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                      下田約定        戻る
嘉永七年寅五月廿二日於下田約定
       条約付録
一日本へ合衆国より之使節提督彼里と
 日本大君之全権林大学頭・井戸対馬守・伊沢美作守
 都筑駿河守・鵜殿民部少輔・竹内清太郎・松崎満太郎
 両国政府之為取極置候条約付録

     第一
一下田鎮台支配之境を定めんが為、関所を発るハ其意
 の侭たるべし、然共亜墨利加人も亦既に約せし日本里
 数十里之境、関所出入するに障ある事なし、但日本法
 度に悖るものあれば番兵是を捕へ、其船へ送るべし  

     第二
一此湊に来る商船・捕鯨船之為上陸場三ヶ所定置候
 其一は下田、其二は柿崎、其三は港内之中央にある
 小島の東南に当る駅辺ニ設べし、合衆国の人民必ず
 日本官吏に対して丁寧を尽すべし

     第三
一上陸之亜墨利加人、許しを不受して民家・町家に一切
 立寄ルべからず、但寺院・市店見物者勝手次第たるべし

     第四
一徘徊之者、休息所か旅店発る迄は、下田了仙寺・柿崎
 玉泉寺二ヶ所を定むべし
     
     第五
一柿崎玉泉寺境界ニ亜墨利加人埋葬所を設け租略ある 
 事なし

     第六
一神奈川ニ而者条約に箱館において石炭を得べきよし
 なれとも、其地にて渡し難き趣出来、提督彼里承諾致し
 箱館ニ而石炭用意に及ばざる様、其政府に告べし

     第七
一向後両国政府において公題の告示に蘭通詞居合さ
 る時の外は漢文訳書を取用る事なし

     第八
一湊取締壱人港内案内者三人定むべし

     第九
一市店之品は撰 に買主之名と品々価とを記すべし
 御用所ニ送り、其価を御用所ニ而日本官吏ニ弁ジ品
 者官吏A渡すべし

     第十
一鳥獣遊猟は都而日本に於て禁ずるところなれば亜
 墨利加人も亦此制度伏すべし

     第十一
一此度箱館之境日本里数五里を定め置、其地之作法
  は此条約第一ヶ条ニ載する所の規則に倣ふべし

    第十二
一神奈川ニ而者条約取極之書翰を得、是に答ふるハ
 日本君主ニ於て誰ニ委任あるとも意の侭たるべし

    第十三
一茲ニ取極置所之規定は何事によらず、若神奈川条
 約に違ふ事有とも又ハ是も変する事なし
 
右之条約付録、英吉利語、日本語ニ取直シ、認名判致し
蘭語翻訳して書面を合衆国并ニ日本国全権双方取替す
ものなり
   暦数千八百五十四年第三月十一日
         下田ニ於而名判致ス
                       彼理
   日本嘉永七年五月廿二日
                 林  大学頭
                 井戸 対馬守
                 伊沢 美作守
                 都筑 駿河守
                 鵜殿民部少輔
                 竹内 清太郎
                 松崎 満太郎
    右蘭訳致候

       ボツテメン
    右之通和解差上候
         寅五月    本木 昌造
                  堀 達之助

出典:嘉永雑記第9冊
嘉永7年5月22日於下田約定
1854年6月17日日米和親条約(神奈川条約)付録

一日本への合衆国使節ペリー提督と
 幕府委員林大学頭・井戸対馬守・伊沢美作守
 都筑駿河守・鵜殿民部少輔・竹内清太郎・
 松崎満太郎が両国政府の為取り決めた条約付録

     第一
一下田奉行支配の境を定める事ために関所を設け
 る事は自由である。 しかしアメリカ人も又約束の
 10里以内は関所の出入りは自由である。 
 但日本の法に背く者があれば、番兵は是を
 捕へてその船に送る事

     第二
一此湊に来る商船・捕鯨船の上陸場として三ヶ所を
  決める。
 其一は下田、其二は柿崎、其三は港内の中央に
 ある小島の東南に当る辺に設ける。
 合衆国人民は必ず日本官吏に対して丁寧を尽
 す事

     第三
一上陸のアメリカ人は許可無く民家・町家には一切
 立寄らぬ事。 但寺院・商店見物は自由である。

     第四
一散策する者の為の休息所か旅宿ができる迄は、
 下田了仙寺、柿崎 玉泉寺二ヶ所を定める
     
     第五
一柿崎玉泉寺境内にアメリカ人埋葬所を設けて
 租略にしない事

     第六
一神奈川における条約で、箱館にて石炭を供給
 するようにしたが、其地では難しい事が分かった
 のでペリー提督は了解して、箱館で石炭の用意
 ができない事をアメリカ其政府に告げる事

     第七
一向後両国政府における公の連絡に、オランダ語
 通訳がいる場合に漢文訳書は不要とする

     第八
一湊取締を壱人、港内案内者三人定める事

     第九
一市内商店の品物を撰び買主名と品々の価を
 記し役所に送る。 其価を役所の日本官吏に
 払い品物は官吏より渡す

     第十
一鳥獣遊猟はすべて日本に於て禁止している
 ので アメリカ人もこれに随う事。

     第十一
一此度箱館の遊歩範囲は五里と定め、其地の
 作法は此条約第一ヶ条で定めた規則に倣う事

    第十二
一神奈川条約の批准を受け取り、その証書を与
 える者は日本君主から隋意委任がなされる事

    第十三
一茲で取り決める事が神奈川条約と異なる場合は
 こちらを優先する。
 
右の条約付録は英語、日本語に取直し、記名
押印てオランダ語翻訳して書面を合衆国と日本国
全権双方が取り交わす
  千八百五十四年第三月十一日
         下田にて記名押印する
                  ペリー
   日本嘉永七年五月廿二日
                 林  大学頭
                 井戸 対馬守
                 伊沢 美作守
                 都筑 駿河守
                 鵜殿民部少輔
                 竹内 清太郎
                 松崎 満太郎
    右オランダ語訳します
                   ポルトメン
    右日本語訳します
         寅五月    本木 昌造
                  堀 達之助




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                  ハリスの出府       戻る
安政五戊午正月
亜墨利加使節一応談判相済下田表江中帰致し候
ニ付、観光丸御船拝借被仰付今廿一日出帆致し候
此段為心得、向々江可相達候事

同年三月六日
亜墨利加使節先達而下田表江中帰致候所、猶亦
観 光丸御船拝借、昨五日再出府致し候、此段為
心得向々江可達候事
安政5年正月(1858年3月)
アメリカ使節一行は会談が終わり下田へ
帰るが観光丸の使用が許可され3月6日に
出帆する。 この件関係者に連絡すること

同年三月六日(1858年4月19日)
アメリカ使節は先日下田に戻ったが、再度
観光丸にて昨五日江戸に出張した。 この
事を関係者に連絡しておく事
注:
出典:安政雑記第六冊
観光丸: オランダより安政二年幕府に贈呈された外輪木造蒸気船
        長さ52.7m、幅9m、排水量400トン

関連艦船比較
ポーハタン号
1854年渡来ペリー艦隊
旗艦、 1860年日米通商
条約批准の正使等を米国
東海岸迄運ぶ
外輪型蒸気船
全長76m、2,415トン
観光丸
オランダ国王より1855年
(安政二年)幕府に贈呈
され練習艦として使用。
外輪木造型蒸気船
全長52.7m、400トン
サンジェシント号
1856年ハリスを下田
へ送った米国軍艦
スクリュー型蒸気船
全長70m、1,567トン
咸臨丸
1857年オランダより購入
1860年日米通商条約
批准の副使等を乗せ
米国東岸往復
スクリュー蒸気船、
全長48.8m、620トン


天地丸
ペリー渡来時日米和親条約締結の代表団
が江戸と横浜の通行に利用した幕府の関船
全長22m、76挺櫓
現代のジーゼル機関船と比較
ロイヤルウィング横浜レストラン船
瀬戸内航路に1959年に就航した現代の
小型客船。 全長86.7m、2,872トン




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            吉田松陰の密航企て     戻る
三月二十九日下田出役浦賀奉行支配組与力等上申書
亜米利加応接掛へ、吉田寅次郎矩方等取調の件
  取調書
            松平大膳大夫家来
             杉百合之助厄介
              吉田寅次郎 寅二十五
            当時浪人
              渋木松太郎 寅二十四
右之もの共相糺候処、寅次郎儀者、兵学執行のため、
十ヵ年の年限にて、先年国元出立、所々徘徊致し昨年
中外国江渡海いたし度存念ニ而、長崎表江罷越候処
右者御国禁之事故、其意も不果立戻り江戸表江罷下り
樋町河岸に住宅仕候鳥山と申儒者之方に罷在、
松太郎儀者、元松平大膳大夫金子茂兵衛厄介ニ
御座候処、昨丑年十二月中屋敷出奔致し、前書鳥山
と申者方ニ罷在候処、異国船渡来致候段承り及候間、
三月五日両人同道にて、江戸表出立、 
         (中略 ) 

処々徘徊いたし柿崎村浜辺江罷越候処、異人三人
上陸いたし居候ニ付、兼而両人申合、外国へ渡海之
儀相願度認置候書面三通異人江相渡し
         (中略)

翌廿七日蓮台寺村辺へ罷越、暮方柿崎村へ来り、
同夜五ツ時頃同所浜弁天堂江罷越、同夜九ツ時
浜辺に卸有之候漁船乗取、ミスシツフと申蒸気船へ
罷越、外国江渡り度候間、為乗参呉候様書面を以
申入候処、不相分趣ニ而異人より横文字書付差出、
ポーハタン江罷越候様にと申聞候間、右書付持参
ポーハタンと申蒸気船江罷越乗組候節、波荒ニ而
漁船繋留兼候内、異人突放し候ニ付、其侭捨置
乗船致候処、日本語を遣候異人罷出、名前申聞候
様にと申候ニ付、両人共廿五日に差遣置候書面に、
本名之儀ハ後々之患ニも可相成と存、偽名を認
相渡候間右偽名瓜中万二、市木公太と相名乗候処、
承知いたし候様子にて、何方へか罷越しばらく立、
又々前書之異人廿五日ニ差送候書面持来、使節へ
も得と申聞候処、歓しき儀ニハ候得共、此度日本之
天下と亜墨利加之天下と事を横浜にて相約し候儀
有之、追而ハ互に通路致候様開き候様ニハ候得
とも、当時即連候儀難相成、

尤下田江来り、黒川嘉兵衛江申立、聞済ニ相成候
ハヽ、即連可申、左も無之候而者、何分取計かね候
旨相断候ニ付、左候ハヽ両人とも本船ニさし置、懸合
呉候様致し度旨、再応相頼候処、承引不致、
バッテーラニ而可送遣候間、上陸致候様と申聞候間、
無余儀同夜八ツ時頃、異船を卸し、柿崎村浜辺江
上陸、

翌廿八日朝、須崎村江罷越、前夜乗放し候漁船
尋方相頼候処、何れも所用有之旨被相断候間、
名主方へ参り、内々相頼候処、同村ニ而者相弁じ
不申趣被相断候ニ付、柿崎村名主方江罷越、前
同様相頼候処、右船之儀ハ、同村之者所持之船
ニ而、今朝流寄候処、船中に大小其外品々有之、
難捨置ニ付、下田御用所江訴出候旨相聞候間、
可相成ハ、右品々内分に受取度と存、同村名主方
に罷在候処、呼出しに相成候旨申候
右取調候趣申上候、以上
   寅三月廿九日         近藤 良次
                     合原猪三郎
                     田中廉太郎
              立合御小人目付
                     前田右太郎
浦賀奉行より出張した与力から
日米交渉委員会への報告書
  吉田寅次郎取調べの件
           松平大膳大夫家来
            杉百合之助厄介 
               吉田寅次郎 25歳
           現在浪人
               渋木松太郎 24歳
上記の者を調べたところ、寅次郎は兵学勉強に
10年の期限で国元(長州)を出立、所々徘徊する
昨年外国に行きたく、長崎を訪れたが渡航は国禁
事項なので果たせず戻った。 以後江戸に滞在し
樋町河岸という処に住み、鳥山と云う儒者に居候。
松太郎は長州藩金子茂兵衛の厄介だったが
昨年12月屋敷から出奔し、前同様鳥山に居候
していた。 この時異国船が渡来したのを聞き
両人は江戸を出発する。

彼方此方徘徊し下田柿崎村の浜辺で異人が三人
上陸しているの見かけ、両人準備していた外国
旅行希望の書面を彼らに渡す。

翌27日夜8時頃柿崎村の弁天堂に来て、夜12時
浜辺の漁船を使いミシシッピと云う蒸気船に着船、
外国に行きたい旨の書面を渡す。 しかし言葉不明
と云う事でポーハタン号に行く様に英文で書面を
渡される。 ポーハタン号に着船の時波が荒く
漁船を繋ぎ止める事ができなかったので、其の侭
乗船した処、日本語を話す異人が出てきた。 

名前を尋ねられたので、両人は25日に渡した書面
に本名は後で問題となると思い、偽名を書いて
いたが、その偽名瓜中万二、市来公太と名乗った
ところ、承知した様子で暫く何処かえ行く。

やがてその異人が25日に陸で渡した書面を持って
戻ってきて語る。 使節にも相談したが、此度
日米の条約を横浜で約した事であり、将来は相互に
往来ができる様になるが、今直ぐは難しい。 
但し、下田にいる黒川嘉兵衛に許可を取るなら
即米国へ連れて行こう。 それ以外何ともならない
と云事である。 両人はねばったが同意を得られず
艀で送るので上陸するようにと説得された。 
異人は午前2時頃本船から艀をおろし、二人を
柿崎村に上陸させる

翌28日朝二人は須崎村で乗り放した漁船の捜索
を頼むが、皆忙しく対応して呉れないので名主の
処に行きて内々で捜索を頼む。 しかし同村では
対応できぬと断られる。 そこで柿崎村名主方に
行き同様捜索を頼んだところ、この船は同村人
の船であり、今朝流れ着いたが船中に大小刀外
あるので放置できず、下田の役所に届けたと聞く。
できれば内分にそれらの品を受け取りたいと思い
名主方にいた所、役所より両名は呼び出された。
以上が取り調べ報告です
  嘉永7年3月29日
            近藤 良次(浦賀与力)
            合原猪三郎(同)
            田中廉太郎(同)
       立合小人目付
            前田右太郎
廿五日、武山下ニ而亜国人へ渡し候和文一通
吾等全世界致見物度候間、御船江内々乗込せ
呉られよ、尤異国江渡る事は、日本之大禁ニ付、
此事を日本之役人共江御話被成候而者、甚当惑
仕候
 右之趣、大将方御承引被下候ハヽ、明晩夜深く
 柿崎村浜辺江伝馬船壱艘御寄候而、御迎被下
 候様奉願候
   甲寅三月廿二日        市木 公太
                      瓜中 万二


異船ニ而異人江出す筆談之片紙
吾等欲往米利幹
君請之
師船大員
   甲寅三月廿七日
三月廿五日武山下でアメリカ人に渡した和文一通
吾等は世界中を見物したいので、貴艦に内々に
乗込ませて欲しい。 但し異国へ行く事は日本では
厳禁されているので、日本の役人達にお話されては
たいへん困る。
この趣旨をあなた方の大将が承諾されれば、明晩
深夜柿崎村浜辺へ艀を一艘送りつけ、迎えに来て
下さるようお願いする
  嘉永7年三月廿二日   市木 公太
                   瓜中 万二

注:上記以外に同内容の漢文二通がある。
この文から察すると、夜に紛れて米艦からの迎えを
期待しているが、結局迎えが無いため小船で押し
かけたものと思われる。

艦上での筆談の紙片
我々はアメリカに行きたい。 この望みを叶えて
下さい
艦隊幹部殿
   嘉永7年3月27日
 
ミシズセヒ船号より、ポーハタン船号江、両人を送る
異人より之横文字和解
  ポーハタン船看板詰之士官江
日本人両人ポーハタ船へ乗度趣ニて、此船江相越候
何用有之而之事ニ候哉不分明ニ候間、右両人其許ニ
差送候
            看板詰士官
                カ・カ・プリュース
ミシシッピー号よりポーハタン号へ両人を送る異人
の横文字の邦訳
  ポーハタン号甲板詰士官へ
日本人二名がポーハタン号に乗りたいとの事でこの
船に来た。 どんな用か分からないのでこの二名を
貴官の方へ送る。
    ミシシッピ号甲板詰士官
           カ・カ・プリュース

松陰等は初め誤ってミシシッピ号に着船したので、
同号より旗艦のポーハタンへ回送される

出典:幕末外国関係文書 
黒川嘉兵衛:浦賀奉行支配組頭、下田奉行着任迄の間、下田の開港責任者
日本語を話す異人: ペリーの幕僚でDr.S.Williams と思われる
松平大膳大夫: 長州藩主、毛利侯の事

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