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                   気船を最初に見た日本人
               
−呂宋国(フィリピン)へ漂流した日本人記録―
   
    一般に日本人が始めて蒸気船を見たのは米国のペリーが1853年(嘉永6年6月)に率いてきた
四隻の軍艦の内2隻であり、その翌月にはロシアのプチャーチンが長崎に率いて来たやはり四隻の
内一隻の蒸気船であると思われる。 しかしこの頃は幕府上層部や識者の間では蒸気船は既知のもの
であったと思われ、蒸気船そのものに余り驚いている記録は見当たらない。  
    これには毎年送られるオランダ風説書による情報も去る事ながら、この十年前に仙台の漂流民が
アヘン戦争の直後、1843年(天保14年)に中国でイギリスの蒸気船を見て、これを同年帰国後報告して
いる事によると思われる。 

    内閣文庫天保雑記第五十冊には天保11−13(1840-1842)年頃の記事で中国の阿片戦争に
関する記述が多く、その中に「呂宋国漂流記」という記事がある。 これは仙台の廻米船が九十九里浜沖で
大風で遭難、十ヶ月に渡る漂流の後フィリピン(呂宋国)の一島に漂着する。 その後呂宋国関係者により
中国香港経由澳門(マカオ)に送届けられる。 更にその後アメリカ船で舟山に送られ、最終的には乍浦
から日本への中国貿易船で長崎に送届けられる。 折りしも中国では英国と和議が成立した直後であり、
漂流民達は澳門、舟山、乍浦に一年以上滞在して英国の蒸気船を見ており、阿片戦争についても現地の
状況を報告している。 報告書を纏めたのは大槻清祟(号:磐渓)と云う人で、この40年程前の文化年間に
有名な環海異聞を聞書した蘭学者大槻玄沢(磐水)の子供と言われている。

    同雑記には大槻清祟の文を同門人が蒸気船や阿片戦争見聞を中心に抜粋した
「呂宋国漂流記内抄録」も載っているので同時に取上げた。

 呂宋国漂流記内抄録及び註へ

 呂宋国漂流記及び現代訳


右蒸気船の図
内閣文庫天保雑記(陰影版)
より

右: 蒸気船ノ図
    西書海外奇勝所載

左: 漂客等所説ト大同少異
   今模写シ以テ備一證



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