が精兵一千を率いて平等寺に向かい、一方三将とも約束に相違して参戦しなかったので苦戦して漸く引上げた。

註: 島津元久の後をめぐる親戚同士の争い 
  日州諸県郡穆佐
一高城                          
 〇久豊公御二男ニ被成御座候節、日州為押当城
  ニ被成御在城候
  元久公御逝去之節久豊公鹿児島へ被遊御越、守護
  職御相続被成、其後対伊東家ニ当城御越□□□
  伊東氏乗夜闇、当城ニ責登候得共、城兵尽粉骨、
  敵ヲ追退候
     高城        現宮崎市高岡町
 
〇久豊公は氏久公の二男だったので日向の押さえの為この高城に居住していた。 
   7代薩摩大隅守護の元久公の逝去の時、久豊公は鹿児島へ行き8代守護職を相続した。 その後伊東家に対し、当城御□□□も、伊東氏乗夜闇に乗じて攻めてきたが城兵が力を尽くし敵を撃退した。
  薩州給黎郡
一給黎 喜入             
 〇給黎者伊集院頼久領地ニて、応永廿一年 久豊公
  被成御発向候時、頼久援兵を伊作川辺ニ乞候處ニ
  南方之兵
  陣柵を松平真平ニ構、後攻仕候付、双方之敵向御合
  戦被成、御勝利ニて給黎を御手ニ被入候
     給黎(喜入)    現鹿児島市喜入町
 
〇給黎(喜入)は伊集院頼久の領地であった。 1414年に久豊公が攻めた時、頼久は援兵を伊作及び川辺に求めたので、後ろから陣柵を構えて攻めてきたが、双方の敵に対し戦い勝利し喜入を手にいれた。
  薩州阿多郡多布施              
一貝柄崎                   
 〇伊作家、阿多家と及合戦、伊作家 久豊公
  *P36
  御加勢を被乞候故、援兵を被遣、阿多氏も方々へ
  加勢在之、貝柄崎合戦有之候、其地ニ而御座候
     貝柄崎      現南さつま市
 
〇伊作家と阿多家が合戦になり、伊作家が久豊公に加勢を頼んできたので援兵を送った。 阿多氏も方々へ加勢を得て貝柄崎で合戦があった.


阿多氏:平安末期の阿多郡司、平家の一門で鎌倉時代に豪族化。
伊作家:鎌倉時代中期に成立した島津家の分家
  薩州薩摩郡山田            
一永利城
 〇島津山城守忠朝守之、市来備後守家親・渋谷一
  族等と相議攻戦候得共、渋谷之軍破候て清敷入来
  院弾正忠之兵数十人戦死仕候故 久豊公へ援兵
  之訴申上候付、佐多讃岐守久信を大将ニて
  被差遣候得共
  永利城堅固ニ而、其上方々より後攻之勢馳参候故
  久豊公被遊御出張、御攻落ニ成、忠朝通路を被免
  隈之城へ致退去候、依之永利城弾正忠被宛行候
     永利城     現薩摩川内市
 
〇島津山城守忠朝が城主として守っていた。 市来備後守家親と渋谷一族等と協議して攻めたが、渋谷の軍敗れて清敷(清色)の入来院弾正忠の兵数十人が戦死した。 久豊公へ援兵を頼み、佐多讃岐守久信を大将として差し向けたが、永利城は堅固で、その上方々から救援の軍勢が後ろから攻めるので、久豊公が出陣して攻落した。 忠朝は許され隈之城へ退去した。 この結果永利城は弾正忠に与えられた。


忠朝の父伊久と久豊は従兄弟同志であり、奥州家系統と総州家系統の島津家内紛に多くの豪族が参加している。
 
  薩州揖宿郡指宿           
一指宿城
 〇城主奈良氏、諸人不帰服、終ニ者奈良兄弟朋
  輩之ため被追出、相残者共起謀反を候故 久豊公
  御馬を被向、御攻被成候、城中力尽致没落候
     指宿城     現指宿市
 
〇城主奈良氏に皆が従わず、終には奈良兄弟は朋輩のために追出されたしまった。 後に残った者達が謀叛を起したので久豊公が軍勢を向け城を攻めた。 城中力尽き落城した。
  薩州頴娃郡                     *P37
一頴娃
 〇久豊公頴娃を小牧氏ニ給候、依之小牧を
  改為頴娃候、右仕
  合候處、忘厚恩、君命ニ相背候故応永廿七年□□
  久豊公頴娃御退治被遊候
      頴娃      現南九州市頴娃町
 
〇久豊公は頴娃を小牧氏に与え、これにより小牧を頴娃と改めさせた。 この様な親切にもかかわらず、恩を忘れ君命に背いたので1420年、久豊公は頴娃(えい)を退治した。
  薩州給黎郡
一知覧                  
 〇伊集院頼久一族、今給黎長門守久俊領之、頼久
  既ニ久豊公へ降参仕候得共、長門守ハ守護方不随
  凶徒之棟梁ニて御座候故、被遊御攻罸、運命既ニ
  相究候節頼久ゟ奉訴候て被助置候
      知覧       現南さつま市知覧町
 
〇伊集院頼久の一族である今給黎長門守久俊が知覧を領している。 頼久は既に久豊公へ降参していたが、長門守は守護方に従わず反徒の頭目であるので註罸され、運命も決まっていたが頼久よりの助命があり助置いた。
  薩州
一隈之城                  
 〇島津山城守忠朝、当城ニ篭、相背候故 久豊公
  之御子叉三郎貴久
後号忠国公 御大将ニて攻落之
  由、忠朝奉乞一命、致落髪号道聖、鹿児島和泉崎
  為致居住由候
      隈之城      現薩摩川内市
 
〇島津山城守忠朝が当城に籠もり反旗を翻したので、久豊公の子叉三郎貴久(後の9代忠国)を大将にして攻めた。 忠朝は一命を乞い、剃髪して道聖と号した。 そこで鹿児島和泉崎に居住させた由である。
   薩州阿多郡                  *P38 
一伊作城             
 〇伊作家代々之居城ニ而御座候、伊作大隅守勝久
 山門□出張之留守、叔父伊作遠江守十忠起謀叛を
 兄久義を弑候時、家臣勝久之息男安露丸を相携
 伊作本城を相守候
 〇太守勝久公当城御隠居被遊候處、御養君叉三郎 
 貴久公御養子御違発ニて、勝久公守護職ニ御
 再任被遊候以後、勝久公之人数伊作城を相背候故
 大永七年七月廿三日之夜、 日新様・貴久様田
 布施ゟ御進発ニて伊作城御攻取被遊候
      伊作城       現日置市吹上町
 
〇伊作家代々の居城である。 伊作大隅守勝久が山門院へ  
出陣の留守に叔父の伊作遠江守十忠が謀叛をお越し、兄久義(勝久父)を殺害した。 家臣は勝久の息男である安露丸(後の久教)を携えて伊作の城を守った。
註:この勝久は伊作家代5代当主。 14代太守勝久とは別人
 〇14代太守勝久公は当城にて隠居していたが、養子叉三郎貴久公の養子解消で、勝久公は守護職を再任した。 その後勝久公残した伊作城が背いたと云うことで、1527年7月23日夜、日新(忠良)と貴久公は田布施を進発して伊作城を攻め取った。


14代勝久は伊作家貴久を養子として迎える事になっていたが、薩州家実久の圧力で解消したものか? 結果的には伊作家が島津本家を継いでいる。

  隅州姶良郡
一加治木城              
 〇加治木氏世々領之候、 太守忠昌公御代加治木氏
  相背候故、御勢を被向御合戦有之候ニ付、明応五
  年二月加治木大和守落城仕、薩州阿多郡ニ被移候
 〇勝久公御代加治木之地頭、伊知地周防守同*P39
  新左衛門尉陰謀露顕ニて 日新様御出陣ニて周防守
  父子被誅候
      加治木城    現姶良市加治木町
 
〇加治木氏が代々これを領していた。 11代太守忠昌公の時代に加治木氏が背いたので、軍勢を向けて合戦となった。 1496年2月加治木大和守は降伏し、阿多郡に移された。

 〇14代勝久公の時代に加治木の地頭、伊知地周防守・同新左衛門尉の陰謀が露顕したので、日新(忠良)が出陣して周防守父子は註された。

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  薩州阿多郡
一加世田城                
 〇薩州家伝領之地ニ而候、天文七年十二月晦日忠良
  公、貴久公御大将ニて被遊御発向、右馬頭忠将搦
  手之大将ニ而候、実久旗下兵守之防戦尽粉骨候
  得共、不相叶御攻落被遊候
     加世田城     現南さつま市加世田
 〇この城は薩州家島津代々の領である。 1539年12月晦日に忠良公と貴久公を大将に、右馬頭忠将(貴久弟)を搦手の大将として加世田城を攻めた。 実久配下の兵は必死に防戦したが及ばず落城した。
註: 伊作家島津と薩州家島津の宗家継承争い。
  薩州谷山郡谷山
一紫原
 〇天文八年二月十二日於紫原貴久公島津
八郎左衛門
  実久之軍と御合戦有之、被得御勝利候故、翌
  日実久旗下平田式部少輔翻心 貴久公を
  谷山苦辛城奉招入候、 左ニ而翌十四日守護之軍
  谷山本城ニ被召入候付、神前之城降参仕候
     紫原        現鹿児島市紫原
 
〇1540年2月12日、紫原において貴久公は島津八郎左衛門実久の軍との合戦で勝利を得た。 翌日13日実久配下の平田式部少輔が寝返り貴久公を谷山苦辛城に招き入れた。 夫ゆえ翌14日には守護方の軍が谷山本城に入ったので、神前の城は降参した。
  隅州肝月郡                    *P40
一高山本城                
 〇肝月氏世々致在城候、永正三年八月六日太守忠昌
  公肝月氏為御退治之御発向被遊候処、新納近江守
  忠武、志布志ゟ高山来致後攻候ニ付、御難儀ニ而十
  月十二日御退陣候
     高山本城    現肝月郡高山町
 
〇肝月氏が代々在城した。 1506年8月6日11代太守忠昌
公は肝月氏を退治する為に進発したが、新納近江守忠武が志布志から高山に来て後ろから攻めるので苦戦を強いられ、同10月12日退陣した。

註: この頃の島津宗家は至って弱体化していたと云われている。 新納家も島津の分家。 忠元は志布志領主。
  薩州鹿児島郡                
一吉田城
 〇吉田氏伝領之地ニ而御座候、吉田若狭守位清
  守護之命ニ相背候故、永正十四年二月十四日
  太守忠隆公御出馬ニて吉田氏御攻伐被遊、同十四
  日位清致降参、居城差上申候
     吉田城     現鹿児島市
 
〇吉田氏が代々伝えた領地である。 吉田若狭守位清が守護の命令に背いたので1517年2月14日、13代太守忠隆公が出陣して吉田氏を攻めた。 同十四日位清は降参して城を献上した。
  隈州曽於郡
一曽於郡城                 
 〇永正十六年十一月廿七日伊集院尾張守為長 
  謀叛を起、曽於郡城楯篭、新納近江守忠武
  同意ニて当城ニ軍勢を篭候、依之
同十七年八月一日
  太守勝久公被遊御出陣、同十一月廿七日 *P41
  城兵乞降落去候
     曽於郡城    現霧島市霧島
 
〇1519年11月27日伊集院尾張守為長が謀叛を起し、曽於郡城に立て篭もり、新納近江守忠武も同意して当城に軍勢が籠もった。 これより翌1520年8月1日、14代太守勝久公が出陣、同11月27日城兵は降参し落城した。

註: 橘木城、橘、剣宇郡城とも云う。 この時城は本田兼親に与えられた。(日本城郭大系)
  志布志
一月野                   
 〇勝久公御代大永三年十二月七日、守護方伊知地
  氏・吉田氏大将として発鹿児島、志布志被差向於
  月野新納家と大合戦有之、味方数百人戦死有之候
     月野      現曽於市大隅町月野
 
〇勝久公の時代1523年12月7日、守護方は伊知地氏・吉田氏を大将として鹿児島を発進し志布志へ向い、月野で新納家と大合戦があった。 味方の数百人が戦死した。

註: 志布志地頭: 新納近江守忠武
  薩州日置郡                      
一南郷城 改永吉         
 〇桑波田孫六と申者南郷城ニ篭、日新ニ相背候故
  天文二年三月廿九日 日新公謀を以、南郷城御攻取
  桑波田河内守・同式部少輔以下を被成誅戮、南郷を
  改被号永吉と申候
 〇同年八月十四日勝久公之軍、当城へ寄来候由相聞
   え候ニ付、 貴久公楯篭給、鹿児島方之軍城之野
   頸ニ寄来候時、 日新公伊作ゟ被成御発向御
   合戦在之被得御勝利候
     南郷城 改永吉   現日置市吹上
 
〇桑波田孫六と云うものが南郷城に立て篭もり背いたので1533年に日新公は謀により南郷城を攻め取り、 桑波田河内守・同式部少輔以下を誅殺し、南郷を改めて永吉とした。

 〇同年8月14日勝久公の軍、当城へ寄せ来るという情報があり、貴久公は立て篭もった。 鹿児島方の軍が城に迫った時、日新公が伊作より出陣し合戦となり日新公側が勝利を得た。
  同州伊集院                    *P42
一大田原城
 〇天文五年九月廿三日 日新公伊集院大和守忠朗
  を大将ニて大田原城を被攻取候
     大田原城     現日置市
 
〇1536年9月23日 日新公は伊集院大和守忠朗を大将として大田原城を攻め取った。
  隅州姶良郡                    
一帖佐城                      
 〇大永六年帖佐城主辺川筑前守事、島津八郎左衛門
  実久之謀叛ニ致与、同之肯致露顕候故   
  忠良公、太守勝久公之命含被成、御発向、十二
  月七日本城・新城を御攻被成、於惣禅寺口合戦在
  之、城終ニ没落仕候、其後帖佐を島津下野守昌久
  被宛行候處、三ヵ年を不経、加治木城主伊知地周
  防守と共企謀叛を候故、同七年五月六日 日新
  公帖佐江御越被遊、昌久お被遊誅戮候
 〇弘治元年三月廿七日守護方之兵、帖佐を発向 
  高尾ニ攻入、敵首一百余首を得候、同四月三日之夜
                            *P43
  凶徒ハ帖佐及山田城を捨退去仕、守護領ニ
罷成候処
  同七月廿六日、渋谷・蒲生相謀、帖佐江寄来候ニ付
  守兵致発出、合戦得勝利、東郷将監・白浜
  某等被打取候
     帖佐城       現姶良市鍋倉
 
〇1526年帖佐城主の辺川筑前守は島津八郎左衛門実久の謀叛に加わっている事が明らかになったので、忠良公は太守勝久公の命を含み出陣し、12月7日に本城及び新城を攻めた。 惣禅寺口にて合戦があり、終に落城した。
  その後帖佐を島津下野守昌久に与えたが、3年もしない内に加治木城主の伊知地周防守と共に謀叛を企てたので、翌1527年5月6日、日新公は帖佐へ出陣し昌久を誅殺した。

 〇1555年3月27日守護方(15代貴久)の兵、帖佐を発進し高尾に攻入、敵の首一百余を得た。 同年4月3日の夜、反徒は帖佐及び山田城を捨てて退去したので守護領になったが、同年7月26日渋谷と蒲生が共謀して帖佐へ押寄せた。 守備兵が討って出て合戦で勝利し、渋谷党の東郷将監・白浜某等が討取られた。

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  同所平松
一岩剱城
 〇祁答院氏・入来院氏・菱刈氏・蒲生氏等党を結
  祁答院之兵を当城ニ籠置、蒲生、帖佐ゟ加治木
  攻候故、城主肝月越前守兼演入道以安、危急至
  相聞え候付、天文三年九月十三日 貴久公、義
  久公御大将ニ而平松之上目当比良江御陣被遊
  島津左兵衛尉尚久を大将ニて狩集陣を令守給、此時
  焼山之陣
凶徒守之并白銀坂・脇元・星原等ニて時々合戦
  在之候、同十月二日岩剱城を御攻被成候處、帖佐
  蒲生之凶徒弐千計平松川を渡挑戦、味方勝ニ
  乗逃敵ヲ追、帖佐高樋川迄追詰斬獲五十余級*P44
  有之候内、渋谷河内守之長男西俣武蔵守を打取候
  右合戦故、岩剱城其夜落去仕候
      岩剱城      現姶良市平松
 
〇祁答院氏・入来院氏・菱刈氏・蒲生氏等が党を結び、祁答院の兵を当城に籠もらせ、蒲生氏が帖佐から加治木を攻めたので、加治木城主の肝月越前守兼演入道以安が危なくなった事が守護方に聞こえた。 1534年9月13日貴久公、義久公を大将にして平松の上の目当比良(ひなびら)に布陣した。 島津左兵衛尉尚久を大将にして狩集の陣を守らせた。 此時蒲生方が守る焼山の陣、白銀坂、脇元、星原などで時々合戦があった。  帖佐の蒲生軍2千程平松川を渡り戦いを挑んだが、守護側は優勢に乗じて逃げる敵を追いかけ、帖佐の高樋川迄追い詰め、50余の首を挙げた内に渋谷河内守の長男である西俣武蔵守もあった。 この合戦の後岩剣城は落ちた。

註:肝月兼演は守護側。 岩剣城を攻めれば、加治木城を包囲している蒲生軍が必ず岩剣救援に向かうので加治木は助かると守護側は読み、その通りになったと言う 
  隅州姶良郡
一北村城                     
 〇北村城者蒲生氏領内ニ而候処、城兵之内ニ内通之
  者在之候故、弘安(治)元年正月廿二日 義久公吉
  田迄御出張ニ而、翌日軍勢を被差向候、然處ニ覚悟
  之外凶徒之謀ニ而、味方及難儀ニ弟子丸播磨守
  以下数輩致戦死候
      北村城      現姶良市蒲生町
 
〇北村城は蒲生氏領内に在ったが、城兵の中に内通するものが居たので1555年正月22日義久公は吉田迄出陣し、翌日軍勢を北村城に向けた。 準備していた蒲生方の罠にはまり守護側は苦戦となり、弟子丸播磨守外数人が戦死した。

註:北村城は蒲生氏一族の北村氏の城
  同所
一松阪城
 〇弘治二年三月十五日 貴久公蒲生へ被成御進
  発、松阪之塁を御攻撃被遊候得共城堅固ニ相守候
  此時叉四郎忠平公(
義弘公)強敵を御打被成、御
  鎧之上五節迄御支被遊候、是敵を御打被成候
                              *P45
  始ニ而廿二歳之御時ニて御座候、其後十月十九日
  松阪城御責落被成、祁答院・蒲生両家之
  兵一百余屠殺被成候
      松阪城      現姶良市蒲生町
 
〇1556年3月15日貴久公は蒲生へ出陣し、松阪の要塞を攻めたが蒲生方は堅く守っていた。 この時叉四郎忠平公(義弘)は強敵を打破り、鎧の上五節迄支えた。 これが敵を打破った最初であり22才だった。 その後10月19日松坂城は落城し、祁答院・蒲生両家の兵一百余が殺戮された。
  同所
一蒲生
 〇蒲生家伝領之地ニて御座候、
弘治二年十一月廿五日
  貴久公御父子御出陣ニ而、七曲り・馬立両所を御陣
  営ニ被遊候、然處十二月中旬菱刈左馬権頭、蒲
  生氏救来北村境ニ陣取候、翌年四月十五日御大将
  貴久公御父子、副将叉四郎忠平公・右馬頭忠将
  左兵衛尚久諸軍を率、菱川氏陣を御攻被
  成候得共、山高、岸阻して四面堅固之地ニて敵の
  射矢如雨、雖然 忠平公抽諸軍、御攻登被成候
  処、楠原某と名乗向来候、 忠平公も島津叉四郎
  と御名乗被遊、被択勝負終ニ楠原を御打取
                              *P46
  被成候、御側ニ進来勇士村田越前守・三原右京亮
  其外数輩、敵之要害ニ攻入候故、左馬権頭難遁
  自殺仕候、其外首打取数百級候、味方ニも樺山助
  太郎以下戦死、 忠平公も御疵被請候、其後蒲
  生本城御攻被成筈と相聞え、同四月廿日城に
  火を掛、城兵祁答院ニ向而落行候
       蒲生      現姶良市蒲生町
 
〇蒲生家伝領の地である。 1556年11月25日貴久公父子が出陣し、七曲り・馬立両所に布陣した。 そこへ12月中旬菱刈左馬権頭が蒲生氏の救援に来て北村境に布陣した。
  翌年4月15日大将の貴久公父子、副将叉四郎忠平公及び右馬頭忠将、左兵衛尚久は諸軍を率、菱川氏陣を攻めたが、山は高く険阻、四面堅固之の地で敵の射矢は雨の様である。 しかし忠平公(義弘)は諸軍を率い攻め上ったところ、楠原某と名乗る者が向ってきた。忠平公も島津叉四郎と名乗り勝負を択び、終に楠原を討取った。 忠平に随う勇士村田越前守・三原右京亮其外数輩が敵の要害に攻め入ったので、左馬権頭は逃げられず自殺した。 その他数百の首を討取った。 守護側も樺山助太郎以下戦死あり、忠平公も傷を負った。 その後蒲生本城を攻めると見受けられたので、城兵は4月20日城に火を掛け祁答院に向けて落ち行った。


島津忠将:貴久弟、後に垂水島津家の祖、
島津尚久:貴久弟、後に宮之城島津家の祖
  隅州曽於郡                  
一廻城  後号福山
 〇廻氏代々領之候、城主廻兵部少輔久元事盲目
  ニて嫡子次郎四郎ハ幼稚ニ而候、依之肝月河内守
  兼続入道省釣、其隙ニ乗、永禄四年五     
  月十四日廻城を掠取、肝付治部左衛門と申者を以
  廻城ヲ令守候、依之同年六月廿三日
  貴久公・義久公大軍を被率被成御発向、大塚山
  を本陣ニ被遊
今此所ヲ惣陣と唱申候右馬頭忠将馬立ニ
  被陣取諸卒をして竹原山を令守給、伊知地周*P47
  防守重興・禰寝右近太夫重長、兼続ニ致
  徒党、廻来加勢仕候、同七月十二日肝付賊徒急ニ
  竹原山陣攻、味方難儀ニ及候由相聞え候付、右
  馬頭忠将、馬立陣より竹原山ニ被馳向候処、於
  中途敵大勢忠将を取囲相戦候、忠将之家
  老町田加賀守忠林を始相従兵一途ニ死於
  相守奮戦仕候得共、小勢難遁、忠将終ニ戦死
  ニ而、一所ニ七十余人伏屍候、忠将戦死之場者福山
  馬立坂中、忠将之石塔在之候所ゟ東一町廿
  間計ニて候、当通路ゟ北之畠ニ而御座候、左候而
  大塚御陣之勢馳向、散々致合戦、逆途等敗北
  仕、恒吉ニ向退却仕候
      廻城(後福山城)  現霧島市福山
 
〇廻氏が代々が領していたが、城主廻兵部少輔久元は盲目で嫡子次郎四郎は幼かった。 そこで肝月河内守兼続入道省釣がその隙に乗じて1564年5月14日廻城を掠め取り、肝付治部左衛門と云う者に廻城を守らせていた。 
  これにより同年6月23日貴久公・義久公は大軍を率い出陣し大塚山を本陣とした。 今ここを惣陣という。 右馬頭忠将は馬立(まだて)に陣取り、兵達に竹原山を守らせていた。 伊知地周
防守重興と禰寝右近太夫重長が、兼続に与し廻に加勢に来て。同年7月12日肝月方は急に竹原山の陣を攻めてきた。 味方の苦戦を聞いて、右馬頭忠将は馬立陣より竹原山に救援に行く途中大勢の敵が忠将勢を取囲んだ。 忠将の家老町田加賀守忠林を始め主従必死で奮戦したが小勢の為、逃れがたく終に忠将は戦死、同行70余余人も皆戦死した。
   忠将戦死の場所は福山の馬立坂中の忠将の石塔がある場所から東に150メートル程で、今の道路より北の畑の中である。
   その後大塚本陣から軍勢が向かい激しく合戦があり、肝月方は敗北して恒吉の方に退却した。


肝月氏は平安時代末期に中央から派遣された役人(薩摩掾)の子孫で豪族化し大隅の肝月郡中心に勢力を伸ばし、島津氏と対抗してきた。 比較的早く島津家と協力関係のある一族もある。
  隅州桑原郡
一横川城                       *P48 
 〇永禄五年六月三日 叉四郎忠平公・叉六郎歳久を
  大将ニて横川城ヲ御攻被成候、 貴久公も隅州溝
  辺迄御出張ニ而新納刑部大輔忠元・伊集院源
  助久義を横川被差遣候、 忠平公御指揮ニ而
  御攻被成候、城主北原伊勢助・同新助父子
  奮出合戦仕候、歳久吉田之兵を率、城中ニ被攻
  入、被蒙疵候、伊勢助父子力尽候而切腹仕候、敵
  首数打取之、味方戦死も不少候
      横川城      現霧島市横川町
 
〇1565年6月3日叉四郎忠平公と叉六郎歳久を大将ニて横川城を攻めた。 貴久公も大隅の溝辺迄出陣し、新納刑部大輔忠元と伊集院源助久義を横川に派遣した。忠平公の指揮下で城主北原伊勢助・同新助父子と奮い立って合戦をした。 歳久が吉田の兵を率いて城中に攻め入ったが負傷した。 しかし伊勢助父子力尽きて切腹した。 敵首多数討取るも味方戦死も少なからず。

横川城は室町時代から真幸院領主北原氏(肝月氏の分家)の支城。 

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 日州諸県郡
一三山城 改後ニ小林           
 〇日州佐土原城主伊東大膳太夫義祐、三山ニ構
  要害、兵庫守忠平公之居城飯野を欲犯候
  故、永禄九年十月廿六日 義久公御大将ニて 
  忠平公・左衛門尉歳久を副将被成、大軍被引
  率三山城を御責被成候、 忠平公御手ヲ負れ
  数輩戦死在之候
  三山城(後に小林と改め) 現小林市真方
 〇日向国佐土原城主伊東大膳太夫義祐は三山に要害を構えて兵庫守忠平公(義弘)の居城飯野に進出しようとしていた。
  1566年10月26日、義久公を大将、忠平公(義弘)と左衛門尉歳久を副将とし大軍を率いて三山城を攻めた。 忠平公はこの時手を負傷し、数名が戦死した。

伊東氏は元は伊豆伊東辺の豪族だったが、一族が鎌倉時代日向国の都於郡(現西都市)の地頭として下向した。 南北朝では北朝側で次第に勢力を伸ばし、室町時代以降島津家としばしば争った。
 隅州菱刈郡                   *P49
一馬越城                 
 〇菱刈氏為御退治之、永禄十年十一月廿三日
  貴久公・義久公御大将ニて栗野之菱刈領内
  馬越城ニ被遊御発向候、 忠平公攻口之御大将ニて
  真幸之兵を致卒、乾之方より御攻被成候、城兵尽
  粉骨防戦候得共、寡手不厭矢石を攻登候故、守兵
  本丸ニ引入必死ニ相究良相支候、味方之勇士城
  壁ニ廻り候故、城主井手籠駿河守・同兵部大輔・同
  弥四郎以下致発出、奮極勇候、 忠平公御手被砕
  数人御討死候、各粉骨砕身ニて駿河守父子其
  外城兵悉屠殺仕、其夜御勝吐気被執行候
  右ニ付凶徒等曽木・平良・湯之尾・羽月・山野・平泉・
  轟木・市山八ケ城捨而退散仕候
      馬越城      現伊佐市菱刈
 
〇菱刈氏を退治する為1567年11月23日、貴久公と義久公を大将として栗野の菱刈領内馬越城に出陣した。 忠平公は攻撃の大将で真幸の兵を率いて乾の方角から攻めた。 城兵は粉骨を尽くして戦ったが、少数で矢石を怖れず攻め登ったので守兵は本丸に引き入れて必死に戦いよく支えていた。 味方の勇士達が城壁に廻ったので城主の井手籠駿河守・同兵部大輔・同弥四郎以下が勇敢に戦った。 忠平公は手を砕かれ数人が討死した。 各々粉骨砕身に戦い、駿河守父子及び城兵悉く討取った。 その夜勝利の祝いを執り行った。 この結果菱刈側は曽木・平良・湯之尾・羽月・山野・平泉(平出水)・轟木・市山の八ヶ所の城を捨てて退散した。

菱刈氏は平安末期から鎌倉時代初期に藤原一族が菱刈両院(牛屎院、太良院、現伊佐市北部及び南部)を与えられ下向し、豪族化した。
  隅州伊佐郡
一大口城                       *P50
 〇菱刈大膳亮隆秋大口城ニ有、援兵を求麻之相良
  氏ニ乞城ヲ相守候、且叉馬越城落城之後菱刈諸所之
  人数当城ニ引取候、然処永禄十年十二月廿九日守
  護方之勢、市山城ゟ大口城下ニ至、伺隙候処、城兵
  一千余不意ニ致発出、合戦及難儀ニ候、市来備後守
  平田加賀守・伊集院刑部少輔致戦死、味方漸
  市山城ニ引取候
 〇同
十一年正月廿日大口之凶徒三千計堂崎へ致突出候
  忠平公馬越城ゟ御出被成、御合戦被遊、敵多
  勢故及難儀、川上左近将監久朗、向強敵
  飛田之渡瀬ニ相支候、此時忠久
(平)公殿被成、敵三
  十余輩突掛候を御弓お以、数人射伏被遊候
  久朗も七ヶ所請疵漸其場を退候、 忠平公羽
  佐之瀬御渡被成候時、懸矢下総・財部伝内左
  衛門・入来筑後御側ニ罷在致軍功 忠平公 *P51
  曽木城御入被成候、 右御難儀ニ付、 貴久公・義
  久公馬越城より御出張被成、凶徒恐其軍威引退申候
 〇同十二年五月六日新納忠元・肝月兼寛両輩
  島津叉七郎家久ニ謀、戸神尾稲荷山ニ兵を伏
  大野駿河守・宮原筑前守を伏兵之将として 家
  久ハ大口城下ニ勢を出シ仍而兵を引候、依之凶徒追来
  右当所之伏兵起シ合相戦、敵首百三十余級打捕申候
 〇同年八月十八日城中力衰、相良・菱刈降参仕候
  貴久公・義久公大口城ニ御入被成、新納武蔵守 
  忠元、大口地頭職被仰付候
      大口城       現伊佐市大口
 〇菱刈大膳亮隆秋は大口城に居り、援兵を求麻(人吉)の相良
氏に乞い城を守っていた。 叉馬越城が落城の後は方々の菱刈兵をこの大口城に引き取っていた。
   そこへ1567年12月29日、守護方の軍勢が市山城を経て大口城下に迫り隙を伺っていた。 その時城兵一千余が突然突出して合戦となり守護方は苦戦を強いられた。 市来備後守・平田加賀守・伊集院刑部少輔が戦死し、味方は漸く市山城に引上げた。

 〇翌68年正月20日大口の菱刈兵三千程が堂崎へ突出した。 忠平公は馬越城より向い合戦となったが敵多勢故苦戦を強いられ、川上左近将監久朗が強敵を飛田の渡瀬で支えた。 この時忠平公が殿(しんがり)となり、敵三十余人が迫った所を弓で数人射伏せた。 久朗も七ヶ所疵を受け漸く其場を退候した。 忠平公羽佐の瀬を渡る時、懸矢下総・財部伝内左衛門・入来筑後が側に付き添い軍功があり、忠平公は曽木城に入った。 この苦戦により貴久公・義久公は馬越城より出陣したが、菱刈側はその勢いに押され、引き下がった。

 〇翌69年5月6日守護方は新納忠元と肝月兼寛の両人が島津叉七郎家久と相談し、戸神尾稲荷山に兵を伏す。 大野駿河守・宮原筑前守を伏兵の将として家久は大口城下に軍勢を出して引いた。 これにより菱刈兵が追ってきたところを稲荷山の伏兵が起り戦いとない、敵の首30余を討取った。

 〇同69年8月18日、城中は力衰えて相良・菱刈連合軍は降参した。 貴久公・義久公は大口城に入被し、新納武蔵守忠元に大口地頭職を命じた。

註: 島津家久:貴久弟 肝月兼寛:肝月兼演の嫡男(肝月一族の中の守護側)。
  隅州菱刈郡曽木           
一長野城
 〇永禄十二年五月廿五日守護方之兵攻之、祁
  答院新兵衛尉致突出令合戦、味方数多身命ヲ
  おとす、尽粉骨被得御勝利候
      長野城     現伊佐市大口
 
〇1569年12月25日守護方の兵がこの城を攻めた。 祁答院新兵衛尉が城より突出して合戦となり、味方の多数が命をおとしたが、粉骨を尽くし勝利した。
  日州諸県郡飯野                 
一木崎原
 〇元亀三年五月四日伊東氏之凶徒窺ニ飯野ヲ過
  忠平公之御簾中被成御座候加久藤之城へ押寄
  放火仕候付、忠平公纔四五拾騎ニて飯野城より
  木崎原御出張被成候処、伊東家之軍兵加久
  藤城ゟ引取候路、於木崎原御会戦有之候、敵
  将伊東叉次郎・落合源左衛門諸軍致下知、強
  相働候、味方久留半五左衛門軍労仕、此時伊東
  軍兵長峯弥四郎と申者 忠平公へ向来候を
  遠矢下総守・竹下五左衛門瀬戸口八郎左衛門続来
  右弥四郎を打取候、且叉伊東叉次郎落合源左衛門
  戦死仕、敵軍浮立候ニ付、弥以御勝利罷成候、伊東
  加賀守者五代右京助を打取候、其子伊東源四郎
  伊東大煩助も致戦死候故、敵敗軍ニ罷成候*P53
  忠平公鬼塚原
小林之内迄追詰被成候、此時柚木崎
  丹後と名乗、御大将と奉見 忠平公ニ突来候故
  島津兵庫頭忠平と御名乗、其威光ニ奉恐丹
  後守提候鎗を投捨候処、御馬上より御討取被
  成候、其日肥田木玄斎と申者も御討取被遊候
  然而敵軍弐百九拾六人御討取、其外切捨多
  為有之由候、味方鎌田大炊助・野田越中坊・曽木播
  磨守・富永刑部左衛門、於木崎原討死仕候、且
  叉 忠平公被為召候御馬、柚木崎丹後守を御討
  被成候時、膝を付候而首尾能御討取被成候、依之
  膝付栗毛と名前御付、八拾余歳迄存生仕候由申
  伝候、右馬死候而帖佐亀泉院ニ御葬被遊、爾今
  御馬之塚在之由候
      木崎原     えびの市池島
 
〇1571年5月4日、伊東氏の軍勢は秘かに飯野を通過して忠平公の妻子が居る加久藤之城へ押寄せて放火した。 忠平公は僅か四五拾騎で飯野城より木崎原へ出陣したところ、伊東家の軍兵が加久藤城より引上げる途中であり、木崎原において合戦があった。 
  敵将伊東叉次郎と落合源左衛門は諸軍に命じ強く攻め、 味方久留半五左衛門が身を捨てて忠平公を守った。 此時伊東軍の長峯弥四郎と云う者が忠平公へ向ってきたが遠矢下総守・竹下五左衛門・瀬戸口八郎左衛門が続いて来て弥四郎を打取った。 更に伊東叉次郎と落合源左衛門が戦死し、伊東軍は混乱して島津側が優勢になった。 伊東加賀守は五代右京助に討たれ、その子伊東源四郎と伊東大煩助も戦死したのでて敵は敗軍となった。
  忠平公は鬼塚原(小林の内)迄伊東軍を追詰めた。 この時柚木崎丹後と名乗る武士が、忠平公を大将と見て突いて来たので島津兵庫頭忠平と名乗った所、その威光に恐れをなし丹後守は持っていた鎗を投捨てたので、忠平公は馬上より討取った。 その日肥田木玄斎と云う武士も討ち取った。
  斯くして敵軍296人を討取り、その他切捨て多数有ったという。 味方では鎌田大炊助、野田越中坊、曽木播磨守、富永刑部左衛門が木崎原で討死した。
  それから忠平公の乗っていた馬が柚木崎丹後守を討取る時、膝をついたので首尾よく討取る事ができた。 これによって膝付栗毛と名前を付、八拾余歳(人間で言えば)迄長生きしたと伝えられている。 この馬は死後帖佐の亀泉院に葬られ、今も(江戸時代)この馬の塚があると云う


木崎原の戦いについては多くの記録が残されており、薩藩旧記雑録にもいくつかの記事がある。 細かいところは少しずつ違うが大筋としては島津側300、伊東方数倍(3、000)だったが島津側が至るところに伏兵を置いて勝利したという。 この戦いで伊東方は大敗した事により以後急速に衰退した。 南九州の関が原と云われている。

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  隅州大隅郡                  *P54
一禰寝城                      
 〇禰寝氏世々居城ニ而伊知地・肝月ニ党を結、守護方
  不随候、然処禰寝右近太夫重長、党を離
  義久公御味方申上候付、天正元年肝月河内守
  兼続以下之凶徒御退治可被成とて、勢を禰寝城
  御入被成、 義久公ハ指宿城江御入、同十八日島津
  右馬頭征久、大将ニて御人数を肝月ニ被出候
     禰寝城    現肝属郡南大隅町根占
 
〇禰寝氏が代々居城していたが伊知地・肝月と同盟し、守護方に随わなかった。 ところが禰寝右近太夫重長は同盟を離れて義久公に味方するというので、1573年肝月河内守兼続以下の反徒を退治するため、守護方軍勢を禰寝城に入れ義久公は指宿城へ着陣した。 同十八日島津右馬頭征久を大将にして軍勢を肝月に向けた。


禰寝(ねじめ)氏: 鎌倉時代から大隅根占院郡司・地頭
島津征久(以久):島津忠将(貴久弟)の嫡男、後初代佐土原藩主
  隅州大隅郡
一牛根城                       
 〇此城ハ肝月兼続之家臣安楽備前守と申者大将ニて
  召置候、天正元年之冬、 義久公平常之岡ニ御 
  陣被成、翌正月三日凶徒高隈山を越、牛根城下茶
  園ケ尾ニ陣を相構可申と企候故、島津図書頭忠
  長・川上上野久信以下下知ヲ加、及一戦凶徒引退候
  依之茶園ケ尾を以、御陣□□□□□□
  □を以牛根城之崖を掘候 □□□城中ニ通 *P55
  候ニ付及難儀城主安楽備前和を乞、城ヲ降申候、同
  廿一日 義久公鹿児島江御帰陣被遊候、逆瀬川豊
  前兵衛等別而軍労仕候
       牛根城     現垂水市牛根
 
〇此城は肝付兼続の家臣安楽備前守が大将として守っていた。 1573年の冬、 義久公は平常の岡に布陣した。 翌正月三日肝付側は高隈山を越、牛根城下の茶園ケ尾に陣を構える様子だったので、島津図書頭忠長・川上上野久信以下に命じて一戦を行い肝付側は引き下がった。 そこで守護側は茶園ケ尾に陣を構えて、牛根城の崖を掘ったので道が城中に通じ、城側は苦戦となり城主安楽備前は和を申し込み下城した。  同21日義久公は鹿児島へ帰った。 逆瀬川豊前兵衛等が特に功労があった。

註: 原文一部破損
  日州諸県郡
一高原城            
 〇日州伊東家之臣、伊東勘解由と申者高原城ニ
  召置、天正四年八月十六日 義久公鹿児島御進
  発同十八日義弘公之御居城飯野ニ御入同十九日
  諸軍高原城江被差向候、 義久公ハ花堂ニ御陣ヲ
  被居候、同月廿一日島津中務太輔家久・同図書 
  頭忠長大将ニて顧守カ尾ニ陣を築、互ニ防戦有之
  味方ゟ水路を断候ニ付、城中致難儀、和談ニ罷成
  同廿三日城主勘解由退去仕、則日 義久公高
  原城ニ御入被成候、此城落去□□□□□□□
  高崎・三山・内之木場・岩牟□□□□□□ *P56
  奈崎ことごとく落去仕候、 同廿八日 義久公三山に
  御着六日飯野城ニ御入候
       高原城     現西諸県郡高原町
 
〇日向国伊東家の家臣伊東勘解由と云う者が高原城を守っていた。 1576年8月16日義久公は鹿児島を出陣し同18日には 義弘公の居城である飯野に到着した。 
  同19日諸軍高原城へ出発し、義久公は花堂に布陣した。 同月21日島津中務太輔家久と同図書頭忠長を大将にして顧守カ尾に陣を築き互いに防戦した。  島津側が城中への水路を断ったので城中は苦しみ和談となった。  同23日城主勘解由は退去し、即日義久公は高原城に入城した。 この城が落ちた事により高崎、三山〔小林)、内木場、岩牟礼、須木、須師原、奈崎等全て落城した。 同28日義久公は三山(小林城)に到着、6日飯野城に入った。

註: 原文一部破損・汚れのため不確定だが、伊東方の最前前城は上記の通りである。 これらが全て落城すると次ぎは野尻、戸崎、紙屋城が伊東方の西の最前線となる。
  日州諸県
一野尻                       
 〇伊東家臣福永丹波守、城主ニて相守候処、伊東
  三位義祐を憤之子細有之候ニ付、高原城ニ
  被召候上原長門守江内通仕候故、此旨飯野江申上
  則 義弘公御出陣被成、天正五年十二月七日落去
  仕候、翌八日伊東持城戸崎城
野尻之内も落去仕候、
  依之同十一日 義久公野尻ニ御着被遊候、右両城
  落候ニ付入道義祐進退究、豊後之国江退去ニ而
  御座候
       野尻       現小林市野尻町
 
〇伊東家の家臣福永丹波守が城主として守っていたが、伊東三位義祐に不満を抱く様な事情があり、高原城に在城している島津方の上原長門守に内通した。 上原がこれを飯野に報告したので直ちに義弘公が出陣し、1577年12月7日落城した。 翌8日に伊東家の持城である戸崎城(野尻之内)も落城した。
  これにより義久公は野尻に到着した。 この両城が落城したので伊東入道義祐も進退極まり、豊後の国へ退去した

註:三位入道:伊東義祐は日向伊東家10代当主、伊東家の最盛期を築き島津家と争ったが、最終的には伊東家の没落を招いた。
一琉球国
 〇琉球国ハ元来日本ニ通融仕来候処□□□
  則嘉吉元年也 将軍義教公致御□□□□

  逆心相顕、日州ニ被□□□□        *P57
  討旨御家九代之太守 忠国公□□□□
  新納氏・樺山氏・北郷氏・肝月氏・本田氏此五家ニ被
  仰付、日州於福島 野辺氏領之 僧正を奉討御首義
  教公江被差上候、依之被賞御勤功を
  忠国公江琉球国御拝領被遊、自爾以来御家
  代々献貢船来候処、至 家久公御代慶長年上
  間相背候故、再三琉球国江被仰遣趣有之候、□□
  承引無之ニ付、 大相国家康公 将軍秀忠
  公江御伺被遊、樺山権左衛門久高・平田太郎左衛門
  増宗両将ニて、士百余人雑兵共ニ三千余□
  慶長十四年三月始、山川之湊より発向被仰付、
  家久公御事山川湊□□□□□□
  諸船随御下知、致□□□□□
  至徳島、島人相防候ニ付□□□□□□□  *P58
  無難御味方仕、軍船□□□□□□□□
  其時国司尚寧之弟、具志頭并三司官浦
  添・名護・謝那小船於乗来降を乞候得共、其
  真偽究而不相知候ニ付、三月之末、船を大桃津に
  着候処、那覇津ニ鉄鎖を張候由相聞え候付、軍ヲ
  二ツ分、四月日海陸より進、悉攻入致□□□
  (後頁欠)
           琉球国   現沖縄県
 〇琉球国は元来日本と交易をしていた。 1441年の事であるが室町6代将軍の義教公は大覚寺義昭(3代将軍義満の子、義教弟)の謀叛の疑いをかけた。 日向の国に潜伏する義昭を追討する様幕府より9代太守忠国公にあったので、新納氏・樺山氏・北郷氏・肝月氏・本田氏の五家に追討を命じた。 日向国福島は野辺氏の領だったが、ここで僧正を討ちその首を義教公に献上した。この勲功を賞して将軍より忠国公は琉球国を拝領し、以後代々琉球は貢船を島津家に送ってきていた。
  家久公の代になり慶長年間より貢船を送ってこなくなったので、再三琉球国へ督促をしたが埒が明かない。 そこで大御所家康公及び将軍秀忠公へ伺いを立てた後、樺山権左衛門久高・平田太郎左衛門増宗を大将にして、士分百余人雑兵あわせて三千余人を、1609年3月初めに山川港より出陣させた。 家久公は山川湊迄見送り、諸船は命令に随って出発した。
  軍船が琉球に到着すると、国王尚寧の弟、具志頭並びに三司官浦添・名護・謝那が小船でやって来て降伏を願出た。 しかし真偽は不明なので3月末船を大桃津に着けたところ、那覇の港は鉄鎖を張っているとの情報に接したので、軍を二つに分け、4月日より海陸より進み全軍が攻め込んだ。
(以下頁欠)

註:
1.存在するページも下部破損
2.この藩内諸城由緒は全て関が原の戦い(1600年)以前の事を述べているが、この琉球侵攻だけが近世初頭の項目である。
出典: 都城島津邸 資料通番1656 江戸藩内諸城調
〔薩・隅・日の各城の由緒) 写本より
翻刻・註・現代文訳:大船庵
1.和暦は現代文では分かり易くする為西暦年に直したが
月日は原文のままとした。 太陽暦ではない。
2.城地名は現代文では2012年現在の市町村名とした。


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