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        呂宋国漂流記ノ内抄録
天保十二年九月十三日、奥州伊達郡北半田重吉船五
百石積十七反帆、観吉丸へ公儀御城米四百五拾石積入、
同所出帆、上総九十九里ニて難風、其後亜媽港ト申ニて
イキリス飛脚船と申物一覧仕候、船之長十七八間も可有ヲ
左右ニ車の輪を仕掛、船中大釜に焚湯を沸し、其蒸気
ニて車を廻し、海上を走行事飛鳥も不及程神速ニ御
座候、香港より舟山迄ハ九百里之處三日ニ往来仕候
を拙者共面あたり見請申候、本国之都ロンドン江注進
之節ハ一万三千里の海上を拾四五日ニ而往来仕候由
承り候
             宮城郡石浜
              水主 長次郎 五十二歳
             本吉郡気仙沼
              水主 喜兵衛 二十 歳
天保12年9月13日仙台藩の観吉丸に
450石藩米積込出帆、九十九里沖で遭難
その後マカオでイギリスの飛脚船を見た
船長17-18間、船の左右に車仕掛有り
船中の大釜で湯を沸し、蒸気で車を回し
海上を鳥も及ばない程早く走行する
香港-舟山の900里を三日で往来するの
を目の当たりに見た。ロンドンへ連絡の
際は13,000里の海上を14-15日で往来
するという
*彼等の乗船した船はマカオ(香港と略同)
ー舟山に二十日掛っている
*マカオに到着は天保13年10月中旬
*呂宋国漂着は天保13年7月21日頃 
  按ニ此飛脚船蛮名ストームボートと云フ蒸気船
  ト訳ス、唐人ハ万足船ノ名ヲ命セリ、此船ハ英吉利
  人近来ノ工夫ニテ新製スル所ノ由、漂客等親シ
  ク之ヲ見レバ誠ニ奇遇ニシテ其所説皆実ヲ得タ
  ルナリ
考えるに飛脚船と言うのはSteam Boat 蒸気船
と訳す、中国では万足船と言う。この船
は最近英国で開発されたもので漂流人
がこれを見たのは当に奇遇である
*按ニ・・・は撰者意見
此舟山も七八年前イキリス人ニ被攻取、当時和睦
相整候得共、唐国よりイキリス人江相納候金子約束
通り皆済仕候迄ハ軍船引取不申由ニて、舟山ニ十四五
艘、其前後之島々三艘或ハ二艘ツヽ繋り居申候
舟山も7-8年前イギリスに占領されて
今は和睦がなったが中国が賠償金皆済
する迄は英軍艦が駐留する。 舟山に
14-5艘、近辺島に2艘、3艘と滞留中
  按ニ英吉利人唐国ト戦争ノ由来ハ、天保八年
  ノ比唐国帝深ク阿片ノ人命を害スル事ヲ察
  シ、寵臣林則徐ヲシテ広東へ下ラシメ、英吉利
  人阿片商売ヲ厳ニ禁ゼシメ、其持渡所二
  万二百九十一箱ヲ取上ケ、残ラズ踏ミ砕テ之
  ヲ海中ニ打捨タリ、是ニ於テ英吉利人大ニ怒
  リ、遂ニ数十艘ノ軍船ヲ差向、先ヅ舟山ヲ攻
  取テ根拠トナシ、其勢ニ乗メ内地江攻入、二三
  年ノ間ニ江南数千里ノ地ヲ容易ニ掠メ取
  既ニ南京ヘモ攻上ラントセシカバ、唐国帝モ大ニ
  畏レ、始テ其鉾ノ当ルベカラザル事ヲ知リ、遂ニ
  和睦ヲ請、阿片銷滅ノ償銀トシテ二千六
  百万両ヲ英吉利へ納レ、即時六百万両ヲ渡
  シ、余銀一千五百万両ハ五ヵ年賦ニ五分ノ利銀
  ヲ加ヘテ、皆済スベキノ約束ヲ定シ由、此度漂客
  等見聞シ来ル所ハ即其事也、香港島ノ永
  々英吉利領地ニ定リタルモ、此時ノ事也ト聞
  ナリ
考えるに英国と中国の戦争の原因は天保8年頃
(1837)清帝が阿片は人命に害となる事を
察して寵臣の林則徐を広東に送り、英国
人の阿片商売を禁止した。 彼等が持参の
阿片を取上て潰して海に捨てさせたので
英国人は是に怒り、数十艘の軍艦を送り
先ず舟山を占領し、これを根拠に内陸に
攻め入った。2-3年の間に江南数千里を
奪われ、南京も奪われそうになったので
清帝も敵わぬと知り、和睦を乞、賠償金
として2600万両の支払いに応じ、600万
両即金、残りは利息五分の五年払いの
約束をした由。 この度漂流民達が見聞
してきた事は当にこの事であり、香港が
永く英国領になったのもこの和議のため
である
夫より乍浦と申湊ニ六月九日着岸仕候節、唐人
共大勢参り日本語にて、おまへどこか抔と辞を被
懸候ニ付、拙者共漂流致始て日本語承り候事
故、はや長崎へ参り候哉と心嬉敷、又怪げニも覚へ
候、扨上陸仕候得者、此處日本渡海の湊にて交易
ノ品々、昆布・炒海鼠・椎茸其外更紗染風呂敷
茶碗・丼・鉢之類夥敷見受申候、唐人共も多くは
長崎渡海のものにて長崎口能覚へ居申候、家
数は一万軒余も可有之、繁花の地と見へ芝居
遊女屋等も有之、湯屋・髪結床等日本ニ差て替
る義も無御座候、但し此辺もイキリス人之乱の後ニて
大筒ニ被打崩候家跡、海辺所々に相見申候
その後乍浦に6月9日到着し、中国人
が大勢きて日本語で、お前どこかなどの
ことばを掛けられ、漂流以来始めて日本
語を聞、もう長崎かと嬉しくも又不思議
でした。 上陸すれば此処は日本への
貿易港で、昆布・煎海鼠・椎茸・更紗染
風呂敷・茶碗丼鉢など多く見懸けた。
此処の中国人は長崎に行ったもの多く
長崎をよく知っている。 ここは1万軒程
家があり、芝居や遊女屋もあり繁華。
風呂屋・床屋も日本と替わらない、只
この辺も英国の為大砲の傷跡所々あり
  按ニ乍浦ハ本辺海ノ一小邑ニして、人煙も甚稀ニ
  なりしが、日本渡海交易ノ道を開キシより次第ニ
  戸数も相増、遂ニ繁花之湊と成たる也、朱竹拕
  が詩に乍浦逼瀛壖          *壖 あきち
考えるに乍浦は元は海辺の小村だったが
日本との貿易港になった事で次第に
戸数も増え、今では繁華の港となったもの
朱竹拕の詩に乍浦は海辺の寒村とある
十二月四日長崎着岸仕候

    弘化二年乙巳四月  仙台臣大槻清祟謹録
    同年六月初七日写於為着書寮東窓之下干時
    天晴暑気甚          門人  蘭拙堂橋賢
             
天保14年12月4日(1843)長崎に到着
  
弘化2年4月(1845年)仙台藩士
               大槻清祟記録

同年六月七日日図書室に東窓の下で晴天暑気に
写す。
       門人  蘭拙堂橋賢


大槻清祟について下記の記述が呂宋国漂流記の巻末にある
此書の撰者大槻清祟は海国兵談、三国通覧等の作者林子平次男、出て大槻氏を継ぎ本藩儒官と為すと云う
                                           柳窓散人