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                       南九州の中世
                      ー薩摩藩内古城由緒


島津日新斎のいろは48歌碑〔鹿児島市内)
 古への道を聞きても唱へても
   わが行にせずばかひなし
  先日都城島津邸より同館所蔵の資料を見せて戴く機会があり、57帖の和綴本の解読を試みた。 表紙及び最初と最後のページが無く現存ページも一部破損もしているが、内容はほぼ解読できた。 書かれた時期は不明だが江戸初期迄の内容が盛り込まれており、書き方のスタイルや言葉の使い方等、江戸中期に書かれた大道寺友山の落穂集などに酷似しているので江戸中期以降のものと推定する。 内容は中世の薩摩国・大隅国・日向国諸県郡に有った80余の城と、その城にまつわる戦の顛末を島津本家を中心に書かれている。 これ等の城は南北朝時代に築かれた山城が多く、その殆んどは江戸幕府による元和元年〔1615年〕の一国一城令で廃城となり、この書の頃には既に畠になっているものもある。 
  島津家は鎌倉時代初期の荘園地頭に始まり、室町時代に守護大名から戦国大名に脱皮、更に江戸時代に近世大名として明治維新迄大藩を維持した全国でも稀有な大名家である。 薩摩藩の史料としては江戸時代後期に編纂された薩藩旧記雑録(67冊、元和元年迄、国立公文書館写本)という決定版のようなものがあるので、この書による新規事実はないと思うが、中世の歴史を城の由緒という切り口で書いているのが面白い。

尚個々の城毎に多くの戦の記録や数多くの人名が登場するので、混乱を避けるため歴史背景について以下概要をまとめる。


1. 日本68国とその郡の成立は8-9世紀頃で平安初期の和名抄という書に既にあるという。 この国・郡の名前が江戸時代は勿論現代も一部残っている。 10-11世紀になると、その国・郡の中に荘園と呼ばれる貴族の私有地が出現するが、中には郡、或は国をまたいで存在するものもあった。 南九州にも多くの荘園が有ったが、島津庄と云う荘園は摂関家の所有で日向、大隅、薩摩の半分近くを占め、その中には古い荘園も含んでいたといわれる。 

2. 鎌倉時代初期、源頼朝の御家人惟宗忠久と云う武士が島津庄の地頭(管理人)に任命され島津姓を名乗る。やがて薩摩・大隅・日向国の守護職(警察権を持つ)になる。 しかし日向の守護職はその後北條家の一族に移り、鎌倉幕府が滅びると畠山直顕が任命されている。

3. 島津忠久を島津家の初代として5代貞久よりこの「城の由緒」は始るが、時は鎌倉時代末期から南北朝の時代になる。日本全国で南朝方、北朝方に分かれて戦いとなり、南九州も南朝方、北朝方に分かれて豪族達が争った。 その頃は島津庄という地域も見えず、平安時代からの荘園管理人や自領の領主達が豪族となり、 鎌倉幕府から拝命した守護職の権威は名前だけとなり、自領をもつ者の実力の世界だったようである。 九州は肥後の菊池一族を初めとして南朝が強く、その中で島津家は足利幕府側(北朝)に付いたので、 薩摩・大隅でも平安時代末から鎌倉初期に関東から移住した渋谷一族、肝月家、税所家、蒲生家、肥後南部の相良家など南朝側と戦いが続き、貞久の次の世代(師久、氏久の時代)迄つづく。

4. 貞久は薩摩・大隅の守護職を長子師久、次子氏久にそれぞれ分割継承した。 南北朝の騒乱時代は兄弟一致して南朝側と戦ったが、夫々の子伊久、元久の時代になると既に南北朝統合の時代に入り、今度は島津家の内部の争いとなる。 師久系は総州家〔上総介〕、氏久系は奥州家(陸奥守)と呼ばれ、多くの豪族達を巻込み争った後奥州家元久が薩摩・大隅の守護職となる。 しかしこの争いは後を引き、3代位後迄続く。 その間元久の死後後継問題で元久弟久豊と親戚の伊集院(頼久)と争いになり、叉多くの豪族達が夫々について戦うが、 その後数代の間に室町幕府の守護大名としての島津家の地位は固まってきた。 鎌倉時代の守護は警察権のみで大名とはいわなかったが、室町時代の守護は自分も領地を持ち、守護大名として管轄国内の地頭領主を監督する立場になった様である。

5. 室町時代末期になり、所謂戦国時代に入ると島津家内でも再び内紛が始る。 14代勝久の時代になり後継を廻り伊作島津家と薩州島津家の争いになり、伊作家の島津忠良〔日新斎〕が薩州家島津実久を抑えて、子の貴久を勝久の養子として島津宗家である奥州家を継ぐ15代当主とする。

6. 貴久の時代になると戦国時代たけなわであり、全国各地で地頭達が力を付けて武力で領地を広げ、次々と旧来の守護大名にとって代わる戦国大名が生れる。 薩摩・大隅でもそれまで守護大名の下で独自領を持っていた豪族達と島津家の戦いが始る。 薩摩国内は薩州家島津を亡ぼすとほぼ統一がなったが、大隅国では古くからの豪族である渋谷五家、蒲生家、菱刈家、肝月家などが力を持っていた。 島津家は彼等と熾烈な戦いを経て統一を果たし薩摩大隅を領する戦国大名として大きく脱皮する。

7. 貴久の子義久、義弘の時代になると日向の伊東氏を降ろし、北上し豊後の大友家を降ろし九州全土を手中にするかに思われた。 そこで秀吉の天下統一と衝突し南九州に押し戻され降伏したが、薩摩国・大隅国及び日向諸県郡が島津家領としてみとめられる。

8. 関が原の戦いの後江戸幕府が成立し多くの戦国大名が消えた中でも島津家は近世大名として残り、秀吉時代に認められた領国がそのまま薩摩藩〔叉は鹿児島藩、初代藩主は義弘の子、家久〕となり明治維新迄続く。
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       城由緒原文翻刻 及び 現代文
原文ページ数 城郭名(*は古戦場)
P1-P4        (姫木) 高城(1) 伊集院(1) 鹿児島清水(1) 飯野 岩剣(1) 栗野 帖佐(1) 富隈  鶴丸 新城 加治木(1)
P4-P9 伊作 田布施(1) 加世田(1) 加瀬田 碇山 伊集院(一宇治) 市来 
P10-P14 東福寺 催馬楽 鹿児島本城(2) *野本 *原良 谷山 知色 尾崎 櫛木野 宮里 峯
P15-P19 崎山 木牟礼 大姶良 末次 西俣 *国合原 手取 逢原 萩峯 溝辺 *土器園
P19-P24 都城 梶山 野々美谷 
P24-P29 姫木〔2〕 清水 *湯之峯 鶴田 川辺〔松尾、内)
P29-P34 徳満 樋脇(清色) 志布志 田布施(2) 平佐  
P34-P39 *平等寺 高城(2) 喜入 *貝柄崎 永利 指宿 頴娃 知覧 隈 伊作 加治木〔2〕
P39-P43 加世田(2) 紫原(苦辛) 高山 吉田 *月野 南郷 大田原 帖佐(2) 
P43-P48 岩剣(2) 北村 松阪 蒲生 廻 横川
P49-P53 三山〔小林) 馬越 大口 長野 *木崎原 
P54-P58 根占 牛根 高原 野尻 *琉球国                             

左写真:P29 徳満城より
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(写真は都城島津邸所蔵)




参考文献
薩藩旧記雑録(国立公文書館蔵)
大日本古文書家わけ島津家文書1-4(東京大学史料編纂所発行)