古文書トップへ 下田開国史跡を訪ねる |
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今年は横浜が開港されて150年の年との事 であるが、その開港より5年前の日米和親条約 締結日に即日で下田が開港されている。 1854年3月31日(嘉永7年3月3日)の事である。 古文書仲間9名で下田の史跡を見学する 日米和親条約を見る 条約を締結したペリー艦隊は4月18日早速 下田を訪問し上陸している。 |
下田でペリー初め士官の休憩所として当てられ たのが了仙寺と玉泉寺で、艦隊は25日間下田 に滞在した。 この間、港湾を測量したり、和親条約に附帯する 下田条約を締結、又下田の住民達とも接触した 後、次の開港予定地の函館に向かう 下田住民とアメリカ人達との交流について、 右の挿絵がペリーの報告書に添えられている。 この挿絵に対する文中説明はないが、大柄な アメリカ人に対抗して、日本人にも大きな者が いるぞ、という日本側のデモンストレーションと 思われる。 r1 |
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艦隊が下田に滞在中、吉田松陰と金子重輔 が密出国を企て、弁天島の祠に隠れ夜中に 小船で艦隊へ向かう。 米艦が事情を聞けば、 松陰等は漢文による筆談で米国行きを頼む。 陸に戻れば斬首の刑になると松陰等も懸命 だが、米側も条約締結直後に幕府と問題を 起こしたくない為、艀で秘かに陸に送り返す。 しかし事は直ぐ露顕し、翌日には主席通訳の 森山栄之助が昨夜二名の日本人が何か問題を 起こさなかった尋ねる。 ペリーは問題はないが 彼等に寛大な処置がなされる様希望する。 この時松陰は蟄居謹慎処分となった。 左は弁天島の神木 松陰取調史料を見る |
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了仙寺で和親条約付帯条項の下田条約13ヶ条 が協議締結された。 日本側委員は林大学頭 以下全員江戸より出張している。 下田条約で 実際にアメリカ船が入港した場合の係留場所、 外国人散策の規定、個人用の買物の規則等々 定めている。 因みに遊歩の休息所として 了仙寺と後述玉泉寺が指定された。 買物は 欲しい物の要望書を日本の役人に渡し、役人 経由で品物を受取るなど。 右写真手前に了仙寺宝物殿と云う建物があり 開港当時の古文書、絵画などが展示されている 下の写真はペリー滞在中境内における軍隊の 訓練風景(了仙寺所蔵) 下田約定13条を見る |
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either A or B、受験時代の英語の慣用句だが 和親条約第11条にも使われており、何れか 一方が必用と認めたら領事を下田に置く、として いる。 しかし日本語訳は双方が必用と認めたら となっているので、ハリスが領事として下田に 米国軍艦サンジェシント号で突然乗込んだ事に 幕府は驚愕する。 しかし条約は認めざるを得ず この玉泉寺をハリスに領事官邸として提供する。 ハリスは日米通商条約の前段階として下田協約 を下田奉行井上信濃守と協議し、更に江戸に 登り将軍家定に拝謁する。 そこで通商条約を 勧める米大統領書翰を渡し、その半年後成立 した日米通商条約で横浜開港が決る。 r2 |
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ハリスは玉泉寺に通訳官ヒュースケンと共に居 を構え、ここを米国領事舘として米国国旗を掲げ これが日本で最初の領事舘となる。 下田は1854年から5年程開港地として使用され たが、日米修好通商条約で横浜が開港される事 になり、下田は1859年に閉鎖となる。 それに 伴いハリスも江戸に移る。 開港地だった当時の名残として、玉泉寺には 米人5人、露人4人の墓が今も残る。 右は玉泉寺境内にある米国国旗掲揚の場所 ハリスの詳細を見る ハリスと日本の開国1 ハリスと日本の開国2 |
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ハリス及びヒュースケンの最初の江戸訪問は 陸路であり、下田を1857年11月23日の 朝出発し天城峠を越えて、修善寺、三島へ 出て東海道を行く。 アメリカ合衆国の使節 として大名行列の体裁で行われた。 江戸到着 は12月1日であり一週間を掛けている。 江戸から下田への帰途は蒸気船(オランダ から献上の観光丸)が使用される。 ペリーの報告書によれば朝四時に横浜出発、 午後三時には下田に到着の由。 現代は横浜ー下田は快適な電車で2時間 以内で行ける。 史料を見る(ハリスの観光丸利用) |