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駿河土産巻六


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       家康公の頼朝卿評価                 目次へ
家康公が駿府城内である夜話の際に側近達に次のお話をされた。
昔頼朝は天気を予測することが得意な者を浮島カ原へ連れて行き、天気を予測せよ
と云われた。  彼が云うにはいつも見慣れた場所では簡単に予測できますが、
ここでは雲の様子や空気の流れ等が違い予測は困難ですと。
家康公はこれは尤もな事だと云われた。

叉頼朝が七騎落で船に乗る時、自分も含め八は縁起が悪い数だと云って一騎
減らした由である。
これは感心しない事である。大切な時には一人一騎でも貴重である、と云われた

叉頼朝が朽木の洞に隠れているのを梶原が見つけ、貴方が天下を取られたら私を
執権にして下され、と言う。 頼朝は、分ったそうしよう、しかし私心を出したら直ぐに
首を切るぞ、と云った由
これはたいへん立派な態度である

叉 頼朝が近習の者に、私が天下を取ったらお前を取立ててやるぞと云われたが、
その者は皮肉っぽく笑った。 その後頼朝が天下を掌握した時、その者が全く
出世できない事を恨んだので、頼朝は、お前はあの時笑ったではないか、それを
忘れたかと云われた。  彼が言うには夫ならば尚更私を取立てて下さるべきです。 
あの頃は天下をお取になるなど決して無いと思ったので笑ったものです。 それ程
頼もしくも思わなかった主君に私は今日まで崇めて奉公してきたのですから。
と云ったので頼朝は返す言葉が無く取立てたそうである。
これはその近習の言い分が当然であると云われた。


1.浮島ケ原 静岡県愛鷹山南麓で駿河湾を臨む場所で治承四年(1280年)
頼朝が布陣した所
2.七騎落 治承四年(1280年)  以仁王の平家打倒の呼びかけで挙兵した
頼朝は石橋山(小田原)で平家方に敗れ、真鶴より安房目指して船で落ち延びる。 
従う者は七騎のみだったが総勢八は不吉との事で一名残したいう
3.朽木の洞 朽木(石橋山)の洞の中に頼朝が潜んでいた時、敵方の
梶原景時に発見されるが、この時梶原は頼朝を見逃したと言う 

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        人質は慎重に考える事               目次へ
家康公が駿府に居られた時、近習の人々に話された事は人質は必要とする時に
取るべきである。 余り長期間取ると親子であっても親しみは薄くなるので結局
役に立たない。 叉義理を強く思う者は主人の為となれば親子以上の効果もある。 
しかしよくよく親子の仲を親しませて置いて、いざと言う時に人質に取れば
親しみを忘れず、愛情に溺れ人質を捨てる事はない。 
しかし特に人質に頼る必要はない。 義によって不義を討つ事は石を蚕に
投げつける様なものだ


1.人質の期間などは家康自身が幼少期今川家に人質として取られていた経験に
基く考えと思われる
2.最後の義によって云々は戦は人質に頼らずとも大儀があれば簡単に勝てると云う
意味か。

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       三年たてば三ツになる諺              目次へ
家康公の駿府での夜話で、稚い人の子も三年になれば三つになると云う諺はその
通りである。 人間は老いても若くても歳相応にしているのが良いのだ、と
お笑いになった。


1.ことわざ 三年立てば三つになる。 どんな人でも物でも、全く変わらないと
云う事はない。 時がたてばそれに応じて成長し変化すること。

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       大国を治める方法                   目次へ    
駿府の御城である時夜話会に参加した人々に家康公が言われた。
大国を治めるには小魚を煮る様なものだと云うが、将にその通りである。 領国
の経営に余り細かく彼是干渉するのは良くない事である。 と言われた。


1.老子六十節に「治大国若煮小鮮」とある。 小魚を煮る時余り混ぜ回すと崩れてしまう
事から、余り細かく干渉すべきではない、と解釈される
2.国家の仕置  政治
3.せせる; つつき回すの外、細かく干渉し責めるの意味あり
 室町時代に清原宣賢が口述した毛詩抄(詩経の中の毛詩)に以下の語録がある
 「民を強うせせれば分散するぞ」(毛詩抄)

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       治乱は天気と同じである              目次へ  
家康公が駿府城での夜話の時、近習の人々に以下御話された。
世の中の治乱は天気と同じようなものである。 晴れかかっている時は少々雨空でも
降らぬものである。 逆に降りかけた時には空が晴れていても降るものである。
治まりかけた時には多少混乱があっても治まるものだが、 乱れかけている時には
治まりそうでも乱れるものであると。

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       賀茂神職の訴訟事                  目次へ 
ある時本多佐渡守が加茂神社の神職の訴訟に関して家康公に相談した所
その訴訟の件は放って置けとのご指示だったと言う。
 この加茂の神職達による訴訟を無視せよ、というご指示の理由は彼等が一揆まがいの事
 を度々起こし社地も段々無くなってきた。  その為に運営がままならなくなったので
 訴訟を起したもので、これは天下の為に良い事だ云うお考えがあったものか。


1.賀茂神社 奈良時代以前からある京都の古い神社
2.本多佐渡守 家康の家老

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       訴訟に関しての決済                目次へ
家康公がある時秀忠将軍へお話されたことは、訴訟に関しての決済は第一に理非を
正しくする事が重要である。 しかしそれ以上に天下の秩序に触れない様にする事が
肝要と言われた。

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       刑罰で注意する事                 目次へ           
ある時駿府城で家康公がご意見された。 
刑罰について注意する事は万石以上の大名に関しては、仮令重い罪であっても処刑は
せず流罪とすべきである。 そして跡目は子供が居れば半歳でも継がせる事である。 
人質は許してはならないと。


1.この背景は万石以上の大名だと家臣も多く、主人を処刑した場合復讐のため国が乱れる
と考慮したものか。 後世の赤穂事件などはこの方針に反した為に起きたとも思える。
2.何故人質は許さないというのかは不明

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      秀吉の接待について本多佐渡守意見       目次へ
太閤秀吉が家康公を接待された時、掛盤のお膳で夫々の器には葵の紋が付けてあり、
その接待ぶりは並々ならぬものだった。
家康公は館に戻られ、本多佐渡守を呼出して言われた事は、今日の太閤の接待ぶりは
たいへん結構だったが如何した事か、この様な状況で心から信じて良い物か、その方なら
如何思うか、と御下問があった。
佐渡守がこれを受けて申上げた事は、御前は以前小笠原与八郎を召された時のお考えで
宜しいかと存じますと。
家康公もうなずかれ、良い考えだと言われたという。 これは秀吉との和議が成立した時の
接待だった

  与八郎は武勇の者だったので、其頃方々より我旗本へと誘いがありましたが、家康公の下へ
  200石で出仕する事となりました。 彼の下心は近いうちに織田信長と朝倉の戦いがある筈で
  そうなれば家康公は信長へ援兵として出陣される。 そうなればその跡で家康公の領国は
  自分の物となると目論んでいたので、表には一途に家康公に尽くす様に見せていました。

  その後予想通り、姉川合戦の際信長公より家康公に応援下されと申し入れがあり、則出陣
  なさいました。 この時家康公は小笠原与八郎に先手を命令され、与八郎は下心は有っても
  辞退する事もなく、姉川で先手として活躍をして戦は勝利となりました。

  家康公より与八郎の家来で渡辺金太夫・伊達与兵衛・中山是非之助と云う者達が特に
  勝れて働いたので、この三人に感謝状を出され金太夫には吉光の銘刀をお与えになりました
 
  与八郎は二心無いように見えましたが、家康公はお乗りになりながら心の中では乗せられぬと
  思って居られたので先手を命じられました。 人が乗せようとするところに乗らないのも、何か
  一物ある様に思われますから、乗せる時には乗りながら乗らぬ心があれば良いでしょう。 太閤
  の接待にも、この様な心で扱われるのが宜しい心かと存じます。 と佐渡守が応えられた。


1.掛盤 立派なお膳
2.家康が織田信雄(信長の二男)に味方して、秀吉と小牧・長久手の戦いをしたが、
信雄が秀吉と和睦したので家康も手を引いた。 秀吉は家康と和睦し天下統一
を図るため、天正14年10月(1586年)家康を招待し、この時家康も秀吉に臣従した。
大坂行きに慎重な家康に対し、秀吉は母を人質として家康に送ったので漸く家康は
浜松城から大坂へ出かけたと言う。 
3.小笠原与八郎 戦国時代の武将、遠江で今川氏に仕えていたが、今川氏滅亡の後
三河の徳川家康に臣従。 元亀元年(1570年)の姉川合戦(浅井・朝倉連合対織田・徳川連合)
で武功あり。

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      家康公の働き土岐山城守が語る              目次へ
家康公が向嶋の御屋敷に居られる時、加藤主計頭清正、加藤左馬介嘉明、細川越中守忠興
福島左衛門大夫正則が訪問し、各自が御前に出て武功の話しをされた。 その時皆が言った事
は家康公のお働きについて承りたいとの事である。 家康公が土岐山城守、と呼ばれたので
山城守が御前に出たところ、働きについて聞かせよと言われた。 
山城守はその場に居合わす侍達の名を一つ一つ上げながら、この者の親某はいつどこで
どのような働きをしました。 此者の親は斯く斯く然々と、初から終り迄200人程の旗本衆全ての
者について残らず述べた。 これで働きの数も分るので、この様な優秀な侍を多く持って居られる
方であれば、次は家康公の天下だと各自含んで帰られたとの事である。


1.訪問者は何れも豊臣政権の著名武将達で、関ヶ原では家康(東軍)に参加した人々なので、
この時期は家康が豊臣政権の五大老だった頃の事と思われる。
2.向島の屋敷: 伏見城の出城の様な屋敷、秀吉が私邸として造った後、家康が引継いだ。
3.土岐山城守 定政(1551-1597)家康に長く仕える、小牧長久手の戦で武功あり、大名

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      家康公昔の武功を語らず                 目次へ
薩摩守忠吉卿が尾張国に居られる時、家康公が此領国を通過された事があった。 尾張では
小刀や剃刀など沢山作られているので、お供の人々はこれを戴き気持ちが和んだ。 そこで
家康公の昔の武功についてお話を聞かせて願いたいと申上げたが、それに付いてはなにも
語られず、古い話しを聞きたいと言う心懸けだけで良い、との事でした。


1.薩摩守 松平忠吉 家康四男 尾張美濃52万石 28歳で病死

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      長岡利助水を呑む                     目次へ   
家康公のお供をしていた長岡利助が、箱根で少し後へ下り水を呑んでいるのを御覧になり、
利助は親不孝な奴だ、利助の親は弟の敵を討った時負傷したが、水を呑んだ途端に
絶命した。 それを忘れて水を呑むとは嗜みがない事だ。 一般に水をちょくちょく呑むと
息が切れるものである。 と言われた。 それ以後利助は疎んじられる事となった。

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      天野何某は不甲斐ない                  目次へ
天野某と云う者は不甲斐ない人だったので、天野は長久手で主君を思う様な顔して先へ
進まぬ奴、と家康公は思って居られた。


1.長久手の戦 天正12年(1584年)秀吉が織田信雄を攻めたので家康が信雄に応援し、
秀吉と戦争状態になった。 勝敗が付かぬまま和議となる

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      松平下総守が鑓を拝領する               目次へ  
家康公より松平下総守へ鑓三百本を下さった。 その鑓は柄は檜の割柄で丈夫で且
軽いものだった。


1. 松平下総守忠明(1583-1644) 家康の外孫 大坂陣後摂津10万石
2. 割柄 二枚の板で鑓を挟む様にしたもので軽くて、鑓先がぶれないと言う

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      加賀大矢武右衛門と鑓を交えられた事        目次へ 
以前三方が原の戦いの時、加賀国の大矢武右衛門と家康公は鑓を交えた事を話されたところ、
加賀中納言利長は彼はもう死にましたと申上げた。 生きていれば逢って見たかったと
言われた。
    この武右衛門は非常に野卑な性質で御前に出せる様な者ではないが、武功の者
    故前田中納言家で知行200石を貰っていた。 ある時越中ぞうが鼻と言う所へ前田家
    の侍達が滞在の際、隣家の仲間を討って逃げた者が居た。 武右衛門はこれを追掛け
    見事に討ってその首を隣家に投入れ、 衣類や刀、脇差は今日の骨折賃と云って
    自分で取ったと云う。

1.味方ケ原 三方が原の戦いは現在の浜松付近で家康が織田信長の援軍を得て武田軍と
戦ったが大敗したと言われる
2.中納言利長 前田利長(1563-1646)利家長男、初代加賀藩主、豊臣政権の重鎮ながら
徳川政権下でも最大の石高(百万石)を維持する礎を作る

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       中原御殿で夜中犬が吼える               目次へ 
家康公が夜中に中原の御殿で鷹狩りのお話をされて居る時、急に犬が吼え始めた。
誰か見て参れと家康公が言われたので小姓が見に行く時御前で手を付いて平伏したところ、
こんな時にいちいち辞儀をするのは却って無礼である。 早く見て来いと言われた。
直に御小姓衆が犬の吼えている所に行って見たら、莚を敷いて淫らな行為の最中と見えたので
其旨をそっと家康公に伝えたところ、 良い、黙っておれと言われた


1.中原御殿 東海道が整備される前、駿府城と江戸城の往還道路(現在の中原街道)上の
平塚付近にあった家康専用の宿舎。叉家康が付近で鷹狩りをする時にもよく利用したと言う。 
明暦の大火で江戸城が焼けた時、中原御殿は取壊され資材が江戸城再建に使われたと言う

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      真田攻めで進撃阻まれ内藤が武功を顕す                  目次へ 
城和泉と玉虫次郎は真田攻めで寄手の諸勢が阻まれ進退に不自由な様子を見て、
両人で相談の上、これは兎に角味方の足軽の動きが悪いためであり、このままでは到底勝利は
覚束ないと考え家康公に進言した。  そこで内藤四郎左衛門が真田攻めに派遣され、
足軽の動き方を練習すると言われた。 各々が云うには、此間練習しなかったが今の動きで
良いと言われていると云う。 内藤は、練習しなくても良く出来ているので練習すれば
更によくなるからと、25人宛分けて練習した後実戦に臨んだ。 城中(真田軍)の兵はこれを
見て、家康公より戦上手の者が加わったと見え足軽の動きが最前と比較して良くなっていると
言った由。

玉虫は大坂陣の時分は上総介殿に付けられたが功が無い為、 本来は玉虫と思うが今の所糞虫
です、と花井三九郎が言った。


1.真田陣 家康の甲斐・信濃平定に向けて天正13年(1585年)上田城を守る真田昌幸を攻めた
が、 城は落ちず徳川軍撤収
2.内藤四郎左衛門 内藤正成(1528-1602)の徳川譜代の武将。 
3.玉虫次郎、城和泉は初上杉謙信、後に武田信玄、更に武田滅亡後は徳川家に仕えた。
城、玉虫は同族だが城が嫡子、玉虫が庶子という(武功雑記) 
4.大坂陣 大坂冬の陣、夏の陣 慶長19-20年(1614-15年) 江戸幕府が豊臣家を攻めた
戦いで、夏の陣で豊臣家は完全に滅びる。
5.上総介 家康六男松平忠輝、 花井三九郎 忠輝家老

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       村越・安藤・成瀬へ知行下される               目次へ 
村越茂助、安藤帯刀、成瀬隼人に壱万石宛下さった後に、帯刀と隼人には知行
も下さると家康公からお話があり皆有難くお受けした。 隼人はこの様な事は
お忘れになる事もあるからと早速御朱印状を戴いたが、 帯刀は六年間知行の
地所を戴く事かなかった。 その後知行は何所にあるのかと御尋があったので、未だ戴いて
居りませんと申上げた。 家康公は驚いて六年前の約束なれば、と言う事で六年分の
年貢も添えられたと言う。


1.村越茂助(直吉1562-1614)家康家臣300石、関が原後壱万石
2.安藤彦兵衛(帯刀1555-1635)家康側近、1610徳川頼宜の付家老、紀州田辺三万八千石城主
3.成瀬正成(隼人正1567-1625)家康側近 関ヶ原後34,000石 1610尾張付家老
4.物成 年貢の事

72
       小坂新助の手柄                            目次へ  
遠州天王山の戦いで小阪新助、本多三弥、酒井作右衛門、大久保治右衛門などが高名を
挙げようと心掛けていた所、負傷した敵を小坂新助が追詰めて柵際で討取った。 
他の三人は特に働きもなく新助一人が働いたので、たいへんな手柄だった。 柵際迄どの位の
距離があったか、と家康公が尋ねられた所、新助は十四五間だったでしょうかと申上げた。 
後で調べさせた結果、柵際より漸く三尺程だったので、益々これは見事と評された。


1.遠州掛川城近辺の天王山の戦いは永禄12(1569年)今川氏真と徳川家康が戦った。 
駿河土産の話題の中で最も古いものと思われる。(家康25-6歳)
2.柵際十四五間と三尺では随分違うが、何故見事なのか分らない

73
       小笠原越中守御預の事                      目次へ 
小笠原越中守が罪を得たので大久保七郎右衛門に預る様言い置かれた。 叉別の罪のある
女を御預けに成られたところ、越中守が密通したとの事である。 この事が家康公の
お耳に入ったところ、よろしい、そのまま夫婦にせよ、越中守も近く出仕させる、と言われた。


1.大久保七郎右衛門(忠世1532-1594) 三河以来の徳川家の武将

74
        戦場における手柄                         目次へ 
家康公が言われた事は、昔から戦場に旗指物その他何であれ武具を落とす事は見苦しいが
高名さへ遂げればそれも許されるだろう。 例えば敵の首を取る時、脇から鑓を取られても
それは仕方が無い事である。 叉味方の不利の時には死人の首でも取ればそれはそれで
手柄である。 と

75
        細川三斉が鉄砲を差上げる                  目次へ 
細川三斉が袖より鉄砲を出して家康公へ差上げたが、公は武士はこの様なものは使わないから
と則お返しになられた。


1.細川三斉: 細川忠興の事        
2.袖から出すと言う事から、これは護身用の短筒と想像される。 江戸初期に既に短筒(ピストル)
が有ったと思われる。 別資料によると家康はたいへん鉄砲好きで愛用の火縄銃(全長148cm)
及び関連小道具が高松松平家(藩祖は家康の孫)に贈られた。(香川歴史博物館)

76
        秀吉の戦略を話される                    目次へ 
ある時駿府のお城で夜話会に出席した人々に家康公のお話が以下あった。
以前に秀吉の前に加賀の利家、毛利輝元、浮田秀家、蒲生、私(家康)等が居合わせた時、
太閤が言われるには、織田上野介に5,000、蒲生に10,000兵を付けて戦わせると仮定すると、
皆さんはどちらに味方されるかと言われた。
誰も未だどちらに付くと答えられない中、秀吉が言われるには私は信長に付くと。 
理由は蒲生軍から兜付きの首(将官級)五つとれば、その中に必ず氏郷の首がある筈である。 
逆に上野介軍から4,900人討取ってもその中に上野介の首は無いだろう。 そんなわけで大将の
首を早く取った方が戦は勝であるから。と言われた。 これは氏郷はやり過ぎる者だったので、
このような話を太閤がされたものである。


1.原文は織田上野介となっており、上野介は織田信長の弟、信包の官名である。 写本に
よっては上総介(=信長)とするものもある。 別資料(武功雑記)では上野介となっている。
2.蒲生氏郷(1556-1595病死)織田家臣後秀吉に仕え、豊臣政権の重鎮で会津92万石、
鶴ヶ城を築く。 たいへんな部下思いだったと言われている。

77
        千葉笑の事                            目次へ 
ある時家康公が言われた事は、 関東下総の千葉寺で夜に入ってから顔を隠した人々が集まり、
時の地頭や役人名主達が依怙贔屓するような様子を話しあひ、大いに笑う会を度々
行なっていた。これを千葉笑いと云った由とお話があった。


1.江戸時代を通じて大晦日夜から元旦未明にかけて、千葉笑いの会が千葉の千葉寺(せんようじ)
で行われていた由。 千葉寺の起源は709年聖武天皇の時代が始りと言われる。 
同寺重要文化財で天文19年(1550)の銘の燈籠がある由



          大道寺友山がこれを綴る

駿河土産巻六終  最後


原文では家康の呼称が権現様、大御所様、神君、家康公と色々あるが、六巻の現代文訳では
家康公に統一した。(大船庵)