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           シーボルト事件関係者判決文(文政13年)
                 原文:内閣文庫文政雑記より翻刻

○文政十三寅年
        申渡之覚
             御書物奉行
               天文方兼
                   高橋作左衛門
地誌并蘭書和解等之御用相罷在候ニ付、御用立
候書類取出差出候得者 御為筋ニも相成と兼而
心懸候由者申立候得共、去ル戌年江戸参府之
阿蘭陀人外科シーホルト儀、魯西人著述之書籍
阿蘭陀国之新図所持致シ候趣、通詞吉雄忠次郎
より及承、右書類手ニ入和解致差上度一図ニ存込
懇望致候得共容易ニ不手放候間、忍び候而度々
旅宿へ罷越、懇意ヲ結ひ候上、右書類交易之義
申談候処、シーホルト儀日本并蝦夷地宜図有之候
ハハ取替可申旨申聞、右地図異国へ相渡候義ハ
御製禁ニ可有之儀と存候得共、右ニ

かかわり誌書取失ひ候も残念ニ存、下川辺林右衛
門ニ申付、先年御用ニ而仕立候測量之日本并蝦夷
之地図地名等差略致、新規仕立さセ両度ニ差贈、
右書貰請并東韃紀行・北異紀行・九州小倉・下之関
辺之測量切絵図等貸遣、其後シーホルトよりエトロフ
・ウルッフ辺迠引続候絵図仕立呉候様申越候ニ付、
差送候心得ニ而是亦林右衛門江申付仕立出来致
候得共右絵図者不差贈、右次第及露顕御詮義之上
シーホルト帰国不致内地図其外御取上候へ共右躰
容易品阿蘭陀人江相渡重キ御製禁を背候段不届
之至、剰平日役所御入用筋之儀、

仮令私欲者無之候共、勝手向入用と打込ニ懸払
紛敷取斗、其上身持不慎之儀も有之、旁御旗本
身分有之間敷、重々不届之至ニ候、存命ニ候得者
死罪被 仰付もの也
  右之通可被 仰付ものニ付、其趣を可存段一件
  之もの共へ可被申渡候、已上
文政十三年(1830) 寅年
       申渡しの覚
             御書物奉行
             天文方兼
               高橋作左衛門(景保)
地誌並びに洋書解読の仕事に役立つ書物を揃え
れば御役に立つ、と普段から心掛けている事は
理解する。  しかし二年前に江戸を訪問した
オランダ人外科のシーホルトが、ロシア人著述の
書籍や新しい世界地図を持っている事を、通訳の
吉雄忠次郎から聞き、この書類を手に入れ解読し
献上したいと一途に思い込み、熱心に頼んだが
中々手放さない。 
そこで度々忍んで旅宿へ行き親しくなった上で、
この書類の交換条件を打診した所、シーホルトは
日本並びに蝦夷地の良い地図であれば、交換
できる旨答える。

地図を異国人へ渡す事が国禁であるのは分って
いるが、 これに拘り貴重な誌書の入手機会を失う
のは残念に思い、下川辺林右衛門に指示して、
前に上の要求があり仕立てた日本並びに蝦夷の
地図から地石等省略して新規に仕立させ、二度に
渡り提供して上の書類を貰い受けた。
更に東韃紀行・北異紀行・九州小倉・下之関辺の
測量切絵図等を貸した。 

其後シーホルトよりエトロフ・ウルッフ辺迄続く地図
を作って呉れる様依頼があり、送る積もりで又
林右衛門へ指示し、作成完了したがこれは贈って
いない。 

この事が発覚し、シーホルトが帰国する以前に地図
その外押収したが、このような重要な物をオランダ人
へ渡し国禁に背くとは不届であり、その上以前から
役所の費用について私用ではないが、不明朗な
処理を行い、その上身上に慎みがない事等もある。 

これらは旗本にあるまじき事であり、重ね重ねの
不届の至りで存命ならば死罪を申し渡すものである。
  このような重い判決であるので、これを基準に
外の関係者にも判決を申渡すものである、以上。


高橋景保:(1875-1829)通称作左衛門、 幕府天文方高橋至時の長男で、父の跡を継ぎ
       天文方に出仕(文化元年、1804) 天文方筆頭兼書物奉行。
判決の日付: 上の判決文は文政13年寅年であり、事件発覚は文政11年、シーボルトの国外
         追放は文政12年で、遅い判決に思われる。 尚文政13年12月10日に改元され
         天保元年となる。
ロシア人著述の書:ロシアの提督クルーゼンシュテルンの世界周航地誌
林右衛門: 部下の下川辺林右衛門 
役所費用の不正処理:伊能忠敬の地図作成事業を監督、援助する立場にあり、下川辺判決
            文に詳しい
身持慎まず: 次の下川辺判決文にあるように部下の娘を妾同様に使った事か?
旅宿: 江戸の長崎屋、 オランダ商館長が四年毎に参府した時の定宿
存命ならば死罪: 高橋景保は判決前に牢内で死亡
             二丸火之番
             御書物奉行
             天文方兼
             高橋作左衛門手付暦作測量
             御用手伝出役
               下川辺林右衛門
其方儀去ル戌年阿蘭陀人為拝礼参府、長崎屋源
右衛門方逗留中、高橋作左衛門義異国地誌取調御用
ニ付蘭人と対話致候間、参候様申ニ付同道致、其上作

左衛門義外科シーホルト所持致候書籍地図御用ニ可
立品と存込、懇望致候得共容易ニ手放不申候間、忍ひ
ニ而夜分度々罷越、懇意を結ひ右品貰請代りとして
御製禁之義者乍存日本・蝦夷測量之地図・其外品
々相送候義、最初者御用向とのみ心得、追而者右
次第承り候上者  御国禁之儀向様ニも差留不相用
候而不容易義ニ付、其筋へ可申立処無其儀作左衛門
取斗候儀故、子細ハ有之間敷と存候迚同人侭指図
川口源次外四人江申達、日本図・蝦夷カラフト・クナシリ

よりエトロフ・ウルッフ辺迄引続候絵図三枚測量之内、
長崎地図をも仕立、作左衛門江差出乍置、尋之上
同人と申口を合、品能申陳、又者毎月御勘定所より
請取来候同人役所入用之内伊能勘解由預り之地図
会所、同人死去後相止弟子御手当も減切ニ相成、
筆耕料之定式相雇候義者無之如何ニ付御断返可致
處、地図役所者作左衛門自分入用を以御役屋敷内江
補理、右御用相勤候もの共江手当食事等差出候、其外
取賄・融通・流用致候間、別段御断申上候義者事重ニ
付仕来之通居置候様申候共、作左衛門勝手向入用と

打込懸払候段者仮令同人私欲之筋者無之候共、紛敷
取斗故強而差留可申処無其義、殊ニ娘迄作左衛門義
妾同様召仕候義者乍察、彼是申候ハハ勤向差障ニ可
相成と存候迚、不存分ニ致置、剰倅同苗康彦義筆算
相応ニ致候迚、作左衛門存寄を以見習勤相頼候様
申勧候共幼年者を十六歳之趣申立、見習勤ニ差置、
御扶持方頂戴致シ候義共作左衛門申合候義者無之
候得とも、右始末御家人之身分有之間敷義、旁不届
ニ付中追放申付之
             二丸火之番
             御書物奉行
             天文方兼
             高橋作左衛門手付暦作測量
             御用手伝出役
               下川辺林右衛門
其方は四年前オランダ人が江戸訪問の際、長崎屋
源右衛門方に逗留中、高橋作左衛門が異国地誌
調査の為オランダ人と面談した時、同道する様言
われ従った

作左衛門は外科シーホルトの所持する書籍は地図
作成に役立つと考え、懇望したが簡単には手放なさ
ないので、非公式に夜分度々訪問して親しくなり
この書籍を貰い、代りとして制禁と知りながら日本・
蝦夷測量の地図、其外品々を提供した。 
 はじめは上からの意向と思っても、上記の状況を
知ればこれは国禁であるから中止しなければ
いけないと、その筋へ問合せするべき所、作左衛門
がやるのであるから問題はない筈と、彼の指図の
侭に川口源次外四人へ指示して日本図・蝦夷
カラフト・クナシリよりエトロフ・ウルッフ辺迄連続した
地図三枚を作成し、長崎地図をも仕立て作左衛門
へ差出して置きながら、審問の時は同人と口裏を
合わせて体裁よく述べている。 

又毎月勘定所より受取る景保の役所費用の内、
伊能勘解由の地図会所の費用については、同人
死去後は停止となり弟子達への手当も減り、筆耕料
の費用も定期的なものは無くなるので受取り辞退
するべきところ、地図役所を作左衛門が自分の費用
で天文方役屋敷内へ作り地図の仕事をする者達
への手当食事等を提供した。
これらの賄や流用をしている事は別途申請すべき
であるのに、そのまま従来通りで作左衛門が取り
仕切っているのは、たとえ私欲は無かったにしても、
紛らわしいので止める様進言すべきであるが
それをしなかった。

特に娘まで作左衛門の妾同様に使われているのを
察しながら、色々言えば自分の勤めに影響すると
考えそのままにしていた。
その上息子の康彦が筆算が出きるので、作左衛門に
頼み見習勤めをする事になったが、幼年者を十六歳
として勤めさせ俸給を貰っていた。 これは作左衛門
と申合せた事ではないが、これらの行為は御家人の
身分としてあるまじき事で不届き故中追放を申し
付ける。

伊能勘解由: 伊能忠敬(1745-1818) 忠敬の測量による大日本沿海輿地全図の作成は、幕府
         天文方で忠敬の死後も喪を隠して三年後1821年に完成したと言われる。

中追放:武蔵、山城、摂津、和泉、大和、肥前、下野、甲斐、駿河、東海道筋、木曽路筋、日光
      道中での居住を禁じられた。
長崎屋源右衛門: 高橋景保が内密にシーボルトと会っている事や、シーボルトの治療を受ける
          ため多くの人々が宿に来ることを放置した廉で五十日の手鎖(手を合わせて
          瓢型の鉄製手錠をかける)を言渡された
川口源次外四人:吉川克蔵、門谷清次郎、永井甚左衛門、岡田東輔。 何れも景保配下地図
          作成チームで同心クラス。 シーボルトに渡すべき地図を製作した廉で川口、
          吉川、門谷の三人は江戸十里四方追放(日本橋から四方五里以内の居住を
          禁じられる)、永井は江戸払(品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸以内
          の居住を禁じられる)、岡田は自殺

その他の関連処分者:
○大庭斧三郎、出野金左衛門は上記岡田の自殺を止められなかった廉で夫々三十日の押込
  (屋敷内に 幽閉して外出を禁じられた)および叱り
○浦野五助、今和泉又兵衛は天文方出向の同心で不適切な処置があった廉で夫々三十日
  及び五十日の押込
○高橋小太郎、同作次郎は景保の息子達で父の罪で遠島(流刑地は江戸からは大島、八丈島、
   三宅島等)
○馬場為三郎、吉雄忠次郎、堀義左衛門、稲部市五郎はオランダ通詞で高橋-シーボルトの
   仲介をした旨で年番通詞へ預け
高橋景保の地図とは関係ではないがシーボルトが禁制品の葵の紋(将軍家)入り衣服を持っていた事で、それを与えた奥医師の土生玄碩及びその関連の人々が処分を受けている
                 奥医師
                  土生玄碩
先達而阿蘭陀人江戸逗留中倅玄昌義為対話候
処、外科シーホルト義眼科療法之膏薬所持致し
候旨承り、其方江申聞右者眼科第一ノ妙法と相聞
且者疑敷も存、其方義旅宿江罷越シーホルトニ
対話致し功能ヲ試候處、実ニ希代之薬験有之ニ
感伏致し、万人の助ニ可相成義ニ付、伝授請取儀
夜中も忍びニ而度々罷越、阿蘭陀人と懇意ヲ結び
候得共容易ニハ伝授致間敷、カビタン江相頼候
ハハ可然哉と存付、カビタン之欲候品遣し度、居合
候者之教ニ任セ何之思慮も

無之、着シ居候御召御紋之羽織ヲ差遣し薬法伝授
之義取斗呉候様相頼候処、シーホルト義も右
様之品望之趣申聞候ニ付、其段時服御紋付御帷
子差遣し候処、薬法伝授致し呉候間、為謝礼尚又
御紋服差遣候段、仮令私欲ニかかわり候義者無之
不弁之義ニハ候得共  御国禁を背候段不
届之至候、依之改易被 仰付之者也

            玄碩惣領
             西丸奥医師
               土生 玄昌
父玄碩不届之品有之候間改易被
仰付、依之其方儀御切米被召放者也
右者評定所ニ於て大目付村上大和守申渡之
町奉行筒井伊賀守・御目付山岡五郎他立合
                奥医師
                  土生玄碩
先達てオランダ人が江戸逗留中、息子の玄昌に面談
させたところ、外科シーホルトが眼科療法の膏薬を
所持している事聞いて其方へ報告した。 これは
眼科第一の妙法と聞くが疑わしい点もあるので、其方
は自分が旅宿へ行きシーホルトと対話して功能を
試したところ、実に希なる効き目があり感伏した。 
これは万人の助けになるものであり、なんとか手に入
れようと夜中も忍んで度々面会してシーボルトと
親しくなったが中々伝授して呉れない。 
そこで商館長に頼む事を思いつき、周囲の勧めで
余りよく考えずに、着ている拝領の紋付羽織を与え、
製法伝授を頼んで貰うようにした。 

ところがシーボルトもこれと同じものを望んだので、
紋付帷子を与えたところ製法を伝授して呉れた。 
そこで謝礼のため又紋服を与えた。 
たとえ私欲にからんだものではなく、不憫ではあるが
国禁に背いた事は不届である。 これにより改易を
命ぜらるものである

               玄碩惣領
               西丸奥医師
                 土生 玄昌
父玄碩に不届があり改易させられた。 これにより
其方の俸禄を停止する。
これは評定所に於て大目付村上大和守が通告
町奉行筒井伊賀守、御目付山岡
五郎、他立合

土生玄碩:(はぶげんせき1768-1853)眼科で奥医師を勤めた

                その他の処分者
○長崎奉行家来水野平兵衛 商館長やシーボルトの参府後、長崎への帰路江戸で入手した
  諸禁制品を持っているのに荷物の検査が不十分との事で押込50日
○新番頭高橋駿河守 長崎奉行所勤務時代にシーボルト達の江戸における旅宿取締が
 不行届で差控