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呂宋国漂流記    天保雑記第五十冊より                 現代語訳
呂宋国漂流記
            宮城郡石浜水主
                  長次郎 
                     五十二歳
            本吉郡気仙沼水主
                  喜兵衛 
                     二十九歳
右天保十二辛丑年九月十三日、奥州伊達郡北半田
重吉船五百石積十七反帆観吉丸江
公儀御城米四百五拾石積入、石ノ巻船頭甚助并拙者共
両人盛岡之重吉、八ノ戸之岩松、最上之興四蔵、次郎吉
等都合八人乗組、御代官嶋田帯刀殿送状持参、
同十八日亘理郡荒浜出帆宮城郡石浜湊ニ船繋り致、
十月七日同所出帆、巳午之方江
呂宋国漂流記
            宮城郡石浜水主
                  長次郎 五十二歳
            本吉郡気仙沼水主
                  喜兵衛 二十九歳
右は天保十二辛丑年九月十三日、奥州伊達郡北半田重吉船、五百石積十七反帆観吉丸へ公儀お城米四百五拾石積入れ、石巻の船頭甚助並びに私共両人、盛岡の重吉、八戸の岩松、最上の興四蔵・次郎吉等都合八人乗組み、御代官嶋田帯刀殿の送状を持参して同十八日亘理郡荒浜出帆、宮城郡石浜港に一時係留し、十月七日同所出帆、南東の方角へ
昼夜走り候處、同十五日朝五ツ半時、上総国九十九里
沖ニ而戌亥之方より俄ニ大風吹起、海上荒立空色真黒
ニ相成、遂ニ山も見失ひ、里数も不覚吹流され、夜ニ入
風波弥荒、既ニ船も危く相見候ニ付、逐々上荷を刎捨
候得共、弥増ニ風止不申、
乗組一同髪を切、神仏を祈念し御鬮を戴候え者、帆柱を
切れとの御教ニ付、帆柱を切捨候処、風一向ニ止ミ
不申、此上ハ最早助命も難斗と一同覚悟仕罷在候、
然ル処十八日ニ至り段々風ハ静ニ相成候得共、方角も
不知大洋ニ流れ漂ひ、空敷月日を送り候内、糧米ハ
遣ひ切不申候得共、貯置候飲水波ニゆり荷され至て
不足ニ相成候ニ付、残水をハ八人ニ割合聊つつ相用、
生米を噛罷在候處、同月末と覚へ、俄ニ天色かき曇り
大雨頻りニ降来候ニ付、偏ニ神仏之御助と一同難有存、
桶・鉢など取出し天水を
昼夜走りました。 しかし同十五日朝9時頃上総国九十九里沖で北北西から急に大風が吹起こり、海上が荒れ立ち空も真黒になり、遂には山も見失い里数も分らぬまま吹流されました。 夜になり風波は益々荒れ、既に船も危なくなり積荷を刎ね捨てましたが更に風も止みません。 乗組一同髪を切り、神仏を祈念して御くじを上げましたところ、帆柱を切れ、との御託説があり帆柱を切捨てましたが、風は一向に止みません。 もうこの上は助かる見込みはないと一同覚悟を決めて居りました。 ところが十八日になって段々風は静になりましたが、方角は全く分らぬ大洋を漂流して、空しく月日を送りました。 糧米は不足なかったが、貯置の飲水は波で揺りこぼれ不足となり、残った水を八人で少々づつ使い、生米を噛んで居りました。 同月末と思いますが急に空が曇り大雨が烈しく降りましたので、偏に神仏のご加護と一同感謝し、桶・鉢など取出し天水を
溜置又々流れ次第ニ致居、何方と申方角も弁へ不申
候得共気候ハ次第ニ熱く相成、単物ニ而も凌兼多くハ
裸ニ相成居申候
翌年天保十三壬寅被吹流候より十ヶ月目、七月廿日
比と覚、朝四ツ半時頃申酉之方ニ凡十里程之島山
一ツ見付候ニ付、一同力を得候得共船具等者不残
相失ひ、漕寄可申様も無之、其侭罷在候内、其夜
五ツ時比俄ニ卯辰之風吹起大波を巻立、船中へ垢
入候に付汲捨々々、精力を尽し候得共、中々届不申
船ハ遂ニ波之中江沈ミ入、一同櫓ニ集居候處、忽大波
ニ打裂櫓斗浮上り、船ハ其侭砕け申候、猶も櫓ニ取付
罷在、幾度となく波ニ被打落候て游付候内、追々
磯近く相成、遂ニ右島山江被打上候、此時岩松・重吉
両人櫓之出釘にて惣身を被裂、夥敷怪我仕、漸々と
引上一同上陸仕候、此島之名後ニ承り候へ共
ホローグワンと申候由、差して高山も無之見馴
溜め、それから又漂流を続けました。 方向は分りませんが、気候は次第に熱くなり、単物でも過ごせず殆どは裸になっておりました。 翌年天保十三年吹流されてから十ヶ月目七月廿日頃と思いますが、朝11時頃南西の方に凡そ十里程の島山一ツ見付け、一同元気付きましたが船具等は残らず失っており、漕寄せる事もできません。 その侭にしておりましたが、その晩8時頃急に東南東の風が吹起大波を起こし、船中へ水が流れ込み汲捨てに精力を尽しましたが中々追い付かず、船は遂に波に沈み、一同は櫓に集っておりました。  そこへ大波が襲い、櫓だけ浮上り船は砕けました。 櫓にしがみつき、幾度となく波に揺り落とされ泳ぎ付きその内に段々島が近くなり、遂にこの島に打ち上げられました。 この時岩松・重吉両人が櫓の出釘で全身を裂かれ大怪我をしましたが漸く引揚げ一同上陸しました。 此島の名は後で聞きましたがホローグワンと云います。 特に高山も無く、見馴
ざる樹木生茂り、路も無之處を登り行、見渡し候処遥ニ
人之形三人相見候ニ付、高声ニ而呼懸候得共却而
此方を恐れ候哉逃去候ニ付、弥追懸候處、猟師と
相見へ銘々鎗又ハ鉄砲を持、頭ハざん切にて筒袖之
服を着し居候、我等ハ難船に逢候ものニ而久々水に
渇し候間、水を呑せ呉候様ニと仕形仕為見候へハ、
合点致し候様子ニ而、小川之處江案内致し候ニ付、
一同水を沢山ニ給申候、夫より三人之もの住所へ参
候處、女房と相見へ髪を頭の上へ巻付候女一人留守
仕罷在候、家ハ丸太之弐本柱を建、横木を架し椶櫚
之葉様之物ニ而、其上を覆ひ候迄ニ御座候、全体
此島ハ人之住居候所ニ無之、右三人のものハーボイ
と申候候山豚を猟し候ため参居候様子ニ御座候、
食物ハバラハンと申形円く、色白き野生之芋をふかし
給申候、常にボウヨと申杏ニ似て赤き汁出候
ない樹木が生茂り、路もない所を登って行くと遥か向こうに人影が三人見え、大声で呼かければ却って此方を恐れたのでしょうか、逃げて行きます。 更に追いかけたところ、猟師の様で銘々が鎗又は鉄砲を持ち、頭はざん切で筒袖の服を着ています。 我等は難破した者であり、久しく水に渇えているので水を呑ませてくれと手真似して見せたら分った様で小川へ案内してくれ一同水を沢山飲みました。 それから三人の者の住所へ行ったところ、女房と思われる髪を頭の上へ巻付けた女が一人留守番をしておりました。 家は丸太の二本柱を建て横木を架してシュロの葉の様な物でその上を覆っただけでございます。 全体此島は人が住んで居る所では無く、この三人の者もハーボイと云う山豚の猟をする為に来た様子です。 食物はバラハンと云う円くて色の白い野生の芋をふかして食べました。 (彼等は)常にボウヨと云う杏に似た赤い汁の出る
木之実を好ミ給候故、口之廻り皆赤く染り居候、拙者共
先其夜流寄候船板を集め候而小屋懸致し相休申候、
此處ニ三四日罷在候内、右猟師之内一人、用向有之
様子ニて何方へか参り、二三日過て小キ帽子を冠り候
村役人体之もの四五人同道罷帰、拙者共を此所より
一里半程連行、丸木を刳め候小船ニ為乗、艫を揆瀬戸
を乗渡凡十里程参りヲイデンと申、家数百四五十軒
有之所へ着岸仕候、
村役所様之所江差置申候、家造りハ四本柱を椶櫚の
葉様之物にて屋根を葺、根太高く張、其下を土間ニ
致し梯子にて上下仕候、是ハ赤蟻を防き候為之由、
食事ハ米之飯ニて、魚類・野菜等塩煮に致し用ひ
申候、此處二三日逗留之処、折節領主之巡見之趣
ニ而村役人等殊之外馳廻り、船上り場所より通り筋両側
ニ竹を立、縄を張夫々残らず木の
木の実を好んで食べるので、口の周りが皆赤く染っています。 私共は先ずその夜は流れ寄せる船板を集めて小屋を造り休みました。 ここに三四日居る間、猟師の内一人が用がある様子で何方へ行き、二三日過ぎに小さな帽子をかぶった村役人風の者四五人同道して帰ってきました。 私共をここから一里半程に連れ行き丸木を刳った小船に乗せ、瀬戸を乗渡り凡そ十里程行き、ヲイデンと云う家の数が百四五十軒有る所へ着岸し、村役所風の所へ置かれました。 家造りは四本柱をシュロの葉の様な物で屋根を葺き、根太を高く張りその下を土間にし梯子で上下致しますが、是は赤蟻を防ぐ為との事です。食事は米の飯で魚類野菜等を塩煮にして用いました。 ここに二三日逗留の間、折りしも領主の巡見がある由で村役人等は忙しく駆け回り、船付場から通り筋両側に竹を立て縄を張り、夫々残らず木の
葉を飾り付申候、四五日過てホツコンと申殿様外両人
いつれも弐人駕之輿に打乗下部十四五人召連、村内
陣屋様之所江入輿、無程拙者共を呼ニ参り候間、一同
罷越目見仕候所、曲録に腰を掛、黄羅紗之服着用、
千葉之古羅紗ニ而造り候襞有之帽子を冠り、天窓ハ
矢張ざん切ニ而、外両人は其中程を丸く剃落し有之候、
右は出家ニても可有之哉と奉存候、右ボツコン様拙者
共ニ向ひ、地を踏て我ハ此国の領主也、汝等何国の
者ニ候哉と申様子ニ聞へ候間、船頭甚助事日本と認
為見候へハ、うなつき候てウヽヤッポンと被申、懐中より
紙を出し鳥の羽ニ而横文字ニ書翰を認め候仕形被致
候間、拙者共此添翰を以先々江送り可遣の心ニも可
有之相察し、一同平伏仕候得者、長次郎を近く招き、
右之手を堅被握申候、右者親ミを結び候心ニも
葉を飾り付けます。 四五日過ぎてホツコンと云う殿様と外二名、何れも二人担ぎの輿に乗り、下部十四五人召連れ村内の陣屋風の所へ入場、程なく私共を呼びに来ましたので一同行きお目に懸りました。 殿様は椅子に掛け黄色の羅紗の服を着用し、千草の古羅紗で造り襞のある帽子を冠り頭頂は矢張りざん切です。 外両人は頭の真中を丸く剃落しています。 これは僧侶ではないかと思います。 ボツコン様は私共に向い、地を踏み我は此国の領主也、汝等何国の者か、と云う様子に聞へるので、船頭甚助が日本と認めて見せましたら、うなづき「ウヽヤッポン」と云われ、懐中より紙を出し鳥の羽根で横文字の書翰を認めている様子なので、私共はこの添状により先々へ送って呉れるものと察して、一同平伏していましたら長次郎を近くへ招き、右の手を堅く握られました。 これは親しみを結ぶ気持ちで
可有之と奉存候
  按ニ此ホツコンと云者呂宋国ヨリ此島々ヲ支配セシ
  ムル奉行代官ノ類ナラント云シニ、漂客等左ニ非ズ、
  此ホツコンハ殿様の事ニテ呂宋国王兄弟之由、
  此一島ヲ分チ与ヘテ支封トセシ也 と語キ、
  又按ニ呂宋国ハ西洋伊斯把爾亜属国ニシテ、横文
  字通用ノ国ナルニ、日本ノ字ヲ読得シハ不審ナリ、ト
  云シニ其国都マねラへは唐人大勢来テ交易ヲ
  ナセバ、漢文字ハ少シハ見慣居シナラント漂客
  等語リキ
翌朝直ニ拙者共一同川端江参、ホツコン様外両人ハ
屋根船ニ打乗、其余者小舟十四艘弐人或ハ三人
ツヽ乗組、飯米并鍋釜等も積入此処出船、段々ニ川上
江遡り申候、此川幅四五間広キ所ハ七八間も可有之、
両側ハ高山峨々として厳石切立、何百
あると思います。
  思うに此ホツコンと云う者は呂宋国から此島々
  を支配させる奉行か代官ではないのかと云った
  が、漂客等はそうではなく、此ホツコンは殿様
  であり呂宋国王の兄弟の由で此一島を分与え
  支封としていると語った。 又思うに呂宋国は
  西洋イスパニヤの属国だから横文字通用の国
  であり、日本の字を読む事は不審である、と云
  へば、その国都マニラへは中国人が大勢来て
  交易をしているので漢文字は少しは見慣れて
  居りますと漂客等は語った。
翌朝直ちに私共一同は川端へ行き、ホツコン様外両人は屋根形の船に乗り、その外は小舟十四艘に二人又は三人宛乗組み、飯米並びに鍋釜等も積入れ、此処から出船し段々川上へ遡りました。此川幅は四五間で広い所は七八間もあり、両側は高山で峨々として厳石が切立ち、樹齢何百
年とも不知大木生茂、其谷間の急瀬江竹竿をさし、力を
入て舟を進め、其至て高く瀧の落る所ニ至れバ、乗組
并荷物等不残舟よりおろし、空船を瀧の上より綱ニ而
引上ゲ、人々は厳石の間、木の根・葛の蔓等を引攀
上り、其上ニ而又々乗船次第次第に山の頂ニ上り
登り詰申候、
扨竹棹用不立様相成候へバ其所ニ自然の竹を幾度
ともなく切取相用候、此川側竹林至て多く、一丁程も
立並候処数ヶ所見懸申候
  按ニ此處山名川名等漂客筆記シ来ラザルハ遺恨
  ト云ベシ、海国聞見録ニ北面高山一帯遠視若鋸歯
  俗名宰牛坑山有土番属於呂宋ト云ふモノ恐クハ
  此山ヲ指スナラン、然ドモ必トシガタシ
此谷川を凡十里程登りて日暮、其夜者山上に野宿、
ホツコン
年とも分らぬ大木が生茂り、その谷間の急瀬へ竹竿をさし力を入て舟を進め、高い瀧の落る所では乗員並び荷物等は総て船から下ろし、空船を瀧の上より綱で引上げ、人々は厳石の間を木の根葛の蔓等でよじ登りその上で又乗船し、次第に山の頂に上り登り詰めました。 さて竹棹が役立たなくなるとその所にある自然の竹を幾度ともなく切取って使います。 此川べりには竹林は大変く、一丁程も立並らぶ所数ヶ所見懸けました。
  思うにこの山の名、川の名等を漂客が筆記して
  来なかったのは残念である。 海国聞見録に
  北面の高山一帯は遠くから見ると鋸歯の様で
  俗名は宰牛坑山が呂宋の土番属に有ると
  云うが恐くは此山を指すのではないだろうか
  しかし断定は出来ない。
此谷川を凡そ十里程登って日が暮れ、その夜は山上に野宿、ホツコン
様外両人ハ木綿天幕を張り、座を敷て其上ニふせり、
拙者共ハ河原の上に其侭打臥申候、翌早朝又々乗船
昨日同様之谷間を登り、此間も瀧の落る所数ヶ所有之、
夕七ツ時比上陸、送り来候人足ハ直ニ空舟に乗組罷
下り申候、
此處ニ而木の葉を巻たる笛を吹候得者、即時ニ人足
集りて荷物を担ひ一同出立、右之高山ハ北の方へ分れ
其尽境を不知、拙者共ハ南へ向ひ山、を下り三里程参り
海辺へ出、直ニ乗船一里半斗瀬戸を渡り、夜五時比
サンマルと申家数二百軒も有之處へ止宿仕候、翌朝
又々乗組五里余り行てカヂバラと申處へ着船仕候
此處船上り場の正面に高き處、即ホツコン様御屋敷にて
白塗塀にて囲ひ、門之外ニ足軽体之侍一人鉄砲を持
番仕罷在候、其左側に寺一ヶ所有之、其寺前之役所へ
様外両人は木綿天幕を張り、ござを敷きその上に臥せ、私共は河原の上にその侭臥せました。 翌日早朝に又々乗船し昨日同様の谷間を登り、此間も瀧の落ちる所数ヶ所ありました。 夕方4時頃上陸、送って来た人足は直ぐに空舟に乗り下って行きました。 此処で木の葉を巻いた笛を吹けば、即時に人足が集って来て荷物を荷い一同出立、右の高山は北の方へ分れ、その切れ目は分りません。 私共は南へ向かい山を下り、三里程行き海辺に出ました。 直ちに乗船して一里半程瀬戸を渡り、夜八時頃サンマルと云う、家数二百軒も有る所へ宿泊しました。 翌朝又々乗船して五里余り行くとカヂバラと云う所へ着船しました。 
此処の船上り場の正面の高い所、即ホツコン様の御屋敷であり、白塗の塀で囲ひ、門の外に足軽風の侍が一人鉄砲を持って番をしていました。 その左側に寺が一ヶ所あり、その寺の前の役所へ
拙者共を差置申候、家造多くハ瓦家ニて二階造りニ致し
硝子又薄き貝ニて障子を張り、梯子ハ紫檀黒檀之類を
用ひ、至て美事なる事ニ御座候、産物ハ鶏・犬・牛馬・
羊・野牛・水牛之類多く、米穀・魚類・野菜等も沢山にて、
酒ハ椰子之実よりとり候焼酎を用ひ申候、惣じて此国
椰子之木至て多くヲイテンマル辺にも夥敷見懸申候、
高サ二三丈も有之実ハ葉の間よりいくつも下り居申候、
此実より取候油を諸国へ交易仕、莫大之利益を得候
由ニ御座候、
扨岩松・重吉の両人痛所甚敷、漸々旅行仕候處、到着
之上早速医師も参り色々療治相加へ候得共、其験も
無之遂ニ相果候ニ付、相處之墓所へ葬り木札を建、
日本人岩松・重吉之墓と認置申候、此處ニ二ヶ月斗
逗留仕候内、呂宋国江渡海之商船出帆仕候ニ付、

一同乗船
私共を置きました。 家造りの多くは瓦家で二階造りにして、硝子又は薄い貝で障子を張り、梯子は紫檀黒檀の類を用い、大変見事でございました。 産物は鶏・犬・牛馬・羊・野牛・水牛の類が多く、米穀・魚類・野菜等も沢山あります。 酒は椰子の実から採る焼酎を用います。 全体に此国は椰子の木が非常に多く、ヲイテンマル辺でも沢山見懸けました。 高さは二三丈にもなり実は葉の間よりいくつも下って居ります。 此実より取る油を諸国へ交易して莫大な利益を得ているそうでございます。 
さて岩松・重吉の両人は痛みが酷く、漸く旅行してきましたが、到着の上早速医師も来て呉れ治療を加えましたが、その甲斐もな遂に死去致しました。 ここの墓所へ葬り木札を建、日本人岩松・重吉之墓と認めて置きました。 
ここに二ヶ月程逗留している内に呂宋国へ渡海の商船が出帆するので一同乗船して
八月下旬比と覚同所出帆仕候、此海路左之方ハ九百
里も有之続島ニて右之方ハ数も不知島々有之、其間を
十四五日走りて向島之内サンタクロスと申所江立寄、
無程大洋江出鍼路を東之方へ折り一日路を走りて、
呂宋国之内カベツテと申所ニ而船改を受、夫より北之
方へ走り一里半程行てマねラと申美麗なる城下へ着船
仕候、直ニ送来候船頭同道ニ而城中江入、勘定方役場
様之処江添翰差出、拙者共漂流之次第相届、逗留中
賄ひ等之金子も請取候様子ニ而直ニ連帰り、役所様之
長屋内ニ差置申候、此處呂宋国都府之由
湊口ニ諸国之商船数十艘繋り居、川内ニハ五六百艘も
入込いづれも弐本又ハ三本柱立候大船ニ御座候、
川幅ハ三丁も有之、船渡ニして往来自由仕候、城下之
中程川之左右
八月下旬頃と思いますが同所出帆しました。 此海路の左の方は九百里もある続いている島で、右の方は無数の島々があります。 その間を十四五日走って向島の内のサンタクロスと云う所へ立寄り、程なく大洋へ出て進路を東の方へ折れ、一日路を走って呂宋国の内カベツテと云う所で船改めを受け、それから北の方へ一里半程行くとマニラと云う美しい城下へ着船致します。 直ちに送って来た船頭が同道して城中へ入り、勘定方役場風の所へ添状を差出し、私共の漂流の次第を届け、逗留中の賄い等の金子も受取った様子で、直ちに連れ帰り、役所風の長屋内に置かれました。
ここは呂宋国の都府との事で港口には諸国の商船が数十艘係留しており、川の内には五六百艘も入込み、何れも二本又は三本柱を立てた大船で御座います。 川幅は三丁も有りますが船渡しで往来は自由です。 城下の中程で川の左右
より石垣を築立、其上へ堅固なる石橋を架し、其下を船
ニて通行仕候、川之右之方ハ即都府にて石垣を築立
候塀幾重ニも囲ひ、其中に国王居館并諸役人屋敷など
立並ひ、其海岸へ向方ハ数十挺之大筒を仕懸有之、
塀之厚サ二三間も可有之、其上を鉄砲持候侍、昼夜とも
見廻歩行申候、
川之左の方ハ皆町家ニ而家数十万余も可有之、市中之
賑ひ、家作の美麗成事云語に尽し難く候、川之入口にハ
高く石台を築き、其上ニ者毎夜篝日を焚、入船之標準と
仕候、此国産物ハ二度米・椰子油・鼈甲・芭蕉布・砂糖・
氷砂糖・藍・紫檀・黒檀・蘓木之類、此所より数十艘之
大船に積立、諸方へ差送り交易仕候、この城下に一月
斗逗留之處、唐国澳門江通商之大船出帆仕候ニ付

 註1(  )
より石垣を築立て其上へ堅固な石橋を架け、其下を船で通行しています。 川の右の方は即都府であり、石垣を築立てて塀を幾重にも囲ひ、其中に国王居館並び諸役人屋敷などが立並び、其海岸へ向う方は数十挺の大筒を仕懸けてあります。 塀の厚さは二三間もあり其上を鉄砲を持った侍が昼夜とも見廻り歩行しております。 川の左の方は皆町家であり、家数十万余もあり市中の賑いや家作の美しさは言葉でつくせません。 川の入り口には高く石台を築き、其上には毎夜篝日を焚、入船の目印とします。 此国の産物は二度米・椰子油・鼈甲・芭蕉布・砂糖・氷砂糖・藍・紫檀・黒檀・蘓木の類であり、此所より数十艘の大船に積立て、諸方へ送り交易しています。
この城下に一月程逗留している間、中国のマカオへ通商の大船が出帆するので、            
拙者共を差送り可申由ニ而舟役人同道、端船ニ而湊口
へ出、本船へ一同乗移り、九月下旬と覚、此所出帆
戌亥の方へ昼夜走り十四五日ふりニ而ホンコンと申島へ
着船仕候、島之廻り七里余剥山ニ而高サ十七八町も
可有之、
湊口ハ北之方へ打開ケ台湾と相対し、大船数百艘繋り
居、其中ニイキリス軍船も相見へ申候、此島もと唐国之
属島にて民家わづかに七八軒懸御座候之處、近来
イキリス所領に相成、新ニ山を伐開き居館を構へ、
家数既ニ千軒程も相立、普請最中ニ御座候追々諸国
之商船館も新規建立ニ相成候由、拙者共乗来候
マねラ船も右商館を造り候為、材木積越此島江相卸申候
  按ニホンコンと云島ハ広東ニ近キ一小島ニシテ、南北
  往来ニ甚便利ナル地ト見ヘタリ、英吉利人唐国ト
  和議ノ文ニ  
私共を移送するとの事で舟役人が同道し、艀で港口へ出て本船へ一同乗移り、九月下旬と思いますがここ(マニラ)を出帆し北西に昼夜走り、十四五日経てホンコンと云う島へ着船しました。 島の廻りは七里余、禿山で高さは十七八町もあり、湊口は北の方へ開いて台湾と相対し、大船数百艘係留しており、その中にイギリス軍船も見えました。 此島は本は中国の属島で民家も僅に七八軒だったものですが、近来イギリスの所領となり、新たに山を切り開き居館を構へ、家数は既に千軒程も立ち工事中で御座います。 追々諸国の商館も新規に建立になるそうで私共が乗って来たマニラ船も自身の商館を造るために材木を積越して此島に卸しました
  思うにホンコンと云う島は広東に近い小島であり
  南北往来に甚だ便利な地と見える。 英国人の 
  中国との和議の文に
  議定ル香港交帰紅毛界ト見ヘシハ此島ノ事ナレバホ
  ンコンハ香港ノ唐音ナル事疑ヒナキナリ
此島ニ二三日滞留十月上旬夕七時比出帆、其夜之内ニ
澳門へ着船致上陸之上、マねラ商館ニ罷在申候、此所
ハ唐国之大湊ニ而、通商之国々拙者共承り候分、
イキリス・ふらんす・イスハニヤ・ポルトカル・阿蘭陀・
天竺・亜墨利加等いづれも広大成商館を構へ、其国々
之旗印を建、誠ニ堅固美麗城廊の如く相見へ申候、
但本国之人ハ皆唐人ニ而、文字も真字を用ひ、暦書抔
拙者共ニもケ成相分り、初て月之大小を覚申候

  按ニ澳門ハ即亜媽港ニシテ広東香山県ノ南海ニ張
  註2(出ズル一大港也、西洋印度諸国ノ商船来集リテ
  繁盛  殷富なる事海内ノ所知也、初メ明ノ嘉靖年中
  我天文ノ頃
 
  定める香港は西洋に帰す、とあるのは此島の事
  であればホンコンは香港の中国音である事
  疑いない
此島に二三日滞留し、十月上旬夕方4時頃出帆しその夜の内にマカオへ着船し上陸してマニラ商館に入りました。  此処(マカオ)は中国の大港で、通商の国々で私共が聞いた分はイギリス・フランス・イスパニヤ・ポルトカル・オランダ・インド・アメリカ等何れも広大な商館を構へ、其国々の旗印を建て、誠に堅固で美しい城郭の様に見えました。 但本国の人は皆中国人で文字も漢字を用い、暦書などは私共にも分り、却って月の大小も覚えました。
  思うにマカオは即ち亜媽港であり広東省香山県
  の南海に張出す一大港である。 西洋印度諸国
  の商船が集り繁盛し豊かな事は海外でも知られ
  ている。 初めは明の嘉靖年中我国の天文の頃
  波爾杜瓦爾国ノ人、此ニ至リ唐国ノ人ニ請テ其地ヲ
  得  テ、始テコレニ城邑ヲ建テ交易ノ大利ヲ営ムト
  聞ク、コレヲ漂客等ニ質スニ、今尚然リと答タリ
此處ニ永々滞留ニ相成候ニ付、拙者共を早々先々へ送り
くれ候様、マねラ人江相頼候処、此節南京辺ニイキリス人
と戦争最中ニ而、中々通行難成、右騒動鎮り候ハヽ差
送り可申由、仕形ニ而申聞候、然ル處マねラ人唐人を
頼ミ甚助・喜兵衛両人を小船へ乗船させ再びホンコンへ
差送り、同所商人宿ニ差置申候、此辺ニ而イキリス飛脚
船と申もの一覧仕候、船之形横ニ長く左右に車の輪を
仕懸、船中大釜ニ熱湯を沸し、其蒸気
にて車を廻し、
海上を走り行事飛鳥も不及程神速ニてホンコンより舟山
迄ハ九百里の所三日に往来仕候を拙者共
  ポルトガル国人が此処に来て中国人に請い
  この地を得て始めて城邑を建て交易で大きな
  利を得たと聞く。 これを漂客等に質問したら
  その通りと答えた。
此処に永く滞留になるので私共を早く先々へ送って呉れる様にとマニラ人へ頼んだところ、現在南京辺でイギリス人と戦争の最中なので中々通行が難しく、この騒動が鎮ったら送る積りと手真似で伝えて呉れました。 一方マニラ人は中国人に頼んで甚助・喜兵衛の両人を小船へ乗船させ再びホンコンへ差送り、同所の商人宿に置きました。 
此辺でイギリスの飛脚船と云うものを一覧しました。 船の形横に長く左右に車の輪を仕懸け、船中の大釜で熱湯を沸し、其蒸気により車を廻し、海上を走行する事飛鳥も敵わぬ程の高速で、ホンコンから舟山迄の九百里を三日で往来するのを私共は
面のあたり見受申候、本国の都ロンドンへ注進之節ハ
一万三千里の海上を十四五日計往来仕候よし承り申候
  按ニ此飛脚船、蛮名ストームボートと云フ、蒸気船と
  約ス、唐人ハ万足船ノ名ヲ命セリ、此船ハ英吉利人
  近来ノ工夫ニテ新製スル所ノ由、漂客等親シク之ヲ
  見シハ誠ニ奇遇ニシテ、其所説皆実ヲ得タルナリ

  )註3
此島にて越年いたし翌年天保十四癸卯 三月アメリカ人
舟山へ阿片を差送り候便船ニ乗組、同月中旬出帆、此
海路ハ地方を離れ不申終始唐国の山を左に見て走り、
廿日経て舟山へ着、長次郎外三人ハ五月初、澳門出帆
西南風ニ而大洋を昼夜走り、十二三日経て同所着船
仕候、舟山も七八年前イキリス人ニ被攻取、当時和睦
相整候得共、唐国よりイキリス人江相納候
目の当たりに見ました。 本国の都ロンドンへ注進の時は一万三千里の海上を十四五日程で往来するそうです。
  思うに此飛脚船、洋名スチームボートと云い
  蒸気船と訳す。 中国人は万足船と名付ける
  此船はイギリスで最近発明したもので新製品
  の由。 漂客等は親しく是を見たのは誠に
  奇遇であり、その話しは総て真実と思われる
此島にて越年し翌年の天保十四年三月にアメリカ人が舟山へ阿片を送る便船に乗組み同月中旬出帆、此海路は陸地沿いから離れず終始中国の山を左に見て走り、廿日経て舟山へ着きました。 長次郎外三人は五月初めマカオ出帆、西南風により洋を昼夜走り、十二三日経て舟山に着船しました。
舟山も七八年前イギリス人に攻取られ、今は和睦が成立しておりますが、中国よりイギリス人へ用意する
金子約定通り皆済致し迄ハ軍船引取不申候由ニ而、
舟山に十四五艘其前後之島々ニ一艘或ハ二艘ツヽ繋り
居申候
  按ニ英吉利、唐国ト戦争ノ由来ハ天保八年ノ比、唐国
  ノ帝深ク阿片ノ人命ヲ害スル事ヲ察シ、寵臣林則徐
  ヲシテ広東ヘ下ラシメ、英吉利人阿片商売ヲ厳ニ禁
  セシメ、其持渡ル所ノ二万二百九十一箱ヲ取上テ
  残ラズ踏砕ケ之ヲ海中ニ打捨タリ、是ニ於て英吉利人
  大ニ怒、遂ニ数十艘ノ軍船ヲ差向テ、先ツ舟山ヲ
  攻取テ根拠トシ、其勢ニ乗メ内地へ攻入、二三年ノ
  間江南数千里ノ地ヲ容易ニ掠取り、已ニ南京ヘモ
  攻上ントセシガバ、唐国帝大ニ畏レ始テ其鉾ノ当ル
  不可事ヲ知リ、遂ニ和睦ヲ乞ヒ、阿片消滅ノ償ヒ銀ト
  シテ二千百
賠償金が約束通り皆済する迄は軍船を引上げない由で舟山に十四五艘、その周辺の島々に一艘或いは二艘宛係留しています。
  思うに英国と中国の戦争の由来は天保八年頃
  清朝帝が阿片は人命に害になる事を深く察し
  寵臣林則徐を広東ヘ派遣し、英国人の阿片
  商売を厳しく禁止させ、持ち込んだ二万二百
  九十一箱を取上げて総て踏砕いて海中に捨
  てた。 是に英国人が大いに怒り、遂に数十艘
  の軍船を送り込み、先づ舟山を攻取って根拠
  にして、其勢に乗じて内地へ攻入り、二三年
  の間に江南数千里の地を容易に掠取り、已に
  南京へも攻上ろうとしたので、清朝帝も大いに
  畏れ、始めて敵わぬ事を知り、遂に和睦を乞い
  阿片消滅の賠償銀として二千百
  万両ヲ英吉利へ納メ、即時六百万両渡シ、余銀一千
  五百万両ハ五ヵ年賦ニ五分ノ利銀加へ、皆渡スベキノ
  約束ヲ定メシ由、此度漂客見聞シ来ル所ハ即其事
  ナリ、香港島ノ永ク英吉利ノ領地ト定リタルモ此
  時ノ事ナリト聞リ
此處にて拙者共を唐人江引渡、逗留唐国ノ小船ニ乗組、
戌亥ノ方へ六日斗り走り、乍浦と申湊へ六月九日着岸
仕候、此海上僅四五十里之處潮候悪敷、島内ニ船繋
致し如此日数相懸り申候、扨着船之節唐人共大勢参り、
日本語ニておまへどこかなどと辞を被懸候ニ付、漂流後
初て日本語承り候事故、はや長崎へ参り候哉と心嬉敷、
又怪しくも覚候、扨上陸仕候へバ此處日本渡海之湊
ニ而交易之品々

註:六日 本写本には無し、別写本より追加
  万両を英国へ支払う事とし、即時六百万両を
  渡し、残り一千五百万両は五ヵ年賦で五分の
  利足を加えて支払う約束を定めた由、此度漂客
  が見聞して来た所は即ち其事である。 香港島
  が永く英国の領地と決った事も此時の事と聞く
ここ舟山で私共は中国人に引渡されて逗留、中国の小船に乗組み、北西の方6日ばかり走り乍浦と云う港へ六月九日着岸しました。 此海上僅か四五十里の所ですが潮具合が悪く、島内に船を係留して日数が懸りました。
さて着船すると中国人が大勢やって来て、日本語で「お前、どこか」等と言葉を掛けるので、漂流後初て日本語を聞き、早くも長崎へ来たのかと嬉しく思い又不思議でもありました。 
さて上陸して見れば此処は日本渡海の港であり、交易の品々として
昆布・煎海鼠・椎茸其外皿紗染風呂敷・茶碗・丼鉢之類
夥敷見受申候、唐人共も多くハ長崎渡海之者ニ而長崎
口能覚居申候、家数一万軒余も可有之、繁華之地ニ而
芝居・遊女屋等も有之、湯屋・髪結床等日本ニさして替
り候抔も無之候、但此辺もイキリス人兵乱之後ニて、大筒
ニ被打崩候家跡も海辺に所々相見申候
  按ニ乍浦ハ本海辺ノ一小邑ニシテ人煙モ稀少ナリシ
  ガ日本渡海交易ノ道ヲ開キシヨリ次第ニ戸数モ
  相増シ、遂ニ繁花ノ湊ト成タル也、朱竹陀ガ詩ニ
  乍浦逼臘海、孤城小於甕、居民八九家、僅足逭飢凍
  邇来弛海禁、伐木運堂棟、因而估舶多、僻地乃喧閧
  増竈遂成郭、葺墻巧幕空、以テ證スベシ


 *瀛:うみ*逭:のがれる*估:あきなう*閧:かちどき*墻:かき
 *估舶:商船
昆布、煎海鼠、椎茸、其外皿紗染風呂敷、茶碗、丼、鉢のを大量に見懸けました。 ここの中国人の多くは長崎渡海の者であり、長崎の事を良く覚えています。
乍浦は家数一万軒余もある繁華の地であり、芝居・遊女屋等もあります。 湯屋・髪結床等も日本と大きく替わりません。 但し此辺もイギリス人の兵乱の後であり、大砲で崩れた家跡も海辺に所々で見掛けました。
  思うに乍浦は本は海辺の一小邑であり、人も極
  僅かだったが、日本渡海交易の道を開いてから
  次第に戸数も増加し、遂に繁花の港となった。
  朱竹陀の詩に
  乍浦ハ臘海ニ逼(せま)リ、孤城ハ甕ほど小ナリ
  居民ハ八九家、僅ニ飢凍ヲ逭レルニ足ル
  邇来海禁ヲ弛メ、伐木ヲ堂棟ニ運(めぐ)ル
  因而估舶多ク、僻地乃(
すなわち)喧閧(けんこう)
  竈増シ遂ニ郭トナル、墻ヲ葺キ巧ニ空ヲ幕ウ
  とあるのを見て明らかである
拙者共ハ日本通商之荷主王氏十二家之世話にて市中
明小屋ニ被差置、日々其賄ひを請、湯銭・髪結銭等
折々もらい、凡七ヶ月逗留、十一月中旬王氏冬船長崎へ
出帆仕候ニ付、拙者共六人之内引分れ、甚助・長次郎・
喜兵衛外弐人源宝と申船ニ乗組、十二月四日長崎着岸
次郎吉外阿波・紀州・加賀之漂流人三人者金泰平と
申船へ乗組同三日一日早く長崎へ着岸仕候
 船頭甚助儀長崎着岸之上病死仕候

弘化二年乙巳四月    臣大槻清祟謹録
私共は日本通商の荷主である王氏十二家の世話で市中の空き小屋に置かれました。 日々食事の賄いを受け湯銭・髪結銭等も折々もらい、凡そ七ヶ月逗留して十一月中旬王氏冬船により長崎へ出帆する事になり、私共六人の内分かれて、甚助・長次郎・喜兵衛外二名は源宝と云う船に乗組み、十二月四日長崎へ着岸、次郎吉外阿波・紀州・加賀の漂流人三人は金泰平と云う船へ乗組み同三日、一日早く長崎へ着岸しました。
 船頭甚助は長崎着岸の上病死しました。

弘化二年乙巳四月    臣大槻清祟謹録
天保十二年辛丑九月十三日開帆奥州荒浜、
十八日至同州今浜十月七日開帆石浜
十五日到上総海上遭難、漂蕩洋中備甞艱苦閲十月而
翌天保十三壬寅七月廿日比達干呂宋国属島
ホロークワン経干ヲイデン、サンマル・カジバラ等之地、
同年八月下旬至呂宋国都府マねラ城、
九月下旬開帆マねラ、経半月至香港、十月上旬発
香港、即夜直達澳門、
翌天保十四癸卯三月中旬開帆、澳門経廿日至舟山、
六月九日着乍浦、十一月中旬開帆乍浦、
十二月四日長崎落帆、盖経三年而始得帰皇国也
天保12年9月13日 陸奥国荒浜出帆
同9月18日 同州今浜に至る
同10月7日 同州石浜出帆
同10月15日 上総国海上で遭難、漂流十ヶ月
天保13年7月21日頃 呂宋国属島ホロークワンに達し、ヲイデン、サンマル・カジバラ等の地を経て
同年8月下旬 呂宋(ルソン)国都府マニラ城至る
同年9月下旬 マニラ出帆、半月を経て香港に至る
同年10月上旬 香港を出帆同日夜マカオに達す
天保14年3月中旬 マカオ出帆、廿日を経て舟山に至る
同年6月9日 乍浦着
同年11月中旬 乍浦出帆
同年12月4日 長崎着、 3年を経て故国に帰る
借雨森氏蔵本謄写校字以為蔵本
                         頥堂逸人
以井頥堂蔵本謄写校干峨々堂文庫乙巳
重陽前一日閑雨粛条
                         柳窓散人
此書之撰者大槻清祟者海国兵談、三国通覧等之
作者、林子平二男出継大槻氏、為本藩儒官云
                         柳窓再識

大槻清祟(磐渓)は漢詩など多く残しており、一般に大槻玄択の 次男と言われているが、此処では同じ仙台藩の儒者林子平(蟄居謹慎中病死)の次男が大槻家の養子になった様に書かれている。 清祟は通称平次とも言われた由、子平の次男と云う所から来たのかも知れない

註: 天保雑記の原文はページの入り繰りがあるように思われ、国立公文書館所蔵の別写本呂宋国漂流記(185-0230)と比較したところ、註1の( )内に註2( から )註3までが原文では入っていた。 従って上記は別写本に基づき組み立て直している。
註: 漂着地点、ホローグワンの場所が天保雑記からは不明だが別写本に呂宋国全図というのが載っており、
ホローグワンはルソン島南の島の東南部付近に印されている。 現在のサマール島ボロンガン(Borongan City)か。

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